日々の神の御言葉: 神の働きを認識する | 抜粋 151
神はサタンを倒すために人々の管理を使う。人々を堕落させることにより、サタンは人々の運命を終わらせ、神の働きを阻害する。一方、神の働きは人間への救いである。神自身の働きの中で人間を救うためでないものは、どの段階にも存在しない。人々を清め、彼らに正しいことを行わせ、愛されうるイメ…
終わりの日の働きにおいて、言葉はしるしや不思議の顕示よりも力強く、言葉の権威はしるしや不思議の権威を超越する。言葉は人の心に深く埋もれた堕落した性質を残らず暴く。あなたには自分でそれらを認識する術がない。それらが言葉を通じて暴かれるとき、あなたは当然それを見つけるが、否定することはできず、完全に納得するだろう。これが言葉の権威ではないのか。これが現在の言葉の働きによって得られる成果である。したがって、病を癒したり悪霊を追い出したりすることで、人が罪から完全に救われることはなく、またしるしや不思議を示すことで人がすっかり完全にされることもないのである。病を癒したり悪霊を追い出したりする権威は人に恵みを与えるだけで、人の肉は依然としてサタンに属し、堕落したサタン的性質は依然として人の中に残っている。言い換えると、まだ清められていないものは依然として罪と汚れに属しているのである。人は言葉によって清められて初めて、神のものとされ、聖いものとなる。悪霊が人から追い出されたとき、あるいは人が贖われたとき、それはサタンの手から人をもぎ取り、神のもとに戻したという意味でしかなかった。神によって清められておらず、変えられてもいないなら、人は堕落したままである。人の中には汚れ、敵対心、そして反抗心が依然として存在する。人は神による贖いを通じて神のもとに立ち返っただけで、神についての認識が一切なく、依然として神に抵抗し、神を裏切ることができる。人が贖われる前、サタンの害毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。そしてサタンによって何千年も堕落させられてきた人間には、神に抵抗する本性がすでに定着していた。だからこそ、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られるという贖い以上のものではなく、人の中の害毒に満ちた本性は取り除かれていなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるのにふさわしくなる前に変化を経なければならない。この裁きと刑罰の働きによって、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして完全に変わり、清くなることができる。この方法でしか、人は神の玉座の前へと戻るのにふさわしくなることができない。今日なされるすべての働きは、人が清められて変わるためのものである。言葉による裁きと刑罰、そして精錬を通じ、人は自分の堕落を一掃して清められることが可能になる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言ったほうが適切だろう。事実、この段階は救いの働きの第二段階であるとともに征服の段階でもある。人は言葉による裁きと刑罰を通じて神のものとされる。また言葉を用いて精錬し、裁き、露わにすることで、人の心にある汚れ、観念、動機、そして個人的な願望がすべて完全に暴かれる。人は贖われ、罪を赦されたが、それによって見なし得るのは、神は人の過ちを記憶せず、その過ちに応じて人を取り扱わないということだけである。しかし、肉体において生きる人間が罪から解放されていないと、人は罪を犯し続けることしかできず、堕落したサタン的性質をどこまでも示し続ける。これが人の送る生活であり、罪を犯しては赦されるという終わりのないサイクルなのである。人類の大多数は昼間に罪を犯し、夜になると告白するだけである。このように、たとえ罪の捧げ物が人のために永久に有効だとしても、それで人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人にはいまだ堕落した性質があるからである。たとえば、自分たちがモアブの子孫であることに気づいた人々は、不満の言葉を述べ、いのちを追い求めることをやめ、すっかり否定的になってしまった。これは、人々がいまだ神の支配に完全に服従できないでいることを示しているのではないか。これがまさに、人々の堕落したサタン的性質ではないのか。あなたが刑罰を受けていなかったとき、あなたの手は他の誰よりも高く、イエスの手よりも高く上げられていた。そしてあなたは大声で叫んだ。「神の愛する子になりたまえ。神と心を通わす者になりたまえ。サタンにひれ伏すくらいなら死ぬほうがましだ。あのいまいましい悪魔に対抗したまえ。赤い大きな竜に対抗したまえ。どうか赤い大きな竜が惨めにも完全に権力の座から落ちるように。どうか神が私たちを完全にするように」。あなたの叫び声は他の誰よりも大きかった。しかし、刑罰の時が訪れ、人間の堕落した性質が再び明らかになった。やがて人々の叫びは途絶え、彼らの決意は失われた。これが人間の堕落である。それは罪より根深く、サタンによって植えつけられ、人の奥深くに根ざしたものである。人が自分の罪に気づくのは容易なことではない。人には自分に深く根ざした本性を認識する術がなく、そうするには言葉による裁きに頼らなければならない。そうして初めて、人はその時点から次第に変わってゆくのである。人が過去にそう叫んだのは、自分本来の堕落した性質を認識していなかったからである。これが人間の中に存在する不純なものである。これほど長期間にわたる裁きと刑罰の中、人間はずっと緊張状態の中で生きた。これはすべて言葉によって成し遂げられたのではなかったか。効力者の試練に先立ち、あなたも大声で叫んだのではないか。「神の国に入れ。この名を受け入れる者はみな、神の国に入るだろう。誰もが神にあずかるだろう」と。効力者の試練が訪れたとき、あなたはもはや叫ばなかった。初めは誰もが、「ああ、神よ。あなたが私をいかなる場所に置かれようと、私はあなたの導かれるままに従います」と叫んだ。「誰がわたしのパウロになるのか」という神の言葉を読んだ人々は、「私がなります」と言った。次いで「ヨブの信仰についてはどうか」という言葉を目にして、「ヨブの信仰を身につけようと思います。神よ、どうか私を試してください」と言った。効力者の試練が訪れたとき、人々はすぐさま崩れ落ち、再び立ち上がることもままならなかった。その後、彼らの心の中の不純なものは少しずつ減っていった。これは言葉を通じて成し遂げられたのではないか。したがって、あなたがたが今日経験してきたことは、言葉によって達成された成果であり、イエスによるしるしや不思議の働きを通じて達成された成果よりもさらに大きなものである。あなたが目にする神の栄光と神自身の権威は、磔刑を通じて、あるいは病を癒して悪霊を追い払うことによって見えるだけでなく、神の言葉の裁きを通じてさらにはっきり見えるのである。そのことは、神の権威と力がしるしの働きだけ、あるいは病を癒して悪霊を追い払うことだけから成っているのではなく、神の言葉の裁きが神の権威をよりよく表わし、神の全能をよりよく明らかにできることを示している。
『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」(『言葉』第1巻)より
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伝統文化と迷信には、多くの類似点がありますが、具体的な伝説や暗示、典拠などがあるのは、伝統文化のみです。サタンは民間伝承や歴史書にある物語を数多く作り上げて、人間に伝統文化や迷信の登場人物などを深く印象付けています。例としては、中国の八仙過海、西遊記、玉皇大帝、ナーザの大暴れ、封…
一旦、征服の働きが完成すると、人は美しい世界に連れて行かれる。もちろん、この生活はまだ地上にあるが、今日の人の生活とは全く似ていない。それは全人類が征服された後の生活で、地上の人間にとって新しい始まりであり、人類にとってそのような生活を送ることは、彼らが新しく美しい領域に入ったと…
神がソドムを滅ぼしたときの聖書の場面を思い出してみるがよい。ロトの妻がどうして塩の柱になったかも考えてみるがよい。ニネベの人々が荒布をまとい、灰の中に座していかに罪を悔い改めたかを思い返し、二千年前にユダヤ人たちがイエスを十字架に釘づけにしたあと何が起きたかを思い起こしてみるがよ…