45. 窮地からの復活

中国 趙光明

1980年代初頭、当時30代だった私はある建設会社に勤務していました。若く健康的だと自ら認め、人々には誠実さと尊敬の心で接するとともに、責任をもって自分の仕事をこなしていました。建設業務に関する私のスキルも最高水準にあり、会社での出世を確信していました。そして、自分のキャリアが向上すれば、王族のように暮らせるはずだと自信をもっていたのです。それが私の目標だったため、その会社に長年所属し、懸命に働き続けました。しかし、その申し分ない性格と仕事のスキルにもかかわらず、私の努力は会社からは認められていないようでした。それは私には理解できないことでした。会社の給料の最高等級は「6」でしたが、自分の等級が「3」を超えることはありませんでした。私のようなスキルもなく、会社での勤続年数も私ほど長くないのに、昇給を得た同僚を数多く目にしましたが、自分は昇給を得られなかったのです。私は困惑し、彼らが昇給を得ながら自分は得ていないことに怒りを覚えました。そしてついに、仲良くしていた同僚の一人が、次のように秘訣を教えてくれたのです。「この会社で最も重要なのは、マネージャーにごまをすることだ。少なくとも旧正月には祝意を伝えて、ご機嫌をとらないといけない。ほかの祝祭日でも同じようにするんだ」。これを聞いて、会社から見過ごされてきた本当の理由がようやくわかり、その不当さに憤慨しました。けれども、私はそんな社内のおべっか使いに嫌悪感を覚え、仕事もろくにしないくせに、ずるい方法を使って昇給や昇進を得ている人々相手に費やす時間もなかったのですが、社内における自分の地位を確立する必要があったため、それらの不文律に順応しなければなりませんでした。というわけで、次の旧正月が来た際に「心からの祝意」をマネージャーに伝えたところ、私はすぐにチームリーダーに昇進できたのです。

私はチームリーダーとして、より強い誠意と責任をもって仕事をするようになりました。建設現場では、工事が基準に達していることや、プロジェクトの目標が達成されていることを確認すべく、業務の監督と指示を厳しく行いました。また、労働者の安全を絶えず念頭に置いていたので、私のチームの作業員は皆、私の仕事に対する姿勢や業務指導を称賛してくれました。しかしこのことは、チームリーダーの続投や解任に関して言えば、さほど関係がありませんでした。最も大事なのは、各チームリーダーがマネージャーに渡す贈り物の価値だったのです。会社での自分の仕事を維持するため、私はそのような生存法則に従うほかありませんでした。それは「適者生存」という言葉に体現される過酷さと無力感を、私に深く実感させるものでした。

その後数年間、政府による経済改革と規制緩和により、中国全土で大規模な開発や建設プロジェクトが行われるようになりました。それを受けて、私の会社はプロジェクトを各個人に割り当て始めました。このことは、チームリーダーたちが、契約を得るために競争しなければならないことを意味しました。結果、各チームリーダーはライバルを出し抜こうとして、接待や贈賄をより活発に行うようになったのです。私たちチームリーダーは、「工作単位」がプロジェクトの入札を行うと聞くたび、当該単位の関係者にできるだけ早く贈り物を差し出すことで、事を円滑に進めようと躍起になりました。私たちはそれら工作単位のリーダーの好みに反しないように、最高の贈り物を考え、それを最高の方法で贈ることに知恵を絞りました。ある人は魚や鶏肉の中に金を忍ばせ、ある人は現金を渡し、またある人は金のアクセサリーやダイヤモンドの指輪を贈っていました。私自身もこの賄賂の慣習にのめり込み、相手の機嫌を取るにはどのような贈り物を渡せばよいか、長い時間をかけて考えたものでした。最終的に、私は苦心の末に契約を勝ち取りました。しかし、私たちがその仕事に着手するや否や、建設局、建設設計協会、品質技術監督局の役人、さらには地元の実力者たちが、「仕事を監督、指示する」ために大勢でやってきたのです。彼らは、この現場にはあれこれの問題があるとか、ここが基準に達していないとか、いろいろと言ってきました。午前中かけて検査した後も、私たちはまだ仕事を始めることができなかったのです。私はすぐさま、彼らを一人残らず高級レストランのアルコール付きのランチに招待しました。私にとっては数千元もの失費でした。さらに、ランチの終わり際には、彼ら一人ひとりに2,000元から10,000万元の賄賂まで渡さなければなりませんでした。そうすることが、仕事に着手する上で必要な彼らの許可と承認を得る唯一の方法だったのです。しかし仕事が実際に始まった後でさえ、監督局は検査官を定期的に送り込み、プロジェクトの検査にあたらせました。そのような検査は「所定の活動」とされていましたが、実際には私たちからもっとお金を搾り取る別の口実に過ぎなかったのです。彼らが現場へお出ましになるたび、私は忙しく駆け回り、食事や飲み物を用意して彼らをもてなしたものでした。さらに、それら監督局の主任たちは何かと理由をつけて、私にショッピングモールへ同行させさえしました。そのショッピングモールで彼らはデザイナーブランドの服を買い、その支払いを私に負担させるのです。時にはお金に困っていると言って、大胆にも直接現金を求めることすらありました。プロジェクトを軌道に乗せるためにも、私は歯ぎしりしながら怒りをこらえ、彼らにいい顔をしつつ、損失を被るほかなかったのです。もっとひどいのは、長い間これらの当局の主任たちに付き添って歓楽街にも行かなければならなかったことです。長期にわたる過度の飲酒と不規則な睡眠パターンのせいで、私はしまいに胃をこわし、高血圧症にもなって、すっかり疲れ果ててしまいました。そんなこともあり、プロジェクトがようやく完了し報酬を手にして初めて、自分がお金をほとんど稼いでいないことに気づいたのです。本当に泣きたい気持ちでした。そのような人生の過酷さに直面した私は心の中で、「自分のスキルに頼り、懸命に働いてお金を稼ぐことがなぜ、私にとってはこんなに難しいことなのか?国家体制のあらゆる部局のリーダーが、こんなにも腐敗しているのはなぜなのか?」と思いました。とてつもない無力感を覚えましたが、金を稼ぐ希望のすべてをあの役人たちに託すほかなかったのです。私は当初、彼らと良い関係を築くことは、自分のキャリアを高める基礎を築くことでもあると考えていました。自分の行っていることがすべて、不快な罪の落とし穴に深くはまり込み、希望のない状況でもがき苦しむことになっているとは、思いもよらなかったのです。

1992年、複雑で困難な手続きを経て、私はその都市の建設プロジェクトの契約を勝ち取りました。このプロジェクトが自分にいくらかのお金をもたらしてくれると私は見込んでいました。そこで全力を挙げて仕事に取り掛かる準備をしていたところ、マネージャーが私に対し、まずは市の4人の役人に個人の別荘を建ててやらなければならないと告げました。これは栄達を遂げるよい機会であり、市の役人に便宜を図ることで、将来お金の心配をしないで済むことや、すぐに良い暮らしを送れることが保証されると言うのです。私は希望に胸を膨らませ、銀行でローンを組んだ上に、友人や親類からもお金を借りました。自分にできるあらゆる手段を尽くしてお金をかき集めて、その4軒の別荘を建てる十分な元手を確保しようとしたのです。ところが、その建設工事が完成に近づいたころ、中央規律検査委員会の幹部役人がやってきました。私は事を丸く収めてあの4人の役人を守るため、さらにお金を使わなければならなくなったのです。それでも結局、私の必死の努力にもかかわらず、彼らを法律の力から守ることはできませんでした。4人の市の役人は収賄と汚職の容疑をかけられ、検査当局の処分を受けました。私が苦心して練り上げた立派な計画も、水泡に帰してしまったのです。4軒の別荘は未完成のまま当局に没収され、私は数十万元もの負債を抱えることになりました。とても返せる額ではありません。言いようのない苦しみが、まるで重い石のように、私の体にのしかかってきました。

私は無力感に襲われ、もう一つの建設プロジェクトに希望を託すことしかできませんでした。借金を返済するために、私はこれまでのキャリアにおいてやったことがなかったこと、最もやりたくなかったことに手を染めました。つまり、手抜き工事で低質の建材を使うことです。国家標準の鋼材を使用する代わりに二級材を使用し、コンクリートに6本の鉄筋の束を使わなければならないところを4本にし、鋼材のコストを3分の1削減しました。また、全体のコストをさらに削減するために、質の悪いコンクリートも使いました。正直に言うと、このようなことをするたびに完成した建造物の品質に深刻な影響が出るのではないかと恐くなり、私は生きた心地がしませんでした。中国各地で手抜き工事による建築物の崩壊事故のせいで多くの一般市民が負傷したり死亡したりといったニュースを聞くと、本当に不安になり、しばしば悪夢にうなされました。雷が鳴れば、天罰が下って雷に打たれるのではないかと恐れるまでになり、毎日恐怖の中で暮らしました。このような状況にあったため、やがて病気になり、高血圧に起因するめまい、頭痛、不眠症に悩まされるようになったのです。私は肉体的にも精神的にもボロボロになり、日々の暮らしは私にとって生き地獄になりました。こうして私は世の中の潮流に流され自分自身を失い、罪の泥沼に深く沈んでいってしまったのです。驚いたことに、プロジェクトが半分完了したとき、担当部門は契約で合意した通りの支払いを行わず、銀行から受けた融資は労働者の賃金を賄うのに十分ではなかったので、高利貸しから金を借りるしかありませんでした。さらに多くの挫折の後、工事の発注元は長い間借金を抱えていて、そもそもこの建設プロジェクトに出資することなど無理であったことがわかりました。また一つプロジェクトが失敗し、なんとか状況を好転させる方法はないものかと悩みました。私は完全に疲れ果てて絶望の淵に立たされたのです。その頃、建設プロジェクトを請け負った別の会社の責任者が巨額の融資を返済できず、首吊り自殺してしまったというニュースを耳にしました。私も地獄の門の前に立っているのだと、絶望に沈むような気持になりました。その後、債権者が金を取り立てに私の家に来るようになりました。何人かは私のベッドに横たわり帰ろうとせず、また大騒ぎしたり脅したりする者もいました。私は彼らに対しできる限り丁寧にへりくだって対応しましたが、それはとても屈辱的なことでした。私の親しい友人や親類でさえ、借金は返せないだろうと思い、敵対するようになりました。人間関係がいかに変わりやすいものであるかを本当に理解するようになったのはその頃のことです。文無しになったばかりか身も心も疲れ果て、さらには数十万元の借金を抱えてしまった数年間の空しい奮闘を思い返しました。私は空を仰ぎ長いため息をついて言ました。「まったく、もう限界だ。もう生きていたくない!」

まさに私が地獄の門の前をさまよっていた時、全能神の国の福音が私の耳に届きました。全能神の御言葉を目にしたのです。「今日、わたしがこの時点まで導いてきたのだから、わたしには適切な計画があり、わたし自身の目的がある。もしわたしがそれらについて今日語るなら、あなたがたは、ほんとうにそれがわかるだろうか。わたしは、人間の考え方と、人間が心に望むこととをよく知っている――自分で逃げ道を探したことがない人などいるだろうか。自分の行く末について何も考えたことがない人などいるだろうか。しかし、人間は豊かで多彩な知性を持っているが、長い時の果てに現在がこのようになるとは、誰が予想しただろう。これが、ほんとうにあなたの主観的努力の成果なのか。これが、あなたの疲れを知らぬ努力の報いなのか。これが、あなたが心に描いた美しい情景なのか。もしわたしがすべての人々を導かなければ、誰がわたしの定めから離れて別の出口を見出せるだろう。今日まで人間を導いてきたのは、人間の想像や願いなのか。多くの人は生涯、願いをかなえることなく生きる。これはほんとうに、その人たちの考えが間違っているせいだろうか。多くの人の生は、思いがけない幸福と満足で満たされている。これはほんとうに、彼らが多くを期待しないせいなのか。すべての人間の中で、誰が全能者の目に見守られていないのか。誰が全能者の定めの中で生きていないのか。人間の生死は自分の選択で生じるものなのか。人間は自分の運命を左右できるのか(『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第十一章」〔『言葉』第1巻〕)。これらの御言葉を読んだとき、私は心から納得しました。私たちの運命は自分自身の手にはないのだと本当に感じました。過去数年間を、自分の将来のために計画し計算してきたのに、何一つうまくいかなかったことを思い返しました。たくさんのお金を稼ぎ、人より優れた暮らしを手に入れることに全力を尽くしましたが、お金を稼げなかっただけでなく、大金を無駄にしました。かつて周りに一目置かれていた私が、こんなに貧しく哀れな状態に凋落するなど想像したこともありませんでした。自分の将来のために一生懸命働いたのに、なぜ次々に失敗してしまったのだろう?それは、人の運命はその人の手にあるのではなく、神の手にあるからだったのです。すべてが神に支配され、運命づけられているのです。幸運も不幸もすべて神がお決めになるのです。私は心の底から、これらが神の御言葉であると感じました。私はたまらず全能神に叫びました。「神よ!私はこれまであなたを知りませんでした。私は自分自身と人間の力に頼ろうとしましたが、結局は絶望的な状況に陥りました。今日、私はついに一人ひとりの運命、そして生と死があなたの手にあることを理解しました。私がこんな状況に陥っていなければ、私は御前に来なかったでしょう。神よ!死の瀬戸際から私を救い、新たな人生に立ち向かう勇気を与えてくださったことに感謝します。これからは、進むべき人生の道については全てあなたの采配に身を委ねます」。

それから私の教会生活が始まりました。全能神教会の環境は外の世界とは完全に異なっていました。兄弟姉妹はお互いに純粋で率直な関係を持ち、見せかけの付き合いや足の引っ張り合い、企みごとなどのかけらもなくお互いに誠実に接していました。誰もが神の御言葉を読み、賛美歌を歌って一緒に神を称えます。集会では、兄弟姉妹はお互いに正直で開放的であり、自分の経験、欠点、困難、そして神の御言葉についての各自の理解と認識について交わります。参加した集会はすべて新鮮で、新しく、活力に満ちていると感じました。兄弟姉妹の間には疎外や疑念はなく、誰もがお互いを理解し、お互いをよく知っていました。私はそこで、かつて経験したことのなかった安心感と自由を感じ、これまでで一番くつろぎ、幸せに感じました。同時に、私は神に導かれ、自分が過去数十年にわたってあのように苦しんで生きてきた理由を理解するようになりました。全能神のこのような御言葉を読んだのです。「あなたの心の中には非常に大きな秘密がある。あなたはそのことにまだ気がついていない。なぜなら光のない世界でずっと生きてきたからである。あなたの心と霊はあの悪い者に取上げられてしまった。あなたの目は暗闇のせいで見えなくなり、空の太陽も夜のきらめく星も見ることができない。あなたの耳は欺瞞的な言葉で塞がれ、ヤーウェのとどろきわたる声も玉座から流れる水の音も聞こえない。あなたは正当にあなたのものであるすべて、全能者があなたに与えたものすべてを失った。あなたは終わりのない苦しみの海に入った。救出する力もなく、生き残る希望もなく、ただもがき駆け回ることしかできず……。その瞬間から、あなたはあの悪い者に苦しめられるように運命づけられ、全能者の祝福から遠く離れ、全能者の施しの届かないところにおり、後戻りできない道を歩いている。百万回の呼び声もあなたの心と霊を奮い起こす見込みはない。あなたはあの悪い者の手の中で深い眠りについている。悪い者は境界も、方向も、道しるべもない広大な領域へとあなたを誘惑した。それ以来、あなたは本来の純粋さと無邪気さを失い、全能者の気づかいを避けるようになった。あなたの心の中では、あの悪い者があらゆることにおいてあなたを操縦し、あなたのいのちになった。あなたはもはや悪い者を恐れることも、避けることも、疑うこともしない。代わりにあなたは悪い者を心の中で神として扱う。あなたは悪い者を祀り、礼拝するようになる。あなたと彼は物体とその影のように切り離せなくなり、生においても死においても互いに委ねあっている。あなたは自分がどこから来て、なぜ生まれ、なぜ死ぬのか全く知らない(『神の出現と働き』「全能者のため息」〔『言葉』第1巻〕)。「サタンは国家政府や有名人や偉人の教育と影響力を通して人間を堕落させます。彼らの嘘とたわ言が人間のいのちと本性になったのです。「己を怠る者は天罰を受け地が滅ぼす」はサタンの有名な格言であり、全ての人に浸透し、人のいのちとなっています。ほかにもこれに類似する処世哲学の格言があります。サタンは各国の洗練された伝統文化を用いて人々を教育し、人類を果てしない破滅の淵へと陥れます。そして最終的に、人間はサタンに仕え神に抵抗したために神に滅ぼされるのです(「どのようにして人間の本性を知ればよいか」『キリストの言葉の記録』)。過去数十年、私がくたくたになりながら惨めな思いをし、この世界で必死に駆けずり回ってきたのは、サタンの人生法則に頼って生きてきたからです。例えば、人間の運命は自分の掌中にある」、「地獄の沙汰も金次第、「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」、「媚びへつらわなければ人は何もできない」など。これらのサタン的な哲学に従って生きていたために、私は神の存在にも全く気づかず、神がすべての人の運命を支配し決めておられるということも知りませんでした。私はこの暗黒の世界の潮流の中で、人生の方向性や人としてどのように振る舞うべきかという法則もなく、漂流していたのです。この暗い世界がサタンに支配されていること、そして人間社会がサタンの誘惑、罠と欺瞞に満ちていることが私には全く見えていませんでした。この暗く邪悪な世界でお金を稼ぐために、私は地位のある人にゴマをすり、へつらうことを学び、建設プロジェクトでは安物の建材をこっそり使うありさまでした。私の良心は少しずつ消えていき、人としての人格も尊厳も失ってしまったのです。深く罪を犯すほど、自分が人間だとは感じなくなっていきました。結局、お金を稼ぐどころか借金の山が残り、もう少しで自殺するほどの絶望の淵に立たされたのです。巨額の借金のために自殺した責任者のことを考えました。彼はサタンへの捧げ物として犠牲になったのではないだろうか?今も同じような悲劇が毎日繰り返されているのではないだろうか?そこまで考えて、人々がそうなってしまうのはサタンの毒による害のせいであり、サタンの支配によって導かれる世俗的な潮流のせいだと気づきました。これらのすべてを考えると、神への感謝の気持ちが波のように私の心に押し寄せ、神の憐れみと救いに心の底から感謝しました。神は私を暗黒の世界から救い、神の家へと連れ戻し、神の慈愛と庇護を受けられるようにしてくださったのです。

しばらくして、再び債権者に対応しなければならなくなり、私の心は大きな混乱に陥りました。返済しなければならないすべての負債を考えると、私はもう一度建設プロジェクトを引き受けたいと思いました。しかし、やる気はあっても能力が伴わないこともわかっていました。持病の高血圧が悪化して、私はどうすればいいか全くわからずにいました。するとある日の集会で、兄弟の一人が私のために神の御言葉を読んでくれました。「神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を持つという信念に基づいて神の言葉と働きを経験することを意味する。堕落した性質から解放され、神の望みに応じ、神を知ることができる。そのような道程を経てのみ、神を信じていると言える(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)。兄弟は私に説教をし、言いました。「私たちは神を信じているのですから、神に真の信頼を寄せるべきです。全てを統治なさる神の権威と力を心の底から信じ、人生のすべてを神に委ねなければなりません。最も重要なことは、神に頼り、神に敬意を払い、神の働きを体験し、神の導きを求めることを学び、自分でできると考えて性急に動き回ったりしないことです。借金返済は、理知と良心のあるすべての人が行うことですから、勇気をもって借金に直面しなければなりません。私たちはすべてが神の手の中にあり、登ることができない山はないと信じなければなりません。あなたの借金について、神にもっと祈り、神の意志を求めるべきです」。

兄弟の助けにより、私はその時、実行する道が見つかりました。集会に出席したり本分を果たしたりするのに支障が生じない近くの建設現場で仕事を見つけ、借金を返済するためにお金を稼ぎ始めました。私はもはや自分自身だけに頼って先に進もうとはしませんでした。債権者たちが取り立てにやって来たときには、彼らに対して正直に行動し、あるだけのお金を渡しました。また自分の農地で収穫した作物を売って作ったお金からいくらか返済することもできました。私は債権者全員に、借金を全額返済すると固く約束しました。すると、彼らも私を困らせるようなことはしなくなりました。銀行が返済を催促しに来たとき、私は神に祈り、すべてを託しました。「もしこの多額の借金を返済できないために刑務所に入らなければならないとしたら、私は神の采配と取り決めのすべてに従います」と思いました。従順なる心で神の働きを体験したとき、神は私のために道を開いてくださり、私は神の御業がどれほど素晴らしいかを見たのです。政府は1993年以前に手続されたすべての銀行融資は返済する必要がないと発表したのです。これらは銀行のコンピューターシステムに入力されておらず、情報が不完全で未返済の融資を追跡することができなかったためです。神よ、感謝します!私の融資はすべて1993年以前のものだったため、数十万元の借金は帳消しになりました。私は興奮して、神に感謝と賛美を捧げました。「あれだけの金額を稼がなければならないとしたら、完済する前におそらく疲労で死んでいただろう」と思いました。このことで、すべての人の運命が本当に神の手にあるということを自ら体験することができました。まさに御言葉にあるとおりです。「人の運命は神の手によって掌握されている。あなたは自分自身を掌握することはできない。いつも自分自身のことであくせく動き回っているのにもかかわらず、人は自分自身を掌握することができないままでいる。あなたがもし自分の前途を知ることができ、自分の運命を掌握できるなら、それでもあなたは被造物だろうか。端的に言うと、神がどのように働いたとしても、彼の働きはすべて人間のためである。たとえば、人に仕えるために神が造った天、地、そして万物――神が人のために造った月、太陽、星など、また動物や植物、春、夏、秋、冬など――はすべて人が生存するために造られたのである。したがって、神がどのように人を罰し、裁くにしても、それはすべて人の救いのためである。神が人から肉的な望みを剥奪したとしても、それは人を清めるためであり、人の清めは人の生存のためである。人の終着点は造り主の手の中にあるのだから、人はどうして自分自身を掌握できるだろうか(『神の出現と働き』「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点へと導き入れる」〔『言葉』第1巻〕)

こうした経験を通して、私は全能神の働きについてさらに確信し、私の信仰は強まりました。その後数年間、私は集会に行き、本分を尽くし続けながら、地元の建設チームで働いて残りの借金の返済するために働きました。福音を聞くのにふさわしい善良な人に会うたびに、私はその人に福音を伝え、仲良くなった人を何人か神の御前に連れていきました。毎日忙しい日々でしたが、サタンの哲学やルールに従わなくなり、世界の邪悪な潮流に追随して豊かになり人より上の生活を目指さなくなったので、生活は一変しました。代わりに、私は神の支配に服従し、神の要求に従って生活し、真理に従って振る舞い、誠実で人間らしくあり、神を畏れ、悪を避けるようになりました。このように振る舞うと、自分が公明正大で心にわだかまりがないと感じられ、私は安らぎ、内なる光で満たされました。徐々に良心と理知を取り戻すようになり、すると苦しんでいたさまざまな病気も消えてゆきました。今年私は75歳になりましたが、健康でかくしゃくとしており、借金もすべて返済しました。私をよく知っている人は皆、私を賞賛し、私は幸運だと言います。しかし、私はこれらすべてが間違いなく全能神の救いと恩恵の結果であることを知っています。全能神が死の瀬戸際から私を救い、いざという時に私にいのちを返し、人生における正しい方向を示してくださったのです。これらすべての経験を通じて、神の導きがなければ私たち人間がサタンに苦しめられ、飲み込まれてしまうのは避けられないということを実感しました。人々を救うことができるのは全能神だけなのです。全能神が表された御言葉だけが、人々を罪の束縛から遠ざけ、真の人間として生きる方法を示すことができます。全能神が表された真理を受け入れ、全能神に服従し、全能神を崇拝することによってのみ、人類は真の幸福な生活を送り、素晴らしい未来と終着点を得ることができるのです!

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