カトリック教徒の証し:主は本当に再臨された

2019年4月21日

レンシー(米国)

私の家族は全員が神様を信仰しています。私は子どもの頃から母と一緒にミサに参列し、神様は私たちに本当にたくさんの恵みを与えてくださいました。私たちは神様への感謝の気持ちで満たされ、主の再臨を切望していました。しかし、主が働き私たちを救うために本当に再臨された時、自分が主の働きに気づかないどころか、自分の傲慢な本性に頼り、古い観念にしがみついて危うく主の救いを逃しそうになるとは想像しませんでした。私はこれについて考える度に自責の念に駆られ、また同時に喜びも感じます。主イエスは私をあわれんでくださり、兄弟姉妹が根気強く主の新たな御言葉について語ってくれたおかげで、私は主の新たな働きについての認識を得て主の足跡についていけるようになったのです。私は主の救いによって神の国の時代行きのいわば最終列車に乗ることができたことをとても感謝しています。いま、主を受け入れる過程での様々な場面が私の頭に浮かんできます。

ある日、母の教会友達のリー叔母さんが、終わりの日の神の福音について話すために教会友達を何人が連れて私たちの家にやって来ました。私は叔母さんたちは私たちをプロテスタントに転会させるために来たのだと思ったので、あまり歓迎しませんでした。しかしリー叔母さんは言いました。

「主は既にお戻りになりました。主は全能神で、終わりの日のキリストです。全能神は真理を表され、神の家から始まる裁きの働きをされました。恵みの時代は終わって、今は神の国の時代です。罪を犯しても、もう神父様の所に行って告解しなくていいんです。代わりに直接全能神の御言葉を読み、その裁きと刑罰を受け入れ、神様の御言葉から自分の堕落した性質についてよく考えて、それを認識し、神様の要求事項に従って振る舞えばいいのです。こうすれば、私たちは徐々に罪の束縛から解放されて、清らかになり、神の御心に沿った人になれるのです」。私はこれを聞いてショックを受けました。そして心の中で、「全能神が主の出現?でも、私は今まで何年も主を信仰してきて、たくさんの恵みを授かった。全能神の新たな働きを受け入れたら、主イエスに背くことになるんじゃない?」と思いました。私は少し混乱しました。私は自分の考えを何も言いませんでした。それで、私の態度を見た叔母さんたちもそれ以上は何も言いませんでした。

その後、私は姉が頻繁に一人で外出するようになり、帰宅した後には母と一緒に何やらこそこそ話しをしているのを目にしました。それから、二人は一緒に外出するようになり、帰宅するといつも満面の笑みを浮かべていました。二人は以前よりも調子が良いようでした。私はこれにとても困惑し、二人は何かを隠しているんだと思いました。しばらくした後、二人は終わりの日の全能神の働きを受け入れ、全能神は主の出現であることを見極めたとまじめに私に告げたのです。二人は私にこれを真剣に検討するように勧めました。私は二人がそう言うのを聞いて理解に困りました。私は「お母さんとお姉ちゃんはとても敬虔な信者なのに、どうして今では全能神を信じているの?これは主の道から離れてカトリックの信仰に背くことにならない?二人はたった数日で変わってしまった」と思いました。私は顔をしかめて何も言いませんでした。その私を見た姉は言いました。

「その気持は分かるわ。リー叔母さんが来て終わりの日の福音の話をした時、私も間違った信仰を取り入れてしまうのが怖かった。でも、叔母さんたちが宣教していることは十分に筋が通っているし、聖書の預言にも一致していることがわかったの。世界中で災害がどんどん大きくなっていることも知ったわ。これはみな主の再臨のしるしよ。もし全能神が本当に主の再臨ならば、その全能神を受け入れるのを拒否したら、主の救いの恵みを逃してしまうことになるんじゃない?だから、私は『全能神が本当に主の再臨であるなら、主の足跡を辿って、全能神の福音について話してくれたあの姉妹たちにもう一度会えるよう、私を啓き導いてください』と主に毎日祈りを捧げたの。そしたら、不思議なことに叔母さんたちがまたやって来て、私に全能神の国の福音について話してくれたので、これは主の意図で采配だって分かったの。それで私は終わりの日の全能神の働きを調べ始めたの。叔母さんたちはそれから私に全能神の御言葉をたくさん読ませてくれたの。そのすべてに権威と力があって、そのすべてが真理で神の御声であると知ったの。全能神は、神様の経営計画の目的、神様が人を救われる方法、人類の堕落の根源、人間はどうやって悪を振り払って救われるべきか、私たちの最終的な結末と終着点といったすべてについて私たちに語ってくださった。全能神の御言葉を読んで、私は真理と聖書の奥義をたくさん理解したわ。私の心の中はすごく明るくなって、私は全能神は主イエスの再臨だって心の中で判断したの」 姉の言ったことを聞いて、私の心のわだかまりが少しほぐれました。姉はむやみに終わりの日の全能神の働きを受け入れていたのではなく、主の導きを求め続けていたのです。主の再臨を待ち続けていながらも、主が本当に再臨されていると人々が証言するのを聞いた時に謙虚な気持ちで探求しようとは思わなかった自分を考えると、その時私は少し恥ずかしくなり、自責の念も感じました。そんなことで、どうして主の啓きと導きを得ることができるでしょうか。全能神が本当に主の再臨であり、それを私が探求も考察もしなかったならば、私は本当に主の救いを逃してしまうのではないでしょうか。そう気づいた時、私は終わりの日の全能神の働きを考察することを姉に約束しました。

その二日後、母と姉は見学できるようにと私を全能神教会に連れて行ってくれました。私はまだ警戒していたので、人が話し合っている間、どうしても静かにしていられなかったのですが、母と姉が一緒だったので、恥をかかせないようにと無理して「真面目に」話を聞きました。その間に、私はそこの教会の兄弟がこう話すのを聞きました。

「ミサに参列しても司祭はいつも聖書から同じことばかり話し、つまらなくて何の光もないとほとんどの人が感じでおり、教区民は何の喜びも得られません。彼らは毎日告解していますが、抜け出すことができない罪の中にいまだに生きています。たくさんの人が信仰を失って闇に陥りました。宗教界全体が荒廃し、聖霊の働きを欠いていることは誰もが知っています。これは広く認められている事実です。ですが、宗教界が荒廃している理由はご存知でしょうか。これは、主イエスの再臨をお迎えできるかどうかに直接関わることです。実は、宗教界が聖霊の働きを失い荒廃した理由はおもに二つあります。一つ目は、司祭と指導者たちが主の戒めに従わず、主の御言葉を実践してもおらず、代わりに人間の作った伝統を守り、神学的議論や聖書に関する知識に注目してばかりいることです。彼らは人から尊敬されるように、これを利用して自己顕示して自らの証しを立てているのです。彼らは主を証ししたり高く掲げたりすることもなく、人々が真理を理解して主を知ることができるように人々が主の御言葉を実践したり体験したりするように導くことも全くありません。彼らは主の道から完全に外れてしまったので、主から見捨てられ、排除されてしまったのです。これが宗教界が荒廃している第一の理由です。もう一つの理由は、主イエスが再臨されたからです。主は受肉して全能神となり、主イエスのなされた贖いの働きを土台にして、神の家から始まる裁きの働きをされ、終わりの日の全能神の働きを受け入れたすべての人々裁き清めるために真理を表されています。これに伴い、聖霊の働きも終わりの日の神様の裁きの働きに移行したのです。この働きを受け入れる人は聖霊の働きを受けられるほか、生ける水の供給と潤しも得ることができます。しかし、宗教界の中にはまり込み終わりの日の神の働きを受け入れない人は聖霊の働きを失って、闇に陥り、否定的で弱くなってしまいました。これは聖書にあるこの預言を成就しています。「わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。」(アモス書4:7)

私はこの話を無理やり「真面目に」聞きましたが、心配が邪魔をして兄弟の話をあまり理解できませんでした。家に帰った後も、教会に行って祈りを捧げたり、聖書を読んだり、ミサに参列するということを続けましたが、心を落ち着かせることが全然できませんでした。あの日の話が頭の中に浮かび続け、私は考えました。

「あの兄弟の話は筋が通っていたし、私も教会は聖霊の働きを欠いていると感じていた。主が新たな働きをするために本当に再臨されているってことがありえるのだろうか。でも、私はずっと主を信仰してきて、主は私にたくさんの恵みを与えてくださった。私に主を裏切ることなんてできない」

私は強い葛藤を感じ、終わりの日の全能神の働きを考察し続けたいのかどうかが分からなくなってしまいました。

ある時、私はミサに行ったのですが、教会に到着して唖然としました。以前だと到着した時にはミサはいつも既に始まっていたのですが、その日はまだ教会の中の明かりがいくつか消えたままになっていて、中は真っ暗でした。人は数人ちらほらといるだけで、ただ座って世間話をしていました。司祭の姿はどこにも見当たりませんでした。目の前の光景は私にとって非常に残念なもので、私は思いました。

「教会は本当にどんどん荒廃している。全能神教会の兄弟姉妹たちが言ったように、主はお戻りになって新たな働きをされ、それに付いて行けない人たちは聖霊の働きを失ってしまったということなんだろうか。あぁ、主の働きは本当に移行してしまったのか」

ミサの後、私は家に帰り、主イエスの肖像画の前に立って静かに祈りました。

「あぁ、主よ!本当に肉となり新たな働きをされたのですか?全能神は本当に主の再臨なのですか?主よ!どうか私をお導きください」

この祈りの後、のしかかっていた大きな重りが引き上げられたように感じました。私は息をついて、思いました。

「この教会にはもう聖霊の働きが宿っていないから、聖霊の働きのある教会を探さなきゃ。そうよ、終わりの日の全能神の働きを調べ続けなきゃ。全能神が本当に主イエスの再臨なら、受け入れなければ!」

私はこう思った時、気持がとても楽になりました。

その後、私は母と姉と一緒に終わりの日の全能神の働きを勉強し続けました。驚いたことに、もう一度説教を聞きに行ったときに心を静めることができることに気づきました。そして、私は心の中の困惑を打ち明けました。

「以前、教会が荒廃する理由についてのお話を聞いた時、私も全く同じ意見でした。教会は本当に荒廃していて、聖霊の働きを欠いています。でもまだ気掛かりなことがあるんです。私は長年に渡って主を信仰してきて、たくさんの恵みを授かりました。主イエスから離れて全能神を信仰したら、主イエスに背くことになりませんか?これについて話していただけませんか?」

私の質問を聞いたリュウ姉妹は笑顔で言いました。

「姉妹、それは本当に重要な質問ですね。その心配はおもに神の働きの理解が足りないために生じるものです。それはちょうど律法の時代末期に神が主イエスとして受肉され、律法の時代の基盤の上に恵みの時代の働きを完成された時と同じです。主の御言葉を聞き、それが神の御声であることに気づいて主の働きを受け入れた人たちは皆、主と共に歩んでいた人たちでした。ペテロ、ヨハネ、サマリア人の女と同じように、彼らは主イエスの御言葉を聞いて、主がメシアであることに気づいたのです。彼らは神の足跡を辿り、神の御言葉の潤しと霊的な糧を授かり、聖霊の働きを得ました。彼らはヤ―ウェに背かなかっただけでなく、神の足跡について行きました。それがヤ―ウェ神に忠実でいられる唯一の方法だったからです。しかし、律法にしがみついて主イエスの御言葉と働きを受け入れなかった司祭長、律法学者、パリサイ人はヤ―ウェ神の称賛を得られなかった上に、神に抵抗する人となり、主の働きによって排除されてしまったのです。同様に、終わりの日の主は神の経営(救いの)計画および人類の必要に合わせて、主イエスの働きを土台に裁きと清めの段階の働きをされました。終わりの日の全能神の働きを受け入れることは、主イエスに背くことではなくて、むしろ神の足跡を辿ることです。それは神の道を守り忠実に神に従うことです。これはヨハネの黙示録にある『そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。(ヨハネの黙示録14:4)』という預言を成就しています。これは全能神の御言葉を何節か読めばもっと良く理解できます。全能神はこう仰いました。

「人類を経営する働きは三つの段階に分けられるが、それは人類を救う働きが三つの段階に分けられることを意味している。これら三つの段階には、天地創造の働きは含まれず、むしろ、律法の時代、恵みの時代、そして神の国の時代の三つの段階の働きのことである。」(『神の出現と働き』「神の三段階の働きを認識することは、神を認識する道である」〔『言葉』第1巻〕)「ヤーウェの働きからイエスの働きまで、イエスの働きからこの現在の段階の働きまで、これら三段階は神の経営の全幅を覆うもので、そしてすべてひとつの霊による働きである。神が世界を創造した時から、神は常に人類を経営して来た。神は初めであり終わりであり、最初であり最後であり、時代を始められる存在で、また時代を終わらせられる存在である。違った時代、違った場所における三段階の働きは確かにひとつの霊によって行なわれる。これら三段階を切り離す者たちはすべて神に反抗している。今、第一段階から今日に至るまでのすべての働きはひとつの神の働きであり、ひとつの霊の働きであり、それに関して疑いの余地はないということを理解しなければならない。」(『神の出現と働き』「神の働きのビジョン〔3〕」〔『言葉』第1巻〕)「現在なされている働きは恵みの時代の働きを推し進めた。すなわち、六千年経営(救いの)計画全体における働きは前進した。恵みの時代は終わったが、神の働きはさらに前進している。なぜわたしは今の段階の働きは恵みの時代と律法の時代を基礎にしていると繰り返し言うのだろうか。これは、今日の働きは恵みの時代に行われた働きの延長であり、律法の時代に行われた働きを向上させたものであることを意味する。三つの段階は密接に相互関連しており、一つはその次の段階に繋がっている。なぜわたしは今の段階の働きはイエスによってなされた働きの上に築き上げられるとも言うのだろうか。この段階がイエスによってなされた働きの上に築き上げられなければ、キリストの磔刑、つまり過去に行われた贖いの働きはこの段階でなお実行されなければならない。だが、これは無意味なことであろう。従って、働きは完全に終わったのではなく、時代が前進し、働きは以前に比べていっそう高まったということである。今の段階の働きは律法の時代、および、イエスの働きの堅固な支えを基礎に置いて築かれるということができるだろう。働きは段階ごとに築かれ、今の段階は新しい始まりではない。三つの働きの段階の組み合わせのみを六千年にわたる経営(救いの)計画とみなすことができる。」(『神の出現と働き』「二度の受肉が、受肉の意義を完成させる」〔『言葉』第1巻〕)

「三つの段階は密接に相互関連しており、一つはその次の段階に繋がっている。」「ひとつの霊によって行なわれる。」これほど新鮮な言葉を聞いたのは初めてのことで、私はそれに深く引き込まれました。私は思いました。

「これら三つの段階の働きは律法の時代、恵みの時代、そして神の国の時代ですね。この三段階はすべて主がなさるのですか。なぜ主は三段階の働きをおもちなのですか。この三段階はどのように完成されるのですか」

私はとても興奮していて、そこにある奥義を理解したかったので、自分の困惑を言葉にしました。

リー姉妹はコンピューターで三段階の働きの解析図を開いてから、話してくれました。

「主が人類を救う働きには合計で三段階あると全能神の御言葉は私たちに教えてくださいます。一つ目は旧約聖書の律法の時代、二つ目は新約聖書の恵みの時代、そして三つ目はヨハネの黙示録に預言されている神の国の時代です。これら三段階は、神様が異なる時代になさる異なる働きであり、時代、働き、神様の御名、神様が表現される性質はすべて異なりますが、これらはすべて一つの御霊による働きです。この三段階はそれぞれが次の時代に綿密につながっており、それぞれが前の段階よりも高く、奥深いのです。このうちどの段階を欠いても、人類をサタンの支配から完全に救い出すことは不可能です。旧約聖書の律法の時代の間、神様はヤ―ウェという御名で働きをされました。神様は威厳、怒り、慈しみ、そして呪いといった性質を表現されました。神様はモーセを通じて戒めと律法を発布され、創造されたばかりの人間の地上での生活を導き、人々は罪とは何か、どのようにして神様を礼拝すべきか、ヤ―ウェの律法を守ることで神様の祝福と恵みを受けられるということを知りました。律法を破る人は石で撃ち殺されたり、火あぶりにされました。律法の時代末期に近づくと、人々はますます堕落して罪深くなり、もはや律法を守りませんでした。人々は皆、律法によって断罪され処刑される危険にさらされていたのです。そして、神様は人類の必要に合わせて新しい段階の働きをなされ、働くためにイエスとして受肉されました。イエスは恵みの時代を迎え入れ、律法の時代の幕を閉じられました。イエスは愛と慈しみの性質をお見せになりました。神様は悔い改めの道をもたらし、寛容で忍耐強い心を持つこと、敵を愛すること、そして人を何度でも許すことを人々に教えられました。イエスはまた人々に豊かな恵みを与えられ、最後には人類を救うために十字架にはりつけられ、私たちをサタンの支配から救ってくださいました。それ以降、私たちは罪を犯すたびに主イエスに呼び掛けて罪を告白し悔い改めることができるようになり、それにより私たちの罪は許され、私たちは神がお与えくださる平安と喜びを受けられるようになったのです。私たちの罪は主イエスの贖いによって消し去られますが、私たちは未だに堕落したサタン的な性質から抜け出すことができていません。それ故に、私たちは依然として頻繁に罪を犯してしまうので、神様に得られていないのです。私たちを罪から完全に救い出すために、神様はもう一度肉となられ、全能神の名において神の家から始まる裁きの働きをされ、人類の堕落した本性を明らかにし、私たちの不義を裁き、私たちが神の御言葉をとおして自分たちの本性を知り、自分たちがどれだけ深くサタンに堕落させられているかという真理を明確に知り、堕落の根源を知り、不可侵である神の義なる性質を認識できるように、無数の御言葉を表現されました。神様の御言葉はまた、私たちがサタン的な性質から自らを解放するために実践するべき道を指し示してくださっています。神様の御言葉の裁きと刑罰を受け入れて自省し、神様の御言葉が明らかにする自分のサタン的な性質を知り、真理を実践するならば、私たちは次第に罪の束縛から脱却し、物事の見方も徐々に変わり、いのちの性質も時間とともに変化を遂げます。最終的に、私たちは神様を畏れ、悪を避け、神様の御心に沿った人となり、ついには神様に素晴らしい終着点へと連れていっていただけるようになるのです。三段階の働きは神の経営計画と人類の堕落に基づいて実行されています。各段階はその前の段階を基に築かれており、前の段階よりも高く、奥深いものとなっています。もし神様が一つか二つの段階の働きしか行われなかったならば、人類を完全にお救いになることはできないでしょう。三段階すべての働きを行なわれることによってのみ、神様は人類をサタンの支配から完全に救い出すことができるのです。この三段階の働きこそ、神様による人類の完全なる救いの働きなのです。だからこそ、終わりの日の全能神の働きを受け入れることは、主イエスに背くことではなく、子羊の足跡を辿ることなのです。そうする人のみが神に心から忠実な人です。」

神様の御言葉と姉妹の話を聞いた後、私の心はとても明るくなりました。私は嬉しくなって言いました。

「では三段階の働きはすべて一つの神によってなされましたが、それはただ異なる時代にあったので、働き、神様の御名、そして神様が表現される性質もそれぞれ同じではなかったということですね。神様は私たちをサタンの支配から完全に救い出すために三段階の働きをなさっただけですね。神の国の時代における全能神の働きは、主イエスの働きを土台に築かれていて、それはさらに高次の新しい段階の働きであり、私たちが全能神の新たな働きを受け入れる限り、罪深い本性を脱却し、清らかになり、神様に救っていただけるのですね。全能神を信仰することは主イエスに背くことではなくて、神様の新たな働きに付いて行って、主をお迎えするということだと今回は理解できます」

これを聞いたリー姉妹は嬉しそうに言いました。

「そのような理解が得られるのは神様のお導きです。主に感謝します!神様は終わりの日に人間を清めて救うために受肉され、すべての真理を表され、神が人類を救う六千年の経営計画の奥義を明らかにされました。神様は人類を救う三段階の働きの目的、受肉の奥義、サタンはどのように人類を堕落させたのか、神様はどのように人類を救われるのか、人類の最終的な終着点とは何なのか、私たちは救われて天国に行くにはどのように探求すべきかなどの真理のすべてを私たちに教えてくださいました。真理を愛し神様の御声を聞くことができる人々は、神様の御言葉からそれが主の御声であることに気づき、神様の玉座の前に立ち返ることができます。真理を求めることで、私たちは清らかになり、神様に完全にしていただくことができます。しかし、真理を愛さず終わりの日の全能神の裁きの働きを受け入れず、依然として終わりの日のキリストに抵抗して非難する人々は、災難に遭い、涙しながら悔しさのあまり歯ぎしりすることになります。その人々はさらけ出され、排除されます。神様はこのような実際的な働きによって人々をそれぞれの種類によって分類し、最後には善人を報い、悪人を罰されます。神様の経営計画における働きはすべて神様御自身が実行なさり、その代わりをすることは誰にもできないのです」

ヤン兄弟が神様の御言葉から二節を読みました。「もしあなたが三つの段階の働き、つまり神の経営(救い)の全計画に対してはっきりした認識を持ち、前の二つの段階の働きと現在の働きとを完全に関連づけ、それが一つの神によってなされた働きであると捉えることができれば、あなたはこれ以上ないほど強固な基盤を持つことになる。三つの段階の働きは一人の神によってなされ、そしてこれは最も偉大なビジョンであり、神を認識するための唯一の道である。三つの段階の働きは、神自身にしかできなかったことであり、誰も神の代わりにできることではなく、要するに、初めから今日まで神自身の働きは神にしかできないのである。」(『神の出現と働き』「神の三段階の働きを認識することは、神を認識する道である」〔『言葉』第1巻〕)

「三つの段階の働きを知り、正しく認識できる者だけが、完全にまた正確に神を知ることができる。少なくともその人たちは神をイスラエル人の神、あるいはユダヤ人の神とは定義しないし、人のために永久に十字架にくぎ付けにされる神とは見ないだろう。もしあなたが神の働きの一段階だけから神を認識するならば、あなたの認識はあまりにも少なすぎる。その認識は大海原の一滴に過ぎない。そうでなければ、なぜ多くの古い宗教家達が神を生きたまま十字架に磔にしたのか。それは人は神を限られた範囲に制限するからではないのか。」(『神の出現と働き』「神の三段階の働きを認識することは、神を認識する道である」〔『言葉』第1巻〕)

ヤン兄弟は言いました。

「三段階の働きを知ることは、私たちの信仰において最大のビジョンであり、神様を知る唯一の道でもあります。もし神様の三段階の働きを理解しないままであれば、あるいはもし働きの一段階をとおしてのみ神様を知らずに、神様は単に人類の罪を贖い恵みを与えてくれるだけの神様であるとか神様の御名はイエスだけであるなどと信じていたら、私たちはおそらく神様というものを勝手に定め、神様を自分たちの観念と想像の中に制限してしまうことになります。これはちょうどユダヤ教の司祭長、律法学者、パリサイ人が傲慢にも自分たちの観念と想像を頼りに主イエスの働きを決めつけて、「メシア」と呼ばれないのなら神であるはずがないと信じたのと同じです。彼らはあらゆる機会を利用して主イエスに抵抗し、非難し、最終的には主を十字架に釘付けにするという最も凶悪な罪を犯して神に罰せられました。これはイスラエルの民が二千年近くにも渡って国を失うという事態を引き起こしたのです。現在、宗教界の牧師、長老、司祭、指導者たちの多くは神の働きを認識せず、それぞれの傲慢な本性を頼りに自分たちの観念と想像に執着して、全能神の働きに抵抗し、非難を向けています。彼らはパリサイ人が犯したのと同じ過ちを犯しているのではないでしょうか。神様の三段階の働きのビジョンを認識することができなければ、私たちは宗教界の司祭や指導者に従って神様の働きを裁き、非難し、神様に反抗することをしやすくなってしまいます。これは極めて深刻なことで、確実に神に救われる機会を逃すという結果を招くでしょう」

神様の御言葉とこの兄弟の話を聞いた後、私は興奮して言いました。

「今、本当に理解できました。人類を救うための三段階の働きを行なえるのは神様御自身のみで、神様の三段階の働きを理解していないと私たちは自分の観念と想像をもって神様の働きの範囲を決めつけて、神様に抵抗することしかできず、神様の再臨による救いを逃す可能性が極めて高くなってしまうということですね。ということは、私のこれまでの神様への信仰は無駄ではなかったのでしょうか。私は神様に認めていただけないだけでなく、神様を信仰しながらも神様に抵抗する人になってしまいました。考えるだけでもゾッとします。私は謙虚で従順な人になって、自分の観念と想像を捨てて、急いで終わりの日の全能神の働きを考察して受け入れなければなりません」

私がこう言うのを聞いた母は喜びを込めて「その通りよ!」と言いました。私の姉と他の兄弟姉妹たちも嬉しそうに私に拍手をしてくれました。

その後、私は積極的に全能神の御言葉を読み、全能神教会ウェブサイトで福音映画を観賞し、兄弟姉妹と集会を開いて一緒に全能神の御言葉を読み、神様の御言葉についての自分たちの理解を話し合うようになりました。神様が肉として現れて働きをされることの奥義、神様はどのようにして裁きの働きをなさるのか、そして神様が御名をお変えになることの意義など、私の以前の信仰生活では分からなかった真理をたくさん徐々に理解できるようになりました。集会に参加したり、全能神教会の福音映画を見ることで、神様の新たな働きをもはや疑うことはなくなり、神様との関係もどんどん近くなっているように感じました。私は心の中でもどんどん解放されていく気がして、全能神は本当に主イエスの再臨であることを確信しました。私が全能神の福音を受け入れてからまだあまり時間は経っていませんが、その期間に今までの二十数年の神様への信仰生活で理解した以上の真理を理解していると感じます。私をお救いくださった神様に感謝します。

編集者注 このエッセイを読むと、今日の教会がすべてひどく荒廃している理由、そして私たちはどのように主の再臨をお迎えするべきかがついに理解できました。私たちは、本エッセイの主人公が成し遂げたように、忠実な兄弟姉妹のすべてが聖霊の働きを受け、神様の足跡を辿ることを私達は願っています。では、私たちはどのように注意して主の再臨をお迎えするのを待つべきでしょうか。 (待つ―主の再臨をお迎えするにはどのように目を覚まして待つべきか?)」と題した素晴らしい映画からの抜粋をお勧めします。

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