病を通じて祝福を求める動機が証される

2022年7月16日

チェンシン 中国

全能神は言われます。「神への信仰において人が求めるのは将来の祝福を得ることであり、それが信仰における目標です。すべての人にこの意図と望みがありますが、人の本性にある堕落は試練を通じて解決されなければなりません。人が清められていない側面がどれであろうと、その側面において精錬されなければなりません。それが神の采配なのです。あなたが自分の堕落を認識できるよう、神はあなたのために環境を整え、そこでの精錬をあなたに強います。最終的に、あなたは死んで企みや欲望を諦め、神の支配と采配に服従したいと思うまでになります。それゆえ、数年間の精錬を受けず、ある程度の苦難を経なければ、人は自身の考えや心における肉の堕落の束縛を捨て去ることが出来ません。あなたはどの側面においてもいまだサタンに束縛され、自分の欲望と要求を抱いていますが、それらの側面において試練を受けなければなりません。教訓は試練を通じてのみ学べるのであって、それは真理を得て、神の意図を理解できるということを意味します。実際、多くの真理はつらい試練を経験することで理解されます。楽な環境にいるときや状況が好都合なとき、神の考えを理解したり、神の全能性と知恵を認識したり、神の義なる性質を正しく理解したりすることは誰にもできません。そのようなことはありえないでしょう(『終わりの日のキリスト講話集』の「試練のさなかにどう神を満足させるべきか」)。この御言葉を読むと、病を患った経験を思い出します。当時は苦しみ、涙も多く流しましたが、多少の真理を理解するようになり、信仰の中で祝福を求めるのをやめるとともに、この苦しみからいくばくかの教訓を得て、これは神からの祝福でもあるのだと実感したのです。

わたしは2010年に全能神による終わりの日の働きを受け入れました。当時はまだ高校生でしたが、神の御言葉から、人が神によって創られたこと、神を信じて崇めるのは正しい道――最も価値と意義のある道であることを知ったのです。そうして教会の集会に参加し始め、どんな天気でも欠席したことはありません。また、友人や親戚に福音を述べ伝えようと最善を尽くしました。毎日が充実しているように感じ、心も大いに安らいでいました。

一年後、病院で検診を受けたところ、B型肝炎に感染していることがわかりました。医者によると治療は困難で、悪化すれば癌になるとのこと。この突然の病に、わたしは呆然となりました。顔から血の気が引き、両手も震え、自分の未来がいきなり不透明になったように思われました。自宅に戻る途中、わたしはすっかり打ちひしがれ、ひたすら泣きながら自問しました。「どうしてこんな病気になったんだ? 他のみんなのように健康でいられないのはなぜなんだ?」。それまでは、神を信じていれば病から守ってくださると思っていました。神の家で心穏やかに本分を尽くせれば、どんなに素晴らしいか。でも、今の自分は病気で、回復するかどうかもわからず、悪化すれば命さえ危ない。そうした考えにすっかり動揺したわたしは、何度も神の御前に出て祈りました。そして信仰と力を授け、わたしを導いて啓き、この状況をどう乗り切ればよいかがわかるよう、御旨を理解させてくださいと願ったのです。

事情を知った兄弟姉妹は、わたしに支えの手を差し伸べるとともに、神の御言葉の一節を読んでくれました。「病を患ったなら、それは神の愛によるもので、神の善意が必ずその背後にある。体は多少の苦しみに耐えることになるかもしれないが、サタンによる思いは一切抱いてはならない。病気の只中で神を賛美し、賛美の只中で神を楽しみなさい。病気に直面しても気を落とさず、何度も繰り返し求めて諦めることがなければ、神はあなたに光を当てるだろう。ヨブの信仰はどうだったか。全能神は全能の医者なのだ。病の中に留まれば病気になるが、霊の中に留まれば健やかになるのだ。あなたに最後の息があるかぎり、神はあなたを死なせはしない(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第六章」〔『言葉』第1巻〕)。この一節を読んで、病気が悪化するかどうかは神の手中にあることがわかりました――神はすべてを支配なさるのです! 心配したり悩んだりする必要はまったくありません。病気になった今、自分は心から神にすがり、神のほうを向く必要があります。回復しようとしまいと、神を責めてはならず、神の支配に服従しなければなりません。それ以降は自分の病気について何度も神に祈るとともに、治療を受けることに専念しました。半年後、病院で再度検査を受けたところ、病状は快方に向かっていて今は抑えられているから、もう治療の必要はないと医者に言われました。わたしはそれを聞いて胸が躍り、「神に感謝します! 神に感謝します!」とひたすら言い続けました。神になんと言うべきかはわからないものの、これが神の優しさと祝福であることはわかっていたのです。

2012年、わたしは大学に進学しましたが、キャンパスで福音を伝えたことを報告され、退学の憂き目に遭いました。このころは本当につらい思いをしたものです。大学へ進むため、12年間必死に勉強したのですから。しかしそのとき、受肉した神が真理を表わし、人類を救うべく働きをなさっていることが頭に浮かびました。神を信じ、真理を追い求めて初めて、わたしたちは救われるのです。大災害が間もなく訪れるので、本分を尽くして善行を重ねなければそれに押し流されると、わたしは不安になりました。「大学のことはもういい。全力で真理を追い求め、教会で本分を尽くそう」。数日後、わたしは家を出て、教会で本分を尽くし始めました。どんな本分を割り当てられても、不満を言わず喜んで引き受けました。中国共産党による狂気じみた弾圧と取り締まりに直面し、二度も警察に捕まりそうになりましたが、わたしは一切恐れず、福音を広めて神の証しをし続けました。ひたすら本分を尽くして初めて、自分は神に守っていただけるのであり、それがよき終着点を得る唯一の方法だと思っていたのです。

2015年2月、わたしは町の外へ転属となり、そこで本分を尽くすことになりました。ある日のこと、他の人に感染するのを防ぐため、病院で検査を受けるようにと指導者から言われたのですが、それを聞いてこう思いました。「最後に検査を受けてからほぼ五年経っている。その間に病状が悪化した可能性は否定できない。人に感染させてしまったり、癌になったりしていれば、本分を尽くすのはもう無理だ」。その考えにわたしはすっかり落ち込み、強い不安を覚えました。それに、そんな事態を受け入れるのは無理だとわかっていました。翌日病院へ行ったものの、不安で仕方ありません。「実は癌だったり、人に感染させる可能性があったりすれば、ここで治るだろうか? 無理だったらどうしよう?」。そこで神に祈り、何があろうとそれに従いますと伝えました。しかし医者によると、不整脈があるとのことで、わたしは再び心から不安になり、こう思いました。「これは病気のサインなのか? そうでなければ、どうして不整脈になるだろう?」。医者の深刻そうな表情を間近で見て、どうやら事態はよくなさそうだと気づきました。医者はそれ以上詳しく語らず、血液を採取した上で、自宅に戻って結果を待つようにと言いました。

検査結果の出る日が近づくにつれ、不安が再び蘇りました。結果が悪かったらどうしようと恐れ、それに耐えられる自信もない。ただ回復することだけを願いました。一週間後、結果を聞きに病院へ赴いたところ、血液中にB型肝炎ウイルスが大量に見られ、急性肝炎になったと医者から言われました。人に感染させる可能性が非常に高く、すぐに治療しなければならないとのこと。わたしは思いました。「もう終わりだ。今後も本分を尽くせるだろうか? 集会に出て教会生活を送れるだろうか?」。家に戻る道すがら、頭の中は病気のことで一杯で、自転車のペダルも重く感じられます。帰宅後、治療についてネットを検索したのですが、急性肝炎によって昏睡状態に陥り、数日以内に死亡する可能性があるという記事が目に入りました。わたしはそれを読んで恐怖を覚え、このように思いました。「自分もそうなるのか? このような形で死を迎えたら、信仰はそこで終わりじゃないか? 他の兄弟姉妹はみんな健康なのに、どうして自分だけが病気なんだ? 他のみんなとこうも違うのはなぜなんだ?」。こうして他の人たちのことがますます羨ましくなりました。彼らは病気に悩まされておらず、安心して本分を尽くせるし、善行を重ねて神に救っていただける。なのに自分は病気で、再び本分を尽くせるかどうかもわからない。このまま本分を尽くせなければ見捨てられ、災害の中に放り込まれるのだろうか? 自分は信仰のために大学から追い出され、俗世での前途を諦めた。ガールフレンドもいたことがないし、本分を尽くすために家を出た。それでも神がわたしを見捨て、淘汰なさるのなら、長年にわたる信仰の中で捨てたものはみな無駄だったということじゃないか? いま家に戻れば、きっと共産党に逮捕される。捕らえられ、投獄されるのは間違いない……。このように考えて動揺と落胆が激しくなり、「神よ、あなたはこの病気を用いてわたしを暴き、淘汰なさろうとしているのですか?」と思いました。こぼれ落ちる涙を止めることができず、すっかり弱気になり、本分を尽くす気力も、他のことをする気力もありません。それに食欲さえも一切湧かず、心身ともに疲れ果てていました。苦痛の中、わたしは神の御前に出て祈りました。「全能神よ、わたしは弱り切っていて、心から苦痛を感じています。どうしても自分の前途のことを考えてしまい、自分にはもう終着点がないような気がしています。神よ、わたしがこの病気になったのは、あなたがお許しになったことだというのはわかっています。御旨を理解できるよう、どうかわたしを啓き、お導きください」。

すると、神の御言葉の一節が頭に浮かびました。「すべての人にとって精錬は耐え難く、非常に受け入れ難いものであるが、神が自身の義なる性質を人に明らかにし、人に対する要求を公にし、より多くの啓き、そしてより現実的な刈り込みと取り扱いを与えるのは精錬のさなかである。事実と真理の比較を通じ、神は自己と真理に関するより大きな認識を人に授け、神の旨をより深く理解させ、そうしてより真実かつ純粋な神への愛を人が抱けるようにする。それらが精錬を実行する神の目的である。人の中で神が行なうすべての働きには固有の目的と意義がある。神は無意味な働きをせず、人に恩恵がない働きもしない。精錬とは人々を神の前から取り除くことでなく、地獄で人々を滅ぼすことでもない。それはむしろ、精錬のさなかに人の性質を変え、その人の意図や従来の見方を変え、神に対する愛を変え、生活を変えることを意味する(『神の出現と働き』「精錬を経験することでのみ、人は真の愛をもつことができる」〔『言葉』第1巻〕)。この御言葉を考えるうち、この病気には神の善意があるのだとわかりました。神はこの状況を用いてわたしの堕落を暴き、自分を認識して教訓を学ぶのを助けてくださっているのです。そして、そうした試練がヨブの身に降りかかるのを神がお許しになったことを考えました。ヨブは身体的な苦しみを受けたものの、神は彼の命を奪うためでなく、ヨブの信仰を完全にし、神をよりよく認識できるよう、その苦しみを引き起こしたのです。わたしが病気になるのを神がお許しになったのは、わたしを暴いて淘汰するためでなく、わたしの信仰における汚れを清め、わたしが真に神を愛し、神に従うようにするためです。わたしは神を責めてはならず、自分の信仰の裏にある間違った動機を検証し、どのような形で神に逆らい、抵抗しているのかを考えなければなりません。神の御旨がわかると、ずっと前向きな気持ちになりました。そこで再び神に祈りを唱え、自分の心を静めるとともに、正しい自省をいくらかしました。

そして探求する中で、神のこの御言葉を読んだのです。「何人もの人たちが、わたしが彼らを癒やすということだけを信じている。何人もの人たちが、わたしが自身の力で彼らの体から汚れた霊を追い出すということだけを信じている。そして何人もの人たちが、わたしから平安と喜びを受け取るということを単に信じている。何人もの人たちが、より多くの物質的富をわたしから要求するために、わたしを信じている。何人もの人たちが、平和にこの人生を生き、またこれから来る世で安全で穏やかに過ごすために、わたしを信じている。何人もの人たちが地獄の苦しみを避け、天国の祝福を受け取るためにわたしを信じている。何人もの人たちが一時的慰めのためだけにわたしを信じ、来世で何かを得ることなど求めずにいる。わたしが激しい怒りを人にもたらし、人がかつて持っていたすべての喜びと平安を押収したとき、人は疑い深くなった。わたしが人に地獄の苦しみを与え、天国の祝福を取り戻したとき、人の恥辱は怒りに変わった。人がわたしに癒してくれるように頼んだとき、わたしは彼を気にかけることもせず嫌悪を感じた。人は代わりに邪悪な医術や魔術という方法を求めてわたしから離れた。人がわたしに要求したものすべてを取り除いたとき、誰もが跡形もなく消えた。ゆえに、わたしがあまりにも多くの恵みを与え、わたしから得るものがあまりにも多くあるので、人はわたしに信仰を持っていると言おう(『神の出現と働き』「あなたは信仰について何を知っているか」〔『言葉』第1巻〕)。「人間の神との関係は、むき出しの利己心に過ぎないということである。これは恵みの与え手と受け手の関係である。簡単に言うと、雇われ人と雇い主の関係のようなものである。雇われ人は雇い主から報酬を得るためにだけ働く。このような関係に愛情はなく、取引だけがある。愛し愛される関係はなく、施しと憐れみだけがある。理解はなく、抑圧された憤りと欺きだけがある。親しみはなく、越えられない溝だけがある(『神の出現と働き』「附録3:神の経営の中でのみ人は救われる」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉を読んで、自分は信仰の中で神を神として扱っていなかったのだとわかりました。神のことを祝福を施す存在だと考えていたのです。そのため病気になったとき、わたしは自分の前途と、回復するかどうかをまず考え、この病気と治療法についてネットで検索し、本分を尽くす気力をすっかり失いました。病気が悪化すると、神は公平でなく、わたしを守らず病気になるのを許したと神を責め、本分を尽くすために勉学と家族、それに青春を諦めたのを後悔すらしました。わたしは自分を省みて、「長年にわたる信仰で、本分を尽くすためにすべてを諦められたのはどうしてだろう?」と考えました。そして、それは自分の観点が間違っていたからだと気づいたのです。神のために犠牲を払い、立派に本分を尽くす限り、神はきっとわたしを祝福し、わたしの病気を癒やし、危険から守ってくださるはず。そうすれば災害を逃れ、死なずに生き延び、よき結末と終着点を得られると考えていたのです。本分を尽くす中で喜んで苦しみ、代価を支払っていたのは、ひとえにそれが理由でした。祝福を得るという動機に突き動かされて、神を信じて本分を尽くしていたのです。病状が深刻になると、祝福を得る希望は消え去り、真理を追い求める決意も本分を尽くす気力も失い、果ては心の中で神と言い争いました。自分は信仰の中で祝福ばかり求めていたのです。病気になったときも、考えるのは自分の前途や利益だけで、神の御旨を求めることはまったくなく、神を責めて誤解し、裏切りさえしました。あまりに利己的で不実です! そうした自分の考えはどれも、神を傷つけ失望させるものでした。わたしの信仰が被造物の本分を尽くすためでも、真理を追い求めるためでもないということを、事実は示していました。それはただ、穏やかな人生を送り、よき結末と終着点を得るためだったのです。わたしは神と取引し、苦しみと引き換えに将来の報酬と祝福を得ようとしていました。神を利用し、神を騙そうとしていたのではないでしょうか? パウロは長年にわたって働き、多くの苦しみを受け、最後は殉教者になりましたが、被造物の本分を尽くすために働きをしていたのではありません。それは報いと冠を得るためでした。自分がパウロと同じ道を歩んでいることに、わたしはようやく気づきました。神は聖く義でいらっしゃいます。わたしのように神と取引し、神を騙そうという意図のある人間が、どうして御国に入れるでしょう? このことを考えるうち、自分がいまこの病気にかかっているのは、祝福を得るという自分の動機を暴いているのだと、ようやく気づきました。それがなければ、自分の信仰の中にある動機や汚れにいまなお一切気づかず、自分がパウロの道、神に断罪される道を歩んでいることも認識していなかったでしょう。そう考えると、この病気にかかっていることに動揺しなくなり、このような形でわたしを暴き、救ってくださっている神に感謝しました。表面上は病気というよくないことであるものの、そこにはわたしに対する神の真の愛と救いが隠れており、神は信仰の正しい道へとわたしを導き、わたしの信仰の中にある汚れを一掃なさっていたのです。

そうしたことを考えながら、わたしは心の中でこう思いました。「神は肉となられ、人類を清めて救うべく真理を表わされている。ご自分のことなど考えずにいのちを授け、見返りに何も求めない」。神の心がいかに美しく、素晴らしいかを実感しました。そして自分を振り返ると、神の恵みと祝福を享受し、神の御言葉によって大いに潤され、糧を施されていたにもかかわらず、神の愛に報いることを一切考えず、本分を尽くす中で神と取引しようと試み、病気になったときは神を責め、誤解していました。そう考えると自分のことがとても恥ずかしくなり、あまりに自分勝手で卑劣な自分を憎みました。神がわたしの心の奥底の考えを絶えず吟味なさっている一方で、サタンはわたしの振るまい方を見ています。サタンの笑いものになるわけにはいきません。神の側に立ち、神の采配に従い、しっかり教訓を学ぶ必要があります。そこで、神にこう祈りました。「神よ、わたしは祝福への願望を捨て、自分の前途についてはもう考えないようにしたいと思います。回復しようとしまいとあなたに従い、あなたの証しに立って、サタンに恥をかかせようと思います」。祈り終えると心がずっと落ち着き、自分のことについてはあまり考えなくなりました。そして、神の御言葉の一節を読みました。「神によって生かされているわたしたちは、しっかり本分を尽くさなければなりません。生きている一日一日が、その日尽くすべき本分です。神の委託を最優先の任務と考え、人生で一番大事なものとして本分を尽くすべきです。本分の完璧な遂行を追い求めていなくても、良心に従って行動し、サタンに狙われ言いがかりをつけられないようにすれば、良心の咎めを感じることなく、神を満足させることができ、何ら後悔することはありません。これが、神の信者が本分に対してとるべき態度です(『終わりの日のキリスト講話集』の「信仰において正しい軌道へ乗るのに必要な五つの状態」)。回復するかどうかはわからなくても、神から授かった本分を固守することはできます。その後は病気にたじろがず、全身全霊で本分を尽くせるようになりました。

その後、病気を確かめるために再度病院を訪れたところ、わたしの身体に問題はなく、肝機能も正常だと医者から言われました。血液がひどく感染しているものの、その他はすべて大丈夫とのこと。その上で、心配する必要はなく、通常の治療で十分だとその医者は強調しました。医者の言葉を聞いて、わたしは心の中で神に感謝せずにはいられませんでした。わたしに対する神のご慈悲を感じたのです。わたしはあまりに自分勝手かつ卑劣で、利益を得ることしか求めず、多少の本分を尽くすのと引き換えに神から何かを得ようとし、神を騙して嫌悪させましたが、神はわたしの反抗心を見逃してくださいました。御言葉によってわたしを啓いて導き、自分の信仰における間違った動機や見方を認識できるよう、ご自身の働きを経験させてくださったのです。わたしは神の愛の偉大さを実感し、その後は本分を尽くすことに自分のすべてを捧げました。この病気を経ていくらか教訓を学び、背丈も多少は成長したと思っていたのですが、神が再びわたしを試し、暴かれようとは思いもしませんでした。

一ヵ月後、再度病院に行って検査を受けるよう、指導者に言われました。わたしの病気は極めて感染性が高く、他の人たちから離れて暮らさなければならないというのです。わたしはそれを聞いて心から動揺し、巨大な石で胸が押しつぶされるような気がして、心が激しく揺れだしました。「みんなから隔離されてしまえば、集会に出ることも教会生活を送ることもできなくなる。ある日本当に病気になったとして、誰もそれを知らなければ、自分はいったいどうすればいいだろう? 大災害が訪れたとき、兄弟姉妹はみんな集まって交わり、互いに助けて支え合える。でも自分は一人きり。揺るぎなく立てるだろうか?」そう考えれば考えるほど、ますます落ち込みました。すると指導者はわたしと交わった上で、神の支配に従えるようになりなさいと言いました。この状況で神の御旨をもっと求め、またヨブのように、祝福を得ようと艱難に遭おうと神を称えなさいというのです。それを聞いてわたしは感動し、前回の経験を思い出しました。そして、これは神のお許しを得ているのだから、まずは服従すべきだと気づいたのです。その後、わたしは神の御言葉の朗読動画を観ました。全能神は言われます。「ヨブは神に取り引きを持ちかけることも、願い事や要求をすることもありませんでした。彼が神の名を称えたのは、万物を支配する神の偉大な力と権威のためであり、祝福を得たかどうか、災いに遭ったかどうかに左右されるものではありませんでした。神が人々に祝福をもたらすか、それとも災いをもたらすかに関係なく、神の力と権威は不変であり、ゆえにその人の状況に関係なく神の名は称えられるべきだと彼は信じていました。人が神に祝福されるのは神の主権のためであり、人に災いが降りかかるのもまた、神の主権のためなのです。神の力と権威は人間に関する一切のことを支配し采配します。人間の運命が流転するのは神の力と権威の現われであり、人がどう見るかにかかわらず、神の名は称えられなければなりません。それが、自らの人生においてヨブが経験し、悟ったことです。ヨブの考えと行ないはすべて神の耳に届き、明らかにされ、重要なものと見なされました。神はヨブのこの認識と、ヨブがそのような心をもつことを大切に思いました。ヨブの心は絶えず神の命令を待っており、そして時間や場所に関係なく、あらゆるところで自分に何が起ころうとも、そのすべてを歓迎しました。ヨブが神に何かを要求することはなく、神から来るすべての采配を待ち、受け入れ、それに向き合い、従うことを自分に課しました。ヨブはそれを自分の本分だと信じていましたが、それこそ神がヨブに望んでいたものです(『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」〔『言葉』第2巻〕)。この動画を観ていると、自分のことがとても恥ずかしく思えました。ヨブが神の御名を称えたのは決して空虚な言葉でなく、心の底から出た称賛の言葉でした。ヨブは神の権威、全能、そして主権を知っていたので、心の中で神を畏れ、真に神を神として扱うことができました。だからこそ、神の指揮と采配がどのようなものであろうと、不満を言わず要求も一切しなかったのです。ヨブは神と取引しようとせず、祝福を得るか艱難に見舞われるかに関係なく、ひたすら従いました。神への服従を、自分のいのちよりも大事なことと見ていたのです。そこで自分のことを考えました。神と取引しようと何度も試み、あくまで祝福を追い求めていたのはなぜなのか? それは自分の心に神の居場所がなく、心の中で神を畏れていなかったから。前途と祝福を得ることを重視しすぎ、そのため病気になったときも、神にまったく従わなかった。自分は神の恵みによって多少の祝福を享受でき、神の支配によってこの病がもたらされた。自分が持っているものはすべて神から与えられたものなのだから、神がそのすべてを取り去ったとしても、それは神の義でもある。蟻よりも卑しい自分に、どうして神と言い争う資格があるだろう? そこでわたしは、あなたの指揮と采配に喜んで従いますと、神に決意しました。みんなから隔離されてもそれでいい。神がわたしをどこに置こうと、たとえ患難が我が身に降りかかっても、文句は言うまい。どこにいても本分を尽くし、神の愛に報いよう。その後、検査を受けに病院へ行きましたが、道中は多少緊張していました。そこで、心の中で神に祈り、御言葉を考え続けました。すると、病院に向かう自転車のペダルも軽く感じられます。病院に着くと医者からこう言われました。「おめでとう! 先月の血液検査では、1ミリリットルあたり17億のウイルスが存在していたが、いまでは56万に減っていて、感染力もさほどない」。その上で、わずか一ヵ月でここまで減少したのがいかに素晴らしいことかを説明してくれました。わたしはそれを聞いて、神への感謝で一杯でした。神がわたしのすぐ横にいらっしゃり、万事を支配し采配なさっている。本当に不思議で実践的です!

この病を経たおかげで、祝福への願望と自分の卑劣な動機がはっきりしました。そして、追求に関する自分の間違った見方と、堕落した性質について多少認識しました。また、神の主権についても実践的に理解できました。これはひとえに、裁きと刑罰を経験したおかげです。いまでは、いつになったら肝炎ウイルスが完全になくなるのかと考えることもありません。神の指揮と采配に従い、この状況の中で自分の本分を立派に尽くそうと思うばかりです。神に感謝します!

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