父に福音を説く

2022年4月5日

インド Mikha

僕は子供の頃に信者となり、生涯を通じて主に仕えると決心した。結局、神学校に三年通って、終わりの日の全能神の働きを受け入れた。福音を受け入れた後、主の再来の吉報を、すぐ父に伝えたいと思った。父は地元の教会の執事で、聖書を熟知し、長年主に仕え、他者に愛情深かった。敬虔なクリスチャンだった。主の再来を聞いたら、喜んで受け入れると思ったよ。

その晩、帰宅して父にこう言った。「僕らの待ち望んでいた主イエスが再来したよ。主は真理を表し、神の家を始めとする裁きの働きを行なっている。清められ神の国に入るために、終わりの日の主の働きを受け入れなければならない」驚いたことに、父は僕にこう助言した。「聖書は、終わりの日に偽キリストが人々を欺くと予言しているから、注意と警戒を怠らないことだ。お前の言う主の再来と裁きの働きには、聖書上の根拠があるのか? ないなら、騙されるな!」僕は聖書を取り出して言った。「もちろんあるさ。少なくとも200の節に、主が来たりて裁きを行なうとあるよ。例えば……『主は地をさばくために来られるからである。主は義をもって世界をさばき、公平をもってもろもろの民をさばかれる』(詩篇 98:9)。ヨハネによる福音書にはこうある。『父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである』(ヨハネによる福音書 5:22)。『わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう』(ヨハネによる福音書 12:48)。ペテロの第一の手紙にはこうある。『さばきが神の家から始められる時がきた』(ペテロの第一の手紙 4:17)。これは、終わりの日に主が肉となり、真理を表して裁きの働きを行なうと示している」。父は答えたよ。「肉となるだと? 主は雲に乗って来ると聖書で読んだばかりだ。『見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう』(ヨハネの黙示録 1:7)。主が肉となる話は、聖書で一度も読んだことがない。主が肉となって裁きを行なうなどありえない!」僕はこう交わった。「主の再来に関する予言はたくさんあり、雲に乗って来る話だけでなく、秘かに受肉する予言もある。主イエスはこう言っている。『あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである』(ルカによる福音書 12:40)。『見よ、わたしは盗人のように来る』(ヨハネの黙示録 16:15)。ルカによる福音書の17章24-25節にもこうある。『いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない』。主イエスは、人の子の再来について何度も言及していて、いずれも主が肉となって来ると言っている。主が雲に乗って来ると限定したら、主が肉となって来るという予言が達成されないじゃないか? 主は終わりの日に、二つの方法で来る。まず、神の家を始めとする裁きの働きをするために、秘かに肉となって来て、それから、雲に乗って全人民の前に現れる。主が秘かに来るという予言を無視して、雲に乗って来る話だけを信じるのは一方的で身勝手だし、主を歓迎する機会を逃してしまう恐れもある」。

父はただ無言で眉をしかめてから、腹立たしげに僕をさえぎった。「もう十分だ。私は幼い頃から聖書を読み、長年主に仕えてきた。私のほうが多くを知っているはずでは? 神学校にたった三年通っただけで、何がわかる?」父は見るからに冷静さを失っていて、僕の交わりに対して聞く耳を持たなかった。僕はただ部屋に戻った。その後も何度か話そうとしたが、父はわかってくれず、しまいにはこう言った。「主を信じていれば十分だ。黙らないのなら出ていけ!」僕は父がそこまで怒ったことにショックを受けた。父は長年主に仕え、常に温和で謙虚だった。主の再来を望んでいたのに、いざ再来したら、父は考察もせず、聖書の文面字通りの解釈に固執し、ついには激怒した。まったく頑固だと思ったよ。聖書に精通している父が、自分の観念にとらわれているのを見て、僕は失望し、福音を説く自信をいくらか失った。

それを知った兄弟姉妹が、僕を励まそうとして神の御言葉を送ってくれた。「あなたは自分の肩にある荷の重さ、託されたこと、そして自分の責任を認識しているのか。歴史的な使命に対するあなたの感覚はどこにあるのか。あなたは次の時代の良き主人として、どう十分に奉仕するのか。あなたには主人としての強い意識があるのか。万物の主人についてどう説明するのか。それはまことに世界のすべての生き物とすべての物体の主人なのか。次なる段階の働きを進展させるために、あなたはどのような計画を持っているのか。何名の人たちがあなたに羊飼いになってもらいたいと待っているのか。あなたの任務は重い任務か。彼らは貧しく、哀れで、盲目で、途方に暮れており、暗闇の中で泣き叫んでいる。道はどこにあるのか。彼らは、光が流星のように突然降りて来て、人を長年圧迫してきた暗闇の勢力を一掃することを、どれほど待ちこがれていることか。彼らがどれほど切に望み、日夜どれほど思いこがれているかを、誰が知ることができるだろうか。光がきらめきを放つ日でさえ、深く苦しんでいるそれらの人たちは解放される望みのないまま、引き続き暗闇の地下牢に閉じ込められる。彼らが泣きやむ日はいつ来るだろうか。まったく安息を与えられたことのない、これらのもろい霊たちの不幸は恐るべきものであり、容赦ない束縛と凍り付いた歴史によってこの状態の中で拘束されている。誰が彼らの泣き叫ぶ声を聞いたことがあるだろうか。誰がそのみじめな状態を見たことがあるだろうか。神の心がどれほど深く悲しみ、心配しているか、あなたの頭に浮かんだことはあるのか。自身の手で造った罪のない人類がこのような苦しみにあっているのを、神は見ていられるだろうか。結局、人間は毒された犠牲者たちである。人間は今日まで生きながらえたけれども、悪しき者によって人類が長い間毒されてきたことを、いったい誰が知っていただろうか。あなたは自分もその犠牲者の一人であることを忘れてしまったのか。神に対するあなたの愛のゆえに、これら生き残った人たちを救うために喜んで尽力しようと思わないのか。自分の血肉のように人類を愛する神に報いるべく、自分の力を残らず捧げようと思わないのか」(『言葉は肉において現れる』の「将来の使命にどう取り組むべきか」)。神の御言葉は本当に励みになる。多くの人々は神の働きを知らず、宗教観念に縛られて、主の再来の知らせを考察しない。彼らは暗闇の中にいて、神の御言葉に育まれていない。僕は幸運にも神の御声を聞いて、子羊の足跡をたどれたので、彼らに神の国の福音を説く責任がある。そうすれば彼らは神の御声が聞けて、神の王座の前に連れていかれ、神の御言葉を通じて清められ救われる。情け深い神の御旨だ。父は長年にわたる真の信者で、主の再来を常に待ち望んでいた。だが宗教観念に縛られすぎていて、当然すぐには受け入れられなかったんだ。僕は、神を信頼して、最後の日の神の働きを説き続けるべきだ。それが僕の本分だ。

五日目に父の態度が少し和らいだので、僕は、神の裁きの働きの証を説き続けた。父はむっつりとして言った。「私達は主イエスを信じている。心で信じ、言葉で懺悔すれば、信仰によって赦され救われるのだ。主は私達の罪を引き受けてきた。だから主が来る時には私達を神の国に引き入れる。神が私達を裁きに来る必要はない」僕は父にこう交わった。「主への信仰を通じて僕らの罪は赦されたが、まだ僕らは罪を犯して懺悔する。僕らは罪から逃れられない。考えてみて。あなたは人々に謙虚で忍耐強くあれと説き、他人には温厚だけど、家ではよくお母さんに腹を立てて口論する。主の教えを守れていない」父は怒って僕をさえぎり、話を続けさせてくれなかった。翌日、僕は別の機会を見つけて、父にこう交わった。「お父さん、主は僕らに『汝の敵を愛せ』と教えている。僕はあなたの敵ではない。息子だ。僕は、主が働きのために来るという事実を伝えているだけ。あなたはそれを探求するどころか、激怒している。忍耐強いとはいえない。でも好きで怒っているのではないだろう。僕らの罪深い本性が解決していないから、人々を怒って責めてしまうんだ。聖書にはこうある。『すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない』(へブル人への手紙 12:14)。主イエスはこうも言った。『よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる』(ヨハネによる福音書 8:34-35)。この意味は明らかだ。主は聖く、聖くない者には主が見えない。僕らはたえず罪を犯し、罪の中に生き、少しも聖くない。一体どうやって神の国に入れるのか? 主イエスは自らの再来を何度も予言し、真理を表し、人類を完全に清めて救うために裁きの働きを行ない、僕らを神の国に連れて行くと予言した。主イエスはこう言った。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう』(ヨハネによる福音書 16:12-13)。今や主は再来し、人類を清め救う全ての真理を発した。僕らの罪深い本性を完全に拭い去るために裁きの働きを行なっている。神の国に入る唯一の方法は裁きを通じて自らの堕落を清めてもらうことだ。お父さん、僕らは終わりの日の神の働きを謙虚に求めるべきだ。全能神の御言葉を読んで、神の御声かどうか確かめて。主の再来を見過ごしたくはないはずだ!」

福音の短い寸劇を父に見せたかったが、父は観るのを拒んだ。父は聖書に詳しく、いくらかの徳もつんだ。貧しい者には与え、時には自分が苦しくても他人を助け、自宅を無料で教会に使用させた。だが神の新しい働きに対しては、自らの観念に頑固にしがみつき、考察を拒んだ。パリサイ人を連想したよ。父が彼らのように神に逆らい、神の救済を失うのではと心配した。僕は父にこう忠告した。「パリサイ人は聖書に詳しく敬虔に見えたけど、主を全くわかっていなかった。主の働きが彼らの観念に合わなかったので、謙虚な心で求めることをせず、聖書の文面に固執し、主に激しく抗い糾弾した。主を十字架にかけ、神の懲罰を受けた……」父は最後まで聞かずにさえぎった。「私のことを言っているのか? 私をパリサイ人呼ばわりか?」僕はあわてて答えた。「パリサイ人呼ばわりなどしてないよ、お父さん。彼らのように主に逆らって神に仕える道を誤らないでほしいだけだ。主の再来を長年待っていたのに、いざ主が再来したら、謙虚に求めようとしない。聖書の文面通りの解釈と、自らの観念に縛られて、受け入れようとしない。終わりの日の神の働きをそのように見なしたら、パリサイ人のように神の断罪を受け、救済を失ってしまう。終わりの日の全能神の裁きの働きは神の人類救済における最も重要な最後の一歩だ。それは間もなく終わろうとしている。神は、間もなく来たる災害の前に、すでに勝利者のグループをつくった。神の裁きと清めを受け入れなければ、災害が訪れた時、泣きわめき歯ぎしりすることになる」。これを聞いて父はさらに怒り、立ち上がってこう言った。「いい加減にしろ! それ以上言うなら、今日限り息子とは思わない。今すぐ家を出ていけ!」

父からこう言われて本当に動揺したよ。それまで父とはとても仲が良かったんだ。僕らは率直に話し合い、聖書を読み、一緒に神の御旨を探し求めていた。父は僕に、我慢強く、寛容で、謙虚で、従順であれと教えてくれた。終わりの日の神の働きの証しをしたからと、僕を家から追い出し、敵のごとく扱うとは思いもしなかった。父にならって、残りの家族も僕を冷たく扱った。本当に孤独で無力だと感じたよ。そのことで兄弟姉妹にメッセージを送ったら、ある姉妹が、神の御言葉の一節を送ってくれた。「福音を広めることは、一人ひとりの本分であり義務です。いつでも、何を聞こうと、何を見ようと、どんな扱いを受けようと、福音を伝えるという責任を果たさなければなりません。どんな状況下にあっても、否定的なことや弱さのためにこの本分を放棄してはなりません。福音を広める本分は簡単にできることではなく、危険に満ちています。福音を伝えるとき、天使や宇宙人やロボットを相手にするのではありません。邪悪で堕落した人間のみを相手にするのです……それはすべて、この邪悪な空間で生き残り、サタンに深く堕落させられ、神に抵抗している人間です。そのため、福音を伝える過程には、あらゆる種類の危険が確実にともない、ささいな中傷、冷笑、誤解は言うまでもなく、それらは当たり前の出来事です。福音を伝えることを真に自分の責任、義務、本分であると見なすなら、このような困難を正しく見極め、正しく対処することさえできます。また、困難のせいで責任と義務を放棄することも、福音を広めて神を証しするという本来の目的から逸れることもなく、決してその責任を脇にのけません。それがあなたの本分だからです。その本分はどのように理解すべきですか。人生の価値と第一の責任について言えば、終わりの日における神の働きという良き知らせと神の働きの福音を伝えることが人生の価値なのです」(『終わりの日のキリスト講話集』の「福音を広めることはすべての信者が道義上果たすべき本分である」)。神の御言葉に本当に励まされた。福音を説いて拒まれるのは、とてもよくあることだとわかった。人々はサタンによってあまりにも堕落させられ、真理を愛さない。傲慢で、自らの観念と想像に縛られている。僕は、困難に直面しても本分と責任を放棄できなかった。ペテロが、両親の反対にも関わらず、あちこち旅して福音を説いたことを考えたよ。彼は何百回も裁かれ、罰せられ、試練を受け、それから神に成就させられた。彼は意義ある人生を生きた。僕もペテロのようになって、どんなに辛くても家族に誤解されても、本分をよく尽くし神の福音を説かなくてはならない。

翌朝、僕は荷物をまとめ、出て行く準備をした。父が言った。「家にいたければいてもいいが、全能神の道を説くのをやめること条件だ」僕は意を決して言った。「お父さんも知ってるとおり、僕は主に仕えたいといつも思ってる。もっと聖書の真理を学び、神の愛に報いるために、神学校にも通ったけど。どんなに聖書を読んでも真理は得られなかった。心がいっそう暗く乾いた気分になった。いくらか良い行いや他人への手助けもしたが、困っている同級生に分け与えようとはしなかった。朝晩の礼拝では目立つように前列に立った。礼拝グループで楽器を演奏できる兄弟姉妹に嫉妬した。僕は歌うことしかできなかったからだ。試験で僕より良い点を取る人々にも嫉妬した。こういう思考を抑えられなかった。罪から逃れられなかったのだ。本当に苦しかった。でも全能神の御言葉を読んだ時に、ついに答えを見出したんだ。僕らの罪は主への信仰を通じて赦されるから、主は僕らを罪人とは見なさないが、僕らの罪深い本性は解決しない。終わりの日の神の裁きを受け入れることが、清められて神の国に入る唯一の方法だ。僕は神の御声を聞いて、主が来たことを知ったよ。神の国が降臨したんだ。僕の本分は、神の期待に背かないよう、さらに多くの人々に神の国の福音を説くことだ」父はこれを聞いて、態度をやわらげたように見えた。そして少し怒ったように言った。「行っていい。私がお金は出す。もし全能神が本当に主イエスの再来なら、受け入れよう。そうでないなら、必ず帰ってきなさい」。

それ以来、僕は小さな民宿に滞在し、生活のために働きながら、福音を説いた。僕は常に神に祈り、父や他の家族を神の手にゆだねた。二週間後に父が突然電話をくれて、僕の様子を尋ねた。父は、前に僕に激怒したことを本当に後悔していると言った。「いつも人々に謙虚であれと言っているのに僕に腹をたてたのは、確かに主の戒めを守れていなかった」と。そして言った。「戻ってこい。終わりの日の全能神の働きについてもっと聞かせてくれ」父にそう言われて、とても驚いたし嬉しかった。神の新たな働きにあんなに抵抗していた父が、探求のために連絡してきたんだ。神は僕の祈りを聞いてくださった。僕は感謝を捧げて神に祈った。家に戻ると、父が言った。「お前が出て行ってから、眠れなかったよ。お前の一言一言が、昼も夜も頭から離れなかった。祈って聖書を調べ続けたら、終わりの日に神が裁きの働きを行なうと本当に書いてあった。主が人の子として夜半に秘かに来るとあった。主は我々のドアを叩くのだ。神の羊は神の御声を聞き、賢い乙女だけが神の御声を聞くことができ、愚かな乙女には聞こえない。お前は正しかったと思う。それまで聞いたことはなかったが、全てに聖書的根拠があり、事実に符合している。お前の話は主の再来の予言に触れていた。もし主イエスが本当に再来したなら、大変な事だ。これを探求せねば。自分が本当にパリサイ人となって、神の救いを失ったのかと心配した。終わりの日の神の働きについて、真理を探求する必要がある」それから父は質問した。「主イエスは十字架にかけられることで私達の罪を贖い、全ての罪を引き受けるので私達を罪深いとは見なさず、主が来る時、私達は真っすぐに天国へ行ける。なぜ主は裁きの働きの一歩が必要なのだ?」

僕は、父がそのような理解と探求を持ったのを見て嬉しかった。父の質問に答えるため、僕らは映像を見た。『勝利の凱歌』という映画の、『なぜ、主は終わりの日に裁きの御働きをなさるために戻られるのか』の部分だ。その中で姉妹が全能神の言葉の二節を読んでる。「人が贖われる前、サタンの害毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。そしてサタンによって何千年も堕落させられてきた人間には、神に抵抗する本性がすでに定着していた。だからこそ、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られるという贖い以上のものではなく、人の中の害毒に満ちた本性は取り除かれていなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるのにふさわしくなる前に変化を経なければならない。この裁きと刑罰の働きによって、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして完全に変わり、清くなることができる。この方法でしか、人は神の玉座の前へと戻るのにふさわしくなることができない。今日なされるすべての働きは、人が清められて変わるためのものである。言葉による裁きと刑罰、そして精錬を通じ、人は自分の堕落を一掃して清められることが可能になる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言ったほうが適切だろう。事実、この段階は救いの働きの第二段階であるとともに征服の段階でもある。人は言葉による裁きと刑罰を通じて神のものとされる。また言葉を用いて精錬し、裁き、露わにすることで、人の心にある汚れ、観念、動機、そして個人的な願望がすべて完全に暴かれる」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」)。「人の罪は、罪の捧げ物を通じて赦されることができたものの、どうすれば人がこれ以上罪を犯さないようになり、その罪深い本性が完全に根絶され、変化するかということについて言えば、人にはその問題を解決する術がないのである。人の罪は神による磔刑の働きゆえに赦されたが、人は以前の堕落したサタン的性質の中で生き続けた。そのため、人は堕落したサタン的性質から完全に救われなければならない。そうすることで、その人の罪深い本性が完全に根絶され、二度と芽生えなくなり、かくして人の性質が変わるのである。そのためにも、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変える道を把握しなければならない。さらに、人はこの道に沿って行動することが求められる。その結果、人の性質は次第に変わり、その人は光の輝きの下で生き、何事も神の旨に沿って行ない、堕落したサタン的な性質を捨て去り、サタンの闇の影響から自由になることができ、それにより罪から完全に抜け出せるのである。このとき初めて人は完全なる救いを受けることになる」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」)。

そして彼女はこう交わってくれた。「恵みの時代における主イエスの贖いの働きは、人の罪を赦したけど、私達の罪深い本性は解決しない。これは私達のサタン的本性で、心の奥に根づいたサタン的性質である。だから私達は罪をおかして神に抗ってしまう。私達のサタン的本性がその根源である。神は私達の罪を赦せても、私達の罪深い本性は根深く、赦されるものではない。だから神は、私達をサタン的本性から完全に解き放つために私達を裁き罰する必要がある。神は、堕落した人類のサタン的本性と性質のために終わりの日の裁きの働きを行なう。裁きと刑罰でしか解決できないのかと尋ねる人もいる。もし代償を払って、自らの体を訓練し、自制すれば、サタン的本性は解決するの? もちろん無理よ。パウロも言っている。『わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである』(ローマ人への手紙 7:18)。誰でもこんな経験があるわ。私達は、罪から逃れ肉体から脱却するために、苦しんで自らの体を抑制するけど、サタンに打ち勝って真に神に服従した人はいるかしら? ほとんどいないわ。自分の意思に任せていたら、サタン的本性は解決しないという証拠よ。私達は、神の裁き、刑罰、試練と精錬を通して、真理を得てサタン的本性を真に解決するの。主イエスの贖いの働きに基づき、終わりの日に全能神は人類を裁いて罰し、人類を清めて救う全ての真理を表し、神の六千年の経営の働きを明らかにする。例えば、律法の時代、恵みの時代や神の国の時代の神の働きの内幕とその中で達成されたこと、終わりの日の神の裁きや神の御名の重要さ、受肉の謎、聖書の内幕、神がいかにして時代を終えたか、いかにしてキリストの国が実現したか、そしてあらゆる種類の人類の結末などを。世界の邪悪と暗黒の根源と、サタンによって堕落させられた人類の真理も明らかにする。私達のサタン的本性と神に抗う性質を裁いて明らかにする。私達は数年の神の御言葉の裁きと刑罰を経て、自らの神に抗うサタン的本性と、その中にあるサタン的毒素と性質を理解し、サタンがどう私達を堕落させるかを理解した。私達は、神の義なる、犯せない性質を理解しはじめ、後悔のうちに神の前に倒れ伏して、自らを蔑んだ。そして、真理を実践し神の御言葉に従って生きるようになった。私達の堕落した性質は、徐々に変化して清められる。嘘をつき、罪を犯し、神に抗うことが減る。これは全て、終わりの日の神の裁きによるものよ。全能神の裁きの働きだけが人類を完全に清めて救うの。これは事実よ」。

全てを注意深く観た父は、言葉数は少ないものの、心からこう言った。「やっと理解できたよ。終わりの日の全能神の働きを探求したい」僕が父に『神の羊は神の御声を聞く』という本をあげると、父は全能神の御言葉を毎朝読み始めた。時には聖書と引き比べていたが、しばらくたつと全能神の御言葉が真理で、神の御声だと理解した。全能神が主イエスの再来だと確信し、終わりの日の神の裁きを受け入れた。

しばらくして、僕らの元の教会の牧師が、父が終わりの日の全能神の働きを受け入れたと聞き、伝道師と他の同労者を連れて、父を止めに来た。父は、終わりの日の神の働きについて証しし、熱心に言った。「私は長年主に仕えてきた。聖書に精通し、敬虔で信心深いと思われていたが、主の再来を聞いた時、真理を探究したり謙虚に調べたりしなかった。終わりの日に主が再来して裁きの働きを行なうという聖書の予言を全て無視して、おまけにこの福音をおしえてくれた息子を家から追い出した。私は本当に反抗的だ。聖書を非常によく理解していて、誰に説得されても考えを変えないつもりだったが、全能神の御言葉を読んで、本当に心を動かされた。今なら理解できる。真理の探求者だけが神の御声を聞き、終わりの日に神の救いを得るのだ」父の交わりを聞き、また父がどれだけ神の新たな働きに抵抗していたかを思い、僕は感動で涙した。心の底から神に感謝したよ。神の御言葉が真理で、人の心を征服できるのだと実感した。どんなに宗教観念が強くても、反抗的な性質でも、神の御言葉を探求して読めば神の御声が聞け、神の現れが見える。主イエスもこう言っている。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る」(ヨハネによる福音書 10:27)。

今では僕の家族の七人全員が、終わりの日の全能神の働きを受け入れた。福音を説く自信がかなりついたよ。

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。

関連記事

神の御名の裏に隠された秘密をご存知ですか

神は律法の時代にヤーウェという御名を、恵みの時代にはイエスという御名を使われました。そしてヨハネの黙示録には、神がまた他の新たな御名をお使いになることが預言されています。神はどうして御名をお変えになるのでしょうか?私はこの真理を理解していなかったため、主イエス様が再臨されるとは殆…

ついにわかった聖書と神の関係

全能神は言われます。「長年にわたり、人々の伝統的な信仰の方法は(世界の三大宗教の一つであるキリスト教においては)聖書を読むことだった。聖書から離れることは主への信仰ではなく、邪教、異端であり、他の本を読んでいても、そうした本の基礎は聖書の解説でなければならない。つまり、主を信じて…

私は帰ってきました

私は十年以上主を信じていて、イエスがキリストであると知っていました。それでも主イエスをなぜキリストというのかといった、真理の奥義をまったく理解していなかったのです。その日私はスーザン姉が送ってくれた神の御言葉から、実際には受肉した神がいわゆるキリストで、キリストとは神が受肉されたお方なのだと知りました。

違う形の愛

主イエスがお戻りになって裁きの働きをなさったのは、主を信じる私たちは罪を赦されたものの、逃れることのできない罪の中でいまも常に生きているからです。私たちは罪の束縛と支配から自由になることができず、神が真理を表わして私たちを裁いて清められ、私たちの罪深い本性と、サタン的な堕落した性質を一掃なさることを本当に必要としています。

コメントを残す