27. 主との再会

堅定(アメリカ)

私はカトリックの家庭に生まれ、小さな時から母に聖書を読むように教えられました。中国共産党が内戦の後に国家を建て直している時代で、党があらゆる宗教を抑圧していたこともあり、私が教会に行って説教を聴くことができたのは二十歳になってからでした。司祭はよくこう言っていました。「私たちカトリック教徒は、自分の罪をちゃんと告白して悔い改めなければなりません。悪ではなく善を行ない、ミサには必ず参列しなければなりません。終末の日には、主が降臨されて全ての者をお裁きになり、ふるまいに応じて人々を天国か地獄にお送りになります。最悪の罪人は地獄で永遠の罰を受けますが、小さな罪を犯した者は、その罪を主に告白して悔い改めるのであれば、まだ天国に行くことができます。主を信じない者は、どんな善人であろうとも天国に辿り着くことはありません」。これを聞いたとき、私は自分がカトリックの信仰のもとに生まれた幸運を喜びました。地獄で苦しまず天国に行けるように真剣に探求し、もっとひんぱんにミサに参列して、主に罪を告白して悔い改めようと自分に言い聞かせました。定期的に教会に行ってミサに参加する決意を固めたのはこの時でした。また司祭はそのとき主は2000年に戻って来られるとも言いました。みんなそれを聞いて大喜びし、主の再臨を待ちながらそれぞれが従事していることにとても熱心に取り組むようになりました。しかし、2000年がやって来て過ぎ去っても、主の再臨の兆しは全くありませんでした。私の教会の信者の多くは信仰を失い、ミサに来る人はどんどん減っていきました。私もがっかりしましたが、他の人がどうであれ、私の主への信仰心が揺らぐことはないと感じていました。なぜなら、私はそれまでに何度も主のご加護によって危機を安全に回避するという経験をしていたからです。主のご加護がなければ、私はずっと前に死んでしまっていたに違いないので、主への信仰を失うような恩知らずなことをするつもりもなかったのです。

その後、私は周りの人達からアメリカは「地上の楽園」だと聞き、そこに言ってみたいと強く思うようになりました。そこで2014年の12月、一家全員でアメリカへ移住することになったのですが、アメリカでの実際の生活は心に思い描いていた美しいものとは全く違っていました。最初は、アメリカでの何もかもが未知のものでした。私たちは見知らぬ国に来たよそ者だったのです。環境も気候も慣れ親しんだ中国とは全く違い、私はじきに体調を崩すようになりました。身体が弱って怠く、完全に元気を失うことがよくあったのですが、医者に診てもらってもどこにも異常は見つかりませんでした。どうしようもなくなった私は、主のご加護を得ようと、さらに真摯に祈るようになりました。祈りを続けながら、私はミサに参列できる教会を探し始め、やがて中華系キリスト教会を見つけました。しかし、何度か訪れたあと、私は教会は日常的な社会とそんなに変わらないと気づきました。教会員たちは表面的には友好的でしたが、その関係は権力とお金に支配されていたのです。こんな状況を教会の中で見たことには本当に失望しました。私は心の中で思いました。「あぁ、主よ。いつお戻りになるのですか?主がお戻りになれば、善人は悪人から分けられ、世界は浄化されるでしょう」。ミサには行き続けましたが、神の臨在を教会で感じることはどうしてもできませんでした。そのせいで私はよくがっかりして落ちこみ、私の信仰にも影響を及ぼしました。

2015年7月のある日、州外で働いていた私に妻が電話をかけてきました。妻は興奮して言いました。「主がお戻りになったの。御言葉を発せられて、終わりの日における裁きの働きをなさっているのよ!一緒に神様の新しい働きを受け入れられるように、すぐに帰ってきて」。これを聞いて、私は少し疑り深くならずにはいられませんでした。「主がお戻りになられたって?どうしてそんなことが可能なんだ?主がお戻りになるのは、世界を裁いて、善を悪からお分けになるときだ。でも善と悪は今もごちゃ混ぜだ。なぜ妻は主がお戻りになったなんて言ってるのだろう?別の信仰でも見つけたのか?これまでずっとカトリックだったのに、その道を今になって外れることなんてありえない!」そう思った私は早々に仕事を済ませて、家に帰ったのです。

家に戻るとすぐ私は妻に尋ねました。「どうして主がお戻りになられたってわかるんだい?信仰の道を外れてしまったんじゃないだろうね?主が裁きの働きをなさるためにお戻りになったと君は言うが、今でも善と悪はごちゃ混ぜのままだし、それがどうして主がもうお戻りになられているという事になるって言うんだい?主の再臨をお待ちするのはいいけれど、主を裏切るようなことはできないよ!」妻は私の言い分を聞いた上で辛抱強く答えました。「大丈夫、心配しないで。私も主の再臨については今知ったばかりなの。全能神教会がいま主の再臨の証しを立てていて、全能神が神の家から始まる裁きの働きをなさるために真理を表されているの。私は細かいことまではわからないけど、全能神が表されたお言葉をネットでたくさん読んでみて、私はそれが全て神様の声だって確信しているの。主は『わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。(ヨハネによる福音書 10:27)とおっしゃった。全能神が再臨された主かどうか、一緒に全能神教会に行って見てみればわかる。そうでしょう?」妻の言い分は理にかなっていたし、主が裁きの働きをなさるためにお戻りになるということも聖書の預言に則していたので、妻と一緒に教会を見に行っても問題はなく、それから決断すればよい、と思いました。

そこで妻と私は張さんという全能神教会の兄弟の家にお邪魔しました。王さんや李さんなど、他のカトリックの兄弟姉妹も何人か同行しました。仲間が大勢いたことで、私は大いに安心しました。形式的な挨拶が済むとみんな席につき、私は兄弟姉妹たちに尋ねました。「主がお戻りになって裁きの働きをなさるとき、善人は悪人から分けられ、善人は天国で主に迎えていただき、お目にかかることができるが、悪人は地獄に落とされて罰を受ける。私は主の再臨をそう理解しています。あなたは主がお戻りで裁きの働きをなさっているとおっしゃるが、そういったことが起きるのを我々が目にしていないのはいったいどういうことでしょうか?」王兄弟が答えました。「堅さん、私もかつては同じ事を考えていました。また、主の再臨とは善人が悪人から分けられ、善人は天国でとこしえに生き、悪人は罰せられることを意味していて、そういった事が起きているのを目にしないということは主がお戻りになられていないということの証しだと考えていました。でも、全能神の御言葉を読んでみて、それらが私たちの観念や想像でしかなく、神の働きの現実ではなかったことに気づいたのです。終わりの日において神が裁きの働きをなさる方法は、神のみが計画し準備なさるものです。神の知恵は天界を凌駕し、神の目には人間は塵の一片ほどの小ささなのに、どうして私たちが神の働きを推し量ることができるでしょうか?聖書にはこうあります。『だれが、主の霊を導き、その相談役となって主を教えたか』(イザヤ書 40:13)。『見よ、もろもろの国民は、おけの一しずくのように、はかりの上のちりのように思われる。見よ、主は島々を、ほこりのようにあげられる』(イザヤ書 40:15)。私たちはみなそれぞれの頭の中に考えがあるので、神の働きについて好きなようにあれこれと憶測することができますが、神が私たちの想像に従って働きをなさることは絶対にありません。もし私たちが想像で神の働きの限界を決めてしまったら、それはとても傲慢なことではありませんか?では、神はどのように裁きの働きをなさるのでしょう?どのように善人を悪人からお分けになるのでしょうか?それを理解するために、全能神の御言葉から何節か読んでみましょう。全能神はこう言われています。『裁きの働きは神自身の働きであり、そのため当然ながら神が自ら行わなければならない。それは神の代わりに人が行うことはできない。裁きとは真理を用いて人類を征服することなので、この働きを人のあいだで行うために神が受肉した姿で再び現れることは疑いもないことである。つまり、終わりの日においてキリストは真理を用いて世界各地の人々を教え、彼らにあらゆる真理を知らしめる。これが神の裁きの働きである(『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」〔『言葉』第1巻〕)。『終わりの日はすでに来ている。すべての被造物は種類ごとに選り分けられ、その本性を基にして異なる種類に分けられる。その瞬間、神は人の結末と終着点を明らかにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、その人の不従順と不義を暴く術はない。刑罰と裁きを通じてでなければ、すべての被造物の結末を明らかにすることはできない。罰せられ、裁かれて初めて、人は本当の姿を示す。悪は悪と共に、善は善と共に置かれ、すべての人は種類ごとに選り分けられる。刑罰と裁きを通じ、すべての被造物の結末が明らかにされ、それによって悪人は罰せられ、善人は報いられる。そして、すべての人が神の支配に従属することになる。この働きのすべては義なる刑罰と裁きを通じて達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順は極度に深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きから成り、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質だけが、人をすっかり変えて完全な者とすることができる。この性質だけが悪を暴き、よってすべての不義なる者を厳しく懲罰することができる(『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(3)」〔『言葉』第1巻〕)。『わたしが征服の働きをする目的は、単に征服することそのものにあるのではなく、征服することによって義と不義を明らかにし、人に対する懲罰のための証拠を入手し、邪悪な者を罪に定め、更に、進んで従う者達を完全にするために征服するのである。最後には、全ての人がそれぞれの種類に従って分けられる。完全にされた全ての者には従順に満ちた考えと発想がある。これが最後に完成される働きである。しかし、反抗的なやり方に満ちている者は罰せられ、燃える炎の中に送られ、永遠の呪いの対象となる(『神の出現と働き』「真心で神に従う者は、必ずや神のものとされる」〔『言葉』第1巻〕)。神が裁きの働きをなさりに来られるとき、それは麦と雑草を、羊と山羊を、善きしもべと悪しきしもべを直接分けるものとだという観念を私たちはもっています。言いかえれば、性質によって人々を区別する、ということです。でも少し考えてみると、今現在世界には二十億人以上ものキリスト教徒がいて、その全てが神を心から信じ、愛していると言っているのです。どうやったら善と悪を、義と邪悪を見分けることができるのでしょう?神があなたは善で私は悪だとお決めになったとしたら、自分も善人だと思っている私は納得がいきません。もし神が私は善人で誰か他の誰かは邪悪だと決めたら、その人も納得しないでしょう。ではいったいどうすれば誰が善で誰が悪かがわかるというのでしょう?わからないのです。なぜなら我々人間にはそんなことを測るための原則や基準がないからです。もし神が物事をこのようにお決めになったら、神を不公平で不正だと思い、私たちはそんな決定に従わず、観念を抱くことでしょう。それでは人々をそれぞれの性質に基づき区別する働きはどのように展開するのでしょう?終わりの日にお戻りになられた主は、つまり終わりの日のキリスト、全能神は、裁きの働きをなさるのに真理をお使いになるのです。全てのキリスト教徒にとって、誰が麦で誰が雑草かも、誰が山羊で誰が羊かも、誰が善きしもべで誰が悪しきしもべかも、誰が賢いおとめで誰が愚かなおとめかも、すべてが真理を通じて、神の御言葉を通じて明らかにされるのです。賢いおとめとは真に神を信じ、真理を愛する人です。この人は、誰かが神の到来を証言していると聞いたら外に出てそれを歓迎し、神の御言葉と働きを積極的に調べます。神の声を聞き分けてその終わりの日における働きを受け入れ、最終的には神の裁きを通じて浄化と完全な救済を得ます。大いなる災厄の間も神のご加護を受けて生き残り、最後には神の国へと迎え入れられます。対照的に、愚かなおとめは真理を愛することなく、自分の観念や想像にしがみついたり噂を信じたりすることに固執します。終わりの日における神の働きを探求したり調べたりすることもなく、宗教指導者に従って神に抗って神を断罪したり、終わりの日における神の救済を拒む者までいます。これらすべての理由から、愚かなおとめは神の終わりの日における働きにより悪人であると暴かれ、除かれます。大いなる厄災のあいだ、罰をうける運命なのです。このように、終わりの日において人を種類別に分ける神の働きは、私たちの観念や想像に従ってなされるのではないということがわかります。かわりに、神は人々を暴く働きを、裁きの方法をお使いになってなさり、最終的には、真理を受け入れているか拒んでいるかに基づいて皆が完全にあらわにされて、それぞれの性質に分けられる、という結果になるのです。これこそが神の知恵、神の公平さ、神の義ではありませんか?」

全能神の御言葉と王兄弟の教えを聞いて、教会の司祭が「主がやって来られるとき善と悪は分けられる」ということについて言ったことを思い出し、その観念はあまりに曖昧で非実用的で、まったく神の働きの現実に合っていないことに気づきました。私たちはみんな罪にまみれて生き、罪を犯しては告解することを続けていますが、その循環から逃れることはできずにいます。では本当に良い人々とは誰なのでしょう?主がお戻りになられるとき、もし私たちがその罪を清められていなかったとしたら、天国に入ることを許してもらえるのでしょうか?この考えは私の心に灯を点し、私は主のお導きに感謝しました。あの集りに行ったことは無駄ではなかったのです。なぜならそのおかげで人がどのように真理に取り組むかによって神が善と悪を区別なさっていることを理解できたからです。別の言いかたをすると、神の言葉の裁きと刑罰を受け入れて従うか否かによって人は善か悪かが決まり、これは神の義の完全なる顕現なのです。御言葉と働きを通じて、神は麦と雑草を、羊と山羊を、賢きおとめと愚かなおとめを、真の信徒と偽の信徒を、真理を愛する者と憎む者とをお分けになるのです。神の知恵のなんと素晴らしいことでしょう!しかし私は、司祭が言っていた別のことも思い出しました。つまり、主がお戻りになられて人々をお裁きになるときは、一人ひとりをお裁きになり、人の罪もまた一つ一つ記され裁かれ、その後で主は人がそれぞれ天国と地獄のどちらに行くかお決めになる、ということです。でも全能神は今、終わりの日における神の裁きの働きは、その御言葉によってなされるとおっしゃっています。御言葉は人々を裁くのに一体どのように使われているのでしょうか?

この質問をしてみると、張兄弟が全能神の御言葉の二節を読むことで答えてくれました。「神はいつか地上に来て、人間に姿を見せ、誰一人も逃さず人を一人一人試みつつ、全人類を自ら裁くと信じている人々がいる。このように考える者は、この受肉の働きの段階を知らない。神は人間を一人一人裁きはしないし、一人ずつ試みもしない。それは裁きの働きではない。堕落はすべての人間に共通しているのではないか。人間の本質は、みな同じなのではないか。裁かれるのは人間の堕落した本質、サタンのせいで堕落した人間の本質、そして人間の罪全部である。神は人間の些細で無意味な過ちを裁かない。裁きの働きは代表によるもので、特に誰かのために行うものではない。そうではなくて、この働きでは、一群の人々が人類を代表して裁きを受けるのである。受肉した神が自ら一群の人々に働きかけ、全人類に施す働きを代理的に行うと、その後、それが徐々に広まる。裁きの働きも、そのように行われる。神は特定の人や特定の人の集団を裁くのではなく、全人類の不義を裁く――例えば、神への敵対、神に対する不遜、神の働きの妨害等。裁かれるのは人間の神への敵対の本質であって、この働きは終わりの日の征服の働きである(『神の出現と働き』「堕落した人類は、受肉した神による救いをさらに必要としている」〔『言葉』第1巻〕)。「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このような方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みは通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる(『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」〔『言葉』第1巻〕)

そして張兄弟は私にこう話してくれました。「私たちの抱いている観念では、終わりの日における裁きの働きの間、神は一人ひとりをその白い玉座の前にお呼びになって裁きを下されます。人は誰も地面に跪き、生涯にわたって犯した罪を一つ残らず告白しなければならず、そのあと神が罪の深刻さによってその人が天国と地獄のどちらに行くべきかお決めになります。神が人をお裁きになる罪とは暴力や言葉で人を虐げることや親不孝、他人から盗んだり奪ったりすることだとも考えます。でも実際には、終わりの日における神の裁きの働きは、こういった私たちの外面的な振る舞いや欠点は関係なく、それよりも神に抗う人類のサタン的本質や私たちの堕落した性質の一つ一つを対象とするのです。これには私たちの傲慢やうぬぼれ、歪みやずる賢さ、わがままや卑しさ、強欲や邪悪などが含まれます。私たちには神と相容れない視点や時代遅れの宗教的観念や封建的な考えが多々あります。これらはすべて私たちの神への抵抗の源であり、堕落した人類全体が共有する問題で、神が裁きの働きにより清め、変容させようとなさるものです。なので、神が発せられる御言葉は人類の本性と本質を明らかにし、地球上にいる堕落した人類の一人ひとりが例外なくそこに含まれるのです。別の言い方をすれば、神の裁きの御言葉は全人類に向けられたものなので、人々を個別に裁く必要はないということです。全能神の御言葉を読み、その御言葉による裁きと刑罰を受け入れることで、私たちは多くの真理を理解し、サタンに堕落させられている自分の本質、本性、真理をはっきりと見ることができます。こうすることで、私たちは神の義なる性質を確認し、神への崇敬の心を育てることもでき、自己を嫌悪することで自らの肉体に背き真理を実践することも厭わないようになることもできます。こうすれば、私たちの堕落したサタン的性質は徐々に浄化されていき、私たちの視点や人生観も変わってゆきます。神の御言葉どおりに生きるとき、神に逆らい抵抗することをやめて、心から神に従い敬って悪を遠ざけるとき、私たちは神の救済を賜り、神の御意思に適う人となれるのです。これこそが、神が終わりの日に裁きの働きをなさるために真理を表していらっしゃる現実であり目的なのです」。

張兄弟の話しを聞いていると、私は神の裁きの働きがいかに実践的で現実的かが理解できました!張兄弟の言うことは私の心に深く響き、私はそれを受け入れることができました。そうです。人々は傲慢で、名声や富や地位を求め、様々な堕落した性質に汚れて生きています。神は御言葉による裁きをお使いになって私たちの内にある不浄や堕落をすべて取り除いてくださいます。神に抗う私たちの本性はこうやって解消し、堕落した性質は変化させられて、そうして私たちは本当に善き人間となることができるのです。こう考えてみると、司祭が言っていた「主が人類をお裁きになるために再臨なさるとき、一人ひとりが、一つ一つの罪が裁かれる」という話は人間の観念や想像でしかなかったことがわかりました。神が実際にその働きをなさる方法とは何の関係も無かったのです。全能神の御言葉は本当に真理を含んでいます。これこそが本当の神の声なのです!そして私は本格的に全能神の働きを調べてみることにしました。

調べているあいだ、私は「ノアの日々が来た」「聖書の奥義を解く」や「終電に乗る」などたくさんの全能神教会制作の福音映画や、「人にとって神の愛が如何に重要なことか」などの神の御言葉からなる賛美歌の動画を観ました。また全能神の御言葉も多く読み、真理の多くの側面に関する兄弟姉妹の話を聞きました。こうして私は全能神こそが主再臨のイエスであると信じ、全能神こそが唯一の神で私たちが待ち望んでいた主の再来であると確信するに至ったのです!私はめでたく全能神の終わりの日の働きを受け入れました。

全能神を信じるようになってから、私は頻繁に他の兄弟姉妹たちと集ったり、説教を聞いたりしています。毎日が私にとっての喜びに溢れていて、霊的な糧を得ていると感じます。聖霊の働きがもたらす快適さを楽しみ、より多くの真理を理解するようになりつつあります。全能神教会では、兄弟姉妹はみんな互いに温かく正直で、誰かを騙そうとする人や心を閉ざしている人は一人もいません。みんなが純真で、開放的で、誠実であり、堕落した性質があらわになる時でさえも、彼らはそれぞれが神の御言葉を通じて己を知り、その堕落した性質を解消するために真理を探究することができます。これこそが真にキリストにおいて兄弟姉妹であることだと感じます。全能神教会が制作する賛美歌や音楽、踊りや歌などの動画や福音映画に私は特に感銘を受けていて、そのすべてが真理を高く掲げ、神とその終わりに日における働きを証ししています。これらはすべて人々が神に従い崇拝するためのもので、教会は本当に神がその働きをなさる場所のように思えます!これらすべてを見て、聞いて、体験したことが、全能神教会こそが神がその信徒たちを自ら育まれ、お導きになる真の教会であると、私が信じる心の中における証しになっています。私が神の家に入ることができて、神と向き合って生きることができているという事実は、神からの特別な賞賛です。私はなんと幸運なのでしょう!全能神に感謝!

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