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神の住まいは人類と共にある

チェン・ボー(中国)

ある日、私は母の様子を見に妹の家に行きました。私がそこを出る前に、私の妹がある本を渡してきて、必ず注意して読むように強く勧めてきました。私は心の中でこう思いました:「妹がくれた本は間違いなく霊的なものだわ。たまたま、私の魂は干からびているような感じがするし、主が側にいてくださっている気配もないし、聖書を読んでいても啓発された気分にもならないわ。家に着いたらこの本を注意深く読むべきね。何かを得られるかもしれない。」自宅に着いた後、私はこの本を開いて読み始め、知らぬ間にこの本の言葉に吸い込まれていきました。私は読めば読むほど、増々楽しくなり、読めば読むほど、これらの言葉は光明があり、聖霊によって啓発するための言葉とされており、普通の人間がこれらの言葉を発することができるはずがないと増々感じていきました。この本を読んで以降、私は以前聖書を読んでも理解できなかった真理をいくつか理解できるようになり、心の中ですっきりした気分と喜びを感じました。私は主に近づくために祈りを捧げる意思を持ち、私の信仰は深まりました。 私の霊的状態は増々改善していきました。私はこう思いました:「聖霊の働きのみが人に信念と力を与え、人の魂のために備え、それを養うことがおできになる。この本に書かれた御言葉は聖霊のものに違いない。」 この結果、私は毎朝起きたら先ず最初にこの本を読むことにしました。

ある日、私はこの本を開き、次の節を読みました。「神が安息の中に入ることは、神がもう人類を救うという働きをしないことを意味している。人類が安息の中に入ることは、全人類がみな神の光の中と神の祝福の下に生きることを意味する。もはやサタンの堕落がなく、不義な事も起こらない。人類はみな地上で正常に生活し、神の加護のもとで生きるようになるだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より)神と人私は一旦ここで止まりました。私はビックリして心の中でこう思いました:「人は将来地上で暮らすことになる?主イエス様は、将来私たちが天で暮らすことをお約束されていたと思いましたが?何故この御言葉は私たちが地上で暮らすなどと言っているのでしょう?こんなことが可能なのでしょうか?私はこれを読み違えたのでしょうか?」 こうして私はもう一度この節を注意しながら読みなおしましたが、この御言葉は間違いなく人は将来地上で暮らすことになると書いてあったのです。ならば、これは実際に何を意味しているのでしょうか?これだけでは分かりません。私はこの真義を理解する必要がありました。こうして私は読み続けました。「神には神の目的地があり、人には人の目的地がある。神は安息の中にあっても続けて全人類が地上で生きるのを導く。神の光の中にあって、人は天の唯一の真の神を礼拝する。…人が安息に入るとは、それは、人が真の被造物になったことを意味する。人は地上から神を礼拝し、しかも正常な人間の生活を送る。人々はもう神に背かず、逆らわない。彼らは原初のアダム、エバの生活に復する。」(『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より) 私は読めば読むほど、増々当惑していきました:「人は地上から神を崇拝するんですか?どうやってこんなことが起るんでしょう?聖書には、これは天で起こると書かれていますよね?どうしたらこれが地上で起こるんでしょう?」 私は急いで聖書に駆け寄って、ヨハネ 14:2-3を開き、主イエス様がこう仰っておられる箇所を読みました。「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」主イエス様は、主の復活と昇天は私たちの居場所を準備するためであったと明確に仰っておられるので、私たちの終着点は天であるべきです。これが主の召された御約束なのです!私は心の中でこう思いました:「この本に書かれていることは主の御言葉と違うから、これを読み続ける訳にはいかないわ。」 この本を閉じた後、私はとても混乱した状態に陥り、何が正しいのか分からなかったので絶え間なく主に祈りを捧げました:「ああ、主なる神様、どうか私を御指導ください、そして御導きください。私はどうしたらいいのでしょう?私はこの本を読むべきなのでしょうか?ああ、主なる神様、どうか私に御啓きください、私を御指導ください。。。」こう祈りを捧げた後、私はこの本を読んだ後に主との関係が近くなり、主への信仰により熱心になり、さらには自分の魂が養われていると感じたことについて考えました。この本を置いて、読むことを止めてしまったら、私は魂が干からびていると感じた以前の状態に逆戻りしてしまうのです。この本は大いに私のためになり、私はこれが聖霊からきたもので、それを誤解することはできないという確信が持てたため、私はこの御言葉が自分の観念と一致しないからといって、それを否定したり、読まずにいるべきではないのです。私はこう考えながら、心を決める前にこの本を読み続けた方が良いと思いました。

その後すぐ、私は又この本を手に取って読み続けました。「人の安息の場所は地上にあり、神の安息の場所は天にある。人は安息の中で神を礼拝し、地上で生きる。神は安息の中で、残りの人類を導く。彼は地上から導くのではなくて、天から導くのである。」(『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より) 私は次の内容を頭の中で熟考し続けました:「この節は神の安息の場は天にあり、人は安息する間、地上から神を崇拝すると書いてあります。この御言葉にある通り、地上が本当に人の安息の場所になるのでしょうか?そんなことはあり得ません!主イエス様は既に主がどこにおられようとも、私たちは主の側にいることになると仰っておられ、主イエス様は復活され、昇天されたのだから、私たちも間違いなく昇天するのです!私は過去数年間、主のために多くの道を歩んだこと、多くの苦しみを耐え抜いたことを振り返りました。これは私が昇天して地上での苦しみに絶えなくてもよくなるためではなかったのでしょうか?この本に書いてあることが本当に正しく、人は将来も地上で暮らすことになるのであれば、私の期待は叶わないということなのでしょうか?私は感覚を失ったまま煉瓦のベッドに横たわりました。私は頭からつま先まで力が入りませんでした。私はこれについて考えれば考えるほど、増々静かにしてはいられなくなりました。こうして、私はこれを解明するために急いで私の妹の家に行きました。

妹の家に着くと、私はある中年女性と出会い、妹の紹介で彼女は姉妹リーであったことを知りました。その後すぐ、私はこの本を読んだ後に感じたことを彼女たちと話し合いました。姉妹リーは私の話しを聞いた後、こう言って交流してくれました:「シスター、主を信仰する私たちは全員が主イエス様は人のための場所を用意してくださると御約束され、主がどこにおられようとも私たちにそこへ来るように言われると信じています。主は昇天されておられるので、主が将来再臨される時、主は間違いなく私たちに主と共に天で暮らすよう御迎えくださります。しかし、私たちの中にこのような想像と推論は論証し得るのかどうかと考えたことがある人はいるでしょうか?私たちの想像通りに主が来臨され、天で暮らすために私たちを御連れくださるのであれば、主の祈りにあるこの御言葉、「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」(マタイによる福音書 6:10)そしてヨハネの黙示録に記されたこの預言「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、」(ヨハネの黙示録21:3) は実現しないのではないでしょうか?どうやってこのような出来事が予想通りに実現するというのでしょうか?神が私たちに御与えくださる終着点が天なのであれば、神が最初に人類を創造なさった時、神が私たちを地上で生活させた意義は何だったのでしょうか?」 これに全く納得がいかなかった私はこう言って反論しました:「これらの神聖な御言葉はこのようなことを言ってはおられますが、主は御自身でこう仰ったのですよ。「あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネによる福音書 14:2-3)主イエス様は復活された後に昇天されました、そしてこの御言葉の中で主は私たちのための場所を準備しに行かれると仰っておられます。主は主のおられる場所に、私たちも行く可能性があると仰っておられます。従って、これは、私たちが地上で永遠のいのちを手にするのではなく、昇天して永遠のいのちを手にすることを神が御約束されたことを証明しているのです。これを否定できる人はいないのです!」 姉妹リーは根気強く話し続けました:「シスター、主が主を信仰する人たちのための場所を準備してくださっておられるのは真実ですが、これは地上の場所なのでしょうか、それとも天のことなのでしょうか?主はこの御言葉の中ではそれについて言及されておられません。なので、私たちが、主が私たちのために準備してくださっておられる場所は天にあると言う時、私たちは一体何を根拠にそう言っているのでしょうか?これは主が実際になされた御約束なのでしょうか、それとも私たちの観念および想像に過ぎないのでしょうか?神を信仰する私たちにとっては、全てが主の御言葉を基にしているべきであり、私たち自身の観念と想像を主の御言葉とごちゃ混ぜにして、それが主の御言葉の意義であると言ってしまうべきではないのです。これは私たち自身の考えに頼って主の御言葉を説明しているということではありませんか?これは主の御言葉の意味をゆがめてしまっているのではありませんか?これ故に、私たちは主の御言葉を説明するために自分たちの頭の中にある想像、私たちの思考および好みに頼ることはできないのです。そうすると、私たちは過ちを犯してしまいます。創世記2:7-8にはこう書かれています「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。」神が最初に地球上で人類を創造されたこと、そして人類を創造される前には人類が生存できる良い環境を整えるために全てを創造されたことがはっきりと分かっています。これ故に、私たちを地上で生活させようという神の御旨が分かります。これに加え、主は主の祈りの中で、私たちに神の御国が地上に来臨することを神に祈るよう仕向けておられます。これはヨハネの黙示録の中でも預言されています、「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。」(ヨハネの黙示録11:15)「神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、」(ヨハネの黙示録21:3)この聖句と預言の内容からしても、神が私たちのために準備してくださっておられる場所は地上にあり、私たちの将来の終着点も地上にあって、天ではないことが分かります。。。」 姉妹リーの交流内容は私の観念とは全く異なるものでした。私は彼女の言ったことに全く耳を傾けませんでした。私は立上り、怒りながら彼女にこう言いました:「もう話すのを止めてください!私は昇天するために、長年に渡って主のために走り回り、労力を費やし、苦しい思いをしてきたのです!私は今までずっと、主が私を天の御家へと御連れ下さってこれ以上地上で苦しまなくてすむようになることを楽しみに待ってきたんです。あなたは私たちの終着点は地上にあると言っていますが、私はそんなこと受け入れられません。」 こう言った後、私は振り返ってその場を後にしました。私の妹が私と話しをしようと駆け寄ってきました:「リサ、どうしてそんなに頑固なの?あなたはこんな観点に固執する気なの?主は「あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。」と仰っておられるけど、あなたはこの御言葉の真義をしらないのに、自分の意見を貫こうとしているのよ。愚かなことをしていると思わないの?これは真理を求める人が持つべき態度じゃないわ!私たちが待ちわびる主イエス様は既に再臨されているのよ。全能神は再臨された主イエス様なのよ!私がお姉ちゃんに読むように渡した本は神御自身の御言葉なのよ!私たちが毎日迎えに来てくださると期待していた主は再臨されているの。私たちは注意して耳を傾けていなきゃいけないの。私たちは何が何でもこの非常にまれな機会を逃す訳にはいかないのよ!」 

私は妹がこう言ったのを聞いてびっくりしました。私はどうしても今耳にしたことを信じることができませんでした:「主が再臨されておられるですって?これは真実なの?」 そして私の妹はこう言いました:「この本に書かれている御言葉は聖霊からきたものだって言ったのはお姉ちゃんでしょ?これを読んだ時、多くの備えを授かって、聖霊の働きも内に宿って、主との関係も近くなったって感じたんでしょ?それについて考えてみてよ:主の御言葉以外に、誰がこのような効果を得られる御言葉を発することができるって言うの?今、主は働きを実行し、新たな御言葉を発するために再臨され、私たちは神の御言葉の素晴らしさを授かることができるの。私たちがもし、探求も調査もせず、ただ単に盲目に私たち自身の観念と想像に固執して、聖書の文字通りの意味だけに固執し続けていたら、私たちは最終的には自分たちを破滅させることになるの。聖書に精通していたパリサイ人たちは当時、盲目に聖書の御言葉に固執し、聖書に関する自分たちの見解が正しいのかどうか、またはそれが神の御旨と一致しているのかどうを全く疑おうとしなかったの。むしろ、彼らはメシアとは呼ばれていない者は来臨が期待されていた救世主ではないと考え、単純に主イエス様のありかたが人のいのちに備え与えることができるのかどうか、それが人に実践の道を示すことができるのかどうかを調査しなかったのです。彼らは頑固に自分たちの観念と想像に固執し、盲目にも主イエス様の御救いを拒否し、最終的には主を十字架に釘付けにするという凶悪な犯罪を犯したのです。私たちはパリサイ人たちの足跡を辿って神に抵抗する道を歩むわけにはいかないのです!」 妹の言葉を聞いた後、私は心の中でこう考えました:「妹の言っていることは筋が通っているわ。」 主の御言葉は人の魂が干からびた状態にある時に頼れる唯一の解決策なのです。私はこの本の御言葉を読んで以来、自分の霊的状態がどんどん改善していったこと、この御言葉が神への信仰を与えてくださったこと、そして神が私の側にいてくださっておられると感じさせてくれることについて振り返ってみました。私は真理をいくつか理解できているとまで感じています。もしかしてこの本に書かれている御言葉は本当に主が再臨されてお話しになる御言葉なのでしょうか?主の再臨は非常に重要な事柄です。私は盲目に拒否して判断してしまわないことが一番無難であり、調査かつ探求する努力をする必要があり、真理を求めず、神に抵抗しながら自分たちの観念に固執したパリサイ人のようになってはいけないのです!この時、私は非常に嬉しくなったと同時に怖くもなりました。私が嬉しくなったのは、私は今まで主を信仰してきて、主が再臨され私を天国に受け入れてくださり、地上での苦しみから解放され、心配事のない生活を送れることを楽しみにしていたからです。そして、今日、私は主が再臨されておられるという知らせを耳にしたのです。これは本当に重要で、喜ばしい出来事なのです。私が怖くなったのは、もし全能神が再臨された主であられるのとしたら、主の再臨を待って天国に受け入れていただくという私の夢が砕け散ってしまうからでした。。。私は心の中で複雑な心境になり、何を感じていいのか分からなくなりました。私は無力感に駆られました。私は祈りを通じて主に頼るしかありませんでした:「ああ、主なる神様!私は毎日、あなたが来臨されて私を天国の御家に連れて行ってくださることを待ちわびていました。しかし、彼女たちはあなたが私のために御用意くださった終着点はこの地上にあると言っています。私は本当にこの事実と向き合うことができません。私は本当に地上でこのような苦難に直面したくありません。ああ、主なる神様!私は今、心の中で辛い苦しみを感じています。どうか私を御助けください、どうか私をこの先の道へと御導きください。」こう祈りを捧げた後、私は主イエス様がこう仰った御言葉を思いだしました「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」(マタイによる福音書 5:3)これは本当なのです!主は心が貧しくて、真理を求める人たちを好まれ、その人たちだけを天国に入れてくださります。私は心の乏しい人になるべきなのです。彼女たちの交流を注意しながら聞いてのみ、私は主の御旨に従うことができるのです。

この時、姉妹リーはこう言いました「主はこう仰りました。『心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであう。』」(マタイによる福音書 5:8)私たちは主の再臨をお迎えするにあたり、主の御言葉を聞き、心の純粋な人として振る舞うべきです。今日、神が成される働きは私たちの観念と想像とは一致しませんが、それでも神がなさること全ては善良であり、その全てが人のためであり、その全てには神の御心が込められており、その中では真理を得ることができるのです。これを完全に理解できないのであれば、私たちは先ず自分たちを脇に置いて、真理を求める努力をする必要があります。そうすることで、私たちは神の御啓示を受けることができ、かつ神の御旨を理解することができるのです。シスター、心を開いて、まだ理解できないことを話してください。そして、交流を通じて私と一緒に探求しましょう。」私は姉妹リーの言ったことは筋が通っていて、自分は落ち着いて探求すべきだと感じたのでこう言いました:「シスター、1つ分からないことがあります。どうして私たちの終着点は天にはなく、この地上にあるのですか?」姉妹リーは、ヨハネ 3:13を開き、「天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。」とイザヤ書 66:1「天はわが位、地はわが足台である。」の2節を見つけて、私に読ませてくれました。そして、彼女はこの2節の意味について交流してくれました。姉妹の交流を受けて、私は突然頭の中が晴れた気分になりました。私はこれらの節を聖書からも知っていたのですが、どうして今まで一度も熟考したことがなかったのでしょうか?天は神の御座であり、地は神の足台であるため、天から降臨されるイエス・キリスト様以外に昇天できる人は存在しないと、主はっきりと仰っておられるのに、どうしたら人が昇天するにふさわしくなれるというのでしょうか?神は人を地上で創造され、人を地上で生活させられました。神が人を創造されて以来、人は徐々にその数を増やしながら何世代にも渡って地上で暮らしてきました。神が人を救うためになされた仕事も全て地上で行われてきました。これは神が遠い昔に運命づけられたことだったのです。これは人が変えられるものではありません。神の御国は実は地上にあり、人類の終着点も天ではなく、地上にあるように思えます!私は自分の観念と想像の中を生き続けてきた間、神は再臨されて私を天の生活にお連れ下さると決めつけていましたが、これは実は主の御旨には一致しないことで、現実とは一致していないのです!しかし、私はこれでもサタンに苦しめられる地上での生活を送りたくありませんでした。こうして、この後すぐに、私は自分の抱いていた気持を姉妹リーに説明しました。

私の話しを聞いた後、姉妹リーは「言葉は肉において現れる」という本を開き、全能神の御言葉の中からこの節を読んでくれました。「安息の中の生活とは、戦いも道徳的堕落も、持続する不義もない生活である。そのような生活には、神に敵対するいかなる勢力の侵入もないだけでなく、サタン(サタンとは敵対する諸力を指す)による妨害もサタンの堕落も存在しない。万物がおのおのその同類のものに従い、造物主を礼拝する。天上も地上も平穏になる。これが人類が安息に入った生活である。…神と人が安息の中に入った後、サタンはもはや存在せず、サタンと同様な不道徳者も、もはや存在しない。神と人が安息の中に入る前に、かつて地上で神を迫害したことのある不道徳者たち、地上で神に不従順だった敵たちはすでに滅ぼされている。彼らは終わりの日の大きな災難によって滅ぼされている。そのような不道徳者たちが徹底的に滅ぼされた後、地上でサタンの妨害を見ることはなくなる。人は完全な救いを与えられ、その後神の仕事が完全に終わる。これは神と人が安息の中に入る前提である。」(『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より)

全能神の御言葉を読み、将来私たちは依然として地上で生活を送っることになるかもしれませんが、神が人類を救う働きの最終段階を成就されたらサタンは破壊され、もう二度と地上で私たちの生活がサタンから悩まされることはなくなり、私たちは心配したり、苦しんだり、涙を流したり、ため息をつくことはなくなるのだと私は理解できました。私たちの生活はアダムとイブがかつてエデンの園で暮らしていた時のようになるのです。私たちは自由に神を崇拝できるようになり、神と共に美しく、恵まれた生活を送るようになるのです。これが人類の終着点であり、神が世の終わりの働きの中で一番最後になさることなのです。これは本当に偉大なことなのです!その瞬間、私はため息をもらしました:「誰が人類の終着点についてこれほど明確に語ることができるのでしょうか?一体だれが人類の最後を取り決めることができるのでしょうか?それは神のみがし得ることなのです!」 全能神の御言葉の中で、私は神の御声に気が付き、全能神の働きとは神がその御姿をお見せになって働きを実行されることなのだと知ったのです!私はついに自分の持っていた観念を頭の中から払拭し、世の終わりの全能神の働きを喜んで受け入れ、神の御座の前に戻ることができたのです。全ての栄光、全能神にあれ!

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