自分の本分をどのように考えるべきか
神は言われます。「人の本分とその人が祝福を受けるか呪われるかの間には、何の相互関係もない。本分は人間が全うすべきことで、それは人間が果たすべき必須の使命であって、報酬や条件、理由に左右されるべきではない。そうしてはじめて、本分を尽くしているといえる。祝福された人は裁きの後で完全にされた時に、幸いを享受する。呪われた者は、刑罰と裁きの後もその性質が変わらないのなら、即ち完全にされていないなら、罰を受ける。被造物として、祝福されるか呪われるかに関わらず、人間はその本分を果たし、自分のするべきことをし、できることをしなければいけない。これが神を求める者として、人間の最も基本的な条件である。あなたは幸いを受けるためだけに本分を果たそうとしてはいけない。また、呪われることへの恐れから、行動することを拒んではいけない。一つだけ言っておこう。人間が自分の本分を尽くすことができるということは、その人がしなければいけないことを遂行するということである。もし人間が本分を尽くせないのなら、それは人間の反抗心の現れである」(『神の出現と働き』「受肉した神の職分と人間の本分の違い」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉についての私の経験をお話します。
入信したあとすぐ兄弟姉妹たちが、指導者としてよく集会を開き真理を交わったり動画制作や歌や踊りなど、スキルを必要とする本分を尽くしていることに気づきました。私にとって彼らは尊敬し、見習うべき存在でした。もてなしや教会の業務処理などの本分を尽くす人たちはあまり話題にならず、スキルも必要とせず、有名にはなりません。いつか私も、見栄えのいい本分につきたいと思いました。その2年後、執筆の本分を与えられ私は幸せでした。特に、教会で執筆指導をするたびに兄弟姉妹が温かく接してくれ、尊敬のまなざしを向けてくれることがうれしかったのです。自分に満足し、私の本分は他の本分より尊敬されていると感じました。2018年、本分を尽くすため他の場所に派遣されました。そこで、私の本分を知った兄弟のひとりが、そのことについて声をかけてきました。尊敬の念を感じ、満足でした。名誉ある本分だと感じました。
いつも自分に自信満々で、うぬぼれていました。名声や利益ばかりを求め、本分を真面目に尽くしていなかった。その数ヵ月後、何も成し遂げていないという理由で本分を解任されました。動揺し、否定的になった私に指導者が神の御心を交わり、言いました。「神の家で、映画撮影の黒子を必要としているがやってみないか。本分が何であれ、真理を求め全てを捧げなければいけないよ」と。その本分についてはよくわかりませんでしたが、指導者が決めたことなので従いました。黒子を始めてしばらくすると、この本分は主に、いろんな小道具を動かす肉体労働だと気づきました。スキルは全く必要なく、力仕事と雑用ばかり。私は思いました。「以前の本分は頭を使う作業で、評価の高い威厳あるものだった。小道具の移動は肉体労働で、汚れるし疲れる。兄弟姉妹から見下されないだろうか」そう考えると心が沈み、本分に対するやる気がそがれました。それからは本分に身が入らず、仕事から逃げるようになりました。小道具が足りなくて兄弟姉妹から借りるときには誰かに聞きに行かせました。もし私が行けば、知り合いの兄弟姉妹に、本分が変わったこと、いまはさえない黒子だということを知られてしまう。どう思われるか怖かったのです。スキルの研鑽にも及び腰でした。スキルを磨けばずっとこの本分を尽くすことになり二度と目立つことができないかもしれない。現場で監督から小道具の置き方を指示されることもありましたが、そんなときはいつも本当に居心地が悪く、恥ずかしく感じました。前の執筆の本分ではみんなが私を尊敬し、指導に従ったのに、今は指示される側。落ちたものだと思いました。一度、外でわらを集めてくるよう兄弟から指示されましたが、本当に嫌だった。「外でそんなことするなんて恥だ。他の兄弟姉妹が見たら若いのにそんなことをやらされるなんて、将来の見込みなしと思われる」でも本分のためにはやらなければ。誰もいなくなるのを待ち、意を決して外に出ました。わらを集めていると、ある兄弟が来るのが見えた。革靴に白い靴下をはき、清潔感にあふれていました。一方私は、頭からつま先まで真っ黒です。急に気が沈み、動揺しました。「同じ年齢なのに、彼の本分は汚れと無縁で、私はわら拾いのような汚い仕事しかできない。何たる格差だ! 恥ずかしい! この本分はもうやりたくない。そう指導者に言って本分を変えてもらおう」と思った。
でも戻ったあと、迷いが生じました。指導者に話すべきだろうか。言わなければこの本分から抜け出せない。でもやりたくないと言えば、本分を投げ出すことになる。そう考えて感情を抑え、口をつぐみました。それから間もなく黒子と出演者が同席する集会を指導者が設定しましたが、乗り気になれなかった。名前を広く知られ、スポットライトを浴びる出演者とつまらない作業ばかりの私では立場が違う。一緒に集まれば、私のみじめさが強調されるだけでは。集会ではみんな活発に交わりましたが、私は黙っていました。出演者と集まると私の役目は引き立て役のような気がしていました。悲惨でした。時間が立つほどにどす黒い気持ちは大きくなり、もう集会にも行く気が失せた。執筆の本分を尽くしていた時のことを何度も思い返しました。兄弟姉妹から喜んで迎えられ、指導者からも一目置かれていた。その本分を解任されてからは雑用ばかりで誰からも尊敬されない。辛くみじめで、劣等感と孤立感がふくらみました。鬱々として自分らしさを失い体重も一気に落ちました。ある晩、ひとりで散歩をしていた私は、惨めさを抑えきれなくなり、泣きながら祈った。「神よ! 以前は、真理を追求し本分を尽くしてあなたを満たすと決心していた。でも今は、本分を見せびらかすこともできずいつも劣等感を感じ、消極的で弱い人間です。今にもあなたを裏切ってしまいそうです。神よ、消極的な態度を改めたくともどうすればいいかわかりません。この状態を抜け出せるようお導き下さい」。
その後、神の御言葉を読みました。「本分はどのようにして生まれるのでしょうか。大まかに言えば、それは人類に救いをもたらす神の経営の働きの結果として生まれます。具体的には、神の経営の働きが人類の間に展開されていく中で、遂行されるべきさまざまな仕事が発生し、それを人々が協力して完成させなければならないということです。それによって人々が果たすべき責任と使命が生まれており、その責任と使命が、神から人間に与えられる本分なのです」(『キリストの言葉の記録』より引用)。「どんな本分であろうと、上下はありません。たとえばあなたが次のように言ったとします。『この仕事は神の委託であり、神の家の仕事だが、これをすると人から見下されるかもしれない。他の人たちは目立つ仕事をしているのに、わたしが与えられたこの仕事は目立つこともなく、ただ陰で奮闘しなければならない。どうしてこんなものを本分と呼べるだろう。こんな本分は受け入れられない。これはわたしの本分ではない。わたしの本分は人前に出て目立ち、名を成せるようなものでなければならない。もし有名になったり目立ったりはできないとしても、そこから利益を得て、物質的に安心できるようなものでなければならない』と。これは許容できる態度でしょうか。選り好みは、神から与えられたものを受け入れることではなく、自分の好みに合わせて選択することです。それは本分を受け入れることではなく、本分を拒否することです。選り好みをしようとした途端に、もはや真の受容ができなくなります。そのような選り好みには個人的な好みや欲望が混じり合っています。自分の利益や評判などといったものを気にしていると、自分の本分に対する姿勢が従順なものではなくなります。本分に対する姿勢とは次のようなものです。第一に、分析したり、誰がそれを自分に与えたのかを考えたりせず、ただそれを自分の本分として、自分のすべきこととして、神から受け取らなければなりません。第二に、上下を区別してはならず、人前で行うのかまたは人目につかないところで行うのか、目立つのか目立たないのかなど、その性質を気にしてはいけません。そのようなことを考えてはいけません。これが、本分に対してとるべき姿勢の二つの特徴です」(『キリストの言葉の記録』より引用)。これを読み、本分に対する考えと態度が間違っていたことに気づきました。神に要求された本分を尽くすことは正しく、適切なことです。私たちに選択権はないのです。しかし私は自分の願望から、尊敬される本分だけを求め裏方の仕事や目立たないことには抵抗し、拒みました。神の支配と采配に従いませんでした。不真面目で消極的な態度で作業を拒み、神に反抗した。入信した頃を思い返すと指導者や、舞台に立つ兄弟姉妹をうらやみ、そういった本分こそ重要で、みんなに尊敬されると思っていた。目立たない肉体労働をする人々には特別なスキルがなくそのような本分は賤しく、見下されると思った。そんな間違った考えをもって、本分の優劣を決めていたのです。だから黒子を始めた時、この本分はくだらない雑務で、自分の評判やイメージに悪いと思い強い抵抗感を覚え、従いたくなかった。本分に責任をもたず必要なスキルも学びませんでした。もうすべて投げ出し、神を裏切ろうとまで考えました。本分において頭にあるのは自分の願望だけで、虚栄心と名声、そして自分の利益しか考えなかった。真に服従せず、神の御心や本分を尽くすことにまったく思い至りませんでした。私の態度は神が嫌悪し憎むべきものでした。このことに気づいた私は動揺し、自分を責めました。
そして次の御言葉を読みました。「人間は神の被造物です。被造物の役割とは何でしょうか。これは人々の実践と本分に関わってきます。あなたは被造物であり、神があなたに歌の才能を与えたとします。神があなたに歌わせるときは、どうすればよいでしょうか。神から委ねられたその仕事を受け入れて、上手に歌ってください。神があなたを使って福音を広めるとき、あなたは被造物として、何になるのでしょうか。伝道者になるのです。神が人々を導くためあなたを必要としているときは、その委託を受け入れなければなりません。真理の原則に従ってその本分を尽くすことができれば、それもあなたのもう一つの役割となります。真理を理解することも追求することもなく、ただ努力だけができる人もいます。そうした被造物の役割は何かといえば、それは努力して奉仕することなのです」(「真理を求めることでのみ神の業を知ることができる」『キリストの言葉の記録』)。御言葉から学んだことは神の家で尽くす本分が、見栄えしようがしまいが単に名称と役割が違うだけで、個人の責任は変わらないということです。創造物であるという人の生来の性質と本質は永遠に変わりません。私は執筆の本分でも創造物であり黒子の本分でも創造物でした。神の家での本分は階層などなく、必要に応じて設定され個人の背丈、能力、長所に応じて決められます。本分が何であれ私たちがその本分にすべてを捧げ、断固として真理を追い求め堕落した性質を解決し、本分を尽くすこと。それが神の御心です。御言葉にもあります。「役割が全く違うのである。からだはひとつ。それぞれが自分の本分を尽くし、それぞれの持ち場で最善を尽くし――幾分熱があれば、その分光を発する――いのちの成長を求めなさい。そうすれば、わたしは満足する」(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第二十一章」〔『言葉』第1巻〕)。指導者が私に黒子の本分を与えたのは、働きに必要だったからで個人的な願望をもとに選り好みせずに、神の支配と采配に従うべきです。撮影に必要な小道具をセットし神の証しである作品に自分を捧げること。それが私の役割でした。神の御心を理解して、私の考え方は少し変わり、心の重荷をやっと手放すことができました。正しく本分に取り組めるようにもなった。それ以降はスキル向上のために資料や参考情報を懸命にさがし出演者との集会ではそれぞれの本分を比べるのではなく、私の反抗心と堕落について打ち明け自分が理解したことを交わった。その後も本分において、見下されることを恐れる気持ちがあらわれ、本分に優劣をつけていると感じた時はすぐに神に祈り、間違った考えを追い払い、本分に集中し、神を満足させることを最優先させました。これを実践してしばらくは心が軽く、安心できていました。裏方として小道具を動かす仕事を劣っているとは思わず、神から与えられた責務だと考えました。この本分に誇りを持ち神の家での映画撮影に携われることが幸せでした。
自分を明らかにしたことで、少し背丈が大きくなり、本分における神の采配に従い目立たない本分だからといって消極的で反抗的な態度を取らなくなりました。しかし再度自分の好まない状況に直面すると、以前の問題が再発したのです。
気づきから2ヵ月後、農家の繁忙期でしたが福音を広めるために教会を離れ、収穫までに戻れない兄弟姉妹がいた。指導者から彼らの農場の手伝いを頼まれた私は「これで兄弟姉妹の心の負担が軽くなり伝道に集中できるだろう。神の家の働きにも有益だし、引き受けなければ」と思いました。しかし畑にいたのは40代や50代の兄弟ばかりで20代は私だけでした。面白くありませんでした。その時ある兄弟が驚いた顔でこう言ったのです。「畑仕事をする暇なんてあるのかい? 執筆の本分は?」私は顔を真っ赤にして、すぐ言いました。「少し助けにきただけです」彼が去ったあと、こう思った。「あの人は私のことをどう思うだろう。この歳でこんな仕事に呼ばれたのは何の才能も素質もなくて重要な本分を担えないからだと思うんじゃないか。なんという屈辱だ」どんどん卑屈になり体を動かしながらもうわの空で他の兄弟からどう思われているか、見下されないか、ということばかりが気になりました。そんな調子でなんとか作業を終え、家に戻り、コンピューターで作業をしている兄弟の姿を見ると、突然自分が格下に感じられました。「他の人の本分の方が優れている。なぜ私が畑仕事なのか。少なくとも私は大学に入学し、勉学に励んだ。それは畑仕事に明け暮れる農家の運命から逃れるためではなかったか。明日は行くのをやめよう」その考えが間違っているとはわかっても、不当だと感じざるをえませんでした。畑仕事なんて私の才能の無駄で、屈辱だと思いました。考えるほどに苦しくなり、神に祈りました。「神よ、汗水たらして農作業に勤しむことは下等な本分であり、みんなに見下されます。もうやりたくありません。間違っているとわかっていても、この考えを止められません。本当にみじめです。あなたの御心を理解し従えるよう、啓きと導きを与えてください」祈りの後、次の御言葉を読みました。「真の服従とは何ですか。あなたの思い通りに神が何かを行ない、すべて満足で正当だと感じ、傑出することを許されるたび、あなたは、これは極めて栄誉あることだと感じて『神に感謝』と言い、神の指揮と采配に服従できます。しかし、自分が決して傑出できず、誰にも認めてもらえない平凡な場所を割り当てられるたび、あなたはもはや幸せを感じず、服従するのも難しくなります。……状況が好都合な時に服従するのはたいていの場合容易です。物事が思い通りに進まず感情が傷ついたり、弱ったり、肉体的に苦しんで自分の評判が落ちたり、虚栄心や自尊心を満足させられなかったり、心理的に苦しんだりするような逆境においても服従することができるなら、あなたは真に霊的背丈を有しています。これがあなた方の追求すべき目標ではありませんか。あなた方がこのような決意と目標をもっていれば、希望はあります」(神の交わりより)。
神の御言葉を考えると、恥ずかしくなりました。御言葉が明らかにしたのは、まさに私の状態でした。執筆の本分で自分の能力を誇示できると思った私は、喜んで本分を受け入れ、従い、熱心に取り組みました。しかし畑仕事を手伝った時は、虚栄心と体面が傷つけられ、つらくなって、やる気を失った。特に他の兄弟がコンピューターで作業をしているのを見て負けたと感じ、動揺しました。私には学歴があるのでスキルの高い立派な本分を担うべきと思ったのです。反抗し、不平を並べ、畑仕事を続けたくないと思った。本分でいつも気にしたのは神の家の利益でも、神の御心でもなく、自分の虚栄心でした。自分勝手で卑しい人間だったのです。神の家の一員という自覚がまったくありませんでした。神の御心を大切に考える真の信者であれば難しく、苦しく、自分の評判や利益を損ねる本分でも、個人の責任として全うしできる限り役に立とうとするものです。教会の働きのためならば、積極的に本分を尽くします。そんな人たちだけが人間性をもち、神の家を支える。秋の収穫作業のことを思うと兄弟姉妹が助けを必要としたとき手伝える人は他にもたくさんいました。ではなぜ神は私にこの本分を与えたのか。私に特別な価値があったわけではありません。神は、汚く過酷な仕事を与えることで、本分に対する私の態度を暴露していたのです。その本分を通して、私に自分の堕落と不純に気づかせ、真理を求め堕落した性質を解決させようとした。しかし私は神の善意を理解せず、本分を選り好みし、自分の願望や要求をもち続けました。神の指揮と采配に従わず、神に反抗し逆らいました。神を深く傷つけたのです! 神の御心はその状況を通して私の堕落した性質を暴き、清め、本分に対する態度を改めさせること。それが神の愛だった。たとえ汚く、過酷で、つまらない仕事を与えられても、教会の働きの利益になるなら、無条件に受け入れ、従い、全力を尽くすべきです。それこそが良心と理知をもつ人間だ。それがわかってから、少しずつ平静を取り戻し。
反省せずにはいられませんでした。なぜつまらない本分を与えられた時にあれほど反抗し、動揺したのか。なぜ心から受け入れ従えなかったのか。答えを求め、次の御言葉を読みました。「サタンは国家政府や有名人や偉人の教育と影響力を通して人間を堕落させる。彼らの嘘とたわ言は人間のいのちと本性になる。『己を怠る者は天罰を受け地が滅ぼす』はサタンの有名な格言であり、全ての人に浸透し、人々のいのちとなっている。ほかにもこれに類似する人生哲学の格言がある。サタンは各国の洗練された伝統文化を用いて人々を教育し、人類を果てしない破滅の淵へと陥れる。そして最終的に、人間はサタンに仕え神に抵抗したために神に滅ぼされる。……人の生活、物事の取り扱い、振る舞い、そして他人との接し方には、サタンの害毒がいまだ数多く存在します。それらに真理はほぼまったくありません。例えば、人の人生哲学、物事の仕方、金言は赤い大きな竜の害毒に満ち、それはすべてサタンから生じたものです。ゆえに、人の血肉に流れているのはどれもサタン的な物事なのです」(「どのようにして人間の本性を知ればよいか」『キリストの言葉の記録』)。御言葉によってわかりました。私が本分を選り好みし反抗したのは、「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」や「心を労する者は人を治め、力を労する者は人に治めらる」「本当に賢い人間と本当に愚かな人間だけは変わる事がない」といったサタンの毒に洗脳され堕落させられ、人より目立ち、優位に立ちたいと思っていたからだ。学生時代の私は、いい大学に入り農業から抜け出せるように、先生や両親から、勉学に励めと常に言われてきました。それしか成功の道はなかった。ですから小さな頃から勉学に励みいい学位をとって、監督者や管理者のように人から尊敬されるいい仕事に就くことを目指しました。そして入信したあとも、神の家での本分を不信心者の視点から評価し、格付けしていました。指導者や、スキルを要する本分のほうが立派で兄弟姉妹から尊敬される一方裏方のきつい肉体労働のような本分は下等で、見下されると思いました。このようなサタンの毒がやがて本性となり、考えを支配し、私は名声や地位ばかりを追い求め、特別な誰かになることを切望した。名声や地位を脅かされると、否定的で反抗的な態度を見せました。創造物としての自分の立場や本分を受け入れられず、良心も理知もありませんでした。このようなサタンの毒を生き、真理を求めず、神の求める通りに本分を尽くさなければ、真理やいのちが得られないばかりか、神に憎まれ排除されてしまいます。これに気づいた私は、自らの肉に背き神の心を満たす決意をした。これ以上サタンの毒を生きたくなかったのです。そして次の日、畑仕事に戻りました。
そして神の御言葉を読みました。「わたしは、一人一人の終着点を、年齢や年功、苦しみの量、とりわけ憐れみを誘う度合いではなく、真理を自分のものにしているかどうかに基づいて決める。これ以外の選択肢はない」(『神の出現と働き』「終着点のために十分な善行を積みなさい」〔『言葉』第1巻〕)。「最終的に、人が救いを得ることができるかどうかは、どのような本分を尽くすかではなく、真理を理解しそれを得たかどうか、そして神の指揮に従い真の被造物となれるかどうかにかかっています。神は義であり、これは神が全人類を測る原則です。この原則は不変であり、これを忘れてはなりません。したがって、他の道を見つけることを考えてはならず、状況に応じてこの原則を変化させようとしてもいけません。そうした瞬間、あなたは愚かで無知な行動をとったことになります。神はこの問題に関しては柔軟ではなく、救いを得るすべての者に対して求める基準は変わらず、それが誰であろうとも常に同じなのです」(『キリストの言葉の記録』より引用)。御言葉の中に、神の義なる性質が見えました。神は人の結果や終着点を、その人の本分の内容や働きの量や貢献度で決めるわけではありません。神の支配と采配に従い、創造物の本分を尽くせるかどうか最終的に真理を得て、いのちの性質を変えられるかどうかを見定める。信仰の中で真理を求めなければ本分が他人の目にどれほど素晴らしく上等に見えても真理を得られず、神の承認も完全な救いも得られません。教会から除名された反キリストのことを思いました。彼女は重要な本分をもち、指導者でもあったので新入りからは羨望を集めていました。しかし本分において真理や性質の変化を求めず、名声と地位にこだわり、反キリストの道に留まりました。さまざまな悪を働き、神の家の働きを乱し、最終的に追放されたのです。また単調な本分を与えられた兄弟姉妹がつまらなく思える作業も不平を言わず黙々とこなしていたことも思い出しました。問題が起きた時には、彼らは真理と神の御心を求めた。聖霊の啓きと導きにより本分を行い、その働きにおいて成長していくことで、より人間らしい生き方に近づいていった。信仰において真理を得ることと本分の内容は無関係だとわかりました。本分がなんであれ、真理と性質の変化を求めることが重要です。それが唯一の正しい道です。指導者から与えられたのが黒子でも畑仕事でもすべて神の支配と采配であり、私のいのちの入りに必要なことです。常に受け入れ従わなければ。本分では、真理を求め、御言葉を実践し、真理の原則に基づいて行動する。それこそが神の御心に沿うのです。それに気づいたことで、心が解き放たれました。そのあと指導者からさらに平凡な本分を与えられましたが、静かに受け入れました。手の空いたときには、すすんで兄弟姉妹を手伝いました。掃除や、植樹、溝の清掃などの手伝いの中に常に学ぶべき教訓があると気づいた。私が肉体労働をしたからといって、神は私に偏見をもちません。心をこめて、真理を求め、神の御言葉を実践に移している限りいつも何か収穫があるのです。
この経験で真に理解しました。どんな本分も神が決めたことであり、私のいのちの入りに必要なのだと。常に自分の本分と責任を受け入れ、従い、全うし、そのプロセスを通して真理と性質の変化を求めなければ。私がいつも本分を格付けし好まない本分に抵抗し、神に反抗し背いていたにも関わらず神はその過ちに基づいて私を扱うことなく、その御言葉で一歩ずつ私を導き、真理を理解させ創造物の責任と使命に気づかせてくれた。間違った見解が矯正され、私は正しく本分に取り組み、神に従えるようになりました。神に感謝!
信仰上の悩みや疑問がありましたら、いつでもご連絡ください。