その日、空は特に澄んで晴れ上がっていた

2018年4月16日

注:著者は、牧師達により伝えられてきた「信仰義認」や「一度救われた者は永遠に救われる」の観念に騙され、これに固執していました。それにより、神の終わりの日の福音を伝道する兄弟姉妹達との接触を拒んでいました。しかし、その後、著者の姉の家で、ある妹が神の国の福音を伝えるのを目の当たりにし、彼女と交流することで、終わりの日の神の裁きの働きを理解するようになり、宗教的概念の愚かさについてはっきりと分かり始めました。著者は牧師によるコントロールを断ち切り、神の終わりの日の働きを受け入れ、神の前に戻りました。

かつて、私は中国の三自教会の信者でした。その教会の集会に参加し始めたころ、牧師はよくこう言ったものです。

「兄弟姉妹の皆さん、聖書には次のように記されています。

なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。(ローマ人への手紙10:10)

私たちは信仰によって義とされ、イエスを信じているために救われたのです。他のものを信じていたら救われることはなかったでしょう……」

私は牧師の言葉をいつも胸に刻みこんでいました。そしてそれらの言葉にかき立てられ、主がおいでになって私を天国に招き入れてくださるのを待ち望みながら、熱心に信仰し、積極的に集会に参加しました。その後、教会内で不正行為が立て続けに起こり、そこでの集会に出るのが嫌になってしまいました。牧師たちが分裂し、おのおのが頂点に立って自分の縄張りを築き上げようとしただけでなく、牧師たちによる説教も中国共産党中央統一戦線工作部(UFWD)の指令に縛られていました。UFWDは「人民のあいだで騒乱を引き起こす」ことを恐れ、牧師に『ヨハネの黙示録』から説教することを許さず、牧師も黙示録から説教することはありませんでした。そしてしばしば献金について説教し、献金すればするほど神から祝福を受けると言っていました。私は教会がこのような状況に置かれたのを見て、「教会はどうしてこんな風になってしまったのだろう。牧師は主を信じていないのか。なぜ主の御言葉に従わないのか。どうして主をこれっぽっちも畏れていないのか」と困惑しました。この時以来、私はもう三自教会の集会に出たくなくなりました。牧師は真に神を信じておらず、兄弟姉妹が頑張って稼いだお金をむしり取るべく神を信じているふりをしている偽の羊飼いだと思ったからです。

1995年の後半、私はためらうことなくこの教会を去り、ある家庭集会(信仰義認教会)に加わりました。最初、彼らの説教は中国政府の規制を受けていないと思いました。『ヨハネの黙示録』を説教に組み入れ、終わりの日や主の再臨について話し合うことさえしていたのです。そのため、彼らの説く教えは三自教会の牧師のものよりはるかにましだと考え、三自教会の集会よりもここでの集会のほうが多くの喜びがあると感じました。私はとても幸せな気持ちになりました。しかししばらくすると、そこでも同労者の中に、嫉妬を剥き出しにして口論する人や、分裂をもたらそうとする人がいることに気づきました。主のお求めに従いながら生きている兄弟姉妹は1人もおらず、かつての愛情がなくなっていました。この教会も三自教会と何ら変わらないことがわかり、私はとてもがっかりしました。さりとて、どこに行けば聖霊の働きがある教会を見つけられるかもわかりません。他によい選択肢がないため、私は信仰義認教会に留まらざるを得ず、そこの集会に参加し続けました。牧師や説教者は口を揃えて、「一度救われた者は永遠に救われる」とか「最後まで忍耐し、主のために苦労して働き、主の道を守る限り、あなたは天国に入れる」などと言っていました。そのため、私は当時、「他の人に何が起きようと、主イエスへの信仰を守り続け、主の道から離れない限り、主が再臨なさるとき、私には天国に引き上げていただく機会があるだろう」と考えていたのです。

あっという間に1997年の後半になりました。神の国の福音がすでに私たちのところまで届き、私たちの教会は混沌とした状態に陥っていました。李指導者はこう言いました。

「最近、東方閃電を宣べ伝える集団が台頭しており、様々な教派からよき小羊を盗むとともに、主イエスはもうお戻りになったとか、働きの新たな段階をなさっているなどと言っています。主イエスは私たちのために十字架にかけられ、神は私たちの罪を贖うべく、ご自身のいのちという対価をお支払いになりました。私たちはすでに救われています。最後まで耐え抜きさえすれば、主が再臨なさるとき、私たちはきっと天国に引き上げていただけます。ですから、私たちは注意し、絶対に東方閃電の人々を受け入れてはなりません。彼らを受け入れる人は誰であれ、教会から追放します!また、彼らが言うことに耳を傾けてもいけません。彼らの本を読んでもいけません……」

ほぼすべての集会で、あらゆる階層の同労者がこの話題で持ちきりのようでした。彼らが話していることを聞いた兄弟姉妹は、意図せずして東方閃電に抵抗し、警戒するようになりました。私もいままで以上に用心と警戒を怠らないようになりました。自分が東方閃電に盗まれてしまい、そのせいで天国に入る機会を失うことを恐れたのです。

しかし1998年になった直後のある日、私は思いがけず全能神教会の人と出会い、はじめて東方閃電の道を聞くという幸運に恵まれました。その日、私は姉から電話をもらい、彼女の自宅に招かれましたが、姉は同郷の胡さんという姉妹も招いていました。胡姉妹は私を見て微笑みを浮かべ、「よくいらっしゃいました。主を信じる私の遠い親戚も来ているんです。一緒に集会を開きませんか」と言いました。私は喜んでうなずきました。程なくして、胡姉妹が親戚の人を連れて戻ってきましたが、この姉妹は私たちを見ると感激した様子で挨拶しました。私は彼女と初対面でしたが、彼女に対する一種の親しみを感じました。すると彼女はこう言いました。

「最近、教会の至るところで荒廃が見られます。説教者は宣べ伝えるべき新しい話題が何もなく、集会のたび、東方閃電にどう抵抗するかを話す以外は、テープを聞かせたり、歌を歌わせたりするだけです。これが集会になってしまいました。同労者は嫉妬を剥き出しにして言い争い、結託し、共謀しています。誰もが極めて独善的になり、他人の言うことに耳を貸しません。兄弟姉妹は否定的で弱くなり、信仰と愛を失いました。多くの人が主のもとを離れ、お金を稼ごうと世俗の世界に戻っています」

私も心の奥底で同じように感じ、うなずきながらその姉妹に言いました。

「私の教会もそんな感じです。以前は毎月の集会に2、30人が出席していたけれど、いまではお年寄りが数名出席しているだけです。説教者でさえ、お金を稼ぐために世俗の世界に行ってしまいました!集会に喜びなんかないんです」

すると姉妹はうなずき、次のように言いました。

「このような状況は、もはや特定の教会だけのものではありません。宗教界全体に広まっている現象なんです。そのことは、聖霊の働きがもはや教会の中で見つけられず、不正な行いが絶えず発生していることを示しています。これは主の再臨のしるしです。まさに、神殿が家畜を売ったりお金のやり取りをしたりする場所になってしまった、律法の時代の終わりと同じなのです。そうなったのは、神がすでに神殿で働きを行なうのをやめられ、その代わりに主イエスとして受肉なさり、神殿の外で働きの新たな段階をなさったからです」

私は熱心に耳を傾け何度も頷きました。そして姉妹はこう続けました。

「姉妹、『ルカによる福音書』17章24節から26節には次のように書いてあります。

いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう

聖書のこの聖句をあなたはどのように解釈しますか」

私はしばらく真剣に考えてからぎこちなく微笑み、「姉妹、聖書に書いてあるこの聖句は、主の到来についてのものではないでしょうか」と言いました。すると姉妹はこう答えました。

「聖書のこの聖句は主の到来について述べています。しかし、あの遠い昔の時代における主イエスの到来を述べているのではありません。むしろ、終わりの日における主の到来を指しているのです。と言うのも、主はここで、終わりの日に戻られた際に何が起きるかをとても明確に預言なさっているからです。姉妹、教会の信者の信仰はいまやますます冷めていて、否定的で弱い状態になっています。それは、神が再び受肉されて働きの新たな段階をなさっているからです。神の働きは前進しており、神の新たな働きに従わない人は聖霊の働きを失います」

主イエスはすでに再臨なさったと姉妹が言うのを聞いた瞬間、この人は東方閃電の人だという勘が働き、たちまち心が沈みました。「イエスを信じることは救われることです。一度救われた人は永遠に救われます!……東方閃電の人を受け入れてはいけません!……」という、この教会を閉め出している指導者の言葉がすぐに頭の中で浮かび、笑顔が消えてなくなりました。指導者の言葉を考えていると、急いで家に帰りたくなりました。しかし、この考えが頭をよぎったとき、主は次の讃美歌の一節を思い出させることで私を啓いてくださいました。

「イエスは私たちの避難所です。問題に見舞われたときはイエスのもとに隠れなさい。主と一緒であれば、何を恐れる必要があるでしょう」

そして私はこう考えました。

「その通りよ!主が私のそばにいらっしゃるなら、何を恐れる必要があるだろう。私が恐れていることは神からではなくサタンから来たものなのだから」

そのとき姉妹が、「疑問があれば口に出して分かち合いましょう。。神の御言葉が私たちのあらゆる問題や困難を解決してくれます」と言いました。私はその言葉を聞いて、「あなたが私の質問に答えられるとは限らない。東方閃電がいったい何を宣べ伝えているのか、どうしてこんなに多くのよき小羊を盗むことができたのか、ちゃんと突き止めなきゃ」と思いました。

私はそう考えて次のように尋ねました。

「私たちの指導者は、『主イエスは私たちのために十字架にかけられ、神は私たちの罪を贖うべくご自身のいのちという対価をお支払いになり、それゆえ私たちは救われた』と常々言っています。聖書にも『なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。(ローマ人への手紙10:10)と記されています。私たちは一度救われたので、永遠に救われるのです。なので最後まで耐え抜く限り、主がお戻りになるとき、私たちはきっと天国に引き上げていただけます。これは主が私たちになさった約束です。ですから、私たちは神がなさっている新しい働きを受け入れる必要はありません」

すると姉妹は微笑みを浮かべ、私にこう言いました。

「主イエスは私たちのために十字架にかけられ、ご自身のいのちという対価をお支払いになって私たちを贖われたので、私たちはもう救われたと考える信者が数多くいます。一度救われた者は永遠に救われるとか、最後まで耐え抜きさえすれば、主がお戻りになるとききっと天国に引き上げていただけるとか、神のなさる新たな働きを受け入れる必要はないなどと信じているのです。しかし、このような考え方は本当に正しいでしょうか。本当に主の御心に適うものでしょうか。実際、『一度救われた者は永遠に救われる』とか、『主が再臨なさるとき、私たちは天国に引き上げていただける』という考えは人の観念にして想像であり、主の御言葉に即していません。主イエスは、信仰によって救われた者は天国に入れるなどとは一度もおっしゃっていません。むしろ、『ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。(マタイによる福音書7:21)とおっしゃっています。救われることと天にいます父の御心を行なうことは同じではありません。信仰によって救われると私たちが言うとき、この『救われる』という言葉は罪が赦されたことを意味します。つまり、法によって死刑に処されることになっても、主の御前に出て悔い改め、主の救いを受けるならば、主はその人の罪をお赦しになり、その人は法の断罪から自由になり、もはや法によって死刑に処されることはないのです。これが救われることの本当の意味です。しかし、救われるということは、人々が罪から自由になって清められたことを意味しません。私たちはみな、そのことを深く経験しています。私たちは長年にわたって主を信じ、しばしば自分の罪を主に告白して悔い改め、罪を赦していただく喜びと安らぎを享受していますが、意図せず罪を犯すことが依然としてよくあり、いまも罪に囚われています。これは事実です。たとえば、傲慢さ、狡猾さ、身勝手さ、貪欲さ、邪悪さなどといった堕落した性質がいまだ存在し続けています。私たちは依然として、世俗の潮流や富や名声、それに肉の悦びを追い求め、罪深い悦びをむやみに欲しがります。また個人的な利益を守るため、私たちは頻繁に嘘をつき、他人を騙すこともできます。ゆえに、救われることは、完全な救いを得たことを意味するのではありません。これは事実です。聖書には『わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない(レビ記11:45)と記されています。神は聖なる存在でいらっしゃるのですから、頻繁に罪を犯して神に抵抗する人たちが天国に入ることをお許しになるでしょうか。信仰によって救われた人は天国に入れるとあなたが信じていらっしゃるなら、主イエスはなぜ次の御言葉をおっしゃったのでしょう。

わたしにむかって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか」と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」(マタイによる福音書11:7:21–23)

主は再臨なさるとき、小羊から山羊を、有毒な雑草から麦をお分けになると言われているのはなぜですか。ゆえに、『信仰によって救われた人々は天国に入れる』というのは完全に見当違いなのです。それは主イエスの御言葉とまったく相容れず、主の御言葉を否定するものです!ですから、主の御言葉を受け入れず、それを信じず、それどころか牧師や長老が伝える間違った考えに固執し、自分自身の観念と想像に頼って神を信じるなら、私たちは神のお求めを満たすことができず、天国に引き上げていただくこともできません」

私は姉妹の言葉をじっくり考え、彼女の言ったことには理知があると思いました。そこでじっと座ったまま、黙って彼女の話に耳を傾けました。すると姉妹は話を続けました。

「全能神の御言葉はすでに、救われて完全な救いを得ることの奥義を明らかにしてます。なので全能神の御言葉を一緒に読んで、神がこれについて何とおっしゃっているかを見ていきましょう。全能神はこうおっしゃっています。

当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じているならば、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救われることは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、罪が赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないということである。(『神の出現と働き』「神の働きのビジョン〔2〕」〔『言葉』第1巻〕)

人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。 … 人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからである。 … それはサタンによって植えつけられて人の心の奥深くに根ざし、罪よりも深くはびこっている。人が自分の罪に気づくのは容易ではない。人は自分自身の深く根ざした本性を認識することができない。言葉による裁きに頼らなければそのような成果を達成することはできない。これによって初めてその時点から次第に人は変えられていくのである。(『神の出現と働き』「受肉の奥義〔4〕」〔『言葉』第1巻〕)

あなたは終わりの日にイエスが降臨することだけは知っているが、正確にはどのように降臨するのだろうか。あなた方のように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む――あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである。(『神の出現と働き』「呼び名と身分について」〔『言葉』第1巻〕)

姉妹は続けて教えを説きました。

「全能神の御言葉から、神がなさる働きの各段階は、堕落した人類の必要に応じて実行されるのだとわかります。律法の時代の末期、人はサタンによってますます堕落させられ、いっそう多くの罪を犯していました。ヤーウェの律法を破り、石打ちの刑に処されて天の火に焼かれる危険に直面したのです。神は人類を愛していらっしゃいます。神は罪深き肉に似せて自ら受肉され、十字架にかけられて人の罪を贖われました。よって主イエスを信じる限り、私たちは救われます。主は私たちの罪をご記憶なさいません。私たちは直接神の御前に出て神に祈り、神が授けてくださる豊富な恵みを享受することができます。しかし贖われたといって、私たちが罪なき存在になった証明にはなりません。私たち人類は数千年にわたりサタンによって堕落させられてきました。そしてサタンの害毒が私たちの中に深く根づき、私たちのいのちとなり、本性となったのです。私たちは自惚れや傲慢、欺瞞や不実、独善や卑劣、貪欲や邪悪といったサタン的本性に支配されています。それに依然として頻繁に嘘をつき、騙し、罪を犯し、神に抵抗することができます。そのことは、私たちが絶えず罪を犯してはそれを告白するという繰り返しの中で生きていることの根源です。ですから、堕落した人類が必要とするものと、人類をお救いになる神の経営計画をもとに、神は私たちを清めてその堕落した性質を変えるべく、人を裁いて罰する終わりの日の新たな段階の働きをなさるために到来なさいました。そして最終的に、神は十分な救いを得て完全にされた人を天国へと導かれるのです。依然として『一度救われた者は永遠に救われる』という観念に固執し、終わりの日における神の裁きの働きを拒むなら、私たちの血に流れるサタンの害毒が清められることは決してなく、私たちが神の完全な救いを得ることも決してありません。天国に引き上げていただくなどもってのほかです。これらがもたらす結果は非常に重大なものです。ゆえに終わりの日であるいま、恵みの時代をあとにして全能神による終わりの日の裁きの働きを受け入れることでのみ、人は徹底的に清められ、神の完全な救いを得て、良き終着点に行くことができるのです」

姉妹が説く教えを聞きながら、私はこう考えました。

「そうよ。全能神の御言葉はとても実践的だわ。ここ数年、私はいつも日中に罪を犯して夜にそれを告白する生活を送ってきたんじゃないかしら。私たちは主への信仰のおかげで罪を赦されただけで、罪深い本性はまだ残っている。依然として罪を犯し、神に抵抗できるのよ。主は聖くていらっしゃるのだから、頻繁に罪を犯して主に抵抗する人がどうして天国に引き上げていただけるだろう。全能神の御言葉が、長年心にのしかかっていたこれらの問題を解きほぐしてくれた。全能神の御言葉には、私たちが求めるべき真理が確かにある。それは、全能神が本当に再臨された主でいらっしゃるということなのかしら。きちんとそれを調べる必要があるわ」

私は徐々にこの姉妹に対する警戒心を解いていきましたが、話し合った内容について調べようと思った瞬間、ドアを必死にノックする大きな音が突然聞こえました。胡姉妹がドアに駆け寄ると、牧師が部屋に入ってきました。その牧師はまず私を見て、次に全能神の国の福音を説いている姉妹のほうに目を向けると、驚きと怒りに満ちた口調でこう言いました。

「君はここで何をしているんだ。見知らぬ人間の説教を聞いてはならないと言わなかったか。それなのに、ここでこの連中の話を聞いているのはどういうわけなんだ。いますぐ家に帰りなさい。二度とこの連中の話に耳を傾けてはだめだ。騙されたら後悔しても手遅れだぞ!」

牧師は私を叱ったあと、今度は姉妹のほうを向いてこう脅しました。

「東方閃電を宣べ伝えているお前たちがやっているのは、私たちの教会に来て信者を盗むことだけだ!いますぐここから出て行け。お前たちが出て行かないなら、私にも考えがあるぞ!」

姉妹に対する牧師の接し方を見た私は大いに嫌悪を感じ、このように言いました。

「牧師さん、この姉妹は本当にいいことを言っていただけで、その内容は聖書と合致しています。私も、全能神が再臨された主イエスだというのは本当のような気がします。あなたも話を聞いて、そのうえで判断してはどうですか。それに聖書にも『旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は、気づかないで御使たちをもてなした。(ヘブル人への手紙13:2)と書かれていませんでしたか?主を信じる私たちは愛情を示すべきで、こんな風に人を扱うことはできません。このようにして姉妹を追い出すことは、主の教えに反していないでしょうか」

私がそのように言うのを聞いた牧師は、「君に何がわかるというんだ。イエスを信じている私たちはすでに救われている。再び救われる必要などない!連中は信者を盗もうとしてここにやって来た。だから連中を受け入れてはならない!」と私に向かって怒鳴りました。このとき、福音を福音を宣べ伝えていた姉妹が微笑みを浮かべ、「私たちはみんな主の再臨をお待ちしています。座ってお話ししませんか。主の再臨を逃すと、とても後悔することになります……」と言いましたが、姉妹が言い終わらないうちに牧師は姉妹を追い立て、「黙れ!お前がどんな立派なことを話したとしても、聞くつもりはない!すぐに出て行け!」と言いました。そしてその言葉通り、牧師は姉妹を家から追い出そうと、押したり引いたり暴言を吐いたりしました。姉妹が家から出ると、牧師は私の所に戻ってきてこう脅しました。

「いますぐ家に帰りなさい。今後は東方閃電の連中と二度と接触してはいけない。接触したら君を教会から追放する。そうなったら主に讃えていただき、天国に入る機会を失うんだぞ」

私はすでに姉妹が説いた教えを聞いていたので、主イエスの働きは贖いの働きであって人を清める働きではないこと、そして主は終わりの日にお戻りになって裁きの働きをなさってはじめて、人を徹底的に清めてお救いになることを理解していました。終わりの日における神の裁きの働きを受け入れなければ、人の堕落した性質は変わらず、神の完全な救いを得て天国に入ることはできません。そのため、牧師の言葉は私に大した影響を与えませんでした。私はそれを聞き流し、うなずいて賛成した振りをしてから家に帰りました。

家に戻ると姉妹が説いてくれた教えを反芻し、「あの姉妹が言っていたことは、すべて聖書に沿っている。私はまともな根拠もなしに『一度救われた者は永遠に救われる』と信じていたのね」と考えました。神を信じてきた長い年月を振り返り、罪を犯してはそれを告白するという状態の中で絶えず生きていたことに気づきましたが、その問題を解決することはできず、1人で多くの苦しみを味わっていたのです。このような形で信じ続ければ、最後に神の称賛を得られないと感じました。あの姉妹の話を聞いた私は、主を信じる者が完全な救いを得て天国に入りたければ、再臨された主イエスがなさる人々の裁きと清めの働きを心から受け入れなければならないと、よりいっそう確信するようになりました。それなら、全能神による終わりの日の裁きの働きとは一体何なのでしょうか。全能神はどのように人を清めて変えられるのでしょうか。このようなことを考えながら聖書を捲っていと、主イエスによる次の聖句が見つかりました。

わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12-13)

さらに、聖書には次のようにも書いてあります。

さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙4:17)

耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録2:7)

これを読んだとき、私は夢からようやく目覚めたような気がしました。終わりの日に神がより多くの真理を表され、新たな段階の働きをなさることを、主イエスははるか以前に預言されていたのです。これはまさに、全能神がおいでになり、人を裁いて清める働きをなさるということではないでしょうか。私はこう考えました。

「あぁ!今日、牧師がやって来て邪魔をしなければ、全能神の道についてもっと心ゆくまでに聞けたのに。かつて、私は牧師や長老の言葉に必ず耳を傾けていて、全能神の終わりの日の働きについて探求したり調べたりしたことは一度もなかった。ただ、牧師や長老の言うとおりにしていただけなのよ。自分の心に主の居場所がなかったことに、今日初めて気づいたわ。主の再臨を探求することについても、私は主の御心を求めず、牧師や長老の言葉をうのみにしていた。何て愚かなのかしら!主を信じる私たちは、神を讃え、主の再臨について神の足跡を積極的に探すべきなのよ。そうすることでのみ、私たちは神の御心に従えるのだから。今日私は、牧師の行動が神の御心に従っていないことを理解した。もはや彼らが言うことを無闇に聞くわけにはいかない。全能神の道を求め、調べる必要があるのよ」

翌朝は交わりの続きをするために、最初に胡姉妹の家を訪ねてから、全能神の福音を宣べ伝えてくれた姉妹を探すことにしました。私が家を出る前に、胡姉妹があの姉妹を私の家に連れてきてくれるなど、誰が想像したでしょう。それはまさしく主のお導きだったのです。その姉妹はまず心配そうに、昨日は牧師から嫌がらせをされませんでしたかと尋ねました。私はきっぱりと答えました。

「いいえ。昨日の交わりの後、私はここに戻って、いろいろあったことを注意深く思い返しました。そして、主イエスを信じるだけでは本当に清めていただけないことに気づきました。私たちの堕落した本性がまだ存在しているので、そのために神の完全な救いを得られないのです。さらに、主が終わりの日にお戻りになって裁きの働きをなさることを実際に預言している聖書の一節も読みました。いま、私が何よりも知りたいのは、全能神が終わりの日に行なわれる裁きの働きとは、一体どのようなことなのか、全能神の裁きの働きは、どのように人を清めて変えるのか、ということです」

すると、その姉妹は嬉しそうに言いました。

「神に感謝します!あなたの質問はまさに核心を突いていますよ。というのもその質問は、私たちは神を信じることで、完全な救いを得て天国に入れるのかどうかという重要な問題に関係しているからです。まず、全能神の御言葉に何と書かれているか読んでみましょう。全能神は次のようにおっしゃっています。

もちろん、神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの真理をもたらし、より多くの実践方法を示し、こうして人を征服し、堕落した性質から人を救うという神の目的を達成する。これが神の国の時代における神の働きの背後にあるものである。(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)「裁き」という言葉を出せば、ヤーウェがあらゆる場所に向けて語った言葉、イエスがパリサイ人に語った非難の言葉をあなたはたぶん思い浮かべるであろう。それらの言葉の厳しさにもかかわらず、それらは神の人への裁きの言葉ではなく、様々な環境において、つまり異なる脈絡において、神が語った言葉にすぎなかった。それらの言葉は、終わりの日にキリストが人間を裁きつつ語る言葉とは違う。終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このようなさらけ出し、取り扱い、刈り込みの方法は通常の言葉が取って代わることはできず、人間が完全に失った真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は制圧され、神への服従に向かうように徹底的に説得され、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、人による神の真の顔の認識と、人間自らの反抗的性質についての真理である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。(『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」〔『言葉』第1巻〕)

神の御言葉を読んだ後、姉妹は続けて教えを説きました。

「神の御言葉から、全能神は終わりの日の裁きの働きにおいて、真理の多くの側面を使って人を暴き、人を詳しく調べることがわかりました。神は御言葉によって人の堕落した本質と人の堕落の真相を明らかにし、神に反抗し、神を裏切るサタンのような本性を裁き、私たちに内在するさまざまな種類の堕落を清められるのです。そのような堕落の例として、神の働きに関してさまざまな観念や想像を抱くこと、自分の観念を真理と見なして神の働きを判断すること、そして好き勝手に神を裁き、神を非難し、神に抵抗することが挙げられます。また神を信じていても、実際には不信心者とまったく変わらないのも堕落です。私たちはみな名声と財を求め、そのためにあらゆる対価を支払おうとしますが、誰1人として神に満足していただくために生きてはいません。また、神は実際には、神の御心に従うことでのみ、人は天国に入れるとおっしゃっているのに、主を信じている限り自分たちは救われるとか、主が到来したら、自分たちは天国に引き上げていただけるなどと、私たちは神と相容れないものの見方をたくさんしています。こうしたことは私たちに内在する堕落のほんの一例です。神の裁きと刑罰を通して、これらの堕落した性質や、誤った見方や考え方、サタンの人生の原理も清められて変えられます。そうして私たちは、神に心から従うようになるのです。同時に、私たちは神の裁きと刑罰により、神の義なる性質が人のいかなる背きも容赦しないことを認識し、神がどのような者を愛されるか、どのような者を嫌われるかを知り、人をお救いになる神の意図を理解し、神に畏敬の念を抱き、真理を探求する方法を知り、神の称賛を得るにはどう本分を適切に尽くせばよいかがわかるようになるのです。神の御言葉を経験し実践することにより、私たちは多くの真理を理解するようになります。たとえば、神への信仰を持つということはどういうことか、真に救いを得るとはどういうことか、神に従い神を愛するとはどういうことか、神の御心に従うとはどういうことかを知るようになるのです。私たちの堕落した性質がさまざまな度合いですべて変化していき、私たちの人生観や価値観も変わっていきます。これこそ、神が私たちに行なわれている裁きと刑罰の働きなのです。これを、神の愛による救いと呼ぶこともできます。ですから、終わりの日のキリスト、つまり全能神の御座の前で裁きを受けることでのみ、私たちは真理を受け取れるのです。そのとき初めて罪から解放され、清められ、救済を得ることができるのです。姉妹、この交わりが理解できますか?」

神の御言葉を読み、姉妹が交わりをもってくれたおかげで、私は神の働きと神の御心を理解するようになりました。そして深く感動しながら頷き、こう言いました。

「神に感謝します!全能神の御言葉を聞くことで、神は終わりの日に御言葉の真理を使い、人を裁いて清める働きをなさることがわかるようになりました。私のこれまでの追求はとても漠然として、非現実的でした。それでも今は、終わりの日における神の裁きと刑罰の働きを受け入れることでのみ、人は神に清めていただき、救いを得て天国に入れることを理解しています。全能神は再臨された主イエスでいらっしゃるのです!私の堕落した性質が近いうちに変わるように、喜んで終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の御言葉の裁きと刑罰を受け入れます」

私の言葉を聞いて、姉妹は嬉しそうに微笑み、何度も神に感謝を捧げました。

全能神の御言葉は、自分が心に抱いていた観念から私を解放するとともに、私が自分の堕落した性質をどのように捨て、どのように清めていただくかについて道を示してくれました。今や救済を求める方向と目的が明確になったので、自分の霊が明るくなり、落ち着いて解放されたように感じました。窓の外を見ると、その日の空は特別に澄んで晴れ上がっていました。私は地面に膝をつき、神に祈りを捧げました。「あぁ、神よ。あなたに感謝を捧げます。生きているうちにあなたの再臨をお迎えし、あなたの現れを目撃できるほどの幸運に恵まれたのは、まさに祝福です!でも、私は盲目にして無知です。牧師や長老が広める噂を信じ、自分の考えや想像に固執し、もう少しで永遠の救いを失うところだったからです。あぁ、神よ。私はとても無知で愚かです!進んで悔い改め、救いを得るというこの極めてまれな機会を大切にします。そして、さらに多くの兄弟姉妹が救いを得られるよう、あなたの御前に連れていくつもりです!アーメン!」

ティアン・イン

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