開かれた巻物を見た

2022年4月12日

スペイン Jose

主を受け入れた時、私は聖書を通して、万物の由来と人類の堕落の源を学びました。ヤーウェ神が律法を頒布したこと、主イエスが悪を駆逐し、病を癒し、人に多くの恩恵をもたらし、人類の罪を贖うため、十字架にかけられことを知りました。聖書を読むと主の救いについて理解が深まるので、毎日少しずつ読んでいました。牧師からは常に、新約聖書も旧約聖書も完璧で、神の御言葉をすべて収めているから、聖書から離れるべきではないと言われていて、私はそれを信じていました。

2016年3月、いとこと外出した時に、兄弟と偶然会ったのですが、彼がこんなことを言うのです。主イエスが再来され、肉体をもった全能神として神の家から裁きの働きを始められていると。そして一冊の本を取り出し、終わりの日に神が発した真理が書かれた本だと言いました。表紙には「小羊が開いた巻物」とあって、とても驚きました。「今までこんな本は見たことがないぞ。神の御言葉がすべて書かれていると言うが、本当だろうか。御言葉は聖書にしか書かれていないはず。他の本にも存在するなんてあり得るのだろうか。牧師はいつも、神の御言葉は聖書にしかなく、聖書以外は神の道にあらず、異端だと言うじゃないか」と思いました。そしてその時に思い出したのです。異端は終わりに日に出現するが、関わりをもたず、本も読むな、と牧師が言っていたことを。そう思うと、防衛本能が働き、話を聞くのをやめていました。しかしいとこは、彼の交わりや証言にいたく感心し、「小羊が開いた巻物」を読んで、終わりの日の神の新たな働きを知りたいと言うのです。それをきいてショックでした。「そんな簡単に同意するなてどうかしてる。神の御言葉はすべて聖書にあるという牧師の言葉を忘れたのか」と思いました。私は全く関心をもたず、いとこにも、やめておけと言いました。でも反対に、私も読んだ方がいいと言われてしまったのです! 何十年も神を信じ、聖書にも明るく、信仰心の厚いいとこが、読むと決めたので私は無理に止めませんでした。結局は、個人の選択ですから。それ以降いとこは、「小羊が開いた巻物」によって啓きを得られたと語り、私も読むようにと勧めてくるのです。でも、牧師の言葉を思うと、とてもできません。だからきっぱり言いました。「もうやめてくれ。君には君の、僕には僕の信仰があるんだから」と。頑に自分の観念を曲げないことが、主に忠実であると思っていました。

それから間もなく、クリスチャンの友人が嬉しそうに言うのです。聖霊の働きが行われている教会があって、その説教が素晴らしく、信仰で抱えていた迷いが消えたと。私も行くべきだと言うのです。興味がわいたので、何という教会か聞いてみました。すると、「全能神教会だ」と言うのです。それを聞いて大変驚きました。「その教会に本当に真理があるのだろうか。なぜ周りの皆が全能神を信じ始めるんだ? 終わりの日の全能神の働きを調べてみよ、という神の御示しなのか。私の観点は間違っていたのか」と思いました。主に祈り、導きを求めました。

その後も、いとこは終わりの日の神の働きについて話をしてきます。全能神が真理を表したことで、我々が知らなかった真理と謎が解き明かされ、サタンがどのように人を堕落させるのか、神の働きがどのように人類を救うのか、人類が神に抵抗する根源や、罪深い本性を解決して清められる方法などがわかり、20年間の信仰を超えるほどの学びを得られたそうです。さらに、全能神の御言葉は、聖霊が教会に語りかけるという預言どおりで、全能神こそが巻物を開く小羊だ、自分の目で見てみろと言うのです。その時のいとこの顔が、宝物を見つけたかのように幸せそうで、全能神教会に真理があるのか、自分で確かめることにしました。

次の日、全能神教会のメンバーと対面した私は、単刀直入に自分の迷いを伝えました。「私の牧師は、神の御言葉は聖書以外には存在せず、すべてが聖書にあり、それ以外は異端だと言います。この本が神の御言葉だと、なぜ言えるのですか」。

そんな私に、張兄弟が交わってくれました。「宗教をもつ多くの人は、神の御言葉がすべて聖書にあり、聖書以外には存在しないという。でもそれは本当に事実でしょうか。神は自分の御言葉すべてが聖書にあると仰いましたか。聖書から離れることは異端だと仰いましたか。聖書を理解する者は、聖書が主の時代から300年後に編纂されたことを知っています。まず神の働きがあり、それから聖書が生まれました。つまり、各時代の神の働きは聖書を基にしたものではありません。ヤーウェ神がイスラエル人をエジプトから連れ出した時、ヤーウェ神は聖書に基づいて律法や戒めを頒布したか。無論違います。当時聖書はないのですから。恵みの時代、主イエスは、罪を悔い改め、自分を愛すように人を愛し、許し、敵を愛することを教えるため働きを行った。安息日には病を癒しました。これはすべて旧約聖書に基づいていますか。主イエスの働きや御言葉は旧約聖書には記録されておらず、律法や戒めにおける神の人類への要求と矛盾しています。『目には目、歯には歯』(出エジプト記21:24)や、罪を犯したら生贄を捧げる、安息日には休む、などがその例です。人の観点から、神の御言葉は聖書以外にはなく、聖書以外は異端だと言うのは、主イエスの働きを否定することになるのでは? 神は常に新しく、老いることなく、前進し続ける。働きを行う時に、聖書を根拠にしたり、参考にしたりしない。信徒を導く方法を、聖書に求めたりしない。聖書を超えて新たな働きを行い、新たな道に人を導くのです。神は安息日の主であり、聖書の主なのです。神は聖書を超越する権利をもち、人を導き、救済し、経営の計画と人類のニーズに合った新たな働きを行います。自分の観念や想像に基づいて、神の働きや御言葉を聖書に限定できますか? 神の御言葉や働きが聖書を超えないなどと言えますか?」

張兄弟の交わりに、本当に驚かされました。信仰して初めて、このような洞察を聞きました。神は新しく決して老いず、その働きや御言葉は聖書ではなく、経営の働きの需要によって為される。これは聖書、そして神の働きの事実と符合します。彼らの理解の深さを不思議に思いました。

それを察した張兄弟は、こう言いました。「これを理解できたのは、全能神の御言葉のおかげです。終わりの日の全能神の御言葉は神の働きの真実と奥義を解き明かします」そして全能神の御言葉を読んでくれました。「イエスの時代において、イエスは当時、ユダヤ人と自分に従う全員を、自身における聖霊の働きにしたがって導いた。イエスは聖書を自身の行為の基礎とせず、自分の働きにしたがって語った。イエスは聖書の記述を気に留めることも、自分に付き従う人々を導く道を聖書に求めることもしなかった。イエスは働きを始めた当初から悔い改めの道を広めたが、その言葉は旧約の預言の中で一切触れられていないものだった。イエスは聖書にしたがって行動しなかっただけでなく、新たな道を導き、新たな働きを行なった。イエスは教えを説く際に、一度も聖書を参照していない。律法の時代、イエスのように奇跡を行ない、病を癒し、悪霊を祓える者は一人もいなかった。イエスの働き、教え、そしてイエスの言葉の権威と力も、律法の時代の誰よりも勝っていた。イエスはひたすら自分の新たな働きを行ない、多くの人が聖書を用いてイエスを断罪しても、さらには旧約を用いてイエスを十字架にかけても、イエスの働きは旧約を超えていた。そうでなければ、なぜ人々はイエスを十字架にかけたのか。それは、イエスの教え、あるいは病を癒して悪霊を祓うイエスの能力について、旧約に何の記述もなかったからではないのか。……人々にとって、イエスの働きには根拠がなく、旧約の記述に反することが数多くあるかのように思われた。これは人の過ちではなかったか。神の働きに教義を当てはめる必要があるのか。また、神の働きは預言者たちの預言に合致しなければならないのか。結局のところ、神と聖書のどちらが偉大なのか。なぜ神が聖書にしたがって働きを行なわなければならないのか。神には聖書を超える権利がないということか。神は聖書から離れて別の働きを行なうことができないのか。なぜイエスと弟子たちは安息日を守らなかったのか。仮にイエスが安息日を踏まえ、旧約の戒めにしたがって実践するつもりだったなら、なぜ到来後に安息日を守らず、その代わりに足を洗い、頭を覆い、パンを裂き、ぶどう酒を飲んだのか。これらはみな、旧約の戒めにないのではないか。イエスが旧約を尊重していたのなら、なぜそれらの教義を破ったのか。神と聖書のどちらが先に来たか、あなたは知るべきだ。彼は安息日の主であると同時に、聖書の主でもあるのではないか」(『言葉は肉において現れる』の「聖書について(1)」)。

御言葉を聞き、心から納得した。神は万物を創造し支配する。望み通りに働きを行えるはずだ。その働きを聖書に限定する権利など人類にはない。そうは思いましたが、聖書崇拝をやめたり、自分の観念を捨てたりできなかった。兄弟姉妹が辛抱強く、終わりの日の神の働きについての聖書の記述を見つけてくれました。この、主イエスの預言などです。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネによる福音書16:12–13)。ヨハネによる福音書の12章47、48にもこうあります。「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」。主イエスは、終わりの日の裁きの働きのために、真実を表すとはっきり述べている。この預言もそうです。「さばきが神の家から始められる時がきた」(ペテロの第一の手紙4:17)。彼らの交わりには確固たる根拠があり、私も心では同意したものの、自分の過ちを認める決心がつきませんでした。家に戻ると急いで聖書を開き、交わりで聞いた部分を丁寧に読みました。彼らが言う、終わりの日の神の裁きの働きは、確かに聖書で預言されていました。心底驚き、こう自分に問いかけた。「全能神が主の再来だとしたら?」と。そして主に祈りました。「主よ! 兄弟姉妹の交わりは啓きをもたらすものでした。全能神の御言葉には権威があり、人間が発したものではありません。全能神の御言葉は、何年聖書を読んでもわからなかった真実を解き明かした。主よ、全能神は本当にあなたの再来なのですか。どうかお導きを」。

次の日、兄弟姉妹は『聖書の奥義を解く』という映画を見せてくれた。「神の御言葉は聖書以外になく、他のすべては異端だ」そう考える主人公に、兄弟が交わるのですが、その言葉が心に響きました。こう言いました。「聖書を編纂する過程で、預言者に伝えられた神の御言葉は、その一語一句が旧約聖書に収められたわけではない。編纂者の間の齟齬や漏れもあった。それは周知の事実です。それなのに、神の御言葉と働きが聖書にしかないと言えますか? 収められていない預言者の預言は、御言葉ではないのですか? 主イエスが発したのは、新約聖書に収録された御言葉だけではない。主イエスが働きを行った3年あまりの期間、何を話し、何を説いたかは分からないのです。四福音書に書かれていない御言葉は果たしてどのくらいあるのか。ヨハネの福音書にもこうあります。『イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う』(ヨハネによる福音書21:25)。これが証明するのは、主イエスの働きと御言葉がすべて新約聖書に書かれているわけではなく、聖書にあるのは神の御言葉のほんの一部で、絶対にすべてではないということ。ですから、神の働きも御言葉も聖書にしかなく、他はすべて異端だという考えは、事実と符合せず、根拠もありません」。

これを観て思いました。「そうだ。ヤーウェ神の御言葉だって、旧約聖書にないものもある。千年にも渡って、地上の人々の生活を導いたのに、預言者に託した御言葉が聖書にしかないなんて、ありえない。主イエスは、3年あまり伝道されたが、その御言葉すべてを四福音書に収められるはずがないのでは。いや、判断にはまだ早い。慎重になろう」。そう思い、期待をもって続きを観ました。

映画の中の兄弟は続けます。「私たちは皆、信仰の中で聖書を読んできたが、その実情を理解していなかった。この全能神の御言葉でそれが明かされます」と。全能神は言われます。「聖書の実情を知る人はいない。つまり、聖書は神の働きに関する歴史的記録に過ぎず、神による以前の二段階の働きについての証しであること、また聖書は神の働きの目的について何も教えていないことを、誰も知らないのである。聖書を読んだことがある人はみな、そこには律法の時代と恵みの時代における二段階の神の働きが記録されていることを知っている。旧約はイスラエルの歴史と、創造から律法の時代の終わりに至るヤーウェの働きを記録している。また新約では、地上におけるイエスの働きが四福音書に記されており、それとともにパウロの働きも記録されている。これらは歴史的記録ではないのか。過去の物事を今日に持ち込めば、それは歴史となり、いかに真実かつ現実であろうとも、やはり歴史である。そして、歴史は現在を記述することができない。神は歴史を振り返らないからである。ゆえに、聖書を理解するだけで、神が今日行なおうとしている働きについて何も理解しないのなら、また、神を信じていながら聖霊の働きを求めないのなら、あなたは神を求めることが何を意味しているのかわかっていない。イスラエルの歴史を学ぶために、神の天地創造の歴史を研究するために聖書を読むのなら、あなたは神を信じていない。しかし今日、あなたは神を信じていのちを追い求めているのだから、また神の認識を追い求め、死んだ文字や教義、あるいは歴史の理解を追い求めているのではないのだから、今日の神の旨を求め、聖霊の働きの方向を探さなければならない。もしもあなたが考古学者なら、聖書を読んでもよいだろう。しかし、あなたは考古学者ではなく、神を信じる者の一人なのだから、今日の神の旨を探し求めるのが最善である」(『言葉は肉において現れる』の「聖書について(4)」)。そして兄弟は交わりを続けました。「神の働きが完了した後、その働きや御言葉を人が記録し、聖書に編纂しました。それは単に、神の過去の働きの歴史的な記録や証しであり、神を表すものでも、神に代わって人類を救済するものでもない。聖書を神と比べることはできない。神はいのちの源であり、御言葉は枯れることのない泉であるのに対して、聖書はその働きを記録した歴史書に過ぎない。神の御言葉を一部記しただけです。聖書と神を同等に扱うことなどできません。神は新しく、決して老いることはない。時代ごとに新たな働きを行い、新たな御言葉を発します。神の過去の言葉にしがみつき、新たな時代の働きや御言葉を否定し続けることは神に抵抗することになる。恵みの時代、主イエスにより新たな働きと御言葉がもたらされた時、ユダヤ教の司祭もパリサイ人も旧約聖書を固持した。神の働きと御言葉がすべて聖書にあると信じ、主イエスに抵抗し、否定し、十字架にかけるという大罪を犯したのです。今、終わりの日のキリストである全能神が、真理を表し、裁きの働きをなさっている。その記録は聖書にはない。ですから、聖書が終わりの日の神の働きや御言葉に代わることなどありえないのです。聖書を固持し、神の現在の働きや御言葉を受け入れなければ、終わりの日の救済を得ることはできず、新時代の神の働きと御言葉に淘汰されます」。

それを聞いて、じっくり考えました。聖書は神の働きの証に過ぎず、神の御言葉のすべてを含んではいない。牧師や長老はいつも、御言葉はすべて聖書にあり、それ以外にはないと言っていたが、その観念は荒唐無稽だ。人類を救うための神の働きは、発展を続けている。神の働きや御言葉が旧約聖書に限られるなら、恵みの時代に贖いの働きは行われず、人類は律法の下に生き、律法に背いた罪で罰を受け、死んでいたはず。今まで生きのびることはできなかったはずだ。終わりの日に主が再来し、人類を裁き、清めなければ、永遠に罪を生き続けることになる。神は聖くあられ、これほどまでに穢れた私たちは、主と対面することなどできない。この映画を観終わった後、あらすじについてもう一度考えてみました。かつてもっていた観念を全能神の御言葉により打ち砕かれ、終わりの日の神の働きをもっとよく調べようと決心したのです。

その後、「小羊が開いた巻物」が送られてきました。全能神の御言葉が明らかにしたのは、祝福を受けたいという考えや動機、そしてごう慢さ、邪悪さ、真理を嫌う心などといった、私の堕落した性質でした。読み進めるうち、これらの言葉は聖霊のものだと確信した。人の心を見透かし、間違った動機や、内面の堕落を明らかにできるのは神のみです。全能神は多くの真実を表しました。人類経営についてのねらいや、聖書と救済の働きの内幕や、神への真の信仰と従順の意味、神の国に入れる人は誰か、他にも聞いたことがないような真理が数多く記されていた。目が覚めるような思いでした。全能神の御言葉は、主イエスの言葉どおりだとわかりました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう」(ヨハネによる福音書16:12–13)。そして黙示録にも符号していました。「しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」(ヨハネの黙示録5:3,5)。全能神は人類が清められ、救われるためには何が必要なのか、真理を明かしてくださった。そしてこれが、終わりの日の巻物に書かれていた、裁きの働きが神の家から始まるということだとわかったのです。

それから数か月、全能神の御言葉を読み、10年余りの信仰からは得られなかった多くの学びを得ました。神の御言葉は、湧き続ける泉であり、私たちを永遠に支えてくれるものだとわかり、全能神は主イエスの再来だと確認したのです。興奮するとともに、後悔の念が湧きました。かつて、牧師の話をうのみにし、聖書を崇拝し、自分の観念に基づき、神の御言葉を聖書のみに限定していた。本当に頑固でした。しかし神は、そんな私を見捨てず、私が主の再来を逃さぬよう、兄弟姉妹を通じて、何度も私の心の扉を叩き、神の声を聞くよう導いてくださった。全能神の救済に感謝します。

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