神様の愛のお導きで病気という試練を乗り切りました

2019年3月24日

喜んで主と再会

私は今年で78歳ですが、ずっと頭痛や糖尿病を患ってきました。2005年に主を信じるようになってからというもの、長年にわたって私を苦しめてきた病気が軽減されました。私は神様の愛を感じ、心の底から主に感謝しました。二年後、親戚の一人が終わりの日の神様の働きについて説き、主イエスが受肉した全能神として再臨したと言いました。全能神は今や主イエスの贖いの働きを基礎の上により高次の新しい働きの段階を行っておられ、真理を用いて人を裁き、罰し、堕落を清めておられると教えてくれたのです。また、神様は最終的に救いを得た人を神の国に導くとも述べました。私はこの話を聞いてとても嬉しくなり、「生きている間に主をお迎えすることができるとは想像もしなかった。将来、神様の国に連れて行ってもらえるなら、どんなに素晴らしいことだろう!」と思いました。このことを考えると、私の心は言いようのない喜びに満たされ、神様の愛と救いに感謝しました。求め調べる一時期を過ごした後、神様の御言葉を読んで全能神は再臨された主イエスであることを確信しました。その直後には教会生活を送り、教会内で本分を尽くすためにできるあらゆることをしていました。

病に襲われ、私の嘆かわしい動機が露わに

旧暦十二月、家事をしているときに突然心臓の圧迫感を感じ、呼吸困難に陥りました。息が詰まるように感じて今にも窒息しそうでした。私が苦しんでいるのを見た夫が急いで娘と娘婿に電話をかけ、彼らに市立病院に連れて行ってもらいました。

総合的な検査の後、担当医は厳しい表情で言いました。「非常に重い病気に罹っています。心臓に問題があるので、いつ亡くなってもおかしくない状態です。すぐに入院して治療を受ける必要があります」医師の言葉は青天のへきれきで、私はたちまちうろたえ、思いました。「どうして突然こんな重病に? いつ死んでもおかしくないって? 神様を信じるようになってから、ずっと誠実に本分を尽くしてきたのに。なぜ神様は私を守ってくださらないの? 死んでしまったら、美しい神の国が出現する壮大な出来事に立ち会えない。娘たちや夫とまた一緒に暮らすこともできなくなる。天国の永遠の幸福にあずかれないの?」考えれば考えるほど胸が痛み、心に孤独感が忍び込みました。苦痛の中で私にできることは心から神様に祈ることだけでした。「ああ、神様! 重い病気が私の身に降りかかって、私は無力で弱くなっています。何をすべきかわからず、神様の御心を理解できません。それでもこれは神様がお許しになるから起こっていることだと信じます。ですからどうか、私をお導きください」祈った後、神様の御言葉が思い浮かびました。「今日、あなたがたはみな、人による神への信仰は単に魂の救いと肉の幸福のためではなく、神の愛を通して自分の人生を豊かにさせるためなどでもないことを知っている。そのように、もしあなたが肉の幸福や一時的な快楽のために神を愛するなら、たとえ最後に神に対するあなたの愛が頂点に達し、あなたがそれ以上何も求めないとしても、あなたが求めるこの愛は依然として不純な愛であり、神には喜ばれない。……このような愛は現状を維持することしかできず、不変性を得ることも、人に根づくこともできない。この種の愛は、花が咲いても実をつけず、そのまましおれてしまう花のようでしかない。言い換えると、そのような形で神を愛しても、誰かがその道を導いてくれなければ、あなたは崩れ落ちてしまう。……神のものとされる人は、サタンを捨て去ってその支配下から逃れる人のことである。そのような人は正式に神の国の民として数えられる。神の国の民はこのようになるのである。あなたはこの種の人になりたいのか。進んで神のものになりたいのか(『神の出現と働き』「信者はどのような観点をもつべきか」〔『言葉』第1巻〕)

神様の御言葉の暴露で私は恥ずかしくなりました。そのときになって初めて、神様への信仰に関する私の見解が間違っていたことに気づいたからです。思い返せば、私が主イエスを信じ始めたのは病気が治るようにという気持ちだけからで、その後、全能神の終わりの日の働きを受け入れれば天国に入り、永遠の祝福を享受できると聞いたのです。それで、その祝福を得るために終わりの日の福音を受け入れ、積極的に本分を尽くしました。神様のために働けば働くほど、将来の祝福が大きくなると信じて。しかし今や生死に関わる病気に罹り、祝福を受けるという希望は打ち砕かれようとしていました。私は、神様を非難し誤解するようになり、神様を説得しようするようになりました。神様のためにすべてを捨て、自分を捧げてきたのだから、神様のために苦しみ代償を払ったのだから、神様は私を祝福するべきで、私をこんな大病に罹らせるべきではないと思ったからです。そのとき初めて自分の神様への信仰と本分を尽くしてきたことは誠実でなく、それどころか神様の愛に報いるという被造物としての本分を尽くしていなかったことがわかりました。むしろ個人的な動機に基づいて行動していたのです。私の目的は神様から祝福を得て、神様の恵みと祝福を享受することでした。自分を捧げてきたのも、神様と交渉し見返りに天国の至福を得るためでした。このような神様への汚れた信仰を持っていては、上っ面がいかに忠実に見えようとも、事実に立ち向かうことはできません。短い間は可憐に美しく咲くけれど何の実もつけない花のように、小さな嵐がやって来るとたやすく折れてしまったのです。私はいかにあらゆるものを神様から与えられてきたかに思いを巡らせ、神様の愛に報いるためどのように本分をしっかり尽くすべきかを考えました。また、これが天の掟であることも思いました。それなのに度を越えた欲望でいっぱいになった私は、自分の本分を利用して神様と交渉したのです。このようなやり方で本分を尽くすことで神様に背き、神様を欺いていたのではなかったでしょうか。私はひとかけらの良心も理知も備えていませんでした。それから私は神様の御心を理解したのです。神様はこの病気を利用して私を試し、私の神様への信仰の裏にある間違った動機をはっきりと見えるようにしてくださっていたのです。神様はこの精錬を利用して私を清め、変え、神様に対して私がしていた理不尽な要求を手放させ、良心と理知を取り戻させ、被造物としてしっかりと立ちつつ創造主を崇拝させようとなさっていたのです。このことを考えていると、すべてが突然理解でき、私は神様の救いに感謝しました。神様の救いがなければ、私は未だに間違った道を進んでいたでしょう。その果てには何の報酬もなく、ただ神様に見捨てられ、ふるい落とされていたことでしょう。この病気を通して私は、もし人が神様の働きを知らず、いかにして神様が人を清め救ってくださるかを知らなければ、人は神を畏れ従うことができないことが理解できるようになりました。また、物事が自分の思い通りにいかなければ意気消沈し、神様を誤解し非難する場合すらあります。私の霊的背丈は哀れなほどに低いものでした。これらについて考えると、私は自責の念にさいなまれ、神様への恩義で心がいっぱいになりました。

入院してからは、いかなるときも神様の存在を意識していたところ、自分の心と神様がいっそう近づいたように感じました。私は神様の次の御言葉について考えました。「全能神は全能の医者なのだ。病の中に留まれば病気になるが、霊の中に留まれば健やかになるのだ。あなたに最後の息があるかぎり、神はあなたを死なせはしない(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第六章」〔『言葉』第1巻〕)。神様の御言葉に神の権威と愛を見出し、私は心の中で神様に祈りました。「ああ、神様! 病気が降りかかり私は少し弱気になっていますが、神様が万物の支配者であり、この病気も神様の手の内にあることを信じています。私は神様にこの身を委ねることを願い、神様は私の柱であると信じています。私に信仰を授け、神様の指揮と采配に従えるようにしてください」

死が迫り、神様の御言葉により信仰が強固に

十日以上が経ちましたが、病気は一向によくなりませんでした。ある日、私は急にショック状態に陥って蘇生が必要になりました。病状が悪化しているのを見た娘婿は私を省立病院に移させました。省立病院の専門医が転院の書類を見て集中治療室を手配し、酸素を投与してくれました。集中治療室に入院した患者は皆すぐに死ぬとある患者が話しているのが聞こえました。これを聞いて私は恐ろしくなり、心の中で「医師は私がすぐに死ぬからここに入院させたのだろうか?」と思いました。こう考えていると、死が迫っているように感じ、心の中で訳のわからない狼狽と不安を感じました。その日の午後、一人の男性が病室に運び込まれ、一時間後に亡くなりました。男性が運び出されるのを見た瞬間、自分が死装束を着せられているような気持ちになり、次の死者は私自身だと思いました。考えれば考えるほど、恐怖が増しました。「私は本当に死ぬのだろうか? でもまだ死にたくない、まだしたいことが…」私まったく無力で恐ろしくなり、ただただ心の中で神様に呼びかけ、私の心をお守りくださいと願うことしかできませんでした。そのとき、神様の次の言葉が思い浮かびました。「ヨブが山々を埋め尽くすほど多くの家畜や膨大な量の財産を失い、その体が腫物で覆われたのは、彼の信仰のためだった。彼がわたしヤーウェの声を聞き、わたしヤーウェの栄光を見ることができたのは、彼の信仰のためだった。ペテロがイエス・キリストに付き従うことができたのは、ペテロの信仰によるものだった。彼がわたしのために十字架に釘づけにされ、栄光ある証しとなることができたのも、彼の信仰によるものだった。ヨハネが人の子の輝かしい姿を見たのは、彼の信仰によるものだった。そして彼が終わりの日の幻を見たのも、なおさら彼の信仰のためであった。数多くのいわゆる異邦の民がわたしの啓示を受け、わたしが人々のもとで働くために肉となって再来したことを知るようになったのも、また彼らの信仰のためだ。わたしの厳しい言葉に打ちのめされつつも、それによって慰められ、そして救われたすべての者たちは、みな信仰のゆえにそうなったのではないか。人は信仰ゆえに多くのものを受けた。受けるのはいつも祝福だとは限らない。……例えば、ヨブは信仰ゆえにヤーウェによって祝福されただけではなく、災いも受けた。祝福されようが、災いを受けようが、どちらも祝福された出来事である(『神の出現と働き』「征服の働きの内幕〔1〕」〔『言葉』第1巻〕)

神様の言葉は私の希望の灯をともし、信仰を授けてくださいました。ヨブやペテロなど、あらゆる時代の聖徒たちに思いを馳せました。彼らがあらゆる試練を受けていたとき、心の奥底まで悲嘆に暮れ、当時は極度の苦痛に苛まれ、神様の御心が理解できませんでした。それでも彼らは真の神様への信仰を持っていました。神様が何を為されようと彼らは不満を口にすることなく、被造物としてしっかりと立ちつつ創造主に従い、最終的には神様の祝福を得て、神様の偉大な力と支配を目にしました。例えばヨブがサタンの攻撃や試みを受けたとき、財産はすべて奪われ、子供たちは大きな不幸に見舞われました。また全身が腫れ物に覆われ、凄まじい苦痛を味わいました。それでもなお神様がヨブの心にはありました。ヨブは唇をもって罪を犯すよりも、自分の生まれた日を呪うことを選びました。そしてこう言ったのです。「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」(ヨブ記2:10)ヨブは神様への真の信仰と畏れを持ち続けました。神様が与えようと奪おうと、ヨブはそれに喜んで従い、ついに神様がヨブの前に現れ、彼の神様への愛と信仰は高まりました。あらゆる時代の聖徒たちと私では比較になりませんが、私が病気に罹ったのは神様がお許しになったからであり、何よりも神様の愛によるのです。神様は私に真の信仰とあわれみを授け、神の権威を体験させ、私の中に神様についての真の認識が生まれることを望まれました。私の生死は神様の手の内にあり、神様が最終的な決定権を持ちます。私の心配事はすべて不要なもので、それは神様の支配を信じなかった結果であり、いつも自分自身の強さに頼って物事を支配し指揮したいと考えていた結果でした。こう考えたところ、心がとても落ち着きました。

神様に生死を委ね、神様のわざを目にする

数日後、家族が病院の専門医と教授に精密検査を行うようにお願いしました。互いに相談してから専門医と教授は私の病気について説明しました。糖尿病に起因する冠動脈閉塞であり、三本の動脈が閉塞しているため早急に手術を受ける必要があること、さもなければいつ死んでもおかしくないということでした。しかし手術を受けたとしても治ることは保証できない、と言われました。

その後家族は心臓病専門の病院に私を移させました。検査を終えると、医師は今すぐ手術を受けなければならないが、リスクが大きいと告げました。医師によると、糖尿病に起因する心臓障害の手術を行う場合は切開部がきれいに治らないし、開口部が治らない場合、手術を受けなかった場合よりも悪い結果になるであろうということでした。この手術は太ももの血管を移植して心臓周辺の冠動脈の閉塞部位をバイパスさせるもので、手術が失敗すれば一生麻痺が残ることもあります。手術中は常に問題が起きるかもしれず、手術台の上で死ぬ可能性もありました。医師は術後に私が再び目を覚ますかどうかを予想することは難しいと話し、本当に手術を受けさせたいのかを慎重に検討するように家族に求めました。医師の話を最後まで聞いて、娘と娘婿はためらいました。多額の医療費をかけても私が良くなる保証はなく、そうなれば手元に一銭も残らないばかりか、治ることもないのではないかと不安に思いました。夫も神様を信じていたので、私たちの生死は神様の手の内にあることや、最終的な決定権を持つのは人ではないことを理解していました。ですから夫は何のためらいもなく、医師に「手術を行うことだけに集中してください。妻が生き延びるかどうかは病院とは無関係です。私は何が起きても耐えられます」と話しました。そして夫は同意書に署名し、医師は手術の準備を始めました。

すべての準備が整い、私は手術室に運び込まれました。手術台に横になりながら医師の話を思い、再び心が悲しみと不安でいっぱいになり、こう思いました。「本当に麻痺が残ったとしたら、生ける屍のようになるのではないのか。夫がこれほど年老いた今、私は彼の重荷になるのではないのか。何人か娘がいるけれど、今ではそれぞれの生活があり家庭もある。誰が一年中私の面倒を見れるというの? 本当に麻痺したら、自殺の方法を考えなきゃならない!」けれども手術台の上で孤独に死ぬかもしれないとも考え、ますます苦しくなりました。ちょうどそのとき、私は自分の心の状態が間違っていることに気づき、私の心を守り神様の指揮と采配に従えるようにしてくださいと急いで神様に呼び求めました。その瞬間に神様の言葉の一節が思い浮かんだのです。「すべての人間の中で、誰が全能者の目に見守られていないのか。誰が全能者の定めの中で生きていないのか。人間の生死は自分の選択で生じるものなのか。人間は自分の運命を左右できるのか。多くの人は死を求める。しかし、それは彼らからは遠い。多くの人は人生において強くありたいと願い、死を恐れる。しかし、彼らの知らないところで死の時は近づいてきて、彼らを死の淵に陥れる。多くの人は空を見て、深い溜め息をつく。多くの人は激しく叫び、泣いて嘆きの声を上げる。多くの人は試練の中に倒れ、多くの人は誘惑に囚われる(『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第十一章」〔『言葉』第1巻〕)。そうです! 私が信じる神様は万物を支配し、人間一人ひとりの運命は神様の手の内にあるのです。各人が生まれる時や死ぬ時は神様によって予め定められているのだから、私の運命も神様によって采配されたのではないでしょうか? 私は神様の証しをすると決心していたのに、現実の試練に直面すると自分の生死や未来を心配するようになったことを考えました。死ぬことを恐れ、麻痺が残り他の人の重荷になることを心配し、自ら命を絶つことを考えました。こうすることで、自分の運命を采配しようと願っていたのではなかったでしょうか?これのどこが神様の支配と采配に従うことだったのでしょうか? これは私が神様への信仰を持っていなかったことを示していなかったでしょうか? 神様は私に命を授けてくださり、私が生きるか死ぬかは神様の手の内にありました。私は気弱になったり、恐れたり、サタンの欺きの真っただ中で生きるべきではなく、神様への信仰を持ち、神様の方を向き、己の生や死、未来を神様に委ねるべきであることを知りました。これについて考え、心の中で神様に祈りました。「ああ、神様! 私はもうじき手術を受けます。まだ不安はありますが、この手術の成功あるいは失敗は神様の手の内にあると信じます。私が生きようが死のうが神様の指揮と采配に従うことを望みます」祈ってからはかなり心が落ち着きました。医師が麻酔をかけ、私はまもなく意識を失いました。

手術後は観察のため集中治療室に移されました。目覚めたときには既に二日が経過しており、手術は成功で、今やすることは回復だけだと家族は嬉しそうに言いました。これを聞いたとき、私は深く感動し神様の愛にひたすら感謝しました。私が手術を耐え抜き、手術が成功したことは、すべて神様の素晴らしいご加護のおかげであったことは分かっていました! 人の生死は神様によって支配されていること、そしてこれは神様の権威の現れであることを心の底から確信しました。

病気から回復する間、同じ病室の患者が痛みのために大きな叫び声をあげたり、絶えずうめいているのを聞きましたが、私は何の痛みも感じませんでした。切開部の痛みがないのは、完全に神様の奇しいわざのおかげであると心の中で明確に理解しました。私は神様の愛を感じ、心から神様への感謝と讃美が心から溢れ出ました。午後には担当医が私の元に来て、「奥さん、切開部は痛みませんか? 不快感はありませんか?」と尋ねました。私は「お気遣いありがとうございます。不快感はまったくありません」と答えました。三日後、順調に回復していることを確認した医師は、私を一般病室に移しました。糖尿病を罹っていない患者が術後に回復して集中治療室から移されるのに四、五日を必要とするのを見ました。それにもかかわらず、高齢で糖尿病を患っていた私が、つまり私の切開部の方がずっと治りにくいのに、手術からわずか三日後には固形食を食べることができたのです。私は他の人たちよりも早く回復しましたが、これはまさに神様の偉大な力であり神様の私への偉大な愛でした。

その後数日間にわたって、夫はよく神様の御言葉を読み聞かせてくれました。私はその御言葉についてじっくり考え、神様が私に為された救いの御働きについて熟考し、神様の愛がいかに本物であるかを心から感じました。病気に苦しみ生死のはざまをさまよっていたにもかかわらず、神様は常に私と共におられ、私のそばをお離れになることはありませんでした。消極的で気弱になり信仰を失うたびに、神様の御言葉が私を導いてくださり、私に信仰と力を授けてくださいました。堅強な後ろ盾として神様が共におられれば、もはや弱気になったり恐れたりすることはありません。私が心から神様にすがり、完全に神様に身を委ね神様の指揮と采配に従う覚悟をしたとき、神様は私を生かすだけでなく、肉体的苦痛までも軽くしてくださいました。こうして私は神様の奇しいわざを目の当たりにし、神様の愛を感じることができたのです。この経験を通して初めて、今回の神様の受肉はその働きにおいてしるしや不思議を示されないけれど、神様の御言葉の力はしるしや不思議を示す力をはるかにしのぐことに気づきました。神様の言葉はまさに真理であり、人の命になることができ、私たちの行動の原則であり方向なのです。

しばらくして、切開部は順調に治りました。私と同じ手術を受けた他の患者は未だに動けない一方で、私は夫に支えられながら外を歩くことができました。医師や患者仲間はこれを見て一様に驚きました。私の身体がこれほど早く回復できたのは神様のわざであり、神様の祝福であり、神様の愛であることを私は心の中ではっきり知っていました。神様だけがこのような奇跡を起こせるからです。

二週間後に退院するとき、医師に言われました。「この病院には同じ病気の患者さんが他に七人いますが、糖尿病に起因するケースはあなただけでした。症状も他の患者さんより深刻でしたが、あなたが誰よりも早く回復しました。本当に驚きましたよ! ただし、心膜にはまだ腫瘤が残っているので、まだ危険はあります。一カ月以内にまた来院して検査を受けてください。腫瘤がまだ大きくなっている場合は、もう一度手術を受けてもらう必要があります」医師の話を聞いても、私はもはや恐れたり不安になることはなく、心の中でこう思いました。「私は重病に罹ったけれど、神様は私を死なせはなさらなかった。私は神様の権威を目の当たりにし、今では神様にすがる信仰心がさらに強くなっている。病気は神様の手に委ね、神様に支配していただこう」その後、医師から薬を処方され、帰宅しました。帰宅後は毎日神様の御言葉を読み、兄弟姉妹と共に神様への讃美を歌い、神様の愛を享受して過ごしました。とても解放されて自由な気分になり、病気のことは頭からすっかり消え去っていました。

一カ月後に検査のために再び来院すると、あらゆる身体上の指標が正常で、心膜の腫瘤は消えていたのです。またもや私は神様の奇しいわざと私への愛を目の当たりにさせていただきました。

この洗礼の後、以前より力強く未来と向き合う

帰宅途中の車内で、道の両側に立つ背の高いポプラの木が遠ざかってゆくのを見て、思いました。「これらはすべて神様の支配下にある。一年中風、霜、雪、雨の洗礼を受けて、内包する生命はさらに強く不屈のものになる。私が罹った重病は命の洗礼を受けているようだった。私の神様への愛を清めただけでなく、神様への信仰心も高めた」そして私は神様の次の言葉を思いました。「神のいのちの力は、いかなる力にも勝る。そのうえ、いかなる力をも超越する。神のいのちは永遠であり、神の力は非凡であり、神のいのちの力はいかなる被造物や敵の力によっても圧倒されない。時や場所に関係なく、神のいのちの力は存在し、明るい輝きを放つ。天地は激変するかもしれないが、神のいのちは永遠に不変である。万物は過ぎ去るかもしれないが、神のいのちは依然として残る。神は万物の存在の源であり、それらの存在の根幹だからである。人のいのちは神に由来し、天の存在は神に拠り、地の存在は神のいのちの力から生じる。活力を有するいかなる物体も神の主権を越えることはできず、生気を有する何物も神の権威の及ぶ範囲から逃れることはできない(『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」〔『言葉』第1巻〕)。感動のあまりため息を禁じえませんでした。神様の言葉の権威と力は本当に偉大です! 初めに神様が言葉によって天と地と万物を創造されました。神様の言葉によって万物が生き、神様が予め定められた規則の中で一つの世代から次の世代へと増殖します。終わりの日には、神様が人を清め救う全ての真理を表されます。神様の真理は私たちの生存の根源であり、従わなければならない方向です。私が生死の境をさまよっていたとき、神様の御言葉は私に信仰と勇気を与えてくださいました。神様の御言葉により私は病気のあいだにどのように神様にすがり、神様に目を向けるべきかを学び、死の恐怖を乗り越え死という制約を克服するように導いてくださいました。この経験を通して非常に多くのものを得ました。

私は残りの人生においては神様を信じ、真剣に本分を尽くし、神様の愛と救いに報いることだけを望みます。神に感謝します!

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