人を正しく扱う方法を学んだ

2019年10月8日

ある日、教会の陳兄弟が私のもとを訪れ、空いた時間に証しを語る練習をし、自分の力の一部を福音の働きに捧げたいと言いました。私は陳兄弟とのこれまでのやりとりから、彼がとても傲慢な性質の持ち主だと知っていたので、彼について先入観に満ちた考えと意見を抱いていました。さらに、証しを語る人は聖書について一定水準の知識をもっていなければならないとも考えていました。そのような人は真理をはっきり伝え、福音を宣べ伝える相手からの質問に答えられなければなりません。彼にそのような特質があるとは思えなかったので、私は賛成しませんでした。すると彼はこう言いました。「ぼくの能力からして、証しを語る練習ができると思いませんか。証しを語らないなら、才能を無駄にしていることになりませんか」私はこれを聞いてとてもうんざりし、思いました。(証しを語るのは簡単なことだとでも思ってるの。本当の才能がないのに、その本分を立派に尽くせると考えてるの。あなたは自分を買いかぶりすぎよ。自分のことを全然正確に評価していないじゃない)その後、私は陳兄弟の状況について他の数名の兄弟姉妹と話し合い、彼の状態を見極めようとしました。私の話を聞いて、陳兄弟の振る舞いには傲慢さが現れていたと言う兄弟姉妹もいました。それで私は陳兄弟についての自分の意見が本当に正しいと確信しました。私は、真理を求めて陳兄弟を正しく理解しようとすることなく、彼について軽々しく話すことで、自分が基本的には彼を裁き、他人と共謀していることには気づいていませんでした。

あるとき、私は陳兄弟と集会に参加しました。教会生活を送りながら神様の家の映画を見られることについて働きの手引きを読んでいると、陳兄弟が言いました。「指導者や同労者は真理の現実を自分のものにしていないと思います。集会のときに字義や教義を説教するだけで、兄弟姉妹が直面している実際の問題を解決することができていません。いま、集会で映画を見られるのは素晴らしいことです。真理を理解する助けになるでしょう」彼は続けて言いました。「ぼくが始めにこの本分を尽くしていたとき、原則を理解していなかったので、多くの困難を抱えていました。でもいまは原則を把握しているから、もっとスムーズに本分を尽くしていると思います。それに、働きで成し遂げた成果も特に優れていて……」これを聞いて、私は心に反感と抵抗を覚え、思いました。(あなたは機会を掴むのが本当にうまい。聖霊に用いられている人の話を利用して、私たち指導者や同労者をけなしているのよ。それと同時に、自分の証しをして誇示することを忘れていない。本当に傲慢で理知に欠けているわ……)それから私たちは、次の集会で取り上げる五つの主題にどう一緒に取り組むかについて話し合いを始めました。すると陳兄弟が三つの主題は自分が担当すると言いだし、残りの二つを担当する人の提案さえもしたのです。班長が次の集会を担当するように私が取り決めたときも、陳兄弟はすぐさま疑わしげな口調で班長に尋ねました。「できると思いますか。ちゃんとできるんですか」その声の調子から、集会を担当できるのは自分だけだと考えているようでした。彼の振る舞いを目の当たりにして、私は思いました。(あなたには理知がまったくない。あなたにできるっていうの。兄弟姉妹に自分を誇示する舞台として、この機会を利用したがっているだけだわ。みんなの注目を独り占めしたいんでしょうけど、それは絶対に許さない)陳兄弟がその目的を果たすのを防ぐため、彼が担当にならないように私は権限を行使して決定をやり直しました。陳兄弟の振る舞いを一つ残らず振り返ると、心の中で彼への強い嫌悪を覚え、彼に対する偏見もますます強くなりました。特に、彼の傲慢な振る舞いについて何度か私は彼と話し合っていましたが、口先でそれを認めるばかりで、あとからはっきりした変化が見られることは一度もありませんでした。そのため、彼の傲慢さは異常な水準だと感じたのです。決して変わることができず、何の望みもないと思えるほど傲慢そのものでした。さらに、彼はこんなに傲慢なのだから、現在の本分を尽くすのに基本的にふさわしくないと考えることもあるほどでした。他の誰かと交代させてしまいたいほどです。

集会が終わったあと、集会中に自分が明らかにした考えや思いを一つ一つ振り返ると、心の中でいくらかの咎めと強い不快さを感じました。私は神様に祈りました。「ああ、神様。私は陳兄弟に多くの考えや偏見を抱いていて、彼をとても傲慢だと思っています。いま、彼が話すのを聞くたびに、心の中に反感と抵抗が生じます。彼を交代させたいと思うほどです。ああ、神様。間違った状態にいるのはわかっています。でも、神様の御心が理解できず、真理のどの側面に入るべきかわかりません。ああ、神様、どうか私を啓き、お導きください」祈り終えたあと、ある説教の一節を思い浮かべました。「このような考えがあなたがたの心にありますか。誰かのことを考えるとき、まずその人の弱点を考え、どのように堕落しているのかを考えます。それは正しいですか。このように考え続けるなら、他人と正常に付き合うことはできません……しかし、その人は心から神様を信じ、真理を追求しようと強く願っているので、その人の堕落はやがて変化して消えます。この問題はこのように見なければなりません。成長へのビジョンをもって問題を見なければならないのです。人の弱さに執着して人をいつまでも断罪し、この人は一生こんな風だとか、このような人間なのだとか言ってはいけません。そうするのはその人を裁いて限定することです。神様は人を救われるにあたってこのように語られたことがなく、人類はここまで堕落してしまったので救っても無駄だとか、これが人類の終わりだなどとおっしゃったこともありません。神様はまったくそのようにはご覧になりません。いま私たちはみな真理を追い求めています。みな真理を追い求めようと強く願い、少なくとも追求を続けていれば、数年のうちにきっといくらか変化し、最後はすっかり性質の変化を成し遂げ、神様に完全にしていただくことができると信じています。あなたがたはみなこのような信仰がありますね。このような信仰があるのですから、他の人にもこのような信仰があると信じなければなりません」(『いのちに入ることに関する交わりと説教(1)』の「正常な人間関係を築くには」より)この説教の文章は私の状態をはっきり示しており、私は恥ずかしく感じました。自分の本性がいかに傲慢でうぬぼれているかがわかったのです。私は自分に真理があり、一目で人を正確に判断し、その人の本質を完全に見通せるかのように振る舞っていました。説教の言葉と自分自身を結びつけることで、私は理解しました。陳兄弟とのやりとりから、言動に傲慢な性質が現れているのを見ると、彼は幼くてうぬぼれが強いと感じました。また、彼には自分が全然わかっていないと思いました。さらに、彼はまったく理知をもたない傲慢な人間で、変化する望みはないとさえ心の中で決め付けていました。そのせいで、私は彼を公平に扱うことも分け隔てなく扱うこともできなかったのです。神様は可能な最大限度まで人をお救いになりますが、私はあらゆる点で陳兄弟の限界を決めていました。いま、神様が私を露わになさり、自分の傲慢さとうぬぼれをはっきり見せてくださいました。私は自分の見方や信念を真理と見なし、人を判断する際の基準として考えていました。私にはこんなにも理知がなかったのです。私は原則と基準をもって人を見、測っていたでしょうか。人を見て限界を決め付ける私の方法は、真理と一致していたでしょうか。私は蛆虫よりも卑しい存在でした。他人を裁いて断罪する資格がどうして私にあるでしょう。神様の御言葉はこうおっしゃっています。「神が救うのは、サタンの堕落を経て堕落した性質をもつ人です。彼らは欠点がみじんもない完全な人ではなく、真空状態の中で生きる人でもありません(『キリストの言葉の記録』の「いのちに入るのは神への信仰において最も重要である」より)私たちはいまだ完全にされておらず、神様の働きの経験を通して徐々に変わってゆく過程にあります。本分を尽くしながら自分の堕落した性質を表したり、いくらかの過ちを犯したりするかもしれませんが、誠実に神様を信じて真理を追い求める限り、変わることができます。しかし、私は人を成長への観点から見ていませんでした。その代わりに自分の見方と堕落した性質でもって人を限定していたのです。私は本当にかくも傲慢でした。

それから神様の御言葉の別の一節を読みました。「どのような原則に従って神の家の成員を扱うべきですか。(兄弟姉妹一人ひとりを公平に扱うべきです。)どのようにして公平に扱いますか。誰にも些細な欠陥や欠点があり、ある種の特異性もあります。人はみな独善性や弱点、欠けている部分があります。あなたは愛する心をもって相手を助け、忍耐強く寛容であり、些細なことの一つひとつについて厳しくあたりすぎたり、騒ぎ立てたりしてはいけません。若い人や神を信じてからさほど時間が経っていない人、あるいは最近になって本分を尽くし始めたり、特殊な要求事項があったり人に対し、髪を掴んで離さないような扱いかたをするなら、それが厳しくあたるということです。あなたは偽指導者や反キリストによる悪事を無視しながらも、兄弟姉妹の些細や欠点や短所を見つけたとたんに彼らを助けるのを拒み、その代わりにそのような事について騒ぎ立てるほうを選び、背後で彼らを裁きます。そうすることで、さらに多くの人が彼らと対立し、彼らを排除、追放するように仕向けているのです。これはどのような振る舞いですか。自分の個人的な好みに基づいて物事を行ない、人を公平に扱えないことです。これは堕落したサタン的性質を示しています。過ちを犯しているのです。人が物事を行なうとき、神は見ています。あなたが何をしようと、どう考えようと、神は見ているのです。原則を理解したければ、まずは真理を理解しなければなりません。いったん真理を理解すれば、神の旨を把握できます。真理を理解しなければ、神の旨を理解することはまずありません。真理はあなたに人をどう扱うべきかを教えますが、いったんそれを理解すれば、神の旨にかなう人の扱い方がわかります。他人をどのように扱うべきかは、神の言葉の中にはっきり指し示されています。神が人類を扱う態度は、人が互いの扱いの際にとるべき態度です。神は一人ひとりをどう扱いますか。霊的背丈が未熟な人、若い人、神を信じるようになってまだ日が浅い人もいれば、本性や本質が悪かったり悪意に満ちていたりする人もいます。それは単に、彼らがいくぶん無知だったり素質を欠いたりしているか、社会によって過度に汚染されているかなのです。彼らはまだ真理の現実に入っていないので、馬鹿げたことをしたり、無知な行動をとったりしないようにするのが容易ではありません。しかし神の視点からは、こうしたことは重要ではありません。神は人の心だけを見ます。人が真理の現実に入ることを決意しているなら、正しい方向に進んでおり、それがその人の目標です。すると神はその人を見守り、待ち、入れるようになる時間と機会を与えます。神はその人を一撃で打ち倒したり、その人が首を出した瞬間に殴りつけたりすることはありません。神はそのように人を扱ったことはありません。であれば、人がこのように互いを扱うならば、それはその人の堕落した性質を示していませんか。それがまさにその人の堕落した性質なのです。神が無知で愚かな人をどう扱うか、霊的背丈が未熟な人をどう扱うか、人間の堕落した性質が普通に表わているのをどう扱うか、悪意に満ちた人をどう扱うかをあなたはしっかり見なければなりません。神には異なる人々を扱う様々な方法があり、また異なる人の無数の状態を扱う様々な方法もあります。あなたはこのようなことの真理を理解しなければなりません。いったんこの真理を理解すれば、それをどのように経験すべきかがわかります。(『キリストの言葉の記録』の「真理を得るには、周囲の人や出来事や物事から学ばなければならない」より)神様の御言葉は、人をどのように扱うべきかの原則と道をとてもはっきり示しています。それはまた、反キリストや悪人に対する神様の態度が憎しみと呪いと懲罰に満ちていることも説明しています。霊的背丈がとても低く、素質が劣り、様々な堕落した性質や欠点がある人について言えば、真に神様を信じ、進んで真理を追い求め、真理を受け入れて実践することができれば、そのような人に対する神様の態度は愛と憐れみと救いの態度です。神様の御言葉から、各個人の扱いについて、神様には原則と基準がおありなのだとわかりました。神様は、神様が愛される人を愛し、神様が憎まれる人を憎むことをお求めになります。私たちは真に神様を信じる兄弟姉妹に対して寛大であり、ゆるしの心で接しなくてはならず、彼らに悔い改めと変化の機会を与えなければなりません。彼らが堕落した性質を見せても、一撃で打ちのめしてはいけません。それは人を扱う神様の原則と方法に一致しておらず、ましてや神様の御心ではないからです。私は、陳兄弟が自分の本分に向かって自ら重荷を背負ったこと、責任感をもっていること、そしていくらかの実際的な働きができることを考え始めました。私は一度も彼の強みと長所を十分に考慮しなかったのです。その代わりに彼の堕落に執着してそのことにこだわり、彼を裁いて断罪していました。私の本性は実に悪意に満ちていたのです。

ちょうどそのとき、神様の御言葉の一節を思いました。「神の態度やアダムとエバの扱い方は、人間の親が自分の子どもに対して心配するものと同種である。人間の親が自分の息子や娘を愛し、世話をし、面倒を見るのに似ている――現実的で、見ることができ、触れて感知することができる。自身を高く、威厳のある者として位置付けるのではなく、神は人間のために動物の皮で衣服を作ったのである。その毛皮のコートが、裸の身体を覆うためだったか、寒さから守るためだったかは問題ではない。要するに、人間の体を覆うための衣服は神が自分の手で作ったということだ。人間が想像するような、神の考えだけで衣服を作ったり、奇跡的な方法で作ったりしたのではなく、むしろ神にはできない、神がするべきないと人が考えるような方法で作ったのである。そのような簡単なことを敢えて言うまでもないと思う人もいるかもしれない。しかし神に従ってはいたが、神についてぼんやりとしたイメージしか持っていなかった人たちにとっては、この箇所を見ることで神の真実さ、魅力、忠実さ、謙遜をはっきり見ることができるようになる。そして自分が位の高い、力ある存在と考えるどうしようもなく高慢な人たちに、神の真実さや謙遜の前に自分を恥じ入らせ、自惚れていたその頭を下げさせる」(『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 I.」〔『言葉』第2巻〕)神様の御言葉の一つひとつに私の心は暖まりました。私は人への神様のお心づかいと共感を感じるとともに、神様のご配慮とお気づかいは本物だと思いました。アダムとエバが神様のご命令に背いて善悪の知識の木の実を食べたとき、神様は二人からお隠れになって、二人をエデンの園から追放なさったものの、それでも二人をかわいそうに思い、二人がまとう衣を皮で自らお作りになりました。神様は本当にすばらしく、その性質は実に美しく善なるものです。堕落した人や過ちを犯した人に対する神様の態度は忍耐です。神様は同情心ゆえに、人間の無知や弱さや未熟さをお赦しになることができます。神様は人間に時間と悔い改めの機会をお与えになります。神様はお待ちになるあいだ、人が入るべき真理を絶えず供給なさいます。神様による人間の救いはかくも真実なのです。神様は忠実であり、神様の人間への愛は本物であって、偽りや見せかけではまったくなく、触れたり感じたりできます。そのことを考えると、私の目に涙が溢れてこぼれだしました。私は自分の経験をすべて振り返り始めました。指導者と同労者を調整する働きにおいて、私は原則に入っていなかったせいで教会の働きを妨げ乱すことをしてしまいました。しかし神様は私を淘汰したり懲罰したりはなさいませんでした。その代わりに兄弟姉妹が記した報告書をお使いになって、私が原則に従って本分を尽くせるように、自分を振り返り、悔い改め、変えさせてくださいました。消極的になって弱っていたとき、神様は御言葉で私を慰め支えてくださいました。神様はまた、まわりの兄弟姉妹を動かしてご自身の御心を私に伝えさせてくださいましたが、それは私を大いに強くしました。私が働きにおいて逸脱したり過ちを犯したりしたとき、神様への誤解を抱いて警戒したとき、働きにおいて消極的で怠惰になったとき、神様は御言葉で私を啓いて導かれ、御心を理解できるようにしてくださいました。そして私は神様の愛と救いを見ました。かくして消極性と誤解を捨て去ることができたのです……神様はずっと以前にこれらのことを私にしてくださっていたのではありませんか。私への神様の無限の愛を見たとき、頑なで麻痺していた私の心が神様の誠実な愛によって溶かされました。私は悔い改めの祈りを神様に捧げました。「ああ、神様。私は何度も何度も神様に逆らい抵抗しました。しかし、それでも神様は愛と寛大さをもって私に接し、私の弱さに理解を示してくださいます。何度も何度も御言葉をお使いになって私を啓き、導き、支え、糧を与えてくださいました。今日に至るまで、私を一歩一歩導いてくださいました。私を救うにあたってこれほど多くのご配慮と努力を費やしてくださいましたが、私にその価値はありません。ああ、神様。私への神様の愛はとても言い表わせません。私が変わるのを辛抱強くお待ちになるあいだ、神様は悔い改めの機会をも私に与えてくださいます。今からは御心とお求めに従って実践することを願うばかりです。真に神様を信じる兄弟姉妹の一人ひとりを扱うにあたって、私は真理の原則に頼りたいと思います」

それから説教の別の一節を読みました。「例えば、あなたは指導者で、兄弟姉妹に対して責任を負わなければなりません。真理を追い求めず正しい道を歩んでいない兄弟または姉妹がいたとしましょう。あなたは何をすべきですか。その人を助けなければなりません。この助けには、その人を刈り込んで取り扱うことが含まれます。叱責と批判も含まれます。それが助ける方法です。そのすべては愛なのです。彼らをなだめすかしたり、相談に乗るかのような口調を使ったりする必要がありますか。どうしても必要ではありません。彼らを刈り込んで取り扱う必要があるなら、そうしなさい。露わにされるべきものを露わにしなさい。それはあなたが指導者であり同労者だからです。あなたが助けないなら誰が助けますか。それがあなたが尽くすべき本分です」(『いのちに入ることに関する交わりと説教(6)』の「救いを得て完全にされるため、どのように神様の働きを経験しなければならないか」より)この説教から、真理の現実を本当に有している指導者や同労者は、原則をもって兄弟姉妹を扱うことがわかりました。そのような人は自分の責任は何か、自分の任務は何かを知っています。真理の原則に頼って、人々をその本性と本質に従って取り扱うことができ、彼らの堕落と彼らに欠点にもとづいて実際的に助けることができます。愛情をもって彼らを助けるべき時、厳しく取り扱って刈り込むべき時、彼らを叱責すべき時がいつかを知っています。正しく振る舞い、原則をもつことができ、堕落を表した兄弟姉妹を敵として恣意的に扱いません。私は陳兄弟を自分がどう扱ったかを再び考え出しました。彼が傲慢な性質を露わにするのを見たとき、私は実際的な方法で助けることも、彼を支えることもしませんでした。彼が自分の本質を認識するよう、あるいは傲慢な性質が変化しなかった場合の危険な結果をはっきり知るように彼の傲慢な本性を分析しませんでした。その代わりに彼を恣意的に裁き、排除し、断罪したのです。しかも背後で彼への偏見を広めさえしました。私は寛大さや忍耐を一切示さず、まして愛情をもって彼を扱うことなどしませんでした。そのとき、この兄弟を扱うにあたって自分には真理の原則がなく、本分を尽くさず義務を果たしていないことがわかりました。私は神様の御心を理解して実践の道を見つけたのです。その結果、陳兄弟に会いに出かけ、彼の問題を指摘して助けと支えを申し出ました。同時に、彼を取り扱い刈り込みました。また彼の正しくない追求の視点と、彼が歩んでいる誤った道を分析しました。そして背くことを許さない神様の聖なる本質と性質についても話し合いました……神様のお導きに感謝いたします。私との交わりを通して、陳兄弟は自分が表していた傲慢な本性と堕落についていくらかの認識を得てました。彼は言いました。「自分がとても傲慢だとわかっているけれど、たいてい口先でそれを認めるだけです。自分の傲慢な本性を深く分析したことはなかったし、ましてそれを心から憎んだこともありませんでした。今日、それらを指摘してもらって初めて、自分の状態がとても深刻で危険なことがわかりました。ぼくの心に神様はいらっしゃらず、誰のことも尊敬していません。いつも自分は有能だと思っています。特に働きが成果を生んだとき、ぼくは神様の栄光を盗むだけでなく、自分は素晴らしい人間だと思い込んで、いっそう傲慢になってうぬぼれます。ぼくは反キリストの道を歩んでいて、悪事を行なって神様に抵抗しています。今日、警告と手助けをもらったおかげで、自分を反省して悔い改め、変わる機会が与えられました……」彼がこう言うのを聞いて私は本当に感激しました。また、自分はそれまで立派に本分を尽くしておらず、同情心がなかったと深く感じました。兄弟を助けも支えもせず、その代わりに彼の堕落を捕らえて断罪していたのです。私を救い、私の傲慢で悪意に満ちた本性をはっきり見えるようにし、馬鹿げたものの見方を正してくださったのは、神様の御言葉の裁きと刑罰でした。私は同じ説教の一節を読みました。「本当に真理を愛し、完全にされることを追求する意志がある人にはみな、傲慢で独善的な性質があると言えます。真理を受け入れ、刈り込みと取り扱いを受け入れることができ、どのような状況でも絶対に真理に従える限り、そのような人は救いを得て完全にされることができます。事実、優れた素質と意志が本当にありながら、傲慢でない人はいません。これは事実です。神様の選民は区別できなければなりません。極めて傲慢で独善的だからというだけで、その人は善人でないだとか、救われることも完全にされることもできない人だとか規定してはいけません。その人がどれほどひどく傲慢であろうと、優れた素質があり真理を追求できる限り、そのような人を神様は完全にしたいと思われているのです。神様が人を完全になさる基準はおもに、善人であること、優れた素質があること、真理を追い求めていることです。素質があまりに乏しく、いつまで経っても真理を理解できないなら、たとえ性質が極めて従順でまったく傲慢でなかったとしても、その人は役立たずで完全にされる価値がありません。この点について、神様の御心を理解する必要があります。素質が素晴らしく、意志をもちながら、傲慢でも独善的でもないならば、それは間違いなく見せかけ、あるいは偽りの外見です。そのような人などいないからです。堕落した人類は本性が傲慢かつ独善的であることを知らなければなりません。これは否定できない事実です」(『いのちの供給のための説教集』の「神様の裁きと刑罰を本当に受け入れ、それに従う人だけが、本当に真理を追い求めている」より)この説教のおかげで、傲慢な性質の人をどう扱うべきかがはっきり理解できました。傲慢な性質の人が変化することは可能であり、大事なのはその人が真理を追求して受け入れることができるか否かだとわかったのです。真理、神様の裁きと刑罰、そして取り扱いと刈り込みを受け入れられるなら、その人は変化して神様に完全にしていただくことが絶対に可能です。いま陳兄弟の状況を改めて見直すと、彼は若く、神様を信じるようになってまだ日が浅く、神様の裁きと刑罰をそれほど経験していなかったので、傲慢でうぬぼれた性質をあらわすのは極めて普通のことだと気づきました。私たちはサタンによって堕落させられ、自分の傲慢な性質の支配下に置かれているので、注目を集めたり誇示したりすることを好みます。これは堕落した人間によく見られる特徴です。私もまた、傲慢さやうぬぼれを頻繁に見せてこなかったでしょうか。自分は変われるのに彼は変われないと思うのはなぜでしょうか。自分に対して設定した基準が、彼に対して設定した基準よりも低いのはなぜでしょうか。それは私が彼よりも傲慢であることを意味してはいないでしょうか。彼をそのように扱うのは公平ではありません。このことに気づいたとき、私は陳兄弟に対して抱いていた偏見と先入観を捨て去ることができました。また彼の本性は本質的には悪いものでないと感じました。彼には真理を追い求める決意があり、問題は彼の傲慢な性質がほんの少し深刻だということに過ぎず、私は愛情をもって彼を助け、自分の責任を果たすべきだと理解しました。

神様の啓きとお導きに感謝いたします。私はこの経験から、堕落した性質の中で生き、神様の御言葉の原則に従って人を扱わず、人の長所と短所に正しく取り組めない人は、人を公平に扱えないことを学びました。そのような人は兄弟姉妹に肉体的、精神的な害をもたらすだけでなく、兄弟姉妹のいのちへの入りをも遅らせます。また人に苦労させたり、人を懲罰したりして、反キリストの道を歩むことさえありえます。この経験のあいだ、神様が私になされた裁きと刑罰の働きに感謝いたします。私が反抗的な性質の中で生き、真理の原則に従って兄弟を扱うことができないでいたとき、神様はただちに裁きと刑罰を下されて私をすぐに救ってくださり、傲慢で悪意に満ちた自分の性質を気づかせてくださいました。神様の元に戻り、自分を脇にのけて真理を求めたとき、私は神様のお導きと指導を得ました。神様の御言葉から、原則をもってどう人を扱うべきかを理解したのです。神様の御言葉に従って陳兄弟を扱ったとき、私は霊の平和と安定を真に経験しました。さらに、陳兄弟の長所を見つけてそこから学び、自分に欠けているものを補うことができました。私は神様の御言葉を実践に移すことの甘美さを味わいました。私がいくらかの真理を理解し、自分の堕落と欠点についていくらかの認識を得るようにしてくださったのは、神様の働きとお導きでした。同時に、真理の原則に従って人を取り扱うことがとても重要だと心から感じています。本分を尽くすにあたって神様の御言葉を実践し続け、神様の御言葉の真理に従って兄弟姉妹一人ひとりを扱いたいと心から願っています。

思源(フランス)

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