言葉は肉において現れる

目次

完全にされることが出来るのは、実践に重点を置く者だけである

神は終わりの日に、神が行うべき業を行い、言葉による神の務めを実行するために受肉した。神は、神の心に付き従う者を完全にすることを目的として、人間の中で業を行うために自ら訪れた。創造の時から現在まで、神は終わりの日のみ、その業を行う。受肉した神が、そうした大規模な業を行うのは、終わりの日のみであった。神は、人間にとって受けるのが困難と考えられる苦難を受け、神は、偉大な神として、凡人となるほど謙遜しているが、神の業のうち、遅れている側面は無く、主の計画は少しも混乱していない。神は、当初自ら計画したとおりに業を行っている。今回の受肉の目的のひとつが、人間を征服することである。もうひとつの目的が、神が愛する者を完全にすることである。神は、自分が完全にする者と、その者がどのようにして神の証しに立つかを自らの目で見ることを望んでいる。完全にされる者は1人や2人では無い。しかし、完全にされるのは、極めて少人数の集団である。この集団は、世界各地の様々な国の住民、様々な国籍の者から集められている。こうした業を行う目的は、その集団を得ること、その集団が立つ神の証しを得ること、そしてその集団によって神が得る栄光を得ることである。神は、重要性の無い業も、無価値な業も行わない。それほど大量の業を行う神のねらいは、神が完全にすることを望む者すべてを完全にすることにあると言える。その業を行う時以外の時間に、神は邪悪な者を抹消するであろう。神がそうした大量の業を行うのは邪悪な者のためではないことを知る必要がある。神は、そうした神により完全にされるべき少数の者のために、全力を注ぐ。神が行う業、神が述べる言葉、神が示す奇跡、神の裁きと罰は、全てそうした少数の人々のためのものである。神が受肉したのは、邪悪な者のためではなく、いわんや神の大いなる怒りを扇動する者のためでは、決して無い。神が真理と、真摯な取り組みに関して述べるのも、神が受肉したのも、そして神が約束と恵みを授けるのも、完全にされるべき者のためである。神が述べる真理、真摯な取り組み、そして人間的な生活は、邪悪な者のためではない。神は邪悪な者に対して話をするのを避けることを望み、完全にされるべき者に全ての真理を授けることを願う。しかし、神の業においては、邪悪な者が一時的に神の富の一部を享受することが必要とされる。真理を実行しない者、神を満足させない者、神の業を阻害する者は、皆邪悪である。そうした者は、完全にされることが出来ず、神により忌み嫌われ、拒まれる。その一方、真理を実践する者、神を満足させることが出来る者、自らの全てを神の業のために費やす者は、神により完全にされるべき者である。神が完全にすることを望む者は、その集団だけであり、神が行う業はそうした者のためである。神が述べる真理は、その真理を実践することを望む者を対象とする。神は真理を実践しない者に対して語らない。神が述べる識見の増加と分別の成熟は、真理を実践出来る者を対象とする。完全にされるべき者に関して神が語る時、神はこの集団に関して語っている。聖霊の業は、真理を実践出来る者を対象とする。知恵を得ること、人間性を得ることなどは、真理の実践を望む者を対象とする。真理を実行しない者は、多くの真理を聞いて理解するかも知れないが、そうした者は邪悪な人々の中に居るので、理解した真理は単に教義と言葉でしかなく、自らの性情の変化やいのちに関しては全く重要性が無い。そうした者のうち、神に忠誠である者は居ない。そうした者は、全て神を見るが神を得ず、それゆえ神により咎められる者である。

聖霊は、各人に対して、歩むべき道を用意し、完全にされる機会を与える。あなたがたは、自らの否定性により自らの堕落を知らしめられ、その後否定性を払拭することにより実践の道を見いだすが、それがあなたがたの完全化である。さらに、あなたがたは、自らの中の肯定的な物事の一部による継続的な導きと照らしによって、積極的に自らの役割を果たし、識見を増やして分別を身に付ける。あなたがたは、自らの状態が良好な時、神の言葉を読むことや神に祈ることを殊更に望み、また聞いた説教を自らの状態と関連づけることができる。そうした時、神はあなたがたの中で啓き照らし、あなたがたに肯定的側面の物事の一部を理解させる。これが肯定的側面における、あなたがたの完全化である。あなたがたは、自らが否定的な状態で、自分に神が存在しないと感じる時であっても、神はあなたがたを照らし、あなたがたが実践の道を見いだすのを支援する。そうした状態からの脱却が、否定的側面における完全化の達成である。神は肯定的側面と否定的側面の両面で人間を完全にすることが出来る。それは、あなたがたが経験出来るか、また神により完全化されることを追求するか如何により異なる。あなたがたが神により完全にされることを真に求めるならば、あなたがたが否定的側面により損失を被ることは無く、否定的側面はあなたがたに一層現実的な物事をもたらし、あなたがたの中で欠如している物事を知ること、自分の真の状態を把握すること、人間は何も持っておらず、取るに足りないことを知る事が出来るようにする。あなたがたが試練を経験しないならば、あなたがたは知らないままであり、常に自分が他人よりも高い身分にあり、優れていると感じるであろう。こうした物事により、あなたがたは、従前に遭遇した物事は全て神が行ったことであり、神により保護されている事を知るであろう。試練への真摯な取り組みにより、あなたがたは愛も真理も無く、祈りが欠如し、聖歌を歌うことが出来ない状態に陥る。そしてあなたがたは、気付かぬうちに、自分自身を知る。神には、人間を完全化する手段が多数ある。神はありとあらゆる環境を用いて人間の堕落した性情を取り扱い、様々な物事を用いて人間を暴き出す。神は、ある点に関して人間を取り扱い、別の点に関しては人間を暴き、また別の点に関しては人間を明らかにし、人間の心の奥にある「秘密」を掘り出して明示し、人間に対してその者自身の数々の状態を明らかにして本性を示す。神は、神が実践的であることを人間が知ることが出来るように、啓き、取り扱い、精錬、罰など、様々な手段で人間を完全にする。

あなたがたが現在追求している物事は、何であろうか。それは、神により完全にされることであったり、神を知ることであったり、神を得ることであったり、90年代のペトロの様式であったり、ヨブに勝る信仰であったりするであろう。あなたがたは、神に義であると呼ばれて神の王座の前に到達することであれ、神を地に表して神の強く明白な証しに立つことであれ、多くの物事を追求することが出来る。あなたがたが何を追求するかを問わず、全体として、それは神の統御計画のためである。あなたがたが義なる者となることを求めるか、ペトロの様式を求めるか、ヨブの信仰を求めるか、神により完全にされることを求めるかを問わず、それは究極的には神の業である。換言すると、あなたがたが求める物事を問わず、それは全て神に完全にされるため、神の言葉を経験するため、神の心を満たすためのものであり、それは全て、自分の反抗的性情を払拭し、自分の中で正常な状態を実現し、神の旨に完全に準拠出来るようになり、正しい人間となり、あらゆる行動において正しい動機を持つことを目的として、神の愛しさを見出すため、実経験の中で実践の道を見出すためのものである。あなたがたがこうした物事全てを経験する動機は、神の知識取得といのちの成長の実現に達することである。あなたがたが経験するのは神の言葉であり、自分の周囲の実際の出来事であり、人々であり、問題や物事であるが、最終的にあなたがたは神を知り、神により完全にされることができる。義なる者の道を歩むことや、神の言葉を実践することを望むのであれば、こうした物事が、その踏み台である。神を知り、神により完全にされることが終着点である。現在、あなたがたが求めているのが、神による完全化であるか、神のために証しに立つことであるかを問わず、それは最終的に神を知るため、あなたがたの中で神が行う業が無駄にならないようにするため、あなたがたが最終的に神の現実性、神の偉大さを知るため、そしてそれ以上に、神の慎ましさと隠逸性を知り、神があなたがたに対して行う数多くの業を知るためである。神は、汚れて堕落した人間の中で業を行い、この集団の人々を完全にするために、ある程度慎ましくしている。神は人間の中で飲食するため、人々を導くため、人々に必要な物事を授けるためだけに受肉したのではない。それ以上に重要な事は、耐えがたいほど堕落した人々を救い、征服する大規模な業を行うということである。神は、全ての者が変化して一新するよう、最も堕落した人々に業を行うために、赤い大きな竜の真っ直中に来た。神が受けた苦難は、受肉した神が受けたものだけでなく、専ら神の霊が受けた極度の屈辱である。神は大いに慎みを深めて隠れたので、凡人となっている。神は、神が正常な人間の生活を送り、正常な人間に必要とされる物事を備えていることを人々が理解できるよう、受肉して肉の姿となっている。神がある程度慎みを深めたことは、これで十分証明される。神の霊が肉の姿で現れている。神の霊は極めて高貴かつ偉大であるが、神は神の霊の業を行うため、取るに足りない凡人の姿となっている。あなたがた各人の能力、識見、理知、人間性、そしていのちは、あなたがたが明らかにこの種の神の業を受ける価値が無いことを示している。あなたがたのためにそうした苦難を神に受けさせるだけの価値は、あなたがたには無い。神は極めて偉大である。神は至高の存在であり、人間は極めて卑しく下等であるが、それでも神はそうした人間に業を行う。神は受肉して人間に恵みを与え、人間と話をしただけでなく、人間と一緒に生活している。神は極めて慎み深く、愛しむべき存在である。神の愛や恵みについて述べられるとすぐに、あなたがたは涙を流して大いなる讃美の言葉を述べるならば、あなたがたには神に関する真の知識がある。

昨今では、人間の追求が逸脱し、神を愛し、神を満足させることだけを追求し、神に関する知識を得ず、自らの内部における聖霊の啓き照らしを無視している。そうした者には、基礎として、神に関する真の知識を備えて居ない。そうした者は、そのような状態であるので、自らの経験が進行してゆくにつれて、活力を失う。神に関する真の知識を得ることを追求する者、従前の状態がそれほど良くなかった者、否定的になったり弱くなったりする傾向にあったもの、頻繁に涙を流した者、意欲喪失に陥った者、落胆した者は皆、一層経験を得ることにより、現在向上しつつある。取り扱いを受けて砕ける経験や精錬を体験した後、そうした者は大いに進歩を遂げた。そうした者は、そのような状態となることは二度と無く、そうした者の性情は変化を遂げ、そうした者の行動には神の愛が行動で示されている。神による人間の完全化には、神は、あなたがたの霊が解放され、あなたがたが神を一層愛すことが出来るように、あなたがたが実践の道を得て、あらゆる否定的な状態と訣別できるように、あなたがたの望ましい部分を用いてあなたがたを啓く、という法則がある。こうすることにより、あなたがたはサタンの堕落した性情を払拭出来る。あなたがたは純朴で素直であり、自分を知ることを望み、真理を実践することを望む。神は、あなたがたが自分を知ること、真理を実践することを望んでいるのを知っているので、あなたがたが弱く否定的な時にあなたがたを2倍啓き、あなたがたが一層自分を知り、自らを悔い、自分が実践すべき物事を実践出来るようになろうとするのを支援する。あなたがたの心を落ち着かせて安心させるには、この方法によるほか無い。神を知ること、自らを知る事、自らの実践に注意する者は、神の業や神による導きや啓きを頻繁に授かることが出来るであろう。否定的な状態にあったとしても、良心の働きか、あるいは神の言葉による啓きにより、その者はすぐに立ち直ることが出来る。ある者の性情の変化は、その者が自らの実際の状態と、神の性情と業を知った時、常に実現される。自らを知ること、そして自ら素直になることを望む者は、真理を実践出来るであろう。そうした者は神に忠実な者であり、神に対して忠実な者は、その知識が多い場合と少ない場合、不足している場合と豊富な場合があるが、神に関する知識がある。これが神の義であり、人間が得る物事であり、人間自らにとっての利益である。神に関する知識のある者は、根拠と構想がある者である。こうした者は神の肉、言葉、そして業に関して確信している。神が業を行う方法や話をする方法、そして他人がどのようにして阻害要因を発生させるかを問わず、その者はその根拠に基づき、神の証しに立つことが出来る。ある者がそのような状態に近ければ近いほど、その者は自分が理解した真理を一層実行出来るようになる。その者は常に神の言葉を実践しているので、神に関する知識を一層多く得て、永遠に神の証しに立つ決意がある。

あなたがたが分別を身に付け、服従し、物事を見抜く力を身に付けて、霊的に鋭敏な洞察力を身に付けていれば、何かに直面するとすぐに、神の言葉があなたがたの内部で照らし啓く。それが、霊的に鋭敏な洞察力があるということである。神が行う業は、人間の霊を復活させるためのものである。人間は愚鈍であると常に神が言うのは、なぜだろうか。それは、人間の霊が既に死んでおり、人間の愚鈍さは、人間が霊的な物事を全く意識できない状態に達している。神の業は、人間が霊的な物事を洞察し、常に神を愛して満足させることが出来るように、人間のいのちを進化させ、人間の霊に息吹を与える上で人間を支援するためのものである。こうした状態への到達は、その者の霊が復活していることを示すものであり、その者が何かに遭遇した場合、その者は即座に対応出来る。そうした者は説教に対して敏感に反応し、問題に迅速に対応する。それが、霊的に鋭敏な洞察力を得るということである。外面的事象に対して迅速に反応する者が多数居るが、真理に対する真摯な取り組みや霊的な物事の詳細に関する話になると、そうした者は直ちに愚鈍になる。そうした者は、物事が自分を睨むように顕在化した時のみ、その物事を理解する。こうした物事は、すべて霊的に愚鈍であることや、霊的な物事の経験が寡少であることの徴候である。霊的に鋭敏な洞察力と分別を身に付けている者も居る。そうした者は、自分の状態を対象とする話を聞くと即座に書き留める。そうした者は、書き留めた事柄を、その後の経験と自らの変化に適用する。それが霊的に鋭敏な洞察力のある者である。それでは、そうした者が即座に反応出来るのは何故だろうか。それは、そうした者は、日常的にそうした側面に重点を置き、そうした側面のいずれかが話題に上るとすぐに、それが自らの内面的状態と一致し、即座にそれを受け入れることが出来るからである。それは、空腹にしている者に食べ物を与えるのと同様で、そうした者はすぐに食べることが出来る。空腹でない者に食べ物を与えたならば、そうした者はそれほど迅速には反応しない。あなたがたは神に対して頻繁に祈り、したがってあなたがたは、何かに直面した際に、神がその問題に関して何を求めて居るか、自分がどう行動すべきかなどについて、即座に反応できる。神はその事柄に関してあなたがたを導いたのであり、あなたがたが現在それに類似の物事に遭遇した際、どのようにその状況に取り組み、神の御心を満たせばよいかをわきまえている。あなたがたが常にそのようにして実践し、経験するならば、ある時点で、あなたがたはそうした実践や経験に熟達するであろう。あなたがたは、神の言葉を読む時に、神がどのような者のことを指しているか、どのような霊の状態について語っているかを知り、要点を把握して実践することが出来る。それは、あなたがたが経験する能力があることを示している。そうした側面が不足している者も居るが、それは何故だろうか。それは、そうした者が実践的な側面にそれほど取り組まないからである。そうした者は真理の実践を望むものの、奉仕や生活における真理の詳細に関する真の識見を備えて居ない。そうした者は、何かが発生すると混乱する。そのようにして、にせ預言者や、にせの弟子が現れると、あなたがたは道を見失う可能性がある。分別を無視することは許されない。あなたがたは、神が業を行う方法、神が述べる事柄、神が人間に要求する事柄、自分が接するべき人々はどのような人々か、避けるべき人々はどのような人々かといった霊的な物事に常時注意する必要がある。あなたがたは、神の言葉を食べ飲みする時、そして経験の最中において、そうした物事に重点を置く必要がある。あなたがたが常にそのようにして経験するならば、あなたがたは数多くの物事を完全に理解するとともに、分別を身に付けるであろう。聖霊の罰とは何か、人間の意図から生じる非難とは何か、聖霊による導きとは何か、環境の用意とは何か、内面的啓きをもたらす神の言葉とは何かといった事柄を明瞭に理解していないならば、あなたがたは分別をわきまえないであろう。あなたがたは、聖霊に由来する物事は何か、反抗的性情とは何か、神の言葉に従う方法、自分の反逆性を払拭する方法を知るべきである。あなたがたは、何か事件があった時に、それと関連し、それと比較する真理を備え、基礎として適切な構想を備え、万事において原則を定め、真理に従って行動できるように、そうした真理の詳細を理解する必要がある。しかる後に、あなたがたの生活は神の啓きと恵みで満たされるであろう。神は、神を真摯に求める者を決して虐げない。神は、神を行動で示し、神の証しに立つ者を決して虐げず、また真理を心から渇望することの出来る者を決して呪わない。あなたがたが神の言葉を食べ飲みしている際に、自らの真の状態や実践、知識に注意を払うことが出来るならば、問題に直面した時、あなたがたは啓きを授かり、実践的知識を得るであろう。その後、あなたがたは実践の道を得て、万事の分別をわきまえるであろう。真理を身に付けた者は、欺されたり、混乱したり無駄な行動をとる可能性が低い。そうした者は、真理のおかげで守られ、一層多くの知識を得る。そうした者は、真理のおかげで一層多くの実践の道を得て、聖霊が自分の中で業を行う機会と、完全にされる機会を一層多く得る。