日々の神の御言葉: 神を知る | 抜粋 74

神は肉となって人の間で暮らすとき、どのような苦しみを経験しますか。それは何の苦しみですか。本当に理解している人はいますか。中には、神は大いに苦しむとか、受肉した神は神自身であるにもかかわらず、人はその本質を理解せず、いつも人間のように扱い、神を悲しませ、不当に扱われていると感じさせる、などと言う人がいます。つまり、これらのせいで、神の苦しみは本当に大きいと言うのです。また、神には汚れも罪もなかったが、人間と同じように苦しみ、人間とともに迫害や中傷や侮蔑に苛まれ、また自身に付き従う人の誤解や反抗にも苦しんだ、と言う人もいます。それゆえ、神の苦難はまことに計り知れないと言うのです。あなたがたはいま、神を真に理解していないと考えられます。実のところ、あなたがたの言う苦しみは、神にとって真の苦しみには数えられません。それよりも大きな苦しみがあるからです。では、神自身にとって真の苦しみとは何ですか。受肉した神にとって真の苦しみとは何ですか。神にとって、人間が自身を理解しないことは苦しみのうちに入らず、人々が神について何らかの誤解を抱いたり、神と考えなかったりすることも、苦しみのうちには入りません。しかし、人々は往々にして、神はひどく不当に扱われたに違いないとか、神は受肉している間、自身の実体を人類に見せることも、自身の偉大さを人が見られるようにすることもできないとか、神は平凡な肉体に身をやつしており、それは神にとって大きな責め苦に違いない、などと感じています。人々は、神の苦しみについて自分たちが理解できること、見て取れることを心に留め、ありとあらゆる形で神に同情し、神の苦しみを少しばかり賞賛することさえたびたびあります。実際には、神の苦しみに関する人々の認識と、神が本当に感じていることとの間には、違いと隔たりがあります。ここで本当のことをお話しします。神の霊であるか、受肉した神であるかを問わず、神にとって、以上の苦しみは真の苦しみではありません。では、神は実のところ何に苦しんでいますか。ここでは受肉した神の視点からのみ、神の苦しみについて話し合いましょう。

受肉して平均的な普通の人間になり、人間の中で人々と共に暮らすとき、神は人々の生存の方法、法則、哲学を見て感じることができないのでしょうか。こうした生存の方法や法則は、神にとってどう感じられますか。心の中で嫌悪感を抱くでしょうか。嫌悪感を抱くのはなぜでしょうか。人類の生存方法、生存法則とは何ですか。それらはどのような原則に基づいていますか。何を土台としていますか。人類の生き方に関係する方法や法則などはどれも、サタンの理論、知識、哲学を基に創られたものです。この種の法則にしたがって生きる人に人間性はなく、真理もありません。みな真理に逆らい、神に敵対しているのです。神の本質に目を向けると、それはサタンの理論、知識、哲学と正反対であることがわかります。神の本質は義と真理と聖さに満ち、その他の肯定的な物事の現実で溢れています。この本質をもちつつ、このような人の間で暮らす神は何を感じていますか。心の中で何を感じているのですか。苦痛に満ち溢れているのではないですか。神の心は苦痛の中にあります。誰一人理解することも経験することもできない苦痛です。神が直面し、見聞きし、経験することはどれも、全人類の堕落と邪悪、そして真理に対する反逆と反抗だからです。人間に由来する一切の物事が、神の苦しみの根源なのです。つまり、神の本質は堕落した人間とは異なるため、人間の堕落が神の最も大きい苦しみの源になるのです。神は受肉するとき、自身と共通の言語をもつ人を見つけることができますか。人類の中に、そうした人を見つけることはできません。神と意思疎通することができたり、対話できたりする人を見つけることはできないのです。それについて、神はどのような感情を抱いているでしょうか。人々が語り合い、愛し、追い求め、切望する物事はどれも、罪と悪しき傾向に関係しています。神がこうした物事に直面すれば、それは神の心にとって刃のようなものではありませんか。こうした物事に直面して、神は心の中で喜べるでしょうか。慰めを見つけることができるでしょうか。神と共に暮らしている人たちは、反逆と邪悪に満ちています。そうであれば、神の心が苦しまずにいられるでしょうか。実際のところ、この苦しみはどれほど大きいものですか。誰がそれを気にかけますか。誰が心を留めますか。誰がそれを理解できますか。人々には神の心を理解する術がありません。神の苦しみは人々がとりわけ理解できないことであり、人間の冷たさと愚鈍により、神の苦しみはいっそう深まるのです。

「きつねには穴があり、鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」という聖書の聖句があるために、しばしばキリストの苦境に同情する人がいます。人々はこれを聞いて心に留め、それは神が堪え忍んだ最大の苦しみ、キリストが堪え忍んだ最大の苦しみだと信じます。さて、事実という観点から見た場合、本当にそうでしょうか。違います。神はそうした困難を苦しみとは考えません。肉の困難のせいで、神が不当な扱いに声をあげたことはなく、人間に何らかの報いや代価を求めたこともありません。しかし、人類に関する一切のことや、堕落した人間の堕落した生活と邪悪を目にしたり、人類がサタンの手中にあって囚われの身となり、そこから逃れられないのを目の当たりにしたり、罪の中で暮らす人々が真理とは何か知らないのを見たとき、神はそれらの罪を大目に見ることができません。人間に対する神の嫌悪は日ごとに増していきますが、神はそれに耐えなければなりません。これが神の大いなる苦しみです。神は自身に付き従う者に対し、心の声や感情を完全に表わすことさえできず、また神に付き従う人の中に、神の苦しみを真に理解できる人はいません。誰一人として、毎日、毎年、そして幾度となくこの苦しみを耐え忍んでいる神の心を理解し、慰めようとすらしないのです。このことから何がわかりますか。神は自身が授けた物事について、その見返りを人間に求めることはありませんが、自身の本質のゆえに、人間の邪悪、堕落、罪を大目に見ることが絶対にできず、極度の嫌悪と憎悪を覚え、そのため心身ともに果てしない苦しみを耐え忍んでいるのです。あなたがたにそれがわかりますか。あなたがたの中にこれがわかる人はいないでしょう。誰一人、神を真に理解することができないからです。あなたがたは時間をかけて、徐々にそれを経験しなければなりません。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 3」(『言葉』第2巻)より

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