いのちへの入り(6)
日々の神の御言葉 抜粋 556
真理を追求することでのみ、性質の変化を遂げることができます。これは人が完全に把握し、理解する必要のある事柄です。真理を十分に理解していなければ、容易に過ちをおかして道に迷います。いのちの成長を望むなら、万事において真理を求めなければなりません。何をしていても、どう振る舞えば真理と一致できるかを探求し、それに反するどのような汚れが自分の中にあるかを突き止める必要があります。こうしたことについて、あなたははっきり理解しなければなりません。自分が何をしていようとも、そこに価値があるかどうかを考えるべきです。有意義なことならしても構いませんが、無意味なことはしてはいけません。してもしなくてもよいことについて言えば、放っておけるものならそうしなさい。そうでなければ、そうしたことをしばらく行ない、後で放っておくべきだと気づいたなら、素早く判断してすぐに捨てなさい。これがあらゆる行為においてあなたが従うべき原則です。中には次のように疑問の声を上げる人もいます。「真理を求めて実践するのがこれほど難しいのはなぜなのか。まるで流れに逆らって舟を漕ぎ、漕ぐのをやめたら押し流されるようなものだ。悪事を犯したり無意味なことをしたりすることのほうが、流れに沿って舟を漕ぐようにずっと簡単なのはなぜなのか。どうしてそうなのか」。それは、人の本性が神を裏切るものだからです。人の中ではサタンの本性が主導権を握っていますが、それは反動的な力です。神を裏切る本性の持ち主は、当然ながら神を裏切ることをとかく行ないがちで、肯定的な物事をするのは自然と困難です。それはひとえに人の本性実質に左右されます。ひとたび本当に真理を理解し、心からそれを愛するようになれば、真理と合致する物事を行なう力が生まれます。すると、それが普通のことになり、努力もいらず楽しいことにさえなって、否定的な何かをするのはかなりの努力が必要だと感じるようになります。それはあなたの心の中で真理が主導権を握ったからです。人生に関する真理やどのような人になるべきかの真理、つまり公明正大で率直な人、正直な人、神のために証しをして神に仕える人にどうすればなれるかを本当に理解すれば、神に背く悪事を行なうことはできなくなり、偽の指導者、偽の働き手、あるいは反キリストの役を演じることも二度となくなります。サタンがあなたを惑わそうと、悪人があなたをそそのかそうと、あなたがそうすることはありません。誰に強制されようと、あなたはそのように振る舞いません。人が真理を得て、真理がその人のいのちになったとき、その人は悪を憎み、否定的な物事に対して内なる嫌悪を感じることができるようになり、悪事を犯すのが難しくなります。それは、その人の性質が変わり、神によって完全にされたからです。
心の中で真理を本当に理解していれば、どのように真理を実践して神に従うべきかがわかり、真理を追い求める道に自然と踏み出します。あなたの歩む道が正しい道で、神の旨に沿っているなら、聖霊の働きがあなたを離れることはありません。こうなれば、あなたが神を裏切る可能性は次第に小さくなります。真理がなければたやすく悪事を犯し、そうせずにはいられなくなります。たとえば、傲慢で自惚れた性質が自分にあれば、神に反抗しないように言われても意味はなく、どうしてもそうせずにはいられず、自制することができません。意図的にそうするのではなく、自分の傲慢で自惚れた本性に支配されてそうするのです。自分の傲慢さや自惚れのせいで神を見下し、神を無価値なものと見なすようになります。そして自分を賞揚し、常に自分を誇示し、他人を軽蔑するようになって、心の中には自分以外に誰もいなくなります。心の中に神の場所がなくなり、最後は神の場所に自分が座り、人が自分に従うことを要求し、自分で自分の思いや考え、観念を真理として崇めるようになります。傲慢で自惚れた本性に支配された人によって、かくも多くの悪事がなされているのです。悪事をなすという問題を解消するには、まず自身の本性を解決しなければなりません。性質の変化なくして、この問題の根本的解決は不可能でしょう。神について多少認識し、自分の堕落を見ることができ、傲慢さと自惚れが卑劣で醜いことに気づけるとき、あなたは嫌悪を覚え、気分が悪くなり、苦悩する。あなたは神を満足させることを意識的に行なうことができ、そうする中で安らぎを感じる。あなたは意識的に神に証しをすることができ、そうする中で喜びを感じる。あなたは意識的に仮面を脱いで自分の醜さをさらけ出し、そうすることで内面的に気分がよくなり、精神状態が改善したのを感じる。ゆえに性質の変化を求める第一歩は、神の言葉を理解して真理に入るのを求めることです。真理を理解してはじめて識別力を得られ、識別力があってはじめて物事を完全に理解できるようになります。そして物事を完全に理解してはじめて肉を捨て去ることが可能となり、神への信仰をもって正しい道を一歩ずつ歩めるようになるのです。このことは、真理を求める時に人の決意がどれほど固いかと関連します。本気で決意している人は、6か月から1年後に正しい道へ乗り始め、3年から5年以内に結果が生まれ、いのちの進歩を遂げつつあると感じるでしょう。神を信じているが真理を追求しないのであれば、10年信じても何ら変化を経験しません。最後は、これがまさに神を信じるということだ、以前に俗世で暮らしていたときとまったく同じで、生きていても無意味だと思うでしょう。これは、真理のない人生が空虚であることを真に示しています。何かしらの教義を語れても、依然として不快さと不安を感じるのです。神に関する認識があり、有意義な人生を送る方法を知り、神を満足させることを行なえるなら、それが真の人生であり、そのように生きることでのみ人生が有意義になると感じ、少しは神を満足させて喜びを覚えるには、そのように生きなければならないと思うでしょう。意識的に神を満足させ、真理を実践し、自分と自分の考えを捨て去り、神の旨に従い、それに配慮することをすべて意識的に行なえるなら、それが真理を正確に実践するということ、真理を真に実践するということであり、想像に頼り、教義や規則に固執していた以前の状態とはまるで違います。実際のところ、真理を理解せずに何かを行ない、教義や規則を守り、目標をもたず無闇に物事を行なうのは疲れることです。真理がなければ自由になれないというのは嘘でなく、真理があれば容易かつ幸せに物事を行なえます。このような状態の人が真理を自分のものにしている人、性質が変化した人なのです。
『終わりの日のキリスト講話集』「真理を追い求めることでのみ、性質の変化を成し遂げられる」(『言葉』第3巻)
日々の神の御言葉 抜粋 557
入りを求める際には、あらゆる物事を考察しなければなりません。すべての物事は神の御言葉と真理にしたがって徹底的に考える必要があり、そうすることで神の旨と完全に一致する形で物事を扱うにはどうすればよいかがわかります。すると、自分の意志から生まれる物事を捨て去ることができます。神の旨にしたがう形で物事を行なうにはどうすればよいかがわかり、実際にそのようにします。万事が自然に展開するかのように感じられ、極めて容易に見えるのです。これが真理を備える人による物事の行ない方です。その上で、自分の性質が本当に変化したことを他人に示せるようになり、他人はあなたが確かに善行をしていること、原則にしたがって物事を行なっていること、全ての行動が正しいことを理解します。それが真理を理解している人、実際に人間らしさをいくらか有する人です。確かに、神の言葉は人において成果を挙げたのです。ひとたび本当に真理を理解すると、その人は自分の状態を識別し、複雑な問題を底まで見通し、正しく実践方法を知ることができます。真理を理解していなければ、自分の状態を識別することはできません。自分自身に反抗しようとするものの、どうすればよいのかも、自分が何に反抗しているのかもわかりません。また自分の意志を捨て去ろうとしても、自分の意志が真理にかなっていると考えるなら、どうしてそれを捨て去れるでしょうか。あなたはそれを聖霊による啓きとすら考え、そのため何があっても捨て去ろうとしません。したがって、真理を自分のものにしていない人は、自分の強情、人間的な不純と善意、人間的な見当違いの愛、そして人間の実践から生じるものは何であっても正しく、真理にかなっていると考えがちなのです。そうであれば、あなたはそれらの物事にどう反抗できるでしょうか。真理を認識せず、真理の実践がどういう意味かも知らず、また目が曇っていて、自分がどちらを向いているかがわからないために、自分が正しいと思うことを基にしなければ物事を行なえないのであれば、あなたは道を踏み外した誤った行為に手を染めるでしょう。それらの行為の中には、規則に従っている行為、熱意から生じる行為、そしてサタンに由来し、妨害を引き起こす行為があります。真理を自分のものにしていない人は次のように振る舞います。左へ行ったかと思えば右へ行き、一瞬正しいと思ったら次の瞬間には間違っており、正確さなどまったくありません。真理を自分のものにしていない人は、物事に対して馬鹿げた見方を抱きます。そうであれば、どうして物事を正しく扱えるでしょう。問題をどう解決できるでしょう。真理を理解するのは簡単なことではありません。神の言葉を把握できるかどうかは、真理を理解しているかどうか次第であり、人々が理解できる真理には限界があります。たとえ生涯にわたって神を信じていても、神の言葉に関する人々の理解はいまだに限られています。比較的経験を重ねた人でも、明らかに神に抵抗する物事を行なわず、明らかに悪いことを行なわず、誰の益にもならないことを行なわないようになるのが精一杯なのです。そのような人が、自分の意志を一切混じらせない状態に至るのは不可能です。なぜなら、人は普通のことを考えるからであり、その考え方の一部は神の言葉にかない、意志には分類され得ない理解というものに属しています。しかし重要なのは、自身の意志のうち、神の言葉、真理、そして聖霊からの啓きに反する部分を識別することです。したがって、あなたは神の言葉を認識するよう努力しなければならず、真理を理解することでのみ識別できるようになるのです。
『終わりの日のキリスト講話集』「真理を追い求めることでのみ、性質の変化を成し遂げられる」(『言葉』第3巻)
日々の神の御言葉 抜粋 558
自分を知るためには、自分自身の堕落の現われ、致命的な弱点、性質、そして自分の本性実質を認識しなければなりません。また、自宅にいようと外にいようと、集会に出席しているときであれ、神の言葉を飲み食いしているときであれ、また直面する一つ一つの問題においても、日常生活において露わにされるもの、つまりあらゆる事柄に関する動機や観点や態度を詳細に至るまで認識する必要があります。それらを通じて自分を認識するようにならなければならないのです。より深く自分を認識するには神の言葉と一体化する必要があります。神の言葉を基に自分を認識して初めて、あなたは成果を挙げることができるのです。神の言葉の裁きを受けるとき、苦しみを恐れたり、痛みを心配したりしてはいけません。まして、神の言葉が自分の心を刺し通すのではないかと恐れてはいけません。神がわたしたちをどのように裁いて罰するか、わたしたちの堕落した本質をどのように暴くかについて、わたしたちは神の発する言葉をもっと読むべきです。それらを読んでもっと自分と照らし合わさなければなりません。それらの言葉と他人を比べてはいけません。自分自身と比べなければならないのです。わたしたちにはこれらの物事がどれもありますが、わたしたちは誰しもそれらと自分を比較することができます。信じないのであれば、自分で経験しに行きなさい。神の言葉を読んだ後、それを自分自身に当てはめられない人もいます。一部の言葉は自分のことではなく、他の人のことだ考えるのです。たとえば、神が人々を暴いて淫婦や売女と呼ぶと、姉妹たちの中には、自分はこれまでずっと夫に誠実だったのだから、そのような言葉は自分を指すものではないと感じる人もいれば、自分は結婚しておらず性交渉も持ったことがないので、それは自分のことではないと思う人もいます。また兄弟たちも、そうした言葉は女性だけに向けられており、自分には関係ないと思う人もいますし、神のそのような言葉があまりに耳障りだと思い、聞き入れようとしない人もいます。そのうえ、神の言葉は状況によって間違っていると言う人さえいます。それは神の言葉に対する正しい態度でしょうか。人は神の言葉に基づいて自分を省みることができません。この「売女」や「淫婦」という言葉は、乱交という人の堕落を指しています。男性であれ女性であれ、既婚であれ未婚であれ、誰もがこの乱交という堕落を抱えています。それがあなたと関係ないということがあり得るでしょうか。神の言葉は人の堕落した性質を暴きます。男性であれ女性であれ、堕落の程度は同じです。それが事実ではないでしょうか。何かをするのに先立ち、聞き心地のよいものであろうとなかろうと、自分に苦みを感じさせようと甘さを感じさせようと、神の語る言葉を一つ残らず受け入れなければならないことに気づく必要があります。それが神の言葉に対してとるべき態度です。それはどのような種類の態度でしょうか。敬虔な態度でしょうか、それとも忍耐強い態度でしょうか、あるいは苦しみを受け入れる態度でしょうか。言っておきますが、そのどれでもありません。わたしたちは信仰の中で、神の言葉が真理であることを固く保たなければなりません。それは実際に真理なのですから、理知的に受け入れなければなりません。それを認識したり認めたりすることができようとできまいと、神の言葉に対するわたしたちの態度はまず絶対的な受容の態度でなければなりません。神の言葉の各文はある特定の状態に関するものです。つまり、神の発言の各文はどれも外面的な現象に関するものではなく、ましてや外面的な規則に関するものでも、人々の単純な行動形態でもありません。そのようなものではないのです。神の発言の各文を、人間の単純な行動や外面的な現象に関するものと見なすならば、あなたには霊的理解が一切なく、真理とは何かを理解していません。神の言葉は奥深いものです。では、どれだけ奥深いものですか。神が言うすべてのこと、神が露わにするすべてのことは、人の堕落した性質と、人のいのちの中にある、本質的で根深い物事に関することなのです。それらは本質的な物事であり、外面的な現象ではなく、外面的な振る舞いでは特にありません。外面的な現象から人を見るならば、誰もが申し分なく見えるでしょう。では、神はなぜ、悪霊である人間もいれば、汚れた霊である人間もいると言うのですか。それはあなたの目に見える事柄ではありません。ゆえに、外見や、表面から見た物事をもって神の言葉と比較することはできないのです。このように交わりを持ったことで、神の言葉に対する態度の変化を経験できたでしょうか。その変化が大きかろうと小さかろうと、次にそのような言葉を読んだときには、少なくとも神を説き伏せようとはしなくなります。「神の言葉はまったく聞くに耐えない。このページを読むのはやめよう。ここは飛ばして祝福や約束に関する話を読み、安心感を得よう」などとは言わなくなるのです。そのように読む内容を選り好みしてはいけません。
『終わりの日のキリスト講話集』「真理を追求する重要性とその追求の道」(『言葉』第3巻)
日々の神の御言葉 抜粋 559
人間の本性をどのように理解しますか。本性を理解するとは、実は魂の深さを分析するということです。それは、いのちの中にあるものにかかわっています。あなたがこれまで生きるにあたり、頼ってきたのはサタンの論理、サタンの観点です。つまり、あなたはサタンのいのちによって生きてきたのです。自分の魂の奥深い部分を掘り起こすことでのみ、あなたは自分の本性を理解できます。どうすれば、そうした物事を掘り起こせるでしょうか。一つや二つの出来事では、掘り起こすことも分析することもできません。何かをやり終えても、いまだ認識に至っていない場合が多くあります。ほんのわずかな認識や理解を得るのでさえ、三ないし五年かかる場合があるのです。多くの状況において、あなたは自分を反省し、自己認識できるようにならなければなりません。そして深く掘り下げて初めて、結果が見られるのです。真理に関する理解が深まるにつれ、あなたは自己反省と自己認識を通じて自分の本性実質を徐々に知るようになります。
自分の本性を認識するには、いくつかのことを成し遂げなければなりません。第一に、自分が何を好むかを明確に理解しなければなりません。これは食べ物や着る物の好みのことではありません。そうではなく、どのような物事を楽しみ、うらやましく思い、崇拝し、求め、心の中で注意を向けているか、どのような人と触れ合うのを楽しむか、どのようなことをするのが好きか、どのような人を心の中で偶像化するか、ということです。例えば、大抵の人は立派な地位の人、話し方や立ち居振る舞いが優雅な人、説得力のある口上手な人、あるいは芝居がかった振る舞いをする人を好みます。ここで述べたのは、どのような人と交流するのが好きかについてです。どのようなものを楽しむかについては、簡単にできる特定のことをするのをいとわないとか、他者に良いと思われること、それをすれば褒められたり称賛されたりするようなことをするのを好むとかが含まれます。人の本性には、その人の好む物事に共通する特徴があります。つまり、人は他者がその見た目ゆえにうらやむような人や出来事や物事を好み、美しく豪華に見える人や出来事や物事を好み、その外見ゆえに他者が崇拝してしまう人や出来事や物事を好むのです。人が好むこれらの物事は、偉大で目がくらむような、華麗で壮大なものです。人はみなこのようなものを崇拝します。人には真理が一切なく、また真正な人間と似ても似つかないことがわかります。このような物事を崇拝することには、ほんの少しの意義もありませんが、人はそれでもこのような物事が好きなのです。……あなたが何を好み、何に注目し、何を崇拝し、何をうらやみ、毎日心の中で何について考えているのかは、みなあなたの本性を表している。あなたの本性は不義を好み、深刻な場合はあなたの本性は邪悪で救い難いと証明するにはこれで十分だ。あなたはそのように自分の本性を分析すべきである。つまり、自分が生活において何を好み、何を捨てるのかを検証しなさい。あなたは一時的には誰かに好意的かもしれませんが、それはあなたがその人を好きだという証拠にはなりません。あなたがほんとうに好きな物事は、まさにあなたの本性の中にあるものである。たとえ骨折しようが、なお楽しみ、決して手放すことのできないものである。これを変えるのは容易ではない。伴侶を見つけることを例にとりましょう。ある女性が誰かと恋に落ちたなら、誰もそれを止められないでしょう。たとえ両脚を骨折しても、彼女はその相手と一緒にいたいと思い、死んでも結婚したいはずです。どうしてそんなことがあり得るのでしょう。それは、誰も人間の奥底にあるものを変えられないからです。たとえ死んでも、その人の魂は変わらないままでしょう。それは人間の本性に関するものであり、人の本質を表わしているのです。人が好む物事にはある程度の不義が含まれています。そうした物事への好みをはっきり示す人もいれば、そうでない人もいます。またそれらを強く好む人もいればそうでない人もおり、自制できる人もいれば自分を抑えられない人もいます。中には暗い物事に耽溺しがちな人もいますが、それはその人にいのちがひとかけらもないことを示しています。そうした物事に囚われたり縛られたりしないでいられるなら、それは、その人の性質が少し変わり、多少の霊的背丈があることを示しています。中には多少の真理を理解し、自分にはいのちがある、自分は神を愛していると感じる人がいます。実際には、それはやはり早計で、性質の変化を経るのは単純なことではないのです。人の本性を理解するのは容易なことですか。たとえそれを多少理解しても、変化するのは容易なことではないでしょう。これは人にとって困難な領域なのです。自分の周囲の人や出来事や物事がどう変わろうと、あるいは世界がどのようにひっくり返ろうと、真理があなたを中から導き、あなたの中に根を下ろしているなら、そして神の言葉があなたの生活、好み、経験、および存在を導いているなら、あなたはその時点で真に変わっていることになります。現在のいわゆる変化とは、単に人が多少協力し、わずかな熱意と信仰があるということに過ぎません。それを変化と見なすことはできませんし、人にいのちがあることを証明してもいません。それは人の好みに過ぎず、それ以上のものではないのです。
人々が自分の本性の中で好んでいるものを掘り起こすことに加え、自分の本性に関するその他の側面もまた掘り起こす必要があります。たとえば、物事への視点、人の生き様と人生の目標、人生に対する価値観と人生観、そして真理に関するあらゆることへの観点です。それらはみな、人の魂の奥深くに存在する事柄であり、性質の変化と直接関係しています。では、堕落した人類の人生観はどのようなものですか。それは「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」と言えます。人はみな自分のために生きますが、もっとはっきり言えば、肉のために生きています。自分の口に食べ物を入れるためだけに生きているのです。そうした生存が動物の生存とどう違うでしょうか。このように生きることに価値は一切なく、まして意味などありません。人の人生観は、自分が何に頼ってこの世で暮らしていくか、何のために生きるのか、どのように生きるかに関するものです。それらはどれも人の本性の本質に関係する事柄です。その本性を分析することで、人がみな神に抵抗していることがわかります。みな悪魔であって、本当の善人が一人もいないのです。人の本性を分析することでのみ、人の本質と堕落を真に知り、人が本当は何に属しているか、本当に欠けているものは何か、何を備えるべきか、どのように人間らしく生きるべきかを理解できます。人の本性を真に分析するのは簡単なことでなく、神の言葉を経験するか、真の経験を有していなければ不可能です。
『終わりの日のキリスト講話集』「性質の変化について知るべきこと」(『言葉』第3巻)
日々の神の御言葉 抜粋 560
人間の本性を形作るものは何ですか。あなたは人間の堕落、反抗、欠点、欠陥、観念、意図しか知らず、人間の本性の中にある物事を突き止めることができません。つまり、あなたが知っているのは外殻だけであり、その由来を突き止めることはできず、それは人間の本性に関する認識を成すものではありません。中には、「ほら、わたしは人間の本性を知っている。自分の傲慢さに気づいているんだ。それが人間の本性ではないか」と言う人さえいます。傲慢さは人間の本性であり、それは確かに本当です。しかし、それを教義的な意味で認めるだけなら十分ではありません。自分自身の本性を知るとはどういうことですか。どうすれば知ることができますか。どの側面から知るものですか。さらに、人が明らかにする物事を通じて、その人の本性をどう具体的に捉えるべきですか。まず第一に、人の本性は、その人が興味をもつことからわかるものです。例えば、踊ることが特に好きな人、歌手や映画スターが特に好きな人、また特定の有名人をひときわ偶像化する人がいます。このような物事への関心から、そうした人たちの本性を見て取ることができます。一例を挙げると、特定の歌手をとりわけ偶像化して、その歌手の動きという動き、微笑みという微笑み、言葉という言葉にとりこになってしまう人もいるでしょう。その歌手に夢中になり、着ている物すべてを写真に撮り、真似することさえあります。これほどの偶像化は、その人の本性について何を表していますか。このような人の心にはそうした物事しかなく、神はいない、ということを表しています。この人が考え、愛し、求める物事はすべてサタンの物事です。それらがこの人の心を占め、心はこのような物事に明け渡されてしまっています。ここでの問題は何ですか。何かを極端に愛すると、その物事がその人のいのちとなり心を占め、その人が神を欲せず代わりに悪魔を愛する偶像崇拝者であることが完全に証明されます。そこで、このような人の本性は、悪魔を愛し崇拝し、真理を愛さず神を欲しないものであると結論付けることができます。これは人の本性を見る正しい方法ではないのですか。完全に正しい方法です。このようにして人間の本性を細かく分析するのです。例えば、パウロを特に偶像化する人がいます。出かけて行って演説をし、働きを行うのが好きで、集会に参加して説教することを好みます。人が自分の話を聞いてくれ、自分を崇拝してくれ、自分を取り囲んでくれるのが好きです。人の心の中に地位を持つのが好きで、自分が示すイメージを他の人に高く評価されると喜びます。このような振る舞いから、この人の本性を分析してみましょう。こうした人の本性はどのようなものですか。本当にこのように振る舞うなら、傲慢で思い上がっていることはそれで十分にわかります。神をまったく崇拝していないのです。高い地位を求め、人に対し権威を持ちたい、人を占有したい、人の心の中の地位が欲しいと願います。これは典型的なサタンの姿です。彼らの本性の際立った側面は、傲慢さと思い上がり、神を崇拝する気のなさ、そして人から崇拝されたいという願望です。このような振る舞いにより、その本性をはっきりと見極めることができます。別の例を挙げると、他人の負担で不当に利益を得るのを特に好む人がおり、そうした人たちは万事において自分の利益を満たそうとします。何をしようと自分に利益をもたらさなければならず、さもなければそれをしません。何らかの利益が伴わなければ何もしようとせず、すべての行動には密かな動機があります。そのような人は、自分に利益をもたらす人なら誰でも褒め、自分におもねる人なら誰でも出世させます。自分のお気に入りの人に問題があっても、その人たちは正しいと言ったうえで、懸命にかばって弁護しようとします。このような人たちにはどういった本性がありますか。彼らの振る舞いを基に、その本性を完全にはっきり理解できます。そうではありませんか。彼らは自分の行動を通じて不当な利益を得ようと努め、どんな状況でも絶えず打算的な振る舞いをします。それで、彼らの本性は熱心に利益を貪るものだと確信できるのです。このような人は何をするにも自分のためです。自分の益にならない限り早起きせず、最も利己的で、その欲には際限がなく、ゆえに彼らの本性は、彼らが利益を愛し、真理への愛が欠けていることによって示されているのです。男性の中には女性に惹かれ、何をするにも女性のことばかり考え、どこに行っても女性を追う人がいます。美しい女性がこうした人の愛情の対象であり、心の中で最も高い地位を占めています。彼らは美しい女性のためならいのちを捧げてすべてを犠牲にすることも厭いません。女性が心を占めているからです。こうした男性の本性はどういったものでしょうか。彼らの本性は美しい女性を愛して崇めるというもので、ゆえに彼らは邪悪で貪欲な本性をもつ好色漢です。彼らの行動は貪欲な本性を露呈し、そうした振る舞いは単なる一時的な過ちではなく、またこのような人たちは普通の人より少しだけ悪いというのでもありません。彼らはこうした物事にすっかり占められ、それが彼らの本性と本質そのものになってしまいました。ゆえに、そうした物事が彼らの本性を表わすものになってしまったのです。
『終わりの日のキリスト講話集』「どのようにして人間の本性を知ればよいか」(『言葉』第3巻)
日々の神の御言葉 抜粋 561
全人類はサタンによって堕落させられ、人間の本性は神を裏切るものです。しかし、サタンによって堕落させられたすべての人間の中には、神の働きに服従して真理を受け入れられる人もいます。それが真理を得て性質の変化を成し遂げられる人なのです。また、真理を求めることに集中しない人もいます。このような人は教義を理解するだけで満足し、立派な教義を聞いてそれを守り、理解した後は自分の本分を尽くせますが、それもある程度までです。こうした人たちは言われたことをする、凡庸な人間性の持ち主なのです。ある程度は自分を費やし、世俗の物事を捨て、苦しみを耐えることを厭いませんが、真理に関して言えば熱心ではありません。罪を犯さなければ十分だと思い込み、真理の本質を理解するなど決してできません。このような人が最後に固く立てるなら、生き残ることもあり得ますが、性質の変化を遂げるのは不可能です。堕落を清められ、いのちの性質の変化を受けたいと望むのであれば、真理への愛と真理を受け入れる能力をもたなければなりません。真理を受け入れるとはどのような意味ですか。真理を受け入れるとは、自分にどのような堕落した性質があろうと、あるいは赤い大きな竜のどの害毒が自分の本性の中にあろうと、神の言葉によって暴かれたらそれを認め、それらの言葉に服従するということを指しています。言い訳したり選り好みしたりせず、無条件でそれを受け入れ、神が述べることを基に自分を知るようになるのです。それが神の言葉を受け入れるということです。神が何と言おうと、神の発する言葉がどれほどあなたの心を刺し貫こうと、神がどのような言葉を用いようと、神の言うことが真理である限り、あなたはそれらを受け入れることができ、現実と一致する限りそれらを認めることができるのです。自分がどれほど深く理解しているかにかかわらず、あなたは神の言葉に服従でき、また聖霊によって明かされ、兄弟姉妹によって伝えられる光を受け入れ、それに従います。このような人はある程度まで真理を追求してきたのであり、真理を得て性質の変化を成し遂げることができます。たとえ真理を愛さない人が優れた人間性を有していても、真理のことになるとその人は混乱しており、真剣に捉えません。二、三の善行をなし、神のために自分を費やし、捨てることができたとしても、性質の変化は不可能です。ペテロの人間性と他の使徒や兄弟姉妹の人間性を比較すると、いずれもほぼ同じでしたが、ペテロは真理を熱心に追求する点で傑出しており、イエスが言ったすべてのことを真剣に考察したのです。「シモン・バルヨナよ、わたしを愛するか」とイエスに訊かれたペテロは、「わたしは天なる御父のみを愛し、地におられる主を愛したことはありません」と正直に答えました。その後ペテロは理解し、「これは誤っている。地におられる神は天なる神であられる。天地の両方におられる神は、同じ神ではなかろうか。わたしが天なる神しか愛していなければ、わたしの愛は本物ではない。わたしは地上の神を愛さなければならない。そのとき初めてわたしの愛は本物になるからだ」と考えました。このようにして、ペテロはイエスの言葉を熟慮することで、イエスが述べたことの真意を理解するようになったのです。神を愛するには、またその愛が本物であるためには、地上の受肉した神を愛さなければなりません。漠然とした目に見えない神を愛するのは現実的でも実践的でもありませんが、現実の目に見える神を愛するのは真理です。ペテロはイエスの言葉から真理を得、神の旨に関する理解を得ました。明らかに、神に対するペテロの信仰は真理の追求にのみ重点を置いていたのです。最終的に、ペテロは実際の神、地上の神への愛を成し遂げました。真理の追求にひときわ熱心だったのです。イエスから忠告されるたび、ペテロはその言葉を真剣に熟慮しました。聖霊に啓かれて神の言葉の意味を理解するまで、おそらく数ヵ月、一年、あるいは何年も熟慮したはずです。このようにしてペテロは真理に入り、その後いのちの性質が変わって新たにされました。真理を追い求めなければ、その人は決して真理を理解しません。字句と教義を一万回唱えることができても、それらはやはり字句と教義に過ぎません。中には「キリストは真理であり、道であり、いのちである」としか言わない人もいます。この言葉を一万回繰り返したところでやはり役には立たず、あなたがその意味を理解することもありません。キリストは真理であり、道であり、いのちであると言われるのはなぜですか。経験から得たそれに関する認識を説明することはできますか。あなたは真理、道、いのちの現実に入りましたか。神が言葉を発したのは、あなたがたがそれを経験し、認識を得るようにするためです。単に字句や教義を述べるのは無意味なのです。神の言葉を理解してそれに入ったあとでなければ、自分を認識することはできません。神の言葉を理解していなければ、あなたは自分を認識することができないのです。真理があるときにだけ識別でき、真理がなければ識別できません。真理があるときにだけ物事を完全に理解することができ、真理がなければ何も理解できません。真理があるときにだけ自分を認識することができ、真理がなければ自己認識は不可能です。真理があるときにだけ自分の性質を変えることができ、真理がなければ性質は変わりません。真理を得て初めて神の旨にかなう形で奉仕することができ、真理がなければ神の旨にかなう形で奉仕するのは不可能です。真理を得て初めて神を崇拝することができ、真理がなければあなたの崇拝は宗教的儀式を執り行なっているに過ぎません。こうしたことはすべて、神の言葉から真理を得ることにかかっているのです。
『終わりの日のキリスト講話集』「どのようにして人間の本性を知ればよいか」(『言葉』第3巻)
日々の神の御言葉 抜粋 562
神の言葉を本当に理解することは、決して単純なことではありません。「自分は神の言葉の文字通りの意味を解釈できて、その解釈はみんなにいいと言われて賛成してもらえる。だから、わたしは神の言葉を理解していることになる」と考えてはいけません。それは神の言葉を理解することと同じではありません。神が発する言葉の内側から何らかの光を得て、神の言葉の真の意味を感じ取ったなら、また神の言葉の裏にある意図と、それらが最終的に成し遂げる効果を表現できるなら、そのすべてについてはっきり認識したところで、あなたは神の言葉についてある程度の理解を得たと見なされます。ゆえに、神の言葉を理解することはそこまで簡単ではないのです。神の言葉の文字通りの意味を美辞麗句で説明できるからといって、神の言葉を理解していることにはなりません。それらの文字通りの意味をどれだけ説明できたとしても、あなたの説明はやはり人間の想像と考え方を基にしています。何の役にも立たないのです。どうすれば神の言葉を理解できるでしょうか。鍵となるのは、その中から真理を求めることです。そうすることでのみ、あなたは神が言うことを本当に理解できます。神は語るたび、大まかなことしか語らないということは決してありません。神が発する一つひとつの文章には、神の言葉の中で必ずやさらに明かされる詳細が含まれており、それらは異なる形で表現されるでしょう。神による真理の表現の仕方を人間が推し測ることはできません。神が発する言葉は極めて深遠であり、人間の考え方では推し測れません。人は努力さえすれば、真理の各側面の意味をすべて突き止められます。そのようにすれば、それらを経験する中で、聖霊があなたを啓くにつれて残りの詳細が完全に埋まり、それによってそうした具体的な状態を理解するようになります。その一部分は、神の言葉を認識すること、およびそれらを読んで具体的な内容を求めることです。別の一部分は、神の言葉を経験すること、そして聖霊の啓きを得ることを通じ、その言葉の意味を理解することです。神の言葉に関する真の理解は、おもにこれら二つの手段によって得られます。あなたが神の言葉を文字通りに理解するのであれば、あるいは自分の考えや想像というレンズを通じて理解するのであれば、どれほど雄弁に解釈できようとも、神の言葉に関するあなたの理解は現実ではありません。それらの意味を文脈から切り離し、誤って解釈することさえありますが、そうすることはさらに厄介です。ゆえに、真理というのはおもに、神の言葉を知ることを通じ、聖霊からの啓きを受け取ることで得られるのです。神の言葉の文字通りの意味を理解している、あるいはそれらを説明できるとしても、真理を得たとは見なせません。神の言葉の文字通りの意味を説明すればいいのであれば、聖霊による啓きの意味は何でしょうか。その場合、一定の教育を受けていればそれでいいのであり、教育を受けていない人はみなとても困ったことになるでしょう。神の働きは、人間の頭脳で理解できるものではありません。神の言葉を真に理解することは、おもに聖霊からの啓きを得ることに依存しています。それが真理を得る過程なのです。
『終わりの日のキリスト講話集』「どのようにして人間の本性を知ればよいか」(『言葉』第3巻)
日々の神の御言葉 抜粋 563
人の本性をどのように認識しますか。最も重要なのは人の世界観、人生観、価値観からそれを識別することです。悪魔に属する人はみな、自分自身のために生きています。その人生観と座右の銘は、おもに「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」のようなサタンの言い回しから来ています。この世の魔王や偉人や哲学者の語る言葉が、まさに人のいのちになってしまったのです。特に、中国人に「聖人」として喧伝されている孔子の言葉のほとんどが、人のいのちとなっています。また、仏教や道教の有名なことわざや、様々な有名人物のよく引用される古典的な言葉もあります。これらはみな、サタンの哲学とサタンの本性の骨子です。これらはまた、サタンの本性を最もよく描写し、説明するものでもあります。人の心に染み込んだこのような毒は、みなサタンから来ています。神から来ているものなど、そこにはひとかけらもありません。そうした悪魔的な言葉は、神の言葉と正反対でもあります。肯定的な物事すべての現実は神から来るものであり、人を毒する否定的な物事はすべてサタンから来るものだということは、まったくもって明らかです。したがって、人の本性と、その人が誰に属しているのかは、その人の人生観と価値観から見極めることができるのです。サタンは国家政府や有名人や偉人の教育と影響力を通して人間を堕落させます。彼らの悪魔的な言葉が人間のいのちと本性になったのです。「己を怠る者は天罰を受け地が滅ぼす」はサタンの有名な格言であり、全ての人に浸透し、人のいのちとなっています。ほかにもこれに類似する処世哲学の格言があります。サタンは各国の伝統文化を用いて人々を教育し、惑わし、堕落させ、人類を果てしない破滅の淵へと陥れます。そして最終的に、人間はサタンに仕え神に抵抗したために神に滅ぼされるのです。何十年も社会で役人として仕えてきた人がいます。このような人に次の質問をしたと想像してください。「あなたはこの地位で立派な功績を上げてきましたが、あなたが生きる上でおもに頼りにしている有名な諺は何ですか」。すると相手は「わたしが理解しているのはこれです。『官吏は贈り物をする人を困らせず、お世辞を言わない人は何も成し遂げられない』」と答えるでしょう。彼らはこのサタンの哲学の上に、自身のキャリアを築いているのです。この言葉はそうした人々の本性を表わしてはいませんか。地位を得るためならどんな手段でも平気で使う、というのがその人の本性になっており、役人になってキャリアで成功を収めることがその人の目標なのです。人の生活、行動や振る舞いには、サタンの害毒がいまだ数多く存在します。例えば、人の処世哲学、物事の仕方、金言は赤い大きな竜の害毒に満ち、それはすべてサタンから生じたものです。ゆえに、人の血肉に流れているのはどれもサタン的な物事なのです。そのような役人、権力者、成功者はみな、成功に至る道と秘訣をもっています。そのような秘訣は、彼らの本性を完全に表わしてはいませんか。彼らはこの世でかくも大きなことを成し遂げましたが、それらの裏にある企みや策略を見抜ける人はいません。そのことは、彼らの本性がいかに狡猾で悪意に満ちているかを示しています。人類はサタンによってあまりに深く堕落させられてきました。サタンの害毒がすべての人の血に流れており、人の本性は目に見えて堕落し、邪悪であり、反動的であり、サタンの哲学に満ち溢れています。それは完全に神を裏切る本性です。人が神に抵抗し、神と敵対するのはそれが理由です。自身の本性をこのように分析すれば、人は簡単に自己を認識できるようになります。
『終わりの日のキリスト講話集』「どのようにして人間の本性を知ればよいか」(『言葉』第3巻)
日々の神の御言葉 抜粋 564
自己反省と自分を知ることの鍵は、以下の通りです。ある分野において自分がよくやってきた、あるいは正しいことをしてきたと感じれば感じるほど、または、自分はある種の分野で神の旨を満足させられるとか、自慢することができるなどと考えれば考えるほど、その分野で自分自身を知り、それを深く掘り下げ、自分の中にどんな不純なものがあるのか、自分の中の何が神の旨を満足させられないのかを認識する価値が増します。パウロを例にとりましょう。パウロはとりわけ知識があり、教えを宣べ伝える働きにおいてとても苦しみました。多くの人にひときわ崇拝されていたのです。その結果、パウロは多くの働きを成し遂げたあと、自分のために王冠が取っておかれるだろうと思い込んでしまいました。そのせいでますます間違った道を進んでいき、最後は神によって罰せられたのです。そのとき自分を反省し分析していれば、そのようには考えなかったでしょう。言い換えれば、パウロは主イエスの言葉から真理を求めることに集中せず、自分の観念と想像を信じるだけでした。いくつかのよい行ないをし、よい振る舞いを示すかぎり、神に讃えられ報いられると考えていたのです。結局のところ、パウロの観念と想像は、彼の霊の目を塞ぎ、本当の顔を覆い隠しました。しかし、人々はこのことを知らず、神がそれを明るみに出すこともなかったので、パウロのことを到達すべき水準、生きるべき模範とし続け、こうありたいと切望する人、追い求める対象、模倣すべき人物と見なしたのです。パウロに関するこの話は、神を信じるあらゆる人への警告となります。つまり、自分がとりわけよくできたと感じたり、何らかの点でとりわけ才能に恵まれていると思ったりするたび、あるいは変わる必要も取り扱われる必要もないと考えるたび、その点についてさらに反省し、自分自身を知るよう努めなければなりません。これは必要不可欠なことです。と言うのも、あなたはきっと、自分が優れていると信じる点について、実はそこに神への反抗が含まれているかどうかを確かめるべく、掘り起こすことも、注目することも、分析することもしていないからです。たとえば、自分のことをとても優しい人間だと思っている人たちがいます。そのような人は絶対に他人を憎んだり傷つけたりせず、家族が困っている兄弟や姉妹がいればいつも手を貸し、問題が解決されないままにならないよう手助けします。非常に善意があり、自分の力の及ぶことなら何でもして、助けられる人は誰でも助けようとします。そのような好意の結果はどういったものでしょうか。彼らは自分のいのちを後回しにしますが、自分自身にとても満足しており、したことすべてにも大変満足しています。さらに、そうしたことを非常に誇らしく思っており、自分がしたすべてのことは間違いなく神の旨を満たすのに十分であって、自分は本物の神の信者だと信じています。彼らは生まれつきの優しさを自分の資本と考えており、そしてそのように考えるやいなや、必然的にそれを真理だと思い込むようになります。しかし現実には、彼らのしていることはどれも人間的な善行です。真理を求めたことが一切なく、その行動はすべて無駄なのです。なぜなら彼らはそうしたことを、神の前ではなく人の前で行なっており、ましてや神の要求や真理に従って実践してはいないからです。彼らがすることは一つとして真理の実践でも神の言葉の実践でもなく、ましてや神の旨に従ってはいません。むしろ人間的な親切心と善良な行動をもって他人を助けているのです。要するに、彼らは行ないの中で神の旨を求めておらず、また神の要求に沿う形で行動してもいません。そのため神の立場から見れば、人の良い行いは断罪されるべきものであり、記憶するに値しないのです。
『終わりの日のキリスト講話集』「自分の誤った考えを認識することでのみ真に変化できる」(『言葉』第3巻)
日々の神の御言葉 抜粋 565
性質の変化を遂げる鍵となるのは、自分自身の本性を知ることであり、これは神の啓示に従って起こらなければなりません。神の言葉においてのみ、人は自分のひどく醜い本性を知り、本性にあるサタンの様々な毒を認識し、自分が愚かで無知だと気づき、本性の弱点や消極的要素を認識できるのです。これらをすっかり知り、自分自身を憎み、肉に背き、神の言葉を着実に実行し、聖霊と神の言葉に絶対的に従う意志を持つことが本当にできて初めて、ペテロの道を踏み出したことになるのです。神の恵みや聖霊の啓きと導きがなければ、この道を歩むのは易しくない。人には真理がなく、自分に背くことができないからである。ペテロが歩んだ完全化の道を歩けるかどうかは、おもに決意があるかどうか、信仰があるかどうか、そして神にすがっているかどうかによって決まります。そしてさらに、聖霊の働きに従うことも必要です。人は何事においても、神の言葉なしに生きることはできません。これらが主要な側面であり、いずれも犯すことはできません。経験を通して自分自身を知ることは非常に難しく、聖霊の働きがなければそこへの入りは非常に困難です。ペテロの道を歩むには、自分自身を知ることと、自分の性質を変えることに集中しなければなりません。パウロの道は、いのちを求めたり自己認識に重点を置いたりするものではなく、パウロは働きを行うことと、その影響や勢いにとりわけ重点を置いていました。パウロの動機は働きと苦難の見返りに神の祝福を得ること、そして神の報いを受けることでしたが、この動機は間違ったものでした。パウロはいのちに重点を置いておらず、性質の変化を成し遂げることも重視せず、ただ報いだけに集中していたのです。目標が誤っていたため、彼が歩んだ道も当然ながら誤っていました。これは彼の傲慢で思い上がった本性によって起こったことです。パウロは明らかに何の真理も備えておらず、理性も良心もありませんでした。神は人々を救って変えるにあたり、第一に人々の性質を変化させます。神の言葉の目的は、変化した性質を備えることの成果と、神を知り、神に従い、正常な形で神を崇める能力を、人々の中で確立させることです。これが神の言葉と働きの目的なのです。パウロの求め方は神の旨に直接反するものであり、神の旨と矛盾し、完全にそれに背いていました。しかしペテロの求め方は、完全に神の旨にかなっており、それはまさに神が人間において成し遂げたいと望んでいる成果でした。そのためペテロの道は祝福され、神の称賛を受けるのです。パウロの道は神の旨に背いているため、神はそれを嫌悪し呪います。ペテロの道を歩むには、神の旨を知らねばなりません。神の言葉を通して神の旨を十分理解することが本当にできれば、つまり神が人をどうしたいと思っているのか、そして最終的にどのような成果を成し遂げたいと望んでいるのかを理解できれば、そのとき初めて、どの道を辿るべきかを正確に理解することができます。ペテロの道を十分に理解せず、ただそれを辿りたいと思っているだけなら、そこに踏み出すことはできないでしょう。言い換えれば、あなたは多くの教義を知っているかもしれませんが、最終的に現実へ入るのは無理だということです。表面的な入りは成し遂げるかもしれませんが、本物の成果を挙げることはできないでしょう。
『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」(『言葉』第3巻)
日々の神の御言葉 抜粋 566
現在、ほとんどの人が自分自身を非常に表面的にしか理解していません。自分の本性の一部であるものを、明確に知るようにはまったくなっていません。ただ自分の堕落した状態の一部や、自分がしそうなこと、あるいは欠点のいくつかを知っているだけで、自分を知っていると信じ込んでいます。さらに、いくつか規則を守り、特定の分野で間違いを犯さないようにし、特定の過ちを犯さないようにしていれば、自らの神の信仰には現実性があると考え、自分は救われると思い込んでいます。これは完全に人間の空想です。そうしたものに従っていれば、本当にどんな過ちも犯さないようになれるでしょうか。性質を本当の意味で変化させられたことになるのでしょうか。本当に人間らしく生きられるようになるのでしょうか。それで純粋に神を満足させることができるのでしょうか。いいえ、絶対にできません、それは間違いありません。神への信仰は、人が高い基準を持ち、真理を手に入れ、そのいのちの性質に何らかの変化があったときにのみうまくいくのです。したがって、自己認識があまりに浅い場合、人が問題を解決するのは不可能で、そうなると自分のいのちの性質はどうしても変わりません。自分自身を深く知ることが必要であり、それは自分自身の本性を知ることを意味します。つまり、その本性にどのような要素が含まれているのか、そうした物事がどのように生まれ、どこから来たのか、ということです。さらに、あなたはこれらを実際に憎むことができますか。自分の醜い魂と邪悪な本性を見ましたか。自分自身の真実を本当に見ることができるなら、自分を忌み嫌うようになります。自分を忌み嫌い、それから神の言葉を実践すると、肉に背くことができ、難なく真理を実行する強さを持つことができます。なぜ多くの人は自分の肉体的な好みに従うのでしょうか。そのような人は自分のことを極めて良いと見なし、自分の行動は正しく、正当化され、自分には何の落ち度もなく、完全に道理があるとすら思っているので、正義は自分の側にあるという前提で行動することができてしまうのです。自分の真の本性が何なのか、どれほど醜く、卑劣で、哀れであるかに気が付くと、人は自らをあまり誇りに思わず、ひどく傲慢ではいられず、以前のようには自分にそれほど満足しません。「わたしは誠実になって地に足をつけ、神の言葉をいくつか実践しなければならない。そうでなければ、人であるという基準に達せず、神の面前で生きるのが恥ずかしくなるだろう」とその人は感じます。その人は自分はちっぽけで取るに足らないと本当にわかります。この段階では、その人が真理を実践するのは簡単で、より人間らしく見えます。自分自身を真に忌み嫌って初めて、人は肉に背くことができます。自身を忌み嫌わないのなら、肉に背くことはできません。自分自身を真に憎むことは、二、三のことから成ります。第一に、自分の本性を知ること。第二に、自分自身を貧しく哀れであり、極めて小さく取るに足りない者と見なし、自分の哀れで汚れた魂を見ることです。自分が本当は何であるのかを完全に悟ったとき、そしてこの結果が得られたとき、人は自分自身を真に知り、完全な自己認識を得るに至った、と言うことができます。そうして初めて、自分自身を呪うほどに真に憎むことができ、人間とは似ても似つかぬほどサタンによって深く堕落させられたと真に感じることができるのです。そうなると、ある日、死の脅威が現れると、そのような人は思います。「これは神の義なる罰なのだ。神は本当に義なる方だ。わたしは本当に死ななければならない」。この時点で、この人は不満を抱くことも、ましてや神を責めることもなく、自分は神によって消し去られなければならないほど貧しく惨めで、汚れていて、堕落しており、自分のような魂は地上で生きる資格などないと感じるだけです。この時、この人は神に抵抗することも、ましてや神を裏切ることもありません。自分自身を知らずに、いまだに自分を極めて良いと思っている人は、死が近づいて来たら、こう思います。「わたしは信仰においてこんなによくやってきた。どんなに努力して追い求めてきたことか。こんなにも与え、こんなにも苦しんできた。なのに最後は、神はわたしに死ねと言うのか。神の義はどこにあるのか。なぜ神はわたしに死ねと言うのか。わたしみたいな人間でさえ死ななければならないのなら、誰が救われるというのか。人類は終わりを迎えようとしているのではないのか」。まず第一に、この人は神について観念を抱いています。第二に、この人は不平を言い、服従の欠片も見られません。これはまさにパウロと同じです。パウロは亡くなる寸前にも自分自身を知りませんでした。そして神の罰がそばに迫った時には、悔いても遅かったのです。
『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」(『言葉』第3巻)
日々の神の御言葉 抜粋 567
要約すると、神への信仰においてペテロの道を歩むとは、真理を追い求める道を歩むことであり、その道はまた真に自分自身を知り、自らの性質を変える道でもあります。ペテロの道を歩むことでのみ、人は神によって完全にされる道を進むのです。ペテロの道を正確に言ってどのように歩むのか、またそれをどのように実践に移すかをはっきり知らなければなりません。第一に、自分自身の意図や不適切な追求だけでなく、自分の家族や肉体にかかわるすべてのことさえも脇へのける必要があります。心から献身的であらねばなりません。つまり、神の言葉に自分自身を完全に捧げ、神の言葉を飲み食いすること、真理を探求すること、そして神の言葉の中にある神の意図を探し求めることに集中し、すべてにおいて神の心を把握しようと努めなければなりません。それが最も根本的にして極めて重要な実践の方法です。ペテロがイエスを見たあとに行なったのもそれであり、そのように実践することでのみ、人は最高の結果を得られます。神の言葉への心からの献身はおもに、真理を探し求めること、神の言葉の中にある神の心を探し求めること、神の心を把握することに集中すること、神の言葉からさらなる真理を理解し獲得することが含まれます。神の言葉を読むとき、ペテロは教義を理解することにも、さらには神学的な知識を得ることにさえ集中していませんでした。その代わりに真理を理解すること、神の心を把握すること、そして神の性質と愛らしさを認識することに心を砕いたのです。ペテロはまた、神の言葉から人間の様々な堕落した状態を、また人間の堕落した本性や実際の欠点を認識しようと努め、それにより神が人間に課す要求のすべての側面を満たし、神を満足させました。ペテロは神の言葉を守る数多くの正しい実践を行ないました。それは神の心にもっともかなっており、また神の働きを経験しつつ人が行なうことのできる最高の協力方法です。神から来る数百もの試練を経験するとき、ペテロは人間に対する神の裁き、暴露、および要求の言葉の一つひとつを鏡として自分自身を厳しく吟味し、これらの言葉の意味を理解しようと努めました。またイエスが彼に言ったあらゆる言葉を真摯に考え、心にとどめようとし、極めて優れた結果を残しました。このような実践の方法を通じて、ペテロは神の言葉から自分自身を認識するにいたり、人間の様々な堕落した状態だけでなく、人間の本質、本性、様々な欠点をも理解するようになったのです。これが本当に自己を理解するということの意味です。ペテロは神の言葉から、自身を本当に理解しただけでなく、神の言葉において表現されるもの、すなわち神の義なる性質、神が所有するものと神そのもの、働きに関する神の心、神の人間への要求といったことの言葉から、神を完全に知るようになりました。ペテロは神の性質と本質を知り、神が所有するものと神そのものに加え、神の愛らしさ、そして神の人間への要求を知り理解するようになったのです。当時、神は今日ほど多くを話しませんでしたが、これらの側面においてペテロに成果がそれでも達成されたのです。これは希にして貴重なことです。ペテロは数百の試練を経ましたが、無駄に苦しんだわけではありません。神の言葉と働きから自己を認識するようになっただけでなく、神を知るようにもなったのです。加えて、ペテロは特に神の言葉の中にある人類への要求を重視しました。どの側面において人間が神を満足させ、その心意に一致すべきであるにせよ、ペテロはそれらの側面に大きな努力を払い、完全にはっきりさせることができました。これは彼自身の入りにとって極めて有益なことでした。神が何を語ろうと、その言葉が自分のいのちになり得て真理である限り、ペテロはそれを心に刻み、常にじっくり考え、正しく認識することができたのです。イエスの言葉を聞いたあと、ペテロはそれを心に留めることができましたが、そのことは、彼がとりわけ神の言葉に集中し、最後は本当に成果を挙げたことを示しています。つまり、ペテロは神の言葉を自由自在に実践すること、真理を正確に実践すること、神の心意と一致すること、完全に神の意図に従って行動すること、自分の個人的な意見や想像を捨てることができたのです。このようにして、ペテロは神の言葉の現実に入りました。ペテロの奉仕が神の心意と一致したおもな理由は、ペテロがこのようにしたからです。
自らの本分を尽くしながら神を満足させることができ、言動において原則をしっかりともち、真理のあらゆる側面において真理現実に入ることができるなら、その人は神によって完全にされる人物です。神の働きと言葉は、そのような人にとって完全に有効であり、神の言葉はその人のいのちとなり、その人は真理を得て、神の言葉に沿って生きることができる、と言うことができます。その後、その人の肉体の本性、つまり、根源的存在の基礎そのものが、震えてばらばらになり崩壊します。神の言葉を自らのいのちとして有するようになると、人は新しい人となります。神の言葉が人のいのちとなり、神の働きのビジョン、人類への神の要求、人への神による暴露、神が人に達することを要求する真のいのちのための基準が人のいのちとなり、これらの言葉と真理に従って生きるならば、人は神の言葉によって完全にされます。そのような人は生まれ変わり、神の言葉をとおして新しい人となったのです。これが、ペテロが真理を追求した道です。それは完全にされる道、神の言葉により完全にされる道、神の言葉からいのちを得る道です。神によって表された真理がペテロのいのちとなり、そうして初めて彼は真理を手に入れた人となったのです。
『終わりの日のキリスト講話集』「ペテロの道を歩むには」(『言葉』第3巻)
日々の神の御言葉 抜粋 568
人が神の働きを経験し、真理を理解するまで、人を内側から管理し支配するのはサタンの本性です。この本性は具体的に何を伴っているでしょうか。例えば、あなたはなぜ利己的なのですか。なぜ自分の地位を守るのですか。なぜあなたはそのような強い感情を持っているのですか。なぜそうした不義な物事を楽しむのですか。なぜそのような悪を好むのですか。あなたがそのような物事を好む根拠は何ですか。それらの物事はどこから来るのですか。あなたはなぜそれらを喜んで受け入れるのですか。それらの物事の背後にある主たる原因は、サタンの毒が人間の中にあることだと、あなたがたは今ではみな理解しています。サタンの毒とは何ですか。それはどのように表現できますか。例えば、「人はどのように生きるべきか。人は何のために生きるべきか」とあなたが尋ねたら、人々は「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」と答えるでしょう。この単純な言葉が問題の根源を表しています。サタンの哲学と論理が人々のいのちとなったのです。何であろうと、人は追い求め、自分のためにそれを行ないます――ゆえに、人は自分のためだけに生きているのです。「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」――これが人のいのちの哲学であり、また人間の本性を表しています。この言葉はすでに堕落した人類の本性、堕落した人類が持つサタン的本性の真の肖像になっています。そしてこのサタン的本性は、堕落した人類の生存の基盤にすでになっています。数千年にわたり、堕落した人類は現在に至るまで、このサタンの害毒で生きてきたのです。サタンが行なうことはすべてその欲望、野心、目的のためです。サタンは神を超え、神から自由になり、神が造ったすべてのものを支配することを望んでいます。現在、人はここまでサタンに堕落させられているのです。誰もがサタンの本性を持ち、神を拒んで対抗し、自分の命運を思うままにして神の指揮と采配に対抗しようとしています。人の野心と欲望はサタンとまったく同じです。ゆえに、人間の本性はサタンの本性なのです。実のところ、多くの人の座右の銘は、その人たちの本性を表し、反映することができます。どんなに自分をごまかそうとしても、人の言動のすべてにおいて自分の正体を隠すことなどできないのです。決して本当のことを語らず、見せかけに長けた人がいますが、他者がその人としばらく交流すれば、その人の不実な本性と完全な不誠実さが突き止められます。結局、他の人たちは次の結論を引き出すでしょう。つまり、この人は本当のことを一言も語らず、嘘つきであると。この言葉が、そのような人の本性を表わしています。それはその人の本性と実質の最もよい説明であり、証拠でもあります。そのような人の処世哲学とは、誰にも真実を語らないこと、そして誰も信用しないことです。人間のサタン的本性にはこの哲学が大いに含まれています。あなた自身が気づきさえせず、理解していない場合もありますが、それでもあなたの人生の一瞬一瞬が、それにもとづいているのです。その上、あなたはこの哲学が正しく、理にかなっており、これっぽっちも誤っていないと思っています。そのことは、サタンの哲学が人々の本性となり、人々が完全にそれに従って生き、それに一切抗わないことを示すのに十分です。ゆえに、人々はサタン的な本性を絶えず露呈し、あらゆる側面において絶えず自らのサタンの哲学に沿って生き続けているのです。サタンの本性は人間のいのちであり、人間の本性なのです。
『終わりの日のキリスト講話集』「ペテロの道を歩むには」(『言葉』第3巻)
日々の神の御言葉 抜粋 569
自身の本性に関する人の認識は過度に表面的で、神による裁きと暴きの言葉との間に大きな溝があります。これは、神が明らかにすることに誤りがあるのではなく、むしろ人間が自己の本性に関する深い認識を欠いているのです。人には根源的、本質的な自己認識がありません。その代わり、自分の行動や表に現われることに集中し、そこに精力を費やすのです。自分を認識することについて誰かが時々何かを言ったとしても、それはさほど深いものではありません。誰一人として、ある種のことをしたから、あるいはある種のことを露呈したから、自分は特定の種類の人間だとか、特定の種類の本性をもっているなどと考えたことはありません。神は人の本性と本質を明らかにしましたが、人間は自分の物事のやり方や話し方に欠点があって不完全なのだと理解します。ゆえに、人が真理を実践するのは骨の折れることなのです。人は、自分の過ちは一時的な表われに過ぎず、それが自分の本性の表われというよりは、不注意に露呈してしまったものだと考えます。このように考える人にとっては、真に自己を認識し、真理を理解して実践することは極めて困難です。真理を知らず、真理に飢え渇いていないので、真理を実践するとき、おざなりに規則に従うだけです。人は自分の本性があまりに堕落しているとは見なさず、滅ぼされたり罰せられたりするほど自分はひどくないと信じています。しかし、神の基準からすれば、人の堕落はあまりに深く、やはり救いの基準からはかけ離れています。外面的には真理に背かない行動をとる一方、実際には真理を実践せず、神に従順でないからです。
人の振る舞いや行為の変化は、その人の本性が変化したことを意味するものではありません。その理由は、人の行為はその人の本来の姿を根本的に変えることができず、その本性も変えられないからです。自分自身の本性を知るようになって初めて、実践は深みのあるものとなり、ただ規則に従うだけではないものとなるのです。人による現在の真理の実践はいまだ基準を満たしておらず、真理が求めるすべてのことを完全に成し遂げることができません。人々は真理の一部だけを実践しており、それも特定の状態や状況にあるときだけで、あらゆる環境や状況において真理を実践するということができません。時折、気分や状態が良かったり、集団で交わりを持ったりして、普段よりも解放的な気分になると、真理にかなうことを一時的にできたりするかもしれませんが、消極的な人たちや真理を追求しない人たちと一緒にいると実践が不十分になり、行動もやや不適切なものになります。と言うのも、人は不屈の態度を持つ代わりに、つかの間の感情や状況に影響されて真理を実践しているからです。また、あなたが自分の状態も自分の本性も理解していないためでもあり、そのため時として、自分でも想像できないことを行なえてしまうのです。あなたは自分の状態の一部しか知らず、自分の本性を知らないため、将来自分が何をするかコントロールすることができません。つまり、揺るぎなく立っているかどうかはまったく不透明なのです。時として、自分がある状態の中で真理を実践できることもあり、何らかの変化を示しているように見えたりしますが、環境が変わるとそれも実践できなくなってしまいます。それは自分でコントロールできることではありません。真理を実践できることもあれば、できないこともあります。一瞬理解することがあっても、次の瞬間には混乱しています。.現在あなたは何も悪いことはしていませんが、しばらく経てば、おそらくそうしてしまうでしょう。それはあなたの中に堕落したものがいまだ存在することの証明であり、真の自己認識を得られなければ、それを解決するのは容易なことではありません。自分自身の堕落した性質を十分に理解できず、最終的には神に逆らうことができてしまうなら、あなたは危険な状態にあります。自分の本性を見抜く見識を得て、その本性を憎むことができれば、自分自身をコントロールし、捨て去り、真理を実践することができます。
『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」(『言葉』第3巻)
日々の神の御言葉 抜粋 570
真理について明瞭に交わる目的は、人が真理を実践して性質を変えられるようにすることであり、単に真理を理解させるためではありません。真理を理解していながらそれを実践しないのであれば、真理に関する交わりやあなたの理解には何の意味もないでしょう。真理を理解しながらそれを実践しないのであれば、真理を得る機会とともに、救われる機会もすべて失うでしょう。自分が理解した真理を実践すれば、より深い真理をさらに得て、神の救い、そして聖霊による啓き、照らし、および導きを獲得するでしょう。聖霊が自分を啓いてくれないと文句を言うことしかできず、自分が根本的に真理を実践していないことに気づいていない人が数多くいます。したがって、そうした人の状態が正常になることは決してなく、彼らが神の旨を理解することも決してありません。真理を実践しても自分の問題は解決できないと言う人がいます。また、人の堕落した性質が真理によって完全に解消されることなどあり得ないと信じる人もいます。実際には、人の問題はすべて解決できます。鍵となるのは、その人が真理に即して行動できるかどうかです。現在あなたがたをむしばんでいる誤りは、癌でもなければ不治の病でもないのです。真理を実践することができれば、あなたが真理に即して行動できるかどうか次第で、それらの誤りはすべて変化します。真理を追い求める道を歩んでいるのであれば、あなたは必ずや成功します。しかし、間違った道を歩んでいるのであれば、あなたは終わりです。例えば、神の家に益をもたらす形で物事を行なうにはどうすればよいか、あるいは自分のやり方が神の旨に適っているかどうかを一切考慮せず、自分の働きを行なう人がいます。結果として、そのような人は神に忌み嫌われる多くのことをするのです。すべての行ないにおいて、真理に即して行動していれば、その人は神の心にかなう人ではないでしょうか。真理を知りながら実践せず、真理とは単にこれだけのことで、それ以外の何物でもないと信じる人がいます。そのような人は、真理が自分の意志を一掃したり、自分の堕落を解決したりするのは不可能だと考えています。この種の人は馬鹿げていませんか。このような人は不条理ではありませんか。自分のことを賢いと思っているのではないでしょうか。真理に即して行動すれば、その人の性質は変化します。しかし、神への信仰と奉仕が自分本来の個性を基にしているのであれば、誰一人として性質の変化に成功しないでしょう。中には、容易に入手できる真理を調べることも実践することもしないまま、自分のことを一日中心配している人もいます。このような実践は極めて馬鹿げており、そうした人は祝福を得ても享受しないという点で、生まれながらに苦しむ人です。進むべき道は目の前にあり、必要なのはそれを実践することだけなのです。真理を実践する決意があれば、あなたの弱さや致命的な欠点は変わり得ます。しかし、常に用心して慎み深くなり、さらなる困難を受けなければなりません。神を信じるには慎み深さが必要です。そうした気ままなやり方を取り入れるなら、あなたは正しく神を信じられるでしょうか。
『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」(『言葉』第3巻)
日々の神の御言葉 抜粋 571
もし、神の言葉から神の旨やその言葉の裏にある意図を理解できないなら、神の言葉が達成しようとしている目的や結果を理解できないなら、神の言葉が人間の中で何を達成し完成しようとしているかを理解できないなら――こうしたことを理解できていないなら、それはあなたがまだ真理を掴めていない証拠です。神はなぜ、今語っているようなことを語るのでしょうか。なぜあのような口調で語るのでしょうか。なぜ神が語る言葉の一つ一つが、こんなにも熱心で誠実なのでしょうか。なぜ特定の言葉を選んで使うのでしょうか。こうした質問に答えられますか。もし自信をもって答えられないなら、それはあなたが神の旨や意図を理解しておらず、神の言葉の裏にある背景を理解していないことを意味します。それが理解できないなら、どうして真理を得ることができるでしょうか。真理を得るというのは、神が語る一つ一つの言葉を通して神が意味することを理解することであり、またひとたび神の言葉を理解したらそれらを実践できるようになり、そうして神の言葉があなたによって生かされ、あなたの現実になるということです。神の言葉を完全に理解して初めて、真理を本当に把握することができるのです。あなたは多少の字句や教義を理解できるようになっただけで、真理を理解し現実を得たと思い込みます。そして、「神に正直であるよう求められているので、そう実践しています」などとも言いますが、なぜ人が正直であるよう求められているのかだけでなく、なぜ神を愛するよう求められているのかも理解できていません。実のところ、神が人々にそのような要求をする目的は、人々に救いと完成をもたらすことなのです。
神は真理に渇き、真理を求め、真理を愛する人のために真理を表します。字句や教義にこだわって、冗長で大層な話をしたがる人は、決して真理を得られないでしょう。そのような人は自分を欺いているのです。彼らは神の言葉の読み方を誤っており、首を曲げて真っ直ぐなものを読むため、視点がすべて間違っています。また中には神の言葉を研究することしか知らず、祝福を受けることや人の終着点について何が語られているかばかり調べている人もいます。そういう人は神の言葉が自分の見解と合わなければ、否定的になり追求を中断してしまいます。それはその人が真理には関心を持っていないことを意味します。その結果、真理を真剣に受け取らず、自分の観念や想像による真理しか受け取ることができません。そのような人たちは、神への信仰においては熱心で、あらゆる手を尽くしてちょっとした善行を行い人によく見られようと努めますが、それはただ自分が将来よい終着点を得たいがためなのです。彼らも教会生活を送り、他の皆と一緒に神の言葉を飲み食いしているにもかかわらず、そうした人々が真理現実に入って真理を得るのは難しいことなのです。また他にも、神の言葉を飲み食いしてはいるものの、それをただ形だけ行なっており、字句や教義を多少理解できるようになっただけで真理を得たと思い込んでいる人もいます。なんと愚かな人たちでしょう。神の言葉は真理です。しかし神の言葉を読んだからといって、真理を理解しそれを得られるとは限りません。神の言葉を飲み食いしても真理を得られなければ、得られるものは字句や教義だけです。あなたは真理を得るということがどういうことかわかっていません。神の言葉を手にはするかもしれませんが、それを読んだ後もなお神の旨は理解できず、字句や教義を多少得られるだけです。まず、神の言葉はそんなに単純ではなく、実に深遠なのだということを認識する必要があります。長いこと経験を積まずして、どうして神の言葉を理解できるでしょうか。神の言葉のたった一文であろうと、十分に体験するには一生かかるでしょう。あなたは神の言葉を読んでも、神の旨を理解できず、神の言葉の意図、その起源、それが達成しようとしている効果や、何を成し遂げようとしているのかも理解できません。こうしたことを一つも理解できないなら、どうして真理を理解できるでしょうか。あなたは神の言葉を何度も読んでいるかもしれず、多くの節を暗唱さえできるかもしれませんが、それでも何も変わっておらず、何の進歩もしていません。あなたと神との関係は、相変わらず距離があり疎遠です。神との間には従来どおり壁があり、あなたは神に対して疑い深いままです。あなたは神を理解できないだけでなく、神に言い訳をし、神についての観念を抱いています。神に抗い、冒涜さえしているのです。それでどうして、真理を得たことになるでしょうか。
『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」(『言葉』第3巻)
日々の神の御言葉 抜粋 572
「最後まで従う者は救われる」と言われますが、これを実践するのは簡単でしょうか。簡単ではありませんし、最後まで従えない人もいます。試練や試みや苦痛に遭って倒れ、それ以上先へ進めない時がおそらく来るでしょう。日々生じる大小様々なことがあなたの決意を揺るがしたり、心を占めたり、本分を尽くして前進するのを妨げたりしますが、それらは注意深く取り扱う必要があり、丹念に検証して真理を求めなければなりません。それらはどれも人の経験の範囲内で起こることなのです。否定的なことが降りかかると自分の本分をあきらめ、躓くたびに這い上がれない人がいます。そうした人はみな真理を愛していない愚か者であり、信仰に生涯を捧げたとしても真理を得ることはないでしょう。そうした愚か者がどうして最後まで従えるでしょうか。同じことが自分に十回起きても、そこから何も得ないのであれば、あなたは凡庸な役立たずです。賢明な人、霊的な物事を理解する真の素質をもつ人こそ、真理を求める人です。何かが十回起きたとすれば、おそらくそのうち八回は、何らかの啓示を得て教訓を学び、啓きを得て多少の進化を遂げるでしょう。霊的な物事を理解しない愚か者に何かが十回起きても、一度たりともいのちに益をもたらさず、その人を変えることもなく、その人が自分の本性を理解できるようにもならないでしょうし、その人はそれで終わりです。何かが起きるたびに倒れ、倒れるたびに他の誰かの支えと慰めを必要とし、支えと慰めがなければ立ち上がれません。何かが起きるたびに倒れる可能性があり、そのたび堕落の危機に瀕しているなら、その人はそれで終わりではないですか。こうした役立たずが救われる他の根拠はあるでしょうか。神による人類の救いは、真理を愛する人の救いであり、その人の意志と決意、および心の中での真理と義に対する切望の救いです。人の決意というのは、義と善と真理に対するその人の切望であり、良心を有しているその人の一部分なのです。神は人のその側面を救い、それを通じて彼らの堕落した性質を変え、それによって彼らが真理を理解して自分のものとし、彼らの堕落が清められ、いのちの性質が変わるようにします。そうしたものがあなたの中になければ、あなたが救われることはあり得ません。真理への愛、あるいは義と光への切望があなたの中になければ、また悪に遭遇するたび、悪しき物事を捨てる意志も、苦しみに耐える決意もなければ、そしてさらに、あなたの良心が麻痺していて、真理を受ける能力が感覚を失っており、あなたが真理や実際の出来事を認識していなければ、また万事において識別力を欠き、自力で物事に対処したり解決したりすることができなければ、救われる術はありません。このような人には何のとりえもなく、働きかける価値があるものも何一つありません。彼らの良心は麻痺し、精神はぼんやりしており、心の奥底で真理を愛しておらず、義を切望することもありません。また神がどれほど明確に、あるいは明瞭に真理を語ろうとも、すでに死んだかのように反応しません。このような人は終わっているのではありませんか。息があれば人工呼吸で救えるでしょうが、すでに死んで魂が去っているなら、人工呼吸は何の役にも立ちません。問題が生じるたびにひるんでそれを避けようとするのであれば、それは証しをしていないことを意味します。ゆえにあなたは決して救われず、完全におしまいです。問題が自分に降りかかったときは、冷静になって正しく取り組み、選択を行なわなければなりません。真理を用いて問題を解決できるようになるべきです。普段から多少の真理を理解しておくのは何のためですか。それは単にあなたの空腹を満たすためでも、ただあなたに話題を提供するためでもなく、他人の問題を解決するためでもありません。何より、真理は自分自身の問題、自分自身の困難を解決するためのものです。自分自身の困難を解決して初めて、他の人たちの困難を解決することができるのです。ペテロが実を結んだ者と言われているのはなぜですか。それは、彼の中に価値あるもの、完成させる価値のあるものがあったからです。ペテロは万事において真理を求め、決意を抱き、固い意志がありました。理知があって苦難をいとわず、心の中で真理を愛していました。また降りかかるものをそのままにせず、あらゆる物事から教訓を得ることができました。これらはすべて強みです。あなたにこれらの強みが一つもなければ、それは問題です。あなたが真理を得て救われるのは簡単なことではありません。どのように経験するべきかがわからなかったり、経験がなかったりすれば、他の人の困難を解決することはできません。あなたは神の言葉を実践して経験することができず、何かが起きてもどうするべきかわからず、問題に遭遇すると動揺して、急に泣きだし、少々の挫折で消極的になって逃げ出し、正しく対応することがいつまでもできません。それがゆえに、いのちに入ることができないのです。
『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」(『言葉』第3巻)
日々の神の御言葉 抜粋 573
せわしなく本分を尽くすようになると、人はどのように経験すればよいかがすぐ分からなくなる。また物事に忙しくなるとすぐ、自分の霊的状態に問題が発生して、正常な状態を維持する能力が失われる。どうしてそのようなことになるのか。ちょっとした作業をするよう頼まれると解放されて抑えが効かなくなり、神に近づこうとせず離れてゆく。これは、人がどのように経験すべきか知らないことを証明している。あなたが何をしようと、なぜそれをするのか、それをするように仕向ける意図は何か、自分がそれをすることの意義は何か、その件の本質は何か、自分がしているのは肯定的なことか、否定的なことかをまず理解しなければなりません。これらすべてについてはっきり理解しなければならないのです。原則をもって行動できるためには、この理解が極めて必要です。自分の本分を尽くすために何かをしているのであれば、「どのようにこれをすべきか。おざなりにならないようにするためには、どうやって立派に本分を尽くすべきか」と熟考するべきです。この点について、神に近づくべきです。神に近づくとは、この点についての真理を求めること、実践の道を求めること、神の旨を求めること、どう神を満足させるかを求めることを意味します。これが、行なうすべてのことにおいて神に近づく方法です。宗教儀式を執り行なうことや外面的な行為はそこに含まれません。それは、神の旨を求めてから真理に従って実践するという目的のためになされます。何一つしなかったときでも常に「神に感謝」と言いながら、何かを行なうときに自分の望む方法でそうし続けるなら、そのような感謝は外面的な行為に過ぎません。本分を尽くすとき、あるいは何かの働きをしているとき、あなたは絶えずこう考えるべきです。「この本分をどのように尽くすべきか。神の旨は何か」と。それは、あなたが自分の行ないを通して神に近づき、またそうすることで、自分の行動の背後にある原則と真理、そして神の旨を求め、何をするにしても神から離れないことです。そのような人だけが真に神を信じているのです。今日、人は何かに遭遇するたび、実際の状況がどうであろうと、自分はあれこれできると考えており、心の中に神をもたず、自分の思い通りにします。自身の行動の方向性が適切かどうかにかかわらず、またそれが真理にかなっているかどうかにかかわらず、ひたすら頑固に突き進み、自分の個人的意図にしたがって行動するだけです。たいていの場合、このような人の心には神がいるように見えるかもしれないが、その人が物事を行うとき、心に神はいません。中にはこのように言う人がいます。「わたしは何かをするとき神に近づけない。以前は宗教儀式を行うことが習慣になっており、神に近づこうとしたが、効果がなかった。わたしは神に近づけなかった」。このような人の心の中に神はおらず、心の中には自分がいるだけで、何をするにもまったく真理を実践することができません。真理にしたがって行動しないということは、自分の意志にしたがって行動するということであり、自分の意志にしたがって行動するということは、神を離れること、つまり心に神がいないということです。たいていの場合、人間の考えは人にとってよいもの、正しいものに見え、真理にさほど反していないかのように思われます。人は、物事をこのように行うのが真理の実践だと感じます。つまり、物事をこのように行うのが神に服従することだと感じるのです。実際、人は本当に神を求めておらず、それについて神に祈っているわけでもありません。また、神の旨を満たすべく、神の要求にしたがう形でそれを立派に行おうと努めていません。人にはこの真の状態も、そのような願望もありません。これは、人が実践で犯す最大の誤りです。神を信じながら、心に神を留めていないのです。どうしてこれが罪ではないのですか。自分を騙しているのではないのですか。そのように信じ続けたところでどんな効果が得られますか。そのうえ、信仰の意義がどうして表わされますか。
『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」(『言葉』第3巻)
日々の神の御言葉 抜粋 574
あなたがあることをしたとき、神は大いに不満でした。それをしようとした際、あなたは神に祈ったのか。「この事柄が神の御前に持ち出されたら、神はそれをどうご覧になるだろうか。この事柄を知られたら、神は満足されるだろうか、それとも不快になられるだろうか。神はそれを忌み嫌われるだろうか」と深く考えたことが一度でもありますか。あなたはそれを探求しませんでした。違いませんか。他人に注意されても、それは些細な事であり、どんな原則にも反しておらず、罪ではないとあなたは考えます。その結果、あなたがしたことは神の性質に背き、神の大いなる怒りを買い、神があなたを忌み嫌うまでになります。行動する前にその事柄を十分に探求、検討してはっきり見たならば、それに関する足がかりを得られるのではないでしょうか。たとえ良い状態になくても、自分が行おうとしているすべてのことを神の前に厳粛に持ち出し、考察、探求するなら、その人が大きな失敗を犯すことはないでしょう。真理を実践する際に失敗を避けるのは人間にとって困難だが、真理に従って物事を行う方法を知っていながら、真理に従って物事を行わなければ、問題は、あなたが真理を愛していないことです。真理への愛がない者の性質は決して変わりません。あなたが神の旨を正確に把握出来ず、どう実践すべきか分からないのであれば、他の者と交わるべきです。その事柄を明瞭に理解できると感じる者が居ないのであれば、最も合理的な解決策を実施すべきです。しかし、そのように実行する中で小さな過ちを犯したなら、迅速にその誤りを正す必要があります。そうすれば、神はその誤りを罪とはみなされないでしょう。その事柄を実践した時に正しい意図をもち、真理に従って行動しており、単にその事柄を明瞭に把握しておらず、自分の行動から何らかの誤りが生じただけの場合、情状酌量の余地があります。しかし今日、多くの人々が単に自分の両手に頼って働きを行ない、自分の心に頼ってあれこれしており、次の疑問を考慮することはほとんどありません。「このように実践するのは神の御旨にかなうだろうか。自分がそれをこのように行ったら、神は喜ばれるだろうか。このようにしたら、神はわたしを信用されるだろうか。このようにしたら、自分は真理を実践することになるだろうか。神がこのことをお聞きになったら、『その事柄は適切かつ正しく行われている。そのまま続けなさい』とおっしゃれるだろうか」。あなたは、自分が遭遇した万事においてこのように注意深く検討できるでしょうか。その一つひとつについて真剣かつ周到になれるでしょうか。あるいは、自分のやり方について神が忌み嫌わるかどうか、他人は自分の方法をどう感じるか、自分の意志に基づいてそれをしているのか、それとも自分の欲望を満たすためにしているのかといったことを深く考えられるでしょうか。あなたはそれをもっと考え、さらに求めなければなりません。そうしたならば、あなたの過ちはますます小さくなるでしょう。このようにして物事を行うことで、自分が本当に真理を求める者であること、神を畏れる者であることが証明されます。なぜなら、あなたは真理の求める方向性に従って行動しているからです。
ある信者の行動が真理から外れていれば、その者は未信者と同じです。それは自分の心に神がなく、神のもとを離れる人であり、そのような者は主人の下で雑用をして僅かな報酬を受け取り、その後立ち去る、神の家に雇われた働き手のような人間です。こうした者は、明らかに神を信じる者ではありません。神の承認を得るために何ができるかということが以前に言及されました。神の承認は、あなたが最初に考え、取り組むべきものであり、自分の実践における原則および範囲になるべきです。自分の行動が真理と一致しているかを判断する必要があるのは、その行動が真理と一致していれば、それは間違いなく神の旨に従っているからです。判断しなければならないのは、その事柄の正誤、あるいはそれがあらゆる者の好みにかなっているかどうか、自分の願望と一致しているかどうかではありません。むしろ、その事柄が真理と一致しているかどうか、教会の働きや益に資するかどうかです。それらのことを考慮すれば、物事を行う際に神の旨とますます一致するでしょう。それらの側面を検討せず、物事を行う際に自分の意志に従うだけなら、その行動が誤っていることは確実です。なぜなら、人間の意志は真理ではなく、また当然ながら神と相容れないからです。神の承認を得ようと望むのであれば、自分の意図ではなく、真理に従って実践する必要があります。中には本分を尽くすという名分で、ある種の個人的なことを行う者もいます。すると、兄弟姉妹はそれを適切でないと見なして非難するが、そうした者たちがその非難を受け入れることはありません。それは教会の働きや資金、あるいは人間と関係しない個人的なことなので、真理の範囲を逸脱したとは見なされず、神はその事柄に干渉すべきでないと考えます。自分にとって個人的な事柄であり、真理の原則に関係していないと思われる物事もあるでしょう。しかしあなたがしたことを見ると、神の家の働きを考慮せず、自分のしたことが神の家にどの程度影響を与えるかも考慮しないという点で、あなたは極めて利己的でした。自分の利益しか考えていなかったのです。それはすでに、聖徒の品行と、人の人間性に関する問題が関与しています。たとえあなたのしていたことが教会の益にも真理にも無関係だったとしても、本分を尽くしていると言いながら個人的なことに関わっているのであれば、それは真理と一致していません。物事の大小を問わずあなたが何をしていようとも、あるいは、それを行なうのが神の家における本分を尽くすためなのか、それとも自分の個人的な理由のためなのかを問わず、自分のしていることが神の旨にかなうかどうか、人間性をもつ人がすべきことなのかどうかを考えなければなりません。自分が行なうすべてのことにおいてそのように真理を求めているなら、あなたは真に神を信じる人です。すべての物事、すべての真理をこのような形で真摯に扱うなら、あなたは性質の変化を遂げることができます。中には、何か個人的なことをするとき、真理を無視し、自分の好きなように、そして自分が幸せになれるよう、自分にとって有利になるようそれを行なう人がいます。そのような人は、それが神の家にどう影響を与えるかをまったく考えず、自分の行なっていることが聖なる品性にふさわしいかどうかも考慮しません。最終的に、ひとたび物事を済ませると、その人の内面は暗くなり、不快さを感じますが、なぜそうなるのかはわかりません。これはその人にふさわしい報いではないですか。神に認められないことを行なえば、神に背いたことになります。真理を愛さず、自分の意志にしたがって頻繁に物事を行なうのであれば、その人はたびたび神に背くことになります。通常、そのような人は自分の行ないを神に認めてもらえず、悔い改めなければ懲罰が待ち受けているでしょう。
『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」(『言葉』第3巻)
日々の神の御言葉 抜粋 575
どんな本分を尽くすにも、いのちの入りが必要になります。あなたの本分が規則的なものであれ不規則なものであれ、退屈であれ精力的であれ、あなたは必ずいのちの入りを達成しなければなりません。人によっては、尽くすべき本分がかなり単調なもので、毎日同じことの繰り返しだったりすることもあります。しかしそういう人たちが本分を尽くしているときに示す状態は、それほど一様ではありません。気分が良いときは、少し勤勉になってより良い仕事をすることもあります。また何らかの影響により、堕落したサタン的な性質がいたずら心をかき立て、不適切な考えを起こさせ、悪い状態や悪い気分にさせて、その結果おざなりに本分を尽くしてしまうこともあります。人の内面の状態は常に変化していて、いつでもどこでも変わる可能性があります。しかしどんなに状態が変わっても、気分に基づいて行動することは常に間違っています。たとえば気分が良いときは少し振る舞いが良くなり、気分が悪いと少し悪くなるといったことが、節操ある行動のし方といえるでしょうか。そんな風で、自分の本分を十分に尽くせるでしょうか。人は気分がどうであれ、神の前で祈って自らを正すことを知り、真理を求め原則に従って行動しなければなりません。そうして初めて、気分に支配されて動揺するのを抑えられるのです。本分を尽くすときは常に自分自身をふり返り、原則に則って行動しているか、本分の尽くし方は基準を満たしているか、単におざなりに行なっていないか、責任を減らそうとしていないか、自分の態度や考え方に問題がないか、といったことを確認する必要があります。自省してそうしたことが明らかになると、本分を尽くすことが楽になります。本分を尽くすときはどんなことに遭遇しても――否定的態度や弱さ、取り扱いを受けた後の嫌な気分など――それに正しく対処しなければならず、同時に真理を求め神の旨を理解しなければなりません。そうすることで実践への道が開かれるのです。本分を尽くす上で良い仕事をしたければ、気分に左右されてはなりません。どんなに否定的で弱い気持ちになっても、成すことすべてにおいて真理を実践し、あくまでも厳密に原則を堅持しなければならないのです。そうすれば他の人から認められるだけでなく、神にも喜ばれるようになるでしょう。このようにして、あなたは責任感をもち、重荷を背負う人となるでしょうし、実際に基準を満たしながら本分を尽くし、本物の人の姿を生きる真に立派な人物となるでしょう。そのような人は本分を尽くす中で清められて真の変化を遂げますし、神の目から見て誠実な人と言うことができるのです。誠実な人だけが忍耐強く真理を実践し続け、原則に従って行動し、基準を満たす形で本分を尽くすことができます。原則に従って行動する人は、気分が良いときは細心の注意を払って本分を尽くし、いい加減な働きをすることはなく、傲慢ではなく、人に尊重してもらうために自分を誇示することがありません。そして気分が悪いときも同様に、日々の勤めを熱心に責任を持って成し遂げ、本分を尽くすのに妨げとなったり、本分を尽くす中で多少重圧となったり混乱を招いたりする事態に遭遇しても、なお神の前で心を静め、このように祈ることができるのです――「どんな大きな問題に直面しようとも、たとえ天が崩れ落ちてこようとも、神がわたしを生かし続けてくださる限り、わたしは全力で本分を尽くすつもりです。生かされている一日一日で一生懸命に本分を尽くし、神がわたしに授けてくださったこの本分とわたしの体に吹き入れてくださったこの息にふさわしいものとなるよう努めるつもりです。どんな困難があろうと、そんなものはすべて棚上げにします。本分を尽くすことが何よりも重要だからです!」――いかなる人や出来事や物事や環境にも左右されず、どんな気分や外的状況にも支配されず、神から委ねられた本分と委託を何よりも第一にする人は、神に忠実であり、真に神に従う人です。そのような人々はいのちの入りを達成しており、真理現実に入っています。それが、真理を生きるということの最も実践的かつ純粋な表現なのです。
『終わりの日のキリスト講話集』「いのちの入りは本分を尽くすことから始まる」(『言葉』第3巻)
日々の神の御言葉 抜粋 576
本分を尽くしているときにどのような問題に直面しようと、真理を探し求めず、いつも自分の考え、観念、想像、そして願望に従って行動する人がいます。そうした人は常に自分の自己中心的な願望を満足させており、自らの堕落した性質が絶えずその人の行動を支配しています。割り当てられた本分を完了するかもしれませんが、何らかの真理を得ることはありません。では、そうした人は本分を尽くすときに何に頼っていますか。彼らは真理にも神にも頼っていません。理解している真理の欠片が心を支配したことはありません。彼らは本分を尽くすにあたり、自らの天分と能力、自分が得たすべての知識、才能、そして自分自身の意志の力や善意に頼ってそれらの本分を完了させます。これが自分の本分をしっかり尽くしているということですか。これが自分の本分を満足のゆくように尽くしているということですか。本分を尽くすにあたって自分の自然性や想像、観念、知識、学びに頼ることもときにはあるでしょうが、行なう一部の物事において原則の問題が生じることはありません。表面上は誤った道を進んだわけではないように見えるものの、見逃せないことが一つあります。本分を尽くす過程全体において、観念や想像や個人的な願望が決して変わらず、真理に取って代わられることがなければ、また行ないや振る舞いが真理原則と一致する形でなされなければ、最後の結末はどうなりますか。あなたは効力者となります。それはまさに聖書にこう記されている通りです。「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」(マタイによる福音書 7:22-23)神はなぜ、努力をし奉仕を行なう人々を、「不法を働く者どもよ」と呼ぶのでしょうか。一つ確実に言えることは、その人たちがどんな本分や働きを行なっていようと、その動機、意志力、意図、そして思考は完全に自己中心的な願望から出ていて、すべて自分自身の考えや個人的利益に基づいており、その思いや計画はひたすら自分の評判、地位、虚栄、将来の可能性などを中心に巡らされているということです。彼らは心の奥底に何も真理を持っておらず、真理原則に従って行動することもありません。では、あなたがたは今何を求めなければならないのでしょうか。(真理を求め、神の御旨と要求に従って本分を尽くさなければなりません。)では神の要求に従って本分を尽くすとき、特にどんなことをしなければならないでしょうか。何かをするときの意図や考えについては、それが真理に適っているか否か、さらに自分の意図や考えが自分の利己的な願望を満たすことを目的としているのか、それとも神の家を益することを目的としているのかを、見分ける方法を学ばねばなりません。あなたの意図や考えが真理に適っているなら、自分の考えに沿って本分を尽くすことができます。しかしそれが真理に適っていないなら、すぐに方向を変えて、その道を断念しなければなりません。その道は正しくないため実践してはならず、その道を歩み続けるなら、悪を行なうことになってしまいます。
『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」(『言葉』第3巻)
日々の神の御言葉 抜粋 577
被造物に対する創造主の扱いには基本的な原則がありますが、これはまた最高の原則でもあります。創造主による被造物の扱い方は、創造主の経営(救いの)計画と必要事項に完全に則っています。だれに相談する必要もなく、だれの同意も必要としません。何を行なうべきであろうと、あるいは人々をどう扱うべきであろうと、創造主はそれを行ない、また創造主が何を行なうか、人々をどう扱うかにかかわらず、それはすべて創造主が働きを行なう原則に一致しています。被造物として行なうべき唯一のことは服従です。他に選択肢があるはずはありません。これは何を示しているでしょうか。創造主が常に創造主であることを示しています。創造主は、いかなる被造物をも自身が欲するままに指揮して支配する権力と資格を有しており、そのための理由を必要としません。これが創造主の権威です。造られた存在である被造物のうち、創造主がどう行動すべきか、あるいは創造主のすることが正しいか否かを判定する権力や資格をもつものはありません。また、自分が創造主に支配されるべきか、指揮されるべきか、処置されるべきかについて、それらを選ぶ資格も被造物にはありません。同様に、いかなる被造物にも、創造主にどのように支配され、どのように処置されるかを選ぶ資格はありません。これは最高の真理です。創造主が被造物に何をしようとも、そしてそれをどのように行なおうとも、創造主が造った人間にとって、すべきことはひとつだけです。つまり、創造主の定めるこの事実を求め、従い、知り、受け入れることです。最終的な結果は、創造主が自身の経営計画を完了し、自身の働きを達成し、経営計画が何の妨害も受けずに進行するようにさせることです。同時に、被造物は創造主の支配と采配を受け入れ、創造主の支配と采配に従ったため、被造物は真理を得、創造主の旨を理解し、その性質を知るに至ります。もう一つ、伝えておかなければならない原則があります。創造主が何をしようと、どのように現れようと、そして創造主の為すことが偉大な業であれささいな業であれ、創造主であることに変わりはないということです。一方、神に造られた人類が何をしようと、どれほど才能や天分に恵まれていようと、やはり人類はみな被造物のままです。創造された人間は、創造主からどれほど大きな恵みと祝福を受けていても、どれほど多くの憐れみといつくしみや好意を受けていても、自分が大勢の人とは異なる存在だと思い込んだり、神と対等になれると思ったり、被造物のうち位の高いものになったと考えたりしてはなりません。神にどれほど多くの天分を与えられていても、どれほど多くの恵みを施されていても、どれほど寛大に接してもらっていても、あるいは多少特別の才能を与えられていても、それらはどれもあなたの資産ではありません。あなたは被造物であり、これからも永遠に被造物なのです。「自分は神に愛されているから、神がわたしに手を上げることはないだろう。神はわたしにはいつも愛と気遣いをもって優しく抱擁し、慰めと励ましの言葉を温かくささやいてくれるのだ」などと、絶対に思ってはなりません。創造主の目から見れば逆に、あなたは他のすべての被造物と同じものであり、自らの望み通りに用いることができますし、望み通りに指揮することも可能で、あらゆる人々や出来事や物事の中であなたがすべての役割を果たせるよう、望み通りに手はずを整えることができます。これは人々が知るべきことであり、備えるべき理智なのです。これらの言葉を理解し受け入れることができれば、神との関係がより正常になり、最も正しい関係が築かれることになります。これらの言葉を理解し受け入れることができれば、人は自分の立ち位置を正しく見定め、正しい持ち場につき、自分の本分を守ることができるでしょう。
『終わりの日のキリスト講話集』「真理を理解することでのみ、神の業を知ることができる」(『言葉』第3巻)
日々の神の御言葉 抜粋 578
神を知ることは、神の言葉を読んで理解することを通じて達成なされなければなりません。「わたしは受肉した神を見たことがない。それでどうして神を知っているというのか」と言う人がいます。実のところ、神の言葉は神の性質の表現です。神の言葉から、人間に対する神の愛と救い、そして人間を救う神の方法などを見ることができます。神の言葉は人間によって書かれるのではなく、神自身によって表現されるからです。それらは神によって直々に表現されるのであり、神自身がその言葉と内なる声を表現しているのです。それらが心からの言葉だと言われるのはなぜですか。なぜなら、それらは奥深くから発せられ、神の性質、心、考え、人類への愛、人類の救い、人類への期待などを表現しているからです。神の発する言葉には厳しい言葉もあれば優しく思慮深い言葉もあり、また人類の望みと一致しない暴きの言葉もあります。暴きの言葉にしか目を向けなければ、神はいささか厳しいと感じるでしょう。優しい言葉にしか目を向けなければ、神にはさほど権威がないかのように感じるでしょう。ゆえに、神の言葉を文脈から切り離すのではなく、むしろあらゆる角度から見なければなりません。神が優しく憐れみ深い視点から語るときがあり、そのとき人々は神の人類への愛を見ます。神が非常に厳格な観点から語るときもあり、そのとき人々は一切の背きを許さない神の性質を見ます。人間はひどく汚れており、神の顔を見たり神の前に出たりする価値はありません。今、人々が神の前に出られるのは、ひとえに神の恵みによるものです。神の知恵は、神が働きを行なう方法や、神の働きの意義に見ることができます。しかも人々は神と直に接触しなくても、神の言葉の中にこれらの物事を見ることができるのです。真に神を知る人がキリストと接触するとき、その出会いは、その人がすでに有している神の認識と一致することができますが、理論でしか理解していない人が神と出会っても、その相互関係はわかりません。真理のこの側面は奥義の中で最も深いものであり、理解するのは困難です。受肉の奥義に関する神の言葉を要約し、あらゆる角度から見つめた上で、ともに祈り、真理のこの側面についてさらに考え、話し合いなさい。そうする中で、聖霊の啓きを得て理解できるようになります。人には神と直に接触する機会がないのですから、神について真の認識を獲得するには、そうした経験に頼って模索し、少しずつ入っていかなければなりません。
『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」(『言葉』第3巻)
日々の神の御言葉 抜粋 579
神を知るとはどういうことでしょうか。それは神の喜び、怒り、悲しみ、幸せを理解でき、ゆえに神の性質を認識していることを意味します。それが真に神を認識しているということです。あなたは神を見たことがあると言いますが、神の喜び、怒り、悲しみ、幸せを理解しておらず、神の性質も理解していません。また、神の義も憐れみ深さも理解しておらず、神が何を喜び何を嫌うかも知りません。これは神を知っていることではありません。ゆえに、中には神に従うことができる人もいますが、そのような人が本当に神を信じられるとは限りません。そこに違いがあります。神を知り、理解し、神の旨の一端を把握できれば、あなたは真に神を信じ、神に服従し、神を愛し、崇拝することができます。こうしたことを理解していなければ、あなたはただ流れに身を任せる追随者に過ぎませんそれを真の服従、真の崇拝と呼ぶことはできないのです。真の崇拝はどのように生じますか。神を本当に知る人はみな例外なく、神を見て崇拝し、神を畏れます。そうした人はみな、ひれ伏して神を崇拝せずにはいられないのです。現在、受肉した神が働きを行なっている一方で、受肉した神の性質、および彼が所有するものと彼そのものについて理解すればするほど、人はますますそれらを大事にし、受肉した神を畏れるようになります。一般的に、理解が少なければ少ないほど軽率になり、ゆえに神を人間として扱います。真に神を知り、神を見たならば、人は畏れで身体を震わせるでしょう。なぜヨハネは、「わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない」と言ったのでしょうか。彼は心の奥にそれほど深い理解をもってはいませんでしたが、神が畏れを生じさせることは知っていたのです。今日、どれほど多くの人が神を畏れることができるでしょうか。神の性質を知らなければ、どうして神を畏れることができるでしょうか。人はキリストの本質を知らず、神の性質も理解していませんし、ましてや神を真に崇拝することなどできません。キリストの普通かつ正常な外見しか見ず、その本質を知らなければ、いとも簡単にキリストを単なる普通の人間として扱ってしまいます。そうした人はキリストに不敬な態度をとり、キリストを騙し、キリストに抵抗し、キリストに服従せず、キリストについて勝手な判断を下すことができます。そうした人は独善的であり、キリストの言葉を真剣に受け止めることができず、神に対する観念、断罪、および冒涜を生じさせることさえできます。これらの問題を解決するには、キリストの本質と神性を知らなければなりません。これが神を知ることの主要な側面であり、実際の神を信じるすべての人が入って成し遂げなければならないことなのです。
『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」(『言葉』第3巻)