清めへの道

2022年7月15日

1990年、私は主イエスの御名において洗礼を受け、98年に教会の同労者になりました。聖霊の働きと導きのおかげで、主のために働く無限の活力が湧き、説教の源も尽きませんでした。弱く消極的になっている兄弟姉妹をしばしば支え、不信者である彼らの家族に辛く当たられても、忍耐と寛容を保ちました。クリスチャンになって大いに変わったと感じたものです。しかし2010年になると主の導きを感じられず、働きへの活力も以前ほどではなくなりました。新たな啓きがないままいつも同じことを説教し、夫や娘が気に入らないことをすると、腹が立って叱らずにはいられませんでした。それは主の御心じゃないとわかっていたので、祈り、告白し、悔い改めましたが、また罪を犯して忍耐と寛容を失ってしまうのです。そのせいで惨めな気持ちでした。罪を犯しては告白する生活から逃れようとこつこつ聖書を読み、断食し、告白しました。探求を助けてもらおうと牧師にも頼みましたが、まったく役に立ちませんでした。

2017年になると、あちこちで働き説教しながらも、絶えず罪の中で生きていたせいで、空虚さと不安を感じ、その気持ちはますます強くなりました。ある日、夫から訊かれました。「最近元気がないね。何かあったの?」私はそれに答えて自分の悩みを伝えました。「考えたんだけど、私はずっと信者で説教師。なのになぜ罪の生活から抜け出せないの? 主の存在を感じられない。まるで私から去られたよう。何年も主を信じ、聖書を沢山読み、主の道を聞いてきた。十字架を背負って自分に打ち勝つ決意をよくするけど、いつも罪に縛られてる。自分の利益と面子のために嘘をつき、『彼らの口には偽りがなく』(ヨハネの黙示録 14:5)。なんて無理。主が私の苦難と精錬をお許しになったのはわかるけど、主を責めて誤解せずにいられないの。喜んで従えない。このまま罪の中で生き続ければ、主が来られるとき天国に入れないと不安なのよ!」

夫は答えて言いました。「どうしてそう考える? 説教師なんだから、信仰をもたなきゃ! 君はいつもこう言ってないか? 我々は罪の中で生き、逃れられないが、聖書にはこうある。『すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである』(ローマ人への手紙 10:9-10)。『主の御名を呼び求める者は、すべて救われる』(ローマ人への手紙 10:13)。我々は罪の中で生き、逃れられないが、罪を赦されている。信仰によって義とされ、救われるんだ。集会に出て聖書を読み、十字架を背負って主に従う限り、天国に入って祝福される」。私は答えました。「私もそう考えてたわ。でも最近、ペテロの第一の手紙1章16節『わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである』そしてヘブル人への手紙12章14節『きよくならなければ、だれも主を見ることはできない』を見たの。私たちは救われたけど、いつも罪を犯しては告白してる。聖くなっていない。不安なのよ、こんな状態で天国に入れるだろうかって」。

それを聞いて夫はうなずき、教会が香港から陳牧師を招いたので、尋ねたらどうかと言いました。私は思いました。はっきりさせなきゃ。軽率に信仰してはいけない。さもないと自分も兄弟姉妹も傷つけてしまう。その後、私はネットで陳牧師を検索したのですが、出てきたページにこんなタイトルがありました。神の国降臨の福音そのサイトを開くと、中の言葉に引き込まれました。「人は肉の平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、そして病人の癒しなど、多くの恵みを受けた。残りは人の善行や外見上の信心深さだった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまずの信者だと思われた。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされたのだが、それは彼らが救われたという意味だった。しかし、このような人たちはその生涯において、いのちの道をまったく理解していなかった。ひたすら罪を犯しては告白することを繰り返すばかりで、自身の性質を変える道はもたなかったのである。これが恵みの時代における人間の状態だった。人は完全な救いを得たのか。いや、得てはいない。したがって、その段階の働きが終わったあとも、依然として裁きと刑罰の働きが残っているのである。この段階は言葉によって人を清めるものであり、それによって人に従う道を与える。悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。と言うのも、人の罪深い本性が根絶されることはないだろうし、人は罪の赦しで行き詰まるはずだからである。罪の捧げ物を通じ、人は罪を赦されてきた。なぜなら、十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に残っており、人は依然として罪を犯し、神に抵抗することができ、よって神はまだ人類を得ていない。そのため、神はこの段階の働きにおいて、言葉を用いて人の堕落した性質を暴き、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもさらに有意義であり、いっそう有益である。と言うのも、今、人に直接いのちを施し、人の性質を完全に一新させられるのは言葉だからである。それははるかに徹底的な働きの段階である。ゆえに、終わりの日における受肉は神の受肉の意義を完成させ、人を救う神の経営計画を完全に終わらせたのである(『神の出現と働き』「受肉の奥義〔4〕」〔『言葉』第1巻〕)。これを読んでとても興奮しました。私たち信者の状況をぴたりと言い当てていたからです。完全には理解できませんでしたが、希望を見出しました。清められて変わる道がここで見つかると思ったんです。祈りを聞いて下さった神に心から感謝しました。読むうちに、どれも本当に素晴らしい内容で、渇いた霊が水と糧を得ているように感じて、ここの人たちなら私の困惑を解決できるのではと思いました。そのページに「質問があればここにメッセージをどうぞ」とあったので、少しもためらわずにメッセージを送り、電話番号とメールアドレスを伝えました。

それを夫に言ったところ、彼も関心をもちました。翌日、全能神教会の方から連絡がありました。午後にチャットを始め、私は自分の困惑を伝えました。「私たちはいつも、ローマ人への手紙のこの一節に従っています。『自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる』(ローマ人への手紙 10:9)自分は主イエスに罪を赦していただいたからもう救われ、主が戻られるとき天国に入ると思っています。けれど今なお罪の中で生き、主の教えを守れず、罪から逃れることもできません。聖書には、聖くなければ主を見られないとあって、私は困っています。絶えず罪を犯す私のような人でも天国に入れるでしょうか? 全能神教会のウェブサイトには終わりの日、神は裁きと刑罰の働きをなさっているとあります。それは罪深い本性から逃れて天国に入ることと関係しているのですか?」

すると陳兄弟がこう話してくれました。「それを理解するには、まず『救われる』とは何かを知る必要があります。律法の時代の後期、人はますます神から離れ、神を畏れなくなりました。誰も律法を守らず、さらに罪を犯していたので、みな断罪され、死に処される可能性がありました。神は自ら肉になり、人類の罪の捧げ物として十字架にかけられ、人を律法のもとでの死から救われました。主が全人類を罪から贖われたので、私たちは主イエスの御名において祈り、主に告白して悔い改めれば、罪を赦されます。そうして律法に断罪されることなく、神の恵みと祝福を享受できるのです。これが恵みの時代に『救われる』ことの本当の意味です。つまり、私たちは罪を赦されたので、律法に断罪され、死に処されることがなく、神はその罪をもうご覧にならないということです。でもそれは、私たちが罪深くなく、罪を犯すことも神に抵抗することもないという意味ではありません。救われるとは、堕落していない、あるいは清められたという意味ではなく、まして神の国へ入るのにふさわしいという意味ではないのです。清められるには、神による終わりの日の裁きの働きを受け入れなければなりません」。

陳兄弟のお話から、ローマ人への手紙にある「救われる」とは主イエスの救いを受け入れ、律法のもと断罪され死に処されることがもうないという意味で、清められることではないとわかり、そこに求めるべき真理があると思いました。

続いて陳兄弟は全能神の御言葉を何節か読んでくれました。「当時、イエスの働きは全人類を贖う働きだった。イエスを信じるすべての人の罪は赦され、あなたがイエスを信じる限り、イエスはあなたを贖っただろう。イエスを信じるなら、もはや罪ある人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということ、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆らうものが残っており、それはやはり徐々に取り除く必要があった。救いとは、人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人がもう罪の中におらず、罪を赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないのである(『神の出現と働き』「神の働きのビジョン〔2〕」〔『言葉』第1巻〕)。「人は……罪を赦されたが、人の中にある堕落したサタン的性質がいかに清められるかについて言えば、その働きはまだなされていなかったのである。人は信仰のゆえに救われ、罪を赦されただけで、人の罪深い本性は根絶されず、依然としてその内面に残っていた。人の罪は神の受肉を通じて赦されたが、それはその人の中にもはや罪がないという意味ではない。人の罪は、罪の捧げ物を通じて赦されることができたものの、どうすれば人がこれ以上罪を犯さないようになり、その罪深い本性が完全に根絶され、変化するかということについて言えば、人にはその問題を解決する術がないのである。人の罪は神による磔刑の働きゆえに赦されたが、人は以前の堕落したサタン的性質の中で生き続けた。そのため、人は堕落したサタン的性質から完全に救われなければならない。そうすることで、その人の罪深い本性が完全に根絶され、二度と芽生えなくなり、かくして人の性質が変わるのである。そのためにも、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変える道を把握しなければならない。さらに、人はこの道に沿って行動することが求められる。その結果、人の性質は次第に変わり、その人は光の輝きの下で生き、何事も神の旨に沿って行ない、堕落したサタン的な性質を捨て去り、サタンの闇の影響から自由になることができ、それにより罪から完全に抜け出せるのである。このとき初めて人は完全なる救いを受けることになる(『神の出現と働き』「受肉の奥義〔4〕」〔『言葉』第1巻〕)。「イエスは人のあいだで数多くの働きをしたが、全人類の贖いを完了させ、人の贖罪のためのささげものとなるだけだった。人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかったのである。サタンの影響から完全に人を救うには、イエスが罪のささげものとなって人の罪を背負うことだけでなく、神がさらに偉大な働きを行い、サタンによって堕落させられた性質を完全に取り除くことが必要だった。そこで、人が罪を赦された今、神は人を新しい時代に導くために肉へと戻り、刑罰と裁きの働きを開始した。この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)

そして陳兄弟はこう話してくれました。「神の御言葉は、終わりの日における裁きの働きの理由をはっきりさせています。主イエスは恵みの時代に贖いの働きをされただけで、私たちの罪を赦されましたが、私たちの罪深い本性は本当に根深く、依然としてサタンの性質があります。自分の利益のために嘘をついて騙し、嫉妬して憎みます。世の流れに従い、貪欲で、不義を喜びます。サタンの本性がそのままなら、いつでも罪を犯して神に抵抗するでしょう。主イエスは言われました。『よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる(ヨハネによる福音書 8:34-35)。神は聖く、その義なる性質は背きを許しません。常に罪を犯して反抗する人を、どうして神が御国に入らせるでしょう。だから、神は徹底的に人類を救うべく、終わりの日に再び受肉され、贖いの働きをもとに真理を表わし、人を裁いて清められるので、人は完全に罪から自由になり、清められ、神の国に入れます。これで主イエスの預言が成就します。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう(ヨハネによる福音書 16:12-13)。『わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう(ヨハネによる福音書 12:48)。そしてペテロの第一の手紙。『さばきが神の家から始められる時がきた(ペテロの第一の手紙 4:17)。恵みの時代の贖いの働きにしがみつくだけで、神による終わりの日の裁きを受け入れなければ、罪深さの根源は決して解消できません。全能神による終わりの日の裁きの働きを受け入れるのは、堕落を清められて天国に入る唯一の道なのです」。

陳兄弟のお話を聞いて心が明るくなりました。道理でどんなに祈って聖書を読んでも、自分を抑えようとしても、罪を犯すわけです。それは私の罪深さが解消されていないせいでした。神による終わりの日の裁きの働きを経験していなかったんです! 神による裁きの働きは、どのように人を清め、変え、完全に救うのでしょう? 私は切実な思いで訊きました。

すると陳兄弟は全能神の別の御言葉を読んでくれました。「終わりの日のキリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。こうしたさまざまな方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みはどれも、通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、神について徹底的に納得し、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである(『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」〔『言葉』第1巻〕)。そしてお話を続けました。「終わりの日、神はおもに真理を表わし、人を裁いて清められます。全能神は人を清めて完全に救うすべての真理を表わし、人類を救う計画の奥義を明かされるとともに、世の悪と闇の根源、サタンが人を堕落させ、神が人を救われる方法、サタンによる人類の堕落の真相、罪を犯して神に抵抗する人のサタン的本性と様々なサタンの性質、神の御言葉の裁き、刑罰、試練、精錬によって人はどう清められるかなどを明かされました。御言葉の裁きと刑罰を数年受けるとこう感じます。人を裁いて暴く神の御言葉は鋭い剣のようで、私たちの反抗心、堕落、誤った動機を暴き、サタンにどれほど深く堕落させられたかを示す。私たちは傲慢、不実、頑固、邪悪、悪意といったサタン的性質に満ち、人間らしさが一切なく、信仰の中で犠牲を払っても、単に祝福を得て天国に入るため。神と取引して恵みと祝福を得るのが目的で、神に従い満足させるためではありません。災害に遭ったり困難に見舞われたりすると、神を責め、心から神に従いません。素質や才能があったり、本分で成果を挙げたりすると、他の人に尊敬されるよう自分を誇示し、偉そうに叱りさえします。神の御言葉や働きが自分の観念に合わないと、神を批判して抵抗し、畏れを抱きません。神の御言葉と事実によって暴かれると恥ずかしくて隠れる場所もありません。心から悔い改めて自分を憎み、堕落したサタン的性質によって生きるのはもう嫌だと思います。また神の義なる性質を認識し、神への畏敬が膨らみます。神の裁きと刑罰を進んで受け入れて従い、真理を実践して堕落を捨て去ります。そしていのちの性質が徐々に変わりだします。これはどれも、神による終わりの日の裁きを経験することで成し遂げられるのです」。

兄弟のお話は本当に感動的でした。神による終わりの日の裁きの働きがとても有意義なこと、神がとても実践的に真理を表わし、人を裁いて暴かれることがわかったのです。どれも私たちを清め、完全に救うため。神による終わりの日の裁きの働きを経験しなければ、堕落した性質は決して清められず、神の国へ入るのにまったくふさわしくありません。交わりの数日後、全能神は再臨された主イエスでいらっしゃり、その御言葉こそ聖霊が諸教会に語る言葉だと確信しました。そしてためらいなく、全能神による終わりの日の働きを受け入れたのです。私は信者になってからずっと罪に囚われながら生きてきましたが、いまようやく清めと完全な救いの道を見つけました。全能神に感謝!

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