聖書は主を表せるか

2022年7月15日

全能神は言われます。「神自身がいのちであり、真理であり、神のいのちと真理は共存している。真理を得られない者がいのちを得ることは決してない。真理による導き、支え、施しがなければ、あなたは文字と教義、そして何より死しか得られない。神のいのちは常に存在し、神の真理といのちは共存する。真理の源を見つけられなければ、いのちの糧は得られない。いのちの施しを得られないなら、真理を一切得られないことは間違いなく、ゆえに想像と観念を除けば、あなたの全身はただの肉、臭い肉でしかない。書物の言葉がいのちに数えられることはなく、歴史の記録が真理として崇拝されることはなく、過去の規則が神によって今語られている言葉の記録になることはないと知りなさい。神が地上に来て、人の間で生きているときに表わすものだけが真理であり、いのちであり、神の旨であり、神が現在働く方法である(『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」〔『言葉』第1巻〕)。主を信じていた時は、聖書の言葉にこだわってた。聖書は主を表し、いのちを得る唯一の道だと思ったから。でも神の御言葉で、それはすべて私の観念や想像だとわかった。神だけが真理で、神だけが人のいのちの源。聖書は神の働きの記録に過ぎず、現在の働きや御言葉の代わりにはならない。信者が聖書に固執して、神の足跡をたどらず、終わりの日の神の働きを受け入れなければ、たとえ最後まで信じても、真理やいのちは得られない。

2017年の夏のある日、同労者が厳しい声でこう言ったの。「君の母親は東方閃電と接触しているようだから気を付けたほうがいい。彼らは聖書に従わず、聖書にないことを信じているそうだ」って。とても信じられなかった。聖書を重んじる教会執事の母が、東方閃電と接触してるなんて。不安にかられた私は、確認するため急いで家に帰った。

家に着くと、母が私に言ったわ。主が戻られ、多くの御言葉を表し、神の家から始まる裁きの働きをなさってる。終わりの日の神の働きを調べて見なさいって。私はこう言ったわ。「牧師はいつも言うでしょ。聖書は神の黙示であり、すべて神の御言葉だって。主を信じることは聖書を信じることで、それ以外は主への信仰じゃないって。東方閃電が説く道は聖書を超えていて、主の道から外れているわ。関わるのはやめて」と。でも母は穏やかにこう言ったの。「ここ数日、全能神教会の人たちと集まって、いくつかの真理を学んだわ。信仰でわからなかったことがはっきりしたの。彼らの交わりには聖霊の導きと啓きがあるわ。牧師が決して口にしないことよ。あの人たちの集会は、とても楽しいし、ためになるの。主をお迎えするのは大事なことだから、まずは全能神の御言葉を読んで、兄弟姉妹の交わりを聞いてみて」と。母の断固とした態度に、それ以上何もいえなかった。自分の部屋に行って、落ち着いて母の言葉を思い返した。母の言う通り。話も聞かず東方閃電のことを勝手に決めつけるのは、理知に欠けること。でもこうも思った。「牧師はいつも、聖書はすべて神の黙示で、信仰の基礎だというけど、それも正しいわ」。私は大いに葛藤して、どちらに従うべきかわからなかった。正しい判断ができるよう、お導き下さいと主に祈ったわ。

次の日、母からまた言われたの。全能神の働きについて調べなさい、主をお迎えするこの機会を逃せば、後悔しても手遅れよと。だから思ったの。「どんなことを説いてるか、ちょっと聞いてこよう。そしたら全能神が本当に主の再来なのかわかるわ」って。そして、彼らの交わりを聞き行くことにしたの。集会では、全能神教会の楊(ヤン)兄弟が、神の6千年の経営計画について話してたわ。サタンによる人の堕落や、人類を救う神の働きの各段階についても。あれほどためになる交わりは初めて。どんどん興味をひかれて、東方閃電について調べてみることにしたの。

集会で一度、楊兄弟に聞いたわ。「牧師はいつも、聖書は神の黙示であり、そのすべてが神の御言葉だといいます。聖書のすべてが御言葉ではなく、人の言葉も含まれるという理由は何ですか」と。楊兄弟は辛抱強く答えてくれた。「宗教界の多くの人が、聖書は神の黙示であり、そのすべてが御言葉だという立場ですが、本当に御言葉に基づいているかは誰も調べていない。本当のところ、聖霊も、主イエスもそう仰ったことはなく、預言書にも書かれていません。『聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれた』とはパウロの言葉ですが、パウロは普通の人間であり、その言葉は真理ではありません。事実を調べず、その言葉だけで、聖書のすべてが神の御言葉だとやみくもに信じるのは、独断的ではないですか。本当のところ、預言書の中で、神の黙示、神の御言葉はほんの一部で、それらはすべて、『ヤーウェが言われた』『ヤーウェが話された』『イザヤの黙示』といった言葉で明確に示されています。残りは人の言葉であり、人間による神の働きの記録なのです。何の根拠もなく、聖書にある人の言葉を神の黙示とし、神の御言葉だと言い張るのは、混乱や誤解を招きませんか。主イエスの御言葉と黙示録の預言を除けば、新約聖書の大半は弟子や使徒の手紙であり、それは人の認識なのです。そこには聖霊の啓きがあり、真理にもかなっていて、確かにためになりますがやはり人の言葉なのです。神の御言葉、神の黙示と呼ぶことはできません。神は真理、道、いのちであり、真理を表せる唯一の存在。人には神の御言葉を表すことも真理を表すこともできません。神は神、人は人です。人と神の御言葉が、同じ立場に立つことはなく聖書にある人の言葉、パウロの言葉を神の言葉とするのは神への冒涜です。聖書が、神の黙示であるとか、そのすべてが神の御言葉だという考えは、人間の解釈であり、事実に基づいていません」。

この楊兄弟の交わりに、私は納得したわ。聖書は人の言葉を含み、すべてが御言葉ではない。でも、すぐにすべてを受け入れられず、こう思った。「宗教界全体が、聖書はすべて神の黙示と考えてる。みんな間違っているというの?」その時、私は無言で主に祈ったの。「主よ、聖書のすべてがあなたの御言葉でないのなら、理解できるように私に啓きと導きを与えてください」と。

楊兄弟はこう続けた。「もし聖書のすべてが神の黙示というなら、そこにはどんな小さな誤りも存在しないはず。でも実際には、聖書にはかなり多くの誤りがある。例えば、エホヤキンの即位について、歴代志下36章9節にこうあります。『エホヤキンは王となった時八歳で、エルサレムで三月と十日の間、世を治めた』一方、列王紀下の24章8節には、『エホヤキンは王となった時十八歳で、エルサレムで三か月の間、世を治めた』とあります。どちらもエホヤキンの即位について書かれていますが、一方は8歳、もう一方は18歳と記載されている。さらに一方は3か月と10日、もう一方は3か月となっています。また四福音書のペテロによる主の否認について、マタイによる福音書26章75節は、『鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう』マルコによる福音書14章72節は、『にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう』とあり、同じ出来事なのに時間のずれがある。これが示すのは、聖書の一部は人の記録であり、神の黙示ではないということ」。

私は楊兄弟の交わりに言葉を失ってこう思った。「そうだわ! 同じ出来事の記録なのに、書物によって記載が違う。本当に聖霊の言葉なら、こんな違いはないはず」。このことにまったく気づかず、聖書はすべて神の黙示で、神の御言葉だと思ってた。でも、その理解が間違っていると気づいたの。

集会の後、楊兄弟の交わりについてよく考えて、そのとき読んだ全能神の御言葉を読み直した。全能神は言われます。「今日、聖書は神であり、神は聖書であると人々は信じている。また、聖書のすべての言葉は神が語った唯一の言葉であって、それらはどれも神によって述べられたと信じている。神を信じる人々は、旧約と新約の六十六書はすべて人間が書いたものだが、みな神から霊感を受けており、聖霊の発言を記録しているとさえ考えている。これは人の誤った理解であって、事実とまったく一致していない。実際、預言書を別にして、旧約の大半は歴史的記録である。新約の書簡の中には、人々の経験に由来するものもあれば、聖霊の啓きに由来するものもある。たとえば、パウロの手紙は一人の人間の働きから生まれたもので、どれも聖霊による啓きの結果だった。また、それらの手紙は諸教会のために書かれたもので、諸教会の兄弟姉妹への勧告と激励の言葉だった。聖霊の語る言葉ではなかったのであり、パウロが聖霊の代わりに語ることはできなかったのである。また、彼は預言者でもなかったし、ましてヨハネが目の当たりにした幻を見てもいない。パウロの手紙はエペソ、フィラデルフィア、ガラテヤ、およびその他の教会に向けて書かれた。……もし人々が、パウロが書いたような手紙や言葉を見て、それらを聖霊の発した言葉と見なし、神として崇めるなら、それはあまりにも分別がないとしか言えない。もっと厳しい言い方をすれば、それは単に冒瀆ではないのか。どうして人間が神に代わって話せるのか。また、人間の手紙や語った言葉の記録がまるで聖なる書か天の書であるかのように、どうしてその前に額ずけるというのか。神の言葉は人間が何気なく口にできるものなのか。どうして人間が神に代わって話せるのか(『神の出現と働き』「聖書について〔3〕」〔『言葉』第1巻〕)。全能神は、聖書の中の何が神の御言葉で、何が人の言葉、経験、理解であるかを明確にされている。聖書のすべてが神の御言葉じゃないと確信したわ。ヤーウェ神、主イエス、そして神の霊感を受けた預言者の言葉と、黙示録の預言が神の御言葉で、あとは人の言葉や記録だと気づいたの。

次の日の集会で、楊兄弟に言ったわ。「『聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれた』というパウロの言葉は事実でないと分かりましたが、まだわからないことがあるんです。私たちの牧師は、聖書はクリスチャンの信仰の基礎であり、神を表し、聖書に従うことだけが、神を信じる道だと言います。私もその考えですが、それが正しいかわかりません」と。

楊兄弟は言ったわ。「宗教界の多くの人が同じ考えです。聖書を神と同等に扱い、神より上に置くことさえある。それは神の御旨に沿っているでしょうか。神は創造主で、すべての命の源です。決して涸れない生きた水を与えて下さる。神の豊かさが尽きることはありません。一方聖書は、単に神の働きを記録した歴史書であり、極めて限られた神の働きと御言葉しか記録してない。神と同等でもなければ、神を表すこともできません」。そのあと、御言葉の朗読動画を2つ見せてくれたので、全能神は言われます。「聖書が存在するようになって以来、人々の主への信仰は聖書への信仰であり続けた。人々は主を信じていると言うよりは、聖書を信じていると言ったほうがいい。聖書を読み始めたと言うよりは、聖書を信じ始めたと言ったほうがいい。そして、主の前に帰ったと言うよりは、聖書の前に帰ったと言ったほうがいいだろう。このように、人々はまるで聖書が神であるかのように、まるでそれが自分たちのいのちの源であって、それを失うのはいのちを失うことと同じであるかのように、聖書を崇める。人々は聖書を神と同じくらい高いものと見なしており、神より高いと思う人さえいる。たとえ聖霊の働きがなくても、また神を感じられなくても、人々は生きていける。しかし、聖書を失くしたり、あるいは聖書の有名な章句を失ったりしたとたん、まるでいのちを失ったかのようになる(『神の出現と働き』「聖書について〔1〕」〔『言葉』第1巻〕)。「彼らはわたしの存在を聖書の範囲内でしか信じず、わたしと聖書を同一視している。聖書がなければ、わたしはいない。わたしがいなければ、聖書はない。彼らはわたしの存在や業を無視し、その代わりに聖書の一字一句に極端な特別の注意を払う。また、さらに多くの人が、聖書で預言されていない限り、わたしは自分のしたいことを何もしてはいけないとさえ信じている。このような人は聖書の文章を重視し過ぎているのだ。彼らは言葉と表現を大事にするあまり、聖書の語句を用いてわたしの発する一言一句を評価したり、わたしを批判したりするほどだ、と言える。彼らが求めているのは、わたしと相容れる道ではなく、また、真理と相容れる道でもなく、聖書の語句と相容れる道なのだ。また、聖書に合致しないものは例外なく、わたしの働きではないと信じている。そうした人々はパリサイ人の忠実な子孫なのではないか。ユダヤのパリサイ人は、モーセの律法を用いてイエスを罪に定めた。彼らは当時のイエスと相容れることを求めず、律法の字句に忠実に従うあまり、イエスが旧約の律法に従っておらず、またメシヤでもないと断罪して、最後は無実のイエスを十字架にかけたのである。彼らの本質は何だったのか。真理と相容れる道を求めていなかったのではないか。彼らは聖書の一字一句にこだわり、わたしの旨に注意を払わず、わたしの働きの手順や方法にも無関心だった。真理を求める人たちではなく、あくまで字句に固執する人たちだった。彼らは神ではなく、聖書を信じていた。つまるところ、彼らは聖書の番犬なのである。聖書の権益を守るため、聖書の権威を維持するため、そして聖書の評判を保護するため、彼らは慈悲深いイエスを十字架にかけさえした。単に聖書を守るため、そして人々の心における聖書の一字一句の地位を維持するために、そうしたのだ。だから、彼らは自分の前途と罪の捧げ物を捨て、聖書の教義に合致しないイエスを断罪して死に処したのである。彼らはみな、聖書の一字一句に隷属していたのではないか(『神の出現と働き』「あなたはキリストと相容れる道を探さなければならない」〔『言葉』第1巻〕)

そしてこう説明してくれた。「やみくもに聖書を崇拝したり、主や主の働きに代わるものとして聖書を使うことは、神への信仰ではなく、聖書への信仰です。神の足跡や聖霊の働きをたどらずに聖書に固執するのは、主に反抗することです。パリサイ人は聖書を最上位に掲げ、その一語一句を遵守しました。主イエスが現れ働きをなさった時、その働きと御言葉に権威があることを知りながら、求めも調べもせず、粗さがしをして、主の働きや御言葉は旧約聖書を逸脱していると言い、主を断罪し、共謀して十字架にかけたのです。そして終わりの日、宗教界の人々は聖書を無闇に崇め、神の上に置きさえする。神が終わりの日の裁きをなさるために真理を表した時も、深く調べようとせず、聖書にないからといって全能神の働きと御言葉に抵抗し、断罪したのです。聖書にこだわり主に抵抗したパリサイ人とどう違うでしょう。聖霊の働きを求めず、神の足跡もたどらず、ただ聖書を崇拝するのは、明らかに間違っていて、主の道に反します」。

ここまで聞いて、恥ずかしさを覚えると同時に、納得したの。私は主ではなく聖書を信仰してた。信仰の中で主の御旨を探求せず、牧師や長老が言うことをうのみにしていた。神の働きと御言葉はすべて聖書にあって、聖書は主を表し、それ以外は主への信仰じゃないと思ってた。パリサイ人と同じ間違いを犯していたのでは? 全能神の御言葉に感銘を受けて、こう思ったわ。「全能神の御言葉は聖書の真理を完全に説明してる。それだけじゃなく、聖書に対する人間の態度も完璧に暴いてるわ。本当に神の御言葉なのかも」。

楊兄弟はさらに交わりを続けた。「これは、決して聖書の価値を否定してるのでなく、適切に扱おうとしているのです。主イエスは言われました。『あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない(ヨハネによる福音書 5:39-40)と。主イエスの御言葉は明確です。聖書は神の証しをするもの。律法と恵み両時代の神の働きの記録にすぎない。キリストにも、神の現在の働きにも従わず、聖書に固執する者は、一生信仰しても、永遠のいのちどころか真理すら得られない。永遠のいのちを得る方法は、キリストに従うことだけ。恵みの時代、主イエスは人を贖い、悔い改めさせるべく、十字架にかけられた。私たちの罪は主を信じることで赦されても、罪深い本性は消えない。罪を犯しては告白するという状態を続け、罪から逃れられず、清められてもない。主は聖いので、罪を犯し逆らう者を神の国に迎えるはずがありません。だから主イエスは再来を預言されたのです。語って裁きの働きをなさることで、人類を清め、救い、神の国に迎えるために。主イエスはこう預言された。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう(ヨハネによる福音書16:12-13)。『わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう(ヨハネによる福音書 12:48)。ペテロの第一の手紙にも『さばきが神の家から始められる時がきた』(ペテロの第一の手紙 4:17)とあります。主イエスは終わりの日のキリスト、全能神として戻られました。人類を清め、救うために裁きの働きをなさり、あらゆる真理を表されています。例えば、神や神の働きを知る方法、神の救いの働きの三段階とそれがもたらす成果、サタンによる人の堕落と神による人の救い、サタンによる堕落の真相を把握する方法、堕落した性質を清める方法、心から神を畏れ、愛し、従うことの意味などです。全能神の働きと御言葉は、主の再来の預言を成就させます。小羊の足跡をたどり、全能神の働きを受け入れ、神の裁きを経験することでのみ、真理といのちを得て神の国に入れるんです」。

最後に、楊兄弟がみせてくれた御言葉の動画を2つ、「神自身がいのちであり、真理であり、神のいのちと真理は共存している。真理を得られない者がいのちを得ることは決してない。真理による導き、支え、施しがなければ、あなたは文字と教義、そして何より死しか得られない。神のいのちは常に存在し、神の真理といのちは共存する。真理の源を見つけられなければ、いのちの糧は得られない。いのちの施しを得られないなら、真理を一切得られないことは間違いなく、ゆえに想像と観念を除けば、あなたの全身はただの肉、臭い肉でしかない。書物の言葉がいのちに数えられることはなく、歴史の記録が真理として崇拝されることはなく、過去の規則が神によって今語られている言葉の記録になることはないと知りなさい。神が地上に来て、人の間で生きているときに表わすものだけが真理であり、いのちであり、神の旨であり、神が現在働く方法である(『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」〔『言葉』第1巻〕)。「終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。人はこの真理を通していのちを得ることができ、この真理を通してのみ、神を知り、神に良しと認められる。終わりの日のキリストが与えるいのちの道を求めないなら、あなたは決してイエスに良しと認められず、天国の門をくぐる資格も得られない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり、歴史に囚われた人だからである。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることができず、永遠のいのちの道も得られない。と言うのも、彼らがもっているのはどれも、玉座から流れるいのちの水ではなく、何千年も執着してきた汚水だからである(『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」〔『言葉』第1巻〕)

この動画を聞き、心が明るくなったわ。そして気づいたの。聖書は神の過去の働きの記録であって、いのちの源ではないと。神だけがいのちの源だとわかった。聖書に執着してはだめ。大切なのは神の現在の働きと御言葉に従うこと。全能神の御言葉が、現代の神の御言葉だと確信したわ。全能神の御言葉は、人の観念と聖書の裏にある真実を完全に説明してる。神でなければ、こんな言葉を発することはできないわ。それからの数日間、機会があれば全能神の御言葉について兄弟姉妹と交わり、神の受肉とか、終わりの日に神が人を裁く方法とか、どのような信仰が神の御旨に沿うのかを、多少理解することができたの。人の行く末や終着点、その他の真理についても少し学んで、全能神は主イエスの再来だと確信したわ。そして終わりの日の神の働きを受け入れたの。全能神に感謝!

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