聖書にまつわる奥義

日々の神の御言葉 抜粋 265

長年にわたり、人々の伝統的な信仰の方法は(世界の三大宗教の一つであるキリスト教においては)聖書を読むことだった。聖書から離れることは主への信仰ではなく、邪教、異端であり、他の本を読んでいても、そうした本の基礎は聖書の解説でなければならない。つまり、主を信じているなら聖書を読まなければならず、聖書の外では、聖書と関わりのない本を崇めてはいけない。そうするならば、神を裏切っていることになる。聖書が存在するようになって以来、人々の主への信仰は聖書への信仰であり続けた。人々は主を信じていると言うよりは、聖書を信じていると言ったほうがいい。聖書を読み始めたと言うよりは、聖書を信じ始めたと言ったほうがいい。そして、主の前に帰ったと言うよりは、聖書の前に帰ったと言ったほうがいいだろう。このように、人々はまるで聖書が神であるかのように、まるでそれが自分たちのいのちの源であって、それを失うのはいのちを失うことと同じであるかのように、聖書を崇める。人々は聖書を神と同じくらい高いものと見なしており、神より高いと思う人さえいる。たとえ聖霊の働きがなくても、また神を感じられなくても、人々は生きていける。しかし、聖書を失くしたり、あるいは聖書の有名な章句を失ったりしたとたん、まるでいのちを失ったかのようになる。そこで、人々は主を信じるとすぐに聖書を読んで暗記し始め、聖書を暗記すればするほど、自分が主を愛し、信仰が深いことの証拠になる。聖書を読み、それについて他の人々に話すことのできる人はみな、よき兄弟姉妹なのである。長年にわたり、主に対する人々の信仰と忠誠は、聖書をどれほど理解しているかで測られてきた。たいていの人は、なぜ神を信じなければならないのかも、どう神を信じるべきかもまったく理解しておらず、聖書の章句を解読しようと闇雲に手がかりを探すだけである。人々は聖霊の働きの方向を追求したことがない。これまでずっと、懸命に聖書を研究し、調べる以外のことをしておらず、聖書の外で聖霊のより新たな働きを見出した者はいなかった。誰一人、聖書から離れたことがなく、あえてそうしようともしなかったのである。人々は長年にわたって聖書を研究し、まことに多くの解釈を編み出し、非常に多くの労力を費やしてきた。彼らはまた、聖書について数多くの異なる意見をもち、それについて果てしなく議論しており、現在では二千以上の教派が形成されている。彼らはみな、特別な解釈、あるいはより深遠な奥義を聖書の中に見つけ出そうと願っており、聖書を探索し、その中にイスラエルにおけるヤーウェの働きの背景、ユダヤにおけるイエスの働きの背景、あるいは他の誰も知らないさらなる奥義を見つけたいと思っている。聖書に対する人々の態度は執着と信仰であり、聖書の内部事情や本質を完全に理解している人は誰もいない。だから、人々は今なお聖書に対して説明しがたい不思議さを感じ、ますます聖書に執着し、よりいっそう聖書を信じている。今日、誰もが終わりの日の働きについての預言を聖書に見出し、終わりの日に神がどのような働きを行なうのか、終わりの日についてどんな前兆があるのかを突き止めようとしている。このように、聖書に対する人々の崇拝はますます熱を帯び、終わりの日に近づくほど、よりいっそう聖書の預言、とりわけ終わりの日についての預言に盲目的な信頼をおく。そうした聖書への盲信、そうした聖書への信頼があるために、その人たちは聖霊の働きを探し求める欲求をもたない。人々は自分の観念の中で、聖書だけが聖霊の働きをもたらせると考えている。つまり、神の足跡は聖書の中でしか見出せず、神の働きの奥義が隠されているのも聖書の中だけであり、神のすべてと神の働きの全体を明確にできるのも聖書だけであって、他の書物や人々にはそれができないというわけだ。聖書は天の働きを地にもたらすことができ、また時代の始まりと終わりをもたらすことができる。こうした観念があるので、人々には聖霊の働きを探し求めようとしない。そのため、聖書が過去どれほど人々の役に立とうとも、それは神の最新の働きの妨げになっている。聖書がなくても、人々は別の場所で神の足跡を探せる。しかし今日、神の足跡は聖書によって封じ込められている。だから、神の最新の働きを広げることは二倍難しくなり、かつ困難なことになっている。これはみな、聖書の有名な章句のせいであり、また聖書のさまざまな預言のせいである。聖書は人々の心の中で偶像となり、人々の頭脳の中の謎となった。人々は、神が聖書の外で働けることをどうしても信じられず、聖書の外で神を見つけられることも信じられずにいる。まして、神が最後の働きのさなかに聖書を離れ、新しく始められるなどとは到底信じられない。それは人々にとって考えられないことであり、彼らには信じられないし、想像することもできない。聖書は人々が神の新たな働きを受け入れる上で大きな障害になり、神がこの新たな働きを広めるのを困難にしてしまった。

『神の出現と働き』「聖書について(1)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 266

神が律法の時代の働きを行なった後に旧約聖書は作られたのだが、人々が聖書を読み始めたのはそのときだった。イエスは到来後に恵みの時代の働きを行ない、彼の使徒たちが新約聖書を記した。このようにして旧約聖書と新約聖書は作られ、今日に至るまで、神を信じるすべての人が聖書を読んできた。聖書は歴史書である。もちろん、そこには預言者の預言もいくつか載っている。そして、そうした預言は歴史などではまったくない。聖書はいくつかの部分から成っており、預言だけではなく、ヤーウェの働きだけでもなく、パウロの手紙だけでもない。聖書には幾つの部分があるかを知っていなければいけない。旧約聖書には創世記や出エジプト記などが含まれ、預言者たちが書いた預言書もある。最後に、旧約はマラキ書で終わる。旧約は、ヤーウェによって導かれた律法の時代の働きを記録している。創世記からマラキ書まで、それは律法の時代の働き全体の総合的な記録である。つまり、旧約は律法の時代にヤーウェによって導かれた人々が経験したことを残らず記録しているのである。旧約の律法の時代、ヤーウェによって起こされた大勢の預言者が神の預言をした。彼らはさまざまな部族や民族に指示を与え、ヤーウェが行なうであろう働きを預言した。これら起こされた人はみな、ヤーウェから預言の霊を与えられていた。彼らはヤーウェからのビジョンを見、その声を聞くことができたので、ヤーウェに啓示を受けて預言を書いた。彼らの行なった働きはヤーウェの声の代弁、ヤーウェの預言の代弁であり、当時のヤーウェの働きは、単に霊を用いて人々を導くことだった。ヤーウェは受肉せず、人々は神の顔をまったく見なかった。そこで、ヤーウェは大勢の預言者を起こして、自分の働きを行なわせ、預言者たちに神託を与え、彼らはそれをイスラエルのすべての部族や氏族に伝えた。彼らの働きは預言を語ることであり、彼らの一部はヤーウェからの指示を記述して他の人々に見せた。ヤーウェはこれらの人々を起こして預言を語らせ、将来の働きや、当時まだなされていなかった働きについて預言させた。それにより、人々はヤーウェの知恵と素晴らしさを目の当たりにすることができた。これらの預言書は、聖書の他の書とは大きく異なっていた。それらは預言の霊を与えられた人、ヤーウェからビジョンや声を得た人によって語られ、あるいは記された言葉である。預言書を除き、旧約の他のすべては、ヤーウェが自身の働きを終えた後に人々が作成した記録から成っている。これらの書は、創世記や出エジプト記がイザヤ書やダニエル書と比較できないのと同様、ヤーウェの起こした預言者による預言の代わりにはなれない。それらの預言は働きが実行される以前に語られたものであり、一方、他の書は働きが完了してから書かれたものであって、それが人々にできることだった。当時の預言者はヤーウェの啓示を受けて預言を伝えた。彼らは多くの言葉を語り、恵みの時代の物事や、終わりの日における世界の滅亡を預言した。それはつまり、ヤーウェが行なおうと計画していた働きである。残りの書はどれも、ヤーウェがイスラエルで行なった働きについての記録である。だから、聖書を読む際には、ヤーウェがイスラエルで行なったことについておもに読んでいることになる。旧約聖書はおもに、イスラエル人を導くヤーウェの働きの記録であり、モーセを用いてイスラエル人をパロの虜囚から解放し、エジプトから脱出させ、荒野に連れていき、その後、カナンに入った。それ以降の記述はみな、彼らのカナンでの生活である。これ以外はどれも、イスラエル全土におけるヤーウェの働きの記録から成っている。旧約に記録されていることはみな、イスラエルにおけるヤーウェの働きであり、それはヤーウェがアダムとエバを創造した場所で行なった働きである。ノアの後、神が正式に地上の人々を導き始めた時から、旧約に記録されていることはすべてイスラエルでの働きである。では、なぜイスラエルの外では何の働きも記録されていないのだろうか。なぜなら、イスラエルの地が人類の生まれた地だったからである。最初のころ、イスラエルの他に国はなく、ヤーウェが他の場所で働くことはなかった。このように、旧約聖書に記されていることは純粋に、当時のイスラエルにおける神の働きなのである。預言者たち、イザヤ、ダニエル、エレミヤ、エゼキエルの話した言葉……彼らの言葉は、地上における神の他の働きを預言するもので、ヤーウェ神自身の働きを預言していた。これはみな神から出たもので、聖霊の働きであり、これらの預言書を除いて、他のすべてはヤーウェによる当時の働きに関する、人々の経験の記録である。

創造の働きは、人類が存在する以前に行なわれた。しかし、創世記は人間が存在するようになってから書かれたものであり、モーセが律法の時代に著した書である。そのことは、あなたがたのあいだで今日起きている事柄に似ている。そういったことが起きたあと、あなたがたは将来人々に見せるために、そして将来の人々のために書き記すが、記録したものは過去に起きたことで、歴史以上のものではない。旧約に記録されている事柄はイスラエルにおけるヤーウェの働きであり、新約に記録されているのは恵みの時代におけるイエスの働きである。これらの文書は神が二つの異なる時代に行なった働きを記録している。旧約は律法の時代における神の働きを記録しており、ゆえに歴史的な書物であり、一方の新約は恵みの時代の働きの産物である。新しい働きが始まると、新約も時代遅れになった。そういうわけで、新約もまた歴史的な書物である。もちろん、新約は旧約ほど系統だったものではないし、それほど多くを記録していない。ヤーウェが語った多くの言葉は旧約聖書に残らず記録されているが、イエスの言葉はその一部しか四福音書に記録されていない。もちろん、イエスもまた多くの働きを行なったが、それは詳細に記録されなかった。新約に記録されたものが少ないのは、イエスが行なった働きの量による。イエスが地上における三年半のあいだに行なった働き、そして使徒たちの働きは、ヤーウェのそれよりはるかに少ない。だから、新約は旧約より書が少ないのである。

『神の出現と働き』「聖書について(1)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 267

聖書とはどのような書物なのか。旧約は律法の時代における神の働きである。旧約聖書は律法の時代におけるヤーウェの働きと、創造の働きを残らず記録している。そのすべてがヤーウェの行なった働きを記録しており、最後はマラキ書のヤーウェによる働きの記述で終わっている。旧約は神の行なった二つの働きを記録している。一つは創造の働き、もう一つは律法の布告である。どちらもヤーウェが行なった働きである。律法の時代はヤーウェ神の名のもとで行なわれた働きを表わしており、おもにヤーウェの名のもとで行なわれた働きの総体である。したがって、旧約はヤーウェの働きを記録しており、新約はイエスの働き、おもにイエスの名のもとで行なわれた働きを記録している。イエスの名の意義と彼が行なった働きは、その大半が新約に記録されている。旧約の律法の時代、ヤーウェはイスラエルに神殿と祭壇を築き、地上におけるイスラエル人の生活を導いたのだが、そのことは、彼らがヤーウェの選民、つまり神が地上で最初に選んだ集団で、神の心にかなう者であり、神が自ら導いた最初の集団であることを証明した。イスラエルの十二部族がヤーウェの最初の選民であり、ゆえにヤーウェは律法の時代における自身の働きが終わるまで、絶えず彼らの中で働いた。第二段階の働きは新約の恵みの時代の働きで、イスラエルの十二部族の一つ、ユダヤの民の間で行なわれた。その働きの範囲が狭かったのは、イエスが受肉した神だったからである。イエスはユダヤの全土でしか働かず、三年半の間だけ働いた。ゆえに、新約に記録されたものは、旧約に記録された働きの量を到底超えられないのである。

『神の出現と働き』「聖書について(1)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 268

律法の時代の働きを見たければ、また、イスラエル人がどのようにヤーウェの道に従ったかを見たければ、旧約聖書を読まなければならない。恵みの時代の働きを理解したいのなら、新約聖書を読まなければならない。しかし、終わりの日の働きはどうすればわかるのか。それには今日の神の導きを受け入れ、今日の働きに入らなければならない。なぜなら、それが新たな働きであり、過去に誰も聖書に記録していないからである。今日、神は肉となり、中国で別の選民を選んだ。神はこれらの人々の間で働き、地上における働きから、また恵みの時代の働きから継続して働きを行なう。今日の働きは人間がかつて歩んだことのない道であり、誰も見たことのないものである。それはかつて行なわれたことがない働きであり、地上における神の最新の働きである。したがって、かつて行なわれたことのない働きは歴史ではない。今は今であり、まだ過去になっていないからである。人々は、神が地上で、そしてイスラエルの外で、より偉大で新しい働きを行なってきたこと、それがすでにイスラエルの範囲を超え、預言者たちの預言を超えたこと、それが預言を超えた驚異的な新しい働きであり、イスラエルの外で行なわれる新たな働きであり、人々には認識することも想像することもできない働きであることを知らない。どうして聖書にこのような働きの具体的な記録が含まれ得るだろう。今日の働きを細部に至るまで漏らすことなく、事前に記録することが誰にできよう。一切の慣習を拒む、より大きく賢いこの働きを、あのカビ臭い古い本に誰が記録できようか。今日の働きは歴史ではない。だから、今日の新たな道を歩みたいのなら、聖書から離れなければならない。聖書の預言書や歴史書を越えなければならない。そうしてはじめて、新たな道を正しく歩むことができ、そうしてはじめて、新たな領域、新たな働きに入ることができる。なぜ今日、聖書を読まないように言われるのか、なぜ聖書とは別の働きがあるのか、なぜ神はより新たな、より詳細な実践を聖書に求めないのか、なぜより偉大な働きが聖書の外にあるのかを、あなたは理解しなければいけない。これらはみな、あなたがたが理解すべき事柄である。新旧の働きの違いを知らなければならない。また、たとえ聖書を読まなくても、聖書を分析できなければならない。そうでなければ、依然として聖書を崇めていて、新たな働きに入ること、新たな変化を経ることが難しくなるだろう。より高い道があるのに、なぜ低く時代遅れな道を学ぶのか。より新しい発言、より新しい働きがあるのに、なぜ古い歴史的記録の中で生きるのか。新たな発言はあなたに施すことができる。そのことは、それが新しい働きであることを証明している。古い記録は十分な満足を与えることも、現在の必要を満たすこともできない。そのことは、それが歴史であり、今現在の働きではないことを証明している。最も高い道は最も新しい働きである。そして新しい働きがあれば、過去の道がいかに高くとも、それは単に、人々が回顧している歴史に過ぎず、参考としての価値がどれほどであっても、依然として古い道である。たとえそれが「聖なる書」に記されていても、古い道は歴史である。たとえ「聖なる書」に記録されていなくても、新たな道が今現在のものである。この道はあなたを救い、あなたを変える。それが聖霊の働きだからである。

『神の出現と働き』「聖書について(1)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 269

聖書は歴史的な書物であり、もしも恵みの時代に旧約を飲み食いしていれば、あるいは恵みの時代に旧約の時代の要求を実践していたなら、イエスはあなたを拒み、断罪していただろう。もしも旧約をイエスの働きに適用していたら、あなたはパリサイ人だったはずだ。今日もし、旧約と新約をともに飲み食いし、実践したなら、今日の神はあなたを断罪し、あなたは今日の聖霊の働きから取り残されるだろう。もし旧約と新約を飲み食いするなら、あなたは聖霊の流れの外にいる。イエスの時代において、イエスは当時、ユダヤ人と自分に従う全員を、自身における聖霊の働きにしたがって導いた。イエスは聖書を自身の行為の基礎とせず、自分の働きにしたがって語った。イエスは聖書の記述を気に留めることも、自分に付き従う人々を導く道を聖書に求めることもしなかった。イエスは働きを始めた当初から悔い改めの道を広めたが、その言葉は旧約の預言の中で一切触れられていないものだった。イエスは聖書にしたがって行動しなかっただけでなく、新たな道を導き、新たな働きを行なった。イエスは教えを説く際に、一度も聖書を参照していない。律法の時代、イエスのように奇跡を行ない、病を癒し、悪霊を祓える者は一人もいなかった。イエスの働き、教え、そしてイエスの言葉の権威と力も、律法の時代の誰よりも勝っていた。イエスはひたすら自分の新たな働きを行ない、多くの人が聖書を用いてイエスを断罪しても、さらには旧約を用いてイエスを十字架にかけても、イエスの働きは旧約を超えていた。そうでなければ、なぜ人々はイエスを十字架にかけたのか。それは、イエスの教え、あるいは病を癒して悪霊を祓うイエスの能力について、旧約に何の記述もなかったからではないのか。イエスの働きは新たな道を導くためになされたのであり、わざと聖書に戦いを挑んだり、意図的に旧約を放棄したりするものではなかった。イエスはただ自分の職分を果たすため、また自分を切望して探し求める人々に新たな働きをもたらすために来たのであって、旧約を説明したり、その働きを支えたりするために来たのではない。イエスの働きは、律法の時代が発展し続けるようにするためのものではなかった。なぜならイエスの働きは、それが聖書に基づくものかどうかを問題にしなかったからである。イエスは単に、なすべき働きを行なうために来たのである。ゆえに、イエスは旧約の預言を説明せず、旧約の律法の時代の言葉にしたがって働きを行なうこともしなかった。イエスは旧約の記述を無視し、それが自分の働きに合致しているかどうかを気にしなかった。また、他の人々が自分の働きを理解しているかどうか、彼らがそれをどう断罪しているかも気にしなかった。多くの人が旧約の預言者の預言を使ってイエスを断罪したが、イエスはひたすら自分のなすべき働きを続けたのである。人々にとって、イエスの働きには根拠がなく、旧約の記述に反することが数多くあるかのように思われた。これは人の過ちではなかったか。神の働きに教義を当てはめる必要があるのか。また、神の働きは預言者たちの預言に合致しなければならないのか。結局のところ、神と聖書のどちらが偉大なのか。なぜ神が聖書にしたがって働きを行なわなければならないのか。神には聖書を超える権利がないということか。神は聖書から離れて別の働きを行なうことができないのか。なぜイエスと弟子たちは安息日を守らなかったのか。仮にイエスが安息日を踏まえ、旧約の戒めにしたがって実践するつもりだったなら、なぜ到来後に安息日を守らず、その代わりに足を洗い、頭を覆い、パンを裂き、ぶどう酒を飲んだのか。これらはみな、旧約の戒めにないのではないか。イエスが旧約を遵守していたのなら、なぜそれらの教義を破ったのか。神と聖書のどちらが先に来たか、あなたは知るべきだ。彼は安息日の主であると同時に、聖書の主でもあるのではないか。

新約の時代にイエスが行なった働きは、新たな働きを始めることだった。つまり、旧約の働きに沿った働きは行なわなかったのである。また、旧約のヤーウェが語った言葉を適用することもなかった。イエスは自分の働きを行ない、より新たな働きを行ない、律法よりも上位の働きを行なった。そのため、イエスはこう言った。「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」。よって、イエスが成就したことにしたがう形で、多くの教義は廃棄された。安息日にイエスが弟子たちを連れて麦畑を通ったとき、彼らは麦の穂を摘んで食べた。イエスは安息日を守らず、「人の子は安息日の主である」と言った。イスラエル人の規則によると、当時、安息日を守らなかった者は誰であっても石で打ち殺された。しかしイエスは、神殿に入ることも安息日を守ることもしなかったし、彼の働きは旧約の時代にヤーウェが行なわなかったものだった。だから、イエスが行なった働きは旧約の律法を超えており、それよりも高いものであり、それに沿うものではなかったのである。恵みの時代、イエスは旧約の律法にしたがう形で働きを行なわず、そうした教義をすでに破っていた。しかし、イスラエル人はあくまで聖書に固執し、イエスを断罪した。それはイエスの働きを拒むことではなかったか。今日、宗教界もまたあくまで聖書に固執し、中には「聖書は聖なる書物で、読まなければいけない」という人がいる。また「神の働きは永遠に守らなければならず、旧約は神とイスラエルの民との契約であるから、破棄することはできない。また、安息日は常に守らなければいけない」という人もいる。そのような人は愚かではないか。なぜイエスは安息日を守らなかったのか。イエスは罪を犯していたのか。誰がそうしたことを完全に理解できるのか。どのように聖書を読んでも、人間の理解力で神の働きを知ることは不可能である。そうした人は神について純粋な認識を得ることができないばかりか、その人のもつ観念がますますとんでもないものになり、神に敵対するまでになる。もしも今日の神の受肉がなければ、人々は自分たちの観念によって滅ぼされ、神の刑罰の中で死ぬだろう。

『神の出現と働き』「聖書について(1)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 270

聖書は旧約・新約聖書とも呼ばれる。あなたがたは「約」の意味を知っているだろうか。「旧約」の「約」は、ヤーウェがエジプト人を殺し、イスラエル人をパロから救ったときの、ヤーウェとイスラエルの民との契約に由来する。もちろん、この契約の証しは鴨居につけた子羊の血であり、神はそれをもって人間との契約を立てた。この契約は、戸枠のてっぺんと両側に子羊の血がついた家の者はみなイスラエル人で、彼らは神の選民であり、ヤーウェは彼らを見逃す(このとき、ヤーウェはエジプト人の初子および羊と牛の初子をみな殺そうとしていた)という内容だった。この契約には二重の意味がある。まず、ヤーウェはエジプトの民や家畜を一切救わず、男の初子および羊と牛の初子を残らず殺す。そのため多くの預言書の中で、エジプト人はヤーウェの契約のために厳しく罰せられると預言された。これが契約の第一層の意味である。ヤーウェはエジプト人の初子と家畜の初子をみな殺したが、イスラエルの民はすべて見逃した。つまり、イスラエルの地に住む民はみなヤーウェの慈しむ者であり、みな見逃されるということである。ヤーウェは彼らの中で長期にわたって働こうと思い、子羊の血で彼らと契約を立てた。それ以降、ヤーウェはイスラエル人を殺すことなく、彼らは永遠に我が選民であると告げた。つまり、イスラエルの十二部族の間で、律法の時代全体にわたる働きに乗り出し、イスラエル人に自身の律法をすべて明かし、彼らの中から預言者と士師を選び、彼らを自身の働きの中心に置くのである。ヤーウェは彼らと契約を立てた。時代が変わらない限り、ヤーウェは選民の間でだけ働く。ヤーウェの契約は変えられないものだった。なぜなら、それは血で作られ、自身の選民との間で立てられたからである。さらに重要なこととして、ヤーウェは時代全体を通じて働きに乗り出す適切な範囲と対象を選んだ。そのため、人々は契約をとりわけ重要なものと見た。これが契約の第二層の意味である。契約が立てられる前の創世記を例外として、旧約の他の書はみな、契約を立てた後のイスラエル人の間における神の働きを記録している。もちろん、異邦人のことを述べている箇所もあるが、総体的に言えば、旧約はイスラエルにおける神の働きを記録したものである。ヤーウェのイスラエル人との契約のため、律法の時代に書かれた書は旧約と呼ばれている。これはヤーウェのイスラエル人との契約に因んで名付けられた。

新約は、イエスが十字架の上で流した血と、イエスを信じるすべての人との契約に因んで名付けられた。イエスの契約はこうである。ただイエスを信じれば、人々はイエスの流した血のおかげで罪を赦され、ゆえに救われ、イエスを通じて生まれ変わり、もはや罪人でなくなる。イエスの恵みを受けるには彼を信じさえすればよい。そうすれば、死後に地獄で苦しまずに済む。恵みの時代に記された書はみな、この契約の後のものである。そのどれもが、そこに含まれる働きと発言を記録している。これらの書は主イエスの磔刑による救い、あるいは契約から先には進まない。これらはどれも、経験を有する、主における兄弟たちが記した書である。したがって、これらの書も契約に因んで名付けられ、新約と呼ばれる。これら二つの契約には、恵みの時代と律法の時代だけが含まれていて、最後の時代とは何のつながりもない。ゆえに、聖書は終わりの日の今日の人々にとってそれほど役に立たない。せいぜい、時おり参照する価値があるくらいで、基本的にはほとんど無価値である。しかし、宗教関係者は、依然としてそれを最も貴重なものとしている。彼らは聖書を知らず、聖書を説明する方法を知っているだけで、そのなりたちを根本的に知らない。聖書に対する彼らの態度は、聖書に書かれていることはすべて正しく、そこに不正確なことや誤りは一切ない、というものである。聖書は正しく、誤りはないと最初から決めてかかっているので、大いに興味をもって学び調べる。今日の働きの段階は、聖書で預言されていなかった。最も暗い場所における征服の働きについて、一切言及されることはなかった。それは最新の働きだからである。働きの時代が異なるので、イエス自身でさえ、この段階の働きが終わりの日に行なわれるとは知らなかった。ならば、終わりの日の人々がこの段階の働きを、聖書を調べることでその中に見つけることなどできるだろうか。

『神の出現と働き』「聖書について(2)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 271

聖書にあることがみな、神が自ら語った言葉の記録というわけではない。聖書はただ、神の働きのうち以前の二段階を記載しているに過ぎない。その一部は預言者たちによる預言の記録で、別の一部は各時代で神に用いられた人々の経験と認識である。人間の経験には人間の意見や認識が紛れ込んでいるが、それは避けられないことである。聖書の多くの書には、人間の観念、人間の偏見、人間の愚かしい理解が含まれている。もちろん、ほとんどの言葉は聖霊による啓きと照らしの結果であり、それらは正しい理解である。それでも、真理をまったく正確に表現しているとは言えない。ある物事に対するそれらの見方は、個人的な経験から得た認識に過ぎないか、あるいは聖霊による啓示である。預言者たちの預言は神が直接指示したものである。つまり、イザヤ、ダニエル、エズラ、エレミヤ、そしてエゼキエルのような者たちによる預言は、聖霊による直接の指示から生じたのである。これらの人たちは預言者で、預言の霊を受けており、みな旧約の預言者だった。律法の時代、ヤーウェの霊感を受けていたこれらの人たちは多くの預言を語ったが、それらはヤーウェが直接指示したものだった。それでは、なぜヤーウェは彼らの中で働いたのか。イスラエルの人々が神の選民であり、預言者の働きは彼らの間でなされる必要があったからである。それゆえ、それらの預言者はそうした啓示を受けることができたのだが、実際のところ、彼ら自身は自分に対する神の啓示を理解していなかった。聖霊が彼らの口を通じてそれらの言葉を述べたのは、未来の人々がそれらのことを理解し、それらが本当に神の霊、聖霊の働きであって、人間から出たものではないとわかるようにさせるため、また彼らに聖霊の働きの確証を与えるためだった。恵みの時代には、イエス自身が彼らに代わってこの働きをすべて行なった。そのため、人々はもはや預言を語らなくなった。では、イエスは預言者だったのか。もちろん、イエスは預言者だった。しかし、イエスは使徒の働きもできた。預言を告げ、各地で人々に説教し、教えを述べることもできたのである。しかし、イエスが行なった働きと彼の身分は同じものではない。イエスは全人類を贖うために、人間の罪を贖うために来た。イエスは預言者にして使徒だったが、それ以上にキリストだった。預言者は預言を告げるかもしれないが、だからといって、そうした預言者がキリストだとは言えない。当時、イエスは多くの預言を告げたので、預言者だったと言うことはできるが、預言者だからキリストではなかったとは言えない。なぜなら、イエスは一つの段階の働きを行なう中で神を代表していたのであり、その身分はイザヤのそれと異なっていたからである。イエスは贖いの働きを完了させるために到来し、また人間のいのちを施した。そして、神の霊がイエスに直接訪れたのである。イエスが行なった働きに、神の霊の霊感やヤーウェからの指示はなかった。その代わり、霊が直接働いたのであり、そのことはイエスが預言者と同じでなかったことを証明するのに十分である。イエスが行なった働きは贖いの働きで、それに次ぐのが預言を告げることだった。イエスは預言者であり、使徒であり、またそれ以上に贖い主だった。一方、預言者たちは預言を告げることができるだけで、他の働きを行なう中で神の霊を代表することはできなかった。イエスは、かつて人間が行なったことのない多くの働きを行ない、人類を贖う働きを行なったので、イザヤのような人々とは違っていた。

『神の出現と働き』「聖書について(3)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 272

今日、聖書は神であり、神は聖書であると人々は信じている。また、聖書のすべての言葉は神が語った唯一の言葉であって、それらはどれも神によって述べられたと信じている。神を信じる人々は、旧約と新約の六十六書はすべて人間が書いたものだが、みな神から霊感を受けており、聖霊の発言を記録しているとさえ考えている。これは人の誤った理解であって、事実とまったく一致していない。実際、預言書を別にして、旧約の大半は歴史的記録である。新約の書簡の中には、人々の経験に由来するものもあれば、聖霊の啓きに由来するものもある。たとえば、パウロの手紙は一人の人間の働きから生まれたもので、どれも聖霊による啓きの結果だった。また、それらの手紙は諸教会のために書かれたもので、諸教会の兄弟姉妹への勧告と激励の言葉だった。聖霊の語る言葉ではなかったのであり、パウロが聖霊の代わりに語ることはできなかったのである。また、彼は預言者でもなかったし、ましてヨハネが目の当たりにした幻を見てもいない。パウロの手紙はエペソ、コリント、ガラテヤ、およびその他の教会に向けて書かれた。したがって、新約のパウロの手紙は彼が諸教会に向けて書いた手紙であって、聖霊からの霊感ではないし、聖霊が直接発した言葉でもない。それらは単に、パウロが働きのさなかに諸教会に向けて書いた勧告と慰めと励ましの言葉であり、また同時に、パウロによる当時の活動の大部分を記録するものでもある。それらは主の兄弟姉妹全員のために書かれたもので、当時の諸教会の兄弟姉妹がパウロの助言に従い、主イエスの悔い改めの道を守るようにするためのものだった。パウロは、当時の教会であれ、未来の教会であれ、自分の書いたものを全員が飲み食いしなければならないとは絶対に言わなかったし、自分の言葉はすべて神に由来するものだとも言わなかった。パウロは単に、当時の教会の状況に応じて兄弟姉妹と交わり、彼らを励まし、彼らの信仰を深めようとしていたのであって、ただ教えを説いたり、人々の注意を促して勧告したりしていたに過ぎない。彼の言葉は彼自身の重荷に基づいており、それらの言葉を通じて人々を支えた。彼は当時の諸教会の使徒の働きを行ない、主イエスに用いられる働き手だった。したがって、教会の責任を背負い、教会の働きを引き受け、兄弟姉妹の状況を知らなければならなかった。そのため、主における兄弟姉妹全員に手紙を書いたのである。彼が述べたことはどれも人々にとって啓発的であり、肯定的であって、いずれも正しかったが、それは聖霊の発する言葉を代弁していたのではないし、神を表わすこともできなかった。一人の人間による経験の記録や手紙を、聖霊が諸教会に向けて語った言葉として扱うのは、言語道断な解釈であり、ひどい冒瀆である。パウロが諸教会に向けて書いた手紙については、特にそうである。なぜなら、彼の手紙は当時の各教会の事情と状況に基づき、兄弟姉妹に向けて書かれたものであり、主における兄弟姉妹を励まし、彼らが主イエスの恵みを受けられるようにするためのものだったからである。彼の手紙は、当時の兄弟姉妹を奮起させるためのものだった。それは彼自身の重荷であり、また聖霊が彼に背負わせた重荷でもあったと言える。結局のところ、彼は当時の諸教会を導き、諸教会に手紙を書いて励ました使徒である。それが彼の責任だった。彼の身分は単に働きを行なう使徒であって、神に遣わされた使徒に過ぎない。彼は預言者でも予知する者でもなかった。彼にとっては自分の働きと兄弟姉妹のいのちが最も重要だったのである。それゆえ、彼は聖霊の代わりに語ることができなかった。彼の言葉は聖霊の言葉ではなかったし、ましてや神の言葉だったとは到底言えない。パウロは神の被造物に過ぎず、決して神の受肉ではなかったからである。彼の身分はイエスの身分と同じではなかった。イエスの言葉は聖霊の言葉であり、神の言葉だった。イエスの身分はキリスト、すなわち神の子の身分だったからである。どうしてパウロがイエスと対等になれようか。もし人々が、パウロが書いたような手紙や言葉を見て、それらを聖霊の発した言葉と見なし、神として崇めるなら、それはあまりにも分別がないとしか言えない。もっと厳しい言い方をすれば、それは単に冒瀆ではないのか。どうして人間が神に代わって話せるのか。また、人間の手紙や語った言葉の記録がまるで聖なる書か天の書であるかのように、どうしてその前に額ずけるというのか。神の言葉は人間が何気なく口にできるものなのか。どうして人間が神に代わって話せるのか。それで、あなたは何と言うのか。パウロが諸教会に向けて書いた手紙には、彼自身の考えが混じっているのではないか。どうして人間の考えで汚れていないことがあり得ようか。彼は自分の個人的経験と認識に基づいて教会に手紙を書いた。たとえば、パウロはガラテヤの教会に向けて手紙を書いているが、そこにはある意見が含まれている。またペテロも別の手紙を書いているが、そこには別の意見が記されている。どちらが聖霊に由来するものなのか。誰一人断言することはできない。ゆえに、彼らは二人とも教会のために重荷を背負っていたが、彼らの書簡はそれぞれの霊的背丈を表わし、また兄弟姉妹に対する彼らの施しと支え、そして教会に対する責任を表わすものであって、人間の働きを表わしているに過ぎない。それらがすべて聖霊のものというわけではないのである。パウロの手紙は聖霊の言葉だと言うのなら、あなたは愚かで、冒瀆を犯している。パウロの手紙や新約のその他の書簡は、より最近の霊的人物による回顧録のようなものだ。それらはウォッチマン・ニーの著書やローレンスの経験などと同じようなものである。つまり、最近の霊的人物の著作は新約の中に収められていないが、そうした人物の本質は同じだということである。彼らは一定期間にわたり聖霊に用いられた人々だったが、直接神を表わすことはできなかったのである。

『神の出現と働き』「聖書について(3)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 273

新約のマタイの福音書にはイエスの系図が記載されている。冒頭で、イエスはアブラハムおよびダビデの子孫、ヨセフの子だったと述べられている。次に、イエスは聖霊によって受胎され、処女から生まれたとある。すると、イエスはヨセフの子でもなければ、アブラハムおよびダビデの子孫でもないことになる。しかし、系図はイエスとヨセフのつながりを主張している。次に、系図はイエスが誕生した過程を記し始める。それによると、イエスは聖霊に受胎され、処女から生まれたのであり、ヨセフの子ではない。しかし系図には、イエスはヨセフの子であるとはっきり書かれており、また系図はイエスのために書かれているため、その記録は四十二世代に及ぶ。ヨセフの代になると、ヨセフはマリヤの夫であると手短に述べている。これらの記述は、イエスがアブラハムの子孫であることを証明するためになされたものである。これは矛盾ではないか。系図はヨセフの祖先を明確に列挙しており、それは確かにヨセフの系図なのだが、マタイは、それがイエスの系図だと主張している。そのことは、イエスが聖霊によって受胎された事実を否定するものではないのか。ゆえに、マタイによる系図は人間の考えではないのか。それは馬鹿げている。このようにして、この書がすべて聖霊に由来するわけではないことがわかる。おそらく、神には地上での系図が必要だと考えた人々がいて、その結果、イエスをアブラハムの四十二代目の子孫としたのではないか。これはまことに愚かなことだ。地上に到着した後、どうして神に系図があり得るのか。神に系図があると言うのなら、それは神を被造物と同列に置いているのではないか。神は地上の存在ではなく、創造の主であり、肉の体をもってはいても、本質において人間とは違うのだ。どうして神を被造物の同類として位置づけられるのか。アブラハムに神を表わすことはできない。彼はヤーウェによる当時の働きの対象であり、単にヤーウェの認める忠実なしもべでしかなく、イスラエルの民の一人だった。どうして彼がイエスの祖先であり得ようか。

誰がイエスの系図を書いたのか。イエス自身が書いたのか。イエスが自ら「わたしの系図を書きなさい」と言ったのか。これはイエスが十字架にかけられた後、マタイが記録したものである。当時、イエスは弟子たちには理解できない働きを数多く行なったが、何も説明していなかった。イエスが去った後、弟子たちは至るところで説教と働きを始め、その段階の働きのために、手紙と福音書を記し始めた。新約の福音書は、イエスが十字架にかけられてから二十年ないし三十年後に書かれたものである。それ以前、イスラエルの人々は旧約だけを読んでいた。つまり、恵みの時代の当初、人々は旧約を読んでいたのである。新約は恵みの時代にようやく現われる。イエスが働きを行なっていたとき、新約は存在しなかった。イエスが復活し、昇天した後になって、人々はイエスの働きを記録したのである。そこで初めて四福音書が生まれ、それに加えてパウロとペテロの手紙、そして黙示録が生まれた。イエスの昇天から三百年以上が過ぎたころ、後の世代がそれらの文書を選んで編纂し、そのとき初めて新約聖書が生まれた。この働きが完了してようやく新約が生まれたのであり、それ以前には存在しなかったのである。神がすべての働きを行ない、パウロとその他の使徒たちは各地の教会に宛てて数多くの手紙を記した。その後の人々が彼らの手紙を集め、神による終わりの日の働きを預言する、ヨハネがパトモス島で記録した最大の幻をそこに加えた。人々はこの順番にしたのだが、それは今日発せられる言葉と異なっている。今日記録されていることは、神の働きの諸段階に沿ったものである。人々が今日関わっているのは、神が自ら行なう働きであり、神が自ら発する言葉である。あなたがた人間が干渉する必要はない。霊から直接出るそれらの言葉は順を追って並べられており、人間の記録の配列とは異なっている。彼らが記録したものは、彼らの教養と人間としての素質の程度にしたがっていたと言えよう。彼らが記録したのは人間の経験だった。記録し、また認識するにあたって、人には自分なりの手段があり、一つひとつの記録は異なっていた。だから、聖書を神と崇めるなら、あなたは極めて無知で愚かだということになる。なぜ今日の神の働きを求めないのか。神の働きだけが人間を救える。聖書は人間を救えず、人々は数千年にわたって聖書を読んだかもしれないが、それでもなお彼らの中には少しの変化も見られない。そして聖書を崇めるなら、聖霊の働きを得ることは決してないだろう。

『神の出現と働き』「聖書について(3)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 274

聖書を理解して解釈できることは、真の道を見つけるのと同じことだと多くの人が信じている。しかし、物事は本当にそれほど単純だろうか。聖書の実情を知る人はいない。つまり、聖書が神の働きに関する歴史的記録、神による以前の二段階の働きについての証しに過ぎないこと、また聖書は神の働きの目的について何も教えていないことを、誰も知らないのである。聖書を読んだことがある人はみな、そこには律法の時代と恵みの時代における二段階の神の働きが記録されていることを知っている。旧約はイスラエルの歴史と、創造から律法の時代の終わりに至るヤーウェの働きを記録している。また新約では、地上におけるイエスの働きが四福音書に記されており、それとともにパウロの働きも記録されている。これらは歴史的記録ではないのか。過去の物事を今日に持ち込めば、それは歴史となり、いかに真実かつ現実であろうとも、やはり歴史である。そして、歴史は現在に当てはめることができない。神は歴史を振り返らないからである。ゆえに、聖書を理解するだけで、神が今日行なおうとしている働きについて何も理解しないのなら、また、神を信じていながら聖霊の働きを求めないのなら、あなたは神を求めることが何を意味しているのかわかっていない。イスラエルの歴史を学ぶために、神の天地創造の歴史を研究するために聖書を読むのなら、あなたは神を信じていない。しかし今日、あなたは神を信じていのちを追い求めているのだから、また神の認識を追い求め、死んだ文字や教義、あるいは歴史の理解を追い求めているのではないのだから、今日の神の旨を求め、聖霊の働きの方向を探さなければならない。もしもあなたが考古学者なら、聖書を読んでもよいだろう。しかし、あなたは考古学者ではなく、神を信じる者の一人なのだから、今日の神の旨を探し求めるのが最善である。聖書を読んでも、せいぜいイスラエルの歴史がわずかにわかるだけであり、アブラハム、ダビデ、モーセの生涯を学び、彼らがどのようにヤーウェを崇めたか、ヤーウェが自分に敵対する人々をどのように火で罰したか、その時代の人々にどう語ったかが見出せるだけである。過去における神の働きについてしか見出せないのである。聖書の記録は、初期のイスラエルの人々がいかに神を崇め、ヤーウェの導きのもとで生きたかということに関連している。イスラエル人は神の選民だったので、イスラエルのすべての人々のヤーウェに対する忠誠や、ヤーウェに従う人々がヤーウェからどのように慈しまれ、祝福を受けたかが旧約の中でわかる。また、イスラエルで働きを行なっていたとき、神は慈悲と愛に満ちていたが、同時に激しい炎ももっていたこと、そしてイスラエル人は卑しい者から強い者まで誰もがヤーウェを崇め、そのためイスラエルの全土が神に祝福されたことを知ることができる。これが旧約に記録されているイスラエルの歴史である。

『神の出現と働き』「聖書について(4)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 275

聖書はイスラエルにおける神の働きの歴史記録であり、古代の預言者たちによる預言の多くと、ヤーウェが当時働きを行なう中で発した言葉の一部が記載されている。それゆえ、人々はこの本を神聖なものとして尊ぶ(神は聖く、偉大であるから)。もちろん、これはみな、ヤーウェに対する人々の畏敬と、神に対する彼らの敬慕の結果である。人々がこの本をこのように扱うのは、ひとえに神の被造物が自分たちの創造主を深く畏敬し、敬慕しているからであって、この本を天の書と呼ぶ者さえいる。だが実際のところ、これは人間の記録でしかない。ヤーウェが直接名付けたものではないし、ヤーウェが直接その作成を導いたのでもない。つまり、この本の著者は神でなく人間なのだ。聖書は、人間が敬ってつけた書名に過ぎない。この書名は、ヤーウェやイエスが話し合って決めたものではなく、人間の考えでしかないのである。この本はヤーウェの著書ではないし、ましてイエスの著したものでもない。そうではなく、多くの古代の預言者、使徒、そして予知する者による記録を後の世代が一冊の古代書に編集したものであって、それは人々にとってとりわけ聖いものと映っている。またこの書は、未来の世代によって解読されるのを待っている、数多くの計り知れない深遠な奥義を含んでいると、その人たちは信じている。したがって、よけいに人々はこの本を天の書だと考えがちである。四福音書と黙示録の追加によって、この本に対する人々の態度は、他のどの本ともひときわ異なっていて、誰一人、この「天の書」をあえて解明しようとしない。なぜならあまりに「神聖」だからである。

なぜ、聖書を読むとすぐ、人々は実践の正しい道を聖書の中に見つけることができるのか。なぜ自分にとって不可解だった多くのことを自分のものにできるのか。今日、わたしはこのようにして聖書を分析しているが、それはわたしが聖書を憎んでいるという意味でも、参考としての価値を否定しているという意味でもない。わたしが聖書の本来の価値とそのなりたちを説明し、明確にしているのは、あなたが闇の中に閉じ込められないようにするためである。人々は聖書について実に多くの見方をもち、その多くは誤っているので、聖書をこのように読むのは、得るべきものを得ることを妨げるだけでなく、さらに重要なこととして、わたしが行なおうとしている働きの妨げとなる。これは未来の働きをひどく妨げ、利点でなく欠点ばかりをもたらす。したがって、わたしがあなたに教えているのは、聖書の本質とその内部事情だけである。わたしは聖書を読むなと言っているのではないし、聖書に価値はないと言いふらすよう求めているわけでもない。聖書について正しい知識と見方をもつよう言っているだけなのだ。あまりに偏った見方をしてはならない。聖書は人間によって記された歴史書だが、古代の聖人や預言者が神に仕えた原則、およびより近い時代の使徒たちが神に仕えた経験を記した文書でもある。これらはみな、そうした人々が実際に見て知った事柄であり、この時代の人々が真の道を求める上で参考になる。したがって、人々は聖書を読む中で、他の書物には見出せない数多くのいのちの道を自分のものにすることができる。これらの道は、過去の時代の預言者や使徒たちが経験した、聖霊の働きのいのちの道であり、その言葉の多くは貴く、人々が必要とするものを施せる。そのため、人々はみな聖書を読むことを好むのである。聖書にはまことに多くのことが隠されているので、聖書に対する人々の見方は、偉大な霊的人物の著作に対するものとは異なっている。聖書は新旧の時代においてヤーウェやイエスに仕えた人々の経験と認識を集めた記録であり、後の世代はそこから多くの啓き、照らし、そして実践への道を自分のものにすることができた。聖書がどの偉大な霊的人物の著作よりも高位にあるのは、彼らの記述がどれも聖書から引き出したものであり、彼らの経験はみな聖書から来ていて、いずれも聖書を解説しているからである。そこで、人々は偉大な霊的人物の著書から糧を得られても、依然として聖書を崇める。聖書がじつに偉大で深遠に思われるからだ。聖書はパウロの手紙やペテロの手紙といった、いのちの言葉の書の一部を収めているし、人々はこれらの書から施しや支えを得られるものの、これらの書はやはり時代遅れで、過去の時代に属するものである。どれほど優れていても、一つの時代にだけ通用するもので、永遠のものではない。神の働きは常に進展しており、単にパウロやペテロの時代で止まったり、イエスが十字架にかけられた恵みの時代にいつまでもとどまったりすることはできない。したがって、これらの書は恵みの時代にのみふさわしいものであって、終わりの日の神の国の時代にはふさわしくない。これらは恵みの時代の信者にのみ施せるのであって、神の国の時代の聖徒に施すことはできない。いかに優れていても、それらはやはり過去のものである。ヤーウェによる創造の働きやイスラエルでの働きも同じである。その働きがいかに偉大でも、それはやはり時代遅れになり、廃れる時がきっと来る。神の働きもまた同じであり、それは偉大だが、終わる時が来る。いつまでも創造の働きにとどまることはできないし、磔刑の働きにとどまっていることもできない。磔刑の働きがいかに説得力をもち、サタンを打ち負かすにあたって効果的でも、結局、働きはやはり働きであり、時代もまた時代なのである。働きがいつまでも同じ基礎の上にとどまることはできないし、時代が決して変わらないということもあり得ない。なぜなら創造があり、また必ず終わりの日があるからである。これは決して避けられない。ゆえに、今日、新約のいのちの言葉、つまり使徒たちの手紙や四福音書は歴史的な書となり、古い年鑑となった。古い年鑑がどうして人々を新たな時代に導けるだろうか。それらの年鑑がどれほど人々にいのちを施すことができたとしても、あるいは人々を十字架に導くことができたとしても、それらは時代遅れではないのか。価値がないのではないか。それゆえ、盲目的にそれらの年鑑を信じるべきではないと言うのだ。それらはあまりに古く、あなたを新たな働きに至らせることができず、重荷にしかならない。新たな働き、新たな入りに至らせることができないばかりか、古い宗教的な教会へと至らせる。そうなれば、神への信仰において退歩していることにならないか。

『神の出現と働き』「聖書について(4)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 276

聖霊に用いられた者たちの言葉はすべて聖霊から出たものである、とあえて言う人が今日あなたがたの中にいるだろうか。そのようなことをあえて言う人がいるだろうか。そのようなことを言うなら、エズラの預言書が除外され、昔の聖者や預言者たちが書いた書物も同じように扱われたのはいったいなぜか。それらがすべて聖霊から出たものならば、そうした気まぐれな選択をあえてするのはなぜか。あなたに聖霊の働きを選ぶ資格があるのか。また、イスラエルの物語も多数除外された。このような過去の記述がすべて聖霊から出たものだと信じるなら、一部の書が排除されたのはなぜか。それらがみな聖霊から出たものであれば、すべて保管しておいて、諸教会の兄弟姉妹に送って読ませるべきである。それを人間の意図によって選択したり処分したりすべきではない。そのようなことは間違っている。パウロとヨハネの経験には個人的な洞察が混じり込んでいると言っても、それは彼らの経験と認識がサタンから出たものだという意味ではなく、彼らの個人的な経験や洞察があったというだけのことである。彼らの認識は当時の実際の経験を背景にして生まれたものであり、そのすべてが聖霊から出たものだと誰が自信を持って言えるだろうか。四つの福音書がすべて聖霊から出たものなら、マタイ、マルコ、ルカ、そしてヨハネが、イエスの働きについてそれぞれ違うことを言っているのはなぜか。それを信じないというなら、聖書の中の、ペテロが主を三度否定する話を読んでみなさい。四つの書はすべて違い、それぞれに特徴がある。多くの無知な人たちは言う。「受肉した神もまた人間であるのなら、その方の語る言葉は完全に聖霊から出るものだと言えるのか。もしパウロとヨハネの言葉に人の意志が混じっているのなら、神が語る言葉には本当に人の意図が混ざっていないのか」。そんなことを言う人たちは盲目にして無知である。四つの福音書を注意して読みなさい。イエスが行ったこと、イエスが語ったことに関する記録を読んでみなさい。それぞれの記述がまったく異なっており、いずれも違う視点を有している。これらの福音書の著者によって書かれたものがすべて聖霊から出たものならば、どれも同じで一貫しているはずだ。それでは、相違があるのはなぜなのか。

『神の出現と働き』「呼び名と身分について」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 277

当時、イエスの言葉と働きは教義に固執したものではなく、彼が旧約聖書の律法に従って働きを実行することもなかった。それは、恵みの時代に行われるべき働きに従って行われたのである。イエスは自ら生み出す働き、自らの計画、そして自らの職分に沿って尽力したが、旧約聖書の律法に従って働くことはしなかった。イエスが行ったことのうち、旧約の律法に基づくものは一つもなかった。また、イエスは預言者たちの言葉を実現させるために、到来して働いたのでもなかった。神によるどの段階の働きも、とりわけ昔の預言者たちの預言を成就させるためになされたのではなく、教義に従うため、あるいは意図的に預言者たちの預言を実現させるために来たのでもなかった。それでも、彼の行為が昔の預言者たちの言葉を混乱させることはなく、彼が過去に行った働きの妨げとなることもなかった。イエスの働きの顕著な点は、いかなる教義にも縛られず、その代わりに彼自身がなすべき働きを行うことだった。彼は預言者でも先見者でもなく、実際に到来して自身がなすべき働きを行う行動の人であり、自身の新たな時代を始め、新たな働きを実行するために来た。もちろん、到来して自身の働きをなしたイエスは、旧約聖書の昔の預言者たちが語った多くの言葉を成就させてもいる。そして今日の働きもまた、旧約聖書の昔の預言者たちの預言を成就させている。それは単に、わたしはその「古い暦」を掲げないというだけのことだ。と言うのも、わたしにはなすべき働き、あなたがたに語るべきことがさらにあるからであり、その働きとそれらの言葉は聖書の聖句を説明するよりはるかに重要である。なぜなら、そのような働きは、あなたがたにとってさほど意義も価値もなく、あなたがたの助けになることも、あなたがたを変えることもないからだ。わたしは聖書の文章を成就するために新しい働きをするわけではない。神が聖書の昔の預言者の言葉を成就するためだけに来たのであれば、受肉した神と昔の預言者たちのどちらが偉大なのだろう。結局のところ、預言者たちが神を支配しているのか、それとも神が預言者たちを支配しているのか。あなたはこれらの言葉をどう説明するのか。

『神の出現と働き』「呼び名と身分について」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 278

当時のユダヤ人はみな旧約聖書を読んでいて、男の子が飼い葉桶の中で生まれるというイザヤの預言を知っていた。それではなぜ、彼らはその預言を十分知っていたにもかかわらず、イエスを迫害したのか。それは彼らの反抗的な本性と、聖霊の働きに対する無知のためではなかったか。当時、パリサイ人は、イエスの働きは預言された男の子について自分たちが知っていることと違っていると信じており、今日の人が神を受け入れないのも、受肉した神の働きが聖書と一致しないからである。神に対する彼らの反抗の本質は同じものではないだろうか。あなたは聖霊のすべての働きを、疑うことなく受け入れられるか。聖霊の働きなら、それは正しい流れであり、あなたは疑念を一切抱かずに受け入れるべきである。何を受け入れるか、選り好みをしてはならない。神からさらなる洞察を得て、神に対してさらに用心するのであれば、それは無用の行為ではないか。聖書からさらなる実証を求める必要はない。聖霊の働きならば、あなたはそれを受け入れなければならない。あなたが神を信じるのは神に付き従うためであり、神を調べてはならないからである。わたしがあなたの神であることを証明するために、わたしについてのさらなる証拠を求めるべきではなく、わたしがあなたのためになるかどうかを見定められるようにならなければならない。それが何より重要である。たとえ聖書の中に反論不可能な証拠を見つけたとしても、それによってあなたが完全にわたしの前へと導かれることにはならない。あなたはわたしの前ではなく、聖書の制約の中で生きているに過ぎない。聖書はわたしを知る助けにはならないし、わたしに対するあなたの愛を深めることもできない。聖書は男の子が生まれると預言したが、人は神の働きを知らなかったため、その預言が誰において実現するかは誰にも分からなかった。そのため、パリサイ人はイエスと対立することになった。わたしの働きが人にとって有益であることを知っている者もいるが、それでも彼らは、イエスとわたしが互いに相容れない二つのまったく別の存在だと信じ続けている。当時、イエスは恵みの時代において、弟子たちに一連の説教しか与えず、実践の方法、集い方、祈る際の求め方、他の人々の扱い方といったことが主題だった。イエスが実行した働きは恵みの時代の働きであり、彼が説明したのは、弟子たちやイエスに付き従う人々はどのように実践すべきかだけだった。イエスは恵みの時代の働きをしただけで、終わりの日の働きは何一つしなかった。ヤーウェが律法の時代に旧約の律法を定めたとき、恵みの時代の働きをその際に行わなかったのはなぜなのか。なぜ恵みの時代の働きを前もって明らかにしなかったのか。そうすれば人が受け入れる助けになったのではなかろうか。ヤーウェは、男の子が生まれて指導者になると預言しただけで、恵みの時代の働きを前もって実行することはなかった。各時代における神の働きには明確な境界線がある。神は現在の時代の働きだけを行い、次の段階の働きを前もって行うことは決してない。このようにしてのみ、各時代を代表する神の働きが前面に引き出される。イエスは終わりの日のしるしについて、そしていかに忍耐するか、いかにして救われるか、いかに悔い改め、告白するか、また、いかに十字架を背負い、苦しみに耐えるかについてしか語らず、終わりの日に人はどう入りを成し遂げるべきか、神の旨を満たすべくどのように追求すべきかについては語らなかった。したがって、終わりの日の神の働きを聖書の中に探し求めるのは馬鹿げてはいないか。聖書を手に携えているだけで何が分かるのか。聖書の解説者であれ説教者であれ、今日の働きを予見し得る者などいただろうか。

『神の出現と働き』「自己の観念で神を規定する人がどうして神の啓示を受けられるのか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 279

数千年間にわたり、聖書は人間の歴史の一部だった。さらに、人は聖書を神のように扱い、そのため終わりの日、聖書は神の座についてしまうほどで、神はそれを嫌悪している。よって時間が許す時に、聖書の内幕と起源を明確にしなければならないと神は感じた。神がそうしなければ、聖書が人々の心の中で神の座を占め続けただろうし、人々は聖書の言葉を使って神の業を測り、断罪したはずだ。神は聖書の本質、構造、および欠点を説明したが、そうすることで決して聖書の存在を否定したわけでも、聖書を断罪したわけでもない。むしろ、聖書の本来の姿を蘇らせ、人々が聖書に対して抱いていた誤解を解き、聖書に関する正しい見方を彼らに与える、適切かつふさわしい説明を提示したのであり、それによって人々は聖書を崇拝することも迷うこともなくなった。つまり、聖書の真の背景や欠陥と向き合うことすら恐れて、聖書への盲信を神への信仰や崇拝と誤解することがなくなったのである。ひとたび聖書を純粋に理解すれば、良心の呵責を感じることなく聖書を脇にのけ、神の新しい言葉を果敢に受け入れることができる。これが、この数章における神の目標である。ここで神が人に伝えんとする真理は、どのような理論や事実も今日の神の働きと言葉に取って代わることはできず、神の代わりになれるものは何もないということである。聖書の落とし穴を逃れることができなければ、神の前に出ることは決してできない。神の前に出たいと願うならば、まずは神に取って代わり得るものを心の中から一掃しなければならない。そうすれば、神を喜ばせることができる。ここで神は聖書についてのみ説明しているが、聖書以外にも人々が本気で崇拝している誤ったものが多数あることを忘れてはならない。人々が崇拝しないのは、真に神から来るものだけである。神は聖書を単に例として用いることで、人々が誤った道を歩まないよう、また神を信じてその言葉を受け入れながら、再び極端に走って混乱に陥ることがないよう、彼らに念押ししているにすぎない。

『神の出現と働き』「諸教会を歩くキリストの言葉、序論」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 280

わたしは人のあいだで多くの働きをしてきたが、その間、多くの言葉も発した。これらの言葉は人の救いのためであり、人がわたしと相容れるようにと発したものである。しかし、わたしと相容れる者を、地上でほんの数名しか得ていない。だからわたしは、人はわたしの言葉を重んじないと言う。それは、人がわたしと相容れないからである。このように、わたしの行う働きは、単に人がわたしを崇めるようにするためだけではなく、さらに重要なこととして、人がわたしと相容れられるようにするのが目的である。人は堕落させられ、サタンの罠の中で生きている。誰もが肉に生き、利己的な欲求の中で生きていて、わたしと相容れる者は彼らの中に一人もいない。わたしと相容れると言う者もいるが、このような人はみな漠然とした偶像を崇めている。彼らはわたしの名を聖いものとして認めているが、わたしに反する道を歩んでおり、彼らの言葉は傲慢とうぬぼれに満ちている。みな心の底でわたしに敵対しており、わたしと相容れないからである。毎日、彼らは聖書にわたしの痕跡を探し、適当に「都合の良い」節を見つけては、いつまでも読み続け、それを聖句として唱える。彼らはわたしと相容れる方法を知らず、わたしに敵対することが何を意味するかも知らない。闇雲に聖句を読むだけなのだ。彼らは聖書の中に、見たことがなく、見ることもできない漠然とした神を閉じ込め、暇なときに取り出して眺めている。彼らはわたしの存在を聖書の範囲内でしか信じず、わたしと聖書を同一視している。聖書がなければ、わたしはいない。わたしがいなければ、聖書はない。彼らはわたしの存在や業を無視し、その代わりに聖書の一字一句に極端な特別の注意を払う。また、さらに多くの人が、聖書で預言されていない限り、わたしは自分のしたいことを何もしてはいけないとさえ信じている。このような人は聖書の文章を重視し過ぎているのだ。彼らは言葉と表現を大事にするあまり、聖書の語句を用いてわたしの発する一言一句を評価したり、わたしを批判したりするほどだ、と言える。彼らが求めているのは、わたしと相容れる道ではなく、また、真理と相容れる道でもなく、聖書の語句と相容れる道なのだ。また、聖書に合致しないものは例外なく、わたしの働きではないと信じている。そうした人々はパリサイ人の忠実な子孫なのではないか。ユダヤのパリサイ人は、モーセの律法を用いてイエスを罪に定めた。彼らは当時のイエスと相容れることを求めず、律法の字句に忠実に従うあまり、イエスが旧約の律法に従っておらず、またメシヤでもないと断罪して、最後は無実のイエスを十字架にかけたのである。彼らの本質は何だったのか。真理と相容れる道を求めていなかったのではないか。彼らは聖書の一字一句にこだわり、わたしの旨に注意を払わず、わたしの働きの手順や方法にも無関心だった。真理を求める人たちではなく、あくまで字句に固執する人たちだった。彼らは神ではなく、聖書を信じていた。つまるところ、彼らは聖書の番犬なのである。聖書の権益を守るため、聖書の尊厳を維持するため、そして聖書の評判を保護するため、彼らは慈悲深いイエスを十字架にかけさえした。単に聖書を守るため、そして人々の心における聖書の一字一句の地位を維持するために、そうしたのだ。だから、彼らは自分の前途と罪の捧げ物を捨て、聖書の教義に合致しないイエスを断罪して死に処したのである。彼らはみな、聖書の一字一句に隷属していたのではないか。

では、今日の人々はどうか。キリストは真理を解き放つために来た。しかし、人々は天に入って恵みを受け取れるよう、そのキリストをこの世から追い出すほうを選ぶ。彼らは聖書の権益を守るために真理の到来を完全に否定し、また聖書の永続を確実にするため、再び受肉したキリストをまたも十字架にかけるほどである。心がかくも悪意に満ち、本性がかくもわたしを敵視している人間が、どうしてわたしの救いを受けられようか。わたしは人のあいだで暮らしているが、人はわたしの存在を知らない。わたしが人に光を照らしても、人はわたしの存在を知らずにいる。わたしが怒りを人の上に放っても、人はますます強くわたしの存在を否定する。人は字句と相容れること、聖書と相容れることは求めるが、真理と相容れる道を求めてわたしの前に来る者はただの一人もいない。人は天のわたしを見上げ、天のわたしに特別な関心を向けているが、肉におけるわたしに気を配る者は誰一人いない。人のあいだで生きるわたしがあまりに平凡だからである。聖書の字句と相容れることしか求めない者、漠然とした神と相容れることしか求めない者は、わたしの目には哀れに映る。それは、彼らの崇めているのが死んだ字句と、計り知れない宝を与えられる神だからである。彼らが崇めているのは、人の思いのままになる神、存在しない神である。では、そうした者はわたしから何を得られるのか。人はただ言いようもなく低劣である。わたしに敵対する者、わたしに限りない要求をする者、真理を愛さない者、わたしに反抗心を抱く者――そのような者たちがどうしてわたしと相容れることができるのか。

わたしに敵対する者たちは、わたしと相容れない人であり、真理を愛さない者たちも同じである。また、わたしに反抗する者たちは、いっそうわたしに敵対し、わたしと相容れることができない。わたしと相容れないすべての者たちを、わたしは悪しき者の手に引き渡す。そうした人々を悪しき者による堕落に委ね、彼らの有害さを自由に暴かせ、最後は悪しき者に手渡し、食い尽くされるに任せる。どれだけ多くの人がわたしを崇めるかなど、わたしは気にしない。つまり、どれだけ多くの人がわたしを信じているかなど、わたしは気にしないのだ。わたしが問題にするのは、どれだけ多くの人がわたしと相容れるかである。それは、わたしと相容れない人はみな、わたしを裏切る悪しき者だからだ。彼らはわたしの敵であり、わたしは自分の敵を家で「祀り」はしない。わたしと相容れる者たちは、永遠にわたしの家でわたしに仕える。そして、わたしに敵対する者たちは、永遠にわたしの懲罰を受けて苦しむ。聖書の字句しか大事にしない者、真理に関心がなく、わたしの足跡を求めることもしない者――そうした者たちはわたしに敵対する。なぜなら、聖書に従ってわたしを限定し、聖書の中にわたしを閉じ込め、わたしに対してこの上ない冒瀆を働くからである。そうした者たちがどうしてわたしの前に出られようか。その人たちはわたしの業、わたしの旨、そして真理に注意を払わず、文字――殺す文字――に執着している。そのような者たちが、どうしてわたしと相容れることができようか。

『神の出現と働き』「あなたはキリストと相容れる道を探さなければならない」(『言葉』第1巻)

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