正直な人になることの味わい

2022年7月16日

ヨンスイ 韓国

3月の終わりごろに行なわれたある集会で、逮捕されて激しい拷問を受けたある兄弟のことを、指導者が話しました。すっかり弱気になった瞬間、教会のメンバー2人を売り渡したのですが、後悔で一杯になり、神の裁きと啓きの御言葉を読んで自分の過ちの根源を見つけ、心から悔い改めたというのです。そこで指導者は、この経験をどう考えるか、これを真の証しと見なせるかどうかとわたしたちに尋ねたうえで、自分の考えを発表するよう全員に言いました。わたしはそれを聞いてとても緊張し、こんな憶測を巡らせました。指導者は、どうしてこれを話し合わせるの? 問題を正しく見ているかどうかを試すため? そしてこう考えたのです。「その兄弟が他の人を売り渡したのは、ただ弱気になったから。それは過ち。でも自分のことを学んで心から悔い改めたのだから、彼の経験は証しと見なせるはず」。しかし確信を持てず、今度はこう思いました。「間違ったことや曖昧すぎることを言って変な目で見られないように、まずは他のみんなが言うことを確かめよう」。そして他の人たちは、自分の考えを話し始めました。まず、ある姉妹がわたしの考えにとても近いことを言ったので、自分は正しいと思いました。けれどその直後、別の姉妹が口を開き、この兄弟はユダで神を裏切った、だから神の証しではあり得ないと言うではありませんか。すると他の数人も、彼の経験を証しと見なすことはできないと、断固たる口調で言いました。大勢の人がその見方に同調し、支持しているのを見て、わたしの心は揺らぎ、どう考えればよいかわからなくなりました。まさにそのとき、指導者が「これが証しだと思わない人は挙手してください」と言ったのです。たくさんの人が手を上げましたが、わたしは判断がつかず、手を下ろしたままでした。「間違って手を上げるわけにはいかない。そうすれば、素質と理解がわたしにないことがばれてしまうのでは?」そんなことを考えていると、指導者から「手を上げなかったのはなぜですか?」と訊かれました。わたしは内心、「いやだ、どうしてわたしに尋ねるの? 手を上げるべきだったの?」と考え、手を高く上げました。心臓がどきどきし始め、不安を覚えました。手を上げたのは正しかった? それとも間違い? それは証しになり得ると心の中で感じていたのに、じっくり考えずに手を上げてしまった。自分はもう挙手したんだからと思い、そこでみんなの考えに耳を傾けることにしました。全員自分の意見を話したところで、わたしは冷静になってこう考えました。その兄弟は心から悔い改めたのだから、証しは有効のはず。たぶん、手を上げるべきではなかったのかもしれない。そのとき、自分の本当の考えを伝えようと思いましたが、自分は完全には理解していないのだから、正しければそれでいいと考え直しました。だけど正しくなければ、指導者はわたしのことをどう思うでしょう? わたしには素質がなく、経験も深くないと言うでしょうか? 指導者がわたしをそのように見れば、この人には訓練する価値がなく、神の家での前途もないと思うでしょう。それに、ここには兄弟姉妹が大勢いるので、間違っていれば本当に恥ずかしい思いをしてしまいます。わたしはあれこれ考え、何か言おうと何度も思いましたが、結局無言を貫きました。

その後、指導者が交わりを始め、それは絶対に証しとして有効であり、弱ったときに神を裏切り、やがて裁きと刑罰を経験して真に悔い改めることは、偉大な証しだと話しました。それは他の多くの人の原動力となり、真の信仰を持つ人に対して神が偉大な慈悲を授けられることを示している。わたしたちがどれほど堕落しているかを神はご存じなので、心から後悔して神に立ち返る限り、神はわたしたちに悔い改めの機会を与えてくださるし、そうした種類の証しは他の何より神を称え、サタンに恥をかかせるものになる。そして指導者は、わたしたちの理解は純粋でないと説明した上で、わたしたちは不実であって正直ではなく、神の御言葉を基に物事を見ていないと言いました。この問題を話し合うべきだと理解したわたしたちは、その兄弟の経験に何か間違ったことがあるのではと推測を巡らせました。指導者が考えていることを憶測し、正直なことを一言も言わなかったのです。指導者は辛抱強く交わりを続け、わたしたちは自分でものを考え、何事にも自分自身の見方を持たねばならない、正しくても間違っていても本当のことを言う必要があると話しました。それが行動において大事なことだと。「大事なこと」という一言を聞いて、わたしは心から不安になり、こう考えました。「指導者は正しい。たとえ間違っていても本当の考えを伝えることのほうが、みんなに追随するよりずっとまし。少なくともそれは自分の見方だし、正直になっている」。本当の考えを言わなかった自分を、わたしは憎みました。自分の立場を伝えるべきだったわずか10分間のうちに、わたしは不実になってしまい、真理を実践せず、人間の行動にとって大事なことすら果たせなかった。間違った言動をしただけでなく、自分を正しく律することもできなかったのです。

集会のあとのデボーションで、わたしは神の御言葉のこの文章を読みました。「神への信仰と振る舞いにおいて、人は正しい道を歩まなければなりません。歪んだ邪悪な方法や手段を用いないこと。歪んだ邪悪な方法や手段とは何ですか。それは、つまらない知恵や巧妙なごまかし、くだらない策略を基にした神への信仰です。それは自分の堕落や、短所、欠点、素質の欠如などの問題を隠そうとすることです。そのような人は常にサタンの哲学を用いて物事を扱い、表立ったことでは神や教会指導者にごまをする一方で、真理を実践することも、原則に沿って物事を扱うこともせず、人にへつらうために絶えず人に注意を向けています。彼らは尋ねます。『わたしの最近の働きぶりはどうですか。みんなわたしのことを支えてくれていますか。わたしの善行について、神は知っていますか。もし知っているなら、神はわたしを称えてくれるでしょうか。神の心の中で、わたしはどんな位置を占めていますか。わたしは神にとって重要ですか』。本当に尋ねているのは、神への信仰において自分が祝福を得られるかどうかです。このようなことを絶えず思いめぐらすことは、歪んだ邪悪な方法や手段ではありませんか。これは正しい道ではありません。では、正しい道とは何ですか。それは人が信仰において真理を求め、真理を得られるようになり、性質の変化を成し遂げることです(『終わりの日のキリスト講話集』の「いのちの成長を表す六つの指標」)。ここで神は、わたしたちの行動において、また信者として、正しい道を歩むようわたしたちに注意を与え、警告なさっています。わたしたちは真理を追い求め、実践しなければなりません。そうした肯定的な物事を行なうことに力を注がず、欠点を隠して自分を誇示すること、指導者とうまく付き合うこと、そして教会での地位を得ることに心奪われ、神や指導者にどう思われているかを気にしすぎていると、これは悪の道を歩んでいることになります。自分のしていることはまさに、神が暴かれていることだとわかりました。あの兄弟の経験が真の証しかどうか自信はなかったけれど、わたしは心から話すことをしなかった。その代わりに空気を読んで切り札を切り、他の人たちがどう考えているか推測した。なぜ挙手しなかったのか指導者に訊かれたとき、それは間違った行為だったのかと思い、またその兄弟の経験は証しとして有効でないとほとんどの人が考えていると、自分は大衆に追随した。わたしはつまらない存在で、風の吹く方向を見ていました。不実なサタン的性質ばかり示していたのです。本当のことをたった一言口にするのがどうしてこれほど難しいのかと、わたしは考えました。それは、間違ったことを言って恥をかき、指導者に低く見られて評価も訓練もされず、またそうしたことが引き続き起きたときに本分を外されるのではと不安だったからです。わたしはひたすら自分の名誉と立場を守り、乏しい素質を隠し、全力で自分をよく見せようとしていました。真理を理解して物事への洞察に優れた、高い素質の持ち主のように振る舞おうとしていたのです。どんな質問であっても、指導者の考えと一致する正しい答えを出し、指導者に高く評価され、好印象を残すことを常に望んでいました。そうすれば、兄弟姉妹もわたしに賛成し、仰ぎ見てくれるでしょう。自分の取り組みが不実で陰謀に満ちていることを、わたしは思い知りました。これほど単純なことでさえも、率直になれないのです。心からの率直な言葉を一言たりとも言えず、いつもずる賢く場の空気を読んで、神の家での立場を守ろうとしていました。正しい道ではなく、悪の道を歩んでいたのです。わたしはそのすべてに気づいたのですが、より深く内省することはありませんでした。

それから三ヵ月後、わたしは神によるこの交わりを聞きました。神は言われます。「反キリストは人に接するのと同じようにキリストと関わり、言動はどれもキリストを見本とし、キリストの口調に耳を傾け、キリストの言葉の意味を探ろうと傾聴します。語るとき、その言葉に現実的のものや誠実なものは一つもなく、空虚な字句や教義を語ることしか知りません。自分には普通に見えるこの人を惑わし、騙そうとします。蛇が這い回るような話し方で、曲がりくねって直接的ではありません。このような話し方やその方向性は、竿を這い上る瓜の蔦を思わせます。あなたが誰かのことを優れた素質があり昇格できると言うと、彼らはすぐにその人がどれほど優れていて、その内に何が示され、何が表わされているかを話します。また、あなたが誰かのことをよくないと言えば、彼らは直ちに、その人がどれほどひどく邪悪で、教会に騒動と妨害をもたらしているかを話します。あなたが何かについて真理を学びたいと思っても、彼らには何も言うことがありません。言葉を濁し、あなたの決断を待ち、あなたが意味することを知ろうと耳をそばだて、あなたの意図を探ります。彼らが言うことはどれもお世辞、媚び、へつらいです。彼らの口から真理の言葉が出ることはありません(『反キリストの本性と実質を暴く』の「彼らは真理を忌み嫌い、公然と原則に反し、神の家の采配を無視する(2)」)。神のこの御言葉はわたしにまっすぐ切り込みました。正直でなく、他者の望みに合わせて自分の行動を変えていたこの期間のことが頭に浮かんだのです。わたしはキリストと直接接触していたわけではないものの、神が定めた環境の中で神の吟味を受け入れようとしませんでした。自分を誇示して指導者に好かれることばかり望んでいたので、自分の言葉を推し量り、これっぽっちも正直でなく、指導者が聞きたがっていることを言っていたのです。それはまったくのごまかしでした。わたしの言動はまさしく蛇で、神に嫌悪されるものです。その場の状況に合わせていれば指導者を騙すことができ、質問に答えるときは真面目ぶることで指導者に好印象を残せる、そうすれば神の家での立場と前途を確保できると考えていました。このように、わたしは信じられないほど愚かで、実際には神を騙そうとしていたのです。神が何事をも吟味なさることを、実際には信じていませんでした。わたしの素質、背丈、思考、そしてあらゆる状況におけるわたしの態度と見方――神はそのすべてを絶対的な明瞭さでご覧になります。たとえ周囲の人を騙せても、神を騙すことは決してできません。事実、神がご覧になるのは、他人の前での言動ではなく、どう真理に取り組んでいるかです。わたしが日々実践して生きている物事、本分における振る舞い方をご覧になっているのです。神はこうした小さな事柄を、特に一つひとつ吟味なさいます。わたしが真理を愛して実践しているかどうかをご覧になり、わたしのそうした偽りの仮面では決して神を騙せません。そのとき、自分はただずる賢いだけでなく、神の義と、神は万物を観察なさるという事実を否定していたことに、わたしはやっと気づきました。不信者のように振る舞っていたのです。以前、キリストを侮って媚びへつらう反キリストについての神の分析を聞いたとき、それがわたしに関係あるとは思ってもいませんでした。自らキリストにお会いしたことがないので、そのようなサタン的性質を示すことはないだろうと思っていたのです。そのときようやく、自分が間違っていたこと、キリストに接触せずともそうしたサタン的性質が暴かれることに気づきました。わたしは指導者の顔色をうかがって得点を稼ごうとし、また神の家での地位を守るため、そのようなことを進んでしました。まさに、そのサタン的性質を示していたのです。キリストと面と向かって会っていれば、それは間違いなくよりはっきりしていたでしょう。神を騙し、神に逆らおうとするのをやめられなかったはずです。

それから数日、わたしたちが間違った答えを出したのに、予想に反して指導者がわたしたちを刈り込むことも取り扱うこともせず、素質に欠けていると言ったり、解任したり、訓練を拒んだりしなかったことを考えました。真理について交わり、原則に関する指導を行なうのに先立ち、わたしたちの欠点がわかるよう、自分の考えを伝えなさいと求めただけでした。またわたしたちの堕落した性質も暴いた上で、自分自身を反省しなさいと言ったのです。指導者がしたことはどれもわたしたちを助けて支えるためでした。神の家では、また兄弟姉妹と一緒にいるときは、推測を巡らす必要はありません。すると、神の御言葉が脳裏に浮かびました。「実質的に神は誠実であり、神の言葉は常に信頼できる。それだけでなく、神の行動は完璧で疑う余地がない。だからこそ神は、神に対して絶対的に誠実な人を好むのである(『神の出現と働き』「三つの訓戒」〔『言葉』第1巻〕)。神の言動はまったく信頼に足り、神はわたしたちと誠実に接してくださいます。神は人を創ったとき、園にあるどの果実を食べてよいか、どの果実を食べてはいけないかを告げられました。神は明快かつ率直に語られ、推測する必要はありませんでした。恵みの時代、主イエスは常に「よくよくあなたがたに言っておく」とおっしゃいました。また現段階の神の働きでは、全能神の御言葉の率直さと現実性を実感できます。大半の場合、それらは温かで優しい心からの御言葉で、わたしたちの堕落した性質を暴く部分が厳しいものに思えたとしても、それはどれも現実を土台にしており、いずれもわたしたちを清めて救うためです。神はわたしたちに対して誠実で、隠し立てなどなさいません。見せかけが一切ないのです。ところがわたしには誠実さのかけらもなく、その状況の中で計算と企みをしていました。自分はあまりに不実で卑劣だと思いました。

すると、神の御言葉をいくつか思い出したのです。「わたしは他者を疑わない者を好む。そして真理を快く受け入れる者を好む。この二種類の人々をわたしは大いに保護しよう。わたしから見ると彼らは正直な人々だからである。もしあなたが嘘つきなら、全ての人々や物事に対し慎重で疑い深くなるだろうから、わたしに対するあなたの信仰も疑念を基盤にして成り立つことになる。そのような信仰をわたしは決して認めない(『神の出現と働き』「どのように地上の神を知るか」〔『言葉』第1巻〕)。他人のことを疑わず、真理をすんなり受け入れる人が神の目から見て正直なのだと神がおっしゃる理由を、わたしはそれまでわかっていませんでした。でも、神の御言葉を今じっくり考えると、だんだんわかってきました。正直な人は神にも人にも疑いを抱かず、無垢なのです。そのような人は人間の頭脳で物事を解き明かそうとせず、その代わりに神の御前に出て真理を求めます。自分が理解できることを受け入れて実践し、神がおっしゃることを行ないます。正直な心で真理に取り組みますが、そうした心はとても貴重です。これが、子どものようだという言葉の意味です。神は彼らを祝福なさり、聖霊は彼らの中で働きを行ない、彼らを導いて啓きます。すると彼らは、より簡単に真理を理解して自分のものにします。しかし、本当のことを多少言って少しばかり本分を尽くしたとしても、心の中が迷路のようで、いつも疑って警戒し、優しく素晴らしい神をも疑うなら、そうした人以上に不実で不正直な人間はいません。そのとき、不実な人は救われないと神がおっしゃる理由がわかってきました。神はとても誠実でいらっしゃり、不実な人を憎んでお救いにならないのが一つ。もう一つは、わたしたちの主観的な追求に関係しています。不実な人はあまりに複雑です。彼らはいつも人や物事や神を推測し、分析し、それらに対して警戒します。彼らはまた、人の心を読む術を熟知しています。こうした物事で頭がいっぱいで、真理をまったく求めません。このような人の中で、聖霊はいかなる働きも行なえません。だから彼らは真理を理解することがないのです。まさに神がこうおっしゃるとおりです。「神は不誠実な人を完全にしません。心が誠実でなく、誠実な人でなければ、あなたは神に得られません。同様に、あなたが真理を得ることもなく、神を得ることもできません(『終わりの日のキリスト講話集』の「いのちの成長を表す六つの指標」)。そこでわたしは、自分のことをもう一度厳しく見つめ直しました。問題に直面しても、正直な心で神の御前に出て真理を求めず、その代わりに他人の口調を判断しようと夢中になった。兄弟姉妹との普通の話し合いでさえもそうだった。完全には理解していないことがあっても、大勢の理解に従うだけだった。自分の意見があるときも、間違ったことを言うのが怖くて口をつぐみ、他の人が言うことにまず耳を傾け、自分が正しいとわかって初めて口を開いた。そうでなければ、面子を失わないよう何も言う必要はないと考えた。自分がいかに不実で、率直でないかがわかったのです。何か理解していないことがあると、ひたすら群れに従って様子を眺め、他の人の行動に従っていました。そのせいで真理を本当に理解することができなかったのです。しかし、素質に欠けていたり、真理を知らなかったりすることは、何も恐ろしくはありません。恐ろしいのは、自分が理解していない物事を常に覆い隠していることなのです。するとその人は、真理を理解することが決してできません。そのようにし続けるのは危険で、誠実であることこそ何より重要だと思いました。

そこで、将来何かに遭遇したとき、どうすれば正直でいられるか、自分はどのような原則に固執すべきかを探求し始め、神の御言葉を二節読みました。全能神は言われます。「誠実になるには、まず個人的な欲望を脇にのけなければなりません。神にどう扱われるかに注意を払うのでなく、心の内にあることを言いなさい。発言の結果をあれこれ思いめぐらさず、考えていることを残らず話し、自分の動機は脇にのけなさい。何らかの目的を果たすためだけに発言してはなりません。個人的な意図があまりに多ければ、いつも打算的な話し方をすることになります。『わたしはこれを言うべきで、あれを言ってはならない。慎重にものを言い、目的を達成しなければ』。ここには個人的な動機が関わっていますか。言葉が口から出るより早く、あなたは常に心の中であれこれ話し、何を言うか何度も練り直し、頭の中で何度もふるいにかけています。言葉が口から出るやいなや、そこにはサタンの不実な企みが含まれています。つまり、あなたの口から出る言葉には、動機や個人的な目的が宿っていて、本物でなく、心から出たものではありません。これは誠実であるとは言えません(『反キリストの本性と実質を暴く』の「彼らは真理を忌み嫌い、公然と原則に反し、神の家の采配を無視する(2)」)。「あらゆる物事において、神に対して率直になり、心を開かなければなりません。これが、神の前で保つべき唯一の状態です。たとえあなたが開いていなくても、神の前ではあなたは開かれています。あなたが開いているかどうか、神は知っています。それがわからないなら、あなたは愚か者ではありませんか。では、どうすれば賢くなれますか。神はあらゆる物事を吟味して理解していることをあなたはわかっているのですから、神は知らないかもしれないなどと考えてはいけません。神が人の思いを密かに見ているのは確かなので、もう少し心を開き、わずかでもさらに純粋に、率直になるのが賢明であり、これが賢い行ないです。……形式を気にしだし、それが頭脳に浸透し、考えるようになると、それは厄介な問題で、人は心の中でいつもこう考えます。『何を言えば神に高く評価され、心の中で考えていることがばれないだろうか。何を言うべきだろうか。自分の胸にもっと納めるようにして、もう少し機転を利かせ、方法を定めなければ。そうすれば、神に高く評価されるかもしれない』。あなたがいつもそのように考えているかどうか、神にはわからないとでも思っているのですか。あなたが何を考えようとも、神はそれを知っています。このように考えるのは疲れることです。率直に偽りなく話すほうがずっと簡単で、生きるのも楽になります。神も、あなたは率直かつ純粋で、心を開いていると言うでしょうが、これはこの上なく貴いことです。心を開いて率直な態度をとれば、たとえ行き過ぎたり、愚かな行動をしたりすることがあっても、神にとってそれは過ちではありません。それはつまらない策略や、絶え間なく思い悩んだり手を加えたりすることよりはましなのです(『反キリストの本性と実質を暴く』の「彼らは他人を自分たちだけに従わせ、真理や神には従わせない(2)」)。神への取り組み方において、また神が定める状況において一番大事で根本的なことは、心を開くことであると、神の御言葉の中で述べられています。隠し立てや偽装をせず、物事を研究したり処理したりしようと試みずに、神に自分の心を晒す必要があります。発言の裏に何らかの動機を抱いたり、戦術を駆使したりしてはならず、誠実さの精神で自分の考えを伝えなければなりません。推し量ることのできない物事を理解していないことを認め、それから神の前に出て、無垢で正直な心をもって真理を求める必要があります。これが賢いということです。神はすべてをご覧になり、掌を指すかのごとくわたしたちのことを知っておられます。わたしの素質はどうか、わたしが真理をどれほど理解しているか、わたしの経験の深さはどうか、そしてわたしが何かを理解しているかどうか。神はこれらを熟知されています。わたしは神の前でむき出しにされているのです。何の必要があって自分の欠点を隠し、すべてを理解している振りをするのでしょう? 実際のところ、いつも打算を働かせ、他人を観察してその人の考えを推測し、何を言うべきかと知恵を振り絞ることは、精神的にも知能的にも疲れることであり、神はそれを憎まれます。そのときやっと、心から無垢で率直であることの重要性がわかりました。神はそれを大切になさいますし、より自由で落ち着いた生き方でもあります。また、神は人の素質や、その人の意見が正しいかどうかだけをご覧になるのではないこともわかりました。神はわたしたちの心、真理に対する態度、そして途中でどういった性質を表わしているかをご覧になります。たとえ間違うことがあっても、心を開いて正直でいるなら、わたしたちが愚かだったり素質に欠けていたりすることを神は気になさらず、そのために断罪なさることもありません。それとは逆に、いつも不実でいると、神はそれを嫌悪し、憎まれます。わたしはその時点で、真理を実践して正直な人になろうと決意しました。神がお作りになる環境の中で神に心を開き、他の人たちと接するにあたって正直になり、心から話して自分が理解していることを打ち明ければ、偽善的で不実な堕落した性質を徐々に解決することができます。

指導者のもとに行き、中身のない歌詞が二行ある教会の賛美歌について相談したときのことを思い出します。その指導者はそれらの歌詞については何も言わず、この賛美歌に価値はないし駄目だと言いました。するとわたしの口から「そうですね」という言葉が漏れました。その瞬間、自分が再び不実でいることに気づいたのです。指導者がその中に見た問題をわかっていないのに、イエスマンになってわかった振りをしていました。口を開いた瞬間、嘘が飛び出たことに嫌気が差し、うまくごまかすのはやめようと思いました。理解していないことに変わりはないのですから。すると神の御言葉が頭に浮かびました。「あなたがたは言動において純粋であるべきだ(『神の出現と働き』「三つの訓戒」〔『言葉』第1巻〕)。たった今ついた嘘を改め、正直にならなければなりません。そこで指導者にこう言いました。「この二行には問題があると思います。この賛美歌に価値がないとは思いませんでした」。指導者はこの賛美歌の問題について辛抱強くわたしたちと交わったのですが、おかげで歌詞に関する理解が多少深まり、安心感を覚えました。実のところ、自分の言動や見方を偽装する必要はなく、実践的かつ現実的な、正直な人でいられるのです。わたしはまた、同じチームの兄弟姉妹が問題を話し合っている際に正直でいることも実践し始めました。自分が正しくても間違っていても、本当の意見を伝えたのです。理解していないことがあれば率直に認め、間違っていればその間違いを修正しました。すると心が大いに安らぎました。真の正直な人の基準にはまだまだ程遠いですが、正直でいることの重要性を実感するとともに、それが神に救っていただく唯一の道であることを知っています。正直な人になることを心から目指しており、それに向かって努力を続け、追い求めていきたいと思います。神に感謝します!

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