いのちへの入り(3)

日々の神の御言葉 抜粋 444

人は霊に関する細かなことをどう理解するようになるのか。聖霊はどのように人間の中で働くのか。サタンはどのように人間の中で働くのか。悪霊はどのように人間の中で働くのか。その表われはどういったものか。何かがあなたに起こるとき、それは聖霊に由来するものなのか。あなたはそれに従うべきか、あるいは拒否すべきか。人々の実際の行ないにおいては、多くのことが人間の意志から生じるが、人々は決まってそれが聖霊に由来すると信じている。悪霊に由来する物事があっても、人々はやはりそれが聖霊から来たものだと考える。時に聖霊は人々を内側から導くが、人々はそういった導きがサタンに由来するものだと恐れ、実はその導きが聖霊の啓きであるにもかかわらず、あえて従おうとしない。よって、識別をしない限り、実際の経験においてそれを経験することはできない。そして識別しなければ、いのちを得ることはできない。聖霊はどのようにして働きを行なうのか。悪霊はどのようにして働きを行なうのか。人の意志に由来するものは何か。聖霊の導きと啓きから生まれるものは何か。聖霊が人の中で行なう働きのパターンを把握すれば、あなたは日々の生活の中で、そして実際の経験のさなかに知識を育み、識別することができるようになる。あなたは神を知るようになり、サタンを理解して識別できるようになり、服従したり追求したりする際に混乱せず、思考がはっきりとした、聖霊の働きに従う者となるだろう。

聖霊の働きは積極的な導きと肯定的な啓きの一種である。それは人々が受け身でいることを許さず、彼らに慰めをもたらし、信仰と決意を与え、彼らが神によって完全にされることを追求できるようにする。聖霊が働きを行なえば、人々は積極的に入ることができる。受け身でもなく、強制されることもなく、自分が主導権を握って行動するのである。聖霊が働きを行なうとき、人々は進んで従い、喜んで謙虚になる。内なる痛みや脆さがあっても、協力しようと決意し、喜んで苦しみ、従うことができる。そして人間の意志や人の考えによって汚されておらず、人間的な欲望や動機に汚されていないのは間違いない。人々が聖霊の働きを経験するとき、彼らの内面は特に聖い。聖霊の働きを有する人たちは神への愛、兄弟姉妹への愛を生きており、神を喜ばせることを喜びとし、神の嫌うことを嫌う。聖霊の働きに触れた人は正常な人間性をもち、常に真理を追い求め、人間性を自分のものにしている。聖霊が人々の中で働くとき、彼らの状態はますますよくなり、その人間性はより正常になる。そしてこうした人たちによる協力の中には愚かなものもあるかもしれないが、彼らの動機は正しいものであり、彼らの入りは肯定的で、邪魔しようと試みたりせず、彼らの中に悪意は一切存在しない。聖霊の働きは正常かつ現実的であり、聖霊は人の通常生活の規則にしたがってその人の中で働きを行ない、正常な人々の実際の追求に応じて彼らを啓き、そして導く。聖霊は人の中で働きを行なうとき、正常な人々の必要に応じて彼らを導き、そして啓く。聖霊は人々の必要に応じて彼らに糧を施し、彼らに欠けているものに応じて、また彼らの欠点に応じて肯定的に導いて啓く。聖霊の働きは人々を現実の生活において啓き、導くことである。実生活の中で神の言葉を経験して初めて、人は聖霊の働きを見ることができる。日常生活において前向きな状態であり、正常な霊的生活を送っていれば、その人には聖霊の働きがある。そうした状態の中では、神の言葉を飲み食いすると信仰を得、祈ると鼓舞され、何かに突き当たっても受け身にならず、何かが起きるとその中から、神が彼らに学ぶよう求めている教訓を理解できる。彼らは受け身でもなければ弱ってもおらず、たとえ現実の困難を抱えていても、神のすべての采配に自ら従おうとする。

聖霊の働きによって成し遂げられる効果とは何か。あなたは愚かかもしれないし、識別力がないかもしれないが、聖霊が働きを行なえば、あなたの中に信仰が生まれ、どれほど神を愛しても愛しきれないといつも感じるようになる。前途にどれほど大きな困難があろうと、あなたは進んで協力するようになる。自分に何かが起こり、それが神に由来することなのか、それともサタンに由来することなのかはっきりわからないことがあっても、あなたは待つことができ、受け身にも怠惰にもならない。これが聖霊の正常な働きである。聖霊があなたの中で働きを行なう際、あなたはそれでも現実の困難にぶつかり、時には涙し、時には乗り越えられない問題が生じることもあるが、これらはすべて聖霊による普通の働きの一段階に過ぎない。たとえあなたがそうした困難を乗り越えられなくても、またその際に弱くなって不満で一杯だったとしても、後になれば絶対的な信仰をもって神を愛することができた。あなたが受け身だとしても、そのせいで正常に経験できないということはあり得ず、他の人が何と言おうと、あるいはどう攻撃しようとも、あなたは神を愛することができる。祈りの中では常に、自分はかつて神に借りがあったと感じ、そうしたことに再び出会うたび、神を満足させて肉を捨てようと決意する。この力は、聖霊の働きがあなたの中にあることを示している。それが聖霊の働きの正常な状態なのである。

サタンに由来する働きとは何か。サタンに由来する働きの中で、人々の内なるビジョンは漠然としており、彼らは正常な人間性をもたず、彼らの行動の背後にある動機は間違っている。そして神を愛したいと願いはしても、心の中で絶えず咎められ、そうした咎めや思いが自分の中で常に干渉し、いのちの成長を制約するとともに、正常な状態で神の前に出られないようにする。つまり、人々の中にサタンの働きが存在するやいなや、その人の心は神の前で安らげないのである。そのような人は自分でもどうしたら良いかわからず、人々が集まっているのを見ると逃げたくなり、他の人が祈るときに目を閉じることができない。悪霊の働きは人と神との正常な関係を壊し、人々がそれまでもっていたビジョンや、以前のいのちの入りへの道を混乱させる。心の中で神に近くことが決してできず、妨害を引き起こし、足かせとなるようなことがいつも起こる。心は安らぎを見つけられず、神を愛する力が残らずなくなり、霊が沈んでいく。これらがサタンの働きの表われである。サタンの働きの表われは次のようなことである。堅く立って証しをすることができず、それがあなたを神の前で落ち度がある者、神への忠実さをまったくもたない者とさせる。サタンが干渉するとき、あなたは自分の中にある神への愛と忠実さを失い、神との正常な関係を奪われ、真理や自分を改善することを追い求めず、後戻りして受け身になり、自分を甘やかし、罪が広がるままにし、罪を憎まなくなる。さらに、サタンからの干渉はあなたをふしだらにし、神があなたの中で触れたものは消えてしまう。そしてあなたは、神への不満を漏らして神に反抗し、神を疑うようになる。さらに、あなたが神を捨てる危険すらある。そのすべてがサタンに由来するのである。

『言葉は肉において現れる』の「聖霊の働きとサタンの働き」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 445

日常生活で自分に何かが起きる際、それが聖霊の働きに由来するものなのか、サタンの働きに由来するものなのか、どのように識別すべきだろうか。状態が正常であれば、その人の霊的生活と肉における生活は正常であり、理知も正常で秩序がある。このような状態にあるとき、彼らが経験し、自分の中で知るようになる物事は、一般的には、聖霊に触れられたことに由来するものだと言える(神の言葉を飲み食いする際に洞察力があったり、多少の単純な認識を有していたりすること、あるいは何らかの物事において忠実であること、そして神を愛する力があることは、いずれも聖霊に由来するものである)。聖霊が人の中で行なう働きは特に正常である。人はそれを感じられないし、実際には聖霊の働きであるにもかかわらず、人自身から生じたもののように思われる。日常生活において、聖霊はすべての人の中で大小いずれの働きも行なうが、異なっているのはその働きの程度だけである。中には優れた素質をもつ人がおり、そのような人は物事を素早く理解し、聖霊による啓きは彼らの中で特に大きい。その一方で素質に乏しい人もおり、物事を理解するのにより時間がかかるものの、聖霊は彼らの内側にも触れ、彼らもまた神への忠実を遂げることができる。聖霊は神を追い求めるすべての人の中で働きを行なうのである。日常生活において人々が神に反対したり、反抗したりすることがなく、神の経営に反することを行なわず、神の働きに干渉しなければ、神の霊が一人ひとりの中で大なり小なり働きを行なう。神の霊は彼らに触れ、彼らを啓き、信仰と力を与え、彼らを感動させて積極的に入るようにし、怠惰になったり肉の楽しみをむさぼったりしないようにする。そして彼らが進んで真理を実践し、神の言葉を切望するようにさせる。そのすべてが聖霊に由来する働きである。

状態が正常でないとき、その人は聖霊に見捨てられ、心の中に不満を抱きがちで、動機は間違っており、怠惰で、肉の欲にふけり、心は真理に敵対する。そのすべてがサタンに由来している。状態が正常でなく、内面が闇で覆われ、正常な理知を失い、聖霊に見捨てられ、自分の中に神を感じられないとき、それはその人の中でサタンが働きを行なっているときである。一般的に言えば、内面に絶えず力があり、常に神を愛するなら、何かが起きたとき、その出来事は聖霊に由来しており、またその人が誰に会おうと、その出会いは神の采配の結果である。つまり、あなたが正常な状態にあるとき、また聖霊の偉大な働きの中にいるとき、サタンがあなたを揺るがすことは不可能なのである。それを基に、すべてのものは聖霊に由来しており、たとえ誤った考えをもっていても、あなたはそれを捨てることができ、それに従うことはないと言える。これはすべて聖霊の働きに由来している。どのような状況においてサタンは干渉するのか。あなたの状態が正常でなく、神に触れられておらず、自分に神の働きがなく、内面が乾いて荒れ果て、神に祈っても何も掴めず、神の言葉を飲み食いしても啓きや照らしを得られないとき、サタンがあなたの中で働きを行なうのは簡単である。言い換えれば、あなたが聖霊に見捨てられて神を感じられないとき、サタンの試みに由来する物事が数多く起きるのである。聖霊が働きを行なう間、サタンもずっと働いている。聖霊が人の内側に触れると同時に、サタンは人に干渉する。しかし、聖霊の働きが主導権を握り、正常な状態の人々は勝利することができる。これはサタンの働きに対する聖霊の働きの勝利である。聖霊が働きを行なう間、人々の中には依然として堕落した性質が存在する。しかし聖霊による働きのさなか、人々が自分の反抗心、動機、不純を見つけて認識するのは簡単である。そのとき初めて、人々は後悔を感じてますます悔い改めようと思う。このようにして、彼らの反抗的で堕落した性質は、神の働きの中で徐々に一掃される。聖霊の働きは特に普通のものであり、聖霊が人々の中で働きを行なっているときも、彼らは依然として問題を抱え、涙を流し、苦しみ、弱り、はっきり理解できないことが数多くあるのだが、それでもこの状態にあるとき、彼らは自分が後退するのを押しとどめ、神を愛することができる。そして涙を流したり、苦悩に苛まれたりしてもなお、神を賛美することができる。聖霊の働きは特に普通であり、超自然的なことは一切ない。大半の人は、聖霊が働きを始めるやいなや、人の状態に変化が生じ、その人の本質的なものが取り除かれると信じている。そうした考え方は誤りである。聖霊が人の中で働きを行なうとき、人に関する受動的な物事が依然として存在し、その人の霊的背丈は変わっていないのだが、聖霊の照らしと啓きを得るので、その人はより前向きになり、内なる状態は正常で、その人は急速に変化する。人は現実の経験の中で、おもに聖霊かサタンいずれかの働きを経験する。そしてこの二つの状態を把握できず、その違いを識別できないなら、現実の経験へと入ることなど問題外であり、性質の変化が不可能なのは言うまでもない。よって、神の働きを経験する上で鍵となるのは、そうした物事を見抜けるようになることであり、そのようにして、それを実際に経験することが容易になる。

『言葉は肉において現れる』の「聖霊の働きとサタンの働き」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 446

聖霊の働きは積極的な進歩だが、一方でサタンの働きは後退、消極、反逆、神への反抗、神に対する信仰の喪失、そして賛美歌を歌うことさえ望まず、本分を尽くせなくなるほど弱ることである。聖霊の啓きから生じるものはどれも極めて自然であり、あなたに強制されるものではない。それに従えば安息を得るし、従わなければ後に非難される。聖霊の啓きがあれば、あなたが行なう一切のことは干渉や拘束を受けず、あなたは自由にされ、行動における実践の道があり、何の制約も受けることなく、神の旨にそって行動できるようになる。サタンの働きは多くの事柄においてあなたに干渉し、あなたが祈りたくないようにさせ、神の言葉を飲み食いできないほど怠惰にさせるとともに、教会生活を送る気をなくさせ、あなたを霊的生活から引き離す。聖霊の働きはあなたの日常生活に干渉せず、正常な霊的生活にも干渉しない。多くの事柄について、あなたはそれが生じたまさにその瞬間には識別することができないものの、数日後には心がより明るく、頭脳がより鮮明になる。霊的な物事に関する感覚を多少もつようになり、ある考えが神に由来するものか、あるいはサタンに由来するものかを徐々に識別する。物事の中には、あなたを明らかに神に反抗させ、背かせ、神の言葉を実践させないようにするものもあるが、そうしたことはどれもサタンに由来する。明白でなく、その瞬間にはそれが何であるかわからない物事もあるが、後になれば、それらの表われを見て識別力を働かせることができる。どれがサタンに由来するもので、どれが聖霊によって導かれているものかをはっきり識別できるようになったなら、あなたは自分の経験の中で簡単に惑わされないようになる。自分の状態が良くないときに、自分を受け身の状態から引き出すような思いをもつことがある。そのことは、あなたの状態が好ましくないときでさえ、あなたの思いの一部はやはり聖霊に由来することを示している。あなたが受け身になっているとき、すべての思いはサタンから来ているというのは当てはまらない。もしもそれが真実なら、いつあなたは積極的な状態に移れるのか。一定期間ずっと消極的でいると、聖霊は完全にされる機会をあなたに与え、あなたに触れ、消極的な状態からあなたを連れ出すのである。

聖霊の働きとは何か、サタンの働きとは何かを知ることで、あなたはこれらを、何かを経験している際の自分自身の状態と、また自分の経験と比べることができる。そのようにして、あなたの経験の中で、原則に関する真理がより多く生じる。原則に関するこれらの真理を理解したなら、あなたは自分の実際の状態を支配し、人々や出来事を識別することができ、聖霊の働きを獲得するためにそれほど大きな努力をしなくてもよくなる。もちろんそれは、あなたの動機が正しいかどうか、あなたに求めて実践する気があるかどうか次第である。このような言葉、すなわち原則に関わる言葉が、あなたの経験の中になければならない。それがなければ、あなたの経験はサタンの干渉と愚かな認識で満ちている。聖霊がどのように働きを行なうのか理解していなければ、どのように入るべきかも理解できないし、サタンがどのように働きを行なうのか理解していなければ、自分の一歩一歩にどう注意すれば良いのかも理解できない。聖霊はどのように働きを行なうのか、サタンはどのように働きを行なうのかについて、人々はその両方を理解すべきである。いずれも人々の経験において不可欠な部分なのだから。

『言葉は肉において現れる』の「聖霊の働きとサタンの働き」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 447

正常な人間性ということには、何が含まれているだろうか。識見、理知、良心、そして品格である。こうした側面それぞれについて正常性を実現出来るならば、あなたの人間性は基準に達している。あなたは正常な人間の姿を備え、神を信仰する者らしく行動すべきである。極めて高度な水準に達することや外交手腕を要求されているのではない。単に正常な人間の理知を備え、物事を洞察できる正常な人間であるべきであり、少なくとも正常な人間のように見えなければならない。それで十分であろう。現在あなたに要求されていること、全てあなたの能力の範囲内であり、これは、魚に木を登らせることでは決してない。あなたに対し無益な言葉が述べられることも、無益な働きが行われることもない。あなたの生活において現れる醜悪さを、全て捨て去る必要がある。あなたがたはサタンにより堕落させられて来たので、サタンに毒され過ぎている。あなたに求められているのは、そうした堕落したサタンのような性質を捨て去ることであり、高い地位を得ることでも、有名人や偉人になることでもない。それは役に立たない。あなたがたに行われる働きは、あなたがたが生来備えているものに即したものである。わたしが人々に要求することには、限度がある。現在の人々が全員、政府の官僚のように振る舞い、政府の官僚のような口調で語る練習をしたり、政府高官のような話し方をする訓練を受けたり、随筆家や小説家のような身振りや話し方の訓練を受けたりするように要求されたとしたら、それもまた失敗するであろう。おそらく実現不可能であろう。あなた方のような人々は、自分の素質にあわせて、少なくとも知恵を用い、機転を利かせて話をして、物事を明瞭に説明できるようにならなければならない。そうすれば、条件を満たすであろう。少なくとも、識見と理知を身に付ける必要がある。現在の主要事項は、堕落したサタンのような性質を捨て去ることである。あなたは、自分達が表す醜悪さを捨て去る必要がある。未だにそうしたものを捨て去っていないのであれば、どうして至高の理知や識見に触れられるであろうか。多くの人々が時代が変わったことを知っているので、慎ましさや忍耐を実践しない。愛や聖人のような品位を備えていないこともありえる。なんと馬鹿げた人々であろうか。彼らには正常な人間性がほんの少しでもあるであろうか。語るべき証があるだろうか。彼らには識見や理知が一切ない。無論、人々の実践のうち逸脱していたり誤っている側面は修正する必要がある。過去における人々の柔軟性のない霊的生活や、感覚麻痺や愚かさの様相、このようなものは全て変わらなくてはならない。変えるということは、あなたを自堕落にさせたり、肉に耽溺させるということでも、言いたいことを言うことでもない。不注意な発言をしてはならない。正常な人間のように行動するということは、筋の通った話をするということである。然りは然り、否は否とだけ言いなさい。事実に忠実に、適切な話しかたをすること。ずるをしたり、嘘をついてはならない。性質の変化に関し、どのような限界に普通の人が到達しうるかを知っておく必要がある。これが不明ならば、あなたは現実に入っていくことはできないであろう。

『言葉は肉において現れる』の「素質の向上は、神の救いを授かるためである」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 448

人間が本分を尽くすということは、実際のところ、人間に本来備わっているもの、即ち、人間に可能なことをすべて成し遂げることである。そうすると、人間の本分は尽くされる。奉仕する最中の人間の欠点は、徐々に経験を積むことと裁きを体験する過程を通して少しずつ減少する。それらは人間の本分を妨げることも影響することもない。奉仕の中にあるかもしれない欠点を恐れて、奉仕をやめたり妥協したり退いたりする者たちは、すべての人々の中で最も臆病である。もし人間が奉仕する中で表明すべきことを表明できず、人間として本来可能なことを成し遂げず、その代わりにのらくらし、形だけ奉仕しているふりをするならば、その人は被造物が本来備えているはずの役割を失ったのである。こうした人間は凡庸なくだらない者で、無用の長物であるとみなされる。どうしてこんな者が被造物という呼び名に値するのか。彼らは、外見は立派でも中身は腐った堕落した存在ではないのか。人間が自分を神と称しながらも、神性を示し、神自身の働きをし、あるいは神を表すことができないなら、それは間違いなく神ではない。というのは、その人には神の本質がなく、神が本来成し遂げ得ることがその人の内にはないからである。もし人間が人間として本来達成可能なことを失うなら、その人はもはや人間とはみなされない。その人は被造物として存在し、神の前に来て神に仕える資格はない。さらに、そんな者は神の恵みを受け、神に見守られ、保護され、神によって完全にされる資格はない。神の信頼を失った多くの者は、いずれ神の恵みを失う。そうした人々は、自分たちの悪行を恥じないどころか、ずうずうしくも神の道が間違っているという考えを言い広める。そして、そのような反抗的な者たちは、神の存在を否定さえする。どうしてそのような反抗的な人間が神の恵みを享受する特権をもてようか。自分の本分を果たすことのできなかった人間は、神に対して極めて反抗的で、多くを神に負っている。それにもかかわらず、彼らは反対に、神が間違っていると激しく非難する。そうした人間がどうして完全にされるに値するのか。これは、神に取り除かれ、罰される先触れではないのか。神の前で自らの本分を果たさない者は、すでに最も憎むべき罪を犯している。その罪に対しては、死さえも充分な罰ではない。しかし、人間はずうずうしくも神に反論し、自らを神に比べる。そんな人間を完全にする値打ちがどこにあるだろうか。もし人間が自分の本分を果たさないなら、その人間は罪悪感と負い目を感じるべきである。自らの弱さ、無用さ、反抗心、堕落を恥じ、神のために自らの命と血を犠牲にするべきである。そうしてはじめて、人間は真に神を愛する被造物となり、そうした人間だけが神の祝福と約束を享受し、神によって完全にされる資格がある。では、あなたがたの大多数はどうであろうか。あなたがたの間で生きている神を、どう扱っているのか。神の前でどのように本分を尽くしてきたのか。あなたがたは、するように命じられたすべてのことを、命がけでさえ為し遂げたことがあるのか。あなたがたは何を犠牲にしたのか。わたしから多くを受けているのではないのか。あなたがたは区別ができるのか。あなたがたは、どれほどわたしに忠実なのか。あなたがたは、どのようにわたしに仕えてきたのか。また、わたしがあなたがたに授け、あなたがたのためにしたあらゆることは、どうなのか。あなたがたは、その大きさを測ったことがあるのか。それを、あなたがたは皆、ささやかながら内にもつ良心のすべてに照らして判断したのか。あなたがたの言動はいったい誰に相応しいのか。そんなにもちっぽけなあなたがたの犠牲が、わたしがあなたがたに授けたものすべてに相応しいとでもいうのか。わたしはそうするしかないので、心からあなたがたに献身してきたが、あなたがたは邪悪な意図をもち、わたしに対していい加減な気持ちでいる。あなたがたの本分はこの程度で、それがあなたがたの唯一の役割である。そうではないのか。あなたがたは自分が被造物としての本分を全く果たしていないことが分からないのか。どうしてあなたがたが被造物とみなされることができるのか。あなたがたは、自分たちがいったい何を表明し、何を生かし出しているのかが、はっきりわかっていないのか。あなたがたは自分の本分を果たすことを怠ったにもかかわらず、神の憐れみと豊かな恵みを得ることを求めている。このような恵みはあなたがたのように無価値で卑劣な者たちのためではなく、何も求めず喜んで自らを犠牲にする人々のために用意されている。あなたがたのような人々、これほどに凡庸で取るに足りない人々は、天の恵みを享受するにまったく値しない。苦難と絶え間ない罰だけがあなたがたの生涯につきまとうだろう。わたしに忠実であることができないのなら、あなたがたの運命は苦しみに満ちたものになる。わたしの言葉とわたしの働きに対して責任を持てないなら、あなたがたの分け前は罰だけである。どんな恵みも祝福も、神の国でのすばらしい生活も、あなたがたには無縁である。これがあなたがたに相応しい結末であり、それは自ら招いた結果である。

『言葉は肉において現れる』の「受肉した神の職分と人間の本分の違い」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 449

そうした愚かで傲慢な人々は最善を尽くしもせず、自分の本分を果たしもせず、そのかわりにただ恵みを求めて手を差し出し、それはまるで、自分たちにはそれを求める資格があるかのようである。そして、もし求めるものが得られなければ、さらに不信仰になる。どうしてこんな者たちが理性的だとみなされようか。あなたがたは能力に乏しく、理知に欠け、経営の働きの間に成し遂げるべき本分を果たすことがまったくできない。あなたがたの価値はすでに大幅に降下している。わたしの示したあれだけの好意への返礼をあなたがたが欠いていることは、すでに極度の反抗の行為であり、あなたがたを罪に定め、あなたがたの臆病さ、無能さ、卑しさ、無価値さを実証するに充分である。どうしてあなたがたに、まだ手を差し出し続ける資格があるのか。あなたがたがわたしの働きのほんの僅かな助けにもなることができず、誠実であることも、わたしのために証しすることもできないということが、あなたがたの悪行と欠点であるが、あなたがたは、かえってわたしを攻撃し、わたしについて偽りを語り、わたしが不義だと不平を言う。これが、あなたがたの忠実というものか。これが、あなたがたの愛というものか。これ以外に、どんな働きができるのか。すでに行われたすべての働きに、あなたがたはいかに貢献したのか。どれほどの労力を費やしたのか。わたしはあなたがたを非難しないことで、すでに大きな寛容を示した。しかしあなたがたは依然として、恥知らずにもわたしに言い訳をして、人のいないところでわたしについて不満を言っている。あなたがたにはほんのわずかな人間性もないのか。人間の本分は人間の頭脳とその観念に汚染されているが、あなたがたは本分を尽くして忠誠を示さなければならない。人間の働きの中にある不純物は、その人間の素質の問題だが、もし人間が本分を尽くさないと、反抗心を現す。人の本分とその人が祝福を受けるか厄災に見舞われるかの間には、何の相互関係もない。本分は人間が全うすべきことで、それは人間が果たすべき必須の使命であって、報酬や条件、理由に左右されるべきではない。そうしてはじめて、本分を尽くしているといえる。祝福された人は裁きの後で完全にされた時に、幸いを享受する。厄災に見舞われた者は、刑罰と裁きの後もその性質が変わらないのなら、即ち完全にされていないなら、罰を受ける。被造物として、祝福されるか厄災に見舞われるかに関わらず、人間はその本分を果たし、自分のするべきことをし、できることをしなければいけない。これが神を求める者として、人間の最も基本的な条件である。あなたは幸いを受けるためだけに本分を果たそうとしてはいけない。また、厄災に見舞われることへの恐れから、行動することを拒んではいけない。一つだけ言っておこう。人間が自分の本分を尽くすことができるということは、その人がしなければいけないことを遂行するということである。もし人間が本分を尽くせないのなら、それは人間の反抗心の現れである。人間が徐々に変えられるのは、いつも人が自分の本分を尽くす過程を通してである。また、その過程で、その人は自らの忠実を実証する。だから、本分を尽くすことができればできるほど、あなたはより多くの真理を受け、あなたの表現はもっと実際的なものになる。ただ形の上だけで本分を尽くしているふりをして、真理を求めない者は、最後には淘汰される。何故ならそのような者たちは真理の実践において自分の本分を果たさず、その本分を果たすことにおいて真理を実行しないからである。そうした人は変わらない人で、厄災に見舞われる。彼らの表すものは不純であるだけでなく、邪悪なものばかりである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉した神の職分と人間の本分の違い」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 450

神の働きについての認識がないと、神とどのように協力すればよいかがわからない。神の働きの原則を知らず、サタンがどのように人の中で働くのか気づいていないと、実践の道を得ることはできない。ただ熱心に追い求めるだけでは、神が要求する結果を達成することはできない。そのような経験の仕方は、ラウレンシオのやり方に似ている。つまり、サタンの働きとは何なのか、聖霊の働きとは何なのか、神の臨在がないと人間の状態はどうなるのか、神はどのような人々を完全にしたいのか等のことを一切認識せず、物事を識別することなく、ただ経験だけに焦点を合わせるやり方である。そうした人は、どのような原則に従ってさまざまな人々に対応するべきか、神の現在の旨をどのように把握するべきか、神の性質をどのように知るべきか、そして神の憐れみと威厳と義はどの人々、状況、時代に向けられるのか、といった物事を一切識別しない。さまざまなビジョンを経験の基盤としなければ、いのちなど問題外となってしまい、経験はなおさらで、ただ愚かにもすべてに従い、すべてに耐え続けるだけになる。そのような人々を完全にするのは極めて困難である。上述したようなビジョンを一切持っていないなら、それはあなたが愚か者であり、イスラエルに立ち続ける塩の柱に似ていることの十分な証拠だと言える。そのような人々は、使い物にならないまったくの役立たず。また一部の人々は、いつもただ盲目的に従い、常に自己を認識しており、新しい物事に対処するときは必ず自分のやり方を貫くか、話す価値もないような些細な事柄に「知恵」を用いて対処する。そのような人々には判断力がなく、彼らはただ辛く当たられることに甘んじて常に変わらずにいるのが本性であるかのように、決して変化することがない。そのような人々は、わずかな判断力もない愚か者である。彼らは決して状況やさまざまな人々に合わせた対策を講じようとしない。そのような人々には経験がない。中には自分自身の認識に捕われすぎていて、悪霊の働きにとりつかれた者に直面しても、頭を垂れて罪を告白し、あえて立ち上がって糾弾しようとしない人々もいる。そして彼らは明らかな聖霊の働きに直面しても、あえて従おうとしない。そのような人々は悪霊も神の手中にあると信じており、立ち上がって抵抗するような勇気は一切持ち合わせていないのだ。そのような人たちは神を辱める者であり、神のために重荷を負うことなどまったくできない。そのような愚か者たちは何一つ識別しない。すなわちそのような経験の仕方は捨て去らねばならない。神の目から見て擁護できないものだからだ。

『言葉は肉において現れる』の「経験について」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 451

現在の流れにおいては、神を真に愛するすべての人に、神によって完全にされる機会がある。若かろうと年老いていようと、心の中で神への従順を抱き、神を畏れる限り、そのような人は神によって完全にされることが可能である。神は人の様々な役割に応じてその人たちを完全にする。自分の全力を振るい、神の働きに服従する限り、あなたは神によって完全にされることが可能である。今のところ、あなたがたは誰一人として完全になっていない。時には一種類の役割を果たすことができ、また別の時には二種類の役割を果たすことができる。ただ全力を尽くして神のために自分を費やす限り、最後には神によって完全にされる。

若者たちには処世哲学がほとんどなく、知恵や見識も欠如している。神は人間の知恵と見識を完全なものとするために来る。神の言葉は彼らに欠けているものを補う。しかしながら、若者たちの性質は不安定であり、神によって変えられなければならない。若者たちの宗教的観念や処世哲学は比較的少ない。彼らは何事も単純に考え、その内省は複雑なものではない。それは彼らの人間性のうち、まだ形を成していない部分であって、褒められるべき部分である。しかし、若者たちは無知で知恵に欠けている。それは神によって完全にされる必要があるものである。神によって完全にされることで、あなたがたは識別力を発達させることができる。多くの霊的なことをはっきり理解できるようになり、神に用いられるのに相応しい者へと徐々に変化してゆく。年配の兄弟姉妹にも果たすべき役割があり、彼らは神から見捨てられていない。年配の兄弟姉妹にも、望ましい側面と、望ましくない側面の両方がある。彼らはより多くの処世哲学と宗教的観念をもっている。行動する中で数多くの厳格な慣習に従っており、また規則を好み、融通を利かせず機械的に適用する。これは望ましくない側面である。しかしながら、こうした年配の兄弟姉妹たちは、何があっても冷静さを失わず、動じることもない。彼らの性質は安定しており、激しい気性がないのである。物事を受け入れるのが遅いかもしれないが、それは大きな欠点ではない。服従すること、神の現在の言葉に従うことができ、神の言葉を詮索しない限り、また服従して付き従うことにのみ気をつけ、神の言葉について判断を下したり、それらに関してその他の悪しき考えを抱かない限り、そして神の言葉を受け入れて実践する限り、あなたがたはこれらの条件を満たすことで、完全にされることが可能となる。

老若男女を問わず、兄弟姉妹はみな自分が果たすべき役割を心得ている。若年の者たちは傲慢でなく、年配の者たちは受動的になることも、退行することもない。そのうえ、彼らは互いの長所を使ってそれぞれの短所を補い、何の偏見もなく互いに仕えることができる。若い兄弟姉妹と年配の兄弟姉妹との間に友情の架け橋が築かれ、また神の愛のおかげで、あなたがたは互いをより良く理解することができる。若い兄弟姉妹が年配の兄弟姉妹を見下すことはなく、年配の兄弟姉妹は独善的でない。これは、調和に満ちた相互関係ではないだろうか。このような決意があなたがた全員にあれば、神の旨はあなたがたの世代において必ず達成される。

『言葉は肉において現れる』の「一人ひとりが自らの役割を果たすことについて」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 452

あなたが将来祝福されるか呪われるかは、今日におけるあなたの行動と振る舞いを基に決められる。あなたがたが神によって完全にされるのであれば、それはまさに今、この時代に違いない。将来別の機会が訪れることはないだろう。今、神はあなたがたを完全にしたいと真に望んでいる。そして、これは話だけのことではない。将来あなたがたにどのような試練が降りかかろうとも、何が起きようとも、あるいはどのような災害に見舞われようとも、神はあなたがたを完全にすることを願っている。これは議論の余地がない確かな事実である。どこでそれがわかるのか。それは、各時代や各世代を通じ、神の言葉が今日ほどの高みに登ったことがないという事実からわかる。それは最も高い領域に達し、今日の全人類に対する聖霊の働きは前例のないものである。過去の世代の人のうち、このようなことを経験した者はほとんどいない。イエスの時代にさえも、今日の啓示は存在しなかった。あなたがたに語られた言葉、あなたがたが理解していること、そしてあなたがたの経験はどれも新たな頂点に達したのである。試練と刑罰の中、あなたがた人々は立ち去らないが、それだけでも神の働きが前例のない輝きを得た証拠として十分である。それは人間に行なえることでも、人間が維持していることでもない。むしろ、それは神自身の働きなのである。したがって、神による働きの現実の多くから、神が人間を完全にしたいと望んでいること、そして必ずやあなたがたを完全にできることがわかる。あなたがたがこの識見をもち、この新たな発見をするなら、イエスの第二の到来を待つことはないだろう。その代わり、神が現在の時代においてあなたがたを完全にさせられるようにするはずだ。したがって、あなたがた一人ひとりが全力を尽くし、努力を惜しまず、そうすることで神によって完全にされるようにしなければならないのである。

今、否定的なことに気を取られてはならない。まずは、自分を否定的に感じさせるものをすべて脇にのけ、無視しなければならない。物事に対処する際は、探し求めて模索する心、神に従う心をもってそうしなさい。自分の中に弱さを発見するたび、それに操られることなく、自分が果たすべき役割を果たすのであれば、あなたはすでに好ましい進歩を遂げている。たとえば、年配の兄弟姉妹には宗教的観念があるものの、あなたは祈りを捧げ、服従し、神の言葉を飲み食いし、讃美歌を歌うことができる……。つまり、自分にできることが何であれ、自分に果たせる役割が何であれ、全力をを振り絞って自分自身を捧げるべきである。受身になって待っていてはならない。本分を尽くす中で神を満足させられることが第一歩である。そうして、ひとたび真理を得て、神の言葉の現実に入ることができたなら、あなたは神によって完全にされたことになる。

『言葉は肉において現れる』の「一人ひとりが自らの役割を果たすことについて」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 453

決心すれば誰でも神に仕えることはできるが、神の心にあらん限りの注意を払い、神の心を理解する人々でなければ神に仕える資格や権利はない。わたしは、あなたがたの間で発見したことがある。多くの人は、神のために熱心に福音を広め、神のために各地を巡回し、自らを神のために費やし、神のために物事を諦めるなどしていれば、それが神に仕えることだと信じている。より多くの宗教的な人々は、神に仕えることは、聖書を抱えて走り回り、天の国の福音を広め、罪を悔い改め告白させることによって人々を救うことを意味すると信じている。また、神に仕えることは、高度な学問を修め神学校で訓練を受けた後に礼拝堂で説教し、聖書を読んで人々に教えることだと考えている宗教官僚が大勢いる。さらに、貧しい地域には、神に仕えるということは兄弟姉妹のもとで病人を癒したり、悪霊を追い払ったり、あるいは兄弟姉妹のために祈り仕えることだと信じている人々もいる。あなたがたの中には、神に仕えることは、神の言葉を飲み食いし、毎日神に祈り、また各地の教会を訪れ働きを為すことだと信じている人がたくさんいる。また、神に仕えるということは結婚することも家族をもつこともなく、自分の存在すべてをひたすら神に捧げることだと信じている兄弟姉妹もいる。しかし、神に仕えることが実際何を意味するのかを知っている人はほとんどいない。神に仕える人は空にある星の数ほど多いが、神に直接仕えることができる人の数、神の旨に沿って仕えることができる人の数は微々たるもので、極めて少ない。なぜわたしはこう言うのか。わたしがこんなことを言うのは、あなたがたが「神への奉仕」という言葉の本質を理解していないからであり、神の心にかなうように仕えるにはどうすればよいのか、ほとんどわかっていないからである。人々は一刻も早く、神に対するどのような奉仕が神の旨にかなうのかを理解しなければならない。

あなたがたが神の心にかなうように仕えたいと望むならば、どのような人が神を喜ばせ、どのような人が神に忌み嫌われるのか、どのような人が神によって完全にされ、どのような人に神に仕える資格があるのかをまず理解しなければならない。これはあなたがたが身に着けておかなければならない最小限の認識である。その上、あなたがたは神の働きの目的と、神が今ここで行う働きを知るべきである。これを理解した後、神の言葉の導きを通して、あなたがたはまず入り、まず神の任務を受けるべきである。あなたがたが神の言葉を実際に経験し、本当に神の働きを知れば、あなたがたには神に仕える資格がある。そして、あなたがたが神に仕える時、神はあなたがたの霊の目を開き、あなたがたが神の働きをより深く理解しいっそう明確に見ることができるようにする。この現実に入ると、あなたがたの経験はより深く、現実的になる。そのような経験をした人は皆、諸教会を巡り歩き、兄弟姉妹に必要なものを提供することができるようになり、その結果、あなたがたは、お互いの長所を利用し合い自分の欠点を補い、霊においてより豊かな認識を獲得する。この結果を達成して初めてあなたがたは神の心にかなうように仕えることができ、奉仕する過程で神によって完全にされる。

神に仕える人は、神の知己でなければならず、神を喜ばせ、神に最大限忠実でなければならない。内密に行動しようと、公然と行動しようと、神の前で神を喜ばすことができ、神の前ではしっかり立つことができる。また、他の人々があなたをどのように扱おうとも、いつも歩むべき道を歩み、神の重荷に一心に注意を払う。こういう人だけが神の知己である。神の知己が直接神に仕えることができるのは、彼らが神から重大な任務や重荷を与えられているからである。彼らは神の心を自分の心とし、神の重荷を自分の重荷とすることができ、自分自身の将来の展望など一切考慮しない。将来の展望が何もなく、何も得られそうにない時でさえ、彼らは常に愛に溢れる心で神を信じる。だから、このような人は神の知己なのである。神の知己は、神の心を知る人でもある。神の心を知る人だけが、神の絶え間ない憂慮や神の考えを共有することができる。肉体は痛み弱くとも、彼らは痛みに耐え、神を満足させるために、自分の愛するものを断念することができる。神はそのような人にさらなる重荷を与え、神がしたいと望むことはこのような人の証しの中に示される。従って、このような人は神を喜ばせ、神自身の心に適った神の僕である。そして、このような人だけが神と共に統治することができる。あなたが本当に神の知己になった時が、まさに神と共に統治する時なのである。

『言葉は肉において現れる』の「神の心にかなうように仕えるには」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 454

イエスが神の任務、すなわち全人類を贖う働きを完了することができたのは、イエスが神の心に全ての注意を払い、自分自身のためには一切計画を立てたり準備をしたりしなかったからである。だからイエスも神の知己であり、また神自身であった。それはあなたがたが皆とてもよく理解しているとおりである。(実際、イエスは神によって証しされた神自身であった。わたしがこのことをここで述べるのは、イエスに関する事実によりこの問題を解説するためである。)イエスは神の経営(救いの)計画を全ての中心に置くことができ、いつも天の父に祈り、天の父の心を求めた。イエスは祈り、次のように語った。「父なる神よ。あなたの心にかなうとおりに成し遂げてください。わたしの望みどおりにではなく、あなたの計画どおりに行なってください。人は弱いかもしれませんが、あなたが人のことを気遣うべきでしょうか。あなたの手の中では蟻のような人間が、どうしてあなたの配慮に価することがありえるでしょうか。わたしが心の中で願うのは、あなたの心を成就することだけです。わたしの望みは、あなたがわたしの内で行う業を、あなたが望むとおりに行えることです」。エルサレムへ向かう途上、イエスは苦悶して、あたかもナイフが心に捻じ込まれているかのように感じたが、その言葉を取り消す思いは微塵もなかった。いつも強い力がイエスが十字架にかけられる場所までイエスに付き添っていた。最終的に、イエスは十字架に釘付けにされ、罪深い肉と同様になり、人類を贖う働きを完了した。イエスは死と黄泉の束縛から自由になった。イエスの前に、死も、地獄もハデスも力を失い、イエスに打ち負かされた。イエスは三十三年生きたが、生涯を通して彼はいつも全力を尽くし、その時の神の働きに従って神の心を満たし、決して自分の個人的損得は考慮せず、いつも父なる神の心のことを思った。そのため、イエスが洗礼を受けた後、神は「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と言ったのである。神の前におけるイエスの神への奉仕は神の心にかなうものだったので、神はイエスの肩に全人類を贖うという大きな重荷を負わせ、それをイエスに成し遂げさせた。そして、イエスにはこの重要な任務を完成する資格と権限があった。生涯を通じて、イエスは神のために計り知れないほどの苦しみに耐え、幾度となくサタンの試みにあったが、決して落胆することはなかった。神がイエスにこれほど重大な任務を課したのはイエスを信頼し、愛していたからである。従って、神は自ら「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と言ったのである。当時、イエスしかこの任務を果たすことができず、これは恵みの時代における全人類を贖うという神の働きの完成の実際的な一側面であった。

もしあなたがたが、イエスのように神の重荷に一心に注意を払い、自分の肉に背を向けることができるなら、神は重要な任務をあなたがたに委ね、あなたがたは神に仕えるための必要条件を満たすこととなる。そのような状況の下でのみ、あなたがたは自分が神の旨を行い、神の任務を果たしていると思い切って言うことができ、その時初めてあなたがたは本当に神に仕えていると言い切れる。イエスの例と比較して、あなたは自分が神の知己だと思い切って言えるだろうか。神の旨を行なっていると言い切れるだろうか。神に本当に仕えていると思い切って言えるだろうか。今日、あなたは神にいかに仕えるかを理解していないのに、それでも自分が神の知己だとあえて言うつもりか。もし神に仕えていると言うなら、神を冒涜していることにならないであろうか。よく考えなさい。あなたは神に仕えているのか、それとも自分自身に仕えているのか。あなたはサタンに仕えているのに、頑固に神に仕えていると言い張る。そうすることで、神を冒涜していないであろうか。多くの人がわたしに隠れて地位の恩恵をむやみに欲しがり、食べ物をむさぼり食い、眠り呆け、思うことは肉の思いばかりで、肉の出口がないことをいつも恐れている。彼らは教会で正しい役割を果たさず、教会に居候しているか、あるいはわたしの言葉で兄弟姉妹を訓戒し、権威ある立場から他人に対して威張っている。これらの人々は神の旨を行なっていると言い張って、自分は神の知己だといつも言う。これはばかばかしくないであろうか。あなたに正しい意図があっても、神の旨に沿って仕えることができなければ、あなたは愚かなのだ。しかし意図が正しくないのに、それでもまだ神に仕えていると言うなら、あなたは神に背く人であり、神から罰を受けるべきである。わたしはそのような人にはまったく同情しない。彼らは神の家に居候し、いつも肉の安逸をやたらに求め、神の益となることは全く考慮しない。彼らはいつも自分たちに益になるものを求め、神の心には何の注意も払わない。何をする際にも神の霊による吟味を受け入れない。彼らはいつも兄弟姉妹を操り欺いている。彼らは二心の者で、ブドウ畑の狐のように、いつもブドウを盗み、ブドウ畑を踏み荒らしている。そのような人々が神の知己でありえるであろうか。神の祝福を受けるにふさわしいであろうか。あなたは自分のいのちのためにも教会のためにも負担を負わないのに、神の任務を受けるのにふさわしいであろうか。あなたのような人を誰があえて信頼するというのか。あなたがこのように仕えるなら、神はあえて大きな任務をあなたに託すだろうか。そうすれば、働きに遅れが生じるのではないか。

わたしがこう言うのは、神の心にかなって仕えるためには、どのような条件を満たさなければならないかをあなたがたがわかるようにである。あなたがたが心を神に捧げなければ、あなたがたがイエスのように神の心に一心に注意を払わなければ、あなたがたは神に信頼されることはできないし、最終的には神の裁きを受けることになる。おそらく今日、あなたは神に仕える際、神を欺く意図を常に抱え、おざなりなやり方で神と接している。要するに、他の一切のことはさておき、あなたが神をだますと、情け容赦ない裁きがあなたに下される。あなたがたは神に仕えるための正しい道筋にちょうど入ったことを活かして、二心の忠誠ではなく、まず神に心を委ねるべきである。神の前であれ、他の人々の前であれ、あなたの心はいつも神の方に向いているべきであり、あなたはイエスが愛したように神を愛する決心をすべきである。そうすれば、あなたが神の心にかなった神の僕となれるように、神はあなたを完全にする。あなたが本当に神に完全にされることを望むなら、また、神の心にかなうように仕えることを望むなら、神への信仰に関するこれまでの考え方を変え、これまでの仕え方を変えるべきである。そうすれば神に完全にされるあなたの部分は次第に大きくなる。このように、神はあなたを見捨てず、ペテロのように、あなたは神を愛する人々の先頭に立つ。あなたが悔い改めないままでいるなら、ユダと同じ最後を迎えることになる。これは神を信じるすべての人が理解すべきことである。

『言葉は肉において現れる』の「神の心にかなうように仕えるには」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 455

全宇宙における神の働きが始まって以来、神は多くの人々を神に仕えるように運命づけてきた。そこにはあらゆる社会的地位の人々が含まれている。神の目的は、神の心を満たすことと、神の地上での働きが、必ずとどこおりなく成就するようにすることである。これが神に仕える人々を神が選ぶ目的である。神に仕える人は誰もがこの神の旨を理解しなければならない。この神の働きを通して人々は、神の知恵、神の全能性、また神の地上における働きの原則をよりよく見て取ることができる。神が実際に働きを行うために地上に来て人々と接触するのは、人々が神の業をより明確に知ることができるようにである。今日、あなたがたのこの集団は幸運にも実践の神に仕えている。これはあなたがたにとって計り知れない祝福である。実のところ、これは神が人を引き上げているのである。神に仕える人の選択において、神は必ず神自身の原則をもっている。神に仕えることは、人々が想像するように、ただ熱心さの問題ではないことは絶対である。今日あなたがたは、神の前で神に仕える人は誰であれ、それは彼らに神の導きと聖霊の働きがあるから、また、彼らは真理を追究する人々であるから、そうしているのを見ている。これらは、神に仕えるすべての人に要求される最低限の必要事項である。

神に仕えることは単純な作業ではない。堕落した性質が変わらないままの人は決して神に仕えることはできない。もしあなたの性質が神の言葉により裁かれ、罰されていないのならば、その性質はいまだにサタンを表している。これは、あなたの奉仕があなた自身の善意から出ていることの十分な証明である。それはサタン的性質にもとづく奉仕である。あなたは自分の元来の性格のまま、また個人的好みに従って神に仕えている。さらに、自分が行いたいことが何であれ、神はそれを喜び、行いたくないことが何であれ、神はそれを嫌うとあなたは思い続けている。そして働きにおいては、自分の好みに完全に左右されている。これを神への奉仕と呼ぶことができるであろうか。あなたのいのちの性質は、究極的には少しも変えられることはない。それどころか、自分は神に仕えているのだからと、ますます頑固になり、そのため、堕落した性質はさらに深く根付いたものとなる。このようにして、おもに自分の性格にもとづいた神への奉仕に関する規則と、自分自身の性質に従った奉仕から派生する経験をあなたは内面的に作り上げるようになる。それらが人間の経験と教訓であり、この世における人間の人生哲学である。このような人々はパリサイ人と宗教官僚に属する。このような人々は目を覚まして悔い改めないならば、必ずや終わりの日に人々を騙す偽キリストおよび反キリストとなる。話に出てくる偽キリストと反キリストは、このような人々の中から現れる。もし神に仕える人々が自分たちの性格に従い、自分たちの意思のままに行動したならば、彼らはいつでも追放される危険にある。他人の心を獲得し、見下すような態度で他人に訓戒し人々を制限するために自分の長年の経験を神への奉仕に応用する人、そして決して悔い改めず、自分の罪を告白せず、地位からくる恩恵を諦めない人は、神の前に倒れるであろう。このような人はパウロと同類の人間であり、自分の経歴の長さゆえに大胆に振る舞ったり、資格を見せびらかしたりする。神がこのような人々を完全にすることはない。このような奉仕は神の働きのじゃまをする。人は古いものに固執することを好む。過去の観念、過去からの物事に固執する。これは奉仕への大きな障害である。それらを捨て去ることができなければ、それらがあなたの全生涯を圧迫するであろう。たとえ脚を折るほど走り回ったり、大変な労苦を背負っても、また神への奉仕において殉教したとしても、神は少しもあなたを褒めることはない。それどころか逆であり、神はあなたを邪悪な行いをする者だと言うであろう。

『言葉は肉において現れる』の「宗教的な奉仕は一掃されなければならない」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 456

宗教的な観念をもたず、古い自分自身を脇へやる覚悟ができており、純朴に神に従う人々を、神は今日から正式に完全にし、また神の言葉を待ち望む人々を神は完全にする。このような人々は立ち上がり、神に仕えるべきである。神には終わることのない豊かさと無限の知恵がある。神の驚くべき働きと貴い言葉は、それらを享受するさらに多くの人々を待っている。現状では、宗教的な観念をもつ人、経歴の長さゆえに尊大に振る舞う人、自分自身を脇へやることができない人は、これらの新しい物事を受け入れるのに困難を覚える。このような人々を聖霊が完全にする見込みはない。もし人が服従の決心をせず、神の言葉を渇望していないのならば、新しい物事を受け取ることはできない。そのような人々はますます反抗的に、ますます狡猾になり、最終的には悪い軌道に乗ってしまう。神は現在その働きを行いながら、神を真に愛し、新しい光を受け入れることのできるさらに多くの人々を引き上げる。そして自分の経歴の長さゆえに尊大に振る舞う宗教官僚たちを、神は完全に切り捨てる。変化を頑固に拒む人々も、神は一人として欲しない。このような人になりたいのか。あなたは自分の好みに従って神に仕えるのか。それとも神が求めることを行うのか。これはあなたが自分自身で知っておくべきことである。あなたは宗教官僚の一人なのか。それとも神に完全にされる生まれたばかりの赤子なのか。あなたの奉仕のどれほどが聖霊に褒められるのか。神がわざわざ記憶するほどでもないものがどれほどあるのか。長年の奉仕の後、いのちのどれほどが変化したのか。あなたはこれらのことをよくわかっているのか。もし真の信仰があるのなら、以前からの古い宗教的観念を脇へやって、新しいやり方で神にさらによく仕えるであろう。今、立ち上がるのは遅すぎない。古い宗教的観念は、人のいのちを抑えつけてしまう。人が得る経験は、人を神から遠ざけ、独自のやり方で物事を行うようにしてしまう。もしそれらを捨てないのならば、それはいのちの成長のつまずきの石となる。神に仕える人々を神は常に完全にしてきた。神はそのような人々を軽々しく追放することはない。もし神の言葉による裁きと刑罰を真に受け入れるならば、もし古い宗教的実践と規則を脇へやることができ、古い宗教的観念を今日の神の言葉を判断する基準として用いるのをやめるならば、そのとき初めてあなたには未来がある。しかし、もし古い物事に執着し、いまだにそれらを大切にするならば、救われることはない。神はこのような人々には一切気を留めない。もし本当に完全にされたいと望んでいるのならば、以前からのあらゆるものを完全に捨て去る決心をしなければならない。たとえ以前になされたことが正しかったとしても、たとえそれが神の働きであったとしても、それを脇へやり、それに執着することをやめることができなければならない。たとえそれが明らかに聖霊の働きであり、聖霊により直接に行われたことであったとしても、今日はそれを脇へやらなくてはならない。それにしがみついてはならない。これが神が要求することである。すべては刷新されなければならない。神の働きと神の言葉において、神は以前にあった古い事柄に言及することはなく、神は昔の歴史を追究することはない。神は常に新しく、決して古いことがない神である。神は過去の神自身の言葉にさえ執着することはなく、このことから、神はいかなる規則にも従わないことが明らかである。この場合、もし、人間であるがゆえに、あなたが常に過去の物事にしがみつき、捨て去ることを拒否し、それらを形式的なやり方で堅苦しく適用するものの、神はもはや以前のやり方では働いていないのであれば、あなたの言動は破壊的ではないであろうか。あなたは神の敵になってしまったのではないであろうか。あなたはそれらの古い物事のせいで自分の全生涯を破滅させてしまうつもりなのか。それらの古い物事のために、あなたは神の働きを妨害する人となる。あなたがなりたいのは、このような人なのか。こうなるのを本当に望まないのであれば、今していることを直ちに止めて、向きを変えなさい。そして、初めからやり直しなさい。神はあなたの過去の奉仕を覚えていることはない。

『言葉は肉において現れる』の「宗教的な奉仕は一掃されなければならない」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 457

働きと言うと、それは神のために走り回り、あらゆる場所で説教を行ない、神のために費やすことだと人間は信じている。その考えは正しいが、あまりに一面的である。神が人間に求めているのは、自身のために走り回ることだけではない。それ以上に、この働きは霊の中において務め、与えることである。多くの兄弟姉妹は、長年経験を重ねた後でさえも、神のために働くことについて考えたことがない。なぜなら、人間が考える働きは、神が求めることと矛盾するからである。したがって、人間は働きの問題について一切関心をもたないのだが、それがまさに、人間の入りが極めて一面的であることの理由でもある。あなたがたはみな、あらゆる面でよりよく経験できるよう、神のために働くことから自身の入りを始めるべきである。これが、あなたがたが入るべきことである。働きとは、神のために走り回ることではなく、人間のいのちと生きる事柄が、神に喜びをもたらせることを指す。働きとは、人々が神への献身と神に関する認識を用いることで、神について証しを行ない、また人間を牧することを指す。これが人間の責任であり、すべての人が認識すべきことである。あなたがたの入りがあなたがたの働きであり、あなたがたは神のために働く過程で入ることを求めていると言えるだろう。神の働きを経験することは、単に神の言葉をどう飲み食いするかを知っているという意味ではなく、より重要なこととして、どうすれば神についての証しを行ない、神に仕え、人間を牧し、人間に施せられるかを知らなければならない。これが働きであり、あなたがたの入りでもある。これはすべての人が成し遂げるべきことである。神のために走り回り、あらゆる場所で説教することにだけ集中しつつ、自分の個人的経験を軽視し、霊的生活への入りを無視する者が多数いる。神に仕える者が神に反抗する者になってしまったのは、これが原因である。長年にわたり神に仕え、人間を牧してきたこれらの者たちは、単に働きや説教を行なうことを入りと考えており、自分個人の霊的経験を重要な入りと捉える者はいなかった。それどころか、彼らは聖霊の働きから引き出した啓きを、他人に説教する資本と見なしてきた。彼らは説教するとき、重荷を背負って聖霊の働きを授かり、それによって聖霊の声を伝えている。この時、働きを行なう者は、あたかも聖霊の働きが自分個人の霊的経験となったかのように、自己満足で一杯になる。つまり、自分の述べている言葉がすべて自分自身のものであるかのように感じているのだが、その反面、自分の経験が自分で述べたほど明瞭でないかのように感じる。さらに、彼らは話をする前は、自分が何を話すのかまったく気づいていないが、彼らの中で聖霊が働くと、果てしない流れのように言葉が流れ出す。ひとたびこのようにして説教を行なうと、あなたは自分の実際の霊的背丈が考えているほど小さくないと感じる。そして聖霊があなたの中で何度か働いた時と同じように、自分はすでに霊的背丈を有していると判断し、聖霊の働きを自分自身の入り、自分そのものだと誤解する。絶えずこのようにして経験するなら、あなたは自分の入りについて注意が緩み、気づかぬうちに怠惰になり、自分個人の入りをまったく重視しなくなる。そのため、他人を牧する時は、自分の霊的背丈と聖霊の働きを明確に区別しなければならない。そうすることで、あなたの入りはより簡単になり、あなたの経験にさらなる益がもたらされる。聖霊の働きを自分の個人的経験と捉える時、それが堕落の根源になる。そのため、自分の尽くす本分が何であろうと、自分の入りを欠かすことのできない学びと考えるべきだと、わたしは言うのである。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(2)」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 458

人が働くのは、神の旨を満足させ、神の心にかなう人々を残らず神の前に導き、人間を神のもとへ連れ出し、聖霊の働きと神の導きを人間にもたらし、よって神の働きの成果を完全なものにするためである。したがって、働きの本質を徹底的に理解することが必須なのである。神に用いられる者として、すべての人が神のために働く価値をもつ。つまり、誰もが聖霊に用いられる機会を有しているのである。しかし、認識すべき点がひとつある。すなわち、神から託された働きを行う時、人間には神に用いられる機会が与えられてきたが、人間の言うことや知っていることが、人間の霊的背丈とは限らない、ということである。あなたがたにできるのは、働きの過程で自分の欠点をよりよく知り、聖霊からのより偉大な啓きを自分にものにすることだけである。そうすることで、自分の働きの過程において、よりよい入りを得られるのである。神から来る導きを自分の入りと考えるなら、そして自分にもともと備わっている何かと考えるなら、人間の霊的背丈が成長する可能性はない。聖霊が人の中で働かせる啓きは、その人が正常な状態の時に生じる。そのような時、人々は自分の受け取る啓きを、しばしば自分の実際の霊的背丈だと勘違いする。なぜなら、聖霊が啓く方法は並外れて普通のものであり、人間にもともと備わっているものを活用するからである。人々が働きを行ない、話をする時、あるいは祈りを捧げて霊のデボーションを行なっている時、突如として真理が明瞭になることがある。しかし実際には、人間が理解したことは聖霊による啓きに過ぎず(当然、その啓きは人間の協力に結びついている)、人間の真の霊的背丈を表わすものではない。一定期間にわたる経験の中でいくつかの困難や試練に遭遇した後、人間の真の霊的背丈はこのような状況において明らかになる。その時初めて、人は自分の霊的背丈がそれほど大きくないことを知り、人間の利己心、個人的な考え、そして強欲さが一斉に現われる。こうした経験を何度か繰り返して初めて、霊の中で目覚めている人の多くが、自分が過去に経験したものは自分個人の現実でなく、聖霊による一時的な照らしであり、人間はその光を受けただけなのだと気づく。聖霊が人間を啓いて真理を理解させる時、それはしばしば明瞭かつ顕著な形で行なわれ、物事がどう生じるかとか、どこに向かうかなどを説明することはない。つまり、聖霊は人間の困難をその啓示に組み入れるのでなく、むしろ直接的に真理を啓示する。人間が入りの過程で困難に遭遇し、聖霊の啓きを組み入れる時、それは人間の実際の経験となる。……したがって、あなたがたは聖霊の働きを受け取ると同時に、自分の入りをよりいっそう重視し、聖霊の働きとは何か、自分の入りとは何かを正確に見極めつつ、聖霊の働きを自分の入りに組み入れなければならない。そうすることで、あなたはより多くの点で聖霊によって完全にされ、聖霊の働きの実質があなたの中で形作られる。聖霊の働きを経験する過程において、あなたがたは聖霊と自分自身を知るようになり、そしてさらに、激しい苦しみが無数に繰り返される中で神との正常な関係を育み、あなたがたと神との関係は日を追うごとに近くなる。無数の刈り込みと精錬を経た後、あなたがたは神に対する真の愛を育む。それゆえ、苦しみ、打撃、そして苦難を恐れるべきではないと気づく必要がある。恐れるべきなのは、自分に聖霊の働きがあるだけで、入りがないことである。神の働きが終わりを迎える日、あなたがたの苦労は無に帰している。神の働きを経験したにもかかわらず、聖霊を知ることも、自分の入りを得ることもなかったのである。聖霊が人間の中で働かせる啓きは、人間の情熱を維持するためのものではなく、人間の入りのために道を開き、人間が聖霊を認識できるようにするとともに、それ以降、神を畏れて敬愛する気持ちを育めるようにするためのものである。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(2)」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 459

刈り込み、取り扱い、裁き、そして刑罰を経験した人の働きには逸脱がずっと少なく、その働きの表現はずっと正確である。働きにおいて自分のありのままの特質に依存している人はかなり重大な間違いを犯す。まだ完全にされていない人の働きには、その人自身のありのままの特質が過剰に表され、それが聖霊の働きへの大きな障害となる。素質がいかに優れていようと、人が神に託された働きを行なえるようになるには、刈り込みと取り扱いと裁きを経験しなければならない。そのような裁きを受けていない人の働きは、どれほど立派に行われても、真理の原則と一致することはできず、常にその人自身がもつ本来の自然さの産物であり、また人間的な善良さである。刈り込み、取り扱い、そして裁きを受けた人の働きは、刈り込みや取り扱いや裁きを受けたことのない人の働きよりもはるかに正確である。裁きを受けなかった人は、人間の肉と考えしか表現せず、それには人間的知力と生まれながらの才能がかなり混ざっている。これは人が神の働きを正確に表現したものではない。このような人に従う人たちは、その人の生まれながらの素質ゆえにその人のところに来る。その人は人間の見識や経験を過剰に表し、しかもそれは神の本来の意図とはほとんど切り離され、あまりにも逸脱しているので、この種の人の働きでは人々を神の前に連れてくることはできず、むしろ人間の前に連れてきてしまう。そのため、裁きや刑罰を受けていない人には神に託された働きを実行する資格がないのである。資格のある働き手の働きは人々を正しい道に連れてくることができ、真理へのさらなる入りを与える。このような人の行う働きは人々を神の前に連れてくることができる。そのうえ、その働きは一人ずつ異なることがあり、規則にとらわれず、人に解放と自由、いのちにおいて徐々に成長する能力を与え、真理へさらに深く入って行くことを可能にする。資格のない働き手の働きははるかに不十分である。その働きはばかげている。そのような働き手は人を規則にはめ込むだけで、人に要求することは個別に変化しない。その働きは人の実際の必要性に沿わない。この種の働きには規則や教義があまりにも多く、人を現実性に連れて行くことも、いのちにおける成長の正常な実践に至らせることもできない。人にわずかな価値のない規則を守らせることができるだけである。この種の指導は人を迷わせるだけである。このような働き手はあなたが自分に似たものになるように導く。その人が持っているものや彼そのものの中にあなたを引き込むこともある。指導者に資格があるかどうかを追随者が見定める秘訣は、導く道と指導者の働きの結果に目を向けること、および追随者が真理に従った原則を受け取るかどうか、変化をとげるのにふさわしい実践方法を受け取るかどうかを見ることである。あなたはさまざまな人によるさまざまな働きを識別しなければならない。愚かな追随者になってはならない。これは人の入りに関係することである。どの人の指導には道があり、どの人の指導にはないかを見極めることができなければ、簡単に惑わされることになる。このことはすべてあなた自身のいのちに直接関連している。完全にされていない人の働きには本来の性格が多すぎる。あまりにも多くの人間の意志が混ざっている。彼らの存在は本来の性格、持って生まれたものである。取り扱いを経験した後のいのちでも、変えられたあとの現実でもない。どうしてこのような人がいのちを追求している人々を支えることができるであろうか。人の本来のいのちはその人の持って生まれた知性あるいは才能である。この種の知性あるいは才能は、神が人に的確に要求するものとはほど遠い。人がまだ完全にされておらず、その堕落した性質が刈り込まれても取り扱われてもいなければ、その人が表すものと真理の間には大きな隔たりがある。人が表すものは人の想像や一方的経験など、あいまいな事柄と混ざり合っている。そのうえ、その人がどのように働くかに関係なく、人々は全体的目的やすべての人が入っていくべき真理などはないと感じている。人への要求の大半は、その能力を超える。これは止まり木に追い立てられるアヒルを思わせる。これは人間の意志の働きである。人の堕落した性質、人の考えや観念は人体のあらゆる箇所に浸透している。人は真理を実践する本能を生まれながらに持っておらず、真理を直接理解する本能もない。それに人の堕落した性質を合わせれば、この種の自然のままの人が働くと、障害を生じさせないであろうか。しかし、完全にされた人は、人が理解するべき真理を経験しており、人の堕落した性質を知っている。そのため、その人の働きにおける漠然として非現実的な事柄は次第に減少し、人間的なものによる汚れは少なくなり、その人の働きと奉仕は神が求める基準に近づいていく。こうして、その人の働きは真理の現実に入っており、また現実的になっている。特に人の思考にある考えは聖霊の働きを妨害する。人には豊かな想像力と合理的論理があり、また物事を取り扱ってきた長い経験がある。人間のこのような側面が刈り込みと修正を受けなければ、それはすべて働きの障害である。したがって、人の働き、特にまだ完全にされていない人の働きは、正確さについては最高規準に到達することはできないのである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 460

聖霊が人に働きかける時に人が置かれる多くの状態をあなたは理解しなければならない。特に、神に仕える調整役となる人は、聖霊が人に行う働きがもたらす多くの状態をさらにしっかりと把握していなければならない。単に多くの経験と入って行くための方法についてだけ語るのであるならば、それはあなたの経験が一方的過ぎることを示している。自分の真の状態を知らず、真理の原則を把握していないならば、性質の変化を成し遂げることはできない。聖霊の働きの原則を知らず、それが生みだす果実を理解していないならば、悪霊の業を見分けることは難しい。悪霊の業、また人のもつ観念を暴露し、単刀直入に問題の核心に触れなければならない。また、人の実践における様々な逸脱や神への信仰において人が抱えることのある問題を指摘し、人がそれを認識できるようにしなければならない。少なくとも、人に否定的で消極的な感情を持たせてはならない。しかし、大半の人に客観的に存在する困難を理解しなければならず、不合理であったり、「豚に歌を歌わせようと」したりしてはならない。それは愚かな行為である。人が経験する様々な困難を解決するには、まず聖霊の働きの動態を理解し、聖霊が様々な人にどのように働きかけるのかを理解し、人が直面する困難や人の欠点を理解しなければならない。そして問題の重要課題を見抜き、その源に、逸脱したり誤ったりすることなく達しなければならない。このような人だけに神に仕える調整役となる資格がある。

重要課題が把握でき、様々な物事をはっきり見ることができるかどうかは、個人的な経験次第である。あなたが経験する方法は、あなたが他の人たちを導く方法でもある。語義や教義を理解しているならば、他の人たちが語義や教義を理解するように導くものである。あなたが神の言葉の現実性を経験する方法は、他の人たちが神の言葉の現実性に入って行けるようにあなたが導く方法でもある。もしあなたに多くの真理を理解することができ、神の言葉から来る様々な事柄について明確な識見を得ることができるなら、様々な真理を理解するように他の人たちを導くことができ、あなたが導く人たちもビジョンを明確に理解できる。もしあなたが超自然的な感覚を把握することに重点をおくなら、あなたの導く人たちも同じようにする。もしあなたが実践を怠り、代わりに話し合いを重視するなら、あなたが導く人たちも、まったく実践しなかったり性質の変化を達成したりすることもなく、話し合いに重点を置く。そして何らの真理も実践しないまま、表面的に熱心になる。人は誰でも自分自身がもっているものを他の人たちに提供する。ある人がどのような人であるかによって、その人が他の人たちをどのように導くかが決まり、またどのような人たちを導くかが決まる。神に用いられるのに真に相応しくなるには、強い願望だけではなく、神からの多くの啓き、神の言葉からの導き、神に取り扱われる経験、神の言葉による精錬も必要である。それを土台として、あなたがたは普段から自分の観察、考え、思案、結論に注意を払い、適切に吸収または排除するべきである。それらは全てあなた方が現実性に入っていくための道であり、そのどれ一つとして欠かすことはできない。神はこのように働く。神が働くこの方法にあなたが入っていくならば、あなたは神に完全にされる機会を毎日得ることができる。そしてどんな時であろうと、環境が厳しいか好ましいかにかかわらず、試練にあっているのか誘惑を受けているのか、働いているのかいないのか、個人で生活しているのか集団の一員として生活しているのかにかかわらず、あなたは常に神に完全にされる機会を見出し、ひとつも逃さずことはない。あなたはそのすべてを見出すことができ、このようにして神の言葉を体験する秘訣を見つけている。

『言葉は肉において現れる』の「適切な牧者が備えているべきもの」より

日々の神の御言葉 抜粋 461

今日、多くの人は、他の人々と協調していくにあたり学ぶべき教訓は何であるかということに注意を払っていない。わたしはあなたがたの多くが、他の人々と協調していく上で何の教訓も学ぶことができず、大半の人は自分の意見に固執していることに気づいた。教会で働くとき、あなたは自分の意見を言い、他の人はその人の意見を言い、それぞれが他人と何の関わりも持たず、実際には何の協力も行われていない。あなたがたは皆、ただ自分の見識を伝えたり、自分の内に抱えている「負担」を解消したりすることにあまりにも夢中で、いのちを追求することは少しも行っていない。ただおざなりに仕事をし、他の誰が何を言おうと何をしようと、自分は自分の道を歩まねばならないと常に信じているようだ。他の人々の状況がどうであろうと、自分はただ聖霊の導かれるままに人と交わるべきだと考えている。他の人々の長所を見つけることはできず、自分自身をよく観察することもできない。あなたがたは物事を受け容れるということにおいて、実に常軌を逸しており、誤っている。あなたがたはいまだに多くの独善性を示していると言える。まるで、あの昔の病に逆戻りしたかのように。あなたがたは完全に心を開けるようなやり方で互いに話し合わない。たとえば特定の教会での仕事においてどのような成果が得られたかや、自分の最近の内的状態、その他諸々の事柄について、とにかく一切話し合おうとしない。自分自身の観念を手放したり、自分自身を放棄したりといった行為に、あなたがたがいそしむことは一切ない。リーダーや働き手たちは、如何にして兄弟姉妹たちが消極的にならないようにするか、如何にして彼らを積極的に従わせるかということしか考えていない。しかし、あなたがたは皆、ただ積極的に従うだけで十分だと考えており、自分自身を知り、自分自身を捨てるということが何を意味しているのかを根本的に理解しておらず、ましてや他人と協調して奉仕することの意味など知るよしもない。ただ自分自身が神の愛に報いる意志を持ち、自分自身がペテロのように生きる意志を持つことだけを考えている。それら以外には何も考えていない。あなたは、他の人々が何をしていようとも自分は盲目的にそれに従うことはしないし、他の人々がどのようであろうとも自分自身は神によって完全にされることを求める、そしてそれで十分だ、とさえ言う。しかし実際には、あなたの意志が現実において、どのような形であれ具体的に表されたことはない。あなたがたが現在示している態度は、こういったものではないか。あなたがたはそれぞれ自分自身の見識に固守しており、皆が完全にされることを望んでいる。あなたがたはこれほどの長い間、大した進歩もなく神に仕えてきている。特に、この調和してともに働くという学びについては、何一つ成し遂げていない!教会に入ると、あなたは自分のやり方で他者と交わり、他の人々は彼らのやり方で交わっている。調和のとれた協調はめったに行われず、目下の信者に至ってはさらにその傾向が顕著である。これはつまり、あなたがたの中で、神に仕えるということはどういうことか、あるいはどのように神に仕えるべきなのかを、理解している者は非常にまれだということだ。あなたがたは混乱しており、この類の学びをつまらないものと考えている。真理をこういう角度から実践していないばかりでなく、分かっていながら間違ったことをしている者さえ多い。長年神に仕えている者たちでさえ、喧嘩し、互いに陰謀をめぐらし、嫉妬し、競争している。皆一様に自分自身のためであり、協力ということを一切していない。こうしたことすべてが、あなたがたの実際の霊的背丈を表しているのではなかろうか。日々ともに奉仕するあなたがたは、神殿で毎日神自身に直接仕えていたイスラエル人に似ている。神に奉仕するあなたがたが、如何にして協調していくか、如何にして神に奉仕するかを知らないとはどうしたことか。

『言葉は肉において現れる』の「イスラエルの民のように神に仕える」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 462

今日のあなたがたに対する要求 ― 協調してともに働くこと―は、ヤーウェがイスラエル人に求めた奉仕に似ている。それをしないなら、奉仕などやめることである。あなたがたは神に直接仕える身であるがゆえに、最低限としてその奉仕においては忠誠と従順を保たねばならず、同時に実践的な方法で教訓を学ぶこともできなければならない。特に教会で働いている人々に問うが、あなたがた目下の兄弟姉妹の誰かが、あえてあなたがたを取り扱おうとするだろうか。誰かがあなたがたの間違いを、面と向かって指摘してくるだろうか。あなたがたは他のすべての人々の上に立ち、王のように君臨している。このような類の実践的な教訓を学んだり始めたりすることさえしないにもかかわらず、なおも神への奉仕について語っているのだ!現在、あなたは多くの教会を指導するよう求められているが、自分自身の身を完全に捧げていないどころか、独自の観念や意見に執着し、「これはこのように行うべきだと思う、神は他者に抑えつけられるべきではないと言っているし、今日では盲従すべきではないからだ」などと言ったりする。そのため皆がそれぞれ自分の意見に固執し、誰も互いに従おうとはしない。自分の奉仕が行き詰まっていることは明らかに知っていながら、やはりこのように言うのだ。「私の見るところでは、私のやり方はそれほど的を外れていない。いずれにしても、皆にそれぞれの立場というものがある。あなたはあなたの立場で、私は私の立場で話す。あなたは自分の視点について説教し、私は自分のいのちの入りについて語るのだ」。取り扱わなければならない多くのことについては一切責任を持たず、あるいは、ただ間に合わせで対処し、一人ひとりが自分の意見をぶちまけ、用心深く自分自身の地位、評判、体面を守っている。誰も謙虚になろうとはせず、いずれの側も、いのちをより迅速に進歩させられるよう率先して自分の身を捧げ互いの不足を補い合おうとすることがない。あなたがたがともに調和して働くとき、あなたがたは真理を探し求めることを学ぶべきである。あなたがたは、このように言うこともできる。「真理のこの側面について、自分は明確に理解していない。それについて、あなたはどのような経験を持っているだろうか。」あるいは、このようにも言えるだろう。「これについてはあなたのほうが経験豊富だから、少し手ほどきをしてもらえないだろうか。」それが良いやり方というものではないか。あなたがたはこれまでに多くの説教を聞いてきて、奉仕においてもいくらかの経験がある。あなたがたが教会で働くとき、互いに学び合い、助け合い、欠点を補い合うことなくして、どうして教訓を学ぶことができようか。あなたがたは何かに遭遇するたびに、あなたがたのいのちに利益を与えられるように互いと交わらなければならない。そればかりでなく、どのような事柄についてであれ、なんらかの決断を下す前には、慎重に交わり合うべきである。そうして初めて、ただおざなりに形ばかりの行動をするのでなく、教会に対して責任を持つことになるのである。すべての教会を訪ね終えたら、皆で集まって、見出したすべての事柄や仕事の中で直面したあらゆる問題について説教を行い、そしてあなたがたが得た啓きと照らしについて話し合いなさい。これは奉仕において絶対に欠くことのできない実践である。あなたがたは神の働きのため、教会の利益のため、そして兄弟姉妹たちを激励して前進させるために、調和の取れた協力関係を作り上げなければならない。互いに協調し、それぞれが相手を正してより優れた成果を成し遂げることで、神の旨に配慮すべきである。それが真の協力というものであり、それに取り組む者のみが、真のいのちの入りを遂げるのである。協力を行う中で話す言葉には不適切なものもあるかもしれないが、それは問題ではない。後でそれについて交わりを持ち、明確な理解を得るようにしなさい。その問題を放置してはいけない。そのような交わりを持った後で、兄弟や姉妹の不足を補うことができる。このように深く自分の仕事に携わって初めて、より優れた成果を成し遂げることができるのである。あなたがたは一人ひとりが神に仕える者として、自分自身の利益のみを考えるのではなく、そのあらゆる行いにおいて教会の利益を守ることができなければならない。常に互いを暗に批判しながら、一人だけで行動するということは認められない。そのように行動する人々は、神に仕える者としてふさわしくない!そのような人々はひどい性質を持っており、彼らの中にはわずかな人間性も残っていない。彼らは完全にサタンである!彼らは獣である!現在でさえ、いまだにこのようなことがあなたがたの間で起こっている。しまいにあなたがたは、交わりの最中に互いを攻撃し合い、わざと口実を探しては顔を真っ赤にしてつまらないことで言い争い、どちらも自分が引き下がろうとはせず、それぞれが心の内を隠しつつ、一心に相手を警戒して常に身構えている。そのような性質が、神への奉仕にふさわしいと言えるだろうか。そのような仕事が、兄弟姉妹たちに何かを与えることになるだろうか。あなたは人々を正しいいのちの道に導くことができないばかりでなく、実際自分自身の堕落した性質を兄弟姉妹たちに刷り込んでいるのだ。あなたは他者を傷つけていないか。あなたの良心はひどいもので、芯まで腐っている。あなたは現実に入ることもなければ、真実を実践することもない。さらに、自分の極悪な本性を恥もなく他者にさらけ出している。あなたはとにかく恥というものを知らない。こうした兄弟姉妹たちはあなたに託されたものであるのに、あなたは彼らを地獄へと導いている。あなたは良心の腐りきった者ではなかろうか。完全な恥知らずである!

『言葉は肉において現れる』の「イスラエルの民のように神に仕える」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 463

神が各時代に表わす性質を、あなたは具体的に、その時代の意義を適切に伝える言葉で示せるだろうか。神による終わりの日の働きを経験しているあなたは、神の義なる性質を詳しく述べられるだろうか。あなたは神の性質について、明瞭かつ正確に証しできるだろうか。あなたの見たこと、経験したことを、義に飢え渇き、あなたが牧してくれるのを待っている哀れで貧しい、宗教熱心な信者たちにどのようにして伝えるだろうか。どのような人物があなたに牧してもらおうと待っているのだろうか。想像できるだろうか。あなたは自分の肩にある荷の重さ、委託、責任などを認識しているだろうか。あなたには歴史における自分の使命感がどこかにあるだろうか。あなたは次の時代の良き主人としてどのように奉仕するだろうか。あなたには主人としての強い意識があるだろうか。全ての物の主人についてどのように説明するだろうか。それはまことに世界の全ての生き物と全ての物質の主人であるのだろうか。次の段階の働きの進展のために、あなたはどのような計画を持っているのだろうか。何人の人たちがあなたに羊飼いとなってもらいたいと待っているのだろうか。あなたの任務は重い任務か。彼らは貧しく、哀れで、盲目で、途方に暮れており、暗闇の中で泣き叫んでいる。「道はどこにあるのか」と。彼らは、光が流星のように突然降りて来て、長年人々を圧迫してきた暗闇の勢力を追い払ってくれることにどれほど待ちこがれていることか。彼らがどんなに切に望み、日夜どんなに思いこがれているかを、誰が知ることができるだろうか。深く苦しんでいるそれらの人たちは暗闇の地下牢に閉じ込められたまま、光が輝く日でさえも解放される望みはない。彼らが泣かない日はいつ来るだろうか。全く安息を与えられたことのない、これらのもろい霊たちは、まことにそのような不運に苦しんでいる。彼らは長い間非情な縄と凍ったままの歴史によって封印されてきた。誰が彼らの泣き叫ぶ声を聞いたことがあるだろうか。誰がそのみじめな表情を見たことがあるだろうか。神は心でどれほど深く悲しみ、心配しているかを、あなたは考えたことがあるだろうか。神は自身の手で造った罪のない人類がこのような苦しみにあっているのを見ていられるだろうか。結局、人類は毒された不運な者たちである。彼らは今日まで生きながらえたけれども、悪い者によって長い間毒されてきたといったい誰が思っただろうか。あなたは自分もその犠牲者の一人であることを忘れてしまったのか。神へのあなたの愛で、生き残った人たちを救うために喜んで尽力しようと思わないのか。自分の血肉のように人類を愛する神に報いるべく、自分の力を残らず捧げようと思わないのか。神に用いられて並外れた人生を生きることを、あなたはどのように理解しているのだろうか。あなたには「敬虔で神に仕える人」の意義深い人生を送るための決意と自信を本当に持っているだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「将来の使命にどのように取り組むべきか」より

日々の神の御言葉 抜粋 464

人はわたしに信仰を持っているが、わたしの証人にはなることができない、そして、わたしがわたし自身のことを知らせる前には、人はわたしの証人となることはできない。人はわたしが被造物やすべての聖人たちより優れているということしか見ず、わたしが人にはできない働きをするということしか見ない。だから、ユダヤ人から現代の人たちに至るまで、わたしの栄光ある働きを見て来た人たちは、わたしに対して好奇心で一杯になるだけで、たった一人の口もわたしのために証しすることはできない。わたしの父だけがわたしの証人であり、すべての被造物の中でわたしのための道を作った。そうでなければ、わたしがどんなに働いても、人はわたしが創造物の主であることを決して知らなかったはずだ。というのは、人はわたしから取ることしか知らず、わたしの働きの故にわたしに信仰を持っているのではない。人はわたしには汚れがなく罪がひとつもないので、またわたしが数多くの奥義を説明できるので、またわたしが群衆よりまさっており、あるいは人はわたしから利益を受けたので、わたしを知っているだけである。しかし、わたしが創造物の主であることを信じている人たちは数少ない。これこそ人がなぜわたしに信仰を持っているか知らないとわたしが言う理由である。人はわたしに信仰を持つ目的や意義を知らないのである。人の現実は欠けており、だから人は、わたしの証人になるのにほとんどふさわしくない。あなたがたはほんの少しの真の信仰しか持っておらず、あまりにも少ししか手に入れておらず、だからあなたがたはほとんど証しを持っていないのである。その上、あなたがたは少ししか理解しておらず、あまりにも多くを欠いており、だからあなたがたはわたしの行いに対し証しをするにはあまりふさわしくない。あなたがたの決意は確かにすばらしいが、あなたがたは神の本質をうまく証言できる確信があるだろうか。あなたがたが体験したり見たりしたことはあらゆる時代の聖徒や預言者たちのそれにまさっているが、あなたがたはかつての聖徒や預言者たちの言葉以上の証しができるだろうか。わたしが今あなたがたに授けるものはモーセを超え、ダビデをしのぐ。だから同じようにわたしはあなたがたの証しがモーセの証しよりまさっており、あなたがたの言葉がダビデの言葉より偉大であるよう求める。わたしはあなたがたに100倍与えるから、わたしは同じようにあなたがたが同じ分だけ返済してくれるよう求める。あなたがたはわたしが人類にいのちを授ける者であり、わたしからいのちを受け取るのはあなたがたで、あなたがたはわたしの証人とならなければならないことを知らなくてはならない。これはわたしがあなたがたに送り、わたしのためにしなければならないあなたがたの本分である。わたしはあなたがたにわたしの栄光をすべて授けてきたし、選ばれた人たちであるイスラエル人が決して受け取らなかったいのちをあなたがたに授けた。だから当然、あなたがたはわたしの証人となり、あなたがたの若さをわたしに捧げ、あなたがたのいのちを差し出さなくてはならない。わたしの栄光を授ける者は誰でもわたしの証人となり、わたしにいのちを捧げるのである。これはずいぶん前にわたしによって運命づけられていた。わたしの栄光をあなたがたに授けるのはあなたがたにとって幸せなことであり、あなたがたの本分はわたしの栄光を証言することである。幸せを得るためにだけわたしを信じているとしたら、わたしの働きはほとんど意味を持たないだろうし、あなたがたは自分の本分を果たしてはいないだろう。イスラエル人たちはわたしの憐れみ、愛、偉大さだけを見、ユダヤ人たちはわたしの忍耐と贖いだけを証言したのである。彼らはわたしの霊の働きのほんの少ししか見なかった。彼らの理解の程度でさえ、あなたがたが見たり聞いたりしたことのわずか10,000分の1に過ぎないかもしれない。あなたがたが見たことは彼らの中の祭司長たちが見たことさえ上回る。今日、あなたがたが理解している真理は彼らの理解した真理よりまさっており、今日あなたがたが見てきたことは律法の時代に見られたことを超え、恵みの時代に見られたことを超えている。そしてあなたがたが体験したことはモーセやエリヤの体験さえ上回っている。というのは、イスラエル人たちが理解したことはヤーウェの律法だけで、彼らが見たものはヤーウェの背中だけだった。ユダヤ人たちが理解したことはイエスの贖いだけであり、彼らが受けたものはイエスによって授けられた恵みだけであり、彼らが見たものはユダヤ人の家の中のイエスのイメージだけであった。今日あなたがたが見るものはヤーウェの栄光、イエスの贖い、そして今日のわたしの働きのすべてである。あなたがたはわたしの霊の言葉も聞き、わたしの知恵に感謝し、わたしの不思議を知るようになり、そしてわたしの性質について学んだ。わたしはまたあなたがたにわたしの経営(救いの)計画をすべて話した。あなたがたが見たものは単に愛すべき慈悲深い神だけではなく、義に満ちた神でもある。あなたがたはわたしの素晴らしい働きを見てきたし、わたしが激しい怒りと威厳で満ちていることも知った。さらに、わたしはかつて荒れ狂う激しい怒りをイスラエルの家にもたらし、今日その怒りがあなたがたに及んでいることも知っている。あなたがたはイザヤやヨハネより、天のわたしの奥義をもっと理解して来た。あなたがたは先代のあらゆる聖徒たちより、わたしの愛と尊敬に値する特性をもっと知っている。あなたがたが受け取ったものはわたしの真理、道、いのちだけではなく、ヨハネのそれよりも大きいビジョンと啓示である。あなたがたはもっと多くの奥義を理解し、わたしの真の顔も拝した。あなたがたはわたしの裁きをもっと受け入れ、わたしの義なる性質ももっと知った。だから、あなたがたは終わりの日に生まれたけれども、あなたがたの理解は以前のものであり、過去のものである。また今日あることも体験したが、それはわたしによって成し遂げられた。わたしがあなたがたに求めることは理不尽ではない。というのは、わたしはあなたがたにあまりにもたくさん与え、あなたがたはわたしから多くを見たからである。だから、わたしはあなたがたに、あらゆる時代の聖徒たちに向けて、わたしの証人となってくれるよう願う。そしてこれだけがわたしの心の願いである。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは信仰について何を知っているか」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 465

さて、あなたは、なぜあなたがわたしを信じるか本当に知っているだろうか。あなたはわたしの働きの目的と意義を本当に知っているだろうか。あなたは自分の本分を本当に知っているだろうか。あなたはわたしの証しを本当に知っているだろうか。もしあなたが単にわたしを信じ、わたしの栄光もわたしの証しもあなたの中に見ることができないなら、わたしはとうの昔にあなたを排除していた。そのことをすべて知っている者たちに関して言えば、彼らはわたしの目にはイバラでさえあり、わたしの家では、彼らは単に躓きの石でしかない。彼らは少しも役に立たず、重要でないので、わたしの働きにおいて完全に選り分けなければならない毒麦である。わたしはずいぶん前に彼らを忌み嫌ってきた。証しをしないこれらの者たちに関して、わたしの怒りは永遠にあり、わたしのむちは彼らから離れることは決してない。わたしはずいぶん前に彼らを悪者の手に渡し、彼らはわたしの祝福を少しも持っていない。その日、彼らの刑罰は愚かな女たちの罰よりはるかに痛みを伴う。今、わたしはわたしの義務である仕事だけしている。わたしはすべての麦を毒麦と共に束に縛る。これが今のわたしの仕事である。それらの毒麦はわたしが選び出している時にすべて選別され、麦粒は倉庫に集められ、選り分けられた毒麦は火の中で燃やされ灰となる。わたしの今の仕事はあらゆる人たちをただ束に縛ることで、つまり完全に彼らを征服することだけである。それから、すべての人たちの最後を明らかにするために選別を始めよう。だから、あなたは今どのようにわたしを満足させ、どのように正しい信仰の道を整えるかを知るべきである。わたしが求めるものは、今このときのあなたの忠誠心と服従、今この時のあなたの愛と証しである。たとえあなたが証しをするとは何か、愛とは何かをこの瞬間知らなくても、あなたのすべてをわたしに持ってくるべきで、あなたが持っている唯一の宝物、つまりあなたの忠誠心と服従心をわたしに差し出すべきである。わたしがサタンを打ち負かしたことに対する証しは人の忠誠心と従順に見ることができ、わたしが人を完全征服したことに対する証しもそうであることを、あなたは知るべきである。わたしへのあなたの信仰の義務はわたしの証人となること、わたしに忠実無二であること、最後まで従順であることである。わたしの働きの次のステップを始める前に、あなたはどのようにわたしの証人となるのか。あなたはいかにしてわたしに忠実であり、服従するのか。あなたの役目のためにすべての忠誠心を捧げるか、それとも単にあきらめるのか。あなたはむしろわたしのすべての取り決め(たとえそれが死であっても、あるいは滅びることであっても)に服従するか、それとも、わたしの刑罰を避けるために途中で逃げ出すか。わたしがあなたを罰するのはあなたがわたしの証人となり、忠誠を尽くしわたしに服従するためである。また、現在の刑罰はわたしの働きの次のステップが明らかにされ、仕事の進展が妨げられないためである。よって、わたしはあなたが賢くなり、あなたのいのちや存在の意義を価値のない砂のように取り扱わないよう勧告する。あなたはわたしのこれからの働きがどんなものになるか正確に分かるだろうか。あなたはこれからわたしがどのように働き、わたしの働きがどのように展開していくか知っているだろうか。あなたはわたしの働きに関するあなたの体験の意義、さらにわたしへのあなたの信仰の意義を知るべきである。わたしは多くの事を行なってきた。あなたが想像するように、わたしは途中であきらめることなどできようか。わたしはそのように幅広い働きをなしてきた。どうしてそれを台無しにすることなどできようか。確かに、わたしはこの時代を終わりにするために来た。これは本当だが、それ以上にわたしは新しい時代を始め、仕事を始め、そして何よりも、神の国の福音を広めようとしていることをあなたは知らなければならない。だからあなたは、現在の働きは時代を始めることと、来たるべき時に福音を広め、将来のどこかで時代を終わらせるための基盤を築くことだけであると知らなければならない。わたしの働きはあなたが思うほど単純ではないし、あなたが信じているほど価値がなく意味のないものではない。だから、わたしは依然としてあなたに言わなければならない。あなたはわたしの働きのために自分を捧げ、それ以上にわたしの栄光のためにあなた自身を捧げるべきである。あなたがわたしの証しをすることをわたしは長い間待ち望み、それ以上に長く、あなたがわたしの福音を宣べ伝えるのを待ち望んでいた。あなたはわたしの心にあるものを理解すべきである。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは信仰について何を知っているか」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 466

あなたがたの信仰はとても誠実だが、あなたがたの中のだれもわたしを完全に説明することはできないし、あなたがたの中のだれもあなたがたが見る現実のすべてを十分に立証することはできない。考えてもみなさい。現時点ではあなたがたのほとんどは自分の義務を怠っており、その代わりに肉のことを追い求め、肉を満足させ、貪欲に肉を楽しんでいる。あなたがたは真理をほとんど所有していない。ではどうやってあなたがたはこれまで見てきたものすべてを証言することができるのか。あなたがたは本当にわたしの証人になれる自信があるのか。今日見てきたすべてのことをいつの日か証言できないならば、そのときまでには創造された人間として機能を失っているだろう。あなたの存在には何の意味もなくなってしまうだろう。人間である価値がなくなる。人間ではないとさえ言うことができる。わたしはあなたがたに膨大な量の働きを行なってきた。しかし、現在あなたは何も学んでおらず、何も知らず、無駄に働いているので、わたしが働きを拡大する必要があるとき、あなたはぽかんと見つめているだけで、口もきけず、まったく役に立たないだろう。それではあなたは稀代の罪人になってしまわないだろうか。その時が来たら、あなたはとてつもなく深い後悔を感じないだろうか。意気消沈してしまわないだろうか。わたしがこの働きのすべてを行なっているのは暇つぶしや退屈しのぎからではなく、わたしの将来の働きの基礎を築くためである。わたしは行き詰っていないし、何か新しいことを考え出さなければならないわけでもない。わたしが行う働きを、あなたは理解するべきである。それは路上で遊ぶ子供が行うものではなく、わたしの父の表象が行う働きであることを理解するべきである。あなたがたはこのすべてを行なっているのはただわたしではないことを知るべきである。それどころかわたしは父の代理を務めているのである。その一方で、あなたがたの役割はひたすら後に続き、服従し、変化を遂げ、証しをすることである。あなたがたが理解するべきことは、なぜわたしを信じなければならないかである。これはあなたがた一人ひとりが理解するべきもっとも重要な問題である。わたしの父は、その栄光のために、世界を創造した瞬間からわたしのためにあなたがたすべてを運命づけた。わたしの父があなたがたに運命づけたのは、他ならぬわたしの働きのためとわたしの父の栄光のためであった。あなたがたがわたしを信じるのはわたしの父によるのである。あなたがたがわたしに従うのはわたしの父が運命づけたことによる。このどれもあなたがたが自分で選んだものではない。さらに重要なことに、あなたがたはわたしの証しをするためにわたしの父がわたしに授けた者たちであることを理解しなければならない。わたしの父があなたがたをわたしに授けたので、あなたがたはわたしがあなたがたに授ける道、わたしがあなたがたに教える道や言葉に従うべきである。わたしの道に従うことがあなたがたの本分だからである。これが、あなたがたがわたしを信じる最初の目的である。そこで、わたしはあなたがたに言う、あなたがたはわたしの道に従うためにわたしの父がわたしに授けた人々にすぎない。しかし、あなたがたはわたしを信じるだけである。あなたがたはわたしに属していない。あなたがたはイスラエルの一族に属しておらず、その代わりに古代の蛇の種族に属しているからである。わたしがあなたがたにするよう要求することは、わたしの証人になることだけであるが、今日あなたがたはわたしの道を歩かなければならない。このすべては将来の証しのためである。あなたがたがわたしの道に耳を傾ける人々としてのみ機能するならば、あなたがたには何の価値もなく、わたしの父がわたしにあなたがたを授けたことの意義は失われるだろう。わたしがあなたがたに強く言いたいのは次のことである。「あなたがたはわたしの道を歩かなければならない」。

『言葉は肉において現れる』の「神に対するあなたの認識はどのようなものか」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 467

現在、聖霊は教会の中でどのように働きを行なっているのか。あなたはこの問いをしっかり把握しているだろうか。兄弟姉妹が抱える最大の困難は何か。何が最も欠けているのか。現在、試練を経る中で消極的な人がおり、中には不満を口にする人さえいる。他にも、神は語り終わったといって、前進するのを止めた人もいる。人々はいまだ神への信仰の正しい軌道に入っていない。人は独立して生きられず、自身の霊的生活を維持できない。中には神が語ると付き従って精力的に追求し、進んで実践しようとする人もいる。しかし神が語らなければ、前進するのを止めてしまう。人々はいまだ心の中で神の旨を理解しておらず、神に対する自発的な愛をもっていない。過去、彼らが神に従っていたのは、強制されたためである。そして今、神の働きに辟易している人もいる。このような人は危機に瀕しているのではないか。多くの人は、単に協力する状態にある。彼らは神の言葉を飲み食いし、神に祈るものの、心がこもっておらず、かつての意欲はもはやない。大半の人は神による精錬と完全化の働きに関心がなく、実際のところ、内なる意欲が常にないかのようである。そのような人は過ちに負けても神への恩義を感じず、自責の念を抱くこともない。真理を追求することも、教会から立ち去ることもなく、それどころか束の間の快楽しか追い求めない。このような人は間抜けであり、まったく愚かである。そのときになれば、彼らは全員見捨てられ、誰一人救われない。一度救われればいつも救われると、あなたは考えているのか。そのような考えはまったくの欺瞞である。いのちへの入りを求めない者はみな罰せられる。大半の人は、いのちへの入り、ビジョン、真理の実践にまったく関心がない。そのような人は入ることを追い求めず、さらに深く入ることなど絶対に追い求めない。彼らは自分を滅ぼそうとしているのではないか。現在、状態が絶えず改善している一部の人がいる。聖霊が働きを行なえば行なうほど、彼らは確信を得る。また経験すればするほど、神の働きのより深遠な奥義を感じるようになり、深く入れば入るほど、より多くのことを理解する。神の愛は実に偉大だと感じ、自分の中で安定と照らしを感じる。彼らには神の働きに関する認識がある。聖霊はこのような人たちの中で働きを行なっているのである。中にはこのように言う人がいる。「神は新たな言葉を発していないが、それでも私は真理をより深く掘り下げることを求め、実際の経験の中で何事にも真剣になり、神の言葉の現実に入らなければならない」。このような人には聖霊の働きがある。神は自身の顔を見せず、あらゆる人から隠れ、言葉を発することなく、人々が内なる精錬を経験することもあるが、神はそれでも人々のもとから完全に去ったわけではない。自分が実践すべき真理を保てないなら、その人に聖霊の働きはない。精錬の間、および神が姿を見せない間、あなたに確信がなく、その代わりに立ちすくみ、神の言葉を経験することに集中していなければ、あなたは神の働きから逃げている。その後、あなたは見捨てられる者の一人になる。神の言葉に入ることを求めない者は、神への証しに立つことなど到底できない。神への証しを行ない、神の旨を満たせる人はみな、神の言葉を追い求める自分の意欲にひたすら頼っている。神が人々の中で行なう働きはおもに、彼らが真理を得られるようにすることである。あなたに真理を追求させるのは、あなたを完全にするためであり、それはひとえに神によって用いられるのにふさわしくするためである。あなたが今追い求めているのは奥義を聞くこと、神の言葉に耳を傾けること、自分の目を楽しませること、そして何か目新しいことや動向があるかと周囲を見回し、そうして自分の好奇心を満足させることだけである。それがあなたの心にある意図であれば、あなたに神の要求を満たす術はない。真理を追い求めない者は最後まで付き従うことができない。現在、神が何もしていないというのではなく、むしろ人々が神の働きに飽きてしまい、そのため神に協力していないのである。そのような人は、神が祝福を授けるために語る言葉を聞くことしか望まず、神の裁きと刑罰の言葉を聞こうとはしない。その理由は何か。祝福を得たいという人々の願望が満たされておらず、それゆえ消極的になって弱っている、というのが理由である。人々が神に付き従うのを神がわざと許さないというのではなく、神が人類に対して意図的に打撃をもたらしているというのでもない。人々が消極的になって弱っているのは、ひとえに彼らの意図が正しくないからである。神は人にいのちを与える神であり、人を死に追いやることはできない。人々の消極性、弱さ、そして後退はどれも、彼ら自身の行ないによって引き起こされるのである。

神による現在の働きは人々に精錬をもたらし、その精錬を受けつつ揺るぎなく立てる者だけが神に認められる。語らないことによって、あるいは働きを行なわないことによって、神がいかに自分の姿を隠そうとも、あなたは依然として精力的に追い求めることができる。たとえ神があなたを拒むと言ったとしても、あなたはやはり神に従うだろう。それが神への証しに立つということである。神があなたから姿を隠し、あなたが神に従うのを止めるなら、それは神への証しに立つことだろうか。実際に入っていなければ、その人には実際の霊的背丈がなく、大きな試練に本当に直面すると躓くだろう。神が言葉を語らなかったり、あなたの観念にそぐわないことをしていたりすると、あなたは倒れる。神がいま、あなたの観念に沿って行動していたり、あなたの意思を満たしていたりして、あなたが精力的に立ち上がって追求できるなら、あなたは何を基礎として生きているだろうか。言っておくが、人間の好奇心に頼り切って生きている人は数多い。そのよう人は、追い求めることを決して心から切望していない。真理への入りを追い求めず、自分の好奇心に頼って生きる者はみな卑しむべき人であり、彼らは危険な状態にある。神の様々な働きはどれも人類を完全にするためになされる。しかし、人々はいつも好奇心に満ち、噂を訪ね回るのが好きで、外国で現在起きていることを気にかけている。たとえば、イスラエルで今何が起きているのか、あるいはエジプトで地震があったのか、などということを知りたがり、新奇な物事を絶えず探して自分勝手な願望を満足させようとしている。そのような人はいのちを追い求めず、完全にされることを追い求めない。神の日が一刻も早く訪れ、自分の美しい夢が現実になり、大それた願望が成就することだけを求めているのだ。このような人は現実的でなく、正しくない観点をもつ人である。真理の追求だけが人による神への信仰の基礎であり、いのちへの入りを追い求めなければ、あるいは神を満足させることを求めなければ、その人は懲罰の対象にされる。懲罰される者は、神が働きを行なうときに聖霊の働きをもたなかった者である。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは神への忠誠を保つべきである」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 468

神の働きのこの段階において、人はどのように神に協力すべきか。現在、神は人々を試している。神は言葉を発しておらず、姿を隠し、人々と直接接触していない。外側からは神が何の働きも行なっていないように見えるが、実際には依然として人間の中で働きを行なっている。いのちの成長を追い求めている者はみな、いのちを追求するビジョンがあり、たとえ神の働きを完全に理解していなくても疑念を抱かない。試練を経ている間、神がどのような働きを行なおうと望んでいるか、どのような働きを完遂しようと望んでいるかを知らなくても、人間に対する神の意向は常に善であることを知るべきである。あなたが誠心誠意神を追い求めれば、神があなたのもとから去ることはなく、最後はきっとあなたを完全にし、人々を適切な終着点に連れて行く。現在、神が人々をどのように試しているかを問わず、神が人々に対し、その行ないに基づき、適切な結末と報いを与える日がいつか来る。神が人々を特定の地点まで導き、その後見捨てて無視することはない。なぜなら、神は信頼に足るからである。現段階において、聖霊は精錬の働きを行なっており、あらゆる人間を精錬している。死の試練と刑罰の試練から成る働きの段階において、精錬は言葉を通じて実行される。人々が神の働きを経験するには、まず神による現在の働きと、人がどのように協力すべきかを理解する必要がある。まさしく、これはすべての人が理解すべき事柄なのである。神が何を行なおうと、つまりそれが精錬であろうと、あるいは神が黙してさえいても、神の働きの諸段階のうち、人の観念に沿うものは一つもない。神の働きの各段階は、人間の観念をばらばらに打ち壊す。それが神の働きである。しかし、神の働きが一定の段階に達したのだから、神は何があろうと全人類を死に追いやらないのだと信じる必要がある。神は人類に約束と祝福の両方を与え、神を追い求める者はみな神の祝福を得られるが、そうしない者は神に捨て去られる。それはあなたの追求次第である。他に何があろうと、神の働きが終わりを迎えるとき、すべての人が適切な終着点を得るのだと信じなければならない。神は人類に美しい抱負を与えてきたが、追い求めずしてそれらは成就できない。あなたがいま知るべきなのは、神による人々の精錬と刑罰は神の働きであるが、人のほうも常に性質の変化を求めねばならない、ということである。あなたは自分の実際の経験において、まず神の言葉を飲み食いする方法を知り、神の言葉の中から自分が入るべき事柄と自分の欠点を見つけ、自分の実際の経験において入りを求め、神の言葉の中で実践すべき部分を挙げ、そうするように努めなければならない。神の言葉を飲み食いすることは一つの側面である。それに加えて、教会生活も維持する必要があり、あなたは正常な霊的生活を送り、自分の現状のすべてを神に委ねることができなければならない。神の働きがどのように変化するかを問わず、あなたの霊的生活は正常なままでなければならない。霊的生活は、あなたの正常な入りを維持することができる。神が何を行なおうと、あなたは妨害されることなく霊的生活を続け、自分の本分を尽くすべきである。これが人の行なうべきことである。それはすべて聖霊の働きだが、正常な状態にある者にとって、それは完全にされることである一方、正常な状態でない者にとって、それは試練である。聖霊による精錬の働きの現段階において、次のように言う人がいる。つまり、神の働きは極めて優れており、人々は絶対に精錬を必要としている、さもなければその人の霊的背丈はあまりに小さく、神の旨を成就させる術がない、というのである。しかし、状態が好ましくない者にとって、それは神を追い求めない理由、あるいは集会に参加しなかったり、神の言葉を飲み食いしなかったりする理由になる。神の働きにおいては、神が何を行なうか、どのような変化を生じさせるかを問わず、人々は最低限の正常な霊的生活を維持する必要がある。おそらくあなたは、現段階の霊的生活において気が緩んだことはないかもしれないが、それほど多くを得ることも、大きな収穫を得ることもなかった。こうした状況下でも、あなたはやはり規則に従わなければならない。自分のいのちを損なわないために、また神の旨を満たすために、それらの規則を守らなければならないのである。あなたの霊的生活が異常であれば、神による現在の働きを理解できず、それどころか、そうした働きは自分の観念にまったくそぐわないと常に感じ、神に進んで付き従っていても、内なる原動力に欠けている。したがって、神が現在何を行なっていても、人は協力しなければならない。人が協力しなければ、聖霊はその働きを行なうことができない。また人に協力する心がなければ、聖霊の働きはほとんど得られない。自分の内部で聖霊の働きを得たいと望むなら、そして神に認められたいのであれば、神の目の前で自分の本来の忠誠心を保つ必要がある。現在、あなたがより深い理解や高度な理論といったことをもつ必要はなく、必要とされるのは、本来の基礎の上で神の言葉を保つことだけである。人が神に協力せず、より深い入りを求めなければ、人が本来もっていたものを神は残らず奪うだろう。人は内面において、絶えず快適さを貪欲に求め、すでに用意されているものを享受することを好む。人間は代価を一切払うことなく、神の約束を得たいと望む。こうしたことは、人類が抱く途方もない考えである。代価を払わずいのちを得るなどと言うが、それほど容易なことがかつてあっただろうか。神を信じ、いのちへの入りと性質の変化を求めるとき、その人は代価を払い、神が何をしようといつも神に付き従う状態に達する必要がある。それが人の行なうべきことである。たとえ規則としてそのすべてに従っていたとしても、絶えずそれを守らなければならず、いかに試練が大きくても、神との正常な関係を手放してはならない。あなたは祈りを捧げ、教会生活を維持し、兄弟姉妹のもとを決して離れないでいられる必要がある。神があなたを試すとき、あなたはそれでも真理を求める必要がある。これが霊的生活における最低限の必要事項である。求める願望を常にもち、協力することに努め、自分の全力を捧げることは、果たして可能だろうか。これを基礎とするならば、その人は識別力をもち、現実への入りを成し遂げることができる。あなたの状態が正常であれば、神の言葉を受け入れるのは容易である。このような状況において、真理の実践は難しいと感じられず、神の働きは素晴らしいと感じる。しかし、あなたの状態が劣っていれば、神の働きがいかに素晴らしくても、誰かがいかに美しく語ったとしても、あなたは気に留めないだろう。状態が異常であれば、神はその人の中で働きを行なうことができず、その人は自分の性質を変えることができない。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは神への忠誠を保つべきである」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 469

確信がなければ、その道を歩み続けるのは容易でない。現在、神の働きが人間の観念とまったく一致していないことを、誰もが知っている。神は数多くの働きを行ない、数多くの言葉を語ってきたが、それらは人間の観念にまったくそぐわないのである。したがって、人は確信と意志の力をもち、自分がすでに見たもの、経験から得たものを固持できるようにならなければならない。神が人の中で何を行なおうと、人は自分が有するものを守り、神の前で真摯になり、最後まで神に対して忠実でいなければならない。これが人間の本分である。人は自分のすべきことを守らなければならない。神への信仰には、神への服従と、神の働きを経験することが必要とされる。神はすでに多数の働きを行なっており、人にとって、それはどれも完全化、精錬、さらには刑罰だと言えるだろう。神の働きの各段階のうち、人間の観念と一致するものはいまだかつてなく、人々が享受してきたのは神の厳格な言葉である。神が来るとき、人は神の威厳と怒りを享受することになる。しかし、神の言葉がいかに厳格だとしても、神は人類を救い、完全にするために来る。被造物として、人は尽くすべき本分を尽くし、精錬のさなかに神の証しに立たねばならない。あらゆる試練において、人はなすべき証しを固く守り、神のために鳴り響くような証しを行なう必要がある。そうする人が勝利者である。神があなたをいかに精錬しようと、あなたは確信に満ちたままでいなければならず、神への確信を決して失ってはならない。人間が行なうべきことをしなさい。それが、神が人間に求めることであり、人の心はいかなるときも完全に神へと立ち返り、神のほうへ向かわねばならない。それが勝利者である。神が「勝利者」と呼ぶ者は、サタンの支配下に置かれ、サタンに包囲されたときでさえ、つまり闇の軍勢のただ中にいるときでさえ、神の証しに立ち、神への確信と忠誠を維持できる者である。何があろうと依然として神の前で純真な心を保ち、神に対する真の愛を維持できるのであれば、あなたは神の前で証しに立っており、それが神の言うところの「勝利者」になることである。神から祝福されているときの追求が優れていても、神の祝福がなければ逃げ出すのであれば、それは純粋さだろうか。あなたは、その道が正しいと確信しているのだから、最後までその道に従い、神への忠誠を保たなければならない。あなたは、神自身があなたを完全にすべく地上に来たのを見てきたのだから、自分の心をすべて神に捧げるべきである。神が何を行なおうと、たとえ最後にあなたにとって好ましくない結末に決めたとしても、それでもあなたが神に従えるのであれば、それが神の前で純粋さを保つということである。聖なる霊体と純粋な乙女を神に捧げることは、神の前で真摯な心を保つことを意味する。人類にとって、真摯さとは純粋さであり、神に対して真摯になれるというのは、純粋さを維持するということである。これがあなたの実践すべきことである。祈るべきときは祈りなさい。集まって交わりをもつべきときはそうしなさい。賛美歌を歌うべきときは歌いなさい。肉に背くべきときは背きなさい。自分の本分を尽くすとき、どうにか切り抜けようとしてはならず、試練に直面したときは堅く立ちなさい。それが神への忠誠である。人が行なうべきことを守れなければ、あなたの以前の苦難と決意はすべて徒労に終わったのである。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは神への忠誠を保つべきである」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 470

神の働きの各段階には、人が協力すべき道がある。人が精錬を経ながら確信をもてるように、神はその人を精錬する。人が神によって完全にされることを確信し、進んで神の精錬を受け入れ、神によって取り扱われ、刈り込まれるように、神は人間を完全にする。神の霊は人の中で働きを行ない、その人に啓きと照らしをもたらし、神に協力して実践するようにさせる。神は精錬のさなかに言葉を述べない。神が声を発することはないが、それでも人がなすべき働きは存在する。あなたはすでにもっているものを守らなければならず、神に祈り、神のそばから離れず、神の前で証しに立つことができなければならない。そうすれば、あなたは自分の本分を尽くせるだろう。人の確信と愛に対する神の試練においては、その人が神により多く祈り、神の前で神の言葉をより頻繁に味わうことが求められる。あなたがたはみなそのことを神の働きから理解しなければならない。神があなたを啓き、あなたに神の旨を理解させているにもかかわらず、あなたがそれを何一つ実践しなければ、あなたは何も得ない。神の言葉を実践する際は、やはり神に祈ることができなければならず、神の言葉を味わう際は、落胆や冷たさを一切感じることなく、神の前に出て求め、神への確信に満ちていなければならない。神の言葉を実践しない者は、集会の際には活力に溢れているが、帰宅すると闇に陥る。中には集会に加わることを望まない者さえいる。そうしたわけで、人が尽くすべき本分をあなたははっきり理解する必要がある。神の旨が本当は何であるか、あなたは知らないかもしれないが、それでも自分の本分を尽くし、祈るべきときに祈り、真理を実践すべきときに実践し、人がなすべきことを行なうことができる。あなたは本来のビジョンを保つことができるのである。そのようにして、あなたは神の働きの次なる段階をより受け入れられるようになる。神が隠れたやり方で働きを行なう際、あなたが求めないというのは問題である。神が語り、集会で説教するとき、あなたは熱心に耳を傾けるが、神が黙しているとき、あなたには活力がなく、引き下がってしまう。どういった人がこのように行動するのか。それは、ひたすら群れに従う人である。そのような人には心構えも証しもビジョンもない。ほとんどの人がこのようなものである。あなたがこうした状態であり続けるなら、ある日、大きな試練に遭遇したとき、懲罰に陥るだろう。心構えをもつことは、神が人間を完全にする過程で極めて重要である。あなたが神による働きのどの段階も疑わず、人間の本分を尽くし、神が自分に実践させている物事を真摯に保つのであれば、つまり、神の忠告を心に留め、神が今日どのような働きを行なっても神の忠告を忘れず、神の働きに疑念を抱かず、自分の心構えを維持し、自分の証しを守り、その道のあらゆる段階で勝利するなら、最終的にあなたは神によって完全にされ、勝利者にされるだろう。神による試練の各段階で揺るぎなく立ち、最後になっても堅く立てるなら、あなたは勝利者であり、神によって完全にされた者である。現在の試練の中で揺るぎなく立つことができないのであれば、今後はいっそう難しくなるだろう。ほんのわずかな苦難を経験するだけで、真理を追い求めないのであれば、あなたは最終的に何も得ない。あなたは手ぶらのままである。神が黙していることを知ったときに追求をあきらめ、心が散漫になる人がいる。こうした人は愚か者ではないか。このような人に現実はない。神が語っているとき、彼らは常に走り回り、表向きは多忙かつ熱心なように見えるが、今や神が黙しているので探求を止めている。こうした者に未来はない。精錬の際、あなたは肯定的な見地から入り、学ぶべき教訓を学ばねばならない。神に祈って神の言葉を読むとき、それと自分自身の状態を比較し、自分の欠点を見つけ、学ぶべき教訓がいまだ多いことを知らねばならない。精錬を経ながら真摯に求めれば求めるほど、自分が不十分であることにいっそう気づく。精錬を経験しているとき、あなたは数多くの問題に直面し、それらをはっきり理解できず、不平を言い、自分の肉を露わにするが、そうすることでのみ、自分の中にあまりに多くの堕落した性質があることを突き止められるのである。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは神への忠誠を保つべきである」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 471

終わりの日における神の働きでは、ヨブの確信さえも超える、途方もなく強い確信が必要とされる。確信がなければ、人は経験を得続けることも、神によって完全にされることもできない。大いなる試練の日が来るとき、教会を去る人がそこかしこにいるだろう。それまでの追求が極めて順調で、なぜ信仰を止めるのかよくわからない人もいるだろう。あなたに理解できない様々なことが起こり、神はしるしや不思議を表わさず、超自然的なことを一切行なわない。こうしたことは、あなたが揺るぎなく立てるかどうかを確かめるのが目的であり、神は事実を使って人を精錬するのである。あなたはまだそれほど苦しんでいない。将来、大いなる試練が訪れるとき、ある場所ではあらゆる者が教会から去り、あなたと良好な関係にあった者たちが信仰を捨てて立ち去るだろう。そのとき、あなたは堅く立っていられるだろうか。現在に至るまで、あなたが経験してきた試練は軽いものだが、あなたはおそらく、やっとの思いでそれらを耐えてきたのだろう。この段階に含まれるのは、言葉による精錬と完全化だけである。次の段階では、事実があなたに降りかかってあなたを精錬し、そのときあなたは厄災のさなかに陥るだろう。ひとたびそれが深刻になれば、神はあなたに急いで去るよう勧告し、宗教関係者があなたを誘惑し、自分たちと一緒に行かせようとするだろう。それは、あなたがその道を歩み続けられるかどうかを確かめることが目的であり、こうしたことのすべては試練なのである。現在の試練は軽いものだが、いつの日か、両親が信仰を止めた家、子どもたちが信仰を止めた家も出てくるだろう。それでもあなたは信仰を続けられるだろうか。あなたが前進すればするほど、あなたの試練も大きくなる。神は人の必要と霊的背丈に応じて、人を精錬する働きを行なう。神が人を完全にする段階において、人の数が増え続けるということはあり得ない。ひたすら減少するだけである。この精錬を通じてでなければ、人は完全にされ得ない。取り扱い、懲らしめ、試練、刑罰、呪いなど、あなたはそのすべてに耐えることができるのか。兄弟姉妹がみな極めて精力的に探求している、とりわけ良好な状況の教会を見ると、あなた自身も励まされる。しかしいつの日か、ある者は信仰を止め、ある者は仕事や結婚のために立ち去り、ある者は宗教に参加するなどして、それら兄弟姉妹が全員立ち去ったとき、あなたは揺るぎなく立てるだろうか。自分の中で影響を受けずにいられるだろうか。神が人間を完全にするのは、それほど単純なことではない。神は様々な物事を活用して人間を精錬する。人はそれらを手段として認識するが、神の本来の意図によれば、それらは決して手段ではなく、むしろ事実である。最終的に、神が人を一定の段階まで精錬し、人に不平が一切なくなったとき、神の働きのその段階は完了する。聖霊の大いなる働きはあなたを完全にすることだが、聖霊が働きを行なわずに姿を隠すとき、その働きは、それにも増してあなたを完全にすることを目的とするものであり、とりわけそうすることで、人々に神への愛があるかどうか、神に対する真の確信があるかどうかがわかる。神が明白に語るとき、あなたが探し求める必要はない。あなたが探し求め、手探りで歩む必要があるのは、神が隠れたときだけである。あなたは被造物としての本分を尽くし、将来の結果や終着点がどのようなものであっても、生きているあいだに神に関する認識と神への愛を求め、そして神があなたをどう扱うかを問わず、不平を言わずにいることができなければならない。聖霊が人の中で働きを行なうにあたっては、一つだけ条件がある。人は渇望して求め、神の行ないに対して気持ち半分になることも、疑念を抱くこともなく、いかなるときも自分の本分を守れなければならない。そうすることでのみ、人は聖霊の働きを得ることができる。神の働きの各段階において、人間に要求されているのは、途方もなく大きな確信と、神の前に出て求めることであり、経験を通じてでなければ、神がいかに愛すべき存在であるか、聖霊が人においていかに働きを行なうかを理解することはできない。あなたが経験せず、模索せず、求めることもなかったとしたら、あなたが得るものはないだろう。あなたは経験を通じて模索する必要があり、自分の経験によってでなければ、神の業を理解し、神の不思議と計り知れなさを認識することはできないのである。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは神への忠誠を保つべきである」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 472

あなたがたは今、道の最終行程にあり、これは道の中でも極めて重要な部分である。おそらくかなりの苦難に耐え、多くの働きを行い、多くの道を歩み、多くの説教を聞いてきたであろう。また現在に至るまでは容易ではなかったであろう。もしも目の前にある苦難に耐えることが出来ず、またこれまでと同様に継続するならば、あなたが完全にされることは不可能であろう。これはあなたを怖がらせようとしているのではなく、事実である。ペテロは神の働きをずいぶん経験した後、ある程度の識見と大いなる分別を得た。またペテロは奉仕の原則をかなり理解し、イエスがペテロに託したことに後になって完全に専念することが出来た。ペテロが受けた大いなる鍛錬は、そのほとんどがペテロが自分の行いにおいて神への借りが大きすぎて決して神に返すことが出来ないであろうと感じたこと、また人間が極めて堕落していることを認識したために良心の呵責を感じたためである。イエスはペテロに対して数多くの言葉を述べたが、その時ペテロはほんの僅か理解したに過ぎなかった。ペテロは依然として、時折反抗したり反逆したりしていた。イエスが十字架に架けられた後、やっとペテロに多少の目覚めが訪れて、自分は酷く罪深いと感じた。最終的には、自分の中に間違った考えがあれば、それを受け入がたいと感じるほどの段階に達した。ペテロは自らの状態と主の聖さをよく知っていた。その結果、主を愛する心がペテロの中で一層膨らみ、ペテロは自らのいのちに一層集中するようになった。それが原因でペテロは大いなる苦難を受け、ときにはあたかも重病を患い、臨終の時が迫っているかのようになることあったが、このような鍛錬を何度も受けた後、自らに関する認識を増やし、そのようにして初めて主への真の愛がペテロの中で育まれた。ペテロはその生涯を鍛錬の中で、そしてそれ以上に刑罰の中で過ごしたと言えるであろう。ペテロの経験は他の誰の経験とも異なり、ペテロの愛は、完全にされなかったあらゆる者の愛を超越していた。ペテロが規範に選ばれたのは、ペテロが人生において最も多くの苦痛を経験し、またその経験が最も成功したからである。あなたがたが真にペテロのように道の最終行程を歩むことができるならば、あなたがたの恵みを奪うことが出来る被造物は一つとしてないであろう。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは道の最終段階をいかに歩むべきか」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 473

あなたは今このような言葉が語られたことを覚えておかなければならない。後に、あなたは一層大いなる困難と苦難を受けるからである。完全にされることは平易なことでも簡単なことでもない。少なくともヨブのような信仰、あるいはそれ以上の信仰をもっていなければならない。将来の試練はヨブの試練よりも大いなるものであり、その上に長期的な刑罰を受ける必要があるということを知るべきである。それは簡明なことであろうか。あなたの能力を向上させることが出来ず、あなたの理解力は不足し、知識は過少であったならば、その時あなたが証しに立つことはなく、サタンの冗談や玩具となるであろう。現在、ビジョンを持ち続けることが出来ないならば、あなたには全く基礎がなく、将来は捨て去られるであろう。道はいずれの部分も歩み難いので、軽く考えてはならない。今、そのことを入念に斟酌し、道の最終行程をいかに適切に歩むかを準備しなさい。それが将来歩むべき道であり、あらゆる者がその道を歩まなければならない。こうした現在の認識を一方の耳から入って他方の耳から出るように聞き流してはならず、わたしの話がすべて息の無駄使いだと考えてはならない。あなたがわたしの話を役立たせる日が来るであろう。言葉は無駄に語られることがない。今はあなた自身を将来に向けて準備する時であり、将来への道を開く時である。後に歩むべき道を準備し、後にいかに揺るぎなく立つことが出来るかを心配し、憂慮し、将来の道に向けて周到に準備すべきである。貪欲で怠惰になってはならない。あなたは出来る限りを尽くして、時間を最大限に活用し必要な事を全て得る必要がある。わたしはあなたが理解できるようにあなたに全てを与えている。あなたがたはわたしがこの三年弱のうちに多くの事を語り、多くの働きを行ったのを、自ら目のあたりにしてきた。このように働きを行うのは、ひとつには人間には不足する事が多すぎるという側面があり、また時間が極めて限られていて、これ以上の遅れは許されないという側面がある。あなたの想像する仕方に基づけば、人々は証しできるようになり、用いられるようになる前に、先ず完全な内面的明瞭さを得なければならないのだが、――それは遅すぎるではないか。それでは、わたしはどの程度の期間にわたってあなたに付き添う必要があるのであろうか。わたしが年老いるまであなたに付き添わせようとしても、それは不可能であろう。一層大いなる苦難を受けることにより、万人の中で真の知識が実現されるであろう。それらがこの働きの過程である。今日伝えられたビジョンを、あなたが完全に理解して、真の霊的背丈を得たならば、今後どのような苦難を受けようとも、それがあなたを圧倒することはなく、あなたはそれらを耐えしのぐ事が出来るであろう。わたしが働きのこの最終段階を完了し、最後の言葉を述べ終えた時、将来において人々は自らの道を歩まなければならないであろう。これは前に述べられた言葉を成就することになる。すなわち聖霊は一人ひとりのために任務と、一人ひとりの中で行うべき働きをもっている。今後、各人は聖霊に導かれて歩むべき道を歩むであろう。苦難を受ける時に、誰が他の人たちを世話することが出来るだろうか。各個人には独自の苦難があり、それぞれの霊的背丈がある。ある者の背丈は他の誰の背丈とも異なる。夫は妻の世話をせず、親も子の世話をすることはないであろう。他人の世話が出来る者は誰もいないであろう。現在とは異なるが、相互の世話と支援は依然として可能である。それはあらゆる種類の人間が暴かれる時となるであろう。すなわち、神が羊飼いを打つ時、羊の群れは散らされるのであり、その時あなたがたには真の指導者が不在となる。人間は分割されるであろう。それは信徒団として集うことの出来る現在とは異なる。後に、聖霊の働きがない者は、自分の真の姿を現すであろう。夫は妻を裏切り、妻は夫を裏切り、子は親を裏切り、親は子を迫害するであろう。人間の心は予想出来ない。出来ることは自分のもつものに頼り、道の最終行程をよく歩むことだけである。あなたがたは現在このことを明瞭に理解できず、皆目先の事しか考えていない。この働きの段階を上手に通過するのは、容易いことではない。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは道の最終段階をいかに歩むべきか」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 474

多くの人は、自分がいずれ辿りつく終着点のため、あるいは一時的に楽しみにあずかるために神を信じている。神による取り扱いを経験したことのない者にとって、神を信じることは、天国に行くためであり、また見返りを得るためなのであって、完全にされるためでも、被造物としての本分を尽くすためでもない。つまり、ほとんどの人は、その責任を果たしたり本分を完了したりするために神を信じているのではないのである。意味ある人生を送るために神を信じている人はほんのわずかで、「人は生きている以上、神を愛すべきである。なぜなら、そうすることがごく当然で正しいことであり、またそれが人の天職である」と信じる人もめったにない。このように、人はそれぞれ追い求める目標が違うが、その追求の目的と裏に在る動機はどれも似通っており、しかも、それらの人々は崇拝の対象が大体同じなのである。過去数千年に渡り、多くの信徒が死に、そして多くの信徒が死んで甦った。神を追い求めているのは一人二人というものではなく、千人二千人でさえ足りないが、そのような人々のほとんどは、個人の前途や未来の輝かしい希望のために神を求めているのであり、キリストに身を捧げている者はごく少数である。熱心な信徒でさえ、そのほとんどが自らの罠に陥って死に至っており、そのうえ、勝利を収めた者の数はほんのわずかである。そして、今日に至るまで、人が失敗してきた原因、あるいは勝利の秘訣を彼らは依然知らない。キリストを熱心に追い求める人たちでさえ、未だに突然の識見を得たわけでもなく、これらの奥義の真相を突き止めたわけでもない。彼らはただ本当に知らないのである。彼らは、涙ぐましい努力をして求めるが、その歩む道は、成功へのそれではなく、既に先駆者が失敗した道なのである。そう考えると、どのように求めたにせよ、それは闇へ向かう道を歩いているということではないだろうか。結局彼らが得るのは苦い果実だけではないのか。過去に成功した者をまねる人が結果的に幸運を得るのかそれとも不運に見舞われるのかということすら予想困難であるのに、過去に失敗してきた人の跡をたどる人の勝算がどれほどあるだろう。失敗する可能性は更に大きいのではないか。彼らの歩む道に何の価値があるというのか。時間の無駄ではないのか。人がその追求に成功しても失敗しても、要するにいずれの結果でもその原因があるのだ。そして成功するか失敗するか、それは思うままに自由に追い求めることでは決まらないのである。

『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 475

人が神を信じるために最も基本的なことは、その人が誠実な心を持ち、完全に自分を捧げ、また本当に従うことである。人にとって最も困難なことは、真実なる信仰を得ることと引き換えに、自らの全人生を捧げることだが、それができれば、人は完全なる真理を得ることができ、被造物としての本分を尽くすことが出来るのである。これは、失敗した人たちは会得できないものであり、キリストに出会うことができない人にとっては更に到達できないことなのである。人は、神にそのすべてを捧げることが得意でなく、創造主に対する本分を進んで尽くそうともせず、真理を知ったにも関わらずその道を避けて自分の道を行き、これまで失敗した人の道に沿って追い求め、常に天に背くことで常に失敗し、サタンの誘惑に負け、自らしかけた罠に落ちてしまうのである。人はキリストを知らず、真理を理解し経験することに長けておらず、パウロを過剰に崇拝し、天国に入る欲求だけ強く、キリストが人に従うことを常に要求し、そしてひたすら神に対してもあれこれ指示をする。それだから、偉人と言われる人たちやこの世の苦難を経験した人たちでさえも死を免れず、神の刑罰により死ぬのである。このような人たちについては、非業の死を遂げると言うしかないが、彼らの結末、つまりその死は正当化するだけの理由があるのだ。そういう人たちの失敗は、天の法則にとってさらに耐えがたい事ではないだろうか。真理とは、人の世から出るが、人の世の真理は、キリストによって伝えられるのである。真理とはキリスト、すなわち神自身から来るものであって、それは人には不可能なことである。しかし、キリストは真理を提供するだけであって、人が真理を追い求めるのに成功するかどうかを決めるために来るのではない。よって、真理を追い求めるのに成功するか失敗するかは、すべて人の追求にかかっている。これは元々キリストとは一切関係がないものであり、人の追求によって決まるものなのだ。人の終着点やその成功と失敗の責任を神に押し付け、その責任を負わせてはならない。なぜなら、それは神自身には関係がなく、被造物が尽くすべき本分に直結していることだからである。多くの人は、パウロやペテロが追い求めたこと、そして二人の終着点くらいは知っていても、二人の結末以上には何も知らず、ペテロの成功の裏にある秘訣あるいはパウロの失敗を招いた欠点については何も知らない。だから、彼らの追求の本質を見極めることが全くできないのであれば、あなたがたの追求のほとんどは失敗に終わるだろうし、あなたがたの内、僅かな者が成功したとしても、ペテロの成功の比ではない。あなたの追求の道が正しいものであれば、成功への希望がもてるだろうが、あなたの真理を追求する道が間違ったものであるならば、永遠に成功することはできず、パウロと同じ結末を迎えることになる。

『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 476

ペテロは、完全にされた人だった。彼は、神の刑罰と裁きを経験し、神への純粋なる愛を得て初めて、完全にされたのである。彼の歩んだ道は、完全にされるための道だったのである。要するに、最初から、ペテロの歩んだ道は正しく、彼が神を信じる動機もまた正しいものであったから、彼は完全にされる人となり、以前に人が歩んだことのない新しい道を歩んだのである。しかし、パウロが最初から歩んだ道はキリストに逆らうものであり、ただ聖霊がパウロを用い、彼の賜物、彼のあらゆる長所を利用して業を行おうというだけで、彼はキリストのために何十年も働いたのである。パウロは聖霊に用いられただけで、キリストがパウロの人間性を好意的に見たから用いたのではなく、ただその賜物ゆえだったのである。パウロがキリストのために働くことが出来たのも、喜んでそうしたかったからではなく、聖霊に打たれてそうしたのである。彼がそのような働きができたのも、聖霊による導きと啓きによるもので、彼の働きが彼の追求や人間性を表しているのでは決してない。パウロの働きは、しもべのそれ、つまり一人の使徒の働きを表しているのである。しかしペテロはそうではなかった。彼も何かしらの働きをなしたが、パウロの働き程のものではなく、自分の霊的な成長を追い求める中で働き、そして彼の働きはパウロのそれとは異なるものだった。ペテロの働きは、被造物の本分を尽くしたものである。彼は使徒としての立場で働いたのではなく、神への愛を追い求めながら働いたのである。パウロもまた、働きの過程で個人的な追求が含まれていたが、彼の追求は、彼の将来への希望と良き終着点への願い以外にはなかったのである。パウロは、働きを行う間、精錬を受け入れなかったし、神による刈り込みや取り扱いも認めなかった。彼は自分の働きが神の望みを満たしてさえいれば、そして神に喜ばれることだけをしてさえいれば、最終的に見返りが与えられると信じていた。パウロの働きには個人的な経験は一切なく、働きそのもののためにあり、変化を追い求める中で働いたのではなかった。その働きの全ては取引きであって、被造物としての本分や神への服従は含まれていなかった。その働きの過程において、パウロの古い性質には何ら変化はなかった。彼の働きは単に他者への奉仕であり、自らの性質を変えることはできなかったのである。パウロは完全にされることも神による取り扱いを受けることもなく、自分の働きを直接行い、見返りを動機として働いたのである。その点ペテロは違った。彼は、刈り込みを受け、取り扱われ、精錬された。ペテロの働きの目的と動機は、パウロのそれとは根本的に違っていた。ペテロはそれほどたくさんの働きをなしたわけではないが、彼の性質は多くの変化を経験し、彼が追い求めたものは真理であり、真の変化であった。彼の働きは単に働きそのもののために行われたのではなかった。一方でパウロは多くの働きをなしたが、それらは全て聖霊の働きであって、パウロは協力していたものの、彼自らが経験することはなかったのである。ペテロの働きが少ないのは、聖霊が彼を通してそれほど働きを行わなかったからに過ぎない。その働きの量では、彼らが完全にされたかどうかは決まらない。彼ら二人の内、一人は見返りを得るために追い求めたのに対し、もう一人は、神への究極の愛に到達し、被造物としての本分を尽くすことを追い求め、神に満足してもらうために愛に満ちた姿を実現することを求めた。彼らは、外見も違えば中身も違った。二人の内のいずれが完全とされたのかを、それぞれの働きの量から決めることはできない。ペテロは、神を愛する人の姿を生きること、神に従い、神による刈り込みや取り扱いを受け入れ、そして被造物としてのその本分を尽くす者になることを追求した。彼は自らを神に捧げ、全てを神の手に委ね、そして死ぬまで神に従った。ペテロはこのように決意し、実際その通り成し遂げた。これが、ペテロの最後がパウロのそれと異なる根本的な理由だ。聖霊がペテロに対して行った働きは、彼を完全にするものであり、一方で聖霊がパウロに対して行った働きは彼を利用するためであった。それは、この二人の本性、そして追求に対する考え方が同じではなかったからである。両者とも聖霊の働きを受けたが、ペテロはそれを自分自身に実際に用い、そして他者にも与えた一方で、パウロは、聖霊の働きの全てを他者に与え、自らは一切何かを得ることはなかった。このように、聖霊の働きを長年経験した後、パウロ自身の変化はほとんど無きに等しかった。彼は、自身の自然体を維持し、以前のパウロのままであった。それは単に長年の働きにおける困難を乗り越えた後に、働く方法と忍耐力を学んだだけであり、彼の本来の性分、つまり非常に負けず嫌いで、貪欲な本性は、相変わらずそのままであった。そうして長年働いた後、パウロは、自分の堕落した性質も自覚していなければ、以前の古い性質も捨てていなかったため、それらの古い性質が彼の働きにおいても明らかに見て取れた。彼の働きの経験量そのものは多かったが、それでもその経験量では僅かすぎて、彼自身そして彼の追求の存在価値や意義に対する考え方を変えることはできなかったのである。彼は長年キリストのために働き、二度とキリストを迫害することはなかったが、彼の心の中では神に対する認識が変わることはなかった。このことは、彼が神に献身するために働いていたというより、彼の将来の終着点のためにやむなく働いていたことを意味する。パウロは最初キリストを迫害し、キリストに従わなかった。つまり、本来彼は意図的にキリストに逆らった人間で、聖霊の働きについての認識を何も持っていなかった。パウロはその働きを終えようとしていたときでさえ、まだ聖霊の働きを知らなかったし、聖霊の意思に僅かな注意も払うことなく、元来の自分の性格に沿って自分の意思で行動していただけである。従って、彼の本性は、キリストに敵対するものであり、真理には従わないものである。このように聖霊の働きに見捨てられた者、聖霊の働きを知らなかった者、そしてキリストに敵対した者、そんな人間がどうして救われるというのか。人が救われるか否かというのは、働きの量や献身の度合いによるのではなく、聖霊の働きを知っているかどうか、真理を実践できるかどうか、そしてその追求に対する考え方が真理と一致しているかどうかで決まるのである。

『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 477

確かにペテロもキリストに従い始めてから、天然の表現があったが、本性から言えば、最初から彼は喜んで聖霊に従い、キリストを追い求めた人であった。彼の聖霊への服従は純粋なものであり、彼は富や名声を追い求めず、真理に従うことが動機だった。ペテロは三度キリストを否定し、主イエスを試したが、そのような僅かな人間の弱さは、彼の本性には関係しないし、彼の将来の追求に影響を及ぼさない。さらに彼の試みが反キリスト的であったということを充分に証明するものでもない。普通人間の弱さというものは、この世の万人に共通するものであるが、ペテロも同じではないだろうか。人がペテロに対して偏見を持っているのは、ペテロが幾つか愚かな間違いを犯したからではないか。人は、パウロが行った多くの働きや彼が書いた多くの書簡から、パウロを賞賛しているのではないか。一体どうやって人が人の本質を見極めることができるというのか。真に、本当の理知を持つ人であれば、こんな取るに足らないことは見極められるのではないか。ペテロの長年にわたる苦難は聖書に記されていないが、それでペテロが実際それらを経験しなかった、あるいはペテロは完全にされていなかったとは証明できない。人がどうやって神の働きを完全に理解できるというのか。聖書の中の記録は、キリストが個人的に選び取ったわけではなく、後世の人によって編集されたものなのである。であれば、聖書の中の記録は全て人の考えによって選ばれたということにならないだろうか。さらに、ペテロとパウロの最後は、使徒書簡の中には明確に書かれていないため、人はペテロとパウロを自分の見方や好みで判断する。そして特にパウロの働きが多く、そのすばらしい「功績」のために、彼は万人の信頼を得たのである。人は表面的な事だけを重んじてはいないだろうか。一体どうやって人が人の本質を見極めることができるというのか。しかも、パウロは何千年にもわたって崇拝の対象だったことを見れば、誰が敢えて彼の偉業を安易に否定するだろう。ペテロは単なる漁師だったのだから、その貢献度がパウロと同じであるはずがない。貢献の度合いを基準にすれば、ペテロよりも先にパウロが見返りを与えられ、神に認められるのに相応しい者なのである。それなのに、神がパウロに対しては、単純に彼の賜物を利用して働きを行わせ、一方でペテロは完全にされるということを誰が想像できただろう。これは、主イエスが最初からペテロとパウロのために計画を立てたということでは決してなく、彼らは、その本来持っている性質に応じて、完全にされた若しくは働きを与えられたのである。よって、人々の目に見えるものは、単に人の表面上の貢献なのであり、一方で神が見るのは人の本質であり、人が最初から追い求める道であり、そしてその人の追求の動機なのである。人は、他人を自分の観念と受け止め方で測るが、一人の人間の結末は、その人のうわべで決まるわけではない。それだから、あなたに言いたいのは、あなたが最初から選ぶ道が成功の道であり、あなたの追求に対する見方が最初から正しいものであれば、あなたはペテロのようである。そして、あなたが歩む道が失敗の道であるならば、いかなる代価を払おうが、あなたの最後は、パウロのそれと同じである。いずれの場合であっても、あなたの終着点、そしてあなたが成功するか失敗するかは、あなたが追求する道が正しいかどうかで決まるのであって、あなたの献身の度合いやどれくらいの代価を支払ったかで決まるのではない。ペテロとパウロの本質、そして彼らが追い求めた目標はそれぞれ異なるものだった。人がこれらのことを発見することは不可能であり、神のみがそれらを全て知っているのである。というのは、神は人の本質を観ているが、人は自らの本質が一体何なのか全く知らないからである。人は、人の内側の本質あるいは自分の実際の霊的背丈を見ることはできないから、パウロの失敗とペテロの成功の理由を見つけることができないのである。多くの人がペテロではなくパウロを崇拝する理由は、パウロが公の働きのために使われ、人がその働きを実際に見られるため、パウロの「功績」を認めることが可能だからである。一方でペテロの経験は、人には見えないものであり、また彼が追い求めたものは人には達成できないことのため、人はペテロに興味を持たないのである。

『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 478

ペテロは、神の取り扱いと精錬を経験することで完全にされた。彼はこう言った。「私は、いつでも神様の望むことを叶えるべきで、私のすることの全てが神様の心を満足させることだけを望む。たとえ罰せられても裁かれても、喜んでそうする」と。ペテロは自分の全てを神に差し出し、その働きや言葉そして彼の人生そのものも全て神を愛することのためにあった。ペテロは聖さを追求した人であり、経験を重ねるごとに、彼の心の奥深くにある神への愛はより大きくなったのである。しかしパウロの方は、表面的な働きをした。実際パウロもよく働いたが、彼の労働は、自分の働きを適切に行うことで見返りを得るためのものであった。パウロは、最終的に見返りを得られない事を知っていたなら、その働きを放り出していたに違いない。ペテロが大切にしていたのは、彼の心の中の本当の愛であり、現実的で達成できるものであった。ペテロは、見返りを貰うことではなく、自分の性質が変わるかどうかに重きを置いた。一方でパウロは、より一層努力をして働くこと、表面上の働きや献身、そして普通の人たちが経験することのない教理を大事にした。パウロは、自分自身の心の奥深くの変化にも、神への真の愛にも一切興味がなかった。ペテロの経験は、真の愛そして神についての真の認識を得るためであり、神とより近い関係を築くためであり、それらを生活で実践することであった。パウロが働いたのは、イエスによって委任されたからであり、また彼が待ち望んでいるもののためであったが、これらのことは、彼自身に対する認識や神に対する認識とは全く関係がなかった。彼の働きは、単に刑罰と裁きを避けるためのものであった。ペテロが追い求めたものは純粋な愛であったが、パウロが追い求めたものは義の栄冠であった。ペテロは聖霊の働きを長年経験し、キリストについて実質的な認識を持ち、同時に自分自身に対する認識も深かったから、ペテロの神への愛は純粋なものであった。ペテロは長年の精錬を経て、イエスの認識、そしていのちの認識を深めた。彼の愛は無条件で能動的であり、また彼は見返りを求めず何の利益も望まなかった。パウロの方は、非常に長い間働きを行ったにもかかわらず、キリストについては良く認識しておらず、自分自身についての認識もごくわずかであった。パウロは、キリストに対する愛を単に持っていなかったのである。そしてパウロが働き、その道を走り続けたのは、最後に栄冠を得るためであった。彼が追い求めたのは最も美しい冠であって、最も純粋な愛ではなかった。またパウロの追求は、能動的ではなく、受動的だった。パウロはその本分を尽くしていたのではなく、聖霊の働きによって捕えられた後、やむを得ず追求したのである。だから彼の追求は、被造物として相応しいという証明にはならない。被造物の資質を持って本分を尽くしたのはペテロである。人は、神に捧げる人は全て見返りを受けるべきだと考え、また奉仕が大きい人ほど、神に喜ばれるべきということが当然だと思っている。人の観点の本質は取引きという考え方であり、被造物としての本分を尽くすことに対しては積極的に追い求めないのである。神にとっては、人が神への真の愛と完全なる服従を追い求めれば追い求めるほど、つまり神の被造物として本分を尽くすことを追い求めれば追い求めるほど、神に認められるということになる。神の観点は、人が元々の本分と地位に立ち返ることを要求することである。人は被造物なのだから、自らの立場を乗り越えて神に何らかの要求をするというようなことはすべきでなく、ただ被造物としての本分を尽くすべきなのである。パウロとペテロの終着点は、彼らの貢献度ではなく、被造物としての本分を尽くせたかどうかに基づいて判断された。つまり、彼らの終着点は、どれほどの働きを行ったかあるいは世の人が彼らに対してどのような評価を下したかによってではなく、彼らが最初から何を追い求めていたかに基づいて決められたのである。よって、積極的に被造物としての本分を尽くすために探し求めることが成功の道であり、さらに神に対する真の愛を追い求めることが最も正しい道であり、自らの古い性質の変化と神への純粋な愛を追い求めることが、成功への道である。そのような成功への道こそ、被造物としての本来の姿、そして元々の本分を回復する道なのである。それは回復の道であると同時に、神の初めから終わりまでの全ての働きの目的でもある。人の追求が個人的な贅沢な要求と不合理な望みで汚れているのなら、人の性質を変化させる効果は達成できない。これは回復の働きと食い違うことになる。よって間違いなく聖霊による働きではなく、このような追求が神に認められることがないのは確かだ。神に認められないのであれば、追い求めることに何の意味があるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 479

パウロによる働きは人々に公然と示されてきたが、彼の神への愛は、実際どれほど純粋で、また彼の心の中でどれほど深く根付いていたのだろうか――それは人が見て確認できるものではない。人は、パウロが行なった働きのみを見ることができ、その働きから彼が確かに聖霊に使われたのだということを知る。そのため人はパウロがペテロよりも優れていたと考え、またパウロが諸教会に施す働きをしていたために、彼の働きの方が優れていたと考えるのである。一方ペテロは、個人の経験のみに集中し、彼の時折の働きの際にわずかな人を獲得しただけであった。さほど知られていない書簡を2~3書いただけであったが、彼の心の奥深くの神への愛がどれほどすばらしかったかを知っていると言えるだろうか。パウロは、明けても暮れても神のために働いた。しなければならない仕事がある限り、パウロは実行した。彼は、そのようにして栄冠を手に入れ、神に満足してもらえると考えたのだ。しかしパウロは、働きを通して自分が変われる道を追求しなかった。一方で、ペテロは、生活の中で神の望むことを叶えられなかったときは、それが何であろうが彼を不安にさせた。ペテロは、神の望みを叶えられない時には悔い、神の心を満たすために適切な方法を探そうと努力した。彼は、その生活のどんなに些細なことにおいても、神の望みを叶えるよう自分に要求した。自分の古い性質のことにも厳しく、そしてより深い真理の探究を進めることに対しては常に厳しく自分に要求した。一方で、パウロは表面上の名声や地位を追い求めた。彼は、人前で披露して自慢するために追い求め、自らのいのちの成長をより深く追い求めることはしなかった。彼が重視したのは、教義であり現実的なことではなかった。人によっては、「パウロは神のために非常に良く働いたのに、なぜ神に覚えてもらえないのか。ペテロが神のために働いたのはほんのわずかであり、諸教会に対して大きく貢献したわけでもないのに、なぜ彼は完全にされたのであろうか」と言うかもしれない。ペテロは、神が要求する程度まで十分神を愛した。このような人のみが、証しとなる人なのである。ではパウロはどうなのか。パウロがどの程度まで神を愛したかをあなたは知っているだろうか。またパウロが働いた理由はなんだったのか。同時にペテロの働いた理由はなんだったのか。ペテロには、さほどの働きはなかったが、あなたはペテロの心の奥深くにあったものを知っているだろうか。パウロの働きは、諸教会に必要なことを提供し、そして彼らを支えることであった。ペテロが経験したものは自身のいのちの性質の変化であって、彼は神への愛を経験したのである。これであなたは彼らの本質がどう異なるかを理解したのだから、最終的にどちらが真に神を信じていたのか、そしてどちらが実は神を真に信じていなかったかが解るはずだ。一人は神を真に愛し、もう一人は神を本当には愛していなかった。一人は自らの性質の変化を経験し、もう一人は経験しなかった。一人は謙虚に仕え、人からは容易に気づかれず、もう一人は人々から崇拝され、素晴らしい印象を残した。一人は聖さを追い求め、もう一人はそうではなく、不純ではなかったが純粋な愛も持ち合わせてはいなかった。一人は本当の人間性を持ち合わせていたが、もう一人はそうではなかった。一人は被造物の理知を持っていたが、もう一人はそうではなかった。これらがパウロとペテロの本質の違いである。ペテロが歩んだ道は成功の道であり、それは同時に人の正常の人間性と被造物の本分を回復する道でもある。よってペテロは成功する全ての人の代表である。一方でパウロが歩んだ道は失敗の道であり、表面上は服従し労力を費やしているが本当に神を愛してはいない人の代表である。彼は真理を持たない全ての人を代表しているのである。ペテロは、神を信じる中で、全てにおいて神を満足させること、そして神から来るもの全てに従うことを追い求めた。そしてペテロは不平一つ言わず、刑罰や裁きと同様に、精錬、苦難と生活上の欠乏も受け入れ、そのいずれも彼の神への愛を変えることはなかった。これこそ神への究極の愛ではなかっただろうか。これこそ被造物の本分を尽くすということではないだろうか。刑罰、裁き、試練――これらの中にあっても、死に至るまで従順であることができ、そしてこれこそが、被造物が達成すべきことであり、神への純粋な愛である。仮に人がここまで達成できたのなら、その人は被造物として相応しいということであり、これ以上創造主の満足を得られることはないであろう。神のために働くことができるのに、神に従わず、また神を真に愛することができないということを想像してみてほしい。このような場合、あなたは、真理を持たず、神に従うことができず、神に反抗しているがために、被造物の本分を尽くすことがないばかりか、神に非難されるのである。あなたは、神のために働くことしか考えず、真理を実践することあるいは自分自身を知ることに無関心である。あなたは、創造主を理解できず、また知ることもせず、創造主に対して従うことも愛することもしない。あなたは生まれつき神に背いている人間なのだから、そのような者は、創造主に愛されないのである。

『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 480

一部の人は次のように言っている。「パウロは、本当に多くの仕事をし、諸教会に対して非常に重荷を感じ、多大な貢献をした。パウロの十三の書簡は、恵みの時代を二千年間支え、それは四福音書の次に大きな功績だ。そのパウロを誰と比較できると言うのか。ヨハネの黙示録は誰も読み解けないが、パウロの書いた手紙は人にいのちを与え、その働きは全て教会のためになった。パウロでなければ達成できなかったことではないだろうか。それに比べて、ペテロが何の働きをしたのか」と。人は、他人を評価するとき、その人のなした功績によって判断する。神が人を評価するときには、その者の本性を見る。いのちを追い求めている人の中で、パウロは自分の本質を知らない人であった。彼は謙虚でも従順でもなかったし、自分の神に反している本質さえも知らなかった。それゆえ、パウロは、細部にわたる経験を持たず、真理を実践した人ではなかった。だがペテロは違った。彼は自分の不完全さ、弱さ、そして被造物としての堕落した性質を知っていたから、自分の性質を変化させるための実践の道があった。彼は教義だけで現実性を伴わないという人間ではなかった。変わることができた人は救われて新たにされた人であり、真理を追求するに相応しい。それに比べて、変わらない人はありのままが旧式なタイプの人々である。彼らは救われなかった人、つまり神に嫌われ拒否された人々なのである。いかにその働きが素晴らしくても、神に覚えてもらえることはない。あなたがこのことを自らの追求と比べるとき、究極のところペテロとパウロのいずれの方と同じなのかということが、おのずと分かってくるはずである。あなたが追い求めるものの中にやはり真理がなく、今日においても未だパウロのように尊大で、自画自賛してばかりいるなら、あなたは間違いなく失敗するくずである。あなたがペテロと同じものを追い求め、つまり実践と真の変化を求めて、同時に放漫でも強情でもなく本分を尽くすことを求めるならば、被造物として勝利を達成できる。パウロは自分自身の本質も堕落も知らず、またどれほど反抗的かについてはほとんど知らなかった。パウロは一度も自分のした卑劣なキリストへの公然たる抵抗には言及せず、十分に悔やむこともなかった。パウロはそれに関して簡単な説明をしただけで、心の奥底では神に対して完全に服従していなかった。パウロはダマスコへ行く道で倒れたが、彼は本当に心の深い部分では自分を反省しておらず、単に絶えず働くことに満足し、自分を知ってその古い性質を変えることが肝心なことだとは考えなかったのである。彼は真理を話すこと、自分自身の良心を慰めるために他者に施し、二度とイエスの弟子を迫害しないことで自らを慰め、過去の罪を赦すことで満足していたのである。パウロが目指したのは、単に未来の栄冠と儚い働きでしかなく、また彼の求めた目標は、豊かで溢れんばかりの恵みだった。パウロは、十分に真理を追求せず、また過去に理解できていなかった真理をより深く追求しようともしなかった。だからパウロは、自分自身に対する認識が間違っていたともいえるし、彼は刑罰も裁きも受け入れなかった。パウロが働くことができたからといって、彼が自分の本性あるいは本質について認識があったことを意味するわけではない。パウロは表面上の実践だけに集中し、何より認識を求めて努力したのであり、変化を求めていたわけではなかった。パウロの働きは、完全にダマスコへの道でキリストと出会った結果だけによるものであり、それは彼が最初から持っていた志ではなく、また自分の古い性質に神の刈り込みを受け入れた後の働きでもなかった。いくら働いても、パウロの古い性質が変わることはなく、よって彼の働きは、彼の過去の罪を償うことはなく、ただ当時の諸教会の間で一定の役割を果たしたに過ぎなかった。このように古い性質が変わらない人、つまり、救いを得ることがなく、さらには真理を知らない者は、主イエスに認められる人には絶対になれない。パウロは、イエス・キリストに対する愛と畏敬に溢れていたわけではなく、真理を探求することに長けていたわけでもなく、ましてや受肉の奥義を探し求めた人ではなかった。彼は単に詭弁に長けた人、そして自分より優れている人あるいは真理を備えた人に対して従わない人だった。パウロは、自分とは著しく違うあるいは敵対する人や真理を妬み、賜物があって印象深く、豊かな知識を備えた人を好んだ。真理を追い求め真理だけを重んじる貧しい人々と交流するのを好まず、代わりに、教理についてばかり語り、知識が豊富な宗教組織の長老格とばかり交流した。パウロは聖霊の新しい働きに対しては愛情がなく、聖霊の新しい働きの動きにも興味がなかった。代わりに彼は、一般的な真理より高い教義や教理を好んだ。パウロの生まれつきの本質と彼が追い求めたことの全てを見ても、彼は、真理を追求したキリスト者と呼ばれるに相応しくなく、ましてや神の家の忠実なしもべと呼ばれる資格などない。パウロはあまりに偽善的で、あまりに反抗的だったからだ。パウロは主イエスのしもべとして良く知られているが、最初から最後まで彼の行いは義とすることができないことから、彼は、天の国に入る資格を持っているとは全く言えない。よってパウロは、単に偽善の人、そして不義を行う人だが、キリストのために働いたこともある人として見ることができる。パウロを悪とすることはできないが、不義を行う人と呼ぶのが適当なのだ。パウロは多くの働きをなしたが、その働きの量ではなく、その働きの質と本質に基づいて判断されるべきである。そうしてこそ、この問題の真相を究明できる。パウロは常にこう信じていた。「私には神のために働く能力があって、普通の人より優れている。他の人以上に神の負担を思いやることができるし、私ほど深く悔い改める人もいない。私には大いなる光が注ぎ、自分の目でも大いなる光を見たのだから、私の悔い改めは誰よりも深いはずだ」。これが、当時パウロが心の内で考えたことであった。パウロの働きが終わるとき、パウロは言った。「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終えました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです」。と。パウロの言う戦い、働き、そして道のりは全て、義の栄冠を受けるためのものであって、彼は積極的に向上しようとしていたわけではなかった。彼の働きにおいて、いい加減ではなかったが、その働きは単に自らの過ちを補うため、そして良心の呵責に悩まされないためのものだったと言える。パウロが望んだのは、与えられた仕事を完了させ、走るべき道を完走し、そして戦いをなるべく早く終えて、自分の待ち望む義の栄冠を一日でも早く得ることだけであった。彼が望んだのは、自らが経験と真の認識を備えることで、主イエスに会うことではなく、自らの働きを早く終わらせることで、主イエスに会ったときに、彼の働きに見合った見返りを受け取るためであった。つまりパウロは、その働きによって自らを慰め、またその働きを以て未来の栄冠に換える取引きをしたのである。パウロが追い求めたものは、真理でも神でもなく、ただ栄冠だけであった。どうして、このような追求が条件に適うといえようか。パウロの動機、働き、支払った代償、そして費やした労力全てに、彼のすばらしく途方もない空想が浸透していて、彼は完全に自分の願望に従って仕事をしたのである。パウロは、彼の働き全体において、心から喜んで代価を払ったことが少しもなく、単に取引きをしていたのである。パウロは本分を尽くすためには喜んで努力せず、取引きの目的を達成させるためには喜んで努力した。そんな努力に何の価値があるのか。一体誰が彼の不純な努力を良しとするだろうか。だれがそのような努力に興味を持つだろうか。彼の働きは将来の夢と素晴らしい計画とに溢れていたが、人の性質を変えるような道は含まれていなかった。彼の慈愛のほとんどが見せかけであり、彼の働きはいのちを与えるどころか、偽りの礼儀正しさを装っていただけであった。それは単なる取引きだったのである。このような働きが、どうして人を本来の本分を回復する道へと導き入れることができるというのか。

『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 481

ペテロが追い求めた唯一のもの、それは神の心であった。彼は神の心を満たすことを追い求め、苦難や逆境に遭っても、喜んで神の望みを叶えようとした。神を信じる者として、これ以上の追及の形はない。だがパウロが追い求めたものは、彼自身の肉的なもの、観念、自分の計画と企みによって汚れていた。パウロは決して被造物として相応しいとはいえず、また彼は神の心を満たすことを追求する人でもなかった。一方でペテロは神の指揮に従い、その働きはそれ程大きくなかったものの、彼の追求の裏にある動機、そして歩んだ道は正しいものであった。ペテロは、それほど多くの人を獲得したわけではなかったが、ペテロは真理の道を追い求めることができたのである。このために、ペテロは被造物として相応しいといえるだろう。今日、たとえあなたが働く者ではなくても、あなたは被造物の本分を尽くせなければならず、神の指揮すること全てに対する従順を追い求めることができなくてはならない。あなたは神の言うことは何であろうと全てに従えなくてはならず、どんな試練や精錬でも経験し、たとえ自分が弱くても心の中で神を愛せるはずである。自分のいのちに責任を持つ人は、喜んで被造物の本分を尽くす人であり、そういう人の追求への見解が正しいのである。神はこのような人を必要とされるのである。仮にあなたが多くの働きを行なって、人々がその教えから学んだが、あなた自身は変わらず、しかも何の証しも真の経験も持たず、死の直前になってもあなたのしたことに何の証しもないままだとしたら、あなたは変えられた人だと言えるだろうか。また真理を追い求める人であったと言えるだろうか。聖霊があなたを用いる時、単にあなたのうち働きに使える部分を用いるのであって、そうでない部分は用いない。あなたが変わることを追い求めるのであれば、用いられる過程で徐々に完全にされるはずである。それでも聖霊は、あなたが最終的に神のものとされるかどうかに責任を負うことはなく、それはあなたがどう追い求めるか次第なのである。もし個人的な性質に変化がなければ、あなたの追求に対する観点が間違っていることになる。また何の見返りも受けられなければ、それはあなたの問題であり、あなたが真理を実践せず神の心を満足させることができないことが原因である。要するに、個人的に経験すること以上に重要なことはなく、個人の霊的な成長こそ最も肝心だということである。人によっては最後にこう言うだろう。「私はあなたのために大いに働きました。確かにそれほど大きな功績があるわけではないかもしれませんが、真面目に努力してきました。だからどうぞ、私を天国に入れていのちの果実をいただけませんか」と。あなたはわたしがどのような人間を求めているかを知らなければならない。不純な人間は神の国に入ることを許されないし、また不純な人間が聖地を汚すことも許されない。あなたがたとえどれほど長くまたどれほど多くの働きを行なってきたとしても、最後のときになって未だ甚だしく汚れていれば、わたしの国に入ることは天の律法が許さないのである。世の初めから今日まで、人がいかに取り入ろうとも、人がわたしの国に入るのにわたしが便宜を図ったことはない。これは天の掟であり、誰にも破ることは許されない。あなたはいのちを追い求めるべきである。今日、神に完全にされるであろう人間はペテロのような人であり、自分の性質の変化を追い求める人であり、そして喜んで神を証しし、被造物の本分を尽くそうとする人である。そのような人だけが神によって完全にされるのである。もしあなたが見返りだけを求め、自分のいのちの性質を変えることを追い求めないのであれば、あなたの努力の一切は徒労に終わる。そしてこれは、不変の真理である。

『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 482

あなたは、ペテロとパウロの本質の違いから、いのちを追い求めない人の努力は全て徒労に終わるということを知るべきである。あなたは神を信じ、神に付き従っているのだから、心で神を愛さなければならない。自分自身の堕落した性質は脱ぎ捨て、神の望みを叶えることを追い求め、被造物としての本分を尽くさなければならない。あなたは、神を信じ付き従う以上、あなたの持つすべてを神に捧げ、自分の個人的な選択や要求は持たず、神の望みを満たすことを成し遂げるべきである。造られた者として自分を造った神に従うべきである。これは、あなたが元々自分を支配することができず、自分の終着点を決める能力も持ち合わせていないからである。あなたは神を信じる者である以上、聖さと変化を追い求めるべきなのである。あなたは被造物であるから、本分を守り、自らの立場を守り、その本分を超えてはならない。これはあなたを束縛したり、教義によって抑えつけたりするものではなく、ひたすらあなたが本分を尽くすための道であり、義を尽くす人には必ず到達できる、また到達されるべき道である。ペテロとパウロの本質を比べてみれば、どのような方法で追い求めるべきかがわかる。ペテロとパウロが歩んだ道は、一つは完全に至る道であり、もう一つは淘汰に至る道であった。つまり両者は二つの異なる道を代表しているのである。いずれも聖霊の働きを受け、聖霊の啓きと照らしを受け、また両者とも主イエスから委されたものを引き受けたが、それぞれがもたらした実は違っていた。一方は実際に実を実らせ、もう一方は実を実らせなかった。あなたは両者の本質、働き、彼らが表面上で示してきたこと、そして彼らの結末から、どちらの道を選んで歩むべきなのかを知ることができなければならない。彼らは明らかに異なる二本の道を歩いた。パウロとペテロは、それぞれの道の典型的な例であり、初めからその二通りの道の特徴を示していた。パウロの経験では何が重要だったのか。そしてパウロはなぜ、神のものとされなかったのか。同時にペテロの経験では何が重要だったのか。彼はどのようにして完全にされることを経験したのか。彼ら二人が重要視した点を比べて見れば、神の求める人物像がどのようなものであり、神の心、神の性質が何であり、どのような人が最終的に完全にされるのか、どのような人が完全にされないのか、また、完全にされる人の性質、そして完全にされない人の性質はどのようなものかを知ることができる。これらの本質に関する問題点がペテロとパウロの経験の中に見て取れる。神が万物を造ったのだから、全ての被造物が神の支配の下に帰し、神の権威の下に従うようにする。また神は万物を采配し、万事が神の手の中にある。動物、植物、人類、山や川、湖を含む、あらゆる被造物が神の権威の下に帰さなくてはならない。天の万物と地上の万物が神の権威の下に帰さねばならない。他に選択肢はなく、皆が神の指揮に従わなければならない。これは神によって定められたことであり、神の権威でもある。神はすべてをつかさどっていて、万物を整えて秩序立て、神の心に沿って、万物をその種類に従ってそれぞれの場所に配置した。どのような大きなものでも、神に勝るものは存在せず、万物は神の造った人類に仕え、あえて神に逆らったり神に何か要求したりするものは一つもない。よって人も、被造物としてその本分を尽くさなければならない。人が万物の主人であろうが管理者であろうが、また万物の中で人の地位がどれほど高かろうが、所詮は神の支配下における小さな一人の人間であり、小さな人間または被造物以上ではなく、決して神を超えることはできない。人は、被造物としてその本分を尽くすこと、そして他の選択肢を持たないで神を愛することを追い求めるべきなのである。それだけ神は人に愛される価値があるのである。神を愛することを追い求めるのであれば、それ以外の個人的な利益あるいは望みを追い求めてはならない。そしてこれが追求の最も正しい形である。あなたが追い求めるものが真理であり、実践することが真理であり、それによってあなたが得るものが自分の性質の変化であるなら、あなたが歩む道は正しいのである。もしあなたが追い求めるものが肉的な祝福であり、実践するものが自分の観念の中にある真理であり、自分の性質に変化がなく、また肉において神に全く従わず、未だ曖昧さの中に生きているのであれば、あなたの追い求めるものはあなたを確実に地獄へと導くであろう。なぜなら、あなたの歩む道は失敗の道だからだ。あなたが完全にされるか排除されるかは、あなた自身の追求にかかっている。つまり、成功するかどうかはその人の歩む道にかかっていると言える。

『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より引用

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