言葉は肉において現れる

目次

正常な状態を実現する方法

神の御言葉に対する人間の受容性が高まれば高まるほど、人間は一層啓かれ、義を渇望し、神に関する知識を求めるようになる。深く豊かな経験を得ることができるのは、神の御言葉を受け容れる者のみであり、自らの人生がさらに開花してゆくのは、こうした者のみである。いのちを求める者は、すべて神の御言葉の享受を、自分の職務のようなものとして扱い、神無しでは生きることが出来ない、神無しで成功は一切有り得ず、全ては虚無である、という感情を抱く必要がある。こうした者は、聖霊の存在無くして一切行動しない、結実しない行動を以後一切望まない、と決意する必要がある。こうした者は、自らを取り繕う行動を取ってはならない。人生経験は神の啓示と導きにより与えられ、そうした経験もまた自分の主体的な取り組みの成果である。あなたがたは、人生経験において、自分自身に対して言い逃れをしない、という必要条件を定めるべきである。

神の存在を見失い、祈りを捧げても神を感じることが出来ないなど、自分の状態が正常ではないこともあり、そうした時に不安になるのは普通のことである。あなたがたは直ちに探し求めなければならない。さもなければ、神はあなたがたにとって益々疎遠となり、あなたがたは2、3日、時として2、3か月にわたり聖霊の無い状態となり、あなたがたは神の御業が更に減った状態となるであろう。この種の状況に遭遇した場合、あなたがたは、ある程度麻痺し、再びサタンの虜となり、金銭を好んで求める、兄弟姉妹を騙す、映画やビデオを鑑賞する、麻雀をする、何ら自制すること無く喫煙や飲酒にふけるなど、ありとあらゆる行動を取ることが出来るようになるであろう。あなたがたの心は神から離れ、自由になろうと企み、神の御業に関して独自の判断を下す。こうした事態は、全く恥辱を感じる事無く異性と罪を犯すほど深刻となる事もある。こうした人々は聖霊から見放され、実のところ長期間にわたり聖霊の御業が無い状態にある。こうした人々は益々腐敗し、その邪悪な手を更にさしのべ、最終的にその道の存在を否定し、自らの罪によりサタンの虜となる。聖霊の存在を見出しているが、神の御業を見出せないでいる場合、あなたがたは既に極めて危険な状態にある。聖霊の存在を感じることが出来ない場合、あなたがたは死の間際にある。あなたがたが悔い改めずに居る場合、あなたがたは完全にサタンのものとなり、排除される者のひとりとなるであろう。したがって、自分には聖霊が存在し (罪を犯さず、放蕩にふけること無く、神を明白に拒否することが無く)、しかし聖霊の御業が欠如している (祈りを捧げている時に感動せず、神の御言葉を飲み食いする時に、神から明瞭な啓示を得て、神により照らされることが全く出来ず、また神の御言葉の飲み食いに対して怠惰となり、長期にわたり顕著な啓示を全く得ていない) ことに気付いた場合は、一層注意する必要がある。自分自身を取り繕うことも、意地を張ることも出来なくなる。聖霊の存在が消滅する可能性が常にあるので、こうした状況は危険な時である。こうした状況に直面した場合は、速やかに改正する必要がある。まず、祈って悔い改め、神の赦しを乞い、一層熱心に祈る必要があるほか、心を静めて神の御言葉をさらに飲み食いし、そうした上で更なる祈りを捧げる必要がある。聖歌を歌う際、祈りの際、神の御言葉を飲み食いする際、自分の本分を尽くす際の努力を増加させること。自分が最も弱い時は、最もサタンに心を奪われやすい。つまり、そうした時は心が神の御前から奪い去られ、サタンの許に戻ってしまい、それ以後は聖霊が存在しなくなり、聖霊の御業を回復させるのが極めて困難となる。神が存在するうちに聖霊の御業を求め、自分を更に啓き、神が自分から離れないようにするよう、神に願った方が良い。サタンが業を行う機会を無くすために、祈りを捧げ、聖歌を歌い、自分の務めを果たし、神の御言葉を飲み食いする必要がある。こうすることで、聖霊の御業を得ることが出来るであろう。こうした状態から回復せず、そのままにした場合、聖霊の存在は喪失すると回復が困難となる。ただし、聖霊がことさら活動し、照らし啓く場合はこの限りでは無いが、その場合でもあなたがたの状態は1、2日間、ことによると半年間は回復しないであろう。こうした状態の原因は、ひとえに人間が怠惰になり、生活を適切に経験出来なくなるため、人間が聖霊から見放されてしまうことにある。たとえ回復したとしても、生活におもりが付けられたかのように、生活経験が大きく遅れてしまうので、その時点における神の御業が完全に理解できなくなってしまうであろう。これは生命を脅かすものではなかろうか。しかし、私はそうした人々に対して、今悔い改めて遅すぎることは無いが、一層努力する必要があり、怠けることは出来ない、という条件がひとつだけある、と伝える。そうした人々は、他人が1日5回祈るのであれば、10回祈る必要があり、他人が神の御言葉を1日2時間飲み食いするのであれば、4時間から6時間をかけて神の御言葉を飲み食いする必要があり、他人が聖歌を2時間聴くのであれば、少なくとも半日かけて聖歌を聴く必要がある。頻繁に神の御前で黙し、神の愛について考えること。感動して自分の心が神へと向かい、神から決して離れることが無くなるまで、成果は無いであろう。それ以前の正常な状態を回復させることが出来るのは、こうした行いのみである。

熱意を持って求めるが、正しい道を進むことが出来ない人々も居る。これは、そうした人々があまりにも不注意であり、霊的な事柄に全く注意しないからである。そうした人々は、神の御言葉を体験する方法や、聖霊の存在や聖霊の働きが何かについて全く知らない。こうした人々には熱意があるが、困惑し、いのちを求めて居ない。なぜなら、こうした人々は、聖霊や、聖霊の御業の変動について全く知らず、また自らの霊的な状態に疎いからである。これは、ある種の混迷した信仰ではなかろうか。こうした人々は、たとえ最後の時まで求め続けたとしても、何も得ることが出来ないであろう。神への信仰と、自分の人生における成長の要点は、経験により神が行われる御業が何であるかを理解し、神がどれほど愛すべき存在であられるかを理解すること、そして神の采配の全てに従い、神の御言葉を自分自身に銘じ、それを自分のいのちとし、神にご満足いただくことが出来るよう、神の御旨を理解することにある。あなたがたにあるのが混迷した信仰のみであり、霊的な事柄にも生活の正常における変化に関する事項に注意せず、真理に対して努力しなかった場合、あなたがたは神の御旨を理解できるであろうか。神の必要条件を理解しなかった場合、経験を得ることが出来ず、実践すべき道を見いだすことも出来ないであろう。神の御言葉を体験することにおける重点は、神の御言葉があなたがたの中で実現する効果を強化し、それにより神を知ることに置かれている。神の御言葉を読むだけで、それをどのようにして体験すべきかを知らない場合、それは、霊的な理解が不在であることを示すものではなかろうか。現時点では、大部分の人々が神の御言葉を体験できず、神の御業を知らないが、それは実践不足ではなかろうか。そうした状況が続くとしたら、豊富な経験と人生における成長は、いつ達成されるであろうか。それは実の無い話ではなかろうか。あなたがたの中には、教義に留意している者が多数居り、霊的な物事について全く理解していないにもかかわらず、神が自分を何かしら素晴らしい事柄に起用し、神に祝福されることを望んでいる。そうした望みは、全く非現実的なのだ。したがって、あなたがたはそうした不足している部分を補完し、あなたがた全員が霊的生活において正しい道を歩み始め、真の経験を得て、神の御言葉の現実性を享受する必要がある。