神様を信じる道でよい方向に向かう

2017年12月20日

私は長年神様に従ってきましたが、いのちにおける成長をほとんどしていなかったので、とても不安になりました。ある日、いのちの成長に関する録音された説教を聞いたのですが、聖霊に用いられた兄弟が兄弟姉妹にこう語りかけているのを聞き、一層不安になりました。「あなたがたは、今、神様を信じており、真理を求める素晴らしさを知っています。あなたがたは正しい道を進み始め、あなたがたの救いを追い求める中で信仰に満ちています。」私は思いました。「この兄弟姉妹達は神様を信じて間もないのに、既にいのちにおいて成長していて、救いにおいて信仰に満ちている。それに比べて私は、これまで神様を信じてきていながら、まだ真理を得ることができず、いのちの性質は全く変わっていない。正しい道に入っていないことは言うまでもない。救いを得ることは、言葉で言うほど簡単ではないんだな。」私は、その説教を聞きながら、確かに真理は人間の堕落全てを解決できるけれども、自分はそれを一度も経験したことはないと思いました。真理は私以外の人の堕落を解決しても、私の堕落は解決しないとさえ感じ、真理や救いを求める道に対する信仰を失ってしまいました。私自身の状態が正しくないことに気が付いていましたが、そこから逃れる術はなく、神様に助けを求めるより他ありませんでした。その後、神様の言葉が私を啓き、なぜ、私が長年神様を信じながらいのちに成長がなかったのか、なぜ、私の性質が全く変わらなかったかの理由を理解できるようにしてくれました。さらに、神様は私が真理を実践し、いのちにおいて成長できるようにしてくれました。

神様の言葉は次ように言っています。「人間のいのちの成長と人間の性質の変化はみな、現実に入ることにより、さらに、詳細な経験に入ることを通して達成される。」(『神の出現と働き』「受肉した神の職分と人間の本分の違い」〔『言葉』第1巻〕)「理論的な認識のみに重点を置き、現実を深く検証することや日常生活に入り込むことなく、宗教儀式の中で生活するならば、あなたが現実に入ることは決してなく、自分自身や真理、神を知ることはなく、常に盲目で無知なままとなるであろう。」(『神の出現と働き』「教会生活と実生活についての議論」〔『言葉』第1巻〕)神様の言葉の啓示を通してのみ、私は、自分が長年神様を信じてきていながら、自分の性質に一切変化がなかったこと、そしてこれは、私が神様の言葉を文字通り、理論的な意味において理解することにのみ集中し、理論上の理解でしかなかったことが主な原因であることに気が付きました。私は、真理を実践することや、現実において成長すること、さらには、実践的な経験を通して神様の言葉を経験することに意識を集中していませんでした。私が神様を信じてきたこれまでの長い年月を思い返し、真理のどのような側面であろうと、それを深く理解したり、真理の本質を理解したりしようとせず、ましてや真理の側面を理解することができたはずの実践において成長しようなどとは考えなかったのです。それどころか、理論上の認識や理解で十分だと考えていたのです。たとえば、実生活の中で、私は名声や利益を得るために常にもがいており、他者に自分の意見を聞いてもらい、自分を尊重し、認めてもらいたいと常に考えていました。これらの堕落が明らかになると、暫く考え、神様の前に祈り、自分が堕落していたことと、自分の傲慢の現れだったことを知ると、それだけで終わりました。結果、何回神様の前で罪を後悔し悔い改めても、同じ過ちを犯すだけでした。神様が用意した環境の中で、祈り、求めるうちに、私の堕落を取り扱うために、神様はこの環境を使ったのだと知るようになりました。このことを理解しても尚、神様による試練や精錬、取り扱いと刈り取りが神様の救いであり、愛であり、神様の御心は常に良いものだということを認めるだけでした。真理を実践して自分の堕落を解決することには決して注意を払わなかったのです。その結果、ある程度の困難を経験しても自分が変化することはなかったのです。あの時の説教を聞いて、正に私が必要としていた説教だった、あの説教のお陰で今まで理解できなかった真理を理解できたと思いました。それにもかかわらず、私はその内容を頭で理解しただけでそれ以上注意を向けず、暫くすると理解した僅かなものも結局消えてしまい、何も得ないままになってしまいました。

これらの事実に直面し、私は真理を全く求めていなかった自分に気付きました。私は、長年神様を信じていましたが、真理を実践する努力も、現実において成長する努力もしてこなかったため、未だに真理を得ることも、性質が変えられることもありませんでした。これは、神様の義なる性質の現れに他なりません。神様は昔、次のように言っているからです。「神の言葉を実行できるよう、生かし出すことに全力を尽くさなければならない。もしあなたが教義上の認識しか持っていないなら、あなたの神への信仰は無意味なものになるだろう。もしあなたが神の言葉を実践し、言葉を生かし出すなら、あなたの信仰は完全であり、神の心と一致していると見なされる。」(『神の出現と働き』「神を信じるなら真理のために生きるべきである」〔『言葉』第1巻〕)神様は義なる存在です。神様は誰も不公平に扱ったり、気まぐれに人に与えたりしません。ましてや、人に無条件に与えたりすることもありません。私は真理を実践せず、神様の言葉に生きる努力をしてきませんでした。今日、自分の蒔いた種を刈り取らなければならないのです。そうなってみて、私はひどい自責の念にかられ、神様の働きを経験しながらいのちにおいて成長することをせず、未だに信仰を示すものもなく、神様の救いに相応しい生き方をしていないことを酷く後悔しました。しかし、このような堕落した生き方は続けたくありませんでした。その代わりに、ゼロから始め、実践の中で努力し、神様の言葉を自分自身の中で実行したいと思いました。

その後私は、真理の実践と現実において成長できるよう訓練し始めました。かつてのように、神様に祈ったり悔い改めたりするだけで、実際には常に周りの人達に自分の意見を聞いてもらいたい、自分を尊重し、認めてもらいたいと思うことはなくなりました。そして、真理を求めるために神様の前に出て、この自分の具体的な問題に関する神様の言葉を飲食し、神様の言葉による裁きと刑罰を受け入れ、そうすることで自分の堕落を解決するようにしたのです。このようにして真理を実践し、いのちにおいて成長する時、神様はその特別な恵みにより、私が神様と地位を争っていたこと、あたかも自分が人々の先祖であるかのように崇めさせ、あたかも神であるかのように崇めさせようとしていたことを教えて下さいました。私の本性はサタン同様であり、その本質は、赤い大きな竜のそれと同じであることを知り、自分自身の本性に対する不快感と嫌悪感が自然にこみ上げてきました。その後私は、神様を高く掲げることについての真理、神様を証しすることについての真理を身に付け、現実において霊的に成長するよう訓練しました。この実践を通して、私は偉そうに振る舞い、知ったかぶりをしていた自分の醜さと忌まわしさをさらにはっきりと知りました。私は自分をさらに嫌い、呪い、神様に満足していただけるために進んで肉体を捨て、真理を実践するようになりました。このようにして暫く訓練した後、私の傲慢な性質が現れるのが著しく少なくなったことに気が付きました。

通常の対人関係で、私は、寛容、忍耐において実践し、知恵を用い、原則を伴い、誠実な人間になる必要があると知っていました。しかし、実際にはこれら5つの側面で成長したことはありませんでした。そのため、兄弟姉妹との交わりの中で、些細なことや彼らの堕落した面が現れると、偏見を抱いてしまい、上手くいかなくなってしまうのです。今では、これまでに理解したことを現実の生活に取り入れて訓練し、実践します。誰かに対して、その人の堕落した面が露呈したからという理由で不親切に振る舞ってしまった時は、神様に祈って真理を求め、状況をどう受け止めるべきかを探り、どう実践して、神様の言葉に沿ってどう成長すべきかを探るようにしています。神様の導きにより、誰もが変化の過程にあり、堕落を露呈することがあるのも当然で、露呈されている堕落自体に本人も気づいていないこともあれば、支配されている本性に本人も気づいておらず、私に対してする行為も故意にしている訳ではないということに気づきました。私自身、傲慢で周囲の人達の気分を害していながら、自分は気づかなかったのと同じです。全てはサタンがもたらした害なのです。憎むべきはサタンであり、兄弟姉妹についてあれこれ言うべきではありません。そう思った途端、私の中の怒りやわだかまりはサタンに対する憎しみと、兄弟姉妹に対する憐れみと赦しに取って代わり、兄弟姉妹を適切な時に助けたいとさえ思うようになったのです。自ら進んで他者を助けようとすると、彼らとの関係はずっと友好的なものになり、助けることで得る幸福感を味わうことができることに気づきました。

神様の言葉において成長し、真理を実践するよう自らを訓練していくと、実践的な経験を得て、真理のあらゆる側面で成長しただけでなく、神様の素晴らしい働きも目の当たりにしました。神様の導きを感じ、真理を実践することによる確信、平安、喜びを味わうことができました。人生に虚しいものなどなく、毎日学ぶことがあり、毎日、新しい見方や理解を得ることができ、毎日、神様が私を救って下さることが分かり、真理を求めることがとても意義深いと感じることができ、真理が本当に私を救い、人々を変えることができると感じることができました。

この個人的な経験と理解を得たことで、私の信仰の道は良い方向へ転換し、救いは私の手の届かないところにあるものと感じることはなくなりました。私が神様と協力し、いつも真理を携え、実践し、真理において成長するならば、自分の堕落した性質が必ず変わると信じます。神様の働きは人を救い、神様の言葉は人を変えることができる、そう信じています。私自ら、それを経験したからです。今日から私は、地にしっかりと足をつけ、真理を求め、実践していきたいと思います。神様に引き続き導かれながら、自分の性質をできるだけ早く変えて頂き、真の人間として神様の証しとなるような生き方をし、神様の私に対する救いの働きの証人となり、神様の救いの力の証しとなり、神様の素晴らしい働きの証人となりたいと思います。

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