祝福の追求は神の御旨にかなうのか

2023年9月26日

2018年、幸運にも終わりの日の全能神の働きを受け入れました。主の再臨をお迎えできると、大いに胸が躍ったものです。程なく、福音伝道の練習を始めましたが、日中は働き夜に疲れて帰宅するので、なかなか本分に集中できませんでした。仕事を辞め、福音伝道に専念したいと思いましたが、現実はそれを許しませんでした。五人の子供を養っており、学校に行かせなければ子育てに不適だと政府に判断され、取り上げられる。ストレスだらけの生活でしたが、わかっていました。被造物として、困難がどれだけ大きくても、絶対に本分を尽くさないと。

2019年、教会指導者になり、ますます多忙になったので、仕事を週六日から四日に減らすことにしましたが、わたしの犠牲を、おそらく神は祝福してくださる。勤務時間を短くしたので収入は減りましたが、生活への影響はさほどありませんでした。万事順調に進み、健康問題も、トラブルに見舞われることもなかったからです。生活がこんなに穏やかなのは、神のため熱心に費やしたのだから当然だと思っていました。本分を尽くす時間が増え、とても幸せでした。でも、疫病発生後の2021年、突然すべてが変わってしまったのです。

疫病のせいで、経営していた美容室の収入が激減してしまい、家賃すら払えなくなりました。そこで、家賃が安い場所に移らざるを得ませんでしたが、そこは改装が必要でした。改装を手伝ってくれる人を見つけたものの、数週間後、改装には時間がとてもかかり、自分は他に仕事が多く人手が足りないといって、手を引いてしまいました。この事態を知った近所の人たちやお客さんは、新しい店が完成しないなら、両方の家賃を払い、とても高くついてしまう、どうして信者のあなたにそんなことが?と言いました。最初はそれに、何事も神の支配と采配次第、文句を言うわけにはいかないと、自信満々に答えました。その後、別の作業員を見つけましたが、こちらも身体を壊して辞めてしまいました。時間が過ぎるばかりで、店の改装は終わらない。三ヵ月にわたり、両方の店の家賃を払う羽目になりました。その直後、新しい店で水漏れが起き、場所を特定するため天井を外すことになってしまいました。改装費用はすでに、三千ポンドに達している。腹が立つと同時に困惑しました。なぜこんな目に遭うのか――こんなにお金がかかるのはなぜなんだ?これまでずっと、神の助けで優秀な作業員が見つかるはずだと思っていましたが、暖房設置の途中で辞めてしまうし、水漏れのせいで、改修した暖房の半分が壊れてしまった。そのタイミングでわたしもコロナにかかってしまい、文句を言うようになりました。こんなことが起きるのを、神がお許しになるのはなぜなんだ?自分は収入を犠牲にして、教会で本分を尽くしている。なのになぜ、これほど多くの困難に見舞われているのか?心の中は不満でいっぱいで、

その後は本分にも身が入らなくなりました。本分を尽くしてはいたものの、まったく気乗りせず、店の問題をどう解決するかで頭がいっぱいでした。心から困惑し、そのため集会でも集中できず、それまでずっと作っていた集会後のまとめも、やる気がなくなってしまいました。また以前は睡眠時間を削ってでも、みんなと交わり問題を解決していたのに、今では相談しに来ても、電話に出るのすら嫌になった。兄弟姉妹の状態がよいかどうか、本分で苦労していないかを調べ、その困難を基に御言葉を交わっていたけれど、そのやる気もなくなってしまった。本分でますます手を抜くようになったのです。ある日、上級指導者に言われました。責任を背負い、新信者のために集会を開き、きちんと潤す必要があり、漏れがあってはだめだと。彼女の采配に抵抗を感じました。それだと、家庭を顧みる時間がなくなってしまう。空いた時間は家族や友人と過ごしたい。肉体の安らぎがもっとほしい。状態はますます悪くなり、デボーションや御言葉の読書すらしたくなくなりました。以前は早起きして御言葉を読み、日中は朗読を聴いていたのに、今は早起きするのも、御言葉を読むのも嫌になった。努力したのに祝福されず、何度も躓きに遭ったからです。集会でも何を交わればいいかわからず、少なくとも教会での地位を守れるよう、何も問題ない振りをするだけ。本分でも悪知恵を働かせるようになり、誰かに状況を訊かれると、終わってもいないのに完了したと答え、兄弟姉妹を騙しました。こんな態度を取ったのは、ひとえに神が祝福なさらず、多くの困難に遭わせたから。神への畏れを見せておらず、まして崇めてなどいない。

状況のひどさに、自分の現状を指導者に伝えたところ、御言葉のこの一節をわたしに読ませました。「人が試練を受けている際に弱くなったり、自分の中で消極性が生じたり、神の旨や自分の実践の道が明らかでなくなったりするのは普通のことである。だがいずれにせよ、あなたは神の働きを信じなければならず、ヨブのように、神を否定してはならない。ヨブは弱く、自分が生まれた日を呪ったにもかかわらず、人生におけるすべての物事がヤーウェによって授けられること、そしてそのすべてを奪うのもまたヤーウェであることを否定しなかった。いかにして試されようとも、ヨブはこの信念を堅持した。あなたが自分の経験の中で、神の言葉を通じてどのような精錬を受けようとも、神が人類に求めるのは、要するに神への信仰と愛である。神がこのようにして働きを行なうことで完全にするのは、人々の信仰と愛、そして志である。神は人々を完全にする働きを行なうが、人はそれを見ることも、それに触れることもできない。こうした状況において、あなたの信仰が必要とされるのである。肉眼で見えない何かがあるときに、人々の信仰が必要とされる。また、あなたが自分の観念を捨てられないとき、あなたの信仰が必要とされる。神の働きについてよく理解できないとき、あなたに求められるのは信仰をもつこと、そして揺るぎなく立って証しをすることである(『神の出現と働き』「完全にされる者は精錬を経なければならない」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉を読んでわかりました。現状における神の意図を、わたしはまったく理解していない。無力と絶望を感じ、神の統治さえも疑っている。それなのに、自分は神の敬虔な信者だと、繰り返し言い張っている。商売が順調で元気なときは、たくさん祝福してくださった神のため、もっと自分を費やそうと思ったのに、苦境に見舞われ、生活が困難になると、神を責め始めた。信仰があると言えるのか?家族と資産、子供たちをすべて失ったヨブは、神を責めず、御名を称えさえした。妻に信仰を捨てるよう促されても、彼女を愚かな女と言った。「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」(ヨブ記 2:10)。ヨブは神への信仰で取引も要求もせず、祝福されても災難に遭っても、神に服従した。神に対する真実の信仰があったのです。自分は到底比べものにならないと思いました。生活で次々困難に見舞われると、心の中で恨み言を言った。信者なのになぜそんな目に遭うのかと知り合いに訊かれると、何も問題ないと言い張ってはいても、やがて徐々に心が揺らぎ、神の統治を疑い始めた。ヨブの経験を通じ、サタンが他人の言葉を武器にわたしを攻撃し、神を拒ませ、責めさせようとしているのだと気づきました。その経験の中、わたしに証しは一切なく、サタンの笑いものになっていた。自分の振る舞いに、恥と後悔で一杯になりました。

その後、さらに別の御言葉を読みました。「人々は人生経験を重ねる中で、『自分は神のために家族も仕事も捨てた。神はわたしに何を与えてくれただろうか。数え上げて確かめてみなければ。最近、自分は何か祝福を受け取っただろうか。この間ずっと多くを捧げ、走り回り、多くの苦しみを受けてきた。神はその報いとして何か約束して下さっただろうか。神はわたしの善行を憶えているだろうか。わたしの最後はどうなるだろう。神の祝福を受け取れるだろうか……』とたびたび考えます。誰もが心の中で常にそのような計算をし、自分の動機、野心、そして取引を好む心構えにかなう要求を神にします。つまり、人間は心の中で常に神を試み、神に関する計画を絶えず練り、自分個人の結末のために絶えず神に対して弁護を行ない、神からの弁明を引き出そうとし、自分のほしいものを神が与えられるかどうかを見ているのです。人間は神を追い求める一方で、神を神として扱いません。神と取引しようといつも試み、絶えず神に要求しつつ、一つ与えられればその次は十を取れるよう、事あるごとに神に強要さえします。人間は神と取引しようと試みながら、同時に神と口論もし、中には試練が降りかかったり、ある種の状況に置かれたりするとしばしば弱くなり、働きの際に消極的になって怠けるようになり、神に対する不満で一杯になる人さえいます。人は神を信じ始めた時から、神を豊穣の角や万能ナイフのように考え、自分は神に対する最大の債権者だと見なしてきました。それはあたかも、神から祝福と約束を得ようとするのが自分の当然の権利と義務であり、神には人を守って労り、施す責任があると言わんばかりです。神を信じるすべての人にとって、『神を信じる』ということの基本的な理解はそのようなものであり、それが神への信仰の概念に関する最も根深い認識なのです。人間の本性と実質からその主観的な追求に至るまで、神への畏れに関係することは一切ありません。人が神を信じる目的は、神を礼拝することとは何ら関係ないのです。つまり人は、神への信仰には神に対する畏れと神を礼拝することが必要だとは、考えもしないし理解もしないのです。このような状況を考えれば、人間の本質は明らかです。その本質とは何ですか。人間の心は邪悪で、陰険で、ずる賢く、公正と義、および肯定的なものを愛さず、卑劣で貪欲だということです。人間はこれ以上神に心を近づけることができません。神に心を捧げてなどいないのです。神が人の本当の心を見たことはなく、人間に礼拝されたこともまったくありません。神がいかに大きな代価を払っても、どれほど働きを行なっても、どれほど人間に与えても、人間は盲目のままで、そのすべてに対してまったく無関心です。人間が自分の心を神に捧げたことはなく、自分の心の面倒を見て、自分で決断したいと思うばかりです。それが意味するのは、人間は神を畏れて悪を避ける道に従うことも、神の主権と采配に従うことも、神を神として礼拝することも望んでいないということです。それが今日における人間の状態です(『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」〔『言葉』第2巻〕)。「彼らがどのようにして試されるとしても、心の中に神がいる者の忠誠は変わることがない。しかし、心の中に神がいない者たちは、神の働きが自分の肉に有利でないならば、神に対する見方を変え、神のもとを離れさえする。これが、最後に揺るぎなく立てず、神の祝福を求めるだけで、神のために自分を費やし、神に自分自身を捧げる意欲が一切ない者である。このような下劣な人々は、神の働きが終わりを迎えるときに全員追放され、同情にも値しない。人間性が欠如している者たちは、神を真に愛することができない。状況が安全で平穏なとき、あるいは得られる利益があるとき、彼らは神に対して完全に従順であるが、ひとたび自分の望みが損なわれたり、最終的に否定されたりすると、彼らはただちに反乱を起こす。ほんのひと晩のうちに、彼らはにこやかで『心優しい』人間から、醜く残忍な殺人者となり、何の理由もなく、昨日までの恩人を生かしておけない敵として扱う。瞬きもせずに殺しを行なうこれらの悪魔らが追放されていないなら、それらは隠れた危険になるのではないか(『神の出現と働き』「神の働きと人間の実践」〔『言葉』第1巻〕)。わたしの心の奥底に潜むものを、御言葉は示しました。わたしが神を信じているのは、服従して崇めるためでなく、むしろ恵みと祝福に浴するため。本分を尽くせるようにと仕事と収入を減らしたのも、もっと祝福されるため。払った犠牲はどれも、ただ神との取引の試みであって、真の信仰や愛からではまったくない。生活で問題が生じ始めたとき、最初はしっかり本分を尽くした。この苦難を乗り切れば、ますます神に祝福されると思ったから。しかし困難が続き、新しい店で問題に見舞われ、大金を失うと、本分を尽くす気力を失い、神を責め始めた。神の祝福がなく、以前ほど神のために働こうとする気がなくなり、自分の快楽ばかり考えるようになった。自分の考え方は、現在の困難からの攻撃に絶えず晒され、そうした困難の中、わたしは神の御旨も、真理を実践してしっかり立つ方法も求めなかった。むしろ金銭面の問題を解決しようとして、いい加減に本分を尽くして無責任になるほどだった。心の中に神の居場所がない。本分に対する自分の態度、神への態度を通じ、真の信者ではないとわかりました。神を愛すると言い張りながら、生活が苦しくなると神を責め、言い争って取引するほど。神が言われる通りです。「ほんのひと晩のうちに、彼らはにこやかで『心優しい』人間から、醜く残忍な殺人者となり、何の理由もなく、昨日までの恩人を生かしておけない敵として扱う」。わたしの振る舞いはまさに、御言葉で暴かれているのと同じ。本分をしっかり尽くすのは神に祝福された時だけで、まるで債務者のように振る舞い、自分が欲しいものを神に要求していた。実際には、神はわたしにいのち、そしてすべてを授けた。それは十分すぎるほど。それなのに、神を責めて理屈を並べ、言い争うのはなぜなのか?しかも、本分をしっかり尽くさず神に逆らった。反省すればするほど恥ずかしくなりました。神に悔い改めなければ、わたしなんか神に嫌われ、追放されないか?心の中で神に祈りました。「神よ、わたしには良心がまるでありません。あなたの恵みを山ほど得ながら、次から次へとあなたに要求するばかりです。欲望が満たされないと、消極的になって文句を言います。神よ、わたしは自分の正体を見て、自分が嫌になりました。このような間違った追求を変えられるよう、どうかお助けください」。

その後、この御言葉を読みました。「あなたが追い求めているのは、神を信じた後に平安を得られるようになること――つまり、自分の子が病気にかからないこと、夫がよい職に就くこと、息子がよい妻を見つけること、娘がしっかりした夫を見つけること、牛や馬がうまく土地を耕すこと、一年間、作物に適した気候となることなどである。これが、あなたの求めることである。あなたの追求は、ただ快適に暮らすためであり、自分の家族に事故が起こらないこと、風が自分に当たらないこと、顔に砂がかからないこと、一家の作物が洪水に遭わないこと、自分が災害を受けないこと、神に抱かれて生きること、居心地のよい住処で生活することである。常に肉を求める、あなたのような臆病者には、心や霊があるだろうか。あなたは獣ではなかろうか。わたしは何も見返りを求めずに、真の道を与えるが、あなたは追い求めない。あなたは神を信じる者の一人なのか。わたしは真の人生をあなたに授けるが、あなたは追い求めない。あなたは豚や犬と何が違うのか(『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」〔『言葉』第1巻〕)。「堕落した人類は誰もが自分のために生きています。『己を怠る者は天罰を受け、地が滅ぼす』。この言葉が人の本性を要約しています。人は自分自身のために神を信じています。神のために何かを捨て自分自身を費やすのは祝福を得るためであり、神に忠実なのは、報いを受けるためです。要するに、何もかも祝福され、報いを受け、天国に入る目的で行なわれるのです。社会では、人は自分の利益のために働き、神の家では祝福を得るために本分を尽くします。人がどんなものでも捨て、多くの苦しみに耐えられるのは、祝福を得るためです。人のサタン的本性について、これ以上によい証拠はありません(『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉を読んで、自分の勝手さと卑劣さがわかりました。「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」という考えに操られ、何をするにしてもそこから利益を得なければと思い、そうでなければしたくなかった。こうした哲学や考えが心に深く根を張り、いつも自分のために生きていた。神への信仰や犠牲さえも、目的の一つ、祝福のためだった。わたしは神を騙し、とてつもなく自分勝手で狡猾だった。個人の利益、そして神の恵みと祝福を得る方法を絶えず追い求めていた。望むように神が祝福されないと、つらくなって不満が膨らんだ。この状況における神の御旨は何か?それを求めも考えもせず、気にもしなかった。ただ肉体の利益に集中するばかり。真理を得る機会を失っていたのでは?終わりの日、神はわたしたちを救うべく肉となって来られ、多くの御言葉を語り、血と汗と涙をわたしたちに注がれた。これらの御言葉を通じ、わたしたちが罪と悪から自由になり、サタンの堕落と害から逃れるために。でも自分は真理を追い求めず、あまりに軽視している。ただ肉の快楽に貪欲で、そればかり考え計算している。そんな振る舞いを続けていたら、わたしのような人を神はどうしていただろう?結局淘汰され、滅んでいたはず。心の中で祈りました。「神よ、どうかお救いください。自己認識して実践の道を見つけられるようにしてください」。毎日こうした祈りを唱えました。

その後、この御言葉を読んだのです。「あなたは、神を信じるとは苦難を受けること、または神のためにありとあらゆることを行なうことだと考えているかもしれないし、神を信じる目的は自分の肉が平和であるため、人生において万事が順調に進むため、あるいは自分があらゆることにおいて快適かつ気楽でいられるためだと思っているだろう。しかし、これらの目的はどれも、神への信仰に付随させるべきではないものである。あなたがそうした目的のために信じているのであれば、あなたの見方は誤りであり、あなたが完全にされることは不可能である。神の業、神の義なる性質、神の知恵、神の言葉、そして神の不思議さと計り知れなさは、どれも人々が認識すべきことである。そうした認識をもち、またそれを使うことで、自分の個人的な要求、希望、および観念を心の中から残らず取り除きなさい。これらのことを排除して初めて、あなたは神から求められる条件を満たすことができる。そうすることでのみ、あなたはいのちを得、神を満足させられるのである。神を信じる目的は、神を満足させ、神が求める性質を生きることで、神の業と栄光がこの無価値な人々の集団を通じて示されるようにすることである。これが神を信じる正しい観点であり、あなたが追求すべき目標でもある(『神の出現と働き』「完全にされる者は精錬を経なければならない」〔『言葉』第1巻〕)。「人の本分と、その人が祝福を受けるか厄災に見舞われるかのあいだには、何の相互関係もない。本分とは人間が全うすべきことであり、それはその人の天職であって、報酬や条件、理由に左右されるべきではない。そうしてはじめて、その人は本分を尽くしていることになる。祝福されるとは、裁きを経験した後、その人が完全にされ、神の祝福を享受するということである。厄災に見舞われるとは、刑罰と裁きの後もその人の性質が変わらないこと、完全にされることを経験せずに罰せられることである。しかし、祝福されるか厄災に見舞われるかに関わらず、被造物は自身の本分を尽くし、自分が行なうべきことを行ない、できることをしなければならない。これが、人がすべきこと、つまり神を追い求める人がすべき最低限のことである。あなたは祝福されるためだけに本分を尽くそうとしてはならない。また、厄災に見舞われることへの恐れから、行動することを拒んではならない。一つだけ言っておこう。自分の本分を尽くすことこそ、その人のなすべきことであり、本分を尽くすことができないとすれば、それはその人の反抗心である(『神の出現と働き』「受肉した神の職分と人間の本分の違い」〔『言葉』第1巻〕)。自分は神を真に信じていると何度も言い張ったけど、それは想像に過ぎないとわかりました。わたしの信仰は、テモテへの第二の手紙4章7~8節でパウロが述べたものと同じです。「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである」。主に奉仕したパウロは、義の冠を待っていた。それが、つまり祝福が、彼の信仰の目的でもあったのです。信仰の意義と、信仰ですべき正しい追求を御言葉から教わり、それまでの間違った道を変えようと思いました。そのままなら、ますます堕落し神の敵になるからです。わたしは親孝行をせず、両親に要求するだけの子供と同じ。そんな子供を両親は決して喜ばず、つらい思いをするだけ。信仰における自分の動機と観点に恥ずかしくなりました。どんな報いを神から得ようと望んでいるのか?神の恵みと祝福をすでにたくさん享受し、御言葉の真理から多くの糧を得て、神の気遣いと加護を受けているし、呼吸する空気、浴びる太陽、日々の食事は言うまでもない。それはみな神から授かったもの。まさにこのいのちも神が授けた。創造主の愛にどう報いるべきか?存在のすべてを捧げても、神に報いることは絶対にできない。それでもわたしは神を責め、言い争い、神と取引しようとした。本当に人間性に欠け、自己認識が一切ない。神に従い本分を尽くすのは義務であり、何より当然で正しいこと。同時に真理を追い求めて救いを得る、神から与えられた機会でもある。本分を尽くさなければ真理を得られず、堕落した性質も変えられない。神に感謝!本分の遂行は被造物がすべきこと、人の義務だとようやく気づきました。本分の遂行が神との取引であってはならない。また、どんな困難に遭おうと、病気になろうと商売が不調だろうと、それを受け入れ文句を言うべきではないとわかりました。これが被造物として持つべき理知と態度です。これに気づかせてくれた神に感謝しています。今は収入も少なく、生活水準も少し落ちましたが、倹約に励んで支出を減らし、生活できています。また健康問題や生活の困難で本分に影響が出ないようにしており、引き続き兄弟姉妹を助け、本分の各業務を全力で行なっています。この状況を経験したおかげで、自分の勝手さと卑劣さがわかり、信仰と追求における間違った見方に多少気づけました。これはすべて御言葉の導きのおかげです。

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