モアブの子孫の試練

2021年1月30日

全能神は言われます。「今日なされるすべての働きは、人が清められて変わるためのものである。言葉による裁きと刑罰、そして精錬を通じ、人は自分の堕落を一掃して清められることが可能になる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言ったほうが適切だろう。事実、この段階は救いの働きの第二段階であるとともに征服の段階でもある。人は言葉による裁きと刑罰を通じて神のものとされる。また言葉を用いて精錬し、裁き、露わにすることで、人の心にある汚れ、観念、動機、そして個人的な願望がすべて完全に暴かれる(『神の出現と働き』「受肉の奥義〔4〕」〔『言葉』第1巻〕)。「今モアブの子孫に働きを行なうことは、最も暗い所へ落ちた者を救うことである。モアブの子孫は呪われたが、神は彼らから栄光を得ることをいとわなかった。なぜならモアブの子孫は皆、当初は心に神のいない者だったからである。心に神のいない者を神に従い神を愛する者にすることだけが真の征服であり、そのような働きの成果が最も価値があり、最も説得力がある。それだけが栄光を得ることであり、それが終わりの日に神が獲得したい栄光である。地位が低いものの、その人たちが今そのような偉大な救いを得られることは、まさに神に高く揚げられることである。この働きは極めて意義深く、神は裁きを通してこの人たちを獲得する。神の意図は彼らを罰することではなく、救うことである。もしも終わりの日に、神が依然としてイスラエルで征服の働きを行なっていたならば、それは無価値である。たとえその働きに成果があったとしても、少しの価値も大きな意義もなく、神は全ての栄光を得られないであろう(『神の出現と働き』「モアブの子孫を救うことの意義」〔『言葉』第1巻〕)。この御言葉を聞くと、「モアブの子孫としての試練」のことを考えます。

1993年、全能神は「征服の働きの内幕(2)」と、「人の本質と地位」を表し、中国における神の選民はすべて、モアブの子孫だと示しました。そのとき私は、この御言葉を読みました。「モアブの子孫は世界の民族の中で最も卑しい。『ハムの子孫が最も卑しいのではないのか』と尋ねる人がいる。赤い大きな竜の末裔とハムの子孫はそれぞれ異なる意義を表しており、ハムの子孫のことは別の話である。彼らがどのように呪われていようと、彼らはそれでもノアの子孫である。一方、モアブの血筋は純粋ではない。彼は姦淫によって生まれた。そこに違いがある(『神の出現と働き』「征服の働きの内幕〔2〕」〔『言葉』第1巻〕)。「わたしが救うのは、わたしが遥か昔にそのように運命づけた者たちであり、わたしによって贖われた者たちである。しかしあなたがたは、例外として人間の中に置かれた貧しい魂の者たちである。あなたがたはダビデやヤコブの家ではなく異邦人の部族であるモアブに属する者だということを知るべきだ。わたしはあなたがたと契約は結ばず、あなたがたの中で業を行い、語り、導いたのだ。わたしの血はあなたがたのためには流されなかった。わたしの証のためだけに、わたしは自分の業を行ったのだ。あなたがたはそれを知らなかったのか(『終わりの日のキリスト講話集』「どのようにして人間の本性を知ればよいか」〔『言葉』第3巻〕)。私は、とても驚きました。「私たちがモアブの子孫? 本当に? モアブはロトとその娘の子で、淫行の産物であり、その出自は清らかではない。なぜ私たちが、そんなモアブの子孫なの? 主への信仰においては、イスラエルの子孫やヤコブの末裔と言われていたのに、なぜ神は、私たちがモアブの子孫などと言うの?」受け入れたくなかったですが、こう思いました。「神の御言葉はすべて真理で、神は事実しか示さない。これは間違いではないはず! なぜ私はモアブの子孫で、なぜ中国で生まれたの?」私は、神の裁きと刑罰を最初に経験し、終わりの日の神の裁きと清めの働きを最初に受け、災害の前の模範的信徒である勝利者となるべき者。私の地位は、他のどの国の選民より高いはず。しかし驚くべきことに私はモアブの子孫であり、神に呪われるばかりか、淫行の産物だった。全人類のなかで最下層に位置し、最もいやしい存在だった。これを未信者が知ったら、私はどう思われるか。信仰を持たない私の家族は、なんと言うか。信仰のために家も仕事も捨て、苦しみに耐えたのに、結局、私はモアブの子孫に過ぎなかった。これ以上の辱めはありません。この苦しみを誰にも言えませんでした。当時は、自分がモアブの子孫であり、淫行の産物だと思った瞬間、恥ずかしくて、顔を上げられませんでした。何日も家にこもり、食事も睡眠もとらず、家事をする気も一切湧きませんでした。私の心は不満であふれました。「なぜ私がモアブの子孫なの? なぜ私の出自と身分は、こんなにいやしいの?」と。それはまるで、裕福な一家で育ち、高貴な家柄に誇りを持っていたのに、ある日突然、自分が拾われてきた身であり、血統が違うと告げられたかのようだった。悲しみ、無力感、失意に苦しみ、この事実を受け入れられなかった。不満、否定、誤解が心にあふれ、「モアブの子孫の私は呪われている、神に救ってもらえない」と思いました。考えるほどに恨みが募り、大きなおもしに胸を圧迫されたかのようで、うまく息ができませんでした。こっそり1人で、トイレで泣いたものです。当時は、みんなが苦しみを抱え、この話になるやいなや泣きだす者もいて、この賛美歌そのものでした。「モアブの子孫が苦悩に嘆く。悲しい泣き顔で、御言葉の裁きに恐怖で震える。涙ながら肉は裁きの火にさらされる。モアブの子孫が苦悩に嘆く。厳しい裁きで地獄へ送られ、苦痛と刑罰が降りかかる。試練と絶望の中あなたを求め、より自らを憎む。あなたを信じてもあなたに属さないなら悲劇だ。自責の念に涙し、胸を叩く。火の試練に苦しみながら」(「モアブの子孫の神への賛美」『小羊に従って新しい歌を歌おう』)

この苦しみを抱えているときに、全能神が「モアブの子孫を救うことの意義」を表されました。私たちの状態を示し、神の御旨を告げる御言葉です。その御言葉を読みますね。「当初、わたしがあなたがたに神の民の地位を与えた時、あなたがたは飛び跳ねて誰よりも喜んだ。しかし、あなたがたはモアブの子孫であるとわたしが言った直後は、あなたがたはどうであったか。あなたがたは皆取り乱した。あなたがたの霊的背丈はどこにあるのか。あなたがたの地位についての観念は強過ぎる。……不当に扱われているとそれほど感じるくらいに、どのような苦難を耐え忍んできたというのか。神はあなたがたを断罪するために来たかのように、ある程度まであなたがたを苦しめたら神は満足し、あなたがたを断罪し滅ぼせば、神の働きが完了すると思っているのか。そんなことをわたしは言ったか。あなたがたの盲目さゆえに、そう思っているのではないのか。それは、あなたがた自身がよく努力しないということなのか、それともわたしが故意にあなたがたを断罪するということなのか。わたしはそのようなことをしたことはなく、それはあなたがたが勝手に考え出したことである。わたしはそのように働いたことは一度もなく、そうしようという意図もない。わたしが本当にあなたがたを滅ぼしたいならば、それほど苦しむ必要があるだろうか。わたしが本当にあなたがたを滅ぼしたいならば、こんなに熱心にあなたがたと話をする必要があるだろうか。わたしの心意はこうである。わたしがあなたがたを救った時が、わたしが休むことのできる時である。ある人が賤しければ賤しいほど、その人はそれだけさらにわたしの救いの対象となる。あなたがたが積極的に入ることができればできるほど、わたしは喜ぶ。あなたがたが取り乱せば取り乱すほど、わたしは不愉快になる。あなたがたはいつも気取って王座に就きたがる。言っておくが、それはあなたがたを穢れから救う道ではない。王座に就くことを妄想しても、あなたがたは完全にされることはありえない。それは非現実的である(『神の出現と働き』「モアブの子孫を救うことの意義」〔『言葉』第1巻〕)。これを読み、深い罪悪感を覚えました。私たちは神の国の民となり、勝利者として模範とされる。そう神がおっしゃったことで、私はごう慢になり自分を見失っていた。最初に神の裁きと刑罰を受け入れ、最初に神に完全にされるのだから、自分は他の国の神の選民よりも高い地位にいるはず。そうおごり高ぶり、うぬぼれていた。私たちがモアブの子孫だと神が示したことで、自分の出自がいやしく、神に呪われていることが分かりました。神に救われないと思い、落ち込み、その状態から抜け出せなかった。地位への欲が強すぎるうえ、霊的背丈が小さすぎたのです。神は、私たちがモアブの子孫であると示したものの、救済しないとは言っていません。神は、赤い大きな竜の国で受肉し、私たちを裁き、罰し、水を与え、養うために真理を表したのです。最も汚れ堕落した私たちに、救いの機会を与えるために。すべては神の善意によるのです。でも私は、神の御旨を理解しなかった。モアブの子孫などという、いやしい汚れた人間は、神に最も憎まれ、いとわれるべきで、神に救われることはないと考えました。勝手に誤解し、不満を抱え、否定的になり、神に反抗した私は、本当に理不尽です。そのあとすぐ、次の御言葉を読みました。「たとえモアブの子孫であることを無視しても、あなたがたの本性や出生地は最高のものなのか。モアブの子孫であることを無視しても、あなたがたは皆、あらゆる点でモアブの子孫なのではないのか。事実の真相を変えることができるのか。今あなたがたの本性を暴露することは、事実の真相を不正確に伝えることになるのか。自分の卑屈さと生活と人格を見てみなさい。あなたがたは自分が人類の最低層で最も賤しいことを知らないのか。何か自慢すべきことがあるのか。社会におけるあなたがたの地位を見てみなさい。最低の地位にいるのではないのか。あなたがたは、わたしが失言したとでも思っているのか。アブラハムはイサクを捧げた。あなたがたは何を捧げたのか。ヨブは全てを捧げた。あなたがたは何を捧げたのか。幾人もの人が、真の道を追求するために生命を捧げ、首を差し出し、血を流してきた。あなたがたはそのような代価を払ったのか。比べると、あなたがたにはそのような大きな恵みを享受する資格は全くない。あなたがたがモアブの子孫であると今日言うことは、あなたがたを中傷することになるのか。自分を過大評価してはならない。あなたが自慢できることは何もないのである。このような大きな救いと豊かな恵みが、無償であなたがたに与えられている。あなたがたは何も犠牲にしていないのに、恵みをただで享受する。恥ずかしくないのか(『神の出現と働き』「モアブの子孫を救うことの意義」〔『言葉』第1巻〕)。神の問いの1つひとつが私の心の扉をたたいた。とても恥ずかしく、いたたまれない気持ちでした。歴代の聖徒たちは、神に尽くし従い、過酷な試練を与えられても神を恨まず、神の証しを立て、神の承認と祝福を得た。アブラハムは神の命令に従い、最愛の息子イサクを神にささげようとした。交渉も反論もせず、絶対的に神に従った。ヨブが試練を与えられたときは、財産と子どもをすべて失い、全身をできものに覆われた。それでも神をたたえて言いました。「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ。ヤーウェのみ名はほむべきかな」(ヨブ記 1:21)。私はこの赤い大きな竜の国に生まれ、幼き頃から無神論、進化論、そして唯物論の教育を受けました。神の存在はおろか、神をあがめる方法も知らず、ただ神の恵みと祝福のためだけに神を信仰した。いずれは天国に入り、望ましい終着点にたどり着くと信じていた。試練に直面した私は、地位も失い、祝福も得られず、誤解し、不満を覚え、否定的になり、神に反抗しました。真に従順ではなく、神を神として扱っていませんでした。これまでの信仰において、私は神の御言葉の栄養を自由に享受し、神の働きに一歩ずつ導かれていた。なのに、本分を尽くして神の愛に報いることもせず、見返りに神に与えたものは、誤解と不満、反逆と抵抗だけ。なんという信徒だったのでしょう。それでも、自分は神のちょう愛を受けた重要な存在だと信じていました。あらゆる国の神の選民の中で最も地位が高く、神の褒美と祝福に最も値する存在だと。ごう慢で右も左も分からず、まったく自己認識がなかった。私のいやしい汚れた出自を、神が示さなければ、いまだに私は自分がヤコブの12部族の末裔で、イスラエルの子、ダビデの子孫だと信じていたでしょう。なんと恥知らずなこと! 自分の身分と地位を知った今、でしゃばることも、横柄な態度もやめました。神の御前で、いくらかの理知も得ました。私への神の救いです! 私は、神への行き過ぎた要求を捨てるべきです。結果や終着点が望ましくなくとも、神の采配に従い、神の義をたたえます。

その後、全能神の御言葉をもっと読み、モアブの子孫における神の働きの意義への理解を深めました。そして神の御言葉が示すことを理解しました。「今モアブの子孫に働きを行なうことは、最も暗い所へ落ちた者を救うことである。モアブの子孫は呪われたが、神は彼らから栄光を得ることをいとわなかった。なぜならモアブの子孫は皆、当初は心に神のいない者だったからである。心に神のいない者を神に従い神を愛する者にすることだけが真の征服であり、そのような働きの成果が最も価値があり、最も説得力がある。それだけが栄光を得ることであり、それが終わりの日に神が獲得したい栄光である。地位が低いものの、その人たちが今そのような偉大な救いを得られることは、まさに神に高く揚げられることである。この働きは極めて意義深く、神は裁きを通してこの人たちを獲得する。神の意図は彼らを罰することではなく、救うことである。もしも終わりの日に、神が依然としてイスラエルで征服の働きを行なっていたならば、それは無価値である。たとえその働きに成果があったとしても、少しの価値も大きな意義もなく、神は全ての栄光を得られないであろう。……今日モアブの子孫であるあなたがたに働きを行なうことは、故意にあなたがたを辱めるためではなく、働きの意義を明らかにするためである。それはあなたがたにとっては、大いに高く揚げられることである。理知と識見を備えている者ならば、次のように言うだろう。『私はモアブの子孫の一人で、今このように神に大いに高められたり、このような大きな祝福を受けたりするに値しない。私のあらゆる言動において、また私の地位と価値に基づけば、私は絶対そのような大きな祝福を神から受けるに値しない。イスラエル人には神への大きな愛があり、彼らが享受する恵みは神が授けるものだが、彼らの地位は私たちよりも遥かに高い。アブラハムはヤーウェにとても献身的であり、ペテロはイエスにとても献身的であった。彼らの献身は、私たちの献身の百倍であった。私たちの行動に基づけば、私たちは神の恵みを享受するに全く値しない』」(『神の出現と働き』「モアブの子孫を救うことの意義」〔『言葉』第1巻〕)。「モアブの子孫は呪われて、この遅れた国に生を受けた。モアブの子孫は間違いなく、闇の影響を受けた人々の中でも最低の地位にある。この人々はこれまで最低の地位にあったからこそ、彼らに対して行われる働きは人間の観念を最も効果的に打ち砕くことができるのであり、また同時に神の六千年の経営計画全体にとって最も有益な働きとなる。この人々の間でこうした働きを行なうことは、人の観念を打ち砕くための最良の方法であり、神はこの働きによってひとつの時代を開始する。これにより神は人の観念をすべて打ち砕き、恵みの時代全体の働きを終える。神の最初の働きはユダヤで、イスラエルの境界の中で行われた。異邦人の諸国においては、神は新しい時代を始める働きを全く行わなかった。神の働きの最終段階は、異邦人の間で行われるだけでなく、呪われた人々の間で行われることがさらに重要である。この点はサタンに最も屈辱を与え得る証拠であり、それによって神は、全宇宙の被造物すべての神、万物の主、命あるすべてのものにとっての崇拝の対象になるのである(『神の出現と働き』「神はすべての被造物の主である」〔『言葉』第1巻〕)。私はかつて、神が誰を救うかは決まっていて、それは神の選民だという観念を持っていました。中国人はモアブの子孫であり、最も身分が低い。神に最も認められず、神に最も抵抗する。そうして神に呪われ拒絶されるのだから、絶対に救済されないと思っていた。でも神の行いは全く異なっていたのです。身分が低いからといって私たちを見捨てず、汚れて堕落しているからといって見限らなかった。神は受肉し、大きな屈辱と苦痛を背負い、モアブの子孫である私たちの中で働きを行われた。そして何度も、その御言葉で私たちを裁き、罰し、試し、精錬しました。すべては私たちを清め、救うため。神の愛は本当に偉大です! 主イエスが罪人と同じ食卓を囲んだように。私たちは汚れ、いやしくなるほどに、神の愛と救いの偉大さをより深く理解できます。サタンの闇の勢力に属し、最も堕落し汚れ、いやしい人間である私たちを、神は救おうとされるのです。それは神に対する栄光の証しのためでもあります。サタンには最大の屈辱です。これがモアブの子孫における神の働きの意義です! そして、終わりの日のモアブの子孫への神の働きは、私たちの観念をすべて打ち壊します。神はイスラエルの民の神であるだけでなく、あらゆる被造物の神です。生まれついた家柄、国、民族、イスラエルの民であるか、モアブの子孫であるか、神に祝福されているか、呪われているか。それは神には関係ないのです。被造物として、真理を追求し、神の働きに従う限り、神に救済されます。神は、すべての被造物に対して公平で正しく、すべての被造物に救いの機会を与えます。神の御言葉を考えるほどに、モアブの子孫における神の働きの意義と、堕落した人類に対する神の愛と救いを感じました。残念ですが、私の素質は低く、神の働きへの理解にも限界があります。私の感覚と理解はお話できても、優れた証しを立てることはできない。神への負債が本当に大きい。

それを振り返ると、モアブの子孫としての試練を経験し、多少苦しみましたが、自分の身分と価値を知ることができました。人類を救う神の働きと義なる性質を多少理解し、ごう慢さとうぬぼれを改められました。私は、いやしく堕落した身。神の愛と救いに値しない。金輪際、神に身の程知らずな要求はしません。神がどのように私を扱い、何を采配しようとも、喜んで受け入れ従います。神の御言葉の裁きと刑罰を誠実に受け入れ、いのちの性質の変化を追求したい。モアブの子孫であっても、真理を追求し、神の証しを立てねばなりません。「私たちはイスラエル人ではなく、見捨てられたモアブの子孫だ。またペテロでもなく、彼の素質に私たちは及ばない。またヨブでもない。神のために苦しみ、神に自らを捧げ尽くしたパウロの決意には匹敵することさえできない。そして、私たちはひどく遅れている。だから、私たちは神の祝福を享受する資格がない。それにもかかわらず、今日、神は私たちを引き上げた。だから私たちは神を満足させなければいけない。また、素質や資格が不十分であっても、私たちには神を満足させたいという思いがある。私たちにはその決意がある。私たちはモアブの子孫で、呪いを受けた。これは神の定めたことで、私たちには変えることはできない。しかし、私たちの生きざま、私たちの認識は変えられる。そして私たちは神を満足させようと固く心に決めている(「モアブの子孫がなすべき決意」『小羊に従って新しい歌を歌おう』)

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