真の道を調べる過程で経験したこと

2023年10月6日

両親に従って子供の頃から神を信じていた私は、やがて教師として、キリスト教と道徳教育の科目を教え始めました。今は北スマトラの公立中学で教えています。2020年3月のある夜、YouTubeを開き、生徒に教えるための説教の例を探していたんです。深夜になるまで、いくつもの説教を観ましたが、どれも古くて、代わり映えせず、光もありません。観ていて退屈するものでした。その後、クリスチャン映画の「美しき声」を目にしたんです。すぐに引きつけられました。その動画で、全能神の御言葉を観て、主の再来についての交わりを聴きましたが、今まで聞いたことがないものばかりでした。クリスチャンの映画はそれまでにも観たことはありましたが、あれほど心を揺さぶられたのは初めてでした。その後目にした、「神様の名前は変わった?!」という映画はとても興味深くて、つい最後まで観てしまいました。その夜、映画の内容のことを考えると、全く眠れませんでした。神の御名は本当に変わったの?と。特に知りたかったのは、神が再来したというのが、ただの作り話なのか、それとも真実なのか、そして映画の中の言葉は本当に神の言葉なのか、でした。もし神が再来して、その御名が変わったなら、それを逃すのは大変なことだと思いました。疑問の答えを知りたくてたまらなくなりました。

その後、コロナ禍によって在宅勤務となったので、ネットで同じような映画をたくさん観ることができました。とてもうれしかった。それまで良質のクリスチャン映画を観たことがなかったので。そしてこれらの映画をFacebookのタイムラインにアップして、皆が観られるようにしました。多くの人が好意的なコメントをするなか、全能神教会を攻撃するような言葉もいくつかありました。ある牧師には、全能神教会に関することは投稿するなと言われました。最初は、それらの映画が全能神教会が作ったものだと知らなくて、牧師に言われて初めて気づいたんです。好奇心から、全能神教会についてネット検索すると、「神の国降臨の福音」というウェブサイトを見つけました。その内容を読んでいくと、全能神の言葉が目に入ってきました。「わたしの国では、無数の被造物がよみがえりを始め、生気を取り戻す。地上の状態が変化したため、地と地の境界にもまた、変化が起こる。地が地から離れ、地が地とつながるとき、わたしはすべての国を粉々に打ち砕くと、わたしは預言した。このとき、わたしはすべての被造物を新たにし、全宇宙を区切りなおす。それにより、全宇宙を秩序立て、古いものを新しいものに変える――これがわたしの計画であり、これらがわたしの業である。国々と世界の人々がみな、わたしの玉座の前に戻ると、わたしは天の富をすべて取って人間の世界に与え、わたしによって、その世界が比類なき富にあふれるようにする。しかし、古い世界が存続する限り、わたしは国々の上に怒りを投げつけ、わたしの行政命令を全宇宙に公布し、違反する者には刑罰を下す。

わたしが全宇宙に面と向かって話すと、人間はみなわたしの声を聞き、そこで、わたしが全宇宙で行なってきたすべての働きを見る。わたしの旨に逆らう者、つまり、人間の行ないでわたしに敵対する者は、わたしの刑罰を受けて倒れる。わたしは天の無数の星々を取ってそれらを新しくし、またわたしのおかげで、太陽と月は新たになる――空はもはや以前の空ではなく、地上の無数の物事が新たになる。すべては、わたしの言葉により完全になる。全宇宙の多くの国々は新たに区切られ、わたしの国に置き換わる。それにより、地上の国々は永遠に消え去り、すべてがわたしを崇める一つの国になる。地上のすべての国々は滅ぼされ、存在しなくなる。全宇宙の人間のうち、悪魔に属する者はみな、滅ぼし尽くされる。サタンを崇める者はみな、わたしの燃える炎に倒れる――つまり、今、流れの中にいる者以外は、みな灰になるのだ。わたしが多くの民を罰するとき、宗教界にいる者は、わたしの働きによって征服され、程度の差はあれ、わたしの国に戻る。彼らは聖なる方が白い雲に乗って降臨するのを見たからである。すべての人がその種類に応じて選り分けられ、それぞれの行いにふさわしい刑罰を受ける。わたしに敵対した者たちは、みな滅びる。地上での行ないがわたしと関わりのなかった人たちは、自分たちの振る舞いのために、わたしの子らとわが民による支配の下、地上で存在し続ける。わたしは無数の人々と無数の国々にわたしを現わし、自ら地上に声を発してわたしの大いなる働きの完了を告げ、全人類が自分の目でそれを見られるようにする(『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十六章」〔『言葉』第1巻〕)。この御言葉は私の心を揺さぶり、体が震えるのを感じました。言葉がもつ権威に震えたんです。そこには侵すことのできない威厳がありました。この言葉には権威と威力がある、人間には発することのできない、神の言葉だわ、と思いました。それは、言葉では言い表せない感覚でした。同時に、少し不思議に思いました。「映画の出演者たちはみんな中国人だわ。ということは製作者は中国人なのかしら?中国は無神論者の政党が支配する国で、中国の人はお香を焚いて仏像や偶像を拝んでいるのに、主は中国に再来したの?これは本当に神の言葉なの?」頭が混乱しました。混乱が増すごとに、真相を突き止めたい気持ちが強まります。そこで、ウェブサイトに記載されていた問い合わせ先を通じて、ある姉妹とつながりました。集会に参加したいか聞かれたので、全能神の御言葉と真理について知りたいと答えると、オンラインの集会グループに入れてくれました。そして私に全能神の言葉を読み、神の受肉や神の三段階の働きの奥義について交わってくれました。その交わりをよく聴いて、求める答えを得られたとともに、すばらしい知らせを受け取ることができたんです。主はすでに再来していて、受肉して現れていると。さぞ喜んだことでしょう。でもその後すぐ、また宗教界の牧師に邪魔され、妨害されました。

Facebookで全能神教会を攻撃する言葉を送ってきたんです。「全能神教会は異端だ。全能神の言葉は神の言葉だと言うが、聖書にはない。クリスチャンなら、聖書以外に神の言葉はないと理解しなければ。今すぐ教会から離れろ!」と。グループの兄弟姉妹もその牧師からメッセージを受け取りました。仲の良かった何人かが、牧師の言葉を聞いて集会グループを抜け、私にもそうするよう言いました。最初は、わかりませんでした。「牧師は私より聖書のことを知っているんだから、その言葉は本当かも?」と思い、全能神教会が異端かどうかを知りたいと思いました。牧師の言うことを簡単には信じられませんでした。すでに全能神の言葉を読んでいて、それが確かに真理だと感じていたので。その言葉には権威と、神の声のような響きがありました。でもそれが聖書にないというのは事実。一体どうなっているの?と思い、全能神教会のエルサ姉妹と探究しました。姉妹はこの聖句を送ってくれました。ヨハネによる福音書21章25節です「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う」。エルサ姉妹はこう交わってくれました。「この聖句からわかるのは、主イエスの言葉と行いはすべて聖書に書かれていないということ。当時、使徒ヨハネは主イエスとともにいて、聖書に書かれているよりもずっと多くの主イエスの言葉を聞いたの。ちょっと考えてみましょう。主イエスが働いたとき、少なくとも3年は伝道している。毎日1時間話したとしたらどうでしょう?3年間でどのくらいの言葉になると思う?数えきれないほどよ。聖書の言葉だけが神の言葉なんてありえる?実際、聖書に書かれた神の言葉には限りがあって、その時の神の言葉をすべて記録してはいないの。これは否定できない事実だわ。牧師は、聖書以外に神の言葉はないと言うけど、何を根拠にしているのかしら?」それを聞き、思いました。「そうだ、牧師の言葉は事実と違う。間違いだわ」と。聖書は読みましたが、ヨハネの福音書のこの聖句には注意を払っていませんでした。その時初めてわかったんです。この聖句は聖書が神の言葉をすべて記載してないことを表していたんです。エルサ姉妹はその後いくつかの聖句を送ってくれました。ヨハネによる福音書16章12-13節。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」。黙示録からもいくつか。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい(ヨハネの黙示録 2:7)。「わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。また、ひとりの強い御使が、大声で、『その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか』と呼ばわっているのを見た。しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、わたしは激しく泣いていた。すると、長老のひとりがわたしに言った、『泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる』(ヨハネの黙示録 5:1-5)。聖句を読んだ後、エルサ姉妹はこのように交わりました。「主イエスの言葉は明確よ。まだ言うべきことは多くあったけど、当時の人の背丈は小さく、それに耐えることはできなかったので、終わりの日に真理の霊がやってきて、人を一切の真理に導く。つまり、主イエスが再来したとき、もっと多くの真理を表し、将来のことを告げるということ。これは神が聖書にない新たな働きと言葉をもつことの証明なの。でも人はこう言います。『神の言葉はすべて聖書にあり、神の言葉も働きも聖書以外にはない』と。これは神の言葉を否定しているのでは?」姉妹の交わりを聞いてわかりました。牧師が神の言葉と働きを聖書に限定するのは間違っていて、神は終わりの日に聖書よりもさらに多くの言葉を発すると。黙示録には誰も巻物を開いて読むことはできないとあります。ですから巻物は聖書ではありません。聖書は毎日読めますから。主イエスが再来したとき、巻物を開いて、その内容を人に告げるのです。神が聖書にない新たな言葉を話すことがはっきりわかりました。

その後、全能神の言葉を読みました。「聖書に記録されていることは限られており、神の働き全体を表わすことはできない。四福音書をすべて合わせても百章以下であり、その中に書かれている出来事は限られている。たとえば、イエスがイチジクの木を呪ったこと、ペテロが主を三回否定したこと、イエスが磔刑と復活の後、弟子たちの前に現われたこと、断食についての教え、祈りについての教え、離婚についての教え、イエスの誕生と系図、イエスの弟子たちの任命などである。しかし、人々はそれらと現在の働きとを比べることさえして、それらを宝として大切にする。そのような人は、神にはこの程度のことしかできず、それ以上は無理だとでも言うように、イエスが生涯に行なった働きはその程度にしかならないとさえ信じている。それは馬鹿げたことではないか(『神の出現と働き』「受肉の奥義(1)」〔『言葉』第1巻〕)。「当時、イエスは恵みの時代において、弟子たちに一連の説教しか与えず、実践の方法、集い方、祈る際の求め方、他の人々の扱い方といったことが主題だった。イエスが実行した働きは恵みの時代の働きであり、彼が説明したのは、弟子たちやイエスに付き従う人々はどのように実践すべきかだけだった。イエスは恵みの時代の働きをしただけで、終わりの日の働きは何一つしなかった。ヤーウェが律法の時代に旧約の律法を定めたとき、恵みの時代の働きをその際に行わなかったのはなぜなのか。なぜ恵みの時代の働きを前もって明らかにしなかったのか。そうすれば人が受け入れる助けになったのではなかろうか。ヤーウェは、男の子が生まれて指導者になると預言しただけで、恵みの時代の働きを前もって実行することはなかった。各時代における神の働きには明確な境界線がある。神は現在の時代の働きだけを行い、次の段階の働きを前もって行うことは決してない。このようにしてのみ、各時代を代表する神の働きが前面に引き出される。イエスは終わりの日のしるしについて、そしていかに忍耐するか、いかにして救われるか、いかに悔い改め、告白するか、また、いかに十字架を背負い、苦しみに耐えるかについてしか語らず、終わりの日に人はどう入りを成し遂げるべきか、神の旨を満たすべくどのように追求すべきかについては語らなかった。したがって、終わりの日の神の働きを聖書の中に探し求めるのは馬鹿げてはいないか。聖書を手に携えているだけで何が分かるのか。聖書の解説者であれ説教者であれ、今日の働きを予見し得る者などいただろうか(『神の出現と働き』「自己の観念で神を規定する人がどうして神の啓示を受けられるのか」〔『言葉』第1巻〕)。全能神の言葉でわかりました。聖書はただの歴史書に過ぎず、律法の時代と恵みの時代に神が行った2段階の働きを記録しています。そして旧約聖書も新約聖書も、神の働きの後何年も経ってから、人の手で編纂されました。まず神が働きを行い、その後その記録が聖書に記載されます。従って、終わりの日の神の言葉を働きを、あらかじめ聖書に記録することは不可能です。神を聖書に限定し、聖書以外に御言葉はないと考えるのは、まったくばかげた見解です。何十年も主を信じていたのに、その時初めて聖書が何かを理解したんです。その後、エルサ姉妹は交わりを続けました。曰く、「神は生命の源で、その言葉は終わることも尽きることもない。創世から今に至るまで、神は常に言葉を発し、働きを行い、人に糧を与え、救ってきた。聖書どころか、どんな人も物事も、神の働きを制限できない。神はその経営計画と人の求めによって、新たな言葉を発し、新たな働きをする。一つとして同じものはない。律法の時代に、ヤーウェ神は法を発布し地上に生きる人を導き、多くの言葉を発した。でも恵みの時代には、主イエスは悔い改めの道を説き、人を贖う働きをし、多くの言葉を発した。その言葉は旧約聖書に記録されておらず、完全にその外にある。全能神は終わりの日に来て、主イエスの働きを基に真理を表し、神の家から始まる裁きの働きを行い、徹底的に人を清め、罪と束縛から人を救い、人を神の国に連れていく。これは新しく、より進化した働きの段階であり、あらかじめ聖書に記録しておくことは不可能なの。聖書を使ってむやみに神の働きを評価し、制限すれば神に抵抗する人になる。主イエスに抵抗したパリサイ人と同じ。彼らは頑なに聖書にこだわり、その言葉や働きが旧約聖書にないからと言って、主イエスを激しく非難し、抵抗し、主イエスを十字架にかけた。本当に悲しいことよ」。その後、全能神の御言葉を2節、一緒に読みました。「ユダヤのパリサイ人は、モーセの律法を用いてイエスを罪に定めた。彼らは当時のイエスと相容れることを求めず、律法の字句に忠実に従うあまり、イエスが旧約の律法に従っておらず、またメシヤでもないと断罪して、最後は無実のイエスを十字架にかけたのである。彼らの本質は何だったのか。真理と相容れる道を求めていなかったのではないか。彼らは聖書の一字一句にこだわり、わたしの旨に注意を払わず、わたしの働きの手順や方法にも無関心だった。真理を求める人たちではなく、あくまで字句に固執する人たちだった。彼らは神ではなく、聖書を信じていた。つまるところ、彼らは聖書の番犬なのである。聖書の権益を守るため、聖書の尊厳を維持するため、そして聖書の評判を保護するため、彼らは慈悲深いイエスを十字架にかけさえした。単に聖書を守るため、そして人々の心における聖書の一字一句の地位を維持するために、そうしたのだ。だから、彼らは自分の前途と罪の捧げ物を捨て、聖書の教義に合致しないイエスを断罪して死に処したのである。彼らはみな、聖書の一字一句に隷属していたのではないか(『神の出現と働き』「あなたはキリストと相容れる道を探さなければならない」〔『言葉』第1巻〕)。「結局のところ、神と聖書のどちらが偉大なのか。なぜ神が聖書にしたがって働きを行なわなければならないのか。神には聖書を超える権利がないということか。神は聖書から離れて別の働きを行なうことができないのか。なぜイエスと弟子たちは安息日を守らなかったのか。仮にイエスが安息日を踏まえ、旧約の戒めにしたがって実践するつもりだったなら、なぜ到来後に安息日を守らず、その代わりに足を洗い、頭を覆い、パンを裂き、ぶどう酒を飲んだのか。これらはみな、旧約の戒めにないのではないか。イエスが旧約を遵守していたのなら、なぜそれらの教義を破ったのか。神と聖書のどちらが先に来たか、あなたは知るべきだ。彼は安息日の主であると同時に、聖書の主でもあるのではないか(『神の出現と働き』「聖書について(1)」〔『言葉』第1巻〕)。姉妹はさらに続けました。「牧師や長老は主イエスに抵抗したパリサイ人と同じ。聖書を闇雲に崇拝して、聖書を神のように扱った。常に聖書を守り、神の足跡を求めることも、神の声を聞き分けようともしない。全能神の言葉と働きが聖書に記録されていないからって、激しく非難し、抵抗し、人が真の道を探るのを邪魔しているの。現代のパリサイ人と同じでは?聖書はただ、神の過去の働きを記録したもので、信者は必ず読む必要があるけど、聖書が神の代わりになったり、神に代わって人を救ったりはできない。神を信じていながら、聖書と神の過去の言葉と働きだけに従う人は、真理もいのちも得られない。大事なのは神の足跡に付き従うこと。人を罪から解放する全能神の裁きの働きを受け入れて初めて、神の国に入れる。全能神が表すこれらの真理はすべて、聖霊が諸教会に向けた言葉。この言葉だけが、完全に人を清め、救うことができ、終わりの日に神が人に与える永遠の命への唯一の道なの。この働きの段階についてこられなければ、神に見放され、淘汰され、災害の中に落ちて、懲罰を受ける」。姉妹の交わりから多くを学べた気がしました。聖書について客観的な理解を得ると、心の迷いがなくなりました。分かったのは、神が現れ働きを行うたびに、宗教指導者は神に抵抗し、神を敵視し、自分の利益を守るためにあらゆる誤謬を生み出して神の働きを非難し、人が真の道を受け入れないようにする。真理を理解せず、分別がなければ、その言葉に騙され、彼らに従って神に抵抗し、神を拒否し、神の救いを失うでしょう。それは悲惨なことです。こう思いました。「真理を身につけ、分別できるようになろう。神を拒絶したくない」と。

それから一月ほど経って、別の牧師からMessengerとWhatsappで妨害のメッセージが来ました。その人は、「主イエスは2千年前に生まれた。聖書の預言のとおりだ。あなたは主が女性として再来したというが、聖書には主が女性として再来するという預言はあるか?主の受肉などありえないし、女性として再来するなんてもってのほか。あなたが信じる全能神は人間だ」と言います。同時に、他に2人の牧師からも攻撃され、私を非難し、断罪し、間違った信仰だと言いました。神を定義することなどできないと言いました。神の本質は霊です。ただ働きに必要だったから、神は受肉し、人の形で現れた。私たちが全能神を信じるのは、神の霊の本質をもち、真理を表せるから。その受肉した外見ゆえではありません。

エルサ姉妹に相談すると、こう交わってくれました。「聖書には、終わりの日に神が人の子として受肉するという預言が多くあるの。『人の子の現れる』、『人の子が現れる』、『人の子が来る』というように。全能神はすでに来て真理を表し、終わりの日の裁きの働きをしている。さっきの預言と完全に一致するわ。神が終わりの日に女性として来るのは、確かに人の観念にそぐわない。でも神の働きが観念から外れるほど、奥義が深くなり意義が増すの。神が女性として受肉したことにはどんな真理と奥義があると思う?全能神の言葉を読めばわかると思うわ」。そういうと姉妹は御言葉を送ってくれました。「神による各段階の働きには実際的な意義がある。当時、イエスは男性の形で来たが、今回来る際、神は女性の形である。このことから、神が男女両方を創造したことは自身の働きに役立ち、また神には性の区別がないことがわかる。神の霊が来るとき、それはいかなる肉体でも意のままにまとうことができ、その肉体は神を表すことができる。男性であろうと女性であろうと、それが神の受肉した肉体である限り、どちらも神を表せるのである。……神に性の区別はない。神は思い通りに自身の働きを行い、また働きを行う中でいかなる制限も受けず、非常に自由であるが、働きの各段階にはそれぞれの実際的な意義がある。神は二度肉となったが、終わりの日における受肉が最後であることは言うまでもない。神は自身のすべての業を知らしめるために来た。人が目撃できるように自ら働きを行うべく、今の段階で神が受肉していなければ、人は永遠に、神は男性でしかなく、女性ではないという観念に固執するだろう。これまで、神は男性にしかなり得ず、女性が神と呼ばれることはあり得ないと、すべての人が信じていた(『神の出現と働き』「二度の受肉が、受肉の意義を完成させる」〔『言葉』第1巻〕)。「もしも神が男性としてのみ受肉したならば、人々は神を男性として、男たちの神として定義し、女たちの神だとは決して信じないはずだ。すると男たちは、神は自分たちと同じ性別であり、男たちの長であるとするだろう。しかし、女たちにとっては何になるのか。これは不公平であるし、えこひいきではないか。そうであれば、神が救ったすべての人は神と同じ男ということになり、女は一人も救われないということになる。神は人類を創造したとき、アダムを創り、そしてエバを創った。神はアダムだけを創造したのではなく、自分にかたどって男と女の両方を創ったのである。神は男たちだけの神ではなく、女たちの神でもある(『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(3)」〔『言葉』第1巻〕)。エルサ姉妹はさらに続けます。「神は霊です。でも神が受肉し人の子になると性別をもつことになる。初めは男性として受肉し、終わりの日には女性になる。そうすれば、人は神への認識を深め、神を限定しないようになる。初めに、神は自分に似せて人を造った。男性だけでなく女性もね。だから神は男性としても女性としても受肉できるの。受肉した神が常に男性なら、神はいつも男性だと人は思うでしょう。神は男性の神で、男性だけを救い、女性は救わないと誤解するわ。これは間違った認識では?神の目には男性も女性も平等。神は男女両方を救うの。男性も女性も神に造られたのだから。受肉した姿が男性でも女性でも、神は神。神の本質は決して変わらず、真理を表して人を救う働きを完成させることができる。受肉した神が女性だからといって、神の受肉や出現、働きを否定することはできない」。

その後、全能神のこの言葉を読んで心が晴れました。全能神は言われます。「『不可能』だと思うことについての意見を捨て去りなさい。人が何かを不可能だと思えば思うほど、それは実現しやすくなる。神の知恵は天より高く、神の思いは人の思いより高く、神の働きは人の考えや観念をはるかに超越するからである。何かが不可能であればあるほど、そこには探し求めることのできる真理がある。人の観念と想像を超えるものであればあるほど、そこには神の心意がある(『神の出現と働き』「附録1:神の現れによる新時代の到来」〔『言葉』第1巻〕)。「神の現れは人の観念と一致することはない。ましてや神は人の言うままに現れない。神は自らの判断で、自らの計画に従って働く。さらに、神にはその目的と方法がある。神がどのような働きをしようと、人と話し合ったり人の助言を求める必要はない。ましてや神が人間一人一人にその働きを知らせる必要などなおさらない。これが神の性質であり、さらにそれはすべての人が認識すべきことである。もし神の現れをその目で見、神の足跡をたどりたいと願うなら、自分自身の観念を捨て去らなければならない。神にこれをせよあれをせよと命じてはならない。ましてや神を自分の枠の中に閉じ込めたり、自分の観念の中に押し込めたりすべきでない。そうではなく、どのように神の足跡をたどるべきか、どのように神の現れを受け止めるべきか、どのように神の新しい働きに従うべきかを、自分に問うべきなのである。これが人のすべきことである。人は真理ではなく、真理を自分のものにしていないので、人は探し求め、受け入れ、従うべきである(『神の出現と働き』「附録1:神の現れによる新時代の到来」〔『言葉』第1巻〕)。エルサ姉妹はこう言いました。「振り返ると、神の働きが人の観念と一致しないことは多いの。真理を求めない人は、簡単に神に抵抗してしまう。たとえは、主イエスは飼い葉おけの中で生まれたけど、これは人の観念と一致した?主イエスはナザレの人で、メシアとは呼ばれなかった。これは人の観念と一致した?主イエスは神だったけど、聖殿に入らず、安息日を守らず、追われる身となり、はりつけにされたわ。これは人の観念と一致した?主イエスの顕現と働きについては多くのことが人の観念と一致しない。つまり主イエスは神ではないということ?いいえ。主イエスは神の顕現で、メシアの降臨でした。ではなぜ多くの人がそれを認識せず、非難し、抵抗したのでしょう?それは人が観念と想像で神を評価したからでは?パリサイ人は皆、主イエスはナザレ人だ、大工の息子で神ではないと言い、最後には主イエスを磔にして、神に呪われ懲罰を受けたの。現在、宗教界の牧師や長老はその観念と想像で神を限定して、全能神の働きを否定し、抵抗している。パリサイ人の過ちを繰り返し、神を再び磔にしようとしてるの。神は創造主で、自分の計画通りに働きを行い、制限を受けることはない。神が何をしようとも神の知恵があり、人の観念や想像で神が働く場所や出現する方法を決めつけることはできないの。人の神への態度は従順であるべき。従順とは、神の言葉を働きを受け入れ、その言葉と働きで神を理解すること。観念と想像で神を定義し、制限し、神にできることとできないことを決めつけるなんて、全く理知がないわ」。

その後、エルサ姉妹は2つの御言葉を読んでくれました。「受肉した神かどうかを人が考察しようとするならば、その者が表す性質や話す言葉からそれを裏付けなければならない。つまり、神の受肉した肉体かどうか、それが真の道かどうかを裏付けるには、その者の実質を基に判別しなければならないのである。そこで、受肉した神の肉体かどうかを決定するとき、鍵となるのは、外見よりもむしろその者の実質(働き、発する言葉、性質、およびその他多数の側面)である。外見だけをじっくり見て、結果として実質を見落とすならば、その人が暗愚で無知であることを示している(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)。「神は肉となるとき、天からある特定の肉体へと降臨するだけである。肉体に降臨するのは神の霊であり、神はそれを通じて霊の働きを行なう。肉において表わされるのは神の霊であり、肉において働きを行なうのも神の霊である。肉において行なわれる働きは霊を余すところなく表わしており、その肉体は働きのためにある。しかしそれは、その肉の姿が神自身の真の姿の代わりになれるという意味ではない。それは、神が肉となる目的でも意義でもないのである。神が肉となるのは、ただ霊が自分の働きに適した住みかを見つけ、肉における働きをよりよく成し遂げるためである。そうすることで、人々は神の業を見、神の性質を理解し、神の言葉を聞き、神の働きの不思議を知るのである。神の名前は神の性質を表わし、神の働きは神の身分を表わすが、受肉した神の外見が神の姿を表わすと神が言ったことはない。それは単に人間の観念である(『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(3)」〔『言葉』第1巻〕)。そして交わりを続けました。「受肉した神が男性か女性か、どんな外見かは重要じゃない。重要なのは、その言葉が真理かどうか、神の性質を表し、人を救う働きを行っているかどうか。それこそが大切なの。例えば、病気になって医者に行くとするわね。その時に大切なのは医者が男性か女性かではなくて、病気を治せるかどうかでしょう。男性の医者には病気は治せるけど、女性には治せないと言うのは、ばかげているわ。だから、真理を表し、人を救う働きをする限り、それは受肉した神なの」。でも、宗教界の牧師は神の声を聴くことも、真の道を調べることもせず受肉した神が女性だと聞くと、否定し非難し、観念を広めて人が主を迎えるのを妨げます。これは大きな間違いです。私は誰にも惑わされないよう、邪魔をしてきた人を全員ブロックしました。元々の教会の牧師と長老もです。私は主を迎えているんだ、牧師や長老にどれほど邪魔されても全能神に従う、と心に誓いました。

2020年4月から、娘と私は教会にいくのをやめました。2ヵ月後、教会の牧師が私を攻撃し始めたんです。まず私の家に来て、全能神教会の集会には参加しないように、教会の集会で十分だと言いました。そして夫には、私は間違った道を歩んでいる、教会に戻るべきだと言い私の全能神への信仰を止めるよう、息子まで煽りました。夫も子供も、牧師のやり方には反対でした。子供たちは、私が福音を伝え、神の信仰に関することをいつも話しているので、私が熟慮の末に全能神を信じることにしたと思っていたそうです。その後、長老が脅してきました。教会に行かなければ私は追放され、兄弟姉妹に拒絶されると。私はきっぱりと、「教会から追放されても、全能神を信じます」と言いました。その後、彼らは私の学校のトップに私が全能神を信じていると告げました。学校が対応すると思ったようですが、校長はそれを無視しました。エルサ姉妹の言葉を思いました。真理は常に宗教界に拒否され、非難されると。2千年前、人を贖うために真理を表した主イエスは、ユダヤ教の宗教指導者、祭司長、文士、パリサイ人たちに非難され、拒否されました。自分たちの地位と収入を守るために主イエスを攻撃し冒とくし、人を騙し、主を信じさせなかった。彼らは皆、神に抵抗し人を破滅させる反キリストです。現在、宗教界の牧師や長老の多くが、ユダヤ教のパリサイ人のように自分の地位と収入を守るために、全能神の出現と働きを非難し、抵抗し、信者が真の道を調べないようにしています。彼らも、神に暴かれた反キリストなんです。そして主イエスがパリサイ人を呪った言葉を思い出しました。「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない(マタイによる福音書 23:13)。「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする(マタイによる福音書 23:15)。宗教界の牧師と長老は全能神の言葉が真理だと知りながら受け入れず、人々の崇拝と供物を享受し、地位を守るために、人が主を迎え神の国に入れないようにしています。反キリストの所業です。彼らは皆人の魂を食らう悪魔で、神によって呪われ、彼らに従う人も地獄で懲罰を受けます。

今もまだ牧師や長老に攻撃されたり妨害されたりしますが、どんな誤謬を広めようと、私は影響されません。全能神が表した言葉が真理であり、人を清めて救う、永遠の命への道だと分かっているからです。神の出現を心から求める人は誰でも、全能神の御言葉を読むだけで、神の声を認識し、全能神の玉座に戻るのです。神に感謝!

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