聖書以外に神が発した言葉はあるのか

2022年7月15日

全能神は言われます。「律法の時代の働きを見たければ、また、イスラエル人がどのようにヤーウェの道に従ったかを見たければ、旧約聖書を読まなければならない。恵みの時代の働きを理解したいのなら、新約聖書を読まなければならない。しかし、終わりの日の働きはどうすればわかるのか。それには今日の神の導きを受け入れ、今日の働きに入らなければならない。なぜなら、それが新たな働きであり、過去に誰も聖書に記録していないからである。今日、神は肉となり、中国で別の選民を選んだ。神はこれらの人々の間で働き、地上における働きから、また恵みの時代の働きから継続して働きを行なう。今日の働きは人間がかつて歩んだことのない道であり、誰も見たことのないものである。それはかつて行なわれたことがない働きであり、地上における神の最新の働きである。したがって、かつて行なわれたことのない働きは歴史ではない。今は今であり、まだ過去になっていないからである。人々は、神が地上で、そしてイスラエルの外で、より偉大で新しい働きを行なってきたこと、それがすでにイスラエルの範囲を超え、預言者たちの預言を超えたこと、それが預言を超えた驚異的な新しい働きであり、イスラエルの外で行なわれる新たな働きであり、人々には認識することも想像することもできない働きであることを知らない。どうして聖書にこのような働きの具体的な記録が含まれ得るだろう。今日の働きを細部に至るまで漏らすことなく、事前に記録することが誰にできよう。一切の慣習を拒む、より大きく賢いこの働きを、あのカビ臭い古い本に誰が記録できようか。今日の働きは歴史ではない。だから、今日の新たな道を歩みたいのなら、聖書から離れなければならない。聖書の預言書や歴史書を越えなければならない。そうしてはじめて、新たな道を正しく歩むことができ、そうしてはじめて、新たな領域、新たな働きに入ることができる」(『言葉は肉において現れる』の「聖書について(1)」)。全能神の御言葉から、聖書は律法と恵み両時代の、神の御言葉と働きの記録に過ぎず、終わりの日のそれではないことがわかりました。聖書に固執し、聖霊が終わりの日に諸教会へ語ることを探求しなければ、子羊にしたがい主の再臨をお迎えすることはできないでしょう。主をお迎えする上で、この真理は重要です。

2018年1月のある日、ネットで謝(シエ)姉妹、陳(チェン)姉妹と出会いました。二人とも聖書について独自の見解があって、交わりは実践的で光に満ちてました。教会の荒廃の原因、賢い乙女になって主をお迎えする方法、パリサイ人が主イエスに逆らった理由、黙示録で預言された、終わりの日に神がなさる働きなんかを教えてくれたんです。数日間の交わりで、牧師の話十年分より多くのことを理解しました。どれも新鮮で新しく、不思議に思いました。どうして聖書からこんなに光を得られたの? 真理と奥義をもっと学び、主をよりよく知ろうと、二人の集会に加わりました。

ある日の集会で、謝姉妹が嬉しそうに言いました。「素晴らしい知らせがあるんです!」何の知らせ?「主が戻られ、真理を表わし終わりの日の裁きの働きをなさってるんです」。それを聞いて興奮しましたが、少し信じられない気もして、「本当ですか?」と訊きました。すると陳姉妹が「そうです。主は全能神として戻られ、御言葉を発し裁きの働きをなさってます」と。そのとき、東方閃電にまつわるフェイスブックの投稿を突然思い出しました。主はもう戻られ、語って裁きの働きをなさると証ししている、彼らが説くことは聖書から外れてる。私は突然警戒して、陳姉妹にすぐ訊きました。「東方閃電を信じてるんですか?」するとあっさり「はい」と言われ、ちょっとびっくりしました。牧師や長老はいつも言ってる。神の御言葉と働きはすべて聖書にあり、主への信仰は聖書を基にしなければならず、聖書から離れるのは異端だと。二人が説いてることは聖書から外れてる。主の道から離れたの? そこで私は言いました。「あなたたちのお話は、牧師や長老が説いてることと違います。残念ですがもうお会いできません」。そしてすぐに切断しました。でも主の再臨の知らせが、頭の中でずっと鳴り響きます。姉妹の交わりは光に溢れて実践的だったし、聖書の奥義や神の御旨についてたくさん理解できた。「東方閃電は神から来たってこと? 聞かないで主をお迎えする機会を逃したら、後悔しても手遅れだわ」。でも牧師の言葉が頭に浮かび、惑わされるのではと不安でした。心が両側から引っ張られるような気分です。そこで心から主に祈り、正しい選択へのお導きを求めました。

翌朝、姉妹たちとまた話し合うことになってましたが、いつも愛と忍耐に満ちてたことを思うと、参加しないと伝えなければ失礼な気がしました。そこでいつも通り接続し、すぐにこう言いました。「お二人の交わりにはとても光があり、読んでくれたものも実践的でした。でも、主イエスはもう戻られ、新たな働きをなさり新たな御言葉を表わされてるなんて、聖書と主の道から外れています。神の御言葉と働きはすべて聖書にあると牧師や長老は言っています。聖書の外に神の新たな御言葉がどうしてあり得るでしょう」。

すると謝姉妹が辛抱強く答えました。「『神の御言葉と働きは聖書の中にしかない』牧師や長老はいつもそう言います。ですが、この見方は事実と神の御言葉にかなっているでしょうか。主イエスはそうおっしゃいましたか? 聖霊は? 神の御言葉も真理も土台でなければ、その見方は人の観念の一つに過ぎず、成立しません。聖書に精通した人なら、旧約聖書を編集する際に漏れがあったので、預言者が伝えたヤーウェ神の御言葉の一部は旧約聖書に記されなかったと知っています。たとえばエズラの預言は聖書に含まれていません。これは有名な事実です。主イエスは働きをなさりつつ、四福音書に記された以外の御言葉も語られています。ヨハネの福音書にこうある通りです。『イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う』(ヨハネによる福音書21章25節)。牧師や長老の見方に従えば、聖書に記されていない神のそうした御言葉を拒んで断罪していませんか? また、主イエスはこうはっきり預言されました。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう』(ヨハネによる福音書16章12-13節)。黙示録にも次の預言が多くあります。『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』(ヨハネの黙示録2、3章)。それに小羊が開く巻物や、七つの雷の轟き。これらの御言葉は、終わりの日に戻られた主がより多くの御言葉を語られること、それを前もって聖書に記すのは不可能であることを教えています。神の御言葉が聖書にしかなければ、これらの預言はどう成就するでしょう? 神は創造主、永遠に流れる生きた水の源です。聖書に記された言葉しか語っていないなんて、どうしてあり得るでしょう?『神の働きと御言葉はすべて聖書の中にあり、それ以外のところにはない』と牧師は言います。でもそれは、再臨した主イエスの働きと御言葉を拒み、断罪していないでしょうか」。

彼女の交わりを聞いて思いました。「そう、主は戻ってもっと多くの言葉を語ると預言された。その御言葉は聖書の外(そと)にあるはず」。でも聖書から離れるのを考えると不安でした。「聖書から離れるのは異端だと、牧師や長老はいつも言ってる。信仰で迷ったらどうしよう? 自分はずっと主を信じ、いつも聖書を読んできた。世界中のクリスチャンは聖書を信仰の土台にしてる。聖書は信仰の柱。そこから離れてどうして主を信じられるだろう?」そう考えて無言になりました。

私が一言も言わないのに気づいた陳姉妹は、交わりを終わらせました。そして切断したあと、『聖書から出てくる』という福音映画の短編動画「神は聖書に沿って働きを行なうのか」を送り、見てほしいと言いました。リンク先を開くと、主人公の王月(ワンユエ)が牧師と交わりをしてる場面で、すぐに引き込まれました。彼女は言いました。「神は聖書の外で救いの働きをなさらず、聖書から外れたものは異端だと言われました。そこでお訊きします。聖書と神の働き、どちらが先でしたか? 神は始めに万物を作られ、世界を洪水で滅ぼし、ソドムとゴモラを焼かれました。神はそうなさったとき、旧約聖書は存在してましたか? 恵みの時代に主イエスが働きに来られたとき、新約はありましたか? 旧約も新約も、すでに終わった神の働きに関する人の記録を基に編集された。神は聖書に沿って働きをなさらず、それに縛られることもありません。ご自身の経営計画と人類の必要に沿って働きをなさるからです。だから、神の働きを聖書に限ることも、聖書で神の働きを規定することもできません。神にはご自身の働きをなさる権利があるからです」。王姉妹の話を聞いて心が明るくなりました。「主イエスが働きに来られたとき、新約聖書は存在しなかった。神が万物を創って律法を発したときも、旧約は存在していない。それは否定できない! どうして今まで思いつかなかったんだろう?」

動画の交わりは続きます。「聖書から外れたものは異端だと言うなら、神による歴代の御言葉と働きをすべて否定していませんか? 主イエスは旧約に沿って働きをなされなかった。悔い改めの道を説き、病人を癒やして悪霊を祓い、安息日を守らず、七の七十倍人を赦されたけど、どれも旧約には載っていません。パリサイ人や祭司長や律法学者は、それらを主に突きつけ、主の働きを異端だと断罪した。神を信じながら拒んだんです」。

そして姉妹は全能神の御言葉を二節読みました。「聖書の実情を知る人はいない。つまり、聖書は神の働きに関する歴史的記録に過ぎず、神による以前の二段階の働きについての証しであること、また聖書は神の働きの目的について何も教えていないことを、誰も知らないのである。聖書を読んだことがある人はみな、そこには律法の時代と恵みの時代における二段階の神の働きが記録されていることを知っている。旧約はイスラエルの歴史と、創造から律法の時代の終わりに至るヤーウェの働きを記録している。また新約では、地上におけるイエスの働きが四福音書に記されており、それとともにパウロの働きも記録されている。これらは歴史的記録ではないのか」(『言葉は肉において現れる』の「聖書について(4)」)。「イエスの時代において、イエスは当時、ユダヤ人と自分に従う全員を、自身における聖霊の働きにしたがって導いた。イエスは聖書を自身の行為の基礎とせず、自分の働きにしたがって語った。イエスは聖書の記述を気に留めることも、自分に付き従う人々を導く道を聖書に求めることもしなかった。イエスは働きを始めた当初から悔い改めの道を広めたが、その言葉は旧約の預言の中で一切触れられていないものだった。イエスは聖書にしたがって行動しなかっただけでなく、新たな道を導き、新たな働きを行なった。イエスは教えを説く際に、一度も聖書を参照していない。律法の時代、イエスのように奇跡を行ない、病を癒し、悪霊を祓える者は一人もいなかった。イエスの働き、教え、そしてイエスの言葉の権威と力も、律法の時代の誰よりも勝っていた。イエスはひたすら自分の新たな働きを行ない、多くの人が聖書を用いてイエスを断罪しても、さらには旧約を用いてイエスを十字架にかけても、イエスの働きは旧約を超えていた。そうでなければ、なぜ人々はイエスを十字架にかけたのか。それは、イエスの教え、あるいは病を癒して悪霊を祓うイエスの能力について、旧約に何の記述もなかったからではないのか。イエスの働きは新たな道を導くためになされたのであり、わざと聖書に戦いを挑んだり、意図的に旧約を放棄したりするものではなかった。イエスはただ自分の職分を果たすため、また自分を切望して探し求める人々に新たな働きをもたらすために来たのであって……人々にとって、イエスの働きには根拠がなく、旧約の記述に反することが数多くあるかのように思われた。これは人の過ちではなかったか。神の働きに教義を当てはめる必要があるのか。また、神の働きは預言者たちの預言に合致しなければならないのか。結局のところ、神と聖書のどちらが偉大なのか。なぜ神が聖書にしたがって働きを行なわなければならないのか。神には聖書を超える権利がないということか。神は聖書から離れて別の働きを行なうことができないのか。なぜイエスと弟子たちは安息日を守らなかったのか。仮にイエスが安息日を踏まえ、旧約の戒めにしたがって実践するつもりだったなら、なぜ到来後に安息日を守らず、その代わりに足を洗い、頭を覆い、パンを裂き、ぶどう酒を飲んだのか。これらはみな、旧約の戒めにないのではないか。イエスが旧約を尊重していたのなら、なぜそれらの教義を破ったのか。神と聖書のどちらが先に来たか、あなたは知るべきだ」(『言葉は肉において現れる』の「聖書について(1)」)。

王姉妹は続けました。「聖書は律法と恵み両時代における、神の働きの二段階の記録に過ぎません。万物と人類を創ったあと、神が人を導き、贖った、二段階の働きの記録であって、人類を救う神の働き全体は表わせません。神の働きは絶えず前進します。終わりの日、神は新たな時代を始めて新たな働きをなさり、より多くの真理を人に与え、永遠に罪から逃れられるようにします。清められ、完全に救われ、天国へ入れるように。ゆえに神は、聖書に記された古い働きを基に人を導かれず、すでになさった働きを繰り返すことなどありません。神は創造主にして聖書の主です。聖書を超え、経営計画に沿って新たな働きをなさる権利があります。だから、『神の御言葉と働きはすべて聖書にあり、そこから離れるのは異端だ』というのは、神を規定し冒涜する無理な主張です。そう語る人は神の働きを知らず、神に逆らっています。神は聖書でなくご自身の計画に沿って働かれます。主イエスは悔い改めの道を説き、悪霊を祓って病人を癒やし、安息日を守らず、常に赦すよう人に教えました。それはどれも旧約聖書から外れてませんか? 主は旧約の律法をも破りましたが、それでも神の働きじゃないですか?」私はずっと主を信じ、牧師の言葉を信じてそれにしがみついてた。「神の御言葉と働きはすべて聖書にあり、そこから離れるのは異端だ」。私は神の働きを断罪してたの? 今は自分の愚かさと戸惑いがわかります!

その後は時間があるたび、全能神教会が作った福音映画をユーチューブで見たのですが、ある日、「神と聖書の関係はどのようなものか」という短編動画をクリックしました。その中の御言葉がとても感動的だったので、一緒に見ましょう。全能神は言われます。「聖書が存在するようになって以来、人々の主への信仰は聖書への信仰であり続けた。人々は主を信じていると言うよりは、聖書を信じていると言ったほうがいい。聖書を読み始めたと言うよりは、聖書を信じ始めたと言ったほうがいい。そして、主の前に帰ったと言うよりは、聖書の前に帰ったと言ったほうがいいだろう。このように、人々はまるで聖書が神であるかのように、まるでそれが自分たちのいのちの源であって、それを失うのはいのちを失うことと同じであるかのように、聖書を崇める。人々は聖書を神と同じくらい高いものと見なしており、神より高いと思う人さえいる。たとえ聖霊の働きがなくても、また神を感じられなくても、人々は生きていける。しかし、聖書を失くしたり、あるいは聖書の有名な章句を失ったりしたとたん、まるでいのちを失ったかのようになる」(『言葉は肉において現れる』の「聖書について(1)」)。「彼らはわたしの存在を聖書の範囲内でしか信じず、わたしと聖書を同一視している。聖書がなければ、わたしはいない。わたしがいなければ、聖書はない。彼らはわたしの存在や業を無視し、その代わりに聖書の一字一句に極端な特別の注意を払う。また、さらに多くの人が、聖書で預言されていない限り、わたしは自分のしたいことを何もしてはいけないとさえ信じている。このような人は聖書の文章を重視し過ぎているのだ。彼らは言葉と表現を大事にするあまり、聖書の語句を用いてわたしの発する一言一句を評価したり、わたしを批判したりするほどだ、と言える。彼らが求めているのは、わたしと相容れる道ではなく、また、真理と相容れる道でもなく、聖書の語句と相容れる道なのだ。また、聖書に合致しないものは例外なく、わたしの働きではないと信じている。そうした人々はパリサイ人の忠実な子孫なのではないか。ユダヤのパリサイ人は、モーセの律法を用いてイエスを罪に定めた。彼らは当時のイエスと相容れることを求めず、律法の字句に忠実に従うあまり、イエスが旧約の律法に従っておらず、またメシヤでもないと断罪して、最後は無実のイエスを十字架にかけたのである。彼らの本質は何だったのか。真理と相容れる道を求めていなかったのではないか。彼らは聖書の一字一句にこだわり、わたしの旨に注意を払わず、わたしの働きの手順や方法にも無関心だった。真理を求める人たちではなく、あくまで字句に固執する人たちだった。彼らは神ではなく、聖書を信じていた。つまるところ、彼らは聖書の番犬なのである」(『言葉は肉において現れる』の「あなたはキリストと相容れる道を探さなければならない」)。

この動画を見て気づきました。聖書に精通していても、神を本当に知ってる、神に従ってることにはならない。ユダヤのパリサイ人は聖書の解説に優れてましたが、主イエスを十字架にかけた。聖書を理解することと神を理解することは同じでなく、聖書を守っても主の道に従うことにはなりません。自分は長年聖書を読んで少しばかり理解してたけど、実は主をまったく知らないのだとわかりました。聖書は主を表わせる、聖書への信仰は主への信仰である、聖書を守ることが主の道を守ることだと誤解してた。終わりの日に神が現われ働きをなさっているという謝姉妹の証しを聞いても、私は調べようとしなかった。その後全能神の御言葉を読んでも、それが真理で神の御声だと心でわかっていたのに、聖書にないからといって、容易に受け入れなかった。聖書を崇めてしがみつき、神の新たな御言葉と働きを受け入れようとしなかった。主イエスに逆らったパリサイ人とどこが違うでしょう? こう考えて恐ろしくなりました。「自分の観念を捨てなきゃ。全能神の御言葉をもっと読まなきゃ」。

次の集会で、福音映画を見て得たものと理解したことを姉妹に伝えたところ、二人とも大喜びで御言葉の一節を読んでくれました。「終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。人はこの真理を通していのちを得ることができ、この真理を通してのみ、神を知り、神に良しと認められる。終わりの日のキリストが与えるいのちの道を求めないなら、あなたは決してイエスに良しと認められず、天国の門をくぐる資格も得られない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり、歴史に囚われた人だからである。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることができず、永遠のいのちの道も得られない。と言うのも、彼らがもっているのはどれも、玉座から流れるいのちの水ではなく、何千年も執着してきた汚水だからである」(『言葉は肉において現れる』の「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」)。

そして謝姉妹がこう言いました。「終わりの日、全能神は神の国の時代を始め、恵みの時代を終わらせます。真理を表わし、神の家から始まる裁きの働きをなさり、人類を永遠に清めて救うのです。全能神は数百万語の御言葉を語られました。その大半は神の国の時代の聖書、『言葉は肉において現れる』に収められ、聖書の重要な奥義を明かしています。主をお迎えする賢い乙女、携挙の意味、災害の前に作られる勝利者、六千年にわたる神の経営の働きの奥義、三段階の働きの内幕、三段階の働きの関係とその結末、受肉と終わりの日の裁きの奥義聖書に関する内幕などです。全能神はまた、背きを許さないご自身の義と威厳に満ちた性質を明かし、サタンによる人類の堕落の真相を暴いて裁き、人が神に逆らい抵抗する根源を分析して、人への御旨と要求を伝えます。神への真の信仰とは何か、神に従い、神を畏れ、神の証しをするとは何か、真理を実践して正直になり、有意義な人生を生きるにはどうすればよいか、などです。全能神の御言葉は豊富で、私たちに必要なすべてのことを含んでます。これらの真理は、神が終わりの日に人に与える永遠のいのちの道で、人を清めて変え、罪から逃れさせ、完全に救って神の国へと導けます」。

姉妹の交わりですべてはっきりしました。こんなに多くの真理を表わす全能神こそ、生きた水の永遠の源なんです! 全能神の御言葉は神の御声で、全能神こそ再臨された主イエスだと納得しました。私は長年神を信じてきたけど本当は知らず、牧師や長老の言うことを信じてた。神の御言葉と働きを聖書に限定し、神の国の福音を受け入れようとしなかった。神はそれでも私を見捨てず、姉妹を使って何度も福音を説いてくださった。神の御声を聞いて主の再臨をお迎えし、御座から流れる生きた水の糧を享受できるなんて、本当に幸運でした。これは私に対する神の恵み。全能神に感謝します!

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