神の御名の奥義

2022年7月15日

ヤーウェ、イエス、メシアはすべてわたしの霊を表すが、これらの名前は単にわたしの経営計画の異なる時代を示すものであり、わたしの全体を表すものではない。地上の人々がわたしを呼ぶ名前のどれも、わたしの性質全体、わたしそのもののすべてを明確に示すことはできない。それらは単に、それぞれの時代にわたしが呼ばれる異なる名前にすぎない。だから最後の時代――終わりの日の時代――が来た時、わたしの名前はまた変わるのである。わたしはヤーウェやイエスとは呼ばれないし、ましてやメシアとは呼ばれない。力ある全能神自身と呼ばれ、この名前の下で時代全体を終らせる」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「神の名の意義」より)。この神の御言葉の讃美歌は、私に教えてくれました。神の御名には、時代ごとに意味があるのですね。神の性質と神の存在そのものを、一つの名前で完全に表すことはできません。御名は、その時代に神が表す性質を象徴するだけで、神そのものは、すべてを含む豊かなものです。人が神を定義したり、神の御名を不変のものとしたりすることはできません。少し前、神が各時代に用いる御名の意味をちゃんと理解していなかった私は、神の御名が変わることはないと確信し、主イエスの御名に固執して全能神を受け入れようとせず、主をお迎えする機会を失うところでした。

私は幼い頃から祖母に連れられ教会に通ってましたが、牧師はこれらの節を引用していました。「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」(ヘブル人への手紙13章8節)。「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒行伝4章12節)。私は納得し、主イエスだけが真の神でいらっしゃり、主イエスの御名と道を守る限り、主が戻られたとき天国に行けると思ってました。

2017年、私の妻が全能神の国の福音を受け入れました。そして、終わりの日の全能神の働きを私に聞かせようと一人の姉妹を連れてきて、私はその交わりを聞きました。でも、主イエスはすでに全能神として戻られたと彼女が言ったとき、もうそれ以上聞きたくないと思いました。妻が全能神に従っているとわかり、止めようとして言ったんです。「僕らを救う御名は一つしかない。主イエスの御名に忠実であるべきだ。君は何年も信仰してきたのに、そんなことでどうする」。妻は反論しました。「主イエスの御名が私たちを救った。つまり、罪を赦された私たちは断罪されないってこと。でも、いまだに罪を犯しては告解しながら暮らしてる。罪から解放されたわけじゃない。主イエスは戻られ、全能神の御名で、神の国の時代を始められた。全能神は裁きの働きをなさってる。真理を表すことで、神に逆らう私たちのサタン的な本性を暴き、人類の罪を裁いて、罪深い本性を正す道を与えてくださる。全能神の裁き、終わりの日の働きを受け入れなきゃいけないわ。神の国へ入れるように」。でも自分の観念にとらわれていた私は、妻の話を受け入れませんでした。彼女はいつも両親に従っていたので、その力を借りて止めようとしましたが、妻は「全能神は主イエスの再臨なのよ」と言い張り、それを探求するよう勧める始末。

私は妻の全能神への信仰を止めようと、時間があれば聖書を調べ、有名な牧師の説教をネットで探し、ダウンロードして彼女に聞かせました。これで考えを改めるだろうと思ったのですが、それどころか、彼女は私に説教してきました。腹が立ちましたが、どうすることもできません。それで、互いに自分の信仰を実践し続けました。私は彼女にはっきり反対したのです。彼女は全能神の言葉を読み、私は聖書を読みました。彼女は自分の教会の讃美歌を歌い、私は主を讃美しました。彼女は自分の教会の説教を聞き、私は牧師の説教を聞きました。聖書についてもよく議論しました。それまでは、私が議論で負けるなど一度もなかったのですが、今や彼女の話はどれも洞察に満ち、その言葉には重みがありました。彼女の返答に私は口ごもり、当惑したんですが、それを軽視できず、こう思いました。「聖書に関する今の知識では彼女にかなわない。議論に勝てるよう聖書を勉強しなくては」。

ある日、出エジプト記3章のこの節を読みました。「神はまたモーセに言われた、『イスラエルの人々にこう言いなさい「あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、わたしをあなたがたのところへつかわされました」と。これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である』」(出エジプト記3章15節)。それから考えました。ヤーウェは永遠に神の御名だと、御言葉にはっきりあるのに、なぜ恵みの時代に神はイエスと呼ばれたのか。旧約聖書にはこう書かれています。「ただわたしのみヤーウェである。わたしのほかに救う者はいない」(イザヤ書43章11節)。新約聖書ではこうあります。「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒行伝4章12節)。これはどういうことか。これらの節を何度も読み返しましたが、訳が分からず混乱するばかりでした。「主イエスは私たちの救い主ではないのか? ヤーウェとイエスが一つの神なら、なぜあのように御名が異なるのか。妻が言ったように、神の御名は本当に変わり得るのか」。議論を通じて分かったことがあります。妻は全能神を信じ始めて以来、洞察力が鋭くなったのです。話も本質的でした。聖霊の働きがなければ、自力であれほど進歩するのは無理なはず。私は自問しました。「間違ってるのは自分なのか? 全能神は本当に主の再臨なのか? 東方閃電が真の道なのか? もしそれが真の道だとしたら、妻を引き止める自分は神に逆らうことにならないか?」私は板挟みになってしまい、この件をはっきりさせたかったのですが、自分のプライドを捨てるのも嫌でした。

そこではっきりさせようと、全能神教会のYouTubeチャンネルに登録し、終わりの日の全能神の働きを調べるようになりました。そしてある日、「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻ってきた」という御言葉の一節を読みました。「『ヤーウェ』はわたしがイスラエルで働きを行なっている間に用いた名前であり、人を憐れみ、人を呪い、人の生活を導くことのできる、イスラエル人(神の選民)の神という意味である。それは偉大な力を有し、英知に満ちた神である。『イエス』はインマヌエルであり、愛に満ち、慈悲に満ち、人を贖う罪の捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行ない、恵みの時代を表すので、経営計画の働きの一部分しか表せない。……各時代、および働きの各段階において、わたしの名前は根拠のないものではなく、代表的な意義がある。それぞれの名前は一つの時代を表す。『ヤーウェ』は律法の時代を表し、イスラエルの人々が崇拝した神の敬称である。『イエス』は恵みの時代を表し、恵みの時代に贖われたすべての人々の神の名前である。人がいまだ、終わりの日に救い主イエスが到来することを待ち望み、ユダヤの地にいたときの姿で到来することを依然として期待するなら、六千年の経営計画全体は贖いの時代で止まり、それ以上進展することはできなかったはずだ。そのうえ、終わりの日は決して到来せず、時代に終止符が打たれることもないだろう。救い主イエスは人類の贖いと救いのためだけにあるからである。わたしがイエスと名乗ったのは、ただ恵みの時代におけるすべての罪人のためだが、わたしが人類全体を終らせるのはこの名によってではない」(『言葉は肉において現れる』)。これを繰り返し考えました。ヤーウェとイエスの御名の意義を、全能神は明確に説明している。各時代の神の御名は、ただその時代を表すにすぎない。「ヤーウェ」は、神が律法の時代の働きに用いられた名前で、慈悲と威厳の性質を表している。「イエス」は、恵みの時代における神の御名で、愛に満ちた性質を表している。ようやく、神の御名が不変でないことを理解しました。神の働きの新たな段階では、やはり新たな御名が用いられる。だから終わりの日に戻られた主は、新たな御名を名乗られるんです。

それから私は、全能神のこれらの言葉を読みました。「わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつて愛と尊敬をもって、わたしを救い主イエスとも呼んだ。しかし今日、わたしはもはや、人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、自身の全性質を余すところなく表し、権威、名誉、栄光に満ちつつ、地の果てから立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。創世から今日に至るまで、わたしを見たことがある者は一人としていない。これは終わりの日に人の前に現れるが、人々のあいだに隠れている神なのである。神は真実かつ現実に、照りつける太陽や燃えさかる炎のように、力に満ち、権威にあふれて人々のあいだに住まう。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人としておらず、一つとしてない。燃える火によって清められない人や物は一人としておらず、一つとしてない。最終的に、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日のすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であること、わたしが全人類を征服する全能神であることを理解する。また、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを灰にする太陽の炎、そしてすべてのものを露わにする義の太陽になることを理解する。それが終わりの日におけるわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持つことで、わたしが義の神、照りつける太陽、そして燃えさかる炎であることをすべての人が理解し、誰もが唯一の真の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見られるようにする。わたしはイスラエル人の神であるだけでなく、贖い主であるだけでもない。わたしは天、地、海の至る所にあるすべての被造物の神なのである」(『言葉は肉において現れる』の「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻ってきた」)。これらの御言葉には権威があり、一言一句が魂を揺さぶりました。これはきっと神自身の御言葉に違いない。他に誰が神の御名の奥義を明かせるだろう。読めば読むほど神の御声なのだと感じ、ヨハネによる福音書16章13節を思い出しました。「けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」。これらの真理を私たちに伝えているのは他ならぬ神ではないでしょうか。それまでに多くの牧師の説教を聞きましたが、誰一人として、旧約のヤーウェ、新約のイエスという神の御名の意味を説明しなかった。全能神は主イエスの出現だと思えました。全能神を否定して妻を道連れにしようとしたことを思うと、とても恥ずかしくなり、神の働きについて調べず、自分で判断していたことを後悔しました。私は無知でした。かつてパリサイ人は自分の観念と聖書の文字通りの意味を基に主イエスの働きを断罪し、全員、神に懲罰されましたね。私はこれを教訓にして、終わりの日の神の働きを調べるべきなんです。現代のパリサイ人なんて嫌でした。

その後、私は暇さえあれば全能神の御言葉を読み、教会の動画を観ました。特に、『敬虔の奥義』と『神への信仰』に感動しました。彼らの経験は本物で、その交わりは極めて明白でした。私は、全能神が主の再臨だと理解したんです。そこで全能神の働きを受け入れると決め、妻に知らせたかったのですが、恥ずかしくてできませんでした。ある日、帰宅した彼女に尋ねました。「今日は何について交わりをしたの?」彼女はびっくりして訊き返しました。「交わりに参加してみたい? だから聞いたの? 教会から誰か連れてくるから話してみる?」そう言われてとても嬉しかったのですが、まだ気恥ずかしい思いがして、「まあ、そうすればいいよ」と言いました。

やがて全能神教会から二人の姉妹が来てくれたので、自分のジレンマを伝えました。「ネットで全能神の御言葉を読んで、自分は今、時代が変わると神の御名も変わるのだと理解しています。でもまだわからないことがあるんです。聖書にこうあります。『イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない』(へブル人への手紙13章8節)。『この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである』」(使徒行伝4章12節)。「聖書には、主イエスの御名は変わらないとあるのに、なぜ神は、終わりの日にイエスでなく全能神と呼ばれるのですか」すると、全能神の御言葉を読んでくれました。「神の本質、神が所有するものと神そのものは決して変わることがない。しかし、神の働きについて言えば、それは常に前へと進んでおり、絶えず深化している。神は常に新しく、決して古くないからである。神は時代ごとに新しい名前を名乗り、時代ごとに新しい働きを行ない、また時代ごとに、被造物に対して自身の新しい旨と新しい性質を見せる」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」)。「神の名は変わらないという人たちがいる。それではなぜ、ヤーウェという名前がイエスになったのか。メシアが到来するという預言はあるが、それではなぜ、イエスという名の人が来たのか。なぜ神の名は変ったのか。そのような働きはずっと以前に実行されたのではないか。今日、神はより新しい働きを行なわないのだろうか。昨日の働きは変えることができ、イエスの働きはヤーウェの働きから進展することができる。では、別の働きがイエスの働きに続くことはできないのか。ヤーウェという名前がイエスに変わり得るなら、イエスという名前も変わり得るのではないか。これはどれも特異なことではなく、ただ人の思考があまりに単純なのである。神は常に神である。神の働きがどう変化しようと、神の名前がいかに変わろうと、その性質と知恵は決して変わらない。神はイエスという名前でしか呼ばれるはずはないと信じているなら、あなたの見識はあまりに限られている」(『言葉は肉において現れる』の「自己の観念で神を規定する人がどうして神の啓示を受けられるのか」)。「イエスの名は贖いの働きのために使われたが、それならば終わりの日にイエスが再臨するとき、依然として同じ名前で呼ばれるのだろうか。イエスはまだ贖いの働きを行なっているのだろうか。ヤーウェとイエスは一つでありながら、異なる時代に異なる名前で呼ばれるのはなぜか。それは働きの時代が違うからではないのか。一つの名前で神の全体を表わすことができるのだろうか。そのようなわけで、神は異なる時代に異なる名前で呼ばれなければならず、名前を使って時代を変え、時代を表わさなければならない。なぜなら、一つの名前だけで神を完全に表わすことはできず、それぞれの名前はある時代における神の性質の一時的な側面しか表わせないからである。必要なのは、神の働きを表わすことだけである。よって、神は時代全体を表わすために、どんな名前であれ自身の性質に合う名前を選ぶことができる」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」)。

そして姉妹の一人が話しました。「神は決して変わらないというのは、神の本質と性質のことであって、神の御名のことではありません。神の働きは絶えず前進し続けていて、時代が変わると、神は御名を新たになさいます。それぞれの御名は一つの時代、神の働きの一段階を表しています。神の御名が不変だというのは、神の御名がその時代には変わらず、その時代の神の働きが終わるまで残るということです。でも、神は新たな時代に働きを始めるとき、新たな働きとともに御名を変えます。御名は新たな時代の到来を告げ、その時代の神の働きと性質を表します。律法の時代、神の御名はヤーウェであり、神はその御名で働きをなさいました。律法と戒めを発して人類を導き、罪とは何か、いかにヤーウェを崇め、律法と戒めを守り、神に祝福されるべきかを知らしめた。律法に違反した者は皆、懲罰されました。ヤーウェという名前は、威厳、憐れみ、そして怒りという、律法の時代の神の性質を表しています。その時代が終わる頃には、人々はさらに墜落し、律法に従うことができませんでした。誰もが律法に違反したため、絶えず危険にさらされていた。神は働きの計画と墜落した人類の必要に基づき、肉となられ、『イエス』の御名で恵みの時代を始め、律法の時代を終わらせました。人類を贖い、私たちに悔い改めの道を与えつつ。神の慈愛の性質を示し、人に豊かな恵みを授けられたのです。そして最後に、私たちを罪から救うべく十字架にかけられました。それ以来、私たちは罪を赦され神の豊かな恵みを享受できるよう、主イエスの御名において祈りました。イエスの御名は贖いを表し、墜落した人類を愛と慈悲で贖う罪の捧げ物を意味します。神が各時代で用いる御名には意味があるのです。それぞれの御名はその時代の神の性質と働きを表します。神の働きは常に前進し、神の御名はその働きの段階ごとに変わります。恵みの時代、再臨された神がヤーウェという御名のままだったなら神の働きは律法の時代にとどまり、人類は決して神に贖われず、律法に背いたかどで懲罰されていたでしょう。再臨された主が『イエス』と呼ばれ続けるなら、人類は恵みの時代から先に進めないはず。決して罪から解放されず、完全に救われず、神の国に入ることもないでしょう」。

もう一人の姉妹が続けました。「主イエスは恵みの時代に私たちの罪を赦されましたが、私たちの本性はいまだ罪深く、みんな傲慢で、不実で、邪悪です。墜落が依然として深く根付き、私たちは罪の中で神に抵抗しています。罪を犯しては告解しながら生き、神の国に入れずにいます。神の聖さゆえに、私たちは神の国へ入るにふさわしくないのです。終わりの日、神は全能神の御名で再臨なさり、人間を墜落から救うべく神の国の時代を始められました」。そして、主は現在全能神と呼ばれて預言を成就されていると、姉妹は言いました。「勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に我が神の御名と、我が神の街の名と……わたしの新しい名とを、書きつけよう」(ヨハネの黙示録3章12節)。「わたしはアルパであり、オメガである……今あり、昔あり、やがて来たる全能者」(ヨハネの黙示録1章8節)。ヨハネの黙示録11章17節。「今いまし、昔いませる、全能者にして主なる神よ。大いなる御力をふるって支配なさったことを、感謝します」。終わりの日、全能神は裁きます。真理を語り、人類の墜落を暴くことで、私たちがその根源をすべて理解し、サタンによる墜落の現実を見て、神の義なる性質を知るようになさいます。それで私たちは自分を捨て、神の御言葉を実践し、神を畏れて悪を避けられるようになるのです。そして徐々にサタン的な性質から解放され、清められ、完全に救われます。神はまた、裁きの働きを通じて人を種類ごとに分け、背きを許さない、威厳に満ちた神の義なる性質を明かされます。そして最後にこの古い世界を滅ぼし、六千年の経営計画を終えます。全能神の御名を受け入れ、裁きを受け、清められる者は皆、神の国へと導かれます。真理を嫌い、全能神に反抗し、断罪する者は、淘汰され、大災害の中懲罰されます。そして神の経営計画は終わるのです。その時、神は特定の御名をもたず、本来の身分が復活します。つまり創造主。まさに神が言われたとおりです。「神がヤーウェ、イエス、あるいはメシアと呼ばれない日がやって来るだろう。神はただ創造主と呼ばれるのである。その時、神が地上で名乗ったすべての名前は終わりを迎える。なぜなら、地上における神の働きが終わり、その後神の名はなくなるからである。万物が創造主の支配下に入るとき、神がどうして適切ではあるが不完全な名前をもつ必要があるのか。あなたは今なお神の名を求めているのか。神はヤーウェとしか呼ばれないとあえていまだに言うつもりか。神はイエスとしか呼ばれないとあえていまだに言うつもりか。神を冒涜する罪を背負えるのか」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」)。その姉妹の交わりに私は感動しました。神の御名に込められた意味を知ったのです。創造主たる神に名前は必要なかった。しかし、人類を救うべく異なる御名を用いたのです。ヤーウェ、イエス、全能神は一つです。神は三つの異なる時代に三段階の働きをなさり、それぞれの御名にはまさに独自の意義があって、各時代の神の性質と働きを象徴しています。私はやっと、終わりの日の全能神の働きを受け入れました。

思い返すと、自分はいかに愚かで盲目だったのかと嫌気がさします。聖書の言葉を文字通りに受け取り、神の御名は決して変わらず、神は常にイエスと呼ばれると思っていました。全能神が働きの真理を表してくださらなければ、私は聖書にこだわり、神の御名の意味、特に神の働きを決して理解しなかったでしょう。終わりの日の全能神の働きに抵抗し、淘汰されたはず。神の導きのおかげで、神の御声を聞き、神の前に出られました。全能神に感謝をささげます!

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