懸命に働けば天国に入れるのか

2020年9月5日

私はカトリックの家庭に生まれました。神父はいつも神の戒めを守り、ミサに出て互いを愛し、善行を重ねよと言っていました。そうする人だけが真に敬虔な信者で、主が来られるとき天国に引き上げられると。私はよく自分に言い聞かせました。「いつも神の言う通りにして、積極的に善行を重ね、教会の規則を守らなきゃ。そうすれば主が私を愛してお褒めになり、戻られたら祝福して天国へ導いてくださる」。

大学生のとき、教会の奉仕にもっと参加できるよう私は休学しました。他の信者は、教会で祈ったりミサに出たりするときは敬虔そのものでしたが、教会を出ると煙草を吸って酒を飲み、パーティーで騒ぐ有様。嫌でした。「わたしを愛し、困っている人を助け、世の誘惑に用心せよと主は教えられてる。この人たちは敬虔に主を信じているように見えるけど、実は主のために何もしていない。みんな世俗の快楽を貪欲に求めてる。主の教えに反していない? 私は彼らのようにならない。時が来たら天国に入れるよう、主のためにもっと働くわ」

でも段々と、日々の生活で神の戒めを守れなくなりました。快楽を求める信者たちが幸福かつ自由に暮らしてるのに、私は逆境に苦しみ、神を責めずにいられなかった。主は自分のように人を愛せよと言われますが、私はいつも嫉妬し見下してました。家族に悪事を叱られても、言い訳して腹を立てるだけ。謙虚さと寛容が大事だと主は言われますが、私はどれも守れなかった。強い罪悪感を覚え、自分は名ばかりの信者ではと不安になって、考えました。「罪に打ち勝てないのはなぜ? 罪を犯すたび神父に告白し、善行をして償うけど、やっぱり同じ罪を犯してしまう。こんな信仰を神がどうして祝福なさるだろう?」でも、神父の言うことが頭に浮かびました。罪を犯しても、神父に告白すれば赦され、主のために働きひたすら善行を重ねれば、慈悲と祝福を見せて天国に導いてくださる。聖書にもこうあります。「わたしは立派に戦い走り抜いて信仰を守りました。今や義の冠がわたしを待つばかりです」(テモテへの第二の手紙 4:7-8)。これを読んで安心しました。ミサに出て、罪を告白し、主のために働いていれば、天国に入れる。それで、せっせと善行を重ねました。病院や刑務所を訪ね、孤児院でボランティアしたものです。

2017年のある日、いつものようにフェイスブックでニュースをチェックしてると、ベティーという姉妹の投稿した文章が目に入りました。「神を信じている人はたくさんいるが、神への信仰とは何を意味するか、神の心に従うためには何をしなければならないかを理解している人はほとんどいない。……『神への信仰』とは神の存在を信じることを意味し、これは神に対する信仰の最も単純な考えである。さらに、神の存在を信じることは、真に神を信じることと同じではない。むしろそれは強い宗教的含みを持つ単純な信仰である。神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を持つという信念に基づいて神の言葉と働きを経験することを意味する。堕落した性質から解放され、神の望みに応じ、神を知ることができる。そのような道程を経てのみ、神を信じていると言える。しかし、人々はしばしば神に対する信仰を、何か単純で取るに足らないものだと考える。このような形で神を信じる人は、神を信じることの意義を失っており、最後の最後まで信じ続けるかもしれないが、神の承認を得ることは決してない。なぜなら、彼らは間違った道を歩んでいるからである。今日でも、文字上でだけ、空しい教義上でだけ神を信じている人々がいる。彼らは自分たちの信仰には本質がないことや、自分たちが神の承認を得られないことに気が付かず、依然として平安と神からの十分な恩恵を願って祈っている。私たちは立ち止まって次のように自問するべきである。神を信じることは本当に地上で最も容易なことなのだろうか。神を信じることは神から十分な恩恵を得ることでしかないのだろうか。神を信じているが神を知らない人々、神を信じているが神に反抗している人々は本当に神の望みを満たすことができるのだろうか」(『言葉は肉において現れる』より引用)。とても新鮮に感じられ、読んだとたん引き込まれました。特に、最後の問いかけはこれまで考えたことがなく、こう思いました。「とてもすばらしいわ! 誰が書いたのかしら? こんな短い文章で神への信仰の意味と、私たちが信仰から得ようとしているものを暴いてる」この文章を見て、生まれて初めて自分の信仰をじっくり考え、それまでの信仰を振り返りました。教会の活動や儀式に何度も出て、積極的に教会の仕事をし、地域で善行を重ね、多少苦しんで代価を払った。でもそうしたのは家族と私が祝福され、神に守っていただき、なんと言っても天国に入るため。そうしたことを求める権利があって、私の信仰は神を満足させ、お約束と祝福を得られるといつも思ってた。でもこの文章を読んで、信仰のより深い意義にうっすら気づきました。私が善行を重ねて自分を拒んだのは、代わりに天国の祝福を得るため。神を真に愛してない。そんな信仰を、神がどうして褒められるでしょう? でも自分は二十年以上主を信じ、いつも教会の仕事をしてきた。私の苦しみと犠牲は無駄だったのか? この文章を考えれば考えるほど、ベティーさんの投稿をもっと見て、すっきりさせたいと思いました。そこで連絡を取ってオンライン集会をしたのですが、とても啓かれました。

まず、あの文章の感想を伝えました。「素晴らしい投稿でした。おかげで私が主を信じるのは祝福を得るためで、主を真に愛していないとわかりました。でも、わからないことがあります。聖書には『わたしは立派に戦い走り抜いて信仰を守りました。今や義の冠がわたしを待つばかりです』(テモテへの第二の手紙 4:7-8)。神父はいつも、よき働きと善行を重ねる限り、主に祝福されて天国に入れると言っています。主を信じてからずっと、私はそうしてきました。主がお忘れになるでしょうか? 私は天国に入れないのでは?」

するとベティーさんはこう話しました。「主のために絶えず苦労して犠牲を払い、善行を重ねれば、主は大いに満足され、再臨のとき天国へ引き上げてくださる。実は、それはパウロの言葉で、主イエスも聖霊もそう言っていません。この文章はパウロの見方を示すだけで、主の御旨ではないのです。人の言葉は真理でなく、神の御言葉だけが真理です。天国へ入ることについては、御言葉を優先させなければなりません。人の言葉に従えば、主の道から外れてしまうでしょう! では、天国に入れるのは誰でしょうか? 主イエスははっきり言われてます。『わたしに「主よ、主よ」という人がみな天国に入るのではない。天にいます我が父の旨を為すものだけが入る』(マタイによる福音書 7:21)。ここから天国に入る人を決めるにあたり、神は犠牲の量でなく、御旨を行なうかどうかだけをご覧になるとわかります。つまり、天国に入るには、罪深い本性を捨てて清められ、御言葉を行ない、心から神に従って愛し、崇拝しなければなりません。苦労して犠牲を沢山払っても、御言葉に従わず、いつも罪を犯して神に背けば、悪事をなす者です。そうした人は天国に入れません。主に抵抗したユダヤのパリサイ人はみな聖殿でずっと神に仕え、はるか遠くへ布教に出るなど大いに苦しみ代価を払いました。表向きは神に忠実なようですが、気にしていたのは宗教儀式を守ることだけ。人の伝統と教義を宣べ伝え、神の律法と戒めを捨てた。奉仕は神の御旨と正反対で、神の道から外れた。主イエスが来て働きをなさると、パリサイ人は公然と敵対し、自分の立場を守ろうとした。我も忘れて主を断罪・非難し、人が主に従うのをとめようとした。最後はローマと結託して主イエスを十字架にかけ、神の性質を犯してその懲罰を招いた。人が懸命に働き犠牲を払っても、神の御旨を行なっているわけではないのです。罪を清められない限り、神のために犠牲を払っても、罪を犯して神に反抗します。そして私たち。仲間を助けて親切に見え、懸命に働いているようでも、その目的は祝福されて天国に入ること。祝福されるたび、神に感謝して讃えますが、病気になったりすると、神を責めて誤解し、裏切りさえします。いつも自分の犠牲と善行を元手にして、他人の尊敬と崇拝を勝ち取り、名利と地位を得ようと、神のためにどれほど苦しみ働いたかを誇ります。気に入らない人や物事に出会うと腹を立て、御言葉を守れません。そこから私たちがそうするのは神を愛するためでも満足させるためでもなく、神と取引するためだとわかります。神を利用して騙し、自分の野心を満たすだけ。御父の旨を行なう人のわけがない。聖書には『わたしは聖いのだから、あなたがたも聖くあれ』(ペテロの第一の手紙 1:16)。聖なる神が私たちのような汚れた人をどうして天国へ導かれるでしょう? 罪深い本性を捨てて神への反抗をやめなければ、神に褒められず、天国へ入るのにふさわしくなれません」。

聞きながらこう思いました。「自分は善行を重ねて天国に入れると思ってたけど、自分の信仰は神の御旨に叶っていないようだ。聖くならなければ天国に入れない。どうしたら聖くなれるのかしら?」自分の思いと不安を伝えたところ。

答えの代わりに全能神の御言葉を読んでくれました。「あなたがたのように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む――あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである。」「イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了して人の贖罪のためのささげものとなるだけだった。人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかったのである。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう」(『言葉は肉において現れる』より引用)。そして彼女はこう話しました。「恵みの時代、主イエスは贖いの働きをなさっただけです。主の救いを受け入れると、告白して悔い改めれば罪を赦され、主が授けられる恵みと祝福を享受できます。確かに主イエスは私たちの罪を赦されましたが、罪深い本性とサタンの性質は解消されていません。ひとたびサタンに堕落させられると、傲慢、不実、利己心、貪欲といった堕落した性質に支配され、罪を犯して主に反抗します。実を言うと罪の根源は私たちのサタン的本性で、それを捨てなければ神への反抗をやめられず、天国に入る資格もありません。そのため主イエスは、終わりの日に戻って、真理を表わし、神の家から始まる裁きの働きをして、人のサタン的性質を完全に清めて変えるとおっしゃったのです。そのとき私たちは罪から自由になり、完全に救われ神のものとされます。主がこう預言されたとおりです。『わたしを拒み、言葉を受け入れない人には、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその人を裁く』(ヨハネによる福音書 12:48)。『言うことはまだ沢山あるが、あなたがたは今耐えられない。しかし真理の霊が来るとき、すべての真理を知らしめる。自分から語るのではなくその聞くところを語り、来たるべきことをあなたがたに告げる』(ヨハネによる福音書 16:12-13)。再臨された主による終わりの日の裁きの働きを受け入れることでのみ、すべての堕落が清められます。そのとき初めて神の約束を受け取り、御国に入るのにふさわしくなれます」。

ベティーさんの話に目からうろこが落ちました。長年、罪を犯しては神父に告白し、懸命に善行を重ねたけれど、罪を犯さずにいられなかった。主イエスは贖いの働きをされただけで、主を信じれば罪を赦されるけれど、罪深い本性はそのまま。だから罪を犯しては告白する悪循環の中で生きてきた。堕落を清める唯一の方法は、再臨された主の終わりの日の裁きの働きを受け入れること。そうしなければ、真に神を愛して従い、天国に入ることはできない。そう考えるととても幸せになりました。罪を捨てて天国に入る望みがあるんです!

次の日、ベティーさんは「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」という朗読を再生しました。それは途方もなく感動的で、御言葉に権威を感じました。その後、彼女が目を輝かせて言いました。「私たちが待ち望んできた主はすでに戻られ、それが受肉された全能神。全能神は多くの真理を表わし、神の家から始まる裁きの働きをなさいます。昨日読んだ御言葉と今日聞いた朗読はすべて全能神が発せられたものです。全能神が来られ、七つの封印を解いて小さな巻物を開かれ、私たちが理解していなかったすべての奥義を明かし、完全に救われ清められるのに必要なすべての真理を授けられた。これでヨハネの黙示録の預言が成就します。『耳ある者は霊が諸教会に語ることを聞くがよい』(ヨハネの黙示録 3:6)。今日神の御声を聞けるのは神の導きのおかげ。まさに祝福です!」

主が本当に戻られたという知らせを聞いて、喜びと興奮で一杯になりました。今聞いた朗読と前日読んだ御言葉は、どれも神の御言葉だった。道理で権威があるわけです! 主はいったいどう戻られるのか、その奥義を他に誰が明かせるでしょう? 神以外には不可能です。それが神の発した御言葉で、主が本当に戻られたことを完全に確信し、とても興奮しました! 主の再臨をお迎えできるなんて想像もしなかったのに、本当に幸運です! でも、まだ疑問がありました。「神はどのように裁きの働きをなさり、人を清めて完全に救うのでしょうか?」

彼女は答えの代わりに全能神の御言葉の一節を読んでくれました。「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このような方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みは通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、徹底的に納得して神への服従に向かうようになり、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである」(『言葉は肉において現れる』より引用)。読み終わるとこう言いました。「終わりの日、全能神は御言葉で働きをなさり、人類を裁いて清められます。人の反抗と不義を裁き、神に反抗する本性と堕落した性質を暴き、祝福への欲望とともに、汚れた信仰と誤った見方、神への様々な観念を裁いて暴かれます。また正直な人になる方法、御旨にしたがう形で仕える方法、心から神に従い愛する方法、御旨を行なう方法も示されます。神の刑罰と裁きを受けることで、自分がサタンに堕落させられたこと、自分の不実、傲慢、利己心、悪、貪欲がサタン的性質に由来することを知ります。その中に、背きを許さない神の聖く義なる性質を見て取り、自分を憎んで後悔し、真理を実践し始めます。するといのちの性質が変わりだしますが、それはどれも御言葉による裁きの成果です。」そして彼女は自分の経験を話してくれました。過去の信仰で自分は熱心に犠牲を払って主を愛していると思い、よく主に祈って恵みと祝福を求めたそうです。主のために苦しんだのだから、きっと報われ天国に入れると固く信じていました。神による終わりの日の働きを受け入れ、御言葉に裁かれたあと、自分の信仰観が間違いで汚れていることに気づき、自分の信仰は神を愛するゆえでも被造物の本分を尽くすためでもなく、祝福への欲望を満たし、代わりに天国の祝福を受けるためだと悟ります。神を利用し、取引していたのです。自分は利己的で人間性のかけらもないと思い、心から後悔して自分を憎み、神のお求め通り真理の追求を始め、やがて間違った信仰観は正され、利己的なサタンの性質も変わり始めました。堕落を本当に清められて自己認識する唯一の方法は、御言葉の裁きと刑罰を受け入れることだと知ったのです。

ベティーさんのお話から神が終わりの日に真理を表わし裁きの働きをなさるのはとても実践的で、本当に人を変えて清められるとわかりました。私たちには終わりの日の裁きの働きが必要で、今では堕落から自由になる道があるのです。本当に興奮しました。その後の集会で、ベティーさんは神の受肉の奥義、サタンが人を堕落させる方法、神が人を一歩一歩救われる過程、聖書の真相、人類を待ち受ける結末などを話してくれました。その真理は二十年以上神を信じる中で聞いたことがないものでした。全能神の御言葉を読んで、神の御声だとますます感じました。かくも権威と力に満ちた言葉を表わせるのは受肉した神だけです。神以外に、サタンによる人類の堕落の真相を誰が暴けるでしょう? 他に誰が私たちの信仰の過ちと信仰の正しい道を示せるでしょう? 誰が六千年にわたる神の計画の奥義を明かし、待ち受ける結末と終着点を示せるでしょう? 私は確信しました。全能神こそ再臨された主イエス、終わりの日のキリストだと! こうして全能神による終わりの日の働きを喜んで受け入れました。私を選んで救ってくださった全能神に感謝します。

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