この私の試練

2021年1月30日

全能神は言われます。「わたしの行いは海岸の砂の粒子より数が多く、わたしの知恵はソロモンの全ての子孫の知恵より偉大であるのに、人はわたしのことをただの医師や人の名もない教師としてしか思っていない。何人もの人たちが、わたしが彼らを癒やすということだけを信じている。何人もの人たちが、わたしが自身の力で彼らの体から汚れた霊を追い出すということだけを信じている。そして何人もの人たちが、わたしから平安と喜びを受け取るということを単に信じている。何人もの人たちが、より多くの物質的富をわたしから要求するために、わたしを信じている。何人もの人たちが、平和にこの人生を生き、またこれから来る世で安全で穏やかに過ごすために、わたしを信じている。何人もの人たちが地獄の苦しみを避け、天国の祝福を受け取るためにわたしを信じている。何人もの人たちが一時的慰めのためだけにわたしを信じ、来世で何かを得ることなど求めずにいる。わたしが激しい怒りを人にもたらし、人が本来持っていたすべての喜びと平安を押収したとき、人は疑い深くなった。わたしが人に地獄の苦しみを与え、天国の祝福を取り戻したとき、人の恥辱は怒りに変わった。人がわたしに癒してくれるように頼んだとき、わたしは彼を気にかけることもせず嫌悪を感じた。人は代わりに邪悪な医術や魔術という方法を求めてわたしから離れた。人がわたしに要求したものすべてを取り除いたとき、人は形跡も残さず消えた。だから、わたしがあまりにも多くの恵みを与え、わたしから得るものがあまりにも多くあるので、人はわたしに信仰を持っていると言おう(『神の出現と働き』「あなたは信仰について何を知っているか」〔『言葉』第1巻〕)。前にこれを読んだ時は、神の御言葉は事実だと言うだけで、心から理解してなかった。何年も神を信仰し、仕事や家族を捨て、自分を費やし、本分のために苦しんだ私は、試練を迎えても、神を責めたり裏切ったりしないと思ってた。でも病の試練を与えられ、神を誤解し、責めたの。祝福されたい、神と取引をしよう、という動機が明るみに出されたわ。その時初めて、人を暴露する神の御言葉を完全に確信し、信仰で求めるものへの見方が変わったの。

2018年7月のある日、左胸に小さく固いしこりがあることに気づいた。あまり気に留めず、抗炎症薬を飲めば消えると思った。でもそれから2カ月で状態は悪化して、寝汗をかき、体力は落ち、しこりの周辺はひどく痛み、どこか悪いのかしらと思ったけど、きっと大したことないと自分を慰めたわ。神を信仰しているし、毎日教会で忙しく本分を尽くしていたから、神が守って下さると思った。でもある夜、鋭い痛みで目が覚めると、胸からは黄色い液体。何かおかしいと確信し、夫と病院へ急ぎ、検査を受けたの。検査の結果は、乳がん。医者の言葉を聞いてドキッとした。「乳がん? まだ30歳すぎなのに! どうして?」そして自分に言い聞かせた。「まさか、こんなこと起きるわけない。私は神を信じ、何年も教会で本分を尽くしてきた。神は私を守って下さるわ。医者の誤診よ」。うそであればいいと願った。その日、病院からどうやって帰ったかもわかりません。夫は、ぼうぜんとした私をなぐさめようと、こう言いました。「小さな病院は医者のレベルも低い。誤診かも。大きな病院でもう一度検査しよう」。その言葉に、少し希望を抱きましたが、大病院の医師が下した診断は、やはり乳がんでした。中期から末期の状態なので、入院して化学療法と手術をしないと、命が危ないとも言われた。頭が真っ白になり、心が沈んだ。「一体いくらかかるのかしら? 治療の途中で死んだら? 多額の借金を背負って、家族はどうなるの?」絶望感と無力感に襲われたわ。

最初の化学療法のあとは、体中が痛くて何をする気にもなれず、常にだるく、数日後に薬の効果が消えて、やっと体が回復し始めた。長年神を信じ、本分のために犠牲を払い、自分を費やした。どんなことがあっても常に本分に取り組み、集会にも毎回出席した。問題を抱える兄弟姉妹をいつも助けた。こんなに努力したのに、なぜ神は守って下さらないの? 本分を尽くすこともできず、死に瀕している。神は私を排除したいの? 化学療法はあと5回、そして手術。どうすればいいの? 痛みや苦しみはともかく、もし死んだら、長年の信仰はすべて無駄だということ? そう考えると涙がこぼれた。数日のあいだ深く苦しみ、御言葉を読んでも心に届かず、祈ることもやめた。魂は暗くなり、神から遠ざかるばかりだった。

ある日、李姉妹が面会に来て、病気の具合を聞いてくれて、深く苦しみ、落ち込む私に交わってくれた。「神は人に病が降りかかることを許します。それは試練です。もっと祈り求めれば、その御旨を理解できるよう神は必ず導いてくださいます……」。「試練」という言葉に心を動かされた。神は私を排除したいのではなく、この試練を経験させたいのでは? 李姉妹が帰った後、私は神の御前に出て祈った。「神よ、病気になってから痛みに苦しむあまり、あなたを誤解し責めました。今日、これがあなたの試練だと姉妹が気づかせてくれた。でもこの状況をどう切り抜ければいいか、まだわかりません。御旨を理解できるようお導き下さい」。

それ以降、毎日神の御前に出てこのように祈りました。ある日、次の御言葉を読みました。「試練に入ることにより、愛も信仰もなく、祈りが欠如し、讃美歌を歌うことができない状態に陥る。そして気付かぬうちに、この真最中に自分自身を知る。神には人間を完全にする手段が多数ある。神はありとあらゆる環境を用いて人間の堕落した性質を取り扱い、様々な物事を用いて人間を暴き出す。神は、ある点に関しては人間を取り扱い、別の点に関しては人間を暴き、また別の点に関しては人間を明らかにし、人間の心の奥にある『奥義』を掘り出して明示し、人間にその数々の状態を明らかにすることにより本性を示す。神が実践的であることを人間が知ることができるように、神は暴露、取り扱い、精錬、刑罰など、様々な手段を通して人間を完全にする(『神の出現と働き』「実践に集中する者だけが完全にされることができる」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉をよく考えて、ついに神の御旨がわかってきたの。神は人を完全にするために終わりの日に働かれる。そのために神は、あらゆる状況を通して人の堕落した性質を暴く。そして御言葉の裁きと暴きにより、サタン的性質を理解させ、真理を求め実践させ、最終的に堕落した性質を清め、変えさせる。私が病になるのを神が許したのは、私を排除するためでも、故意に傷つけるためでもなく、私を清め、変えるため。神を誤解したり、のたうち回ったりするのではなく、神に従い、病についての真理を求め、自分を振り返り理解しなくては。神の御旨を理解すると、気分の落ち込みや痛みが和らいだわ。私は神に服従の祈りを捧げた。

祈り終えると、次の御言葉が頭に浮かんだのです。「あなたの追求は、ただ快適に暮らすためであり、自分の家族に事故が起こらないこと、風が自分に当たらないこと、顔に砂がかからないこと、……」急いで御言葉の本を調べ、次の一節を見つけました。「あなたは、神への自分の信仰が、どんな困難や患難も、あるいは僅かの苦難も招かないことを望む。あなたは、常にそれらの価値の無いものを追い求め、いのちの価値を全く認めず、自分の途方もない考えを真理よりも優先している。あなたには何の価値も無い。……あなたが追い求めているのは、神を信じた後に平和を得ることができるようになること――つまり、自分の子が病気にかからないこと、自分の夫が良い職に就くこと、自分の息子が良い妻を見つけること、自分の娘がしっかりした夫を見つけること、自分の牛や馬がうまく土地を耕すこと、一年間、作物に適した気候となることなどである。これが、あなたの求めることである。あなたの追求は、ただ快適に暮らすためであり、自分の家族に事故が起こらないこと、風が自分に当たらないこと、顔に砂がかからないこと、家族の作物が洪水に遭わないこと、自分が災害を受けないこと、神に抱かれて生きること、居心地の良い住処で生活することである。常に肉を求める、あなたのような臆病者には、心や霊があるだろうか。……あなたは、このような経験を続けるならば、得る物は何もないのではないか。真の道はあなたに与えられているが、最終的にあなたがそれを得られるかどうかは、あなた個人の追求によって決まる(『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉が暴露したのはまさに、信仰により祝福を得たいという私の欲望だった。これまでの信仰を振り返ると、家庭は円満で体も健康で、すべてが順調だった時は、積極的に本分を尽くし、力が無限に湧き出るようだった。でもがんになってからは、消極的になり、神を誤解し、私を守ってくれないことを責めた。これまでの働きを利用して神に反論し、多くの年月を犠牲にしたことを後悔さえした。神を遠ざけ、裏切った状態で生きていたのです。病気になり、精錬と暴露を経験して初めて、自分が本分を尽くし犠牲を払ってきたのは、真理を求めるためでも、被造物の本分を果たすためでもなく、平安と祝福を得るためだと知った。神と取引をし、犠牲を払った見返りに、祝福を受けようとしたの。この世でのすべてと、来世での永遠のいのちを求めた。がんになり、祝福を受けずに死ぬかもしれないと思い、不公平だと神を責めた。人間性のかけらもなかった。これまでの信仰を思うと、神から多くの恵みと祝福を受け、真理により、水と糧を豊富に与えられた。神から多くを与えられたのに、その愛に報いるなんて考えたこともなかった。病気になって、神への服従心が消え、神を誤解し責めた。良心や理知を完全に欠いていたわ。そしてやっとわかった。私が病気になるのを神が許したのは、私の信仰における祝福への動機と、追求への間違った観点を、暴露し清めることで、真理を求め、自らの性質の変化を求めさせるためだと。神の善意を理解した私は、後悔し、自分を責め、静かに決意した。「完治してもしなくても、金輪際神に無理な要求はしない。神の手に生死を委ね、その采配に従う」と。それ以降、心が穏やかになり、不安や苦痛が消え、静かに御言葉を読み、祈り、神を求められたわ。

服従すると決めてからは、化学療法が以前より辛くなくなり、まだ吐き気はするものの、それ以外は正常で、他の患者に驚かれ、羨ましがられたの。これは完全に神の憐れみと庇護だと確信したわ。神に深く感謝した。数回の化学療法のあと、卵サイズの腫瘍が縮み、痛みも和らぎ、体液もにじまなくなった。医師からは、順調に回復していて、この調子でいけば、6回の化学療法のあと、手術は不要かもと言われた。それを聞いてとてもうれしくて、神に感謝し続けた。神への信仰心はますます強くなり、懸命に自分を振り返り、理解しようとすれば、手術なしで完治するのでは、と思った。

3月、最後の化学療法の日。緊張しながらも少し期待していたのに、治療のあとで医師から、やはり手術は必要で、その後化学療法を2周期、そして放射線治療になると言われた。心が深く沈み、頭がぼんやりとしたわ。「なぜなの? 反省すべきことは反省し、理解すべきことは理解した。なぜよくならないの? 大手術を受ければ傷跡も残るし、必要になる化学療法も放射線治療も相当辛い。それにまだ死ぬ可能性もある……」。悲しみにうちひしがれ、体中から力が抜け、理不尽さに涙がこぼれた。手術後の夜、麻酔が切れると、傷口が涙が出るほど痛み、深呼吸もできず、ひどい無力感と理不尽さを覚えました。あまりにも辛すぎる。一体いつまで苦しめばいいの? 苦しみながら、この御言葉を読みました。「すべての人にとって精錬は耐え難く、非常に受け入れ難いものであるが、神が自身の義なる性質を人に明らかにし、人に対する要求を公にし、より多くの啓き、そしてより現実的な刈り込みと取り扱いを与えるのは精錬のさなかである。事実と真理の比較を通じ、神は自己と真理に関するより大きな認識を人に授け、神の旨をより深く理解させ、そうしてより真実かつ純粋な神への愛を人が抱けるようにする。それらが精錬を実行する神の目的である。人の中で神が行なうすべての働きには固有の目的と意義がある。神は無意味な働きをせず、人に恩恵がない働きもしない。精錬とは人々を神の前から取り除くことでなく、地獄で人々を滅ぼすことでもない。それはむしろ、精錬のさなかに人の性質を変え、その人の意図や従来の見方を変え、神に対する愛を変え、生活を変えることを意味する。精錬は人に対する実際の試練の一つであり、実際の鍛錬の一形態であって、精錬のさなかでのみ人の愛はその本質的な機能を果たすことができる(『小羊に従って新しい歌を歌おう』)。一語一句が心に届き、深く感動したわ。このような精錬により、私は自分を真に理解し、真理を求め、堕落した性質を清め変えられる。それが神の御旨だとわかったの。信仰において祝福を求めてはいけないとは気づいたけど、祝福への動機を完全に捨ててはいなかった。心の奥底に、まだ神への無謀な要求が残っていた。反省し、自分を少し理解したら、神が病気を治して下さると思ってた。反省と自己理解は、個人的な動機に汚され、神と取引しようという気持ちを覆い隠しただけだった。真の意味で悔い改めていなかった。神が私の考えを吟味し、病を使って私を暴露し、さらに反省させ、真に悔い改めさせたのは、私への愛だったのです。その後、神に祈りました。「神よ、今はあなたの御旨がわかります。私個人の選択や要求を捨て、あなたが取り計らった状況で真理を求めたいのです。お導き下さい」。

数日後、この御言葉を読みました。「神を信じ始めるとき、目的も動機も野心もない人がいるでしょうか。一部の人は神の存在を信じ、神が存在するのを見たかもしれませんが、神に対する彼らの信仰にはやはり動機があり、神を信じる究極の目的は祝福と自分の望むものを得ることです。……誰もが心の中で常にそのような計算をし、自分の動機、野心、そして取引を好む心構えにかなう要求を神にします。つまり、人間は心の中で常に神を試み、神に関する計画を絶えず練り、自分個人の結末のために絶えず神に対して弁護を行ない、神からの弁明を引き出そうとし、自分のほしいものを神が与えられるかどうかを見ているのです。人間は神を追い求める一方で、神を神として扱いません。神と取引しようといつも試み、絶えず神に要求しつつ、一つ与えられればその次は十を取れるよう、事あるごとに神に強要さえします。人間は神と取引しようと試みながら、同時に神と口論もし、中には試練が降りかかったり、ある種の状況に置かれたりするとしばしば弱くなり、働きの際に消極的になって怠けるようになり、神に対する不満で一杯になる人さえいます。人は神を信じ始めた時から、神を豊穣の角や万能ナイフのように考え、自分は神に対する最大の債権者だと見なしてきました。それはあたかも、神から祝福と約束を得ようとするのが自分の当然の権利と義務であり、神には人を守って労り、施す責任があると言わんばかりです。神を信じるすべての人にとって、『神を信じる』ということの基本的な理解はそのようなものであり、それが神への信仰の概念に関する最も根深い認識なのです。人間の本性の本質からその主観的な追求に至るまで、神への畏れに関係することは一切ありません。人が神を信じる目的は、神を礼拝することとは何ら関係ないのです。つまり人は、神への信仰には神に対する畏れと神を礼拝することが必要だとは、考えもしないし理解もしないのです。このような状況を考えれば、人間の本質は明らかです。その本質とは何ですか。人間の心は邪悪で、不実と偽りを抱き、公正と義、および肯定的なものを愛さず、卑劣で貪欲だということです。人間はこれ以上神に心を近づけることができません。神に心を捧げてなどいないのです。神が人の本当の心を見たことはなく、人間に礼拝されたこともまったくありません(『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」〔『言葉』第2巻〕)。これを読み、とても恥ずかしかった。神の御言葉は、私の真の状態を的確に示したの。何年も神を信仰して、いつも神と取引したい、祝福されたいと思っていた。神を信じ、常に教会で本分を尽くし自分を費やしたのだから、神は私を守り、あらゆる病や災いを遠ざけてくれるはず。それが当然だと思った。自分ががんだと知ったとたん、神に不満を言い、これまでの苦しみと犠牲を盾に、神に意見しようとした。病状が改善すると、口では感謝を述べながら、心ではもっと多くを求めた。これ以上苦しまないよう、病を完治させてほしかった。この無謀な願いがかなえられなかった時、悪魔のような本性が再び頭をもたげ、神を責め、意見しようとした。まさにこの御言葉が示す振る舞いだわ。「人間性が欠如している者は、神を真に愛することができない。状況が安全で平穏な時、あるいは彼らが利益を得られる時は、彼らは神に対して完全に従順であるが、一旦自分の望みが損なわれたり、最終的に否定されたりすると、彼らは直ちに反乱を起こす。ほんのひと晩のうちに、彼らは、にこやかで『心優しい』人間から、醜く残忍な死刑執行人となり、何の根拠も無く、昨日までの恩人を生かしておけない敵として扱う。瞬きもせずに殺しを行うこれらの悪魔らが追放されていないなら、それらは隠れた危険になるのではなかろうか(『神の出現と働き』「神の働きと人間の実践」〔『言葉』第1巻〕)。心が打ちのめされた。何年も神を信じていたのに、神を崇めず、神に従っていなかった。神を腕のいい医者や避難所のように扱い、自分の目的達成のために利用し、平安な人生と、将来の祝福を得ようとしていた。私の信仰は、厚かましく、打算的で、恵みや祝福を得るために神を利用していたの。神を騙し、抵抗していたに他ならない。自分がいかに利己的で、欺瞞に満ち、人間性を欠き、サタン的性質を生きていたかがわかった。神にどれほど嫌われ、憎まれていたことか!

そして次の御言葉を読んだの。「ヨブは神に取り引きを持ちかけることも、願い事や要求をすることもありませんでした。ヨブが神の名を称えたのは、万物を支配する神の偉大な力と権威のためであり、祝福を得たかどうか、災いに遭ったかどうかに左右されるものではありませんでした。神が人々に祝福をもたらすか、それとも災いをもたらすかに関係なく、神の力と権威は不変であり、ゆえにその人の状況に関係なく神の名は称えられるべきだとヨブは信じていました。人が神に祝福されるのは神の主権のためであり、人に災いが降りかかるのもまた、神の主権のためなのです。神の力と権威は人間に関する一切のことを支配し采配します。人間の運命が流転するのは神の力と権威の現われであり、人がどう見るかにかかわらず、神の名は称えられなければなりません。それが、自らの人生においてヨブが経験し、悟ったことです。ヨブの考えと行ないはすべて神の耳に届き、明らかにされ、重要なものと見なされました。神はヨブのこの認識と、ヨブがそのような心をもつことを大切に思いました。ヨブの心は絶えず神の命令を待っており、そして時間や場所に関係なく、あらゆるところで自分に何が起ころうとも、そのすべてを歓迎しました。ヨブが神に何かを要求することはなく、神から来るすべての采配を待ち、受け入れ、それに向き合い、従うことを自分に課しました。ヨブはそれを自分の本分だと信じていましたが、それこそ神がヨブに望んでいたものです(『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」〔『言葉』第2巻〕)。深く感動し、御言葉についてよく考えたわ。神は創造主。人に恵みと祝福、そして裁きと刑罰、試練と精錬を与える。神は私たちを愛しているから、試練を与えるのでは? 神によって、大きな富を与えられたヨブは、神に感謝し称えた。でも物質的な豊かさを求めず、神が全てを奪った時も、このように言って神の御名を称え、試練に耐えた。「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」(ヨブ記 2:10)自分の所有物はすべて神が与えたものであり、与えようと奪おうと神は義であると、ヨブは知っていた。ヨブの信仰は、個人的な動機に汚されず、受けるものが祝福か災いかは考えなかった。神が何をしても、決して不満を言わず、被造物としての立場をわきまえ、神を崇め、神に従った。ヨブの人間性と理知を知り、恥ずかしくなった。私のもつものはすべて、呼吸でさえも、神から与えられたもの。でもそれに少しも感謝せず、病気になった時は神を責めた。良心も理知もなかった! 神を信じながら、神のことも、神の御前での自分の正しい位置も、創造主への服従の仕方も、わかっていなかった。自分の観念と想像で、打算的に神を信仰し、試練に直面すると神に不満を言い、抵抗した。それでも、神の祝福と恵みを求め、神の国に入ろうとした。なんて恥知らずでしょう! たとえあの時死んだとしても、それは私の反抗心と堕落に対する神の義だった。ヨブの体験に実践の道を見いだしたわ。闘病がどれだけ長引こうとも、完治してもしなくても、神の支配と采配に従うことだけを願う。これが被造物である私がもつべき理知です。そう考えると、とても安心したの。

そしてあっという間に放射線治療の日が来た。他の患者の話では、放射線治療は肉体的に辛く、体がボロボロになり、ずっとめまいや吐き気がし、味覚もなくなる。それを聞いて、この状況から救うよう、また神に要求しそうになった。でもすぐに自分の状態が間違っていると気づき、神に祈ったの。その時、神の御言葉の讃美歌の一部が頭に浮かんだわ。「造られた者として自分を造った主に従うべきである。これは、あなたが元々自分を支配することができず、自分の運命を決める能力も持ち合わせていないからである。あなたは神を信じる者である以上、聖さと変化を追い求めるべきなのである(『小羊に従って新しい歌を歌おう』)。この状況を使って神が私を試していること、無理なお願いをして神をこれ以上傷つけるべきでないこと、神の采配に従うべきであることがわかったの。ひとたび神に従うと、毎日放射線治療を受けて、体はあちこち痛かったけど、他の患者がいうほどは辛くなくて、神が私を憐れみ、守っているとわかった。放射線治療の後は、みるみる回復し、見た目も体調もよくなりました。教会の兄弟姉妹にもがん患者には見えないと言われた。そしてしばらくして、再び本分に復帰できたの。この経験を通して、神への信仰心が強まり、本分を尽くす機会を大切に思うようになったわ。

あれからほぼ2年。闘病した10カ月のことを思うたび、まるで昨日のことのように感じます。肉体的には多少苦しかったけど、祝福を望む自分の動機や、求めるものが間違っていたことが分かった。信仰では真理を求め、神に従うべきだと今はわかるわ。祝福を受けようが、災いが降りかかろうが、常に神の指揮、支配、采配に従わなければ。これが、被造物がもつべき理知です。人生がすべて順調だったら、決して理解できなかったでしょう。これは神が私に与えた、いのちの財産です。全能神に感謝!

次へ: 神の救い

信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。

関連記事

お人好しは神に称えられるか

リン・イー 中国  信者になる以前、わたしは他の人を怒らせまいといつも気をつけ、誰とでも仲良くしていました。困っている人を見るたびに手助けしましたし、自分はよき人間性を持つ善人だと思っていたのです。しかし神の御言葉による裁きと刑罰を経験して初めて、自分は他者との関係を守ろうとする…

心の結び目をほどく

中国 春雨 去年の春、教会で伝道の本分を尽くしていたとき、ワン姉妹が福音執事に選ばれ、本分についてみんなで連絡を取り合うことになったの。しばらくして、彼女はずけずけものを言う人だとわかった。わたしに問題があると、厳しめの口調で直接言うの。働きの反省会をするときも、兄弟姉妹の目の前…

身勝手に働いた末の結果

2016年、教会指導者に選ばれたけど、最初のころは強いプレッシャーを感じた。真理を理解せず、洞察力もないから、兄弟姉妹が問題に見舞われても、交わりで助ける方法がわからない。本分の割り当てでも原則をどう考慮すべきかわからず、いつも神に祈って真理を求め、原則を把握しようとしたし、わか…

神の言葉が私を覚醒させた

私は以前、神様が「偉大な白い玉座から逃げる操り人形であり裏切り者である」とおっしゃったのは、終わりの日の神様の働きを受け入れるものの、その後あとずさりする人を指しているのだとばかり思っていました。それ故、どんな理由であれ兄弟姉妹たちがこの道から退くのを見るといつでも、私の心は彼ら…

コメントを残す