言葉は肉において現れる

目次

神を愛する者たちは永遠に神の光の中に生きる

大抵の人の神への信仰の実質は、宗教的な信仰である。彼らは神を愛することができず、ロボットのように神に付き従うことしかできない。心から神を求め、慕い求めることができないのだ。黙って神に付き従っているに過ぎない。多くの人は神を信じているが、神を愛している者はほとんどいない。人々が神を畏れるのは、災難を恐れているから、あるいは、神が偉大な存在だから崇めている―しかし、その畏れや尊崇には愛も、心からの思慕もない。人々は信仰体験において真理のごく小さな部分、あるいは、些細な奥義を求めることでしかない。大抵の人は単に従うだけで、混乱の中ではとにかく恵みさえ受け取れれば良いという姿勢でいる。そうした人は真理を求めない。また、神の祝福を受けるために、誠に神に従おうとはしない。人々の神への信仰生活は無意味だ。無価値で、人々はただ自身の利益と目的だけ追求する。神を愛するために神を信じているのではなく、祝福を受けるために信じているのだ。多くの人は好きなように振る舞い、心の赴くままに行動し、決して神のためも、自分のしていることが神の心に適うかどうかも考えない。そうした人は、神を愛することができないのは言うまでもなく、真の信仰を持つことさえ出来ない。神の本質は、ただ人間が信じるためだけのものではない。それ以上に、愛すべきものなのだ。しかし、神を信じる者の多くは、この「秘密」を見いだすことができず、神を愛そうとせず、また、愛そうと試みることもない。人々は神には愛すべき点が数多くあることを見つけだしておらず、神が人間を愛していること、人間にとって神が愛すべき存在であることを見つけだしていない。神の優れている点は、その働きに示されている。神の業を経験してはじめて、人は神のすばらしさを見つけだす。実際に体験してはじめて、神のすばらしさを認識するのであって、実際に体験することがなければ、誰一人神のすばらしさを見つけだせない。神の敬愛するべき点はまことに数多いのに、実際に神に触れることがなければ、人々はそれを見つけだせない。それはつまり、もし神が受肉しなければ、人々は実際に神に触れることができず、神に触れることができなければ、その働きを経験することができず、そこで、人々の神への愛には偽りや想像が介在することになる。天にいる神への愛は、地上にいる神への愛ほどの真実味がない。天にいる神についての認識は、その目で見たり実際に体験したりしたことではなく、想像によるものだからだ。神が地上に来ると、人々は神の業とすばらしさをその目で見られる。神の実際的で正常な性質のすべてを見られるのだ。それらはみな、天にいる神についての認識より数千倍も現実的なものなのだ。人々が天の神をどれほど愛そうと、その愛に真実は何もない。人間の考えたものばかりだ。地上にいる神への愛がどれほどささやかなものであっても、その愛は実際的である。たとえごくわずかであっても、それでも現実のものなのだ。神は実際の働きを通して人々に自分を知らせになる。そして、その知識によって人々の愛を得られる。これはペテロと同じことだ。もし彼がイエスと共に暮らしたことがなければ、イエスを愛することは不可能だったろう。ペテロのイエスへの忠誠心もまた同じで、イエスとの交わりを通して築かれたものだ。人間が自分を愛するようになるため、神はおいでになって人々と共に生きた。そして人々が見て経験するものはみな、神の実際なのである。

神は現実と事実を用いて、人々を完全にする。神の言葉は、人間を完全にするための働きの一部であり、これは導きの働き、道を開かれるということなのだ。いわば、神の言葉によって人は実践の道を見出し、ビジョンに対する認識を見出さなければいけないのだ。これらのことを理解していれば、実践の中に道とビジョンを得、神の言葉によって啓くことができよう。これらのことは神から出たものであると理解し、多くを識別できる。理解した後、ただちにこの現実に入り、神の言葉によって、現実の生活において神を満足させなければならない。神は、あらゆることであなたを導き、実践の道を示し、神のすばらしさを感じさせ、神の働きのあらゆるもの全ては、あなたを完全にするためのものであることが理解できるようにしてくれる。もし神の愛を知りたいのなら、もし神の愛を真に体験したいのなら、現実に深く入らなければならず、現実の生活に深く入らなければならない。そして、神のすることはみな愛であり、救いであり、人間が汚れたものを捨て去り、内にある神の心を満たすことのできないものを練られるようにするためだということを理解しなければならない。神は、人間にいのちを供給するために言葉を用いる。また、人間が体験できるよう、現実の環境を創る。そして、もし人間が神の言葉を多く飲食するならば、それを実践したとき、神の言葉を用いれば、現実の問題をみな解決できる。つまり、現実を深く入るには、神の言葉を身につけていなければいけないということなのだ。神の言葉を飲み食いしなければ、また、神の働きがなければ、生きるうえでの道を見いだすことがない。神の言葉を飲み食いすることがなければ、何か起こった時に惑うことになる。神を愛することだけを知り、識別することを知らなければ、また、実践の道を知らなければ、あなたは惑い、混乱して、時には肉の欲求を満たすことが神の心にかなうことだと思い込む。こうしたことはみな、神の言葉を飲み食いしていないから起こることなのだ。つまり、神の言葉を助けにすることなく、現実の中で手探りしているだけでは、根本的に実践の道を見出すことができないのだ。こうした人は、神を信じるということがどういうことなのかを全く知らず、まして、神を愛するということがどういうことかを理解していない。もし神の言葉の啓きと導きとに従ってしばしば祈り、探り、求め、それによって実践すべき事柄を見いだし、聖霊の働きの機会をみつけ、真に神と協力し、惑い混乱することがないなら、現実の生活に道を見出し、本当に神を満足させることになる。神を満足させれば、あなたの心の内に神の導きがあり、神から格別の祝福を受ける。すると、喜びを覚える。あなたは神を満足させたことを特に光栄に感じ、特に内に光を感じ、心は明瞭で安らかである。意識は穏やかで、責められることがない。また、兄弟姉妹を見ると、心楽しい。これが神の愛を享受するということであり、これだけが真に神を喜ぶということなのだ。神の愛を享受するということは経験によって得られる。苦難を経験し、真理を実践し、神の祝福を受ける。神が本当に愛してくれると神は人々に重い代価を払い、神は忍耐強く、やさしく多くの言葉を話し、いつでも人々を救ってくれると口にするだけなら、あなたが言うこれらの言葉は神にある喜びの一面に過ぎない。もっと現実的な喜びは、真理を現実の生活で実践することだ。そうすると、心は安らかで明晰になり、内に深い感動を覚えるだろう。そして、神はほんとうにすばらしいお方で、自分の払った代価は十分に価値あるものだと感じるだろう。大きな代償を払って努力したあなたは、とりわけ明るい気持ちになるだろう。自分が真に神の愛を受けていて、神が人々に救いの働きをし、神が人々を練るのは清めるためであり、神が人々を試すのは、本当に神自身を愛しているかどうかを調べるためだということがわかるのだ。もしあなたがいつでもこのように真理を実践するなら、徐々に神の働きについての明確な認識を身につけ、そうしたときいつでも、神の言葉が水晶のように明瞭であると感じるようになる。多くの真理を明確に理解できるなら、すべてのことは容易に実践でき、問題を乗り越え、誘惑に打ち勝てると感じ、また、困難なことは何もないとわかる。そうすると、ほんとうに解放され、自由な状態になる。そのとき、あなたは神の愛を享受し、神の真の愛があなたのものになる。神はビジョンを持つ者、真理を得、認識を得、心から神を愛する者を祝福する。神の愛を得たいのなら、日々の生活の中で真理を実践しなければいけない。進んで苦痛に耐え、愛するものを捨てて神を満足させ、たとえ涙することがあっても、神の心を満足させるのでなければいけない。そうすれば、神は必ずあなたを祝福する。そして、もしそうした困難を耐え忍ぶなら、聖霊の働きが行われるだろう。現実の生活の中で神の言葉を経験することで、人々は神の愛すべきことがわかるのであり、神の愛を経験してはじめて、人は真に神を愛せるのだ。

真理を実践するほど、より多くの真理を得る。真理を実践すればするほど、より神の愛を得る。そして、真理を実践すればするほど、神の祝福を受ける。いつでもこのように実践するなら、徐々に神の愛を内に見出し、ペテロがそうだったように、神を知るようになる。ペテロは、神が天地万物を創造する知恵をもっているだけではなく、そのうえ、人々の中で実際的な働きを行う知恵を持っていると語っている。ペテロは、神が天地万物を創造したから人々の愛にふさわしいだけではなく、そのうえ、人間を創り、人間を救い、人間を完全にし、人間に愛を与えてくれる力がありだから人々の愛にふさわしいのだと述べている。だから、ペテロは、神には人間の愛を受けるに値する点が数多くあるとも言うのである。ペテロはイエスに言った。「主は、天地万物を創られた以上に人々に愛されるにふさわしいのではありませんか。あなたが愛されるべきに他の理由はあなたの中にあります。あなたは現実の生活の中で働き、動いておられます。あなたの御霊はわたしの内に触れ、わたしを懲らしめ、わたしを咎められます。こうしたことは、ずっと、人々の愛にふさわしいのではありませんか。」神の愛を見、経験したいと望むのなら、それを現実の生活の中で探し、求めなければならない。そして、進んで自分の肉を捨てなければならない。このように心を定めることができなければならない。固く決心し、あらゆる点で神の心にかない、怠ることなく、肉の喜びに貪欲にならず、肉のためではなく神のために生きることのできる者でいなさい。あなたが神の心にかなわない時もあるだろう。それは、神の心を理解していないからだ。次にはもっと努力が必要であっても、神に満足してもらえるようにしなさい。肉の欲望を満たそうとしてはいけない。このようにして経験していくと、神を知るようになる。神が天地万物を創造したことを知り、人々がほんとうに実際に彼を見、実際に交流することのできるよう、また、神が人々の間を歩きその霊が現実の生活の中で人々を完全にできるよう、人間が神のすばらしさを見て、その鍛えや懲らしめ、祝福を経験できるようになるために受肉したことがわかるようになる。いつでもこのような経験をしていれば、現実に神と分かち難くなり、いつの日か、神との関係が正常のものではなくなる場合、叱責を耐えることができ、悔いる気持ちを覚えるようになる。神と正常な関係にあるときは、決して神と離れようと思わず、ある日、神が去ろうと言われるようなことがあれば、恐れ、神と離れるよりは死にたいと言うだろう。そうした感情を持つとすぐに、神と離れることはできないのだと感じ、そうして基礎ができ、真に神の愛を享受できる。

人々はよく、神が自分のいのちだと言うが、まだそうなるところまで経験していない。人々は単に神が自分のいのちであり、毎日自分を導いてくれる。自分たちは毎日神の言葉を飲み食いし、毎日神に祈っているのだから、神が自分のいのちになってきていると言う。こうしたことを言う人々の認識は表面的なものに過ぎない。多くの人々は基礎ができていない。神の言葉は植えつけられたが、まだ芽を出しておらず、まして実を結んでなどいない。今日、どの程度まで経験しているだろうか。ここまで神が強引に連れてきてやっと、神と離れることはできないと感じているのだろうか。いつか、一定のところまで経験したところで、神があなたを去らせようとするなら、あなたは立ち去ることができなくなるだろう。あなたはいつでも、神がいなければ生きていられないと心の中に感じるだろう。夫や妻、子供、家族、父母、肉の喜びはなくとも生きることはできるだろう、しかし、神なしでは、いられない。神なしでいるのは命を失うようなもので、神なしでは生きていられない。こういう状態になるまで経験を積むと、神への信仰の到達点の一つに至ったと言える。そして、このようにして神はその人のいのちとなり、存在の基礎となると、決して二度と神と離れることができない。こうしたところに至った人は、真に神の愛を喜んでいる。神との関係は真に密接になり、神があなたのいのち、愛となり、あなたはこう祈る。おお、神よ。あなたから離れることができません。あなたはわたしのいのちです。他のすべてがなくともやっていけます。でも、神なしでは、生きていけません。これが人々の真の姿、これがまことのいのちである。中には、今日まで、強制されてきた人々もいる。その人たちは望むと望まざるとに関わらず進まなければいけない。その人たちは、いつでも苦難の板挟みなっていると感じる。神が自分のいのちであること、神を奪われることは、命を失うようなものであることを経験しなければいけない。神は自分にとっていのちであって、神から離れることはできないという状態でなければならない。そうすれば、ほんとうに神を経験することができ、その時に、再び神を愛するようになれば、真に神を愛すのであり、それは唯一の純粋な愛であるだろう。いつの日か、そうした経験をして、いのちのある点に至り、神に祈り、神の言葉を飲み食いし、心が神を離れることができず、たとえそうしたいと思っても、神を忘れることができない。神はあなたのいのちになる。世界を忘れることはできる。妻や子供を忘れることはできる。しかし、神を忘れるのは難しいだろう。不可能なのだ。それがあなたの真のいのちであり、神への真の愛なのだ。神への愛がある点に至ると、他のどんなものへの愛も神への愛には及ばなくなる。神が最も愛するものなのであり、そうなると、あなたは他のすべてを捨て去れる。そして、神からなら、どんな取り扱いも刈り込みも受け入れられるようになる。神への愛が他のすべてより重要になったなら、あなたは現実の中に神の愛の内に生きるようになる。

人々の内で神がいのちになるやいなや、神を離れることはできなくなる。それは神の業ではないのだろうか。これ以上の証しはない。神は一定のところまで働いた。神は人々に、仕えよ、罰を受けよ、あるいは死ねと言ったが、人々は退いていない。このことは、そうした人々が神に征服されていることを示している。真理を持っている人々は、実体験から証しに固く立つことができ、その信仰的立場をしっかりと守り、神の側に立ち、決して退くことがなく、神を愛する他の人々と正常な関係を持つことができ、自分達に何かが起こった時は、完全に神に従い、そして死にまでも神に従う。日々の生活におけるあなたの実践と表現は神への証しであり、教えを実践することであり、神への証しなのであり、それが真に神の愛を享受しているということなのだ。この点まで経験を重ねてくると、その経験は成果を生み出すようになる。真に神の愛を見た者は、教えを実践している者であり、その行いがみな他の人々から賞賛の目で見られ、外見は凡庸であっても、最上の敬虔な生き方をしているのであり、神の言葉を交わり、神に導かれ、神の啓示を受け、自分の言葉で神の心を語ることができ、現実的なことを語ることができ、霊において奉仕することを深く理解し、自然と語り、礼儀正しく高潔で、争うことがなく、品があって、何か起こった場合には、神の按配に従うことができ、証しに固く立つことができ、また、どんな場合にも穏やかで落ち着いていられる。また、まだ若くとも、年配の人のように振る舞う人々もいる。そうした人は成熟しており、真理を把握していて、他の人々から尊敬を受ける。そうした人々は、証しをすることができ、神の存在を示すことができる。それはつまり、ある程度の経験を積むと、心の中に神について理解力が養われ、そこで、外に現れる性質もまた、安定するのだ。多くの人は真理を実践せず、証しに立つことができない。そうした人には、神の愛、神についての証しが欠けているのだが、神はそうした人々を最も嫌われる。彼らは神の言葉を飲み食いするが、表に現れるのはサタンであって、神の言葉をサタンが汚すのを許しているのだ。そうした人々の内には、神の愛がかけらもない。彼らが表現するものは全てサタンから出ている。もし心がいつでも神の前で安らかであるなら、また、周囲の人々や物事、あるいは、自分の周りで起こっていることに常に注意を払っていて、神の負っているものについて心を留めているのなら、また、いつでも神を畏れ敬う心をもっているなら、神はあなたの心の中で教え導いてくれる。教会には「監督者」であるものがいて、他の人々の過ちに殊更注意を払い、それを真似て見せる。彼らは物事を識別できず、罪を憎まず、サタンに関わることを嫌いも不快に思いもしない。そうした人々はサタンの事がらに満たされており、ついには神から完全に見放されるだろう。ビジョンを基礎とし、進歩を求める人々は、神の前に畏敬の心をもち、言葉や行いが穏やかで、神に敵対したり、神を怒らせたり、あるいは、神の内なる働きを無にしたり、それまでに経てきた苦難や実践してきたことすべてを無にしたりすることを決して望まない。そうした人々には、進んでそれまで以上の努力を注ぎ、もっと神を愛そうという気持ちを持っている。

もし人々が神を畏れる心で神を信じ、神の言葉を経験するなら、そうした人々には神の救いや神の愛がもたらされる。そうした人々は神を証しすることができ、真理に生き、真理、神であるすべて、神の性質について証しし、神の愛に包まれ、神の愛を知っている。もし神を愛したいと願うのなら、神の愛すべきことを経験し、神の愛すべきことを理解しなければならない。そうしてはじめて、神を愛する心、忠実に神に仕えようという思いが生じる。神は文字、あるいは想像力に訴えて人々が神を愛せよとはさせない。神は自身を愛することを人々に強いない。むしろ、人々が自ら進んで神を愛するようにするのだ。自分の働きと言葉の内にその愛すべきことを見るようにし、その後で、神への愛が生まれるようにするのだ。そのようにしてはじめて、人々は真に神を証しできる。人々は、他人からそうするように駆り立てられて神を愛するのではない。また、一時的な感情の衝動に動かされて愛するのでもない。人々が神を愛するのは、神の愛すべきことを見たからであり、神には人々が愛するに値するものが数多くあること、神の救いと知恵、驚くべき業を見、その結果、心から神を讃え、心から神を求め慕い、神を自分のものとしなければ生きて行けないほどの掻き立てられた情熱が芽生えるのだ。真に神を証しする人々は、神についての真の認識と心から慕う気持ちとが土台にあるからこそ、素晴らしい証しをできるのである。これは、感情に突き動かされているのではなく、神とその性質についての認識によっている。その人々は神を知るようになり、まことに神を証しし、神を求めるすべての人々に神のことを知らせ、神の愛すべきことと神の実際を知るようにしたいと感じているからである。人々の神への愛同様、その人たちの証しは自発的で真実であり、本物の意義と価値がある。これは受動的なものでも、虚しく無意味なものではない。真に神を愛する者だけが最も価値ある意義深い人生を送ることができ、そうした人々だけが真に神を信じているというのは、その人たちが神の光の中で生きており、神の働きと計画のために生きることができるからだ。彼らは闇の中で生きているのではなく、光の中で生きている。無意味な生を生きているのではなく、神の祝福を受けた生を生きているからだ。神を愛する者だけが神を証しでき、彼らだけが神の証人であり、彼らだけが神の祝福を受け、彼らだけが神からの約束を受け取る。神を愛する者は神と親しい者であり、神に愛され、神と共に幸いを享受できる。こうした人々だけが永遠に生き、また、こうした人々だけが神の顧みと守りの下、永遠に生きる。神は愛するべき対象であり、人々に愛されるにふさわしい対象だが、すべての人が神を愛せるわけではない。誰もが神を証しして、神と共に力をもつわけでもない。神を証しできるので、すべての努力を神の働きに捧げられるので、真に神を愛する者は天下のどこを歩いてもあえて敵対しようとする者がいない。また、地において力を振るい、神の民みなを支配できる。こうした人々は世界中からやって来る。話す言葉は違い、肌の色も異なっているが、その存在は同じ意味を持っている。彼らには神を愛する心があり、みな同じ証しをし、同じ決意を持ち、同じことを願っている。神を愛する者は世界中を自由に歩くことができ、神を証しする者は、全宇宙を旅できる。こうした人々が、神の愛する者であり、その人たちは神の祝福を受けており、神の光の中で永遠に生きる。