神に仕えることは私の幸運

全能神は言われます。「神は何を通じて人を完全にするのであろうか。それは、義という神の性質によるのである。神の性質は主として義、怒り、威厳、裁き、呪いであり、神は主に裁きを通じて人を完全にする」(「辛い試練を経験することでのみ、神の素晴らしさを知ることができる」『言葉は肉において現れる』)。「効力者の時代の前、人はいのちを追求、神を信じる意味、あるいは神の働きの知恵を何ら理解しておらず、神の働きが人を試すことができることも理解できなかった。効力者の時代から今日に至るまで、人は人知を超える神の働きがいかに素晴らしいかを知り、神がいかに働くかを自分の頭脳で想像できないことを理解し、さらに自分の霊的背丈がいかに小さいかや、自分があまりにも不従順であることを知っている。神が人を呪った時、それはある効果を得るために為したのであり、人を死に追いやることはなかった。神は人を呪いはしたものの、それは言葉によって行われたのであり、神の呪いは実際に人に災いをもたらすことはなかった。なぜなら、神が呪ったのは人の不従順であり、従って神の呪いの言葉は人を完全にするためでもあったからである。神が人を裁く際も、呪う際も、それは人間を完全にする。どちらも人の内にある穢れたものを完全にするためのものである。この手段を通して人は精錬され、人の内に欠けているものは神の言葉と働きを通して完全にされる。神の働きのどの段階も、厳しい言葉であれ、裁きであれ、刑罰であれ、人を完全にする、あくまで適切なものである。あらゆる時代を通じ神はこのような働きを為したことはない。今日、神はあなたがたの内にあって働いているので、あなたがたは神の知恵を理解できた。あなたがたは内にある何らかの苦痛を味わってはいるものの、心は安定していて平安である。神のこの段階の働きを享受できるのはあなたがたにとって祝福である。将来得られるものが何であるかにかかわらず、今日あなたがたの内に神の働きとして理解できるものは愛である。人が神の裁きと精錬を経験しないならば、その行いと熱い思いは常に外にあり、その性質は常に変わらないであろう。そんな状態は、神に得られたと言えるであろうか」(「辛い試練を経験することでのみ、神の素晴らしさを知ることができる」『言葉は肉において現れる』)。この御言葉は本当に感動的で神の裁きと刑罰の働きがすべて人類を清め救うためのものだと実感できます。これからお話しするのは終わりの日の裁きの働きを受け入れた私が経験した初めての試練、効力者の試練についての理解です。

1991年2月のある日、いつものように参加した集会である兄弟がうれしそうに「聖霊が言葉を発した!」と言い兄弟姉妹が次の御言葉を読み始めました。「シオンに讃美がもたらされ、神の存する場所が現れた。栄光に満ちた聖なる名はあらゆる人に讃えられ、広まる。ああ、全能神よ。宇宙の頭、終わりの日のキリスト。この方こそ、全宇宙に堂々と威厳に満ちてそびえ立つシオンの山に登った輝く太陽である」「あなたは勝利者の群れを作り、神の経営(救いの)計画を全うした。諸国民はこの山に集い、玉座の前に跪く。あなたこそ唯一の真の神であり、栄光と栄誉はあなたにふさわしい。すべての栄光、讃美、権威がその玉座にあるように」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」「第一章」)。すべては理解できずとも、これを聞いた時こんなに特別で感動的な言葉は、人には表せないと思いました。この御言葉は神から生まれ、聖霊が発したものだと確信したその後、次々と教会に届く聖霊の御言葉は信仰や聖書の謎についての多くの真理を啓示し真理の実践といのちの入りへの道を開いてくれた。当時は毎日集会があり、聖霊の御言葉を読みました。それは私の心を強くし、潤しました。みんなが歓びに浸り、幸福でした。私たちは神の前に到達する最初の者であり神に成された勝者であり、神の王国に受け入れられ、神の約束と祝福を受ける資格があると思った。信仰心に満ち、神のために多くを費やした。聖霊の御言葉を書き写す者や、音楽に合わせて讃美歌を作る者もいました。当時私たちは苦しい状況にありました。多くの兄弟姉妹が集会の最中に逮捕されました。私はおびえも恐れもせず、熱意をもって神に自分を捧げた。

そして祝福と神の王国への希望で満たされたその時神の新たな御言葉が私たちに効力者の試練を与えたのです。10月のある日、聖霊の新たな御言葉を受け取りに40キロ離れた教会に行くよう言われた私は素晴らしい知らせに違いないと思い胸を躍らせ鼻歌を歌いながら自転車で集会場へ向かった。しかし到着すると兄弟姉妹が浮かない顔でうなだれていました。兄弟が言いました。「聖霊が御言葉を発した。神は私たちはみな効力者だと仰った」姉妹は目に涙を浮かべ「みんな効力者です。中国人は神に仕える者。祝福を受けられないの」と言います。信じられませんでした。急いで聖霊の御言葉と、この神の御言葉を読みました。「中国では、わたしの長子とわたしの民を除けば、他のすべての者は赤い大きな竜の子孫であり、投げ捨てられるべきであることを、あなた方は理解しなければならない。結局、中国はわたしによって呪われた国であり、そこにいる僅かばかりのわたしの民は、わたしの将来の働きのために奉仕する者に過ぎないということを、あなた方は理解しなければならない。別の言い方をすれば、わたしの長子たちを除いては、他に誰もいないのである──彼らはみな滅びることになっている。わたしの業においてわたしが極端過ぎると思ってはならない。これはわたしの行政命令である。わたしの呪いを受ける者たちは、わたしの憎しみの対象であり、これは確かなことである」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」「第九十五章」)。驚くばかりでした。効力者については過去に何度も聖霊の御言葉で言及され不信心者のことだと思っていましたがそれは私たちのことでした。中国人は神に呪われる効力者で奉仕を終えると底なしの穴に放り込まれるとありました。体中の力が抜けました。まさか自分が効力者だなんて。長年の信仰は無駄だったのか? 神の王国で祝福されないばかりか、底なしの穴だなんて! 深淵に放り込まれたように惨めで怨む心が芽生えました。主に従うために学業を諦めたこと。世間に笑われ、友人や家族からも理解されなかったこと。中共の迫害、そして危うく逮捕されそうになったこと。それでも私はひるまず、神に自分を捧げ犠牲を払いました。深く苦しんだ分、神の王国で祝福を享受すると思ったのに賤しい効力者となった。訳もわからず、ため息をつきながらただ座っていました。他の兄弟姉妹はうなだれ涙を流す者や、顔を覆い嗚咽をもらす者大声で泣き叫ぶ兄弟もいました。

集会のあと帰路についても自転車をこぐ気力すらありません。「なぜ私が効力者?」という想いが頭から離れず考えるほどに被害者のような気がして、涙が止まりません。家に戻っても何もする気になれず誰とも話す気になれずうつむいて歩くだけ。息をするのも辛く感じ自分が効力者で、祝福を全く受けないなんて認められませんでした。

その後新たな御言葉が次々に届きましたがその一篇ずつを熱心に読み、御言葉の中に、私の帰結を変える希望の光を求めました。しかし見つけたのは祝福どころか厳しい裁きばかり。特に次の御言葉がそうです。「効力者たちと悪魔に属する者たちは霊的に死んだ者であり、そのような者たちは滅ぼされて無に帰さなくてはならない。これはわたしの経営(救いの)計画の奥義であり、わたしの経営(救いの)計画において人間には計り知れないことである。しかしわたしは、これを全ての者たちに公にした。わたしに属さない者はわたしに敵対するものである。わたしに属するものはわたしと相容れるに適った者である。これは疑いの余地のないことであり、サタンに対するわたしの裁きの原則である。この原則を知るべきである――サタンから来る全てもの者は裁かれ、焼き尽くされ、灰となる。これはわたしの怒りでもあり、人はわたしの性質をさらに知ることができる」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」「第百八章」)。「今日わたしの為に奉仕した後に、全員去らなければならない。わたしの家に残ってはならない。恥知らずな居候であってはならない。サタンに属する者はみな悪魔の子であり、永遠に消滅する」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」「第百九章」)。神が効力者を裁き、呪うのを見てすべての希望を失い、底なしの穴に落ちていくようで、あんなみじめな気持ちは言葉で表せません。神の懐に抱かれ、神の愛を享受していたのに今や神に捨てられ、非難と呪いを受け、底なしの穴へと放り込まれた。苦痛という精錬に沈みこみ、とても消極的になりました。祈ったり、讃美歌を聴いたり、御言葉を読む気力もなく、これまでの献身と犠牲を後悔する気持ちさえ抱きました。こんなことになるなら、逃げ道を残しておいたのに。私にはもう何もない。私が効力者となり果て、すべてを失ったと知れば、信仰のない友人や家族に際限なくからかわれる。とても顔を見せられない。どうしよう。それを考えると、自分をとがめる気持ちが深くなりました。これまでの信仰を思い返すと多くの苦難もあったが、私は神の恵みと祝福を十分享受した。今日もまた神に持ち上げられ新たな御言葉を聴き多くの謎と真理を学んだ。何があろうと神からは離れられないのだ。

一度、集会でこの御言葉を読みました。「わたしはただ、あなた方が心と思いを尽くし、また、あなた方の能力を尽くして、あなた方のすべての力をわたしに捧げることを望む。今日であろうと明日であろうと、あなた方がわたしのために効力者であろうと、祝福を受ける者であろうと、あなた方は皆、わたしの国のために、あなた方の力を尽くすべきである。これは、造られたすべての人々が担うべき義務であり、それはこのように行われ、実行されねばならない。わたしは、わたしの国の美しさを常に新しいものにし、わたしの家を調和させて統一させるために、すべてのものを動員して奉仕させる。誰もわたしに背くことは許されず、背く者は裁きを受け、呪われなければならない」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」「第百章」)。当時の教会指導者もこれについて交わってくれました。「効力者であることを恥ずかしいと感じる人は多いが、それは全くの間違いである。今日、私たちが神に仕えることができるのは、神が予め定められたことであり、それ以上に、私たちは神にそうするように選ばれたのである。実際、最高で全能なる神に仕えることは、非常に栄誉あることである。私たちはサタンに深く堕落させられてしまった人間であり、神の前ではちっぽけな被造物に過ぎない。誰が神に仕えるのにふさわしいというのか。全人類の中から、私たちは神に仕えるために選ばれた。私たちは多くのものを得てきており、これは本当に神から大きく高められていることである。このように言うのが一番公平であり、それを理解できないならば、途方もなく傲慢である。正直に言う。人間性にまったく欠けている私たちが、神に仕えることを神に許していただいている。だが、神がどれほどの屈辱を受けたか知っているだろうか。神は毎日私たちのような堕落した人に接しているが、神が受けている大きな屈辱について考えたことがある人が私たちの中にいるだろうか。私たちはいつも神に反抗し、逆らい、自分の観念や想像で神を裁き、神の心を砕いている。神はどれほどの苦悩を味わってきたのだろうか。私たちが堕落した性質で満ちており、神に仕えても神の要求を満たしていないということをよく心得なさい。そのようにふるまっていては、私たちは神に仕えることさえふさわしくない。ではどうして神の民となるにふさわしいと言うのか。」これを聞いて目が覚めました。創造主であり至高の存在である神に賤しくちっぽけな私が奉仕できるのは、神の高尚さでありやさしさなのだと。しかし私は自分の性質も地位も知らず効力者は賤しいと思い、神に仕える気持ちを持たなかった。ごう慢で理知に欠けていた。思い返すと、熱心に追求し犠牲を払い努力を費やしたのはすべて祝福を得るため、神の王国の祝福を享受するためでした。人への約束と祝福を示す御言葉に動機を与えられ中共の迫害にもひるまず頑張ってきたのに自分たちが底なしの穴に放り込まれる効力者だという御言葉を読み、神に不平を言い、責め立て、神を裏切り離れようとさえした。とても真の信心者といえません。私の献身と犠牲と努力は、自分の下心と不純によって汚されました。すべては祝福を受け、神を騙し、神と取引をするため。自分勝手で卑しい人間です。神の恵みと祝福を享受し、御言葉に栄養と水を与えられたのに祝福を受けられないと知ったとたん神を裏切ろうとするなんて良心も理知もない人間でした。深い後悔と自責の念を感じた。私は大きな赤い竜の子孫で、神の家ではなくサタンに属し信仰の動機は祝福を受けることでした。神は聖く、義であり、その性質はどんな背きも許さない。神への行動と態度をみれば、私には効力者になる価値すらなかった。とうの昔に神に呪われ地獄へ送られるべきでした。神は私を懲罰せず、生きることを許して下さった。私が神の言葉を聞き、いのちの栄養を受け取り、至高の神に仕えられるように。これは特別の賛美であり私は神に感謝こそすれ、文句をいう権利などありません。効力者として尽くさなければ!

11月後半になり、さらに新たな御言葉が届きました。全能神は言われます。「わたしがシオンに戻った後も、地上の者たちは、過去と同じようにわたしを讃美し続けるだろう。これらの忠実な効力者たちは、わたしに仕えるために今もなお待っているが、彼らの役割は終わるだろう。彼らにできる最善のことは、わたしが地上にいる状況を熟考することである。その時になると、わたしは災難を被るであろう人々に災害をもたらし始めるが、すべての者はわたしが義の神であると信じている。わたしは決してそれらの忠実な効力者たちを罰することはなく、彼らにわたしの恵みを受け取らせるだけである。なぜなら、わたしはすべての悪を行う者たちを罰し、善を行う者たちは、わたしが授ける物質的楽しみを受けるだろうと、わたしは言ったからである。これはわたしが正義と信実の神自身であることの啓示である」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」「第百二十章」)。神は私たちを見捨ててはいなかった。大きな赤い竜の子孫だから懲罰していたのではなかった。私たちは献身的な神の効力者として、地上で神を称えることができる。心が温かくなり、体に力がみなぎり、神の効力者であることは神の賞賛であり祝福だと感じました。あの頃は集会で「神様に仕えることは私たちの幸運」をいつも歌いました。「神の御言葉の啓示と裁きを通して、私たちは自らの深い堕落を知る。祝福への欲に満たされたままでは、神の前で生きるにふさわしいとは言えない。神の王国に入る資格のない私たちにとって、神に仕えることは昇進である。ああ! 神の恵みにより私たちは神に仕える。それは幸せなことである。待ち受けるのが祝福でも不幸でも、私は最後まで神に仕える」(「神様に仕えることは私たちの幸運」『小羊に従って新しい歌を歌おう』)。

効力者として幸せを感じ、神に仕える心構えができた頃全能神が新たな御言葉を発しました。1992年2月20日、神は私たちを王国の民とし、効力者の試練を終わらせました。「状況は以前とは異なり、わたしの働きは新たな開始点に入っている。そういうわけで新しいやり方が出てくるだろう。わたしの言葉を読み、まさに自分のいのちとして受け入れる人々はわたしの国の人々である。彼らはわたしの国にいるので、わたしの国のわたしの民である。彼らはわたしの言葉によって導かれるので、わたしの民と呼ばれるが、この呼び名はわたしの『子供たち』と呼ばれることとまったく同じである」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」「第一章」)。神が効力者を王国の時代の民に変えたことで、幸福と後悔と自責の念を感じました。効力者の試練の間、消極的で弱々しくなり、希望を失い神に不満を抱き、神を誤解し責めたことを後悔しました。効力者になることをためらい、忠誠心も従順さもなかった。深い後悔と、神への負債が残った。大きな赤い竜の子孫であり、反抗的で堕落した私たちが試練を耐え抜いたことで神が私たちを高め、王国の民、神の家の一員としてくださった。神の偉大な愛を感じ神への感謝と称賛で満たされました。

この試練を経験し、私は神の働きの英知を知りました。神は御言葉で人を裁き、罰し、呪いすらします。その厳しい言葉がもたらす痛みと苦しみはすべて私たちを清め、変えるためです。私は神の御言葉により精錬され神の義なる性質を目にしましたが神は私たちの動機と不純を憎み、祝福のための信仰を嫌いました。この経験の後、私の信仰に対する見方が少し変わりました。祝福や王国への入りを求めることなく効力者として創造主に仕えることは尊いことであり祝福なのです。誇りと名誉を感じました。

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