この声はどこから聞こえてくるのか

2018年4月16日

シーイン

私は信心深い家に生まれ、親戚には伝道師も多くいます。私は幼い頃から両親にならって主を信じており、大人になってからも主に祈り、こう語りかけました。もし主を信じる夫に巡り合えるなら、夫とともにこの身を捧げて神に仕えましょう。そして私は結婚し、夫は本当に主を信じていたので、実際の職業として熱心な伝道者となりました。夫が主のために安心して働け、主の御前にあって責任を果たせるよう、私は積極的に家庭を切り盛りする役を負いました。それは多少難しく疲れる仕事ではありましたが、主という支えがあった私は、どんな苦しみに耐えようとも心は喜びと平安に満たされていました。

しかし1997年になって、私は夫の伝道に光が失われているのに気づきました。私が家事を頼むと、夫は伝道の仕事で忙しいといつも言い訳をし、よく些細な事で私に腹を立てるようになりました。私は夫の行動に嫌気が差し、家事をしても以前のように完全に楽しめなくなりました。家庭生活の困難さが重荷となり、また、私の霊の暗さのために、私は苦しみながら生きていましたが、自分の思いを打ち明けられる人もいませんでした。私ができることは、誰もが眠っている夜更けに神の御前に行って祈り、主にもっと信仰と力を与えてくださるよう願うことだけでした。同時に、私は主が早くお戻りになるのを待ち望みました。

2000年の4月のある日、服の整理をしていると、夫の鞄が目に留まりました。その鞄はふくれていたので、私は好奇心からチャックを開け、聖書と讃美歌が入っているのを見つけました。他にも、外表紙がカバーで包まれている新しい本がありました。私は「どうしてこの本は前に見たことがなかったのだろう?何かの参考書か、霊的な人の経験を描いた本に違いない。助けになるかもしれないから読むべきだ。」と思い、好奇心にひかれて「完全にされる者は精錬を経なければならない」というタイトルを読みました。そして「なんと新鮮で素晴らしいタイトルなんだろう!」と思い、「タイトルからすると、精錬は悪い事ではなさそうだ!私は自分の能力を超えた精錬の状況にあるのだから、この人の精錬の経験をじっくり読み、そこから道を探ろう。」と思いました。そして、以下の部分を読み始めました。「かつて、人々はみな神の前で決意を固め、『他の誰が神を愛さなかったとしても、私は神を愛しなければならない。』と言っていた。しかし今、あなたは精錬に直面している。それはあなたの観念と一致しないので、あなたは神への信仰を失う。これが真の愛であろうか。あなたは今まで何度もヨブの行いに関して読んでいるが――それらを忘れてしまったのであろうか。…苦難に直面した時、肉のことを考えず、神に対して不平を言わずに居ることが出来なければならない。神があなたから自身を隠している時は、あなたは神に付き従う信仰を持ち、以前の愛が揺るいだり、消え去ったりすることがないように維持出来なければならない。神が何を為そうが、神の意図に従い、神に対して不平を言うよりも、自らの肉を呪う意欲がもっとなければならない。あなたは、試練に直面する時、たとえ自分が愛するものと訣別する未練や苦い涙があっても、神を満足させなければならない。ただこれのみが真の愛、真の信仰と呼ぶことができる。あなたの実際の背丈がどの程度であるかを問わず、まず苦難を受ける意志、及び信仰を備え、また、肉を捨て去る意志を備えていなければならない。神の意志を満足させるために、あなたは自ら進んで個人的に苦難に耐え、自分の個人的利益を失うことを惜しんではならない。また、あなたは、自分自身を悔いる心を持たなければならない。過去に神を満足させることができなかったことを悔い、そして今自分自身を悔いることができなければならない。これらのうちのどれ一つとして欠かしてはならない。そうすれば神は、これらのことを通してあなたを完全にするだろう。これらの条件に欠けている場合、あなたは完全にされることはない。」(『神の出現と働き』「完全にされる者は精錬を経なければならない」〔『言葉』第1巻〕)その言葉は私の状況を正に言い当てていたので、私は泣きながら読みました。以前、私は自分と夫を主に捧げ、それがどんなに辛く疲れるものであっても完全に満足してそれを行おうと決心していました。しかし今では、家庭での問題や夫の思いやりのなさから、私は特にひどい扱いを受けており、精錬にある状態で生きており、かつて持っていた信仰と愛を失いつつあるように感じていました。神の御前で行った決意を持ち続けられず、一人で密かに泣くこともよくありました。私はヨブがあのような非常に辛い試練の只中で神の証人として立ち、「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。(ヨブ記 1:21)とさえ言ったことを考えました。私はどうしてそのことを忘れていたのだろうか?そして神の御前で行ったあらゆる事を深く後悔しました。他の人は敢えて困難に苦しみ自分の利益を失ってまで神を満たそうとしています。しかし私は、こんなに長い年月主を信じてきたのに、主への信心を失っていました。精錬に耐えながら主に不平こそ言いましたが、一体どこで主への愛を表現したでしょうか?こうした事を心に思い、私は密かに心の内で決意しました。以前のようにはもうならず、主のために行っている仕事において夫を支え、私が多少の困難に苦しむのは正しいことなのだと決めたのです。

そう考えた時、私は感情的にずっと気分がすっきりしました。先に読んだ言葉は非常にうまく言い得ており、私の実際の状況の核心を突いているように思えました。その言葉は私に進むべき道を指し示し、私の内に無意識に信仰と力を湧き起こせるように思えました。私は「この言葉は誰が言ったものだろうか?この人の知識はどうしてこんなに崇高なのだろうか?私は有名な霊的な人々が書いた本を読んだことがあるが、そういう本は一部の人のためにはなっても、この本ほどはっきり明らかには書かれていなかったし、真実を含んだものでもなかった。本当に、この言葉は誰が言ったものだろうか?」と思いました。私はその本に引き寄せられ、読み続けました。そして読めば読むほど、本当に言い得た言葉だと感じました。一行一行が心の最も奥底まで直に語りかけたのです。私はその本の言葉から、苦しみがどんなに大きくても、最後まで神に従わなければならない、苦しみにあっては進んで神に服従しなければならないと理解しました。試練にあって弱くなったとしても、信仰を持って神を信頼し、確固として立つべきです。読めば読むほど私の心は啓示を受け、実践すべき道が持てました。その時夫が帰宅したので、私はすぐに「この本はどこで手に入れたの?」と聞きました。すると夫はにっこりして、「誰かから借りたんだ。でももうじき返さなければならない。」と言いました。私は本当にもっと読み続けたかったので、「私も読みたい。」と言いました。夫はにっこりして、「さあどうぞ!神がそうさせてくれるでしょう。」と言いました。

ある日、私は食事の支度をしながら、夫の演奏する讃美歌を何気なく聞いていました。「この出来事を見て驚かない者がいるであろうか?

その目で神を見たいと願わない者がいるであろうか?…神はユダヤを去った後その足跡さえ

残さないまま 姿を消してしまった

人々はまた神を見る事を待ち望んでいたが

今ここで神と再び会うとは夢にも思わなかった

それは過去の記憶を呼び覚まさないか?

それは過去の記憶を呼び覚まさないか?

二千年前 バルヨナ・シモンはイエスと出会って

同じ食卓で共に食事をした

バルヨナ・シモンはイエスと共にいた 数年の間に

イエスへの愛を深めて心の底からイエスを愛した

神は何年もの間 人々と共に過ごしたが

人々はその事に少しも気付かなかった

今日 神自身が現れ

昔から持っていた人への愛を新たにした

昔の愛を新たにしたのだ」

(『小羊に従って新しい歌を歌おう』「二千年に及ぶ切望」より)

この讃美歌の歌詞に私自身の思いが重なり、主の再来を待つ気持ちが湧き起こりました。私は聞きながら泣き、「主を初めて信じた時以来、私は主なるイエス様のことを毎日思い、もっと早くお帰りになって過去の出来事をお聞かせしたいと願ってきた。この歌詞は本当に純粋で感動的だが、それにも増して、主に対する人々の切望を表現できている。」と思いました。そこで私は支度をやめ、全身の注意を傾けて、もう一つの讃美歌の「私は人生に何も求めませんが、神様への私の愛の思いと私の心の願いが受け入れられるよう願っています。」という歌詞を聞きました。私は、「この讃美歌を書いたのは誰だろう?この人の決意はどうしてこんなに固いのだろう?この讃美歌を聞くと私はとても前向きになれる。そして、歌詞にあるように、神を愛する心の何と清らかなことか!」と思いました。以前主を信じていた頃は、主を愛するということを知らず、ただ主の恵み、平安、喜びを享受したいと思っていました。しかしその日、その讃美歌が私の世界観を大きく広げ、神を信じる人は神を愛さなければならず、自分のためには何も追求してはならず、そうした愛のみが純粋であるのだ、ということがわかりました。その讃美歌はその事をとても上手に表現していました。その時、私は密かに私もその目的を追求したい、主を愛さない人がいようとも私は主を愛するのだ、と心に決めました。

本の言葉を読み、讃美歌を聞いて、私はその言葉通りに実行しました。夫が伝道に出かけて家事を手伝う時間がない時も、私の心は以前ほど落ち込むことはなくなりました。また、兄弟姉妹の言う事に欠点や間違いがあっても、神に満足していただきたかったので、許すことができました。讃美歌が歌ったように、神を愛する心だけを追求したかったのです。

しかし、瞬く間に畑に種を蒔く時期がやってきました。ある夜、夫が片づけごとをしながら私に「明日から、別の地区の教会に出かけるから。」と言いました。私がすぐに「数日で帰って来られる?」と聞くと、夫は「わからない。君が家のことを心配しなくていいように、なるべく早く帰ってくる。」と言いました。それを聞いて、私の面持ちは暗くなり、「あなたは心配するなと言うけれど、どうして心配せずにいられよう?あなたはいつ帰ってくるかもわからず出かけてしまう。他の家の畑はもう種蒔きも済んでいるというのに、うちの畑はまだ耕してもいない。もし種蒔きが遅れたら秋にいい収穫は望めない。そうなったらどうしよう?せめて夫が種蒔きを終えてから兄弟姉妹を助けに出られるといいのに!」と思いました。その日の夜、私の心は大きな不安に襲われ、眠れずにいました。前回、夫は半月以上も旅をした末に帰ってきましたが、それは農作業の季節ではありませんでした。今や農作業で大事な時期になったというのに、もしまた半月も留守にされたら、私はどうしたらいいのだろう?夫に作業ができる仲間を探してもらって、やってもらおうか。しかし、私は考え直して「それではだめだ、夫が行って助けるのを待っている兄弟姉妹がいる。夫が行かなかったら、主に背くことになるではないか。」と思いました。精錬の状態にあって私は神の御前に行き、こう祈りました。「主よ!夫に兄弟姉妹を助けに行ってほしくないわけではありません。ただ、今は正に家中が畑で仕事をするべき時なのです。心の内で私は本当に大変な精錬に耐えていますが、どうしたらいいかわからないのです。主よ!お助けください。私の心を守り、こうした事で私が思い煩うことがないようにしてください。」祈ると、「あなたの実際の背丈がどの程度であるかを問わず、まず苦難を受ける意志、及び信仰を備え、また、肉を捨て去る意志を備えていなければならない。神の意志を満足させるために、あなたは自ら進んで個人的に苦難に耐え、自分の個人的利益を失うことを惜しんではならない。」(『神の出現と働き』「完全にされる者は精錬を経なければならない」〔『言葉』第1巻〕)という言葉が心に非常に鮮明に浮かびました。その言葉は私の心を掴み、はっきりとした光をもたらしました。そうです!主に満足していただきたい人は、苦難に耐える決意を持ち、神の御心を満たすためにむしろ肉体の苦しみを受け、利益を失うことを耐え忍ぶべきなのです!その言葉により信仰を得て、私はこう思いました。畑の種蒔きがちょっと遅くなったところで、構わないではないか!どのくらい収穫できるかは神次第なのだし、一番大切な事は、夫が主のために働くということだ。こう思って、私は心の内が軽くなって解放されたように感じ、知らぬ間に眠りに落ちていました。翌日の朝、私は夫に「安心して主に仕える仕事をしに行ってくださいね!いつ帰ってきても構わないから。私は神の定めに従うので。」と言いました。主が私のこうした行動に満足してくださると思うと、心に喜びと安心が感じられました。

夫は数日後に帰宅しました。そして別人になったように見えました。家事を手伝ってくれ、「君は働き過ぎだ!家の内外のあらゆる事をして、この数年間君は本当に大変だった。僕もわかっていたんだ。今までは仕事に出かけて家事の負担を分かち合おうとしなかったが、これからは時間がある時は僕もするよ。」と言ってくれました。その言葉を聞いて、私はとても感動しました。夫はそれまでそんな風に言ってくれることはなかったからです。そして「あの本を読んでから夫は大きく変わった。大きな光を持って伝道するだけでなく、私への態度も以前とは違う。以前は聖書を読んでもそんな変化は起こらなかったのに、あの本を読んでから短期間で非常に変わった。あの本の言葉には、本当に人を変える力があるのだ!」と思いました。同時に、本の言葉は私にも非常に恩恵があったと感じられました。本を読んだ後で信仰と力を得、その言葉の通りに行動すると、夫に対する不満足な気持ちがなくなりました。本を読んだ夫の私への態度も変わり、私を思いやっていたわる方法を理解してくれました。こうした変化すべてにより、私はますますその本の言葉が本当に強力であり権威に満ちたものであると思うようになりました。それにしても、その本の言葉を書いたのは誰なのでしょうか?その答えは見つからずにいました。

2か月後のある日、私は一緒に集会に出てほしいと夫に言われました。私には、その集会が何かとても特別なものに感じられました。さもなければ、夫が話を聞くのに私を誘うわけがありません。私の心は期待で溢れ、またあの本に出合うのではないかと楽しみにしていました。次の日、夫と私は二人の姉と一緒に心を弾ませながら車に乗り、ある姉の家に向かいました。その集会には多くの兄弟姉妹が参加しており、その中には、三十代の姉で、聖書を取り入れて終わりの日における神の働きについての多くの真実を話してくれた人もいました。この姉が話したことを聞いて、私の心には特別な輝きが起きたよう感じられ、以前理解できなかった聖書の多くの個所や裁きの働きをなさるために神が再来されることを完全に理解できるようになりました。私は「この人はどうしてこんなに上手に話ができ、こんなにはっきりと聖書のことを伝えられるのだろう?どうしてこんなに理解しているのだろう?」と思いました。すると、満面の笑みを湛えた姉は私たちに大声でこう言ったのです。「兄弟姉妹の皆さんが興奮するような素晴らしい知らせをお伝えしましょう。私たちが久しく待ち望んでいた主なるイエス様が、新しい働きをなさり、御言葉を表してあらゆる神秘を公にし、神の働きの三段階とその六千年の経営の計画、および神の受肉と聖書の神秘を明らかになさるために、私たちの間に肉を受けてお戻りになりました。今日、私が話す内容のすべては、神が表された御言葉によるものです。」座っていた兄弟姉妹や私たちはこの素晴らしい知らせを聞き、この姉がどうしてあんなに理解していたかがようやくわかりました。すべては、お戻りになった主の御声が姉に語ったことだったのです。今や私たちも主の御声を聞いて、全員が互いに抱き合い、興奮の涙を流し、集会全体が熱狂に揺れ動きました。私は嬉しくて飛び上がりたくなるほど幸せで、こう思いました。私はずっと主なるイエス様が少し早くお戻りになるよう待ち望んでいた。二千年が過ぎ、今主は本当にお帰りになったのだ!私が生きているうちに主なるイエス様のお帰りを歓迎できる。そんな私は本当に幸運だ!

やがて散会の時間になると、姉らは私たち一人ひとりに『裁きが神の家から始まる』という本をくれました。神の御言葉の本を抱きしめ、私は前に読んだあの本のことを突然思い出しました。あれはこの本なのだろうか?帰宅すると私はすぐ夫に「あの日見た本は今日姉が話していた神の御言葉と同じかしら?」と聞きました。すると夫はにっこりして、「そうだよ。」と言いました。その瞬間、私は夢から覚めたように感じました。あの声は結局神の御声だったのです。お戻りになった主なるイエス様の肉の御声、神の御声だったのです!あの言葉が私をあんなに感動させ、私に信仰と力を与え、私の邪悪な性情を変え、苦しみから解放したのも当然です。そこで私は夫を非難して「あなたは新しい神の働きを受けていたのね。どうして私に隠していたの?」と言いました。夫は「その時本当は君に話したかったのだけれども、君の家族は大部分が教会の伝道者なので、僕が説明してもわかってもらえないかもしれないと思ったんだ。君の親戚に見つかって、ひとたび君を妨害したり邪魔したりするようなことがあれば、君が救いを受ける機会を失うばかりでなく、僕も悪者にされてしまうと思ったんだ!」と言いました。夫の話を聞いて、夫に対する私の誤解は消えてなくなり、私を救ってくださった神への感謝がさらに大きくなりました。そして、私はあの本をよく読むことにしました。

全能の神の御言葉を読むことで、私の乾いた霊は養分と生きながらえていく力を得ました…。私は、お戻りになった神の御言葉を自分の耳で聞き、神の御前に高く上げられ、神と対面できるとは、全く思っていませんでした。そして、神に対しその愛と救いを特にありがたく思いました。それから10日以上過ぎ、夫と私は福音を伝えた姉らと会い、私たちの教会で主を真に信じる兄弟姉妹を連れて全能の神にお会いしました。神にすべての栄誉と栄光がありますよう!

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