堕落した性質を解決する方法がわかった

2023年7月12日

我が家はカトリックで、僕は子どものころから主を信じてた。やがて、日曜日に教会へ行くだけで、残りの日は世俗の生活を送っている信者がいることに気づいた。未信者と同じく煙草を吸って酒を飲み、パーティーを楽しんでる。主の求めに従わず、罪を犯してると思ったが、僕も罪の中で生きていた。嘘をついて腹を立て、嫉妬する。神父に罪を告白しても、罪を犯しては告白する悪循環から逃れられない。途方に暮れたよ。そこで別の教派に移り、罪から逃れる道を見つけることにした。

その後、仕事でラウル兄弟と出会った。長年のクリスチャンだ。色んな教会に通ってたけど、牧師の説教に光がなく、常に献金を求めるので出るのをやめたそうだ。いつも金銭を欲しがり、問題を抱えた兄弟姉妹が助けを求めても、こう言うだけ。「まず説教師のところに行って、それでもだめならここに来なさい」と。僕はすっかり混乱した。教会でどうしてそんなことが起きるんだろう? その後、五、六ヵ所の教会に行ったけど、どこもラウル兄弟の言う通りだった。ある集会では、信者がチェスに興じ、宴会を開いてた。教会に聖霊の働きがなく、宗教関係者の娯楽の場になっていたんだ。教会に行くのが嫌になったけど、聖書にこうある。「ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか」(ヘブル人への手紙 10:25)。じゃあ、どこで集まればいい? 僕は途方に暮れた。クリスチャンの教派は千を超える。神の導きと聖霊の働きがあるものを見つけるのは難しい。ラウル兄弟もどこに行けばいいかわからずにいた。そこで今の会衆を離れ、空いた時間で聖書を学ぶことにしたんだ。一緒に聖書を読み、理解したことを伝え、互いに助け合った。

毎日祈り、聖書を読むうち数年経ったけど、本当に悩みだったのは、嫌なことが起きたり自分の利益が損なわれたりすると、怒りを抑えられないことだった。作業中、ラウル兄弟から助手を務めてほしいと言われたことがある。何か頼んで、僕がよくわからなかったりすると、口調が厳しくなるんだ。僕は腹が立ってこう思った。君の伝え方が悪いのに、怒鳴りつけて間抜けのように接してる。我慢できない。そこで僕も怒鳴り返すんだ。二人とも我を忘れ、怒りを抑えきれず、結局別れる。話を聞くのも説明するのも嫌だったけど、落ち着いたら話し合い、過ちを認めて互いに謝るんだ。自分が罪から脱してなくて、ひたすら罪を犯して神に逆らってるのはわかってた。そこで神に祈って告白し、自分を抑えようとした。でもいくら頑張っても、結局元の木阿弥で、昼に罪を犯して夜に告白する。この悪循環で惨めになり、自責の念を感じ、自分に失望した。どうして罪から逃れられないのかと自問したよ。ラウル兄弟とそれを何度も話したけど、自分たちではどうしようもできず、独善、傲慢、尊大さは明白で、聖くなれないとわかっていた。

あるとき、聖書の理解について話し合っていると、こんな聖句を見つけた。「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである(レビ記 1:16)。「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない(ヘブル人への手紙 12:14)この聖句に、僕らは考え込んだ。聖くなれと主は言われてるのに、僕らは罪の中で生きてる。どうして聖くなれるだろう? 僕らには道がなかった。牧師にも訊いてみたけど、こう言われた。「肉体の中で生きている限り、聖くはなれない。主イエスは我らの罪を贖った。我らの罪はすでに赦され、主は罪人と見ていない。雲に乗って来るとき、我らを天国へ引き上げる」と。僕はこれを聞いてほっとしたけど、まだ困惑してた。主は聖く、僕らは常に罪の中で生きてる。戻られた主に天国へ引き上げてもらえるのか?

2019年7月のある日、ラウル兄弟といつもの聖書学習会を開き、「聖書」をウェブ検索すると、全能神教会の『終電に乗る』という映画を見つけたんだ。それを見て本当に驚いたよ。素晴らしい映画で、語られてる真理に光があった。中でも、ある姉妹がこう言うシーン。主イエスは贖いの働きをしたけど、人の罪を赦しただけで罪深い本性は解決しなかった。罪を犯して神に逆らうのはそのせい。牧師から普通の信徒まで、主の信者に目を向けると、誰が罪から脱したと言えるだろう? 誰もいない。人は例外なく罪に縛られ、抑えられてる。堕落の中で生き、傲慢で、自分勝手で、狡猾で、貪欲だ。嫌でも罪を犯してしまう。中には謙虚で優しく見える人もいるけど、心は堕落で一杯だ。神の旨を行ない、最後に神から望まれる聖い人じゃない。だから神は働き続けて人類を救い、罪の赦しを基に裁きの働きを行ない、人を清めて救わなければならない。人が罪から脱して清くなり、神の国に入って永遠のいのちを得られるように。登場人物の言うことはどれも真実で、現実を反映してた。初耳のことばかりで、本当に興奮したよ。どうして新たな光を伝えられるんだ? どこから得たんだろう? すると、『言葉は肉において現れる』という本を読むシーンがあったんだ。力と権威に満ちていて、それまで聞いたことのない内容だ。もっと聞いて調べたいと思った。見終わったあと、僕らは全能神教会に連絡し、オンライン集会に出て交わるようになったけど、全能神の御言葉に目からうろこだった。全能神は言われます。「人が贖われる前、サタンの害毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。そしてサタンによって何千年も堕落させられてきた人間には、神に抵抗する本性がすでに定着していた。だからこそ、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られるという贖い以上のものではなく、人の中の害毒に満ちた本性は取り除かれていなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるのにふさわしくなる前に変化を経なければならない。この裁きと刑罰の働きによって、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして完全に変わり、清くなることができる。この方法でしか、人は神の玉座の前へと戻るのにふさわしくなることができない。今日なされるすべての働きは、人が清められて変わるためのものである。言葉による裁きと刑罰、そして精錬を通じ、人は自分の堕落を一掃して清められることが可能になる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言ったほうが適切だろう。事実、この段階は救いの働きの第二段階であるとともに征服の段階でもある(『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」〔『言葉』第1巻〕)。「終わりの日のキリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。こうしたさまざまな方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みはどれも、通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、神について徹底的に納得し、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである」(『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」〔『言葉』第1巻〕)。これを読んでわかった。主イエスは贖いの働きをなさり、贖われた僕らはもう罪人じゃないけど、人の罪深い本性は取り除かれていない。だから変わらず罪を犯し、堕落を見せ、神に逆らってる。そう考えると、確かにそうだ。僕も冷静さを失うたび、あとで腹を立てた自分が嫌になる。そうしたくないのに、気に入らないことが起きるたび、立腹せずにはいられない。罪深い本性を解決しないと、罪から脱することができず、思考や言動で神に逆らうと気づいた。その後、全能神の御言葉をもっと読んで、人の罪深い本性を残らず暴いてることがわかった。サタンが人を堕落させる方法、罪から逃れて清められる方法、天国に入る人、懲罰される人、そして各種の人の結末など、ありとあらゆる奥義を明かしてる。人を裁いて暴く御言葉には、神の愛と救いがある。いかに厳しく聞こえても、どれも僕らが真理を理解し、サタンによる堕落の真相をはっきり見て、自分を憎んで悔い改め、変わるためだ。それがわかると嬉しくなって、全能神の御言葉を渇望した。それに兄弟姉妹との交わりも楽しんだ。

その後、教会指導者に選ばれたけど、あるとき、姉妹に助けを求められた。働きで問題に見舞われてるらしく、僕は自分の知識を基にアドバイスした。でも彼女は僕の言うことがわからず、別の姉妹に聞きに来てもらったんだ。僕がもう一度説明すると、二人は何も聞かず、うなずいた。そのとき指導者から呼ばれたんだが、プロジェクトに関する僕の考えを伝えてほしいと2人に頼まれた。もう2度も説明したから、繰り返したくなかったけど、しぶしぶもう一度説明した。それを聞いた指導者は何も言わず、資料を手渡し、プロジェクトの進め方を指示した。僕は腹が立った。僕の言うことを本当に理解したのか? 2人の姉妹にもう指示を出してるし、働きの采配を考えるのにずいぶん時間をかけたうえ、3度も説明した。その努力が水の泡なのか? 僕は苛立って指導者に言った。「僕の言うことをわかってるんですか? もう同意済みだし、お互いわかりあっているんですよ」。すると指導者は、「あなたの提案は問題ないけど、方法が複雑なの」と答えた。そして僕らに、プロジェクトをより早く簡単に済ませる方法を話した。確かにいいやり方だと感じたけど、悔しい思いがまさってこう考えた。僕の方法が採用されなかったら、みんなにどう思われるだろう? 些細な仕事さえ采配できない役立たずと思われるのか? 顔も上げられない。そう考えてますます落ち込んだ。その後指導者に、あの2人とプロジェクトに取り組むよう言われ、反発心を抱いてぶっきらぼうに答えた。やがて仕事が終わったけど、そこで堕落を示したことに不安と罪悪感を覚えた。いつも堕落の中で生き、変化できないのはなぜだろう? 指導者は責任を担い、効率を上げるいい提案をしてくれた。教会の働きにとっていいことだ。でも僕はそれを受け入れず、怒りすら覚えた。なぜ腹を立てたと自問した。その根源を見つけ、今すぐ自由にならないと。

その夜、教会のウェブサイトで怒りについて検索した。するとこの御言葉を見つけたんだ。「人間がひとたび地位を得ると、気分を制御するのが困難になり、事あるごとに不満を爆発させ、感情を露わにします。自分の力を示し、自分の地位や身分が一般人とは違うことを他人に知らしめるために、明確な理由なく人が激怒することさえ多々あります。もちろん、地位のない堕落した人間も、よく取り乱します。そのような人の怒りは、個人的利益が阻まれたせいで発生する場合が多くあります。自分の地位と尊厳を守るために、彼らはよく感情を発散させ、傲慢な本性を露わにします。人間は、罪の存在を正当化し是認するために突然激怒して感情を露わにします。そうした行動で、人は自分の不満を表すのです。このような行動は汚れや謀略に、人間の堕落と邪悪に、そして何よりも人間の向こう見ずな野心と欲望に満ちています」(『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 2」〔『言葉』第2巻〕)。御言葉のおかげで、人の怒りには原因があるとわかった。利益や評判に害が及ぶと、不満を爆発させ、怒りを露わにし、正常な人の理知を失う。つまり傲慢な本性に支配され、サタンの性質や否定的な物事を示すんだ。御言葉に照らして省みると、自分の意見が却下され、自尊心が傷つけられると、強い反発を感じた。指導者の方法のほうが自分より優れ、迅速かつ簡単でも、僕は怒りを覚えた。意見が翻されたものだから、みんなに見下され、役立たずだと思われると感じ、指導者にぶっきらぼうな話し方をした。そのとき、自分が本当に傲慢で、名誉と地位にこだわっていると気づいたよ。自分は立派で正しいと常に思い、みんなの声に耳を傾けようとしなかった。人の心中の地位を守ろうと、教会の働きに益をもたらすことを考えなかった。傲慢さのために理知を失い、神を畏れることも、神が整えた状況に従うこともなかったんだ。それがわかって後悔した。そこで神に祈って悔い改め、自己認識して傲慢さを捨てられるよう導きを求めた。

その後この一節も読んだ。「傲慢さは人間の堕落した性質の根源です。傲慢になればなるほど、人はそれだけ理智に欠け、理智に欠ければ欠けるほど、神に抵抗しがちになります。この問題はどれほど深刻でしょうか。傲慢な性質の持ち主は他のあらゆる人を見下すだけでなく、最悪なことに、神に対して威張りさえして、心の中には神への畏れがありません。神を信じて神に従っているように見えるものの、まったく神を神として扱っていない人がいます。そのような人は真理を自分のものにしていると絶えず感じ、自分を高く評価しています。これが傲慢な性質の本質と根源であり、それはサタンに由来します。ゆえに、傲慢さの問題は解決されなければなりません。誰も眼中にないと思うのは些細な問題で、傲慢な性質のせいで神、神の支配、神の采配に従わないことが重要な問題なのです。このような人は他人の支配を巡って絶えず神と競い合います。この種の人は神を少しも畏れず、神を愛することや神に従うことについては言うまでもありません。傲慢で自惚れている人、とりわけ自分の理知を失うほど傲慢な人は、神への信仰において神に服従することができず、自分を称揚して自分の証しさえします。このような人は神に最も抵抗し、神を畏れることなど絶対にありません。神を畏れるところに至りたければ、まずは自分の傲慢な性質を解消しなければなりません。自分の傲慢な性質を徹底的に解消すればするほど、あなたはますます神を畏れる心をもち、そのとき初めて神に服従することができ、真理を得て神を認識するのです。真理を得る人だけが真の人間です」(『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」〔『言葉』第3巻〕)。これを考えるうち、みんなの意見を正しく扱えないのは、傲慢な性質があるからだとわかった。僕は自分の言うことを聞かせたがり、他者の考えを受け入れようとしなかった。ラウル兄弟との作業を振り返っても、僕は傲慢で、厳しい口調に我慢できず、指導を受けたくなかった。それに妻や他の人たちが相手でも、自分の考えが一番よく、自分こそ正しいんだから、僕の言うことを聞くべきだと思った。信仰を得て兄弟姉妹と本分を尽くすようになっても、相変わらず傲慢さの中で生き、みんなの意見を受け入れない。自分のやり方がまずいとわかっていても、自分流に物事を行ない、みんなに言うことを聞かせたがる。理不尽なほど傲慢だ。僕は傲慢さに取り憑かれ、物事を理性的に見られなかった。自分は常に正しいと思ってたけど、みんなの意見のほうが優れ、大局的な見方をしてる時もある。それに妻と一緒にいても、正しいのは自分のほうだと思ったせいで、悪い結果になることもあった。これも同じだ。指導者のやり方は簡単で、遅れを生じさせず、よりよい結果を得られるのに、僕の方法は複雑で、時間もかかったに違いない。僕に理知がなく傲慢なのは、事実が示してる。謙虚になって地に足をつけ、自分の立場をわきまえるべきなんだ。こうした傲慢さの中で生き続ければ、最後は大天使になり、神を無視して逆らい、神の性質に背き、懲罰されて呪われるだろう。それに気づいてすぐ、神に祈った。「神よ、傲慢な性質で生きるのはもう嫌です。立場をわきまえ、正常な人間らしく生き、本分では兄弟姉妹の意見に耳を傾け、しっかり協力して本分を尽くし、あなたの旨を満たしたいのです」。

その後、御言葉をさらに数節読んだ。「あなたは傲慢な本性のせいでわがままになります。傲慢な本性があると、誰の話も聞かず、自分勝手に、向こう見ずに振る舞います。そうであれば、どうすれば自分勝手で向こう見ずになることを解消できますか。例えば、あなたに何かが起きたとします。あなたには独自の考えや計画があります。何をすべきかを決定する前に、真理を求めなければならず、少なくともそれについて自分が考え、信じていることについてみんなと交わり、自分の考えや計画が正しく、真理に沿っているかどうかをみんなに尋ね、最終的な確認をしてもらうよう頼まなければなりません。これが自分勝手さと向こう見ずを解決する最善の方法です。まずは自分の見方に光を当て、真理を求めることができます。自分勝手さと向こう見ずを解決するにあたり、それがあなたの実践すべき第一歩です。次の一歩は、他の人が反対意見を述べたときです。何を実践すれば自分勝手で向こう見ずになるのを防げますか。まずは謙虚な態度をとり、自分が正しいと信じていることを脇にのけ、みんなが交われるようにしなさい。たとえ自分が正しいと信じていても、それを主張し続けてはいけません。それは一種の前進であり、真理を求めて自分を否定し、神の旨を満たす態度を示しています。いったんこの態度をもったなら、自分の意見に固執せず、祈り、神に向かって真理を求め、神の言葉の中に基盤を探すべきです。つまり、神の言葉にもとづいて行動の仕方を決めるのです。これが最も適した、最も正確な実践です」(『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」〔『言葉』第3巻〕)。「堕落した人類にとって解決するのが最も難しい問題は、同じいつもの間違いを犯してしまうという問題です。これを防ぐには、自分がまだ真理を得ていないこと、いのちの性質が変わっていないこと、たとえ神を信じていても、いまだサタンの支配下で生き、救われておらず、いつでも神を裏切り、神から離れてしまいかねないことを、まず認識しなければなりません。心の中にこうした危機感があれば、つまり、人々がよく言うように、平時においても戦時に備えていれば、いくぶん自分を抑制できるようになり、自分の身に何かが起きても、神に祈って神に頼り、同じいつもの間違いを犯すのを避けることができます。自分の性質が変わっておらず、神を裏切る本性がいまだに深く根付いて一掃されておらず、神を裏切る危険が今なおあり、地獄に落ちて滅ぼされる可能性に絶えず晒されていることを、はっきり知らなければなりません。これが現実なので、注意しなければなりません。心に留めるべき最も重要な三点を挙げます。第一に、あなたはいまだに神を知りません。第二に、あなたの性質は一切変化していません。第三に、あなたはいまだに真の人間の姿を生きていません。これら三点は事実に符合しており、現実であり、あなたはそれらをはっきり理解し、自己を認識しなければなりません。この問題を解決する意欲があるならば、自分の座右の銘を選びなさい。例えば、『わたしは地上の糞である』『わたしは悪魔である』『わたしはよく以前のやり方に陥ってしまう』『わたしはいつも危険に晒されている』などです。これらのどれであれ、個人的な座右の銘とするのに適しています。それを常に忘れないようにするなら、役に立ちます。それを心の中で繰り返し、反省しなさい。そうすれば、間違いを犯す回数が減るか、あるいは間違いを犯さないようになれるかもしれません。しかし何より大事なのは、神の言葉を読んで真理を理解し、自分の本性を知り、堕落した性質から脱することにもっと時間を費やすことです。そうして初めて安全になります」(『終わりの日のキリスト講話集』「真理を追い求めることでのみ、性質の変化を成し遂げられる」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉のおかげで理解できた。傲慢さを解決するには、みんなと協力し、探求して交わることを学ぶ必要がある。話し合いでは兄弟姉妹に自分の考えを伝え、自分が正しいと思っても、それにこだわらず、真理と神の旨を求め、みんなの意見に耳を傾ける。みんな平等に話し、意見を伝えられるべきだ。それが自分の意見と違っても謙虚に探求し、正しいと思うことは脇へのける。すると、みんなの発言を基に祈って探求し、神の導きと啓きを得ることができる。それで何が正しく最適か、自分の欠点や不足は何かがわかるんだ。また、他の誰かの意見のほうが優れ、正しいとわかったら、自分を脇にのけてそれを受け入れられるようになるべきだ。それが神の旨と合致してるし、過ちを防げる。それに加え、僕は自分の傲慢さに関する座右の銘を書き出した。「自分は糞土に過ぎず、誇るべき理知はない。自制心がないと、危険に身を投じる」。おかげで傲慢さという醜態を思い出し、傲慢さの中で生きる危険と結末を思い出せる。その後は神の御言葉を実践し、みんなの意見を聞くことに集中した。家でも、または教会で兄弟姉妹と本分を尽くしているときでも、誰かが自分と違う意見を出せば、自我を脇へのけるようになったんだ。みんなの考えのほうが大局的だとわかったし、それを心から受け入れ、優れた提案を実行できるようになった。そう実践して気づいたんだ。兄弟姉妹に腹を立てるのをやめ、みんなの言うことに耳を貸せるようになったと。それにかつてない気軽さを感じた。本当に神に感謝する!

お気に入りの御言葉がもう一節あるんだ。「人は自分の性質を変えることができず、神の言葉による裁きと刑罰、苦難と精錬を経験するか、あるいは神の言葉による取り扱い、懲らしめ、そして刈り込みを受けなければならない。そうして初めて、その人は神への従順と忠誠を実現することができ、もはや神に対していい加減ではなくなる。人の性質が変わるのは、神の言葉による精錬のもとである。神の言葉による暴露、裁き、懲らしめ、そして取り扱いを受けることでのみ、その人はあえて軽率に行動することがなくなり、平静沈着になる。最も重要な点は、神の現在の言葉、および神の働きに従えることであり、たとえそれが人間の観念と一致しない場合でも、それらの観念を脇にのけて進んで従うことができる、ということである」(『神の出現と働き』「性質が変化した人とは神の言葉の現実に入った人である」〔『言葉』第1巻〕)。全能神の御言葉は示してる。自分を抑えて変えるにあたり、自分の力や自制心には頼れない。自制の努力で振る舞いは多少変わるけど、その変化は長続きしない。本当の性質の変化を遂げたければ、御言葉の裁きと刑罰、批判、そして試練と精錬を受け入れなければ。それが自分のサタン的本性を知り、サタン的性質で生きる危険な結果を見る唯一の方法。そうすれば心から自分を憎んで捨て、真の悔い改めと変化を達成できる。

それに、終わりの日の裁きを経験させてくれた全能神に感謝してる。おかげで真理を学び、自己認識して堕落を解決できたんだ。本当に幸運だよ。全能神が罪の根源や、堕落した状態と振る舞いを明かしたおかげで、もう困惑することはない。それに罪を捨て去り、いのちの性質を変化させる道も与えてくれた。全能神の御言葉は実に豊かで、必要なものをすべて授けてくれる。困難や疑問への答えもそこにあるんだ。心から御言葉を読んで受け入れる限り、実践の原則と前進の道が見つかる。全能神に感謝!

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