空を眺めて本当に主をお迎えできるのか

2022年7月15日

主イエスが雲に乗って降臨され、災害の前に自分が天国へ導かれるのを、多くの信者が待っています。でもずっと災害がますます大きくなっているのに、主イエスは雲に乗って来られていない。多くの人の信仰が揺らぎ、中には主がいつ来られるかは主次第で、自分たちはただ待てばよいとか。災害の前に戻られないなら、その途中か後だろうと言う人も。こうした言葉は何を示すでしょう? 信仰がどん底に落ちたことを示すのでは? 彼らは信仰を失い、求めも調べもせず、災害が降るのを待つだけ。他に何をすべきか知らない。何年も空を眺めながら、いまだ主をお迎えしていない。それが本当に正しい取り組みでしょうか? 主をお迎えする上で一番大事なことは? 主イエスは言われました。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う(ヨハネによる福音書 10:27)。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう(ヨハネの黙示録 3:20)。またヨハネの黙示録にはこの預言が多数あります。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい(ヨハネの黙示録 2章および3章)。これらの聖句が示すのは主の降臨を迎える上で重要なのは、聖霊が諸教会に言うことを求め、神の御声に耳を澄ませること。神の御声を聞く者は主をお迎えする賢い乙女。以前はこの真理がわからず、観念と想像にこだわり空を眺めるだけでした。主イエスはもう戻られ、多くの真理を表わしたという証しを聞いても、それを求めも調べもせず、主を迎えて引き上げられる機会を失うところでした。

前の教会の牧師はいつも使徒行伝1章11節について話していました。「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。主は再臨するとき雲に乗って来られるので、私たちは注意して祈り、主をお迎えする必要があると。そこで毎日必ず、聖書を読んで祈りました。いつか主が雲に乗って来られ、私を天国へ引き上げて下さるようにと。

ある日、友人の家に行ったところ、漢方医療の途中でした。話してみると、漢方医の張先生はクリスチャンとのことで、聖書の話になりました。張兄弟は神による終わりの日の働きに触れ、聖書の一節を挙げました。「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである(ヨハネによる福音書 5:22)。そしてこう言いました。「主イエスは全能神としてすでに戻られました。肉において来られ、真理を表わし終わりの日の裁きの働きをなさっています」。主が戻られたと聞いて、私は興奮と衝撃を覚えました。「主イエスが戻られたなんて素晴らしい! 長年この日を待ち望んできた。ついに叶ったんだ!」でも喜んでいると、張兄弟の「肉において」という言葉を突然思い出し、ドキッとしました。牧師や長老がいつも言っていたからです。主は雲に乗って降臨される。肉において来たという知らせはどれも偽りだから信じるなと。私は張兄弟を警戒しました。自分は長年主を信じ、聖書を何度も読んだが、主が肉において戻られるとは書いていない。そこでこう言いました。「主が肉において戻られるなんて、どうしてあり得るでしょう? 使徒行伝1章11節にこうあります。『ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう』またヨハネの黙示録1章7節には『見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう』と。これらの聖句から、主は雲に乗って去られたので、戻るときも雲に乗って来られることがわかります。主は肉において戻られたとおっしゃいますが、聖書と矛盾しているのでは?」

すると相手は笑みを浮かべて答えました。「兄弟、聖書には主が雲に乗って来られる記述もありますが、それは主がどう来られるかに関する預言の一つに過ぎません。終わりの日、主が人の子として、肉において密かに来られる預言も多数あります」そして聖句をいくつか挙げました。「わたしは盗人のように来るであろう(ヨハネの黙示録 3:3)。「その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる(マルコによる福音書 13:32)。「夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした(マタイによる福音書 25:6)。それに「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない(ルカによる福音書 17:24-25)。そしてこれらの聖句について話しました。「『盗人のように』『だれも知らない』という記述は、主が密かに来られたことを誰も知らず、主を見ても気づかないという意味だと言いました。預言には『人の子』『人の子の降臨』ともあります。『人の子』とは人に生まれ、血と肉ででき、正常な人間性があるという意味です。主イエスはキリスト、人の子と呼ばれました。外見はごく普通で、普通の人と同じく食べ、服を着、人とともに暮らしました。それが神の霊、または復活した主イエスの霊体だったら、『人の子』とは呼ばれなかったでしょう。だから人の子の降臨というのは主が肉において戻られることなのです。主が雲に乗って来られるのは確かに印象的な光景で、世を揺るがすでしょう。誰もが地にひれ伏し、あえて主に抵抗する者はいない。でも考えてください。『しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない』という主の預言はどう成就しますか? 人の子として肉において現われ、働きをなさるなら、苦しみこの時代の人に捨てられるだけ。主イエスが現われ働きをなさったときと同じです。神の御声を聞けず主イエスの神性の実質に気づけない人は、自分の観念にしがみつき、主に抵抗して断罪し、最後は十字架にかけました。だからこれらの預言に『人の子の降臨』『盗人のように』『この時代の人に捨てられる』とあるのは主が人の子として、肉において密かに戻られることを指しています」。その話は私にとって本当に驚きでした。それまで主が人の子として戻られ、働きをなさる預言がこんなにあるとは想像もせず、それで思いました。「何度も聖書を読んで、なぜ気づかなかったのか? 牧師や長老が聖書の話をするとき、これに触れないのはなぜなんだ?」決して話さない。張兄弟の説教は高尚で、聖書について独自の理解があり、反論は無理そうです。でも聖書には、雲に乗って降臨されるという記述もあり、牧師や長老はいつも、他はどれも偽りだと言っていました。聖書を熟知しているので、誤解するなどあり得ないように思えます。でもやはり、張兄弟の話は聖書と一致しています。どう考えたらよいかまったくわけがわからず、考えれば考えるほど不安になり、彼の話を聞くのをやめ、言い訳して立ち去りました。

帰宅しても、気持ちが落ち着きません。張兄弟の話が頭の中でこだまして、「主が戻られたのにそれを調べなければ、お迎えする機会を逃すのでは」と不安になりました。でも、雲に乗って来られる聖書の記述と牧師の言葉も頭にありました。信仰で道に迷ったらどうしよう。決して些細なことじゃない。その後何度も、張兄弟から教会に誘われましたが、葛藤して決心がつかず、結局家のことを理由に断わりました。でも主の御心に叶っていないと感じて不安になり、見抜く力を授けてお導きくださいと主に祈りました。すると数日後、張兄弟がなんと我が家に来てくれたのです。何度も張兄弟をがっかりさせて、申し訳ないと思ったので、自分の困惑を伝えました。「張兄弟、先日おっしゃった主が人の子として、肉において密かに戻られるという話は聖書と一致しているようですが、わからないことがあります。主は雲に乗って戻られると聖書にはっきり書かれてます。ヨハネの黙示録にも『見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう(ヨハネの黙示録 1:7)と。おっしゃるように主が肉において戻られたのなら、誰もが雲に乗った主を見ると言うこの預言はどう成就するでしょう? 矛盾していませんか?」

すると張兄弟は笑みを浮かべて答えました。「主の再臨に関する預言はすべて成就します。矛盾はありません。単に順序の問題です。まず、神は密かに人の子として受肉され、その後雲に乗って公然と現われます。肉において密かに働きをなさる間、神は真理を表わし、神の家から始まる裁きの働きをなさいます。その御声を聞いて終わりの日の働きを受け入れる人が賢い乙女で、御座の前に引き上げられます。災害に先立ち、神は御言葉の裁きを受け入れた彼らを勝利者にされます。そして災害を降らせ、善に報いて悪を罰し、災害が終わると雲に乗って公然と現われ、終わりの日のキリストに反抗して断罪した者はみな、断罪した全能神が他ならぬ主イエスの再来だと知り、胸を叩いて嘆き、歯ぎしりします。こうしてヨハネの黙示録の預言が成就するのです。『見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう』」(ヨハネの黙示録 1:7)。それから全能神の御言葉をいくつか読んでくれたので、「多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。おそらく、その時あなたにとって大いなる興奮の時となるであろう。だが、あなたがイエスが天から降臨するのを見る時は、あなたが地獄へ落ち、懲罰を受ける時でもあることを知るべきである。それは神の経営(救いの)計画の終わりの時であり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人間がしるしを見る前に、真理の現れだけがある時には終わっている。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主の胸に抱かれる。『白い雲に乗らないイエスは偽キリストだ』という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し、真の道といのちを解き放つイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に取り扱うしかない。……イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大いなる救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである。あなたがたは自分自身の道を選ぶべきで、聖霊を冒涜したり真理を拒んだりするべきではない。あなたがたは無知で傲慢な者でなく、聖霊の導きに従い真理を慕い求める者にならなければならない。そうすることでのみ、あなたがたの益となる(『神の出現と働き』「あなたがイエスの霊体を見る時、神はすでに天地を新しくしている」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉を読み終わるとこう言いました。「主が来られるのを待つときは、賢い乙女になって神の御声に耳を澄ませる必要があります。終わりの日、全能神は裁きの働きをなさり、人類を清めて救うすべての真理を表わされます。私たちはそれを求めて調べ全能神の御言葉を読み、それが真理で神の御声かを確かめねばなりません。自分の観念には頼れないのです。ユダヤのパリサイ人は自分の観念に頼り、ひたすらメシアを待って、主イエスの表わす真理を求めませんでした。主に反抗し、断罪して十字架にかけ、神の性質を犯して呪われました。自分の観念によって主の到来を調べ、雲に乗って来られる以外はすべて偽りだと言い張り、牧師とともに終わりの日の神の働きに抵抗して断罪するなら、パリサイ人と同じ過ち、重い罪を犯しています。嘆いて歯ぎしりしても手遅れです」。

これを聞いて、主の到来が何段階かに分かれることを知りました。まず肉において裁きの働きをなさり、勝利者の一団を作られてから、雲に乗って公然と現われます。主の到来の預言は一つひとつ成就するのです。そのとき、自分は愚かで盲目だったと思いました。長年信仰しながら聖書を理解せず、牧師と自分の観念に従うだけ。主の御声を聞いてお迎えしようとしなかった。けど幸運にも、神が張兄弟を何度も動かし、福音を伝えてくださった。さもなければ想像にしがみついて主の再臨を逃し、最後は淘汰されるでしょう。そこで張兄弟に言いました。「おかげで神の働きがいかに賢く実践的かがわかりました。受肉した神が密かに来られて働きをなさるのは私たちの救い。でもまだわからないことがあります。主は受肉して戻られたと証ししましたが、受肉とはいったい何です? 全能神が本当に受肉した神だと、どうして断言できますか?」

張兄弟は神の御言葉を何節か読んでくれました。「『受肉』というのは、神が肉において現れることであり、神はその肉の姿で、自分の創った人間のもとで働く。さて、神が受肉するには、まず肉の体、普通の人間性を備えた肉体でなくてはならず、それが最も基本的な前提条件である。実際、神が受肉するというのは、神が肉体において生き、働くということ、その実質において肉となり、一人の人間になるということを意味する(『神の出現と働き』「神が宿る肉の本質」〔『言葉』第1巻〕)。「普通の人間性を持つキリストは、霊が顕現した肉体であり、普通の人間性、普通の理知、人間の思考を有している。『顕現』とは、神が人間になること、霊が肉になることである。わかりやすく言えば、神自身が普通の人間性を持つ肉体に宿るということで、それによって神の神性の働きを表す――これが顕現、または受肉の意味である(『神の出現と働き』「神が宿る肉の本質」〔『言葉』第1巻〕)。「受肉した神はキリストと呼ばれ、キリストは神の霊がまとう肉である。この肉はいかなる肉ある人間とも異なる。キリストは肉と血でできているのではなく、神の霊が受肉したものだからである。キリストは普通の人間性と完全なる神性の両方を有している。キリストの神性はいかなる人も有していないものである。キリストの普通の人間性は肉における普通の活動のすべてを支え、キリストの神性は神自身の働きを遂行する。キリストの人間性であれ、あれいは神性であれ、いずれも父なる神の旨に従うものである。キリストの本質は霊、すなわち神性である。ゆえに、キリストの本質は神自身のものである。この本質が神自身の働きを妨げることはなく、神が自身の働きを破壊することは決してあり得ず、自身の旨に逆らう言葉を語ることも決してない(『神の出現と働き』「キリストの本質は父なる神の旨への従順さである」〔『言葉』第1巻〕)

そして張兄弟は言いました。「私たち信者はみな、主イエスが受肉された神であることを知っています。でも、受肉に関する真理を本当に理解している人はいません。終わりの日のいま、全能神は受肉の真理と奥義を明かされました。全能神の御言葉から受肉とは神の霊が普通の肉体をまとい、人のもとに来られて働きをなさることだとわかります。受肉した神は普通の人にしか見えず、超自然的でもなく、みんなと同じように食べて暮らします。普通の人と同じく喜怒哀楽があり、人も接することができるけど、受肉した神の本質は神性です。そのためキリストはいつでもどこでも真理を表わせます。神の性質、知恵、神がもつものと神そのものを表わし、神自身の働きをなさいます。それは人には不可能なことです。主イエスも外見は普通そのもので、人のあいだで実際に暮らしましたが、数多くの真理を表わし、悔い改めの道を人に授けられました。人の罪を赦し、愛と憐れみに満ちた神の性質を表わされたのです。また五枚のパンと二匹の魚で五千人を満腹させたり、風と海を静めたり、死人を蘇らせるといった多くのしるしと奇跡を見せられました。神の権威と力を完全に示しています。そして最後に十字架にかけられ、人類を贖う働きを終わらせました。それは主イエスの働きと御言葉が神自身のそれだったこと、主が受肉した神だったことを示しています。だからお姿を見ても受肉した神とはわからないので、御声に耳を澄ませなければなりません。キリストの働きと御言葉は真理、神の性質、神の知恵と全能、神がもつものと神そのものを示せます。そのおかげで受肉した神の働きと御言葉だと確信できるのです」。

話を聞いて少しはっきりしました。キリストは普通の人のようで、偉大でも超自然的でもないが、神の本質をもつ、普通の肉をまとった神の霊だとわかりました。長年信仰しても、そうした真理と奥義を理解していなかった。

張兄弟はこう続けました。「全能神は受肉の真理と奥義を残らず明かされます。全能神が終わりの日にそれを語られていなければ、堕落した人類は受肉の真理を理解しないまま永遠に主を信じ、誰もその真理を突き止められなかったでしょう。全能神と主イエスは同じ存在です。外見はともに普通そのもので、非凡なところはありませんが、全能神は人を清めて救うすべての真理を表わし、神の家から始まる裁きの働きをなさっています。六千年にわたる神の経営計画の奥義、神の働きの目的、人を救う三段階の働きの目標と意義、受肉と御名の奥義、聖書の内幕、サタンが人を堕落させる方法、その真相と実質、神への反抗と罪の根源、終わりの日、神は人を清めて救う裁きの働きをどうなさるのか、人をどう種類ごとに分けられるのか、各人の終着点と結末をどう決められるかを明かされました。神は終わりの日の裁きの働きにおいて、背きを許さない義なる性質を完全に示されます」。そこで私にこう訊きました。「神以外の誰が、神の計画の奥義を明かせますか? 誰が真理と神の義なる性質を表わせますか? 誰が裁きの働きを行ない、人を完全に清めて救えますか?」当然神だけですと答えると、兄弟はうなずきました。「受肉した神だけがかくも実践的に働いて語り、人を救えるのです! それは、神が人の子として、肉においてなさる働きなのです。全能神の御言葉を読めば読むほどその働きを経験し、全能神が表わす御言葉はすべて真理で神の御声だと確信する、と言いました。その御言葉は、全能神が終わりの日のキリスト、唯一の真の神の出現である十分な証拠です!」

それを聞いて、私は興奮のあまりこう言いました。「兄弟、今ようやく神の受肉は真理の最大の奥義だとわかりました! 受肉した神はすべての真理を表わし神の働きをなさるので、その御声に耳を澄ませて主をお迎えするのが大事です。真理を表わし神の働きを行なえるなら、それは受肉した神です。神の御声を聞いて新たな働きを受け入れることで、私たちは主をお迎えし、主の御前に引き上げられます」。すると、あなたの認識はひとえに聖霊の啓きですと言ってもらえました。全能神の働きを拒んでいたときのことを振り返り、盲目で愚かな自分を憎みました。長年信じながら主を知らなかった。自分の観念にしがみつき、主が雲に乗って来られるのをぼんやり待ち、御声を聞いて主をお迎えしようとしなかった。主が戻られ、真理を表わし終わりの日の裁きの働きをされているという証しを聞いてもそれを調べず、主を締め出すところだった。今ではすべての真理と奥義を明かされた全能神が再臨された主イエス、受肉した神だと確信しました。心から神に感謝します。反抗した私を神は諦めず、神の御声を聞いて子羊の歩みに従えるよう何度も張兄弟を動かして福音を伝えてくださった。それはまさに、神が無限の愛を示されているのです! 全能神に感謝!

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。

関連記事

罪を赦されたあとも罪を犯し続けているが、罪から解放される道をついに見つけた

蒙(モン)愛(アイ)(台湾)  編集者注:記蒙(モン)愛(アイ)は三世代にわたるクリスチャンで、ずっと教会で奉仕してきましたが、ここ数年、固い信仰と主への奉仕にもかかわらず、自分の夫に対してさえ寛容でも寛大でもいられないほど、自分がいまだ罪の束縛に捕らわれていることに気づきました…

神の御名の奥義

「ヤーウェ、イエス、メシアはすべてわたしの霊を表すが、これらの名前は単にわたしの経営計画の異なる時代を示すものであり、わたしの全体を表すものではない。地上の人々がわたしを呼ぶ名前のどれも、わたしの性質全体、わたしそのもののすべてを明確に示すことはできない。それらは単に、それぞれの…

天国への道を見つけた

全能神は言われます。「人の世に誕生したイエスは恵みの時代を開始し、律法の時代を終わらせた。終わりの日において、神はもう一度肉となり、この受肉とともに、恵みの時代を終わらせ、神の国の時代を開始した。神の二回目の受肉を受け入れられる人はすべて神の国の時代に導かれ、それ以上に、神の導き…

ついに神の声を聞いた

若いころは色んな職に就いてたが、ベネズエラのスクレ州政府で給与管理者を務めたことがある。給与の問題と大勢の人の要求を毎日処理しなきゃならない。また立法会議の人材主任を務めたこともあって、時たま夜間学校で大人にコンピューターを教えていた。僕の仕事には共通点が一つあった。大勢の人と直…

コメントを残す