心の解放

2021年1月30日

全能神は言われます。「神がこの時代に実行する働きは、主に、人間のいのちのための言葉を与えること、人間の本性の実質と、人間の堕落した性質を明らかにし、人間の知識と文化とともに、宗教的観念、封建的な考え方、時代遅れの考えを除くことである。これはすべて神の言葉によって露わにし、清めなければならない。世の終わりに、神はしるしや不思議ではなく、言葉を用いて人間を完全にする。神は言葉によって人間を露わにし、裁き、罰し、人間を完全にし、言葉の中に神の知恵と素晴らしさを見、神の性質を知り、言葉によって人間が神の働きを知るようにする(『神の出現と働き』「今日の神の働きを知ること」〔『言葉』第1巻〕)。「人々は、神を自分たちの現実の生活、自分たちの普通の人間生活に持ちこんで初めて神への信仰の正しい進路に入るだろう。今日、神の言葉はあなた方を導き、過ぎ去った時代のように探し求めたり、模索したりする必要はない。あなたがこれらの言葉に従って実践することができ、わたしが指摘した言葉に従って内省し、自分を判断することができれば、あなたは変ることができるだろう。これは教義ではなく、神が人に要求することである。今日、わたしはあなたに肝心なことを告げる。わたしの言葉に従って行動することだけに関心を持ちなさい。わたしがあなたに要求することは、普通の人々の必要性に従っており、わたしはすでにわたしの言葉をあなたに語った。あなたがそれを実践することに重点を置けば、神の心に従うことができるだろう。今日は神の言葉の中で生きる時代である。神の言葉はすべてを説明しており、すべては明らかにされている。神の言葉に従って生きる限り、あなたは完全に自由で、解放された生活を送るだろう(『神の出現と働き』「実践〔2〕」〔『言葉』第1巻〕)。かつて私は、いつも――嫉妬心を抱き、堕落した性質を持って生きていました。とても苦しい日々でした。それを克服することも、捨て去ることもできずにいました。人から笑われることに、言いようのない恐怖を感じました。耐え難いつらさでした。本当に苦しくて大変な時期でしたでも神の御言葉によって、サタンの性質の足かせを捨てることができました。そして、私の心は解放されたのです。

2016年10月のことです。私と夫は、終わりの日の神の働きを海外で受け入れました。その数カ月後のことです。一緒に神の働きを受け入れた姉妹である王さんが急成長していました。当時、彼女には優れた素質があると皆が称賛していたのを覚えています。ある集会のあと、林さんという姉妹がこう言いました。「神の御言葉を受け入れて理解したという王姉妹の今日の交わりは、どれも心からの言葉だった」「王姉妹の言葉には光がある。私にとって、とても役立つ話だった」そんな皆の言葉を聞いて、最初は王姉妹を非常にうらやましく思いました。でもしばらくすると、自分の中で不満が募り始めたのです。「なぜ皆は、私でなく王姉妹を褒めるの?」「私は全く成長してないの? 私の交わりは何か間違っていた?」次第に、彼女が私より優れているという事実を認めたくなくなり、ひそかに対抗心を抱くようになりました。「私だって、あなたのように神の御言葉について交われる。あなたを追い越す日がいつか来る」「神の御言葉から得た理解や知識を誰にも言わず、集会でしか話さないようにしよう」「そうすれば、私の交わりが役立つ優れたものだと皆は思うだろう」そう考えました。

それからしばらく――神の御言葉から得たものや理解したものは、すべて書きとめていました。そして集会の日になると、心の中で入念に考えました。交わりの中で、王姉妹のように分かりやすく――理路整然と話すには、どうすればいいか。でもなぜか――兄弟姉妹の注目を集めようとすればするほど、醜態をさらす結果になったのです。私の番になると――すぐに頭が真っ白になったり、うまく言葉が出てこなかったりしました。伝えたかった視点を、明確に話せませんでした。結局、恥ずかしい思いをして終わりました。ある日、帰宅後に夫に言いました。「神の御言葉について話す王姉妹の交わりには光があると聞くたび――」「嫌な気持ちになる…」すると私が言い終わらないうちに――夫は真剣なまなざしで言いました。「王姉妹の交わりには確かに光がある。僕たちにとって役立つ内容だ」「そのことについて、僕たちは神に感謝すべきだ」「君が嫌な気持ちになるのは、ただの嫉妬じゃないか?」その夫の言葉に、頬を打たれたような思いがしました。私は即座に首を振って否定しました。「違うわ。嫉妬なんかじゃない」すると夫は言いました。「兄弟姉妹は皆、王姉妹の交わりから喜びを得ている。なのに、君はそれを聞いて不快に思っている」「王姉妹が君よりも優れていることに嫉妬しているのだろう?」夫の言葉に、私はますます動揺しました。「自分はそんなに嫉妬深い人間なのだろうか」と。そして夫に言いました。「やめて。落ち着いて、独りで考えてみる」その後、夫は教会の劉姉妹に、私の状態について話しました。私への手助けを求めたのです。それを聞いた私は、夫を責めました。「どうして私に確認もせずに話したりするの?」「このことを劉さんが皆に話したら、私はどんな目で見られると思う?」考えれば考えるほど、心が乱れました。私にできるのは、静かに神に祈ることだけでした。「神様。どうか私を導き、助けてください」。

翌日、それまで自分が露わにしたことを振り返りました。そして気づきました。私はいつも――神の御言葉を読んで得た光を誰にも伝えず、集会で話していました。この行為はただ、誰も知らない内容を話して――兄弟姉妹に高く評価してもらいたかったからにすぎません。王姉妹の交わりに光を見ると、いつも私は不快に思い――彼女を超えたいと思っていました。それまでは、自分は誰に対しても寛容な人間だと思っていました。小さなことを気にしたりしない――純真な人間だと心から信じていました。でも本当は、自分は誰かに嫉妬心を抱く人間かもしれない。その相手にこっそり対抗心を燃やして、張り合おうとする人間かもしれない。自分はどうしてそんな人間になれたのだろう。私は、ある姉妹に電話を掛けました。そして訊きました。「あなたはこれまで、神の御言葉について話す兄弟姉妹の交わりに光を感じて――」「嫉妬心を抱いたことがある?」彼女は、こう言いました。「いいえ。兄弟姉妹の交わりに光があれば、私にとって有益なこと」「本当にうれしく思うし、心から楽しむわ」それを聞いて、私の気持ちは余計にひどくなりました。どれだけ激しく自分が嫉妬していたか、痛感したからです。王姉妹に嫉妬していたのは私だけでした。そんな状態の私は、神に祈るほかありませんでした。「神様。私は嫉妬深い人間になりたくありません」「でも王姉妹の素晴らしい交わりを聞くたびに、どうしても嫉妬してしまうのです」「神様。どうしたらいいのか分かりません」「どうか、この嫉妬心を捨てられるよう、私を導いてください」。

その後、同じ教会の劉姉妹が会いに来て、私の状態に合わせて交わりをしてくれました。そして、神の御言葉の一節を読んでくれました。「他人が自分に代わって脚光を浴び、自分を超え、自分が無視されている一方で評価を得ることをつねに恐れている人がいます。そのような人はそれで他人を攻撃して排除します。それは自分よりも有能な人への嫉妬ではありませんか。そのような振る舞いは利己的で下劣ではありませんか。それはどのような性質ですか。悪意に満ちた性質です。自分のことしか考えず、自分の欲望しか満足させず、他人の本分に配慮を示さず、自分の益だけを考えて神の家の益を考えないような人は悪しき性質をしており、神はそのような人を愛しません(「真心を神に捧げると真理を得ることができる」『キリストの言葉の記録』)。これらの神の御言葉を読んで、私の状態と全く同じだと感じました。王姉妹の神の御言葉の交わりには啓きがありました。でも私は、彼女の話から真理を理解しようとも、実践の道を求めようともしませんでした。それどころか妬ましく思いました。自分の交わりがうまくいかず、注目を集めることなく恥をかいて終わると――私は動揺し、後ろ向きな苦しい気分になりました。兄弟姉妹から軽蔑されるのではないかと、ひどく恐れました。私は本当に自己中心的で、卑劣で――注目を浴びることしか考えず、誰かが自分より優れていることが許せませんでした。それは嫉妬であり妬みだったのではないでしょうか。そこに正常な人間性は、みじんもありません。思い返すと、私は神を信仰する前からそのような人間でした。友人、親戚、近所の人、同僚と話す時は、いつも――自分を褒めてほしいと思っていました。目の前で、同僚が別の人の仕事を称賛すると――嫌な気分になりました。そして自分を褒めてもらうために、仕事に没頭しました。どんなに難しくても、疲れても、喜んで打ち込みました。当時は何も気づかず、向上心の一種としか思っていませんでした。でも今は、サタンの堕落した性質の現れだったと自覚しています。その後、私はたびたび神の御前に出て自分の困難について祈りました。集会では、心を落ち着かせて、兄弟姉妹の交わりに聞き入りました。自分の番が来ても、王姉妹よりうまく話そうとは、もう思いませんでした。代わりに、神の御言葉について静かに考え、自分が理解したことを分かち合いました。このように実践すると、ずっと気持ちが和らぎ、解放された気分がしました。

しばらく経って――以前に比べ、嫉妬心が薄れたことを実感しました。それでもサタンの堕落した性質は根強く――適した状況が訪れれば、いつでも現れます。その後、集会に数回参加しているうちに――他の兄弟姉妹が王姉妹の交わりを称賛するのを目にすると――また嫉妬心を抱き、彼女との間に距離を感じるようになりました。そんな状態に陥った私は、誰かに打ち明ける勇気がありませんでした。軽蔑されるのが怖かったのです。その後しばらくは集会に行っても、私の心は閉ざされていました。

そんなときでした。ある晩、劉姉妹が電話をくれました。「近頃、何か困難を抱えていない?」と。私は遠回しに答えました。「私は堕落しすぎてる? 私のような人間を救うことを、神は拒まれる?」軽蔑されるのが怖くて、それ以上は何も言いませんでした。すると劉姉妹は、私の状態に合わせて神の御言葉の一節を読んでくれました。「正直な人になるには心を開いて自分をさらけ出さなければならないと聞いて、『正直になることは難しい。自分が思っていることを全部他人に話さなければならないのか。肯定的なことだけ分かち合えば十分ではないか。自分の暗い側面や堕落した側面を他人に話す必要はない。そうではないか』と言う人がいます。あなたがこれらのことを他の人に話さず、自分自身を分析しないのなら、自分自身を知ることも、自分がどのようなものかを認識することもなく、他の人たちもあなたを信頼することが決してできません。これは事実です。他人に信頼されることを望むのであれば、まずは正直でなければなりません。正直であるには、まずは自分の心をさらけ出し、あなたの心、あなたが考えている全てのこと、あなたの本当の顔をみんなが見られるようにしなければなりません。自分を取り繕ったり、隠し立てしようと試みたりしてはいけません。そのとき初めて、人はあなたを信頼し、あなたのことを正直だと思います。これが正直になるための最も基本的な実践であり、前提条件でもあるのです(「正直であることの最も基本的な実践」『キリストの言葉の記録』)。この御言葉を読んだあと、劉姉妹は私にこう話してくれました。「真理を求めるため、私たちは心を開いて交わる必要がある。それが霊の解放を得る1つの方法よ」「これは真理を実践し、正直な人間になるための方法でもあるの。心を開けば、兄弟姉妹からの助けも得られる」「そして、私たちの堕落した性質をより早く解決し、解放された感覚を得られるわ」「自分の困難を打ち明けるのをためらうと――」「サタンの策略に簡単に陥り、いのちが害を被りやすくなるわ」劉姉妹の言葉を聞いて、私は勇気を振り絞り、それまでのことを話しました。すると劉姉妹は、神の御言葉の別の一節を読んでくれました。「神が救うのは、サタンの堕落を経て堕落した性質をもつ人です。彼らは欠点がみじんもない完全な人ではなく、真空状態の中で生きる人でもありません。中には自分の堕落が明らかになったとたん、『私はまた神に抵抗してしまった。何年も神を信じてきたのに、いまだ変わっていない。きっと、神は私をこれ以上望まないだろう』と考える人がいます。これはどのような態度ですか。彼らは自分を諦めてしまい、神はもはや自分を望んでいないと思い込んでいます。これは神についての誤解ではないですか。ここまで消極的だと、サタンはいともたやすくあなたの鎧の割れ目を見つけ、いったんそれが成功すれば、その結末は想像もつきません。したがって、どれほど大きな困難の中にいようと、あるいはどれだけ消極的に感じていようと、決して諦めてはいけません。いのちが成長する過程において、あるいは救われつつあるとき、人は時として誤った道を辿ったり、道に迷ったりします。しばらくいのちの未熟さを露呈し、時には弱って消極的になり、間違ったことを言い、滑って転び、失敗に苦しむこともあります。神の視点から見ればこのようなことはどれも正常であり、神はそれについて騒ぎ立てたりしません(「いのちに入るのは神への信仰において最も重要である」『キリストの言葉の記録』)

劉姉妹は言いました。「私たちは皆、サタンにひどく堕落させられている」「傲慢さ、ずる賢さ、邪悪、悪意」「このようなサタンの性質は、皆の中に深く根を下ろし」「私たちの本性にさえなっている」「だから、事あるごとに、私たちの行動や態度が堕落を表すの」「以前は、私も戸惑ったものよ」「自分の堕落した性質をいくらか認識していて」「それを表したあとに後悔を感じた」「だから、なぜ次回もまたそうすることがあるだろう」「でも御言葉を読んで初めて、自分のサタンの性質がとても深刻であることに気づいたわ」「そして、その性質は一晩で変わるようなものではないことも」「人間は、少し自覚しただけでは変われない」「長期に及ぶ神の御言葉の裁きと刑罰なしには――」「刈り込み、取り扱い、試練、精錬なしには――」「本当の変化は実現しない」「神が裁きと刑罰のために来られる目的は、私たちを清めて変えること」「どれだけ深くサタンが私たちを堕落させてきたか、神は知っていらっしゃる」「私たちの背丈と、私たちが性質を変えようとして直面する困難に気づいていらっしゃる」「だから神は、真理を求める人々に対して寛容で忍耐強いの」「神が望んでいらっしゃるのは、私たちが真理を求める決心をすること、そして自分の性質を変えようと心から努めることよ」だから私たちは、自分自身を正しく扱わなければなりません。もっと神の御言葉を飲み食いし、その裁きと刑罰を受け入れ――肉に背き、真理を実践しなければなりません。そうすれば、私たちの堕落した性質は、いつか必ず変化します。

そして私たちは、神の御言葉の別の一節を読みました。「地位や体面、名声に触れるとすぐ、みな期待に胸を躍らせ、自分が傑出し、名声や評価を得ることをいつも欲します。誰も譲歩したがらず、競うことは恥であり、神の家では許されないにもかかわらず、常に競おうとします。競争しないと気が済まないのです。あなたがたは、傑出した者を見ると嫉妬し、憎み、不公平だと感じます。『自分が傑出できないのはなぜだろう。傑出するのが常にあの人で、自分の番が回ってこないのはなぜだろう。』そして一種の憤りを感じます。あなたがたはそれを抑えようとしても抑えられません。神に祈り、しばらく気分が楽になるものの、そのような状況に再び直面するやいなや、それを克服できません。それは未熟な霊的背丈を示すものではありませんか。こうした状態に陥ることは罠ではないですか。これらは人を束縛する、サタンの堕落した本性の足かせなのです。……あなたは、そうした物事を捨て去って脇にのけ、他人を推薦し、他人が傑出するのを認められるようにならなければなりません。傑出したり栄誉を得られたりする機会が到来した瞬間、それを利用しようと争ったり、焦ったりしてはいけません。引き下がることを覚えて、本分を尽くすことを遅らせてはなりません。人知れず静かに本分を尽くす人、本分を尽くしつつ他人に自己顕示しない人になりなさい。捨て去れば捨て去るほど、心は一層安らかになり、心の中にますます余裕ができて、自分の状態も改善されます。葛藤して競えば競うほど、自分の状態は暗くなります。それが信じられなければ試してみればいいでしょう。こうした状態を解決したいと望み、そうした物事に支配されたくないのであれば、まずはそれらを捨て去る必要があります。さもないと、葛藤すればするほど闇に包まれ、嫉妬や憎しみを感じ、欲望が強くなるだけです。欲望が強くなればなるほどそれを得られなくなり、得るものが少ないほど憎しみが増します。憎しみが増すにつれ、あなたの内面は一層暗くなります。内面が暗くなればなるほど本分を立派に尽くさないようになり、本分を立派に尽くさないほどあなたは無益になります。これは相互に関連する悪循環です。こうした状態では本分を立派に尽くすことができないので、あなたは次第に淘汰されます(「真心を神に捧げると真理を得ることができる」『キリストの言葉の記録』)

劉姉妹が神の御言葉について交わってくれたおかげで、私は気づきました。名声や地位への願望が強すぎたために嫉妬心が生じたこと、私の性質が傲慢すぎたことに。私は子どもの頃から、中国共産党による教育や――あらゆるサタンの人生哲学や毒を植えつけられてきました。「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」「人は上をめざし、水は下に流れる」「出世して先祖に栄誉をもたらす」このようなサタンの毒は、私の心に深く根づき――私を傲慢で自惚れが強く、利己的で卑劣にしました。私はひときわ野心の強い攻撃的な人間になり、何でも人より優れていなければならない気がしました。それは社会においても、教会においても同様でした。集会の交わりや、祈りの間も――ただ他の人たちよりも優れていたくて、幸せを感じるのは誰かに褒められた時だけでした。誰かが私より優れていると分かると、それを受け入れられずに嫉妬しました。そして内心、その人に対抗して勝とうとしました。でも彼らを超えられないと、後ろ向きで誤解した考え方をして――自分を正しく扱えずに過ごしていました。神のことすら誤解して、自分は神の救いの対象にはなれないと考えていました。サタンによる堕落が、私を傲慢で弱い、自己中心的で卑劣な人間にしたのです。生きるのが言い表せないほど悲惨になりました。でも私は、神の御言葉のうちに実践の道を見つけました。自分を解放し、足かせを捨て、御言葉に従って実践できるようにならなければなりません。自分の肉に背き、うぬぼれや地位へのこだわりを手放し――もっと王姉妹の長所から学び、自分の短所を補わなければなりません。それが、より多くの真理を理解する唯一の方法でした。

その後、こんな神の御言葉の一節を読みました。「役割が全く違うのである。からだはひとつ。それぞれが自分の本分を尽くし、それぞれの持ち場で最善を尽くし――幾分熱があれば、その分光を発する――いのちの成長を求めなさい。そうすれば、わたしは満足する(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第二十一章」〔『言葉』第1巻〕)。これを読んで、すぐに私は気づきました。神から授かった素質や才能は、人によって異なります。そのため、神から要求されるものも、人によって異なります。私たちが何においても全力で本分を尽くす限り――神の心は慰められるのです。王姉妹が優れた素質を持ち、真理を素早く理解できるのは、神の恵みによるものです。今日、神は私たちが集うよう采配されています。神の目的は、私たちが互いの長所から学んで短所を補い合い、共に真理を理解して――神の御言葉の現実に入ることです。私は自分の長所と欠点を適切に扱う必要があります。神が、どんな素質を私に定められたとしても――私は神の支配と采配に従わなければなりません。また、自分の動機を正し、真理を一心に追求しなければなりません。理解している限りのことを分かち合い、知っている限りのことを実践すべきなのです。全力を尽くすことで、神は私を啓き、導いてくださいます。これを実現するために、私は神の御前で決意しました。「今後、私は真理の追求に取り組んでいきます」「狭い心をなくし、自分より優れた人への嫉妬心をなくします」「そして真の人間らしく生き、神の御心を満たします」。

あっという間に、次の集会の日が来ました。自分がどれだけ王姉妹に嫉妬していたか、どのような堕落した性質を表していたか――兄弟姉妹に打ち明けたいと思いました。でも、そう思った途端に怖くなりました。「私のことを、皆はどう思うだろう」「私が嫉妬していたことを知って、王姉妹はどう思うだろう」その状況に直面したくないという思いがありました。そこで、心の中で静かに神に祈りました。「神様。私に信仰と勇気を与えてください」「虚栄心と地位を捨て、包み隠さず兄弟姉妹と交わりたいのです」「そして私たちの間の壁を取り払いたいのです」「どうか私を導いてください」そう祈ると、だいぶ気持ちが和らぎました。そして、自分がどんな状態だったか、どんな経験をしたか、つぶさに話せました。私の話を聞いても、兄弟姉妹は私を軽蔑しませんでした。それどころか、正直であることを実践できた私の勇気を称賛してくれました。彼らは言いました。「あなたの経験で気づいた」「神の御言葉に従って実践することだけが、自らのサタンの堕落した性質を振り払い――」「解放されて自由になれる方法なのだと」「そのような状況に陥った時にどうすればいいか分かった」とも言ってくれました。その後の集会で、私は王姉妹の長所を数多く見つけました。彼女は、神の御言葉を飲み食いする時に、自分の状態を交わりに組み入れることができました。問題に直面した時はいつでも、神の御前に立って神の御旨を求め――神の御言葉のうちに実践の道を見つけることに専念できました。そういった王姉妹の長所に触れて、やっと私は理解しました。彼女は私の競争相手ではなく、私を助けてくれる人物なのだと。ようやく心から理解できました。神が私たちに協力し合うよう采配されるのは、私たちが互いの短所を補えるよう、互いの長所から学ばせるためです。そう思った瞬間、自分が完全に解放されたと感じました。今では、集会のたびに喜びを感じます。もう嫉妬心に振り回されることはありません。他者の長所で自分の短所を補い、彼らと調和して暮らし、霊が解放されるのを感じています。

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