いのちへの入り(2)

日々の神の御言葉 抜粋 406

人間は心から神の霊に触れることで神の満足を獲得し、さらに心から神の言葉に接することで神の霊に動かされることにより、神を信じ、愛し、神を満足させる。正常な霊的生活を実現し、神との正常な関係を確立することを望むなら、まず自らの心を神に捧げなければならない。神の前で心を静め、その心を残らず神に注いで初めて、徐々に正常な霊的生活を送ることができるようになる。人間が神への信仰の中で、自らの心を神に捧げず、心を神の中に置かず、神の重荷を自分自身のものとして扱わなければ、何をしてもそれは神を欺く行為となり、それは宗教熱心だが神の称賛を受けられない人々に典型的な行為だ。神はそのような人からは何も得ることができず、そういう人は神の家の装飾品のように、場所を取るだけで何の役にも立たず、神の働きの引き立て役以外に使い道がない。神はそのような者を用いない。そのような人間の内では聖霊が働く機会がないだけでなく、彼らは完全にされる価値すらない。こういう部類の人間は実のところ、生ける屍なのだ。彼らには聖霊によって用いられることのできる要素が一切なく、逆に、彼らのすべてがサタンによって占有され深く堕落させられている。神はこうした人々を一掃することになる。現在、聖霊は人々を用いるにあたり、彼らの望ましい部分を活用して物事を成し遂げるだけでなく、同時に彼らの望ましくない部分を完成させ、変化させている。神に心を注ぎ、神の前で心を静めていることができれば、あなたは聖霊に用いられ、聖霊の啓示と光を受ける可能性と資格を得ることになり、そしてそれ以上に、聖霊に自分の欠点を補ってもらえる機会が得られるだろう。神に心を捧げると、肯定的な面では、より深い入りを成し遂げ、より高次の洞察を得ることができる。否定的な面では、自らの過ちや欠点が一層わかるようになり、神の旨を満たすことを一層熱心に求めるようになり、受動的ではなく活発に真理の道に入ることになる。そうしてあなたは、正しい人間になるのだ。あなたの心が神の前に静まっていられるとすれば、あなたが聖霊から称賛を受ける人かどうか、神を喜ばせる人かどうかということの鍵は、あなたが積極的に入ることができるかどうかにかかっている。聖霊が人を啓いてその人を用いるとき、その人は決して消極的になることなく、常に積極的に前進する。弱さがあっても、その弱さに基づいて生き方を決めることは避けられるのだ。そして自分のいのちの成長を遅らせることを避け、神の旨を満たすよう求め続けることができる。これが基準である。これを満たせるなら、それはあなたが聖霊の臨在を得たことの充分な証明になる。人が常に否定的であり、啓示を受けて自分自身を知った後も依然として否定的かつ受動的なままであり、立ち上がって神と調和しながら行動することができないなら、その種の者はただ神の恵みを受けはするが、聖霊はその人と共にいない。人が否定的であるとき、それはその人の心が神に向いておらず、その人の霊が神の霊によって動かされていないことを意味する。このことはすべての者が認識しておかなければならない。

『言葉は肉において現れる』の「神との正常な関係を築くことは極めて重要である」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 407

経験から言えることだが、もっとも重要な課題の一つは神の前で心を静めることだ。それは人々の霊的生活といのちの成長に関する課題である。心が神の前に静まっている場合のみ、真理の追求と性質の変化の追求は実を結ぶだろう。なぜならあなたは重荷を背負って神の前に来るからであり、常に自分には至らない点が多すぎて、知るべき真理や経験すべき現実が多くあるため、神の旨にすべての注意を集中させねばならないと感じており、そのことが常にあなたの心を占めているからだ。あなたはそうしたことに圧迫され、息ができなくなりそうに感じているため、心が重くなっている(しかしこれは否定的な状態ではない)。このような人々のみが、神の言葉による啓示を受け、神の霊に動かされる資格があるのだ。彼らはその重荷のゆえに、またその心の重さゆえに、そしてまた神の前で払った代償と受けた苦しみのゆえに、神の啓示と光を受けることができるのだ。神は誰も特別扱いしないからである。神は人々を常に公平に扱うが、同時に人々に対して恣意的にまたは無条件に与えることもしない。これは神の義なる性質の一面である。実生活においては、まだほとんどの人がこの領域に達していない。少なくとも、人々の心はまだ完全には神のほうを向いておらず、それゆえ人々のいのちの性質にはまだそれほど大きな変化が出ていないのだ。それは人々が神の恵みの中に生きているだけで、まだ聖霊の働きを得てはいないからである。人々が神に用いられるために満たさねばならない条件は、心が神に向いており、神の言葉の重荷を負い、神を慕う心を持ち、真理を求める決意を持っているということだ。そのような人々だけが、聖霊の働きを得て、頻繁に啓示と光を得ることができる。神に用いられる人々は、外面的に見ると不合理で、他の人々と正常な関係を持っていないように見えるが、礼儀正しく話し、不注意に語ることがなく、神の前で常に心を静めておくことができる。そのような人こそ、聖霊に用いられるにふさわしいのだ。神の言われるところのこうした「不合理な」者は、他の人々と正常な関係を持っていないように見え、外面上の愛や実践に正しく配慮していないように見えるが、しかし霊的なことを伝えるときは、心を開き、神の前での実経験から得た啓示や光を私心なく他の者たちに分け与えることができる。彼らはこのようにして神への愛を表し、神の旨を満たすのだ。他の者たちがみな彼らを中傷し嘲笑するときも、彼らは外部の人々や出来事、物事によって支配されずにいることができ、なおも神の前で静まっていることができる。そのような人には独自の洞察があるように見え、他の者たちが何をしようと、彼らの心は決して神を離れない。他の人たちがにぎやかに面白おかしく喋っているときも、彼らの心は依然として神の前にあり、心の中で神の言葉について熟考したり黙して祈ったりしながら、神の意図を追求している。彼らは他の人々との正常な人間関係を維持することを決して重視しない。このような人はまったく処世哲学を持たないように見受けられ、外見上は陽気で愛想よく無邪気だが、同時に冷静な心も備えている。これが、神が用いる人の人間像である。このような人の中では、処世哲学や「正常な理知」などはまったく働かない。これが自らの心をすべて神の言葉に捧げ、心に神しかないように見える人というものだ。そのような人こそ、神の言われるところの「理知のない」人間であり、神が用いるのはまさにそのような人なのである。神に用いられている人の印というのは、いついかなる場所でも常に心が神の前にあり、他人がいかに放埓であろうと、どれほど欲情と肉に耽溺していようと、その人の心は決して神を離れることがなく、その人は群衆に流されないということだ。そのような人のみが、神に用いられるのに適しており、聖霊によって完全にされるのである。こうしたことを成し遂げられなければ、あなたには神のものとされ、聖霊に完全にされる資格はない。

『言葉は肉において現れる』の「神との正常な関係を築くことは極めて重要である」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 408

神との正常な関係を持ちたいなら、自らの心を神に向けなければならない。それを土台として、他の人々とも正常な関係を持てるようになる。神との正常な関係がなければ、他の人たちとの人間関係を維持するために何をしようと、どれほど励みどれほどの労力を費やそうと、それはやはり人間の処世哲学に属するものになる。あなたは人々から賞讃されるよう、人間の観点と哲学を通して、人々の間での自らの地位を維持しているが、神の言葉に従って人々との正常な関係を確立してはいない。人々との関係に重点を置かず、神との正常な関係を維持していれば、そして自らの心を神に捧げ、神に従うことを学ぼうとしていれば、自然にすべての人々との関係も正常なものとなるだろう。このように、そうした関係は肉によってではなく、神の愛という土台の上に成り立つのである。そこには肉によるやり取りはほとんど存在しないが、霊における交わりと互いへの愛、慰め、そして施しがある。これらはすべて、神を満足させる心を基礎として為されるのだ。このような関係は人間の処世哲学に依存することで保たれるのではなく、神のために重荷を負うことで自然と形成される。それは人為的な努力を必要としない。あなたは神の言葉の原則に従って実践するだけでよい。あなたには神の旨に配慮する意志があるだろうか。神の前で「理知のない」者となる意志があるだろうか。自ら進んで心を完全に神に捧げ、人々の間での地位を度外視する意志があるだろうか。あなたが接するすべての人々のうち、あなたが一番良い関係を持っているのは誰か。最悪の関係を持っているのは誰か。あなたの人々との関係は正常なものか。あなたはすべての人々を平等に扱っているか。あなたと人々との関係は、自分の処世哲学に従って保たれているか、それとも神の愛という基盤の上に築かれているか。神に自分の心を捧げない人は、霊が鈍感になり、麻痺し、無自覚になってしまう。そのような人は神の言葉を決して理解せず、決して神と正常な関係を持つことがない。その種の人の性質は決して変わることがない。性質を変化させるということは、心を完全に神に捧げる過程であり、神の言葉から啓示と光を得る過程でもある。神の働きは、人が積極的に入れるようにしてくれるだけでなく、人が自分の消極的側面を認識した後、その側面を取り除くことができるようにしてくれる。自らの心を神に捧げられる段階になると、あなたは自分の霊の中の微妙な動きを一つ一つ感じとることができるようになり、神から受け取った一つ一つの啓示と光を知ることができるようになる。それをしっかりと続けなさい、そうすればあなたは徐々に、聖霊によって完全にされる道へ入ることになる。神の前で心を静められれば静められるほど、あなたの霊は一層敏感で繊細になり、霊が聖霊による感動を感知できるようになればなるほど、あなたの神との関係はますます正常になっていく。正常な人間関係というものは、神に心を捧げることを基盤として成り立つのであり、人間の努力によって作られるものではない。心に神がなければ、人々の間の関係は単なる肉の関係である。そうした関係は正常なものではなく、自らを情欲に明け渡すことであり、それは神が嫌悪し忌み嫌う関係である。自分の霊は動かされたと言いながら、いつも自分が心を惹かれる人々や自分が高く評価している人々と交わりを持ちたがり、別の求道者がいてもその人が好きでなければ、その人に偏見さえ持ち、その人とは交わろうとしないなら、それはあなたが感情に支配されており、神との正常な関係をまったく持っていないことをさらに証明するだけだ。あなたは神を欺き、自らの醜さを隠そうとしているのだ。たとえある程度の理解を分かち合うことができたとしても、正しくない意図を抱いているのなら、あなたがすることはすべてただ人間の基準に照らして良いことなのだ。神はあなたを褒めはしない。あなたは神の重荷によってではなく、肉に従って行動している。神の前で自らの心を静め、神を愛するすべての人々と正しいやり取りをすることができれば、初めてあなたは神に用いられるにふさわしい者となる。このように、他人とどのように交わるにせよ、それは処世哲学によって行われることではなく、神の前で神の重荷を思いやりながら生きることになるのだ。あなたがたの中にそのような者は何人いるだろうか。あなたと他の人々との関係は、本当に正常だろうか。それはどんな基盤の上に築かれているだろうか。あなたの中にはいくつの処世哲学があるのか。それらは捨て去れただろうか。心を完全に神に向けることができないなら、あなたは神のものではなく、サタンから来た者であり、最終的にはサタンのもとへ戻されることになるだろう。あなたには神の民の一人となる価値がないのだ。こうしたことをすべて慎重に考慮しなければならない。

『言葉は肉において現れる』の「神との正常な関係を築くことは極めて重要である」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 409

神を信仰する中で、少なくとも神と正常な関係を持つという問題を解決する必要がある。神との正常な関係がなければ、神を信仰する意味は失われる。神との正常な関係の確立は、神の前で心を鎮めることができれば完全に実現できる。神との正常な関係とは、神のいかなる働きをも疑ったり否定したりせずにいられること、そして神の働きに従えることを意味する。さらに神の前で正しい意思を持ち、自己を顧みず、何をするときも神の家の利益を最も重視し、神の吟味を受け入れ、神の采配に従うということをも意味する。あなたは何をするときにも、神の前で自分の心を鎮めることができなければならない。たとえ神の旨を理解できなくても、自己の本分を尽くし、責任を果たすために全力を尽くす必要がある。ひとたび神の旨が明らかにされてから、それを実践しても手遅れではない。あなたと神との関係が正常になれば、あなたと人々との関係も正常になるだろう。すべては神の言葉という基盤の上に確立されている。神の言葉を飲み食いしてから、神の求めを実践に移し、自らの見解を正し、神に逆らったり教会を乱したりすることを避けるようにしなさい。兄弟姉妹のいのちに役立たないことはせず、他の人々の役に立たないことを言わず、恥ずべきことをしないようにしなさい。何をするにも、公正かつ高潔に、神に見られても恥ずかしくないようにしなさい。肉体は時として弱いことがあるにせよ、あなたは自己の利益を求めることなく、神の家の利益を最優先し、義を行うことができなければならない。このように行動できるなら、あなたと神との関係は正常になる。

何をするにあたっても、常に自分の意図が正しいかどうかを吟味しなさい。あなたが神の求めに従って行動できるなら、あなたと神との関係は正常である。これが最低限の基準である。自分の意図を吟味した結果、間違った意図が出てきた場合は、それに背を向け、神の言葉に従って行動できるようになりなさい。そうすれば、あなたは神の前において正しい者となるだろう。それはあなたと神との関係が正常であること、そしてあなたの行なうすべてのことが自己のためでなく神のためであることを示す。何かをしたり言ったりするときには、常に心を正して義にかなうように行動し、感情に流されたり、自分の意志に従って行動したりしないようにしなさい。これが、神の信徒が自らを律するべき原則である。人の意図や霊的背丈は小さな物事の中に現れるため、神により完全にされる道に入るためには、まず自分自身の意図と、神との関係を正す必要がある。神との関係が正常になって初めて、神により完全にされることが可能になり、そうなって初めて、神によるあなたの取り扱い、刈り込み、鍛錬、精錬があなたの中で望ましい効果を上げられるようになる。それはつまり、人々が心の中に神を抱き、自己の利益を追求せず、自己の将来を(肉的な意味で)考えず、いのちに入るための重荷を背負って、真理の追求に最善を尽くし、神の働きに従うことができるなら、あなたの追求する目標は正しく、あなたと神との関係は正常になるということだ。神との関係を正すことは、霊的な旅を始めるための最初の一歩だと言える。人の運命は神の手中にあり、神があらかじめ定めたもので、人が自分で変えることはできないが、あなたが神により完全にされうるかどうか、神のものとされうるかどうかは、あなたと神との関係が正常かどうかによって決まる。あなたには弱い部分や従順でない部分があるかもしれないが、あなたの見解や意図が正しい限り、そしてあなたと神との関係が正しく正常なものである限り、あなたには神によって完全にされる資格がある。あなたが神と正しい関係を持たず、肉のためや自分の家族のために行動するなら、どんなに一生懸命に働いても何の役にも立たない。あなたの神との関係が正常であれば、他のすべてはあるべきところに落ち着く。神が見ているのは、神への信仰におけるあなたの見解が正しいかどうかだけであり、それ以外は何も見ていない。見解とは、あなたが誰を信じ、誰のために信じ、なぜ信じているかということだ。あなたがそのようなことをはっきりと認識し、そうした正しい見解をもって実践することができれば、あなたのいのちは成長し、正しい道に入ることも保証されるだろう。神との関係が正常でなく、神の信仰についてのあなたの見解が逸脱したものであるなら、それ以外のすべては台無しになり、どれほど神を信仰しても何も得られないだろう。神との関係が正常になってから、肉に背を向け、祈り、苦しみ、耐え、従い、兄弟姉妹を助けて、より深く神に貢献するなどしたときに、初めて神の称賛を得ることができるだろう。あなたのすることが価値や意義を持つかどうかは、あなたの意図が適切であり、あなたの見解が正しいかどうかによって決まる。近頃では多くの人が、首を捻じ曲げて時計を見るように神を信仰しており、すなわちその視点がねじ曲がっている。この状況は打開され正されなければならない。この問題が解決されれば万事落着するが、解決されなければ万事が無に帰すだろう。一部の人は、わたしの前では行儀よく振る舞うが、背後ではわたしに逆らってばかりいる。これは不実と不正直の現れである。この種の人はサタンの使いであり、神を試す典型的なサタンの化身である。あなたはわたしの働きと言葉に従うことができて初めて正しい人となる。あなたが神の言葉を飲み食いできる限り、そして神に見られても恥ずかしくないことだけを行い、すべての行為を公正かつ高潔に行っている限り、そしてまた恥ずべきことや他者のいのちに害のあることをせず、光の中で生き、サタンに付け込む隙を与えない限り、あなたの神との関係は正常である。

『言葉は肉において現れる』の「あなたと神との関係はどのようなものか」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 410

神を信じるにあたっては、自分の意図と見解を正さなければならない。あなたは神の言葉と神の働き、神が整えるすべての環境、神によって証しされる人間、そして実践の神を正しく理解し、正しく扱う必要がある。自分個人の考えに従って行動したり、つまらない策略を練ったりしてはならない。あらゆることにおいて真理を求め、神の被造物として、神のあらゆる働きに従うことができなければならない。あなたが神によって完全にされることを求め、いのちの正しい軌道に入ることを望むなら、あなたの心は常に神の前で生きなくてはならず、放蕩することなく、サタンに従ったり、サタンに働きを行う機会を与えたり、自分を利用させたりしてはならない。あなた自身を完全に神に委ね、神の支配を受ける必要がある。

あなたはサタンの使いになりたいか。サタンに利用されたいか。あなたが神を信じ、神を求めているのは、神によって完全にされるためか、それとも神の働きの引き立て役になるためか。あなたは神のものとされて、意味のある人生を生きたいか、それとも価値のない空っぽの人生を生きたいか。あなたは神によって使われたいか、それともサタンに利用されたいか。神の言葉と真理によって満たされたいか、それとも罪とサタンで満たされたいか。こうしたことをよくよく考えてみなさい。日々の暮らしの中で自分の言ったことやしたことのうち、神との関係を異常にしかねないものを把握し、自らを改めて正しい方法に入らなければならない。常に自分の言葉、行動、一挙一動、すべての考えや思いをよく吟味しなさい。自分の真の状態を正しく把握し、聖霊の働きの方法に入りなさい。これが神と正常な関係を持つための唯一の方法である。自分と神との関係が正常かどうかを測ることで、あなたは自らの意図を正し、人の本性と本質を理解し、真に自分自身を理解することができるようになる。そしてそれを通して、あなたは実体験に入り、真に自分自身を捨て去り、意図を持って従うことができるようになる。自分と神との関係が正常であるかどうかに関するこれらの事柄を経験する中で、あなたは神によって完全にされる機会を見出し、聖霊の働きのさまざまな状態を把握できるようになり、サタンの策略や陰謀の多くを見抜くこともできるようになる。このようにしてのみ、あなたは神によって完全にされることができる。あなたは神との関係を正すことで、神の采配に完全に従い、実体験により深く入り込み、聖霊の働きをより多く受け取れるようになる。神との正常な関係を実践するときは、ほとんどの場合、肉を捨て去り神と真に協力することで成功できる。「協力の心がなければ、神の働きを受け取ることは難しい。肉の試練を経なければ、神からの祝福はない。霊が葛藤しなければ、サタンを恥じ入らせることはできない」ということを理解する必要がある。このような原則を実践しはっきりと理解すれば、神の信仰についてのあなたの見識は正されるだろう。あなたがたは現在の実践において、「飢えを満たすためにパンを求める」という考え方や、「すべては聖霊によって成され、人が介入することはできない」という考え方を捨てる必要がある。このように言う人々はみな、「人はなんでもやりたいことができ、時が来れば、聖霊が神の働きを行う。人は肉を抑制する必要も協力する必要もなく、ただ聖霊に動かしてもらえばよい」と考えている。このような見解はすべてばかげている。このような状況では、聖霊が働くことはできない。このような見解が、聖霊の働きに対する大きな障害になるのである。聖霊の働きは多くの場合、人の協力を通して実現される。協力もせず決意もしていないのに、自身の性質を変え、聖霊の働きを受け、神によって啓かれ照らされることを望む人々は、まったく虫の良い考えを抱いている。このような態度が、「自分を甘やかし、サタンを大目に見ている」と言われるのだ。このような人々は神と正常な関係を持っていない。あなたは自分自身の中にある多くのサタン的性質の現れを見つけ出し、神の現在の要求に反している自身の実践を確認しなければならない。あなたは今後はサタンを見捨てることができるか。あなたは神との正常な関係を獲得し、神の意図に従って行動し、新たな人となって新たないのちを得なければならない。過去の過ちを振り返らず、過度に後悔せず、立ち上がって神と協力し、自分の果たすべき本分を果たせるようにしなさい。そうすることで、あなたと神との関係は正常になる。

『言葉は肉において現れる』の「あなたと神との関係はどのようなものか」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 411

この言葉を読んだ後、あなたがたがそれを受け止めると言うだけで、心を動かされず、神と正常な関係を持とうとしないなら、それはあなたが神との関係を重視していない証拠である。また、あなたの見解がまだ正されておらず、あなたの意図も自分が神のものとされることや神に栄光をもたらすことに向けられておらず、サタンの陰謀が蔓延ることや、自分の個人的な目的を達成することに向けられている証拠である。この種の人は間違った意図や不正な見解を抱いており、神が何をどのように言おうがまったく無関心で、少しも変わることはない。彼らの心はまったく恐れを知らず、恥じ入ることもない。この種の人は霊のない愚か者である。神の一つ一つの言葉を読み、それを理解したらすぐに実践に移しなさい。かつてあなたの肉は弱かったかもしれないし、反抗的だったり反逆したこともあるかもしれないが、過去にあなたがどのように振る舞っていたにせよ、それは大きな問題ではなく、あなたのいのちが今成長することを妨げるものではない。今日あなたが神と正常な関係を持つことができるなら、そこには希望がある。あなたが神の言葉を読むたびに変わり、他の人々もあなたの生活がよい方向に変わったと認めるなら、それはあなたと神の関係が今や正常であり、正されたことを示している。神は人々を、犯した過ちを基準に扱うことはない。あなたが理解し自覚して、反抗したり逆らったりすることを止めさえすれば、神の慈悲を受けることができる。あなたが理解を得て、神により完全にされることを求めようと決意するならば、神の前でのあなたの状態は正常になる。何をしているときにも、必ずこう考えなさい。「私がこれをしたら、神はどう思うだろうか。これは兄弟姉妹のためになるだろうか。神の家の働きにとって有益だろうか」と。祈り、交わり、発言、行動、さらに人々との接触においても、自分の意図を吟味し、あなたと神との関係が正常かどうかを確認しなさい。自分自身の意図や考えを見定めることができないならば、あなたには判断力がないということであり、それはあなたが真理を知らなすぎることを証明している。あなたが神の行うあらゆることを明確に理解し、神の側に立ちつつ神の言葉を通して物事を把握することができるなら、あなたの見解は正されたと言える。従って、神と良好な関係を築くことは、神を信仰する人にとっての最優先事項であり、誰もがこれを最も重要な課題として、また人生における最大の出来事として扱うべきである。あなたの行いはすべて、神との関係が正常であるかどうかに照らして判断される。あなたの神との関係が正常であり、あなたの意図が正しいならば、行動を起こしなさい。神との正常な関係を維持するためには、個人的な利益を失うことを怖れてはならず、サタンが蔓延ることを許してはならず、サタンに付け入る隙を与えてはならず、サタンがあなたを笑いものにすることを許してはならない。そうした意図を持つことは、あなたと神との関係が正常であることの現れである。それは肉のためではなく、霊の平安のためであり、聖霊の働きを得るためであり、神の旨を満たすためである。あなたが正しい状態になろうとするなら、神と良好な関係を築かなければならず、神の信仰についての自分の見解を正さなければならない。それは、神があなたを自分のものにするため、また神の言葉があなたの中に結実し、あなたがさらに啓かれ照らされるようになるためである。このようになれば、あなたは正しい道に進んだことになる。神の現在の言葉を飲み食いし続け、聖霊の現在における働きの方法に入り、神の現在の求めに従って行動し、古臭い慣習に従うことをやめ、物事の古いやり方にしがみつくのをやめ、今日の働きの方法にできるだけ早く入りなさい。そうすることで、あなたと神との関係は完全に正常なものになり、あなたは神を信仰するための正しい道に踏み込んだことになる。

『言葉は肉において現れる』の「あなたと神との関係はどのようなものか」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 412

神の言葉を受け入れれば受け入れるほど、人はより啓かれ、神を認識することの追求においてますます飢えと渇きを感じるようになる。神の言葉を受け入れる人だけが、より豊かで深遠な経験をすることができる。そしてそのような人は、いのちが胡麻の花のように成長し続けられる唯一の者たちである。いのちを追求する人はみな、それを自分の定職として扱うべきである。また、「神がおられなければ、私は生きられない。神がおられなければ、私は何も成し遂げられない。神がおられなければ、何もかもが空虚だ」と思わなければならない。そこで、そのような人は「聖霊の臨在がなければ、私は何もしない。神の言葉を読んでも効果がなければ、私は何かをすることに無関心だ」という決意も抱くべきである。自分を甘やかしてはならない。いのちの経験は神の啓きと導きから生じるのであって、それはあなたがたの主観的な努力の結晶である。あなたがたは自分自身に対し、「いのちの経験について言えば、私は自分の好きなようにすることはできない」と求めるべきである。

時として異常な状態にある場合、あなたは神の臨在を失い、祈っても神を感じられなくなる。そのような時に不安を感じるのは正常なことである。あなたは直ちに探求を始めなければならない。そうしなければ、神があなたから離れてしまい、一日か二日、あるいは一ヵ月か二ヵ月にもわたり、あなたには聖霊の臨在がなく、またそれ以上に、聖霊の働きがなくなってしまう。そうした状況において、あなたは信じられないほど麻痺し、再びサタンに囚われ、ありとあらゆる行ないに手を染められるまでになってしまう。無闇に富を欲しがり、自分の兄弟姉妹を騙し、映画や動画に夢中になり、麻雀をして遊び、果ては煙草を吸って酒を飲みさえしても、懲らしめられることがない。あなたの心は神から離れてしまっており、あなたは密かに自分の道を進み、神の働きについて自分勝手に判断を下してきた。性的な罪を犯しても羞恥を一切感じないほど、人々が低く沈んだ場合もある。このような人は聖霊に捨てられたのであって、実際のところ、聖霊の働きはずっと以前からこのような人の中に存在していない。人が目の当たりにできるのは、悪の手がさらに伸びる中、彼らが堕落へとますます低く沈んでいくという光景だけである。彼らはしまいにこの道の存在を否定し、罪を犯すにつれてサタンに囚われる。自分に聖霊の臨在だけがあり、聖霊の働きはないことがわかったとしたら、それはすでに危険な状況である。聖霊の臨在を感じることさえできなければ、あなたは死の淵に立たされている。悔い改めなければ、あなたはサタンのもとへと完全に立ち返ったことになり、淘汰される者の一人となるだろう。ゆえに、聖霊の臨在がある(つまり、罪を犯さず、自制し、露骨に神に抵抗するようなことをしていない)だけで、聖霊の働きがない(祈っても感動せず、神の言葉を飲み食いしても明白な啓きや照らしを得られず、神の言葉を飲み食いすることに関心がなく、自分のいのちが少しも成長せず、ずっと以前に偉大な照らしを奪われてしまった)状況に自分がいるとわかったら、そのようなとき、あなたはよりいっそう警戒しなければならない。自分を甘やかさず、これ以上自分の性格の自由にさせてはいけない。聖霊の臨在はいつ消えるかわからない。だからこそ、そうした状況は危険なのである。自分がそうした状態にあると気づいたなら、できるだけすぐに方向転換するよう試みなさい。まずは悔い改めの祈りを捧げ、自分にもう一度憐みを授けてくれるよう神に願いなさい。もっと真剣に祈り、心を静めて神の言葉をさらに多く飲み食いしなさい。それを基礎として、祈りに費やす時間をもっと増やさなければならない。歌うこと、祈ること、神の言葉を飲み食いすること、そして自分の本分を尽くすことに二倍の努力を費やしなさい。あなたが弱り切っているとき、あなたの心はいともたやすくサタンに取り憑かれる。そうなれば、あなたの心は神から奪われ、サタンのもとに戻される。すると、あなたには聖霊の臨在がなくなる。そのようなとき、聖霊の働きを取り戻すのは二倍難しくなる。聖霊がまだあなたと共にいるうちに、その働きを求めたほうがよい。そうすることで、神はより多くの啓きをあなたに授けることができ、あなたを捨てることもしないだろう。祈ること、讃美歌を歌うこと、自分の役割を果たすこと、神の言葉を飲み食いすることはどれも、サタンが働きを行なう機会を得られないようにするために、そして聖霊があなたの中で働きを行なえるようにするためである。このようにして聖霊の働きを取り戻すのでなく、ただじっと待つだけなら、聖霊の臨在を失ったとき、聖霊があなたを特に感動させたり、ひときわ照らして啓いたりしない限り、聖霊の働きを取り戻すのは容易でない。たとえ聖霊によって感動したり、聖霊の照らしと啓きを得たりしたとしても、あなたの状態が回復するには一日や二日では済まず、一切回復せずに半年経つこともあるだろう。これはひとえに、人々が自分に甘すぎ、正常な形で物事を経験することができず、そのため聖霊に捨てられるからである。たとえ聖霊の働きを取り戻しても、あなたは依然として神の現在の働きを明瞭に理解できないだろう。と言うのも、あたかも一万里も後方に取り残されたかのごとく、いのちの経験において大きく後れをとったからである。これは恐ろしいことではないか。しかし、わたしはそうした人たちに言っておくが、いま悔い改めても手遅れではないものの、一つ条件がある。つまり、より懸命に働き、怠惰の中に浸らないこと。他の人たちが一日に五回祈るなら、あなたは十回祈らなければならない。他の人たちが神の言葉を一日二時間飲み食いするなら、あなたは四時間ないし六時間そうしなければならない。そして他の人たちが二時間にわたって讃美歌を聴くなら、あなたは少なくとも半日耳を傾けなければならない。自分が感動し、心が神のもとに立ち返り、これ以上あえて神から離れないようになるまで、神の前で頻繁に心を静め、神の愛について考えなさい。そのとき初めてあなたの実践は実を結び、以前の正常な状態を取り戻すことができる。

『言葉は肉において現れる』の「正常な状態へ入るには」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 413

あなたがたはまだ神の信者としての道のりのごくわずかしか歩んでおらず、未だに正しい道のりに入っていない。そのため、まだ神の基準を満たすにはほど遠い。現在のあなたがたの霊的背丈は神の要求を満たすには不十分である。あなたがたの素質と堕落した本性のせいで、あなたがたは常に神の働きを不注意に扱い、真剣に扱わない。これがあなたがたの最も深刻な欠点である。聖霊の歩む道を見極めることは誰にもできない。あなたがたのほとんどはそれを理解せず、はっきり見ることもできない。さらに、あなたがたのほとんどはこれをまったく気に留めることもなく、ましてや心に留めることなどない。もしこのようであり続け、聖霊の働きを知らないまま生きるならば、神の信者としての歩みは無駄である。なぜならあなたがたは神の心を満たそうとして最善を尽くすことなく、神としっかりと協力しないからである。神があなたに働きかけなかったわけでもなく、聖霊があなたを動かさなかったというわけでもない。あなたがたがあまりに不注意で聖霊の働きを真剣に捉えていないのである。今すぐにでもこの状況を逆転させ、聖霊が人を導く道を歩むべきである。これが本日の主題である。この「聖霊が導く道」というのは、霊において照らしを得ること、神の言葉を認識すること、進む道が明らであること、一歩ずつ真理に入っていけること、神をさらに知るようになることである。聖霊が人を導く道とは、基本的に、神の言葉についてのさらに明確な理解に向かう道であり、そこにはずれや誤解がなく、またその道を歩む人はその道に沿ってまっすぐに進んでいく。これを達成するには、神と調和して働き、実践するべき正しい道を見出し、聖霊の導く道を歩む必要がある。これには人間側の協力が要件となる。つまり、神があなたがたに要求することを満たすために何をするべきか、そして神への信仰の正しい道に入るためにどのように振る舞うべきかということである。

聖霊の導く道に踏み出すことは複雑に見えるかもしれないが、実践する道が明瞭であればそれはもっと単純だということがわかる。実のところ、人間は神の要求することすべてが可能なのである。神は豚に空を飛ぶことを教えようとはしているのではない。すべての状況において、神は人の問題を解決し人の懸念を鎮めようとしているのである。あなたがたはみなこのことを理解しなければならない。神を誤解してはならない。聖霊の歩む道は神の言葉にしたがって人を導くのである。前に述べたように、心を神に捧げなければならない。これは聖霊が導く道を歩むための必要条件である。正しい道に入るためにしなければならないことである。人はどのように意識的に心を神に捧げる働きを行うのか。日常生活にて神の働きを経験して祈る際、あなたがたは不注意に行い、何かをしながら神に祈る。これは心を神に捧げていると言えるのだろうか。家事や肉的なことについて考え、心は常にふたごころである。これは神の前で心を静めていると言えるだろうか。あなたの心はいつも外的なことに気をとられていて、神の前に帰っていくことができないからである。神の前にて真に平安な心でいたいと願うのであれば、意識して協力しなければならないのである。つまり、あなたがたひとりひとりが周りの人や物事を脇においてディボーションをする時間を持ち、神の前にて心を落ち着かせ静まるのである。各自は自分のディボーションの記録を取り、神の言葉についての認識や霊がどのように動かされたかを、内容の深い浅いに関係なく記録すべきである。誰もが意識して神の前で心を静めなければならない。毎日一、二時間を真の霊的生活に捧げることができれば、その日あなたの生活は豊かになり心は明るく明晰になる。日々このような霊的生活を送るならば、あなたの心はますます神のものとなるように立ち返ることができ、あなたの霊はますます強くなり、あなたの状態は絶えずよくなり、聖霊の導く道を歩むことがさらに可能になり、神はますますあなたを祝福するようになる。霊的生活の目的は、聖霊の臨在を意識的に得ることである。それは規則を守ることでも宗教的儀式を行うことでもなく、神と真に調和して行動し、身体を真に訓練することである。これが人間のすべきことであり、それゆえ最大の努力をもってそうするべきである。神との協力がよくできればできるほど、また、努力すればするほど、心は神に立ち返ることができ、神の前で心を静めることができるようになる。ある時点において、神はあなたの心を完全に獲得する。そうなると誰もあなたの心を揺さぶることも捕えることもできなくなり、あなたは完全に神のものとなるのである。この道を歩めば神の言葉があなたに常に明らかになり、理解できないことについても啓きが与えられ、これはすべてあなたの協力を通して達成することができる。それゆえ、神は常に、「わたしと協調するものには、二倍を与える」と言うのである。あなたがたはこの道をしっかり見ていなければならない。正しい道を歩みたいのであれば、神の心を満たすために出来ることをすべてしなければならない。霊的生活を獲得するために出来ることをすべてしなければならない。始めはこの追求において立派な成果を達成できないかもしれないが、後戻りしたり、否定的になったりすることなく、全力で取り組み続けなければならない。霊的生活を送れば送るほど、心は神の言葉で満たされ、このようなことを常に考えるようになり、常にその重荷をになうようになる。その後、霊的生活を通して心の一番奥にある真実を神に示しなさい。あなたに何をする覚悟があるのか、何を考えているのか、神の言葉の理解と見方を神に伝えなさい。小さなことであっても、何も隠してはいけない。心の中にある言葉を口にし、神に本当の感情を明らかにする練習をしなさい。心の中にあることであれば、必ず言いなさい。このように話せば話すほど、あなたは神の素晴らしさを感じるようになり、あなたの心はますます神へと引き寄せられる。こうなると、あなたにとって神が誰よりも大切だと感じるようになる。何があっても決して神のそばを離れなくなる。このような霊的ディボーションを日々実践し、それをおろそかにすることなく、自分の人生における極めて重要なことと捉えるならば、神の言葉があなたの心を占領するようになる。これが聖霊に触れられるということなのである。それはあたかも心がずっと神のものであったかのようで、あなたが愛するものが常に心にあるようなものである。それを誰もあなたから取り上げることはできない。こうなると、神は真にあなたの内に生きていて、あなたの心には神のための場所が存在するようになるのである。

『言葉は肉において現れる』の「正常な霊的生活は人を正しい道へ導く」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 415

正常な霊的生活を送ることを望むのであれば、毎日新たな光を授かり、神の言葉の真の理解を追求し、真理に対する明晰さを達成しなければならない。あらゆる物事において実践の道が必要である。そして毎日神の言葉を読むことにより、新たな疑問が生まれ、自らの欠点を発見することができる。これにより、渇いて探し求める心が生まれ、その心により、あなたの存在の全体が動き始め、いつでも神の前で静まることができるようになり、遅れることを深く恐れるようになるであろう。この渇望し探し求める心、そして継続していのちに入るための覚悟ができれば、霊的生活への正しい道を歩んでいる。聖霊に動かされることを受け容れることができ、進歩を望み、神により完全にされることを求める意志があり、神の言葉の一層深い理解を求め、超自然的な物事を追求せずに実際的な代償を払い、神の心への実際的配慮を示し、実際的にいのちに入り、自らの経験を一層正しく現実的なものとし、教義の空虚な言葉を求めず、また超自然的な感覚を求めたり偉人を崇拝することもない人は全て、正常な霊的生活に入っている。こうした人々の行動はすべて、いのちのなかで一層の進展を実現することを目的とし、霊を新鮮で淀まない状態に維持し、常に前向きに入っていけるようにしようとする。正常な霊的生活を送り、霊的な解放と自由を日々得ている人は、自由に神の言葉を実践し、神を満足させることができ、祈りを捧げている時も、単に儀礼や手順に従っているのではなく、遅れることなく日々新たな光を得ることができる。例えば、このような人が神の前で心を静めるために実践する時、心を神の前で真に静めることが可能であり、誰もそれを邪魔することはできず、誰も、どのような出来事や物事もその正常な霊的生活を制止することはできない。こうした実践は、人々に規則を与えて守らせることではなく、結果を得ることを目的とする。こうした実践は、規則を守ることではなく、人々のいのちにおける進展を目的とする。あなたが単に規則を守るだけの者であるならば、いのちは決して変わらないであろう。他の人々はこのような実践をするかも知れないし、あなたも最終的にはそうするのだが、それでは他の人々は聖霊の働きに遅れることなく追随できる一方で、あなたは聖霊の流れから排除されるであろう。それならば、あなたは自分を欺いているのではなかろうか。ここで述べた言葉の目的は、人々が神の前で心を静め、神と向き合い、神の働きが阻害されることなく人々に対して行われ、その結果を得られるようにすることである。

『言葉は肉において現れる』の「正常な霊的生活について」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 416

あなたがたは日常生活において祈りを重視しない。人は祈りに関することを見過ごしてきた。従来の祈りはいい加減で、人が神の前でひととおりの動作をするだけである。自分の心を完全に神の前に捧げて神との真の祈りをする人は誰もいなかった。人が神に祈るのは、何かが起こった時だけである。この長いあいだ、あなたは本当の意味で神に祈ったことがあるのか。神の前で痛恨の涙を流した時があるのか。神の前で自分自身を知るにいたった時があるのか。神と心を通わせて祈ったことがあるのか。祈りは訓練を通じて生じる。普段から自宅で祈らないのであれば、教会で祈ることなどない。普段から小さな集会で祈らないのであれば、大きな集会で祈ることは不可能である。普段から神に近付き、神の言葉を熟考しないのであれば、祈る時になっても何も言うことがなく、たとえ祈ったとしても、それは口先だけで、真の祈りではない。

真の祈りとは何か。それは心の中にあることを神に話すことであり、神の心意を把握しつつ神と交わること、神の言葉を通して神と気持ちを伝え合い、神をとくに身近に感じ、神が自分の目の前にいると感じ、神に何か言うべきことがあると信じることである。心は光で満たされ、神はなんと愛しいのかと感じる。あなたはとくに鼓舞され、あなたの語ることに耳を傾けることで兄弟姉妹は喜びに満たされる。兄弟姉妹はあなたが話す言葉は彼らの心にある言葉であり、彼らが語りたい言葉であると感じ、それはまるであなたの言葉が彼らの言葉になったかのようである。真の祈りとは、このようなものである。真に祈った後、心は安らぎ、喜びに満たされる。神を愛する強さがこみ上げ、人生において神を愛する以上に価値があり大切なことはないと感じる。これらはすべて、祈りが効果的であったことを証明する。あなたは、このように祈ったことがあるのか。

また、祈りの内容についてはどうであろうか。祈りは心の実際の状態と聖霊の働きにそって一歩一歩進むべきである。神の心意と神が人間に要求することに則して、神と交わるのである。祈りの訓練を開始する時は、まず最初に自分の心を神に捧げなさい。神の心意を把握しようとしてはならない。ただ心にある言葉を神に語ろうとしなさい。神の前に来て、このように言いなさい。「おお神よ、私は今日になって初めて、あなたに逆らっていたことを知りました。私は本当に堕落しており、忌み嫌われるべきです。私はただ時間を無駄にしていました。私は今日からあなたのために生き、意義のある人生を生き、あなたの心意を満足させます。あなたの霊がいつも私の内で働き、絶えず私を照らし啓きますように。私にあなたの前で響きわたるような力強い証をさせてください。あなたの栄光とあなたの証しと、あなたの勝利の証拠が私たちの内に現れるのをサタンに見せてください」。このように祈る時、あなたの心は完全に解放される。このように祈ったことで、あなたの心は神にいっそう近付く。そして頻繁にこのように祈ることができるならば、聖霊は必然的にあなたの中で働く。常にこうして神を呼び求め、神の前で決意するならば、あなたの決意が神の前で受け容れられるものとなり、あなたの心と存在すべてが神のものとされ、最終的にあなたが神に完全にされる日が訪れる。祈りとは、あなたがたにとって極めて重要なものである。祈り、聖霊の働きを受ける時、あなたの心は神に動かされ、そこから神を愛するための力が溢れてくる。心で祈らず、心を開いて神と交わらないならば、神はあなたの中で働きようがまったくない。もし、祈り、胸中の言葉を話した後にも、神の霊が働きを開始せず、鼓舞されたと感じないのであれば、それは誠実さが足りないこと、あなたの言葉が不実でいまだに不純であることを示している。もし祈った後に喜びを感じたならば、あなたの祈りが神に受け容れられるものであり、神の霊があなたの中で働いているのである。神の前に仕える者として、あなたは祈りなしではいられない。神との交わりを有意義で、貴いものであると本当に思うのなら、祈りを捨てることなどできるだろうか。神と交わらずにいられる者など一人もいない。祈りがなければ、あなたは肉の中で、サタンに束縛されて生きることになる。真の祈りがなければ、闇の影響下で生きることになる。わたしは、あなたがた兄弟姉妹が日々真に祈ることができることを願っている。これは規則を守ることではなく、ある成果を達成することである。朝の祈りを捧げ神の言葉を楽しむために、少しばかりの睡眠と快楽を犠牲にする覚悟があなたにはあるか。このように純粋な心で祈り、神の言葉を飲み食いするならば、あなたは神にさらに受け容れられる。毎朝そのようにし、心を神に捧げて神と語らい交わることを毎日訓練するならば、神についてのあなたの認識は必ず増し加わり、神の心意をもっとよく把握できるようになる。あなたは次のように言いなさい。「おお神よ、私は自分の本分を尽くすことを望みます。私たちの中であなたが栄光を受け、私たちからなるこの集団による証しをあなたが喜んでくださるように、私は自分の全存在をただあなたに捧げます。私があなたを真に愛し、満足させ、あなたを私の目標として追求することができるように、私たちの中で働いてください」。あなたがこの重荷を負う時、神は必ずあなたを完全にする。自分の恩恵のためだけに祈るのではなく、神の心意に従い神を愛するために祈るべきである。これが最も真なる祈りである。あなたは神の心意に従うために祈るのか。

あなたがたは以前は祈り方を知らず、祈りに関することを無視した。現在は祈りの訓練に最善を尽くさなければならない。あなたの内にある力を呼び起こして神を愛することができなければ、どのように祈るべきか。こう言いなさい。「おお神よ、私の心はあなたを真に愛することができません。私はあなたを愛したいのですが、私にはその力がありません。どうすれば良いでしょうか。あなたが私の霊の眼を開き、あなたの霊が私の心を動かしますように。私があなたの前に来ると、消極的なものをすべて捨て去り、どのような人や物事にも束縛されることなく、心をあなたの前に完全に曝け出し、私の全存在をあなたの前に捧げられるようにしてください。あなたが私をどのように試そうと、私は用意ができています。今私は自分の将来の展望を一切考えることはなく、死のくびきにも縛られていません。あなたを愛する心で、人生の道を求めることを望みます。あらゆる物事、なにもかもすべてがあなたの掌中にあり、私の運命もあなたの手の中にあり、私の一生そのものもあなたの手の中にあります。今、私はあなたを愛することを追い求め、私があなたを愛することを、あなたの許しがあろうとなかろうと、サタンがいかにして邪魔しようと、私はあなたを愛する決意をしています」。そのような問題に遭遇した時は、このように祈りなさい。毎日このように祈るならば、神を愛する強さは次第にかき立てられる。

『言葉は肉において現れる』の「祈りの実践について」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 417

真の祈りにどのように入っていくのか。

祈る時は、心は神の前に静まっていなければならず、真摯でなければならない。神と真に交わり、神に祈っているのだから、美辞麗句で神を欺こうとしてはならない。祈りは神が現在達成したいことを中心としなければならない。一層の啓き照らしを与えるよう神に願い、自分の実状や問題を神の前にさし出して祈りなさい。それには神の前で固めた決意も含まれる。祈りは手順に従うことではなく、真摯な心で神を求めることである。神があなたの心を守り、あなたの心がいつも神の前で静かでいられるように神に願いなさい。神があなたを置いた環境において、あなたが自分を知り、自分を嫌い、自分を捨て去り、それにより神との正常な関係を持つことができ、真に神を愛する者となれるように神に願いなさい。

祈りの重要性とは何か。

祈りは人間が神と協力する方法のひとつであり、人間が神を呼び求める手段のひとつであり、人間が神の霊に動かされる過程である。祈りのない者は霊のない死人であると言える。そのような人には神に心を動かされる能力が欠けている証拠である。祈りがなければ、正常な霊的生活を送ることはおそらく不可能で、ましてや聖霊の働きに付き従うことなどできない。祈りがないことは、神との関係を絶ち切ることで、神の承認を得ることは不可能であろう。神を信じる者として、祈れば祈るほど、つまり神に動かされれ動かされるほど、決意で満たされるようになり、神から新たな啓きを受けることがさらにできるようになる。その結果、このような人だけが早く聖霊により完全にされることができる。

祈りが達成するべき成果とは何か。

人は祈りを実践し、祈りの重要性を理解することができるかもしれないが、祈りが効果的であることは、単純なことではない。祈りとはひととおりの動作を行うことでも、手順に従うことでも、神の言葉を暗唱することでもない。すなわち、祈りとは何らかの言葉をオウム返しに繰り返すことでも他人を真似ることでもないのである。祈りにおいて、人は心を神にさらけ出して、心が神に動かされるように、心を神に捧げることのできる状態に達しなければならない。祈りが効果的であるためには、祈りは神の言葉を読むことに基づいていなければならない。神の言葉の中から祈ることによってのみ、人はさらに啓きと照らしを得ることができる。真の祈りは次のように表出する。神が要求することすべてを求める心を持ち、さらに神が要求することを果たしたいと願う。神が憎むことを憎み、それを基礎に、それについてある程度の理解を得、神が解き明かす真理ついてある程度の認識と明瞭性をもつ。祈りに続いて決意と信仰、認識、実践の道があるときのみ、それを真の祈りと呼ぶことができ、このような祈りだけが効果的であり得る。しかし、祈りは神の言葉の享受の上に打ち立てられなければならず、神の言葉の中で神と交わるという基盤の上に確立されなければならない。心は神を求め、神の前で静まることができなければならない。このような祈りは、すでに神との真の交わりの段階に入っているのである。

『言葉は肉において現れる』の「祈りの実践について」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 418

祈りの最も基礎的な知識

1. 何でも思いついた言葉をやみくもに述べてはならない。心に重荷があるべきである。つまり、祈る時には目標がなければならない。

2. 祈りには神の言葉が含まれていなければならない。すなわち、祈りは神の言葉に基づいていなければならない。

3. 祈る時は、時代遅れの事柄を蒸し返してはならない。神の現在の言葉に集中し、祈るときは心の奥底の考えを神に伝えなさい。

4. 集会での祈りには一つの中心が必要であり、それは必然的に聖霊による現代の働きである。

5. あらゆる人が何かのために祈ることを習得しなければならない。これは神の旨への配慮を示す方法の一つでもある。

個人の祈りの生活は、祈りの重要性と基礎知識を理解することを基盤としている。日常生活において、自分の欠点のために頻繁に祈り、自分のいのちの性質の変化が起こるように祈り、神の言葉について自分が認識していることを基礎として祈りなさい。各自が自分の祈りの生活を確立すべきであり、神の言葉を知るために祈り、神の働きを知ることを求めて祈るべきである。自分の個人的な状況を神の前にさらけ出し、自分の祈り方にこだわり過ぎることなく実際的にならなくてはならない。要は、真の認識を得ることと、神の言葉を実際に体験することである。霊的生活に入ることを追求する者は、様々な方法で祈ることができなければならない。黙祷、神の言葉を熟考すること、神の働きを知るようになることなどは、どれも目的のはっきりとした霊的交わりの働きの例である。それは正常な霊的生活に入ることを達成するためであり、神の前における自分の状況を絶えず向上させ、いのちにおいて更に大きな発展を遂げるように人を導く。要するに、あなたが行うことはすべて、それが神の言葉の食べ飲みであれ、黙って祈ることであれ、大声で宣言することであれ、あなたが神の言葉と働き、神があなたにおいて達成しようとしていることを明瞭に理解できるようになるためである。さらに重要な事として、あなたが行うことはすべて神が要求する基準に到達するためと、あなたのいのちをさらに高く上げるために行われるということである。神が人間に要求する最小限のことは、人間が心を神に開くことができることである。人が神に真の心を捧げ、心の中にある本音を告げるならば、神はその人において働くことをよしとする。神が望むのは人の曲がった心ではなく、純粋で正直な心である。人が神に心から話さないならば、神はその人の心を動かすことも、その人において働くこともない。したがって、祈りの核心は心から神に話し、自分の欠点や反抗的な性質を神に告げ、ありのままの自分を神の前に完全に曝け出すことである。そうして初めて、神はあなたの祈りに関心を抱く。そうでなければ神はあなたから顔を隠す。祈りの最低基準として、心を神の前で平静に保つことができなければならず、また心が神から離れてはならない。おそらくこの期間には、これまでより新しく高い識見を得ることはないかもしれないが、そうであれば祈りを用いて現状を維持しなければならない。後戻りしてはならない。これが達成するべき最小限である。それすら成し遂げられないならば、それはあなたの霊的生活が正しい軌道上にない証拠である。その結果、あなたは当初のビジョンを持ち続けることができなくなり、神への信仰を失い、それに次いであなたの決意は弱まる。霊的生活に入ったか否かは、祈りが正しい軌道上にあるかどうかにより示される。あらゆる人がこの現実性に入って行くべきであり、祈りにおいて自らを意識的に訓練する働きをしなければならない。消極的に待っているのではなく、意識的に聖霊に動かされることを求めなければならない。そうして初めて、真に神を求める人となるのである。

祈りを始める時は、無理をし過ぎず、一度に何もかも成し遂げることを望んではならない。口を開けばすぐに聖霊に動かされたり、啓き照らされたり、神が恵みを授けてくれるなどと期待して大それた要求をすることはできない。そんなことは起こらない。神は超自然的なことは行わないのである。神は時に応じて人の祈りを叶える。また、時にはあなたが神の前に忠実であるか否かを見るために、あなたの信仰を試すこともある。祈る時には、信仰、根気、決意が必要である。ほとんどの人が祈りの訓練を始めてすぐに聖霊に動かされないため、失望してしまう。それではいけない。粘り強くなくてはならない。聖霊の動きに、また追い求め探究することに集中しなければならない。実践の道が間違っている時があり、また個人的な動機と観念が神の前で揺るぎなく立っていることができない時もあり、そのために神の霊があなたを動かさないのである。また、神はあなたが忠実であるか否かを確かめることもある。要するに、訓練においては、さらに高い代償を払わなければならないのである。実践の道から逸脱していることが分かれば、祈り方を変えればよい。あなたが誠実な心で求め、受けることを望むかぎり、聖霊があなたを現実性の中へと導くのは確実である。誠実な心で祈るが、特に動かされたと感じないこともある。その場合、あなたは信仰に依り頼み、神があなたの祈りを見ていることを信頼しなければならない。祈りにおいては不屈の忍耐が必要である。

正直な人であり、心の中にあるごまかしを取り除くために神に祈りなさい。常に祈りを通して自分を清め、祈りを通して神の霊に動かされなさい。そうすれば、あなたの性質は次第に変化する。真の霊的生活とは祈りの生活である。それは聖霊に動かされる生活である。聖霊に動かされる過程は、人間の性質を変える過程である。聖霊に動かされない生活は霊的生活ではなく、宗教儀式の生活に過ぎない。聖霊に頻繁に動かされ、啓かれ照らされる者だけが、霊的生活に入った人である。人の性質は、人が祈るにつれて変化し続ける。神の霊に動かされれば動かされるほど、人はそれだけ積極的で従順になる。また、人の心も次第に清められ、その人の性質も次第に変化する。これこそが真の祈りの成果である。

『言葉は肉において現れる』の「祈りの実践について」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 419

神の前で自分の心を静めることは、神の言葉の中に生きるための重要な手順であり、現在全ての人々が緊急に入る必要のある課題である。神の前で自分の心を静める境地に入るには次のことが必要である。

1. 外部の物事から自分の心を取り戻し、神の前で静まり、心を集中して神に祈る。

2. 神の前で静まった心で、神の言葉を飲み食いし、享受する。

3. 心で神の愛について黙想・沈思し、神の業について熟考する。

まず祈ることから始めなさい。精神を集中して、決められた時間に祈りなさい。時間的にどれほど切迫しているか、どれほど多忙かを問わず、またどんな事があっても、いつものように日々祈り、神の言葉をいつものように飲み食いしなさい。神の言葉を飲み食いしている限り、自分の周りの状況がどうであれ、自分の霊は喜びに満たされる。また、他人や様々な出来事や自分の周りのものに悩まされることもない。常時神のことを心の中で黙想していれば、それ以外の出来事に煩わされることは無い。背丈があるとは、このことを意味する。まず祈りから始めなさい。神の前に静まり祈ることは、最も効果的である。その後、神の言葉を飲み食いし、神の言葉を思い巡らし、光を得て、実践の道を見出し、神の発した言葉の目的を知り、偏ること無く理解するよう努めなさい。普段から、外側のことに心を乱されることなく、心の中で神に近付き、神の愛について黙想し、神の言葉を熟考しなさい。あなたが熟考できるぐらい心がある程度安らいでおり、あなたのいる状況に関わらず、自分の心の中で神の愛について沈思し、本当に神に近付き、最終的に自分の心の中で神を讃美する程度に達したなら、それは祈りにも勝ることである。そして、その時初めてあなたはそこから或る程度の器量を得ることになる。もしあなたが、前述したような状態に達することができるなら、それはあなたの心が神の前で真に静まっている証拠である。それが第一段階であり、基本訓練である。人間は、神の前で安らかになることが出来て初めて、聖霊により触れられ、啓き照らされることが可能となる。その時初めて真に神と交わることや、神の意志と聖霊の導きを把握することが可能となる。そして、その時、人間は自分の霊的生活において正しい道を歩きだしたことになるのである。自分自身に反抗し、自分自身を忌み嫌い、神の言葉の中で生きることができる深みに達するために、神の前で生きるよう自分を訓練することが、真に神の前で自分の心を静めることである。自らを忌み嫌い、呪い、自らに反抗することが出来ることは、神の業が達成する成果であるが、人間には不可能である。したがって、神の前で自分の心を静める訓練は、人間が直ちに入るべき課題である。普段から神の前で自分の心を静めることが出来ないだけでなく、祈る時さえ自分の心が静まっていない者もいる。これは神の基準から全くかけ離れ過ぎている。自分の心を神の前で静められないのであれば、聖霊によって動かされることなどありえようか。神の前で静まることが出来ないのであれば、あなたは誰かが来た時には気を散らされ、誰かが話をしている時には気をそらされてしまうだろう。そして、他人が何かしていると、あなたの心はそれに惹き付けられてしまいかねない。それでは、あなたは神の前に生きる者ではない。あなたの心が、神の前で本当に静まっているのであれば、周囲で何があっても、それに煩わされず、どんな人や出来事、またいかなるものにも心を奪われることがないであろう。あなたがこのような境地に入るなら、それらの否定的な状態や、人間の観念、人生哲学、人間同士の異常な関係、意見や考えなどといった全ての否定的なものは自然と無くなるであろう。あなたは常に神の言葉について熟考し、あなたの心はいつも神に近付き、神の現在の言葉で満たされているので、そうした否定的なものは無意識のうちに取り去られる。肯定的な新しい物事があなたの心を占める時、否定的な古い物事が入る余地はなくなる。だからそうした否定的な物事に注目してはならない。そうした物事をコントロールしようとして努力する必要は無い。神の前に静まることに注意を払い、神の言葉を飲み食いして享受しなさい。もっと多くの聖歌を歌って神を讃美し、神があなたに働きかけられるよう機会を与えなさい。なぜなら、神は今自ら人間を完全にすること、また、あなたの心を獲得することを求めているからである。神の霊はあなたの心を動かす。そしてあなたが聖霊の導きに従って神の前に生きるならば、あなたは神を満足させるであろう。あなたが、神の言葉の中に生きることに心を配り、そして聖霊の啓き照らしを得るために真理に関する交わりにさらに専念するならば、それらの宗教的観念や独善、自惚れは消え去り、神の為にどのように自分を費やし、どのように神を愛し、どのように神を満足させればよいのかを知るであろう。神以外の物事は、その時無意識のうちに忘れられるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「神の前で心を静めることについて」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 420

神の現在の言葉を飲み食いするのと同時に神の言葉を熟考し、神の言葉について祈ることが、神の前で安らかであることの第一歩である。神の前で真に安らかであることが出来るならば、聖霊の啓き照らしは、あなたと共にあるであろう。全ての霊的生活は、神の前に静まることによって達成される。聖霊に動かされるには、まず祈りの中で神の前に静まらなければならない。神の言葉を飲み食いする時に、神の前に静まることによって、啓き照らしを受けることと、神の言葉を真に理解することが可能となる。あなたの通常の瞑想と交わりにおいても、またあなたの心で神に近付く際も、唯一あなたが神の前に静まる時にのみ、本当の神との親しさと、神の愛と神の働きに関する真の認識と、神の心に対する本当の思慮深さが得られるのである。神の前で普段から静まることができればできるほど、あなたは一層照らされることができ、自分の腐敗した性情や、自分に欠けているのは何か、自分が入るべきこととは何であるか、自分が担うべき役割、また、自分の欠点がどこにあるかを一層理解できるようになる。これら全ては、神の前に静まることに依存することによって達成される。神の前に静まることにおいて、あなたが本当にある深みに達したならば、あなたは霊においていくつかの奥義に触れることができる。神が今あなたに為したいと願っていること、神の言葉の一層深い理解、神の言葉の真髄、神の言葉の本質、神の言葉の存在に触れることが可能となり、また実践への道をもっと深くかつ正確に理解できるようになる。もしあなたが霊において静まり、ある深みに達することが出来ないのであれば、あなたは幾分聖霊に動かされるだけだろう。あなたは、内に力といくらかの喜びと平安を感じるが、それ以上の深みに触れることはないであろう。前にも言ったように、人が全力を尽くさないのなら、わたしの声を聞くことも、わたしの顔を見ることも困難であろう。それは、外面的努力ではなく、神の前に静まり深みに達することを指している。神の前で本当に静まることができる人は、自分を世のしがらみから解き放ち、神により占有することができる。神の前に静まることができない人々は、皆自堕落で無節操である。神の前で静まることができる者たちは、皆神の前で敬虔な人々であり、神を待ち望む人々である。いのちに注意を払い霊の交わりに気を配り、神の言葉を渇望し、真理を追求するのは、神の前で静まっている人々だけである。神の前で静まることに一切注意を払わず、神の前で静まることを実践しない者たちは皆、完全に世に執着し、いのちを持たない見かけだけの人々である。彼らは神を信じると言っても、それはただ口先だけである。最終的に神が完全にし完成する者たちとは、神の前で静まることができる人々である。したがって、神の前で静まる人々は、大いなる祝福の恵みを受けている人々である。日頃神の言葉を飲み食いする時間を少ししか取らない人々、外部の状況に完全に心を奪われている人々、いのちの道に入ることに注意を払わない人々は、皆将来成長の見込みのない、偽善者たちである。神の前で静まることができ、真に神と交わることができる者たちこそ神の選民である。

『言葉は肉において現れる』の「神の前で心を静めることについて」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 421

神の前に来て神の言葉を自分のいのちとして受けるには、まず神の前で静まらなければならない。神の前で静まっている時のみ、神はあなたを啓き理解させるであろう。人が神の前に静まれば静まるほど、人は神の啓き照らしをより一層受けることが出来る。これらのことには、敬虔さと信仰を持つことが要求される。このようにしてのみ人間は完全になることができる。霊的生活に入るための基本的な訓練は、神の前に静まることである。あなたの霊的訓練は全て、あなたが神の前に静まっている時のみ効果的なものとなるであろう。自分の心を神の前で静められないのであれば、聖霊の働きを受けることが出来ない。あなたが何をしているかに関わらず、あなたの心が神の前に静まっているならば、その時あなたは神の前で生きる者である。あなたが何をしているかに関わらず、あなたの心が神の前に静まり、神に近付いているならば、それはあなたが神の前に静まる者である証拠である。他人と話をしている時、また歩いている時に「私の心は神に近付いており、外部のものにとらわれてない。そして私は神の前に静まっていることができる。」と言うことが出来る。それは、神の前に静まっている者である。あなたの心を外に引き付けるものに触れてはならない。また、神からあなたの心を引き離す可能性のある人々と接してはならない。あなたの心が神に近付くのを邪魔する可能性のある物事は何であれ、全て捨てるか、近付かないようにしなさい。その方があなたのいのちにとってより有益である。今こそが聖霊による大いなる働きの時である。神が自ら人間を完全にしている時である。今この瞬間に神の前に静まることができないのであれば、あなたは神の玉座の前に戻って来る者ではない。神以外の物事を追求するのであれば、神により完全にされる可能性は全く無い。今日神の発するこのような言葉を聞いてもなお、神の前に静まることができない者たちは、真理を愛さない人々、神を愛さない人々である。あなたが、今自分を神に捧げないなら、いったい何時捧げるのだろうか。自分を神に捧げることは、神の前で心を静めることである。これが真の捧げ物である。今本当に神に心を捧げる者は誰であれ、神により確実に完成されることが可能である。何であれ、あなたを煩わせる物事は一切ない。あなたに対する刈り込みであれ、取り扱いであれ、またあなたが挫折や失敗に直面しようが、あなたの心は、常に神の前に静まっているべきである。他人が自分をどう扱おうと、あなたの心は神の前に静まっているべきである。逆境、苦難、迫害など、どんな状況に直面しようが、また様々な試練があなたに降りかかろうが、あなたの心は、常に神の前に静まっているべきである。これが完全にされる道である。あなたが本当に神の前に静まっている時のみ、あなたにとって神の現在の言葉が明瞭になり、聖霊の啓き照らしを逸脱なく一層正しく実践できる。また神の意図をはるかに明確に把握し、自分の奉仕において一層明瞭な方向性を持ち、聖霊による感動と導きをもっと正確に把握でき、聖霊の導きの下で生きることが保証される。これらが神の前で本当に静まることで達成される結果である。人々が神の言葉を明瞭に理解しておらず、実践する道を持たず、神の意図が把握できない、あるいは実践における原則に欠けるのであれば、それは彼らの心が神の前で静まっていないからである。神の前で静まることの目的は、真剣かつ実践的となり、神の言葉の正確さと明瞭さを探求し、最終的に真理を理解することと神を知ることを達成することにある。

自分の心が神の前で継続的に静まっていないのであれば、神はあなたを完全にすることは出来ない。ある人に意志が無いならば、それは心が無いことと同じであり、心の無い人間は神の前で静まることが出来ない。彼らは神がどれだけ多くの業を行い、どれだけ多くのことを語っているのか知らず、またそれらを実践する方法も知らない。こうした者は、心の無い人間ではなかろうか。心の無い人間は、神の前で静まれるだろうか。神は、心の無い人間など完全にはできない。そんな者は獣に属するのだ。神は極めて明確かつ徹底して言葉を語ったが、あなたの心は依然として動かされず、あなたは神の前で静まることが出来ない。これでは動物と同じではないだろうか。神の前で静まることを実践する中で、迷ってしまう人々もいる。彼らは料理すべき時に料理せず、働くべき時に働かず、ひたすら祈り、瞑想する。神の前で静まることは、料理しないことや働かないこと、生活を無視することを意味するのでは無く、あらゆる正常な状態において神の前で自分の心を静めることができること、心の中に神の居場所をもつことを意味する。祈る時は、神の前できちんと跪いて祈りなさい。働く時や食事を用意する時は、自分の心を神の前で静め、神の言葉を熟考するか、賛美歌を歌いなさい。あなたには、自分が置かれた環境に関わらず、実践する方法がある。あらゆる手を尽くして神に近付き、できるかぎり神の前で心を静めなさい。状況が許すならば、一心に祈りなさい。状況が許さなければ、自分の手で仕事しながら、心の中で神に近付きなさい。神の言葉を飲み食いすることができる時は、そうしなさい。祈ることが出来る時は、祈りなさい。神について瞑想することが出来る時は、神について瞑想しなさい。自分が置かれた環境に基づいて、あらゆる手を尽くして真摯な取り組みのために自らを訓練しなさい。何も無い時には神の前で静まることが出来るが、何かが起きるとすぐさま心がそれを追いかける人々も居る。それは神の前で静まることではない。経験すべき正しい方法は、いかなる場合も自分の心が神から離れず、外部の人々や出来事、物事が煩わしいと感じないことである。神の前で静まっている人とは、このような人のことである。集会で祈っている時は、自分の心を神の前で静めることが出来るが、交わりの時になると、神の前で心を静められず、考えが乱れると言う人たちもいる。それは神の前で静まるということではない。現在ほとんどの人たちがこうした状態にあり、彼らの心は、神の前に常に静まることができない。したがって、あなたがたは、この領域の訓練に一層努め、いのちの経験の正しい道に、一歩一歩入り、神によって完全にされる道を歩む必要がある。

『言葉は肉において現れる』の「神の前で心を静めることについて」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 422

神の働きと言葉は、あなたがたの性質に変化を生じさせるためのものである。神の目標は、あなたがたに神の働きと言葉を理解させたり、知らしめたりするだけではない。それでは不十分である。あなたがたは理解する力がある人なのだから、神の言葉を難なく理解できるはずだ。なぜなら、神の言葉の大半は人間の言語で書かれており、神はとても平易に語るからである。たとえば、神が自分に何を理解して実行するよう求めているのか、あなたがたは完全に学ぶことができる。これは、理解する能力を備えた普通の人間にできて当然のことである。特に、神が現段階で述べていることは、ひときわ明瞭かつ明晰であり、人間が考慮したことのない多くのこと、およびありとあらゆる人間の状況について、神は指摘している。神の言葉はすべてを含むものであり、満月の光のように明るい。ゆえに現在、人は様々な問題を理解しているが、依然として欠けているものがある。つまり、神の言葉を実践することである。人は、手に入るものを何でも吸収しようとただ待つのではなく、真理のあらゆる側面を詳細に経験し、それをさらに細かく探究し、追い求めなければならない。さもなければ寄生虫も同然になってしまう。彼らは神の言葉を知っているが、それを実践しない。この種の人は真理を愛しておらず、最後に淘汰される。1990年代のペテロのようになるというのは、あなたがた一人ひとりが神の言葉を実践し、自分の経験において真の入りを得て、神と協力する中でさらに偉大な啓きをより多く得るべきだという意味であり、それによって自分のいのちがさらに支えられる。たとえ神の言葉をたくさん読んでいても、文章の意味を理解するだけで、実際の経験を通じた神の言葉に関する直接的な知識がなければ、神の言葉を知ることはないだろう。あなたにとって、神の言葉はいのちではなく、いのちのない文字の羅列に過ぎない。そして、いのちのない文字を見つめながら生きるだけなら、神の言葉の真髄を把握することはできず、神の旨を理解することもないだろう。実体験の中で神の言葉を経験して初めて、神の言葉の霊的な意味があなたに明かされる。また経験を通じてでなければ、数多くの真理の霊的な意味を把握することはできず、神の言葉の奥義を解明することもできない。あなたがそれを実践しなければ、神の言葉がいかに明瞭でも、あなたが把握したのは空虚な字義や教義だけであり、それらがあなたの宗教的規則になってしまったのだ。それはパリサイ人たちが行なったことではないのか。あなたがたが神の言葉を実践し、経験するならば、それはあなたがたにとって実践的なものになる。神の言葉を実践することを求めないなら、神の言葉はあなたにとって第三の天の伝説程度のものに過ぎない。実のところ、神を信じる過程は、神によって獲得される過程であるとともに、あなたがたが神の言葉を体験する過程でもある。より明確に言うと、神を信じるというのは、神の言葉に関する認識と理解を得ること、そして神の言葉を体験し、それを生きることである。そうしたことが、あなたがたの神への信仰の背後にある現実である。自分の中にあるものとして神の言葉を実践することを求めないまま、神を信じ、永遠のいのちを望むのであれば、あなたがたは愚かである。それはあたかも、宴に赴き食事を見て、それらの御馳走を暗記するだけで、実際には何一つ味わわないようなものだろう。そのような人は愚か者ではなかろうか。

『言葉は肉において現れる』の「いったん真理を理解したら、それを実践すべきである」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 423

人間が自分のものとすべき真理は神の言葉の中にあり、それは人類にとって最も有益で役立つ真理である。それはあなたがたの体に必要な滋養と糧であり、人が正常な人間性を回復することを助ける。またそれは、人間が備えているべき真理である。神の言葉を実践すればするほど、あなたがたのいのちはより早く開花し、真理がますます明確になる。自分の霊的背丈が成長するにつれ、あなたがたは霊的世界の物事をより明瞭に理解し、さらに力を得てサタンに勝利するだろう。神の言葉を実践する時、あなたがたが理解していない真理の多くも明らかになるだろう。ほとんどの人は神の言葉の文面を理解するだけで満足し、自分の経験を実践において深めることではなく、むしろ教義を身につけることに重点を置くが、それはパリサイ人のやり方ではないのか。ならば彼らにとって、「神の言葉はいのちである」という言葉がどうして真実であり得ようか。単に神の言葉を読むだけでは、人のいのちが成長することはできず、神の言葉が実践されて初めて成長できる。もしもあなたの信仰が、神の言葉を理解しさえすればいのちと霊的背丈を得ることができる、というものであれば、あなたの理解は歪んでいる。神の言葉の真の理解は、あなたが真理を実践する時に生まれる。そしてあなたは「実践して初めて真理を理解できる」ということがわかっていなければならない。今日あなたは、神の言葉を読んでも、自分は神の言葉を知っていると言えるだけで、それを理解しているとは言えない。真理を実践する唯一の方法はまず真理を理解することだ、と言う者たちもいるが、それは部分的に正しいだけで、すべて正しいということは決してない。一つの真理の認識を得るまでは、その真理を経験したことにはならない。説教で聞いたことを理解したと感じても、それは本当に理解したのではなく、真理の字句を身につけているだけであり、その中にある本当の意味を理解することと同じではない。真理に関してただ表面的な知識があっても、それは実際に真理を理解しているという意味でも、真理に関する認識があるという意味でもない。真理の本当の意味は、それを経験することから見出せる。それゆえ、真理を経験して初めて、あなたはそれを理解することができる。そしてその時初めて、あなたは真理の隠された部分を把握できるのである。自分の経験を深めることが言外の意味を把握し、真理の本質を理解する唯一の方法である。したがって、真理があればどこにでも行けるが、自分の中に真理がないのであれば、宗教的な人々はもちろんのこと、自分の家族さえも説得しようなどと思ってはならない。真理がなければ、あなたはひらひらと舞う雪のようであるが、真理があれば幸福で自由になることができ、あなたを攻撃できる者は一人もいない。いかに強力であっても、理論が真理に打ち勝つことはできない。真理があれば、世界そのものを揺るがし、山や海をも動かせるが、その一方で真理がなければ、強力な都市の防壁がうじ虫によって瓦礫と化すことにつながり得る。それは明白な事実である。

『言葉は肉において現れる』の「いったん真理を理解したら、それを実践すべきである」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 424

現段階においては、まず真理を知り、次にそれを実践し、真理の本当の意味をさらに身につけることが極めて重要である。あなたがたはその達成を追い求めるべきである。他人を自分の言葉に従わせることを追い求めるだけでなく、他人に自分の実践を見習わせなければならない。そうすることでのみ、あなたは有意義なものを見出すことができる。自分に何が起きようと、誰に遭遇しようと、自分に真理がある限り、あなたは揺るぎなく立つことができる。神の言葉は人に死でなくいのちをもたらすものである。神の言葉を読んだ後も、いのちを得ずに依然として死んでいるのであれば、あなたには何らかの問題がある。しばらく神の言葉をたくさん読み、実践的な説教を数多く聞いた後も、あなたが死んだ状態であるなら、それは、あなたが真理を重視する者でも、真理を追い求める者でもないことを証明している。真剣に神を得ようとしているのであれば、教義を身につけることや、高尚な教義で他人を教えることに重点を置かず、神の言葉を経験し、真理を実践することに集中するはずだ。それこそが、今あなたがたが入ろうとすべきことではないのか。

神が人間の中で働きを行なう時間は限られているが、あなたが神に協力しなければ、どのような結末になり得るだろうか。ひとたび神の言葉を理解したらそれを実践するよう、神があなたがたにいつも求めているのはなぜか。それは、神が自身の言葉をあなたがたに示したからであって、あなたがたの次なる段階はそれを実際に実践することである。あなたがたがそれらの言葉を実践する限り、神は啓きと導きの働きを行なう。それはこのようにしてなされる。神の言葉によって人間はいのちを開花させることができ、また神の言葉の中に、人間が逸脱したり消極的になったりする原因となり得る要素はない。あなたは、自分は神の言葉を読んでそれを実践したのに、いまだに聖霊から働きを受けたことがないと言う。あなたの言葉は子供騙しに過ぎない。あなたの意図が正しいかどうか、他の人たちは知らないかもしれないが、神にもわからないことがあり得ると思っているのか。他の人たちが神の言葉を実践して聖霊の啓きを受けているのに対し、あなたがそれを実践しても聖霊の啓きが得られないのはどういうことか。神には感情があるのか。あなたの意図が本当に正しく、あなたが協力的であれば、神の霊はあなたと共にあるだろう。いつも自分の旗を立てたがる人がいるのに、神が彼らを立ち上がらせて教会を導かせることがないのはなぜか。また、ただ自分の役割を果たし、自分の本分を尽くしているだけなのに、知らぬ間に神の承認を得た人もいる。そんなことがどうしてあり得るのか。神は人の心の奥底を調べるが、真理を追い求める人は、正しい意図で追い求めなければならない。正しい意図のない人は、揺るぎなく立つことができない。あなたがたの目的の核心は、神の言葉が自分の中で効果を発揮するようにすることである。言い換えれば、自分が神の言葉を実践する中で、その言葉を真に理解することである。おそらく、あなたがたが神の言葉を理解する能力は乏しいだろうが、あなたがたが神の言葉を実践する時、神はこの欠点を直すことができる。そのため、あなたがたは数多くの真理を知るだけでなく、それらを実践しなければならない。これが無視することのできない最大の重点である。イエスは三十三年半の生涯において数多くの恥辱と苦しみに耐えた。彼がかくも大いに苦しんだのは、ひとえに真理を実践し、あらゆることにおいて神の旨を行ない、神の旨しか大事にしなかったからである。この苦しみは、イエスが実践を経ずに真理を知っていたとすれば、決して受けたはずのないものである。イエスがユダヤ人の教訓に従い、パリサイ人に従っていたとすれば、彼は苦しまなかったことだろう。人間に対する神の働きの効果は人間の協力から生じるものであるということを、あなたはイエスの業から学ぶことができる。そしてそれは、あなたがたが認識しなければならないことである。イエスが真理を実践しなかったとしたら、彼はあのように十字架の上で苦しんだだろうか。イエスが神の旨に従って行動していなかったとしたら、あれほど悲痛な祈りを捧げていただろうか。それゆえ、あなたがたは真理を実践するために苦しむべきである。それが人間の受けるべき苦難である。

『言葉は肉において現れる』の「いったん真理を理解したら、それを実践すべきである」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 425

実践において、戒めを守ることは真理の実践と結びつけるべきである。戒めを守りながら真理を実践しなければならないのである。真理を実践する際は、戒めの原則を破ったり、戒めに反した行動をとったりしてはならない。神が自分に求めることは何でも行なわなければならない。戒めの遵守と真理の実践は相反するものでなく、相互に関連するものである。真理を実践すればするほど、より一層戒めの本質を遵守するようになれる。真理を実践すればするほど、戒めに示されている神の言葉をより深く理解することになる。真理を実践することと戒めを守ることは相反する行動ではなく、両者は相互に関連している。最初のころ、人間は戒めを守って初めて真理を実践し、聖霊の啓きを得ることができた。しかし、それが神の本来の意図ではない。神は、あなたが立派に振る舞うだけでなく、神への礼拝に心を捧げるよう求めている。とは言え、あなたは表面的にでも戒めを守る必要がある。経験を通じて神のことをよりはっきり認識したあと、人は次第に神への反抗と抵抗を止め、神の働きについてそれ以上疑いを抱かないようになる。そうすることでのみ、人は戒めの本質に従うことができる。ゆえに、真理を実践せず単に戒めを守るのは効果がないことであり、神に対する真の崇拝とはならない。なぜなら、あなたは真の霊的背丈を得ていないからである。真理がないまま戒めを守っても、それは規則を固く遵守することにしかならない。そうする中で、戒めが自分の律法となるだろうが、それはいのちの成長に役立たない。それどころか、戒めはあなたの負担となり、旧約の律法のように自分を固く束縛するものとなり、あなたが聖霊の臨在を失う原因となるだろう。したがって、真理を実践することでのみ、あなたは効果的に戒めを守ることができ、また真理を実践するために戒めを守る。戒めを守る過程の中で、あなたはさらに多くの真理を実践し、また真理を実践する際に、戒めの実際の意味をより深く理解するようになる。人間は戒めを守らねばならないという神の要求の裏にある目的と意義は、その人が想像するように、規則を遵守させることではなく、むしろその人のいのちへの入りに関連するものである。あなたのいのちの成長度によって、どの程度戒めを守れるかが決まる。戒めは人間が守るべきものだが、戒めの本質は、人間のいのちの経験を通じてでなければ明らかにならない。大半の人は、戒めを立派に守ることは「準備万端、あとは引き上げられるだけ」という意味だと思い込んでいる。これは突飛な考えであり、神の旨と一致していない。こうした発言をする者は進歩したがらず、肉を無闇に欲しがっている。これは馬鹿げている。現実離れしている。実際に戒めを守ることなく、単に真理を実践することは、神の旨ではない。そのようにする者は不具者であり、片脚のない人間も同然である。規則に従うかのごとく戒めを守るだけで、真理を自分のものにしていなければ、それもまた神の旨を満たすことはできない。そうする人たちも、片目を失った人間のように一種の障害に苦しむ。戒めを立派に守り、実践の神に関する明瞭な認識を得るのであれば、あなたは真理を自分のものにするだろうと言える。相対的に言えば、あなたは真の霊的背丈を得ているはずだ。実践すべき真理を実践するなら、あなたはまた戒めも守っており、これら二つは互いに矛盾しない。真理の実践と戒めの遵守は二つの異なる体系であり、いずれもいのちの経験における不可欠な部分である。人間の経験は戒めの遵守と真理の実践の分割ではなく、それらの統合により構成されるべきである。しかし、これら二つの事柄には、相違点と関連する点の両方がある。

『言葉は肉において現れる』の「戒めを守ること、真理を実践すること」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 426

新時代の戒めの公布は、この流れの中にいるすべての人、すなわち今日神の言葉を聞くすべての人が新しい時代に入ったことの証しである。それは神の働きにとって新たな出発であり、6000年にわたる神の経営(救いの)計画の最終部の始まりでもある。新時代の戒めは、神と人間が新たな天と新たな地の領域に入ったこと、またヤーウェがイスラエルの民の間で働きを行ない、イエスがユダヤ人の間で働きを行なったのと同じく、神が地上において一層実践的な働きを行ない、より偉大な働きをさらに行なうことを象徴する。それらの戒めはまた、この人々の集団が神からより偉大な使命をさらに受け、神からの施し、糧、支え、気遣い、そして加護を実践的な形で授けられると共に、神によるより実践的な訓練、および神の言葉による取り扱い、破砕、そして精錬を受けることを象徴する。新時代の戒めの意義は極めて深遠である。それらは、神が実際に地上に現われ、そこから全宇宙を征服し、神の栄光のすべてを肉において表わすことを示唆している。それらはまた、自身の選民を一人残らず完全にすべく、実践の神が地上でより実践的な働きを行なうことも示唆している。さらに、神は言葉によって地上であらゆることを成し遂げ、「受肉した神が最も高い所に昇って讃えられ、あらゆる民と国々が跪いて大いなる神を崇拝する」という法令を明らかにする。新時代の戒めは人間が守るべきものであり、そうすることは人間の本分にして義務であるが、それら戒めの意義はあまりに深遠であり、ひと言ふた言では十分説明できない。新時代の戒めは、ヤーウェとイエスが公布した旧約の律法や新約のしきたりに取って代わる。これはさらに深遠な教えであり、人々が想像するほど簡明ではない。新時代の戒めには実践的な意義の側面がある。すなわち、それらは恵みの時代と神の国の時代との接点として機能するのである。新時代の戒めは、旧時代の実践やしきたり、そしてイエスの時代やそれよりも前の実践にすべて終止符を打つ。それはまた、人間をより実践的な神の前に連れ出し、その人が神によって直接完全にされ始めるのを可能にする。それは完全にされる道の始まりである。したがって、あなたがたは新時代の戒めについて正しい態度をとるべきであり、いい加減に付き従ったり、あざ笑ったりしてはならない。新時代の戒めは、ある点に強い重点を置いている。それはつまり、人間は今日における実践の神自身を崇拝しなければならないということであり、そこには霊の本質により実践的に従うことが含まれる。その戒めはまた、神が義の太陽として現われたあと、人間を罪人もしくは義なる者として裁く際の原則も強調している。その戒めは、実践することよりも理解することのほうが簡単である。そのことから、人間を完全にしようと望むなら、神は自らの言葉と導きによってそれを行なう必要があり、人間は自分自身に内在する知性だけで完全になることができないということがわかる。人間が新時代の戒めを守れるかどうかは、実践の神に関するその人の認識と関係している。したがって、あなたが戒めを守れるかどうかは、たかだか数日で解決する問題ではない。これは非常に深遠な学ぶべき教えである。

『言葉は肉において現れる』の「戒めを守ること、真理を実践すること」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 427

真理の実践は、人間のいのちが成長し得る道である。真理を実践しないのであれば、あなたがたに残るのは理論に過ぎず、実際のいのちはない。真理は人間の霊的背丈の象徴であり、あなたが真理を実践するかどうかは、真の霊的背丈を有しているかどうかと関係している。真理を実践しなかったり、正しく行動しなかったり、感情に左右されて自分の肉に気を取られたりした場合、あなたは戒めの遵守からかけ離れている。これは最も深遠な教えである。すべての時代には、人々が入って理解しなければならない真理が多数ある。しかしそれぞれの時代には、それらの真理に付随する異なる戒めもある。人々が実践する真理は特定の時代と関連しており、彼らが守る戒めも同じである。各時代には、実践すべき固有の真理と、守るべき固有の戒めがある。しかし、神が公布した様々な戒め次第で、つまり様々な時代次第で、人間による真理の実践の目的と効果は大いに異なる。戒めは真理に役立つものであり、真理は戒めを維持するために存在すると言える。真理しか存在しなければ、神の働きには語るべき変化がないだろう。しかし、戒めを参照することで、人間は聖霊による働きが進展する程度を突き止め、神が働きを行なう時代を知ることができる。宗教においては、律法の時代に人々が実践していた真理を実践できる人が多数いる。しかし、そうした人は新時代の戒めを心得ておらず、それを守ることもできない。彼らはいまだに古い道を守り、原始時代の人間のまま留まっている。彼らは新たな働きの手段が身についていないので、新時代の戒めが見えない。そうしたわけで、そのような人には神の働きがないのである。それはあたかも、中身のない卵の殻だけがあるようなものだ。つまり、中に雛が宿っていないならば、そこに霊はない。より正確に言えば、そこにはいのちがないのである。そうした人たちは新時代に入っておらず、何歩も遅れてしまった。したがって、より古い時代の真理があっても、新しい時代の戒めがなければ無益である。あなたがたの多くは今日の真理を実践しているものの、その戒めを守っていない。あなたがたは何も得ず、実践する真理は価値も意味もなく、神はあなたがたを讃えないだろう。真理の実践は、聖霊による現在の働き方の範囲内で、今日の実践の神の声に反応する形で行なわれる必要がある。そうしなければ一切が無効であり、ざるで水を汲もうとするようなものである。それはまた、新時代の戒めを公布する実際の意義でもある。戒めに従うというのであれば、少なくとも肉において現われる実際の神を混乱することなく知るべきである。つまり、人々は戒めに従う原則を理解すべきなのだ。戒めに従うということは、でたらめに従ったり、勝手に従ったりするのではなく、根拠、目的、原則に基づいて従うことを意味する。まずは、あなたのビジョンを明確にしなければならない。あなたが現在における聖霊の働きについて徹底的に認識し、今日の働き方に入っていくのであれば、あなたは戒めの遵守を自然とはっきり理解できるだろう。あなたが新時代の戒めの真髄を見通し、それを守れる日が来るのであれば、その時あなたは完全にされる。それが真理を実践し、戒めを守ることの実際的な意義である。あなたが真理を実践できるかどうかは、新時代の戒めの真髄をどのように知覚するかによって決まる。聖霊の働きが絶えず人間の前に現われ、神は人間に対してますます多くのことを要求するだろう。それゆえ、人間が実際に実践する真理はより多く、より偉大なものになり、戒めの遵守による効果は一層深くなるだろう。したがって、あなたがたは真理の実践と戒めの遵守を同時に行なう必要がある。誰一人、この問題を無視してはならない。この新時代において、新たな真理と新たな戒めを同時に開始させようではないか。

『言葉は肉において現れる』の「戒めを守ること、真理を実践すること」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 428

多くの者たちが、実践について多少は話すことができる。また、自分の個人的な感想も述べることができる。しかし、その大部分は、他人の言葉から得た明察である。そこには、自分自身の個人的な実践からもたらされたものも、自分自身の体験から知ったことも、まったく含まれていない。わたしは以前この問題を分析したことがある。あなたは、わたしが何も知らないと思ってはならない。あなたはただの張子の虎に過ぎないが、サタンに打ち勝つことについて、勝利の証しをすることについて、また、神の似姿を実際に生きることについて語るというのか。それは全く馬鹿げた話である。あなたは、今日神によって語られた言葉の全てが、ただ聞いて感心するためだけのものだと思っているのか。あなたの口は、古い自分を捨て去り真理を実践することを語っているが、あなたの手は、それと違うことをしており、あなたの心は他のことを企んでいる。あなたは一体どういう人間であるのか。あなたの心と手が一致しないのは何故だろうか。多くの説教が空虚な言葉となってしまった。それは何と心が痛むことではないか。あなたが神の言葉を実行に移すことができないのであれば、それは、あなたが未だに聖霊の働く道に入っておらず、あなたの中に聖霊の働きを備えておらず、また、あなたが聖霊の導きを授かっていない証拠である。神の言葉を理解することはできるが、それを実行に移すことはできないと言うのであれば、あなたは真理を愛する者ではない。神はそのような人間を救うために来るのではない。イエスは、罪人や貧しい者やあらゆる卑しい者を救うために十字架に架けられた時、途方もない苦痛を受けた。イエスの十字架は、罪のための捧げものの役割を果たした。神の言葉を実践できないのであれば、できるだけ早く立ち去るがよい。居候のように神の家に長居してはならない。明らかに神に背くことだと分かっているのに、それを止めるのが困難だと思っている多くの人々がいる。彼らは死を招こうとしているのではなかろうか。どうして彼らが神の国に入ることについて語れるだろうか。彼らは、ずうずうしくも神の顔を見ることができるというのか。神が与える食物を食べながら、神に反する曲がったことを行い、神が祝福を授け、あなたにそれを享受させているにもかかわらず、悪意を持ち、陰険になり、陰謀を企てている。あなたは、それらを受けとる時、自分の手が焼かれるように感じないのか。あなたは、自分が赤面するのを感じないのか。神に反することを行い、「謀反」の企みを成し遂げた今、あなたは恐れを感じないのか。あなたが何も感じないのであれば、どうして将来を語ることができようか。もうずっと前からあなたには将来などなかったのだ。あなたは、それ以上何を期待できるというのか。何か恥知らずなことを言っても、何の咎めも感じず、あなたの心が何も認識しないのなら、それは、あなたが既に神に見捨てられていることを意味するのではなかろうか。気ままに何の自制心もなく話し行動することがあなたの性質となった今、どうして神により完全にされることがあろうか。あなたは世の中をそうしてのうのうと歩いて行けるであろうか。誰があなたの言うことを信じるであろうか。あなたの本性を知る者は、あなたと距離を置くであろう。それは神の罰ではなかろうか。いずれにせよ、話ばかりで行動が伴わないのであれば、決して成長はありえない。あなたが話している間は聖霊があなたの上に働いているかも知れないが、あなたが実践しないのであれば、聖霊はその働きをやめるであろう。あなたがこのまま続けてゆくのであれば、どうして将来のことや、自分の全存在を神の業に捧げる話などできようか。あなたは、自分の全存在を捧げる話しかできないが、真の愛を神に捧げていない。神があなたから受け取るものは、あなたの言葉の献身だけであって、真理を実践しようというあなたの意図ではない。これがあなたがたの実際の霊的背丈であり得るだろうか。このまま続けてゆくなら、あなたが神に完全にされるのは何時になるのか。あなたは、自分の暗く陰鬱な将来に不安を感じないであろうか。神があなたへの望みを捨てたのを感じないのか。神はもっと他の新たな人々を完全にすることを望んでいるということをあなたは知らないのか。古いものがそのまま持ち堪えられるだろうか。今日、あなたは神の言葉に注意を払っていない。あなたは明日を待っているのか。

『言葉は肉において現れる』の「救いを得る人は真理を進んで実践する人である」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 429

神の言葉を取り上げて臆面もなく説明できたとしても、あなたが現実を自分のものにしていることにはならない。物事は、あなたが想像するほど単純ではない。あなたが現実を自分のものにしているかどうかは、あなたが何を言うかではなく、あなたが何を生きているかに基づいている。神の言葉があなたのいのちとなり、あなたの自然な表現となって初めて、あなたには現実があると言うことができ、またその時初めて、真の理解と実際の霊的背丈を得たと見なされる。あなたは長期にわたる試験に耐え、神が求める人間らしさを生きることができなければならない。それは単なるポーズではなく、自分から自然と流れ出るものでなければならない。その時初めて、あなたは真に現実を自分のものとし、いのちを得ていることになる。誰もがよく知っている効力者の試練を例に取ろう。効力者に関する高尚な理論を持ち出すことは誰にでもできて、誰もがこの主題についてそこそこ理解している。彼らはそれについて話し、あたかも競い合っているかのごとく、一人ひとりの話が直前のものより優れている。とは言え、大きな試練を経たことがないなら、その人に優れた証しがあるとはとても言い難い。要するに、人間が生きることには依然として大いに不足があり、その人の理解とまったく正反対のものである。したがって、それはいまだ人間の実際の霊的背丈になっておらず、依然として人のいのちでもない。人間の理解がいまだ現実の中にもたらされていないので、その人の霊的背丈は依然として砂上の楼閣のようにぐらつき、今にも崩壊しそうである。人間が自分のものにしている現実はあまりに乏しく、人間の中に何らかの現実を見出すことはほとんど不可能である。人間から自然と流れ出る現実はほとんどなく、彼らが生きている現実はどれも強いられたものである。そのためわたしは、人間には現実がまったくないと言うのである。人は、神に対する自分の愛は決して変わらないと主張するが、彼らがそう言うのは、試練に直面する前だけである。ある日突如として試練に見舞われると、彼らが語ることは再び現実離れしたものになり、そのことは人間に現実がまったくないことをまたもや証明する。自分の観念に合わないことや、自分自身を脇にのける必要があることに遭遇するたび、そうしたことはあなたの試練だと言える。神の旨が明かされるのに先立ち、誰もが厳しい試験と計り知れない試練を経る。あなたにそれが理解できるだろうか。神は人々を試そうとする時、実際の真実が明かされるのに先立ち、いつも彼らに選択させる。つまり、神は人を試練に晒す時、決して真実を伝えないということである。人はそのようにして暴かれる。これは神が自身の働きを行なう一つの方法であり、それによってあなたが今日の神を理解しているかどうか、現実を自分のものにしているかどうかを確かめるのである。あなたには神の働きに関する疑念が本当にないのか。大いなる試練があなたに臨む時、本当に揺るぎなく立つことができるだろうか。「何の問題もないことは請け合います」などとあえて言う者がいるだろうか。「他の人たちは疑念を抱いているかもしれませんが、私は決して疑いません」などとあえて断言する者がいるだろうか。それはまさに、ペテロが試練に晒された時と同じである。真実が明かされる前、彼は常に大口を叩いていた。これはペテロだけの個人的な欠点ではなく、誰もが現在直面している最大の問題である。もしもわたしが数ヵ所を訪れたり、何名かの兄弟姉妹たちを訪問したりして、今日の神の働きに関するあなたがたの理解がどのようなものかを確かめるなら、あなたがたは自分の認識についてきっと多くのことを語ることができ、また何の疑念も抱いていないように見えるだろう。「あなたは本当に、今日の働きが神自身によって行なわれていると断定できるのか。何の疑念もなく」と、わたしがあなたに尋ねたならば、あなたはきっと「まったく疑いの余地なく、それは神の霊によって行なわれている働きです」と答えるだろう。ひとたびそのように答えた後、あなたに一抹の疑念もないことは確実で、自分は少しばかり現実を得たと思い、大いに満足さえするはずだ。物事をこのように認識しがちな人は、自分のものにしている現実が少ない人である。自分は現実を得たと考えれば考えるほど、試練に直面した際に揺るぎなく立つことができなくなる。傲慢で横柄な者に災いあれ。自分自身を知らない者に災いあれ。このような人間は、口は達者だが、言葉を行動に移す際に最もひどい目に遭う。ほんの少しでも困難の兆しがあると、このような人たちは疑念を抱き始め、あきらめようかという思いが心に忍び込む。彼らは現実を一切持ち合わせておらず、彼らにあるものといえば、宗教の上位にある理論だけで、神が現在要求している現実はまったくない。理論の話をするだけで、現実を一切自分のものにしていない者を、わたしは最も忌み嫌う。彼らは自分の働きを行なう時こそ一番大きな声で叫ぶが、現実に直面するとたちまち動揺する。そのことは、この人たちに現実が一切ないことを示しているのではないか。風や波がどれほど激しくても、あなたが一抹の疑念も心に入るのを許さずに立ち続け、たとえ他に残された者がいなくなっても揺るぎなく立ち、一切否定しないでいられるなら、あなたは真の理解を得て、現実を本当に自分のものにしているとみなされる。風の吹くほうを向くばかりで、多数派に付き従い、他人の言うことをそのまま繰り返すことを学ぶなら、あなたがどれほど雄弁であろうと、それはあなたが現実を自分のものにしている証拠にはならない。したがって、空虚な言葉を早まって大声で叫んだりしないよう、あなたに勧める。あなたは、神が行なおうとしていることを知っているのか。ペテロのように振る舞ってはならない。さもなければ、あなたは自分に恥をもたらし、堂々としていられる能力を失う。こんなことは誰の為にもならない。大半の人には真の霊的背丈がない。神は実に多くの働きを行なったが、人々に現実をもたらしてはいない。より具体的に言うと、神はまだ誰も自ら罰していないのである。中には、このような試練によって暴かれた者もいる。つまり、おのれの罪深い手をさらに伸ばしつつ、神に勝るのは簡単であり、好きなことを何でもできると考えている者である。彼らは、この種の試練にさえ耐えられないので、さらに厳しい試練はもっての他、現実を自分のものにすることもまた問題外である。彼らは単に神を欺こうとしているのではないか。現実を自分のものにすることは、見せ掛けられることでもなければ、知ることで達成できることでもない。それはあなたの実際の霊的背丈に左右され、また、あなたがあらゆる試練に耐えられるかどうか次第である。あなたは理解できただろうか。

『言葉は肉において現れる』の「真理を実践することだけが現実を自分のものにすることである」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 430

神が人々に要求するのは、現実について語る能力だけではない。それはあまりに簡単なことだ。そうではないか。ならば、神はなぜいのちへの入りについて語るのか。なぜ変化について話すのか。現実について中身のない話しかできないのであれば、その人たちは性質の変化を成し遂げることができるのか。神の国の精兵は、現実について話したり、自慢したりすることしかできない集団となるよう訓練されているのではない。むしろ、いかなる時も神の言葉を生き、いかなる挫折に直面しても屈せず、絶えず神の言葉にしたがって生き、この世に立ち返らないように訓練されているのである。これが、神が語るところの現実であり、神が人間に要求するものである。したがって、神が語る現実を簡単に考え過ぎてはならない。単なる聖霊からの啓きは、現実を自分のものにすることと等しくはない。そうしたものは人間の霊的背丈ではなく、神の恵みであり、それに対して人間は何一つ寄与しない。一人ひとりがペテロの苦難に耐えなければならず、またそれ以上に、ペテロの栄光を自分のものにしなければならない。神の働きを得た後、彼らはそれを生きるのである。これ以外に現実と呼べるものはない。現実について語ることができるからといって、自分に現実があると考えてはならない。それは間違った考えである。そうした考えは神の旨と一致しておらず、実際の意義が一切ない。今後そんなことを語ってはならない。そのような発言は消し去りなさい。神の言葉を誤って理解している者はみな未信者である。彼らは真の認識を少しも持ち合わせておらず、まして真の霊的背丈など備えてはいない。彼らは現実をもたない無知な人々である。言い換えると、神の言葉の本質から外れて生きる者はみな未信者である。人々から未信者とみなされた者たちは、神の目から見ると獣であり、神から未信者とみなされた者たちは、神の言葉を自分のいのちとしていない者である。したがって、神の言葉の現実を自分のものにしておらず、神の言葉を生きていない者は未信者である。神の旨は、誰もが神の言葉の現実を生きるようにすることであり、単に誰もが現実について語るようにすることでなく、それ以上に、誰もが神の言葉の現実を生きられるようにすることである。人間が認識している現実は極めて表面的であり、何の価値もなく、神の旨を満たすことはできない。それはあまりに卑しく、言及する価値すらない。欠けているところがあまりに多く、神の要求の基準にまったく達していない。あなたがた一人ひとりが徹底した検査を受け、あなたがたのうち、自身の認識についてどう話すべきかを知っているだけで、道を示すことができない者は誰かが確かめられるとともに、役に立たないくずは誰かが突き止められる。今からは次のことを憶えておきなさい。中身のない認識について語ってはならない。実践の道と現実についてだけ語りなさい。本当の認識から本当の行動への移行、そして実践から本当に生きることへの移行について語るのだ。他人に説教したり、真の認識について語ったりしてはならない。もしもあなたの理解が道であるなら、自由に言葉を発しなさい。そうでなければ、口を閉じて黙ってほしい。あなたが話すことは役に立たない。あなたが認識について語るのは、神を欺き、他人を羨ましがらせるためである。それがあなたの野望ではないのか。あなたは故意に他人を弄んでいるのではないか。そうすることに何か価値があるのか。自分が経験した後で認識について話すなら、あなたは自慢しているとはみなされない。そうでなければ、あなたは傲慢な言葉を吐き出す者である。あなたの実体験には克服できないことが数多くあり、あなたは自分の肉に反抗することができない。あなたはいつも自分の好きなことを何でも行なっており、決して神の旨を満たさない。それなのに、理論的な認識について話す図々しさがいまだにある。あなたは恥知らずだ。あなたはいまだ大胆にも、神の言葉に関する自分の認識について語っている。あなたは何と厚顔無恥なのか。演説することや自慢げに話すことがあなたの本性となり、あなたはそうすることに慣れてしまった。自分が語ろうと思うたび、あなたは気軽にそうするが、いざ実践となると、飾り立てることに没頭する。これは他人を騙す方法ではないのか。あなたは人間を欺けるかもしれないが、神は決して騙されない。人間はそれに気づかず識別することもできないが、神はこうした事柄に真剣であり、決してあなたを容赦しない。兄弟姉妹はあなたを支持し、あなたの認識を称賛し、あなたに感心するかもしれないが、あなたが現実を自分のものにしていなければ、聖霊はあなたを容赦しない。おそらく、実践の神はあなたの過ちを見つけようとはしないだろうが、神の霊はきっとあなたを無視するし、それはあなたにとって十分耐えがたいことだ。あなたにそれが信じられるか。実践の現実についてもっと話しなさい。もうそれを忘れたのか。実際の道についてもっと話しなさい。もうそれを忘れたのか。「高尚な理論や無益な誇張した話を減らし、今すぐ実践を始めるのが一番である」という言葉を、あなたはもう忘れてしまったのか。あなたはまったく理解していないのか。あなたには神の旨に関する理解が一切ないのか。

『言葉は肉において現れる』の「真理を実践することだけが現実を自分のものにすることである」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 431

あなたがたは、もっと現実的な教訓を学ぶ必要がある。人々が感服するような高尚に聞こえる空虚な話は不要である。認識の話をすることに関しては、誰もが以前よりも高まっているにもかかわらず、そうした者には実践の道が無い。何らかの物事を実践している者は何人いるだろうか。実際の教訓から学んだ者は、何人居るだろうか。誰が現実性に関して話すことが出来るだろうか。神の言葉に関する認識を語ることが出来ることは、あなたの真の背丈に相当するものでは無い。それは、生来あなたが聡明であり賜物があることを示すのみである。あなたが道を指し示すことが出来ないならば、それは依然として無益であり、あなたは無益な屑である。あなたが実際の実践の道について何も語れないのであれば、あなたは偽っているのではなかろうか。自分の実際の経験を他人に示し、他人が学ぶところのある教訓や実践の道を与えられないのであれば、あなたがたは虚偽を語っているのではなかろうか。あなたがたは偽者ではなかろうか。あなたがたには、どのような価値があるというのか。そうした者は「社会主義実現の貢献者」ではなく、「社会主義理論の創始者」としての役割しか担うことが出来ないであろう。現実が欠如しているということは、真理を備えて居ないということである。現実が欠如しているということは、無用であるということである。現実が欠如しているということは、生ける屍であるということである。現実が欠如しているということは、名前を挙げる価値の無い「マルクス・レーニン主義の思想家」であるということである。わたしは、理論について語るのを止め、現実の物事、純粋で実体のある物事について語り、「現代美術」を研究し、現実的な話をし、実話を語り、貢献精神を持つよう、全ての者に要請する。話をする時に現実と対峙するようにし、人々を楽しませたり、自分に強い興味を持たせるように非現実的で大袈裟な話をすることに没頭してはならない。そうすることに、どのような意義があるであろうか。人々が自分を暖かく扱うようにさせることに、何の意味があるだろうか。話をする時は「創造的」になり、公正に振る舞い、物事を取り扱う際は合理的になり、人々に話をする時はもっと現実的に話をし、全ての行動において神の家に利益をもたらすことを念頭に置き、良心で自分の感情を律し、恩を仇で返したり、恩に対して感謝しない事の無いようにし、偽善的にならないようにしなければ、あなたがたは悪影響となる。神の言葉を飲み食いする時はそれを現実とより一層結びつけ、語り合う時は現実的なことについてより多く話し、人を見下してはならない。神はそれを喜ばない。他人と交流する時はもっと忍耐強くなり、より多く譲歩し、寛大になって「宰相の精神[a]」から学ぶこと。自分の中に好ましくない考えがある場合、肉の捨て去りを更に実践すること。あなたがたが働いている時は、現実的な道について多く述べ、高尚になり過ぎてはならない。高尚になり過ぎると、人々は話を理解できなくなるであろう。享受を減らし、更に貢献して、自分の無私な精神と献身を示すこと。神の旨に一層配慮し、自分の良心の声に一層耳を傾けること。また神があなたがたに対する懸念のためにあなたがたに対して日々訓戒するのをもっと心に留めて忘れずにいること。「昔の暦」を一層頻繁に読むこと。一層祈りをささげ、もっと頻繁に交わること。混乱したままでいないようにし、理知を示して識見を得ること。罪の手が伸びた場合は、その手を引いて、あまり伸びすぎないようにすること。それは無益である。あなたがたがそのような状態であれば、あなたがたが神から得るのは呪いだけであるので、注意すること。他人を憐れむこと。そして常に武器を持って攻撃しないこと。いのちに関してもっと提供し、語り、他人を助ける精神を忘れないこと。行動を増やし、話を減らすこと。実践する事柄を増やし、調査や分析することを減らすこと。聖霊に更に動かされ、神が自分を完全にする機会を増やすこと。人間的な行動方法が依然として多すぎるので、人間的要素をもっと排除すること。表層的な行為と態度は未だに忌まわしい。そうした行為や態度は一層排除する必要がある。あなたがたの精神状態は未だに余りにも忌まわしい。それを更に是正すること。あなたがたの心の中では、人々が多くを占めすぎている。神に一層高い地位を与え、そのように不合理であってはならない。「神殿」はそもそも神のものであって、人間が占領してはならない。つまり、義に一層重点を置き、感情の重点を減らし、肉を排除するのが最善である。現実について一層多くを語り、認識を語る量を減らし、黙しているのが最善である。実践の道について一層多くを語り、価値の無い大袈裟な話を減らし、今すぐ実践を始めるのが最善である。

『言葉は肉において現れる』の「現実性に一層重点を置くこと」より引用

脚注

a. 宰相の精神:心が広く寛大な者を表す中国の慣用表現。

日々の神の御言葉 抜粋 432

人間に対する神の要求は、それほど高遠ではない。人間が多少の努力をすれば、「及第点」を取ることが出来るであろう。事実、真理を理解し、知り、受け容れることは、真理を実践することよりも複雑である。真理を知り、受け容れる前に、まず真理の実践がある。それが聖霊の働きが行う手順であり、方法である。どうして、あなたがそれに従えないことがあろうか。あなたのやり方で物事を行うことによって、聖霊の働きを得ることが出来るだろうか。神はあなたの意志に基づいて働きを行ったり、あなたが神の言葉と比較した後に働きを行ったりするであろうか。あなたがそのことを明瞭に理解出来ないならば、それは無意味である。殆どの者が大いに努力して神の言葉を読むが、認識を得るだけで、その後の道について何も言えないのは何故だろうか。あなたは、認識を得ることが真理を備えることに繋がると思っているだろうか。それは勘違いした見方ではなかろうか。あなたは、砂浜の砂ほど大量の認識を語ることが出来るが、そのうち実際の道が含まれている認識は皆無である。その点において、あなたは人々を欺いているのではなかろうか。あなたは有言不実行ではなかろうか。このような行動は人々に有害である。理論が高尚であればあるほど、現実性が一層欠如し、人々を現実性に導くことが一層不可能となり、またあなたはそのために一層神に背き反抗するようになる。最も高尚な理論を貴重な宝のように扱ってはならない。それは悪質であり、一切無益である。最も高尚な理論を語ることが出来る者も居るであろうが、そうした理論には現実性が一切含まれていない。なぜなら、そうした者は自分でそれを経験しておらず、したがって実践の道を一切知らないからである。そうした者は人間を正しい道に導くことが出来ず、人々を惑わせるだけであろう。それは人々にとって有害ではなかろうか。最低限度として、あなたは現在の問題を解決し、人々が成長出来るようにすべきである。そうした状態のみが献身として認められ、そうして初めて、あなたは神のために働く資格を得るであろう。常に尊大で非現実的な言葉ばかりを語ったり、不適切な実践を数多く用い、人々を拘束して自分に従わせたりしてはならない。そのような行動は全く効果が無く、益々人々を困惑させることしか出来ない。そのようにして人々を導くことにより、数多くの規則が生み出され、そうした規則が原因で人々はあなたを嫌悪するであろう。それは人間の欠点であり、極めて癪に障るものである。ゆえに、今存在する問題について一層多く語ること。他人の経験を自分のものとして扱い、それを他人に見せびらかしてはならない。あなたがたは自分で解決策を探し出す必要がある。それは各人が実践すべき事である。

あなたの話により人々に歩むべき道が与えられるならば、それはあなたに現実性があるとみなされる。あなたが何を語るかを問わず、あなたは人々を実践へと導き、その全員に従うべき道を与える必要がある。人々が認識を得るようにするだけでなく、もっと重要なこととして、人々が歩むべき道を得るようにすることが必要である。人間が神を信じるためには、人間は、神の働きが導く道を歩む必要がある。すなわち、神を信じる過程は、聖霊があなたを導く道を歩む過程である。これに準じて、あなたがたは何があっても自分が歩める道を得る必要があり、神により完全にされる道を歩む必要がある。はるかに後れを取ったり、多くの事柄を心配したりしてはならない。あなたは、神が導く道を妨げることなく歩んでいる場合に限り、聖霊の働きを授かり、成長することが出来る。こうした状況のみが、神の旨に則し、人間の本分を尽くしているものとみなされる。この流れの中のひとりとして、各人が自分の本分を適切に尽くし、人々が行うべき事を一層多く行う必要があり、また意図的に行動してはならない。働きをする者は自分の語る言葉を明瞭にする必要があり、付き従う者は苦難を受けることと従うことに一層の重点を置く必要がある。また各人は自分の場所に留まり、そこから逸脱してはならない。各人がどのように実践すべきか、どのような役割を果たすべきかが、各人の心の中で明瞭に理解されている必要がある。聖霊が導く道を歩み、偽りに迷い込んだり、偽りへ向かったりしてはならない。あなたがたは現在の働きを明瞭に理解する必要がある。あなたがたが実践すべきことは、現在の働きにおいて成長することである。あなたがたが最初に成長する必要があるのは、それである。その他の物事について無駄話をしてはならない。神の家の働きを行うことはあなたがたの責任であり、現在の働き方において成長することは、あなたがたの本分である。あなたがたが負うべき重荷は、現在の真理を実践することである。

『言葉は肉において現れる』の「現実性に一層重点を置くこと」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 433

神は実際的な神である。神の全ての働きは現実であり、神が話す全ての言葉は現実であり、神が示す全ての真理が現実である。神の言葉でないものは全て空虚で、存在しないも同然であり、確かでない。今日、聖霊は人々を神の言葉に導いている。もし人々が現実に入ることを追求しようとするならば、彼らは現実を求めて、現実を知らなくてはならない。そしてその後、現実を体験し、また現実を生きなければならない。人々が現実を知れば知るほど、ますます他者の言葉が現実であるかどうか見分けることができるようになる。人々が現実を知れば知るほど、ますます観念を持たなくなる。人々が現実の体験をすればするほど、ますます神の真実の業を知るようになり、ますます、堕落したサタンの性質から自由になるのが容易になる。人々が現実を積めば積むほど神を知るようになり、ますます肉を嫌悪し真理を愛するようになる。そして、人々が現実を積めば積むほど、ますます神の要求する基準に近づくようになる。神のものとされた人々は現実が備わり、現実を知り、現実の体験を通して神の現実的な業を知るようになった人である。実際に神と協力し自分自身を抑制すればするほど、ますます聖霊の働きを得るようになり、さらなる現実を得るようになり、神による示しと導きを得るようになる。こうして、あなたの神の真の業に関する認識がますます広がっていく。もしあなたが現在の聖霊の光の中に生きることができるならば、実践への現在の道はあなたにとってより明確になるだろうし、そして過去の宗教的観念と古い習慣からあなた自身がもっと切り離されることができるだろう。今日、現実に焦点を当てている。人々が現実を積めば積むほどますます人々の真理に関する認識が明確になり、神の心の理解が増し加わる。現実は全ての文字や教義に優り、全ての理論や専門知識に優る。人々が現実に焦点を当てれば当てるほど、心からさらに神を愛するようになり、神の言葉に対する飢え渇きが強くなる。あなたが常に現実に焦点を当てていれば、あなたの処世哲学、宗教的観念、そして生来の個性が、神の働きを受けて自然に消滅していくだろう。現実を追求しない人々、現実に関する認識を持っていない人々は、超自然的なものを追及しやすいがゆえに、彼らは簡単に騙されてしまうであろう。聖霊はこのような人々に働く術を持たず、ゆえに彼らは虚しさを感じ、自分の人生には何の意味もないと感じる。

聖霊は、実際にあなたが自分自身を訓練し、実際に探し求め、実際に祈り、そして真理を探究するための苦痛もいとわない時にのみ働くことができる。真理を求めない人々は、文字や教義、空虚な理論ばかりで、真理を知らない人々は、当然ながら神に関して多くの観念を持っている。こういった人々は、神が彼らの肉の体を霊の体に変えて、第三の天に昇れるようにしてもらうことだけを切望している。なんて愚かな人たちだ! このようなことを言う人たちは全て、神の認識や現実に関する何の認識も持ち合わせていない。このような人々は、神と協力することはできず、受動的に待っているだけだ。人々が真理を理解し、真理を明確に知り、さらには真理に入り、真理を実行するには、実際に自分自身を訓練し、実際に探求し、実際に飢え渇きを持たなくてはならない。あなたが飢え渇く時に、そしてあなたが実際に神と協力する時に、神の霊は確実にあなたの心を動かし、そしてあなたの内に働く。それは、あなたにさらなる啓示を運び、さらなる現実に関する認識を増やし、あなたのいのちのもっと助けとなる。

『言葉は肉において現れる』の「現実をどのように知るか」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 434

もし人々が神を知ろうとしたら、人々はまず神が現実の神であることを知り、神の言葉を知り、肉となった神の現実的な出現、神の現実的な働きを知らなくてはならない。神の全ての働きが現実であることを知った後でのみ、あなたは神と実際に協力することができ、それを通してのみ、あなたはあなたのいのちを成長させることができる。現実の認識を持たない人はみな、神の言葉を経験する術を持たず、彼らは自分たちの観念にのみ込まれてしまい、空想の中に生きる。その結果、彼らは神の言葉に関する認識を何も持たない。あなたの現実の認識が広ければ広いほど、あなたは神により近くなり、神とさらに親密になる。反対に、あなたがぼんやりとした抽象的なものと教義を求めれば求めるほど、あなたは神から遠く離れてしまうであろう。その結果、神の言葉を体験することはより厳しく難しく、神の言葉に入ることがより出来なくなってしまうと感じるようになる。神の言葉の現実に入り、霊的な生活の正しい軌道に乗りたいのであれば、あなたはまず現実を知り、曖昧で超自然的な物から離れなければならない。つまり、聖霊がどのように実際に内側からあなたを啓かせ、導くかを理解しなければならない。このように、もしあなたが、あなたの中に働かれる聖霊の実際的な働きを真に把握することができるならば、あなたは、神によって全き者とされる正しい道へと入るであろう。

今日、全てのことは現実から始まる。神の働きは最も現実的なものであり、人々が触れることができるものである。それは人々が体験でき、また達成できるものである。人々の中には曖昧で超自然的なものが多く存在し、自身が神の現在の働きを知ることの妨げとなっている。従って、人は経験において常に逸脱しており、常に困難を感じているが、それは全て人の観念によって引き起こされている。人々は聖霊の働きの原理を把握することができなく、現実を知らず、そのため自らの入りの過程において常に消極的であり、神の要求を遠くから見るだけで、達成することはない。彼らは神の言葉が本当に良いということが分かるだけで、入る道を見出すことはできない。聖霊はこの原則によって働く。人々の協調を通して、人々が積極的に祈り、探求して神に近づくことで成果が達成し、聖霊による啓発を受け、光に照らされる。聖霊が一方的に行動する、あるいは人が一方的に行動するということはない。両者の行動が必要不可欠である。人々が聖霊と協力すればするほど、そして、神の要求する基準に達することを求めれば求めるほど、聖霊の働きは大きくなる。聖霊の働きに人々の真の協力が伴ってのみ、神の言葉の本当の経験と実質的な認識が生まれる。このような経験を通して徐々に、完全にされた人が最終的に生み出される。神は超自然的なことは行わない。人は、神が全能で、全てのことが神によってなされるという観念を持っている。その結果、人々は消極的に待ち、神の言葉を読んだり、祈ったりせず、聖霊に触れられることを待っているだけである。しかし正しい理解を持っている人々は次のように信じている。「神の行いは私が協力する範囲にのみに及び、私の中における神の働きの効果は、私がどう神と協力するかにかかっている。神が語られるときには、私は神の言葉を求め、神の言葉に向かって突き進むために、あらゆる努力をすべきだ。これが私の達成すべきことだ」。

『言葉は肉において現れる』の「現実をどのように知るか」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 435

あなたは宗教的慣習をいくつ守っているだろうか。神の言葉に逆らって、自分の道に行ってしまったことが何回あるだろうか。神の重荷を真に考慮し、神の旨が成就されることを求めて、神の言葉を実行したことが何度あるだろうか。神の言葉を理解して、それを実行に移しなさい。すべての行動と行いに原則を持ちなさい。それは規則に従うということではなく、体裁のために何かを渋々するということでもなく、真理を実践し、神の言葉によって生きるということである。そのような実践こそ、神を満足させることができるのだ。神を喜ばせる行為とは、規律を遵守することではなく、真理を実践することである。一部の人々には周りの注意を引こうとする傾向がある。そのような人たちは、兄弟姉妹の前では神に恩義があると言うかもしれないが、陰では真理を実践することもなく、まったく違うことを行っている。彼らは宗教熱心なパリサイ人ではないか。神を心から愛し、真理を持っている人というのは、神に忠実でありながらそれを誇示しない人のことだ。そうした人は必要であれば喜んで真理を実践するし、良心に逆らって話したり行動したりするようなことはしない。そして問題が起きると賢明さを示し、どんな状況下でも原則に基づいて行動する。このような人こそ、真に神に仕えることができる。中にはただ口先だけで神に恩義があると言う人もいる。彼らはしかめっ面をし、わざとらしくみじめな表情を装って日々を過ごしている。なんと卑劣な態度だろう。もし彼らに、「どんな風に神様に恩義があるのか教えてください」と尋ねたら、彼らはきっと言葉を失うだろう。あなたが神に忠実ならば、そのことを大っぴらに話してはいけない。その代わり、神に対するあなたの愛を実践で示し、そして心から神に祈りなさい。神にただ言葉でおざなりに対応している人たちは、すべて偽善者である。一部の人たちは祈りのたびに神に対する恩義を語り、聖霊に動かされていないにも関わらず、祈るたびに涙を流す。このような人たちは宗教的儀式と観念に捕われており、そうした儀式や観念に従って生きながら、いつもそのような行為を神が喜び、表面上の信心深さや悲しみの涙を神が好むと信じている。そのような馬鹿げた考えを持つ者から、どんな良いことが生まれようか。また一部の人々は、謙虚さを示そうと、他の人の前で話すときは上品に振る舞ったりする。また人前で故意に卑屈になり、無力な子羊のように振る舞う人たちもいる。これが神の国の民にふさわしい態度だろうか。神の国の民とは、生き生きとして自由で、純真で率直で、正直で愛らしく、束縛されない生き方をするものだ。彼らには品性と尊厳があり、どこに行っても神に証しを立てることができる。そのような人は神と人の両者から愛されている。信仰において未熟な人たちは、外的な実践にこだわりすぎる。彼らはまず神に取り扱われ、打ち砕かれる時期を経なければならない。心の奥に信仰を持つ人々は、外見は他者と同じであっても、その行動や行いは称賛に値する。そのような人たちこそ、神の言葉を生きていると言えるのだ。もしあなたが毎日さまざまな人々に福音を宣べ伝え、彼らを救いに導こうと努めているとしても、結局のところ規則や教義に従って生きているなら、神に栄光をもたらすことはできない。そのような人たちは単なる宗教家であり、同時に偽善者なのである。

人のうわべだけの良い行いは何を表すだろうか。それは肉を表しており、外面上最善の実践をしたところで、それはいのちではなくただあなた個人の性質を表すだけだ。人の外面的な実践では、神の願いを成就することはできない。あなたは絶えず神に恩義があると言っているが、誰かにいのちを与えたり、神を愛するよう誰かを導いたりすることもできない。それで神を満足させられると信じているのか。あなたは自分のしていることが神の旨にかなっており、霊的なことだと感じているが、実際にはすべてが実にばかげている。あなたは自分が嬉しいと思うことや自分がしたいと思うことが、まさに神も喜ぶことだと信じている。あなたの好みが神の好みを表すだろうか。人の性格が神を表すことができるだろうか。あなたが喜ぶものはまさしく神が嫌悪するものであり、あなたの習慣は神が忌み嫌い拒絶するものだ。もし神に恩義を感じるなら、神の前に出て祈りなさい。それを誰かに話す必要などない。神の前で祈ることもせず、人の注目を引いてばかりいるなら、神の旨を成就することなどできるだろうか。あなたの行動が常に見せかけだけなら、それはあなたが極度にうぬぼれの強い人間だということだ。表面上良い行いをするだけで現実性に欠ける人間とは、どんな種類の人間か。それは偽善者のパリサイ人であり、単なる宗教家でしかない。あなたがたが見せかけの実践をやめず、変わることができないなら、あなたがたの中にある偽善的要素はさらに増大するだろう。偽善的要素が大きければ大きいほど、神への抵抗が強くなる。そして最終的に、そのような人々は必ず排除されることになるのだ。

『言葉は肉において現れる』の「信仰においては現実に集中せよ――宗教的儀式を行うことは信仰ではない」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 436

正常な人間像を取り戻すためには、つまり正常な人間性を獲得するためには、ただ言葉で神の歓心を買うだけではいけない。そのようにしても自分自身を害するだけで、自分の入りや変化に役立つことはない。したがって変化を達成するには、少しずつ実践しなければならない。時間をかけて入り込み、少しずつ追求と探求を行ない、肯定的な面から入り、真理の実践的生活、すなわち聖徒の生活を送らねばならないのだ。それ以降は現実の物事、現実の出来事、そして現実の環境によって、実践的な訓練を受けることができる。お世辞を並べる必要はなく、代わりに現実の環境で訓練することが必要なのだ。人々はまず自分の素質が乏しいことを自覚し、それから神の言葉を正常に飲み食いして、入りと実践も正常に行えるようになる。そうすることでのみ現実を得られるのであり、そしてそれが入りを一層早く起こさせる方法でもある。人々を変化させるには何らかの実践性がなければならず、人は現実の物事、出来事、環境で実践する必要があるのだ。教会生活に依存しているだけで、真の訓練を達成できるだろうか。それで現実に入っていけるだろうか。そんなことは不可能だ。実生活に入っていけないなら、旧来の生活様式や物事のやり方を変化させることはできない。このことは人間の怠惰さや高い依存性だけが原因となっているのではなく、むしろただ人間に生活能力がないこと、そしてさらに、神が求める正常な人間像の基準をまったく理解していないことが理由なのだ。かつて人々はいつも話し、語り、交流していて、しまいに「演説家」になる者さえいたが、誰一人いのちの性質の変化を求める者はおらず、ただむやみに深遠な理論を追求していた。そのため今日の人々は、生活における宗教的な信仰スタイルを変化させる必要がある。一つの出来事、一つの物事、一人の人に集中して、実践に入らなければならないのだ。それは集中力を持って行う必要があり、そうして初めて成果を挙げることができる。人々の変容は、まず彼らの本質の変化から始まる。働きは人間の本質、生活、そして怠惰さ、依存性、卑屈さに対して行われなければならず、そうすることによってのみ、人間を変容させることができるのだ。

教会生活は一部の分野で成果を挙げることができるが、重要なのはやはり実生活が人々を変化させられるということだ。実生活なくして、人の古い本性を変化させることはできない。ここで例として、恵みの時代におけるイエスの働きを見てみよう。イエスはそれまでの律法を廃して新たな時代の戒めを定めたとき、実生活の例を用いて話をした。安息日にイエスが弟子たちを連れて麦畑を歩いたとき、弟子たちは空腹になり、穂を摘んで食べた。パリサイ人たちはそれを見て、イエスと弟子たちは安息日を守っていないと言った。そしてまた、安息日に井戸に落ち込んだ牛を救うことは許されない、安息日には何の仕事もしてはならないから、とも言った。イエスはこのような出来事を引用して、徐々に新たな時代の戒めを広めていった。当時、主は多くの実践的な問題を用いて、人々の理解と変化を促した。これが聖霊が働きを行う際の原則であり、人間を変化させられる唯一の方法である。実践的な問題がなければ、人々は理論的かつ知的な理解しか得ることができず、それは効果的な変容の方法ではない。ではどうすれば、訓練を通して知恵と見識を得ることができるだろうか。人間は話を聞いたり本を読んだり認識を高めたりするだけで、知恵や見識を得られるのだろうか。それはなぜだろうか。人間は実生活において理解し、経験しなければならないのだ。ゆえに訓練が必要であり、実生活から離れてはならない。人間は教育水準、表現力、物事の理解力、分別、神の言葉を理解する能力、人間性の常識と規則、その他の身に付けるべき人間性に関連する物事など、さまざまな側面に配慮し、それらに入っていかなければならない。理解を得ることができたら、その後は入りに集中する必要があり、そうして初めて変化を成し遂げることが可能になる。理解を得ることができても、実践を怠ったならば、どうして変化を起こせようか。現在、人々は多くを理解しているが、現実を生きていないため、神の言葉の本質的な理解をほとんど得ていない。あなたはかろうじて啓かれているに過ぎず、聖霊の光をいくらか受けてはいるが、実生活にまったく入っていないか、あるいはそれを気にかけてもいないため、変化が弱められているのだ。人間は長い年月を経て、多くを理解してきた。そして理論に関する認識については多くを語ることができるが、外面的性質は変わらぬままであり、元来の素質も当初のままで、少しも高まることがない。このような状態で、あなたは一体いつになったら入るのであろうか。

『言葉は肉において現れる』の「教会生活と現実の生活について」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 437

教会生活は単に人々が集って神の言葉を味わう生活でしかなく、人の生活のごくわずかな部分を占めるに過ぎない。もし人々の実生活も教会生活と同様で、正常な霊的生活を送り、神の言葉を正常に味わい、正常に神に祈り神の側に近づき、万事が神の旨に沿って行われる実生活を生き、万事が真理に沿って行われる実生活を生き、神の前で祈り心を鎮めることを実践し、讃美歌を歌い踊ることを実践する実生活を生きているなら――そうであれば、そのような生活のみが、人を神の言葉の生活へと導くことができる。ほとんどの人は、自分の教会生活の数時間だけに重点を置き、その時間以外の生活については「気にする」こともなく、何の関心もないかのようだ。またその他、神の言葉を飲み食いするときや讃美歌を歌うとき、または祈るときだけ聖徒の生活に入り、それ以外のときは従来の自分に戻る人々も大勢いる。そのような生活で人々が変わることはできず、ましてや神を知ることなどできない。神を信仰する上で自らの性質の変化を望むなら、自分を日常生活から切り離してはならない。実生活においては、自分を知り、自分を捨て、真理を実践するだけでなく、万事における自己管理の原則や常識、規則を知らねばならず、そうして初めて徐々に変化していくことが可能になる。理論的な認識のみに重点を置き、現実に深く入り込むことも実生活に入ることもなく、宗教的儀式の中だけで生活しているなら、あなたは決して現実に入ることがなく、自分自身や真理や神を知ることもなく、永遠に盲目で無知なままとなるだろう。人々を救うという神の働きの目的は、人々が短期間のうちに正常な人間生活を送れるようにすることでも、彼らの誤った観念や教義を変えることでもない。神の目的は人々の旧来の性質を変え、古い生き方のすべてを変え、時代遅れな考え方と精神的態度のすべてを変えることなのだ。教会生活のみに重点を置いても、人々の旧来の生活習慣や長年送ってきた生活のあり方が変わることはない。なにがあろうと、実生活から乖離してはならない。神が人々に求めているのは、教会生活だけでなく実生活で正常な人間性を生きること、教会生活だけでなく実生活で真理を生きること、そして教会生活だけでなく実生活で自分の役割を果たすことなのだ。人が現実に入るには、すべてを実生活に向けなくてはならない。神を信じていても、実生活への入りを通じて自分を知ることができず、実生活で正常な人間性を生きることができなければ、その人は落伍者となるだろう。神に従わない者はみな、実生活に入れない者たちである。そうした者はみな人間性について語りつつ、行動では悪魔の本性を生きている。彼らはみな、真理について語りつつ、行動では教義を生きている。実生活で真理を生きられない者は、神を信じてはいるが、神に嫌悪され拒絶される者である。あなたは実生活で入りを実践し、自らの欠点と反抗性と無知を知り、自分の異常な人間性と弱さを知らねばならない。そうすることで、あなたの認識は自分の実際の状況や困難と統合される。そのような認識のみが本物であり、それによってあなたは自分の状態を真に把握し、性質の変化を成し遂げることができるのだ。

今や人間の完全化が正式に開始されたため、あなたは実生活に入らなければならない。ゆえに、変化を実現するには、まず実生活への入りから始めて、少しずつ変化していく必要がある。正常な人間的生活を避けて霊的な問題ばかり語っていると、物事は退屈で単調になり、非現実的なものとなる。そうなれば人々はどうやって変化できようか。今あなたは、実生活に入って実践し、真の経験に入るための基盤を築くようにと言われている。これは人間が行わねばならないことの一側面である。聖霊の働きは主に導くことであり、それ以外は人間の実践と入りにかかっている。誰もがそれぞれ別の道を通って実生活に入ることができ、神を実生活に持ち込み、真の正常な人間性を生きることができる。それこそが唯一の有意義な人生なのだ。

『言葉は肉において現れる』の「教会生活と現実の生活について」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 438

従来、聖霊の臨在を得ることと聖霊の働きを得ることは別だと言われていた。聖霊の臨在を得ている場合の正常な状態は、正常な考え、正常な理知、そして正常な人間性を持っていることに表れる。その人の性格は従来のままだが、心には平安が備わり、外面的には聖徒の礼節を備えるようになる。それが、聖霊が共にあるときの人の状態である。聖霊の臨在を得ているとき、人の考え方は正常であり、空腹になれば食べたいと思い、喉が渇けば水を飲みたいと思う。……そのような普通の人間性の表れは聖霊の啓きではなく、人間の正常な考え方であり、聖霊の臨在を得ているときの正常な状態である。中には、聖霊の臨在を得た者は空腹を覚えず、疲労を感じず、家族のことを一切考えもしないように見え、ほぼ完全に肉と離別している、と勘違いしている人々もいる。実際は聖霊が人間と共にあればあるほど、その者はより正常になる。そうした人は神のために苦悩し物事を手放し、神のために自らを費やし、神に忠実になるということを知っており、さらに衣食についても考慮している。言い換えれば、そうした人は人が備えるべき正常な人間性を一切失っておらず、代わりに特別な理知を備えているのだ。彼らは時折、神の言葉を読んだり神の働きについて深く考えたりし、心には信仰を持ち、真理を追求する意志を持っている。聖霊の働きは当然ながら、こうした基盤の上に立脚している。人々が正常な考えを持っていなければ、その者には理知がなく、それは正常な状態ではない。人が正常な考えを持っており、聖霊がその人と共にあれば、その人は必ず正常な人間の理知を備えており、すなわち正常な状態にある。神の働きを経験する中で、聖霊の働きを得ることは時折あるが、一方で聖霊の臨在はほぼ常にそこにある。人の理知と考えが正常である限り、そしてその人の状態が正常である限り、聖霊は間違いなく彼らと共にいる。人の理知と考えが正常でなければ、彼らの人間性も正常ではない。もし今聖霊の働きがあなたの中にあれば、聖霊も間違いなくあなたの中にいる。しかし聖霊があなたと共にあるからといって、必ずしも聖霊があなたの中で働いているとは限らない。なぜなら聖霊は特別な時に働きを行うからだ。聖霊の臨在を得たとしても、人々は正常な生活を維持できるだけであり、聖霊が働くのは特定の時のみである。たとえばあなたが指導者または働き手であるなら、教会のために水と滋養を施しているとき、聖霊があなたを啓いて特定の言葉を与え、その言葉が他の人々を啓発し、兄弟姉妹の実際的な問題のいくつかを解決できることがある。そのようなとき、聖霊は働きを行っている。場合によってはあなたが神の言葉を飲み食いしているとき、聖霊が特にあなたの個人的な経験に関連する特定の言葉を通してあなたを啓き、それによって自分の状態をよりよく認識できるようにしてくれることもある。それもまた聖霊の働きである。あなたがたは時折、わたしの話を聞いてその言葉を自分の状態と比較したり、感動したり奮い立たされたりすることもあるが、それもすべて聖霊の働きである。中には聖霊が常に自分の中で働いていると言う者もいるが、それは不可能だ。聖霊が常に自分と共にあると言うのなら、それは現実的だろう。自分の考えや理知は常に正常だと言うのなら、それもまた現実的であり、聖霊がその者と共にあることを示すことになる。だが聖霊は常に自分の中で働きを行っており、どの瞬間にも自分は神により啓かれ、聖霊に触れられ、常に新たな認識を得ていると言うのなら、それはまったく正常ではない。それは極めて超自然的なことである。そうした人々は、疑いの余地もなく悪霊である! 神の霊が受肉した時でさえ、時には休息し、食事もする必要があったのだから、人間については言うまでもない。悪霊に取り憑かれた者は、肉の弱さがないように見える。そうした者はあらゆる物事を断念し捨て去ることが可能で、感情を持たず、苦悩に耐えることができ、肉体を超越しているかのようにまったく疲労を感じない。これは極めて超自然的なことではないか。悪霊の働きは超自然的であり、人間にはそのようなことはできない。判断力のない人々は、そうした者を見ると羨ましがり、彼らの神への信仰は極めて強く優れていて、彼らにはかけらほどの弱点も見えないと言う。実のところ、それはすべて悪霊の働きの表れなのだ。なぜなら正常な人間には必然的に人間の弱さというものがあり、それが聖霊の臨在を得ている者の正常な状態だからだ。

『言葉は肉において現れる』の「実践(4)」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 439

揺るぎなく証しするということは何を意味するのか。中にはただ今のように付き従っていくだけで、いのちを得られるかどうかは考えていないと言う者もいる。彼らはいのちを求めていないが、後戻りすることもなく、ただこの段階の働きが神によって行われていることだけを認めている。これは証しに失敗したということではないだろうか。こうした人々は征服されたことすら証ししない。征服された者は、他人がどうするかとは無関係に付き従い、いのちを追求することができる。そうした人は実践の神を信じているだけでなく、神の采配すべてに従うことも知っている。それが証しに立つ人というものだ。証しをしない者はまったくいのちを追求したことがなく、いまだになんとか付き従っている状態だ。あなたは付き従っているかもしれないが、それは征服されたことを意味するものではない。あなたは神の現在の働きについて何も理解していないからだ。征服されるには一定の条件を満たす必要があり、付き従う者すべてが征服されるわけではない。なぜならあなたは心の中で、なぜ現在の神に付き従わねばならないのかをまったく理解しておらず、また自分が現在までどのようにやってきたのか、現在まで自分を支えてきたのは誰なのかも知らないからだ。一部の人々は神への信仰の実践において、常にぼんやりと困惑しているため、付き従っているということは必ずしも証しができるということではない。真の証しとは、正確にはどういうものか。ここで言う証には二つの部分があり、一つは征服されたことの証しであって、もう一つは完全にされたことの証(すなわち必然的に、将来のより大きな試練と苦難の後に行われる証し)である。つまり苦難や試練の時に揺るぎなく耐えることができれば、それで第二段階の証しを終えたことになるのだ。現在重要なのは証しの第一段階であり、すなわち刑罰と裁きの試練一つ一つに揺るぎなく耐えられるということだ。それが、征服されたことの証しになる。なぜなら今は征服の時だからだ。(今は神の地上における働きの時であることを知らねばならない。受肉した神の地上における主な働きは、裁きと刑罰を通して、地上で神に付き従うこの集団を征服することなのだ。)征服されたことを証しできるかどうかは、あなたが最後まで付き従えるかどうかだけでなく、より重要な条件として、神の働きの各段階を経験する中で神の刑罰と裁きを真に理解できるかどうか、そしてこの働きすべてを真に把握しているかどうかにかかっている。ただ最後まで付き従えば、すり抜けてしまえるというわけではない。あらゆる刑罰と裁きに自ら進んで身を委ね、経験した働きの各段階を真に理解し、神の性質に関する認識を得て、それに服従することができなければならないのだ。それが征服されたことの究極の証しであり、あなたに要求されているものなのだ。征服されたことの証しというのは、おもに神の受肉に関する認識を意味する。重要なのは、証しのこの段階では神の受肉を証しするということである。あなたがこの世の人々や権力を持つ者の前で何をするか、何を言うかは問題ではない。何よりも問題となるのは、神が語った言葉と神の働きのすべてに従うことができるかどうかである。したがって証しのこの段階は、サタンと神の敵すべてを対象としている。それは神が二度目の受肉を行って一層偉大な働きを行うために到来することを信じず、さらに神の再受肉という事実を信じない、すべての悪魔と敵たちのことだ。言い換えれば、それは神の受肉を信じない敵である、反キリスト全員を対象としているのだ。

神を思い待ち望んでいるということが、神に征服されたことの証明にはならない。征服されたかどうかは、神が肉となった言葉であることを信じるかどうか、言葉が受肉したということを信じるかどうか、そして霊が言葉となり、言葉が肉となって現れたことを信じるかどうかによって決まる。これがもっとも重要な証しである。どのように付き従うか、どのように自分の身を費やすかは問題ではない。不可欠なのはこの普通の人間から、言葉が受肉したこと、真理の霊が肉の中に具現化していること、すなわちすべての真理と道といのちが肉となって到来し、神の霊が真に地上に現れ霊が肉によって到来したことを見抜けるかどうかである。これは表面的には、聖霊による受胎とは異なるように思われるが、この働きから霊がすでに肉に具現化したこと、さらに言葉が受肉し、言葉が肉に現れたことをより明確に見てとれる。ここから、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」という言葉の真意を理解できる。さらにあなたは今日の言葉が神であることを理解し、言葉が受肉するのを目の当たりにしなければならない。それがあなたになし得る最高の証しである。それはあなたが受肉した神について真の認識を備えていることの証明であり、あなたは神を知ることができるだけでなく、今日自分が歩んでいる道がいのちの道であり、真理の道であることを認識しているのだ。イエスが行なった働きの段階は、「言は神と共にあった」という言葉の内容を満たしただけであった。神の真理は神と共にあり、そして神の霊は肉と共にあって、その肉と不可分だった。つまり受肉した神の肉は神の霊と共にあったのであり、それは受肉したイエスが最初の受肉した神であったことの大いなる証拠である。この段階の働きはまさに「言葉が受肉した」という表現の奥にある意味を実現し、「言は神と共にあった。言は神であった」という表現に一層深い意味を添えたのであり、「初めに言があった」という言葉を堅く信じさせてくれる。つまり神は創造の時に言葉を持っており、神の言葉は神と共にあり、神と不可分であった。そして最後の時代、神はその言葉の力と権威を一層明らかにし、人が神のすべての道を目にできるようにしてくれる。つまり、神のすべての言葉を聞けるようにしてくれるのだ。それが最後の時代の働きである。あなたはこうした事柄を完全に知り尽くす必要がある。それは肉を知るという問題ではなく、肉と言葉をいかに理解するかという問題である。これがあなたの行わねばならない証しであり、すべての人が知らなければいけないことだ。これは二度目の受肉であり、そして神の最後の受肉であるため、この働きは受肉の意義を完全なものとし、肉による神のすべての働きを完全に遂行して明らかにし、神が肉にある時代の幕を閉じることになるのだ。それゆえ、あなたは受肉の意味を理解しなくてはならない。問題はあなたがどのくらい奔走するか、他の外的な物事をどのくらいうまく行うかではなく、受肉した神に真に服従して自分の存在すべてを神に捧げ、神の口から発せられる言葉のすべてに従うことができるかどうかである。これがあなたのすべきことであり、守るべきことなのだ。

証しの最終段階は、あなたが完全にされることができるかどうかの証しである。つまり、受肉した神が語った言葉をすべて理解したうえで、神に関する認識を備え神について確信を持ち、神が語ったすべての言葉を生き、神が要求する条件を満たすことだ。その条件とはペテロの生き方とヨブの信仰を身につけることであり、死に至るまで神に従い、自分のすべてを神に捧げ、最終的には基準を満たす人間像、つまり神の刑罰と裁きを受けて、征服され完全にされた者の人間像に到達するということなのだ。これが最終的な証しであり、最終的に完全にされた人間が行うべき証しである。これらはあなたが行うべき証しの二つの段階であり、この二つの段階は相互に関連していて、いずれも不可欠なものだ。しかし知っておかなければならないことがある。それは、現在わたしがあなたに要求している証しは、この世の人々や特定の個人に向けられるのではなく、わたしがあなたに求めるものに向けられるということだ。それはあなたがわたしを満足させられるかどうか、わたしがあなたがた各人に要求する基準を完全に満たせるかどうかによって測られるのだ。このことを、あなたがたは理解しておかなければならない。

『言葉は肉において現れる』の「実践(4)」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 440

多少の制約や苦難を受けることは、あなたがたのためになる。もし、あなたがたが気楽な時を与えられたとしたら、あなたがたは放っておかれるであろう。それならば、あなたがたはどうして守られようか。現在、あなたがたが守られているのは、あなたがたが刑罰を受け、呪われ、裁かれているからである。現在、あなたがたが守られているのは、あなたがたが苦難を受けているからである。そうでなければ、人間は遙か以前に堕落していたであろう。私は故意に物事をあなたがたにとって難しいものにしているのでは無く、人間の本性は強く根付いているので、人間の性質を変化させるには、そうする必要がある。現在、あなたがたにはパウロのような理性や自己認識、良心すら無い。あなたがたは、自分の霊を目覚めさせるために、常に圧力をかけられ、刑罰と裁きを受ける必要がある。刑罰と裁きは、あなたがたの人生最良の物事である。そして必要に応じて、事実の到来による刑罰も存在する必要があり、そうして初めてあなたがたは完全に服従するようになるであろう。あなたがたの本性は、刑罰と呪いが無ければ、あなたがたは頭を下げることも服従することも望まないようなものである。自分の眼前に事実が無ければ、効果は無いであろう。あなたがたの性格は過度に卑しく無価値である。刑罰と裁き無くしては、あなたがたにとって征服されることは困難となり、あなたがたの不義と反逆を沈静化することも困難となるであろう。あなたがたの従来の本性は、極めて深く根付いている。もし、あなたがたが王座に就いていたとしたら、天の高さや地の深さについて知る由もなく、ましてや、自分が何処へ向かっているかなど、見当も付かないであろう。自分が何処から来たかさえ分からないのだから、どうして創造主のことなど知ることが出来ようか。現在における時宜を得た刑罰と呪いが無ければ、あなたがたの終わりの日は遙か以前に訪れていたであろう。あなたがたの運命は言うまでも無い。あなたがたの運命は一層危機に瀕するのではなかろうか。こうした時宜を得た刑罰と裁きが無ければ、あなたがたはどれほど傲慢になり、堕落するであろうか。現在、この刑罰と裁きがあなたがたに与えられ、あなたがたの存在を維持してきた。もし、あなたがたの「父」が教えるのと同じ要領で、あなたがたが教えられていたとしたら、一体どうなっていたであろうか。あなたがたには、自制と反省の能力が皆無である。あなたがたのような人間にとって、私の目的を達成させるために付き従い、服従し、妨害しないようにするだけで十分である。あなたがたは、現在の刑罰と裁きを一層しっかり受けるべきではなかろうか。その他にどのような選択肢があるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「実践(6)」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 441

霊に関連する事柄について話をするとき、あなたは人間性に関する事柄を無視する傾向にあるが、それは間違っている。あなたは、いのちに関して自分を養う時、神に関する認識、人生に対する見識、そして特に、終わりの日に神が行う業に関する認識について話をすることが出来なければならない。あなたは、いのちを追求しているので、そうした物事を備える必要がある。あなたは、神の言葉を飲食する時、それを自分の現状と比較して斟酌する必要がある。つまり、自分の実経験で自分の欠点を見つけた後、あなたは、実践の道を見いだし、自分の誤った動機や観念から離れることが出来なければならない。あなたが常にそうした努力をし、自分の心を常にそうした物事に集中させるならば、従うべき道を得て、空虚感を感じることが無くなり、したがって正常な状態を保つことが出来るであろう。それが出来て初めて、あなたは自分のいのちの責任を負う者となり、信仰を備えた者となるであろう。人間は何故、神の言葉を読んでも、そうしたことを実践出来ないのであろうか。それは、人間が重要な物事を把握出来ないからではなかろうか。それは人間がいのちを弄んでいるからではなかろうか。重要な物事を把握出来ず、実践の道を得られないのは、人間が神の言葉を自分の状態と比較して判断出来ず、自分の状態を制御することが出来ないからである。「神の御言葉を自分の状態と比較して判断し、自分が腐敗し、自分の器量が小さいことは分かったが、神の旨を満たすことが出来ない。」と言う者も居る。ここでは、そうした者は自分の表面しか理解していない。肉の享楽をどう捨てるか、自分の独善性をどう捨てるか、自分をどのように変えるか、そうした物事に対してどう成長するか、自分の器量をどう増やすか、どの側面から始めるか、といった事柄は、全て現実である。そうした者は外面的な物事を多少把握し、そうした者が知っているのは、自分が本当に極めて腐敗していることだけである。あなたが自分の兄弟姉妹と会った時、あなたは自分がどれほど腐敗しているかを話し、あなたはそれについて知っており、自分のいのちに関して重荷を負っているように思われる。だが実際には、あなたは変化しておらず、それはあなたが実践の道を見いだしていないことを示す。あなたが教会を導いている場合、あなたは兄弟姉妹の状態を指摘する際に「これほど遅れて居る所は他に無い。あなたがたは不従順だ。」などと言うであろう。何に関して兄弟姉妹が不従順で遅れているのかについて、あなたは、不従順な状態や行動など、兄弟姉妹の示している事柄について話をして、兄弟姉妹を確信させる必要がある。あなたは、事実を話し、例示して問題を説明する必要があり、またそうした反逆的行動から実際にどのようにして離別するかについて話が出来なければならず、実践の道を指摘する必要もある。そうしてはじめて、あなたは兄弟姉妹を勝ち得るであろう。あなたが、単に「ここへは来たくない。あなたがたほど遅れている人々は居ない。あなたがたは反逆的すぎる。」と言うだけならば、このような話し方をした時に、兄弟姉妹のうち道を得る者は居ないであろう。それならば、あなたはどのようにして人々を導くであろうか。あなたは、そうした人々の現状と、そうした人々が実際に示している物事について、話をする必要がある。そうして初めて、あなたは実践の道と現実性を得るであろう。

『言葉は肉において現れる』の「実践(7)」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 442

そして何よりも、証しに立つためには、神の業や、神が人間をどう征服するか、どう救うか、どう変えるか、そして人間が征服され、完全にされ、救われることが可能となるよう、人間をどう導いて成長させるかについて話をする必要がある。証に立つとは、神の業と、あなた自身の全ての経験について話をする事である。神の業のみが神を表し、神の全体を公的に明示できるのは神の業のみである。神の業は、神の証しに立っている。神の業と神の言葉は、直接的に霊を表し、神が行う業は霊により行われ、神が述べる言葉は、霊により述べられる。こうした物事は、単に受肉した神の肉により表現される。実際には、そうした物事は霊の表れである。神が行う業と述べる言葉は、神の本質を表す。神が人間の中で肉をまとった後、神が言葉を述べることも業を行うことも無く、神の現実性、普通性、全能性を知るよう要求されるのであれば、あなたがたは知ることが出来るであろうか。あなたは、霊の本質を知る事が出来るだろうか。あなたは、神の特質を知る事が出来るだろうか。神があなたがたに対して証に立つよう求められるのは、あなたがたが神の業の各段階を経験してきたからに他ならず、あなたがたがそれを経験していなかったとしたら、神はあなたがたに対してそうした要求をしないであろう。ゆえに、あなたが神の証しに立つ時、それは神の普通の人間性の外観ではなく、神が行う業と、神が導く道を証するのであり、あなたがどのようにして神に征服されたか、どの面で完全にされたかを証するものである。これが、あなたが立つべき証である。あなたが、至る所で「神は御業を行われるために来られ、真に実践的であられる。神は、超自然的な事や、しるしや奇跡無しで、私達を得られた。」と述べるならば、他の者は「神がしるしや奇跡を示されなかったとは、どういう意味か。神はしるしや奇跡を示さずに、あなたを征服出来るということか。」と尋ねるであろう。そして、あなたは「神がされるのは語ることである。神は、しるしや奇跡を示さずに私達を征服された。神の御業が私達を征服した。」と述べる。最終的に、あなたが実体について何も述べられず、具体的に話が出来ないならば、あなは、証に立っているであろうか。実践の神が人間を征服する時、人間を征服したのは、神の神性の言葉である。それは、人性には達成不可能であり、ただの人間が成し得ることではなく、人間のうち最高の能力を備えた者でも不可能なことである。なぜなら、神の神性は、いかなる被造物にも優るからである。人間にとって、それはたぐいまれである。結局のところ、創造主は、いかなる被造物よりも優れている。弟子は師を超えられないと言われてきた。被造物は創造主を超えることができない。仮に、あなたが神に優るとしたら、神はあなたを征服出来ないであろう。神があなたを征服出来るのは、神があなたに優るからである。全人類を征服できるのは創造主であり、創造主だけであり、創造主を除いてその業を行うことが出来る者は居ない。これは証である。あなたが立つべき証は、このような証である。あなたは、刑罰、裁き、精錬、試練、挫折、苦難の各段階を経験してきた。そして、あなたは征服を得て、肉の将来の見通し、自分の個人的動機、肉の個人的利益を捨てた。つまり、あらゆる者の心が神の言葉により征服された。あなたのいのちは神が要求する程度まで成長していないが、あなたはそうした物事を知り、神の業により完全に確信している。それならば、これは証であり、その証は本物である。神が来て行った業、すなわち裁きと刑罰は、人間を征服するためのものであるが、神はまた業を完了し、この時代を終わらせ、神の業の最終章を行う。神は、その時代全体を終わらせ、人類全てを救い、罪から完全に解放し、神が造った人類を完全に得る。これが、あなたが証に立つべき事の全てである。あなたは神の業を極めて多く経験し、自分の目で見て、個人的に経験してきたので、最終的にあなたが自分のなすべき役割さえも果たせなかったならば、それはどれほど残念なことであろうか。今後、福音が広められたとき、あなたは自分の認識を述べ、自分の心で得た物事の証に立ち、全力を尽くすことが出来なければならない。これが、被造物として人間が達成すべき物事である。この段階の神の業の意味は、何であろうか。その効果は、何であろうか。そして、そのうちどの程度が人間の中で行われたであろうか。人間は何をすべきだろうか。あなたがたが、受肉した神が地に来た後の業について、全て明瞭に述べられるのであれば、あなたがたの証は完全なものとなるであろう。神の業の意味、内容、本質、それにより表される神の性質、そして神の業の原則という5つの物事について、あなたが明瞭に述べられるのであれば、それは、あなたが証に立つ事が出来ること、そして真に認識を備えていることを示す。わたしがあなたがたに求めている物事は、それほど多くは無く、真に追求する者が全員達成可能な物事である。あなたがたが神の証人のひとりとなることを決意したのであれば、神が忌み嫌う物事と神が愛する物事を理解する必要がある。あなたは、神の業を数多く経験して来たが、その業により神の性情と神が忌み嫌う物事、神が愛する物事を知り、神の旨と、神の人間に対する要求を理解し、それを用いて神の証しに立ち、自分の本分を尽くす必要がある。あなたは、ひたすら「神、そして神の裁きと刑罰は極めて重いこと、神の御言葉は極めて厳しく義であり、威厳があること、そして人間は誰もそれを侵害出来ないことを、私達は知っている。」と述べるかも知れない。しかし、最終的にそうした言葉は人間に恩恵をもたらすであろうか。そうした言葉の人間に対する効果は、何であろうか。あなたは、その業が良いものであることを、本当に知っているだろうか。神の裁きと刑罰は、あなたの性質を表すことが出来るであろうか。あなたの反抗を示すことが出来るであろうか。そうした、あなたの中にある物事を排除できるであろうか。神の裁きと刑罰が無かったならば、あなたはどうなるであろうか。あなたは、自分がどれほどサタンにより腐敗させられているかを本当に知っているだろうか。こうした物事全てが、現在において、あなたがたが備え、知るべき物事である。

『言葉は肉において現れる』の「実践(7)」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 443

あなたがたは、現在自分が身に付けるべきことが何かを知っているだろうか。ひとつの側面は働きに関するビジョンであり、もうひとつは実践である。あなたがたは両方の側面を把握する必要がある。あなたがいのちの進歩を追求する際にビジョンを持っていなかったならば、あなたには基礎が無い。あなたが実践の道のみを身に付け、ビジョンが皆無であり、経営(救いの)計画の働き全体の知識が皆無であったならば、あなたは何の役にも立たないであろう。あなたはビジョンの側面の真理を理解し、実践に関する真理については、それを理解した後に適切な実践の道を見いだす必要がある。あなたは言葉に従って実践し、自分の状況に従って入る必要がある。ビジョンは基礎であり、あなたがその基礎に全く留意しなかったならば、あなたは最後まで付き従うことが出来ないであろう。あなたがそのようにして実践すると、道を逸れるか、躓いて失敗するであろう。成功は一切有り得ない。大いなるビジョンを基礎として身に付けて居ない者は成功せず、失敗するだけであろう。あなたは揺るぎなく立つことが出来ない。あなたは、神を信じることとは何かを知っているだろうか。あなたは、神に付き従うこととは何かを知っているだろうか。ビジョンなくして、あなたはどのような道を歩むであろうか。あなたは、現在の働きにおいて、ビジョンを身に付けていないならば、完全にされることなどまずないであろう。あなたは何を信じているか。あなたは何故、神を信じているのであろうか。あなたは何故、神に付き従っているのであろうか。あなたは何かゲームのように信じているであろうか。あなたは自分の命を玩具のように扱っているであろうか。現在の神は、最も偉大なビジョンである。あなたは、その神についてどの程度知っているであろうか。あなたは、その神についてどの程度理解しているであろうか。現在の神を見てきたあなたの信仰の基礎は確かであろうか。そのように混乱しながら付き従う限り、救いを得られるであろうと考えているであろうか。あなたは泥水の中で魚を得ることが出来ると考えているだろうか。それほど単純なことであろうか。現在において神が述べていることに関する自分の観念を、あなたはいくつ捨て去ったであろうか。あなたは現在の神のビジョンを持っているであろうか。現在の神に関するあなたの理解は、どこにあるだろうか。あなたは、神に付き従うだけで、あるいは神を見るだけで神を[a]得られる、誰も自分を排除できないといつも考えている。神に付き従うことは、それほど容易だと考えてはならない。あなたが神と神の働きを知ること、そして神のために苦難を受け、自らの命を捧げる意志と、神により完全にされる意志があなたにあることが重要である。それが、あなたが備えるべきビジョンである。あなたが常に恵みを得ることを考えていても、だめであろう。神は、単に人間を楽しませ、人間に恵みを与えるために存在すると考えてはならない。あなたの考えは誤りである。ある者が自らの命を賭けて、この世に所有するあらゆる物事を捨てて付き従えないのであれば、その者が最後まで付き従えないことは確実である。あなたはビジョンを自分の基礎として備える必要がある。自分が災いに苛まれる日が来たら、あなたはどうすべきであろうか。あなたはそれでも付き従うことが出来るであろうか。最後まで付き従えるか如何を軽い気持ちで答えてはならない。まず自分の目を見開き、現在という時期を見るべきである。今、あなたがたは神殿の柱のようであったとしても、その柱に虫が食って神殿が倒れる時が来る。なぜなら、現在あなたがたに欠如しているビジョンが多数あるからである。あなたがたが配慮するのは、自分の小さな世界だけであり、最も信頼性が高く適切な追求方法は何かを知らない。あなたがたは現在の働きのビジョンに注意しておらず、それを自分の心に留めていない。あなたがたは、いつか自分が信じる神が自分を最も疎遠な地へと送るという事を、考えたことがあるだろうか。あなたがたは、わたしがあなたがたの全てを奪い去る日を想像できるだろうか。あなたがたはどうなるだろうか。その日、あなたがたの活力は現在と同じであろうか。あなたがたの信仰は再び現れるであろうか。神に付き従う上で、あなたがたはこの最大のビジョンすなわち「神」を知る必要がある。それが最重要事項である。また、自分はこの世の人間から離別して清められることで神の家族であると考えてはならない。現在において、被造物の中で働きを行っているのは、神自身である。人間の中に来て、何か運動を展開するのでなく神の働きを行っているのは、神である。あなたがたのうちには、現在の働きが、受肉した天の神の働きであることを知る者が少しも居ない。その働きの趣旨は、あなたがたが傑出した才能ある者とされることではない。その趣旨はむしろ、あなたがたが人生の意味を確認し、人間の終着点を知り、神と神の全てを知る支援を行うことである。あなたは、自分が創造主の掌中にある被造物であることを知る必要がある。あなたが理解すべきこと、行うべきこと、あなたはどのようにして神に付き従うべきかといった事柄は、全てあなたが理解すべき真理ではなかろうか。そうした事柄は、あなたが理解すべきビジョンではなかろうか。

ある者がビジョンを備えて居るのであれば、その者は基礎を備えて居る。あなたがそれを基礎として実践するならば、入るのが格段に容易となるであろう。このようにして、いったん入りのための基礎を持てば、あなたは不安を感じず、極めて容易に入ることができる。ビジョンを理解すること、神の働きを知ることに関するこの側面が重要である。あなたがたはそれを備えておく必要がある。あなたが、真理のこの側面を備えずに実践の道だけを語るのであれば、それは重大な欠陥である。あなたがたのうち多くの者が、その側面を強調していないことをわたしは知っている。またあなたがたがその真理の側面に関する話を聞く時、あたかも教義の話を聞いているようである。いつの日か、あなたは損をするであろう。現在、あなたがよく理解しておらず、受け入れていない発言もある。そのような場合、あなたは忍耐強く求める必要がある。そうすれば、いつか理解する日が来るであろう。少しずつ身に付ける必要がある。あなたが霊的な教義を少ししか理解していなかったとしても、霊的な教義に全く注意しないよりは良い。全く理解していないよりは良い。それはすべてあなたの入りに役立ち、あなたの疑念を払拭するであろう。そうした状態は、観念で満たされた状態よりも良い。そうした基礎としてのビジョンを備えて居る方が格段に良い。懸念等が一切無ければ、胸を張って闊歩しつつ入ることが出来る。どうして常に疑わしい方法で、混乱したまま付き従う必要があるだろうか。それは耳を塞いで鐘を盗むようではなかろうか。堂々と闊歩して神の国に入るのは、どれほど気分が良いだろうか。どうして疑念に満ちた状態でいる必要があるのか。それは苦労するだけではなかろうか。あなたにヤーウェの働き、イエスの働きと、現在の働きの段階に関する知識があれば、あなたは基礎を得るであろう。そう聞くと、あなたはそれが極めて単純であると思うかも知れない。「時が来て聖霊が大いなる働きを始める際、私はこれらのことについて全て話すことができる。私が現在よく理解していないということは、聖霊が私をそれほど啓いていないからだ」と言う者も居る。それは、それほど容易ではない。あなたが今いま進んで真理[b]を受け入れれば、その時が来た際、それを自在に用いるようになる、ということではない。必ずしも、そうではない。あなたは現在自分が十分整えられていて、宗教関係者や偉大な理論家に対応し、そうした者を論駁することさえ問題無いであろうと考えている。あなたは、本当にそう出来るであろうか。そうした自分の表層的経験だけで、あなたはどのような認識を語ることが出来るだろうか。真理を備え、真理の戦いを行い、神の名の証しをすることは、あなたが考えているように、神が業を行えば、全てが実現されるというものではない。その時あなたは、何か質問に困惑し、唖然とするであろう。重要なのは、あなたがこの働きの段階を明瞭に理解しているかどうか、それを実際にどの程度理解しているかである。あなたが敵の勢力に勝利することも、宗教の勢力を倒すこともできない場合、あなたは役立たずということにならないであろうか。あなたが現在の働きを経験し、自分の目で見て耳で聞いているが、最終的に証しに立てないのであれば、それでもあなたには生き続ける面目はあるだろうか。あなたは誰に対して面目があるというのであろうか。そのことを簡単に考えすぎてはならない。今後の働きは、あなたが想像するほど単純では無い。真理の戦いは、それほど簡単でも単純でもない。あなたは今、備える必要がある。今、真理を備えないならば、時が来て聖霊が超自然的な働きを行わないならば、あなたは途方に暮れるであろう。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがたは働きを理解する必要がある。混乱したまま付き従ってはならない」より引用

脚注

a. 原文に「神を」の語句は含まれていない。

b. 原文に「真理」の語句は含まれていない。

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