立場を明確しないことの裏にあるもの

2022年12月9日

韓国 沐希

以前、本分の効率が低かったことがあるの。映像制作を担当するたび、さんざん修正を繰り返して、全体の進行をひどく妨げてばかり。最初は、自分の意見がないせいだと思った。兄弟姉妹から修正を提案されるたびに、原則に照らしてそれが必要かどうかを考えず、ただ提案通りに変えるだけだったから。筋の通らない提案で、延々手直しすることもあったわ。その後、刈り込みと取り扱いを受け、御言葉の内容を当てはめて反省したあと、気づいたの。自分の意見がないことの裏には、サタン的性質と卑劣な意図があったと。

それは数ヵ月前のこと。その後、傲慢にも絶えず持論にこだわり、他人の意見を受け入れず、作業の進行をひどく妨げている兄弟姉妹がいたの。リーダーが何度も交わり、暴いても改まらないので、彼らは解任された。そこで私は、「今後誰かが助言してくれたら、持論にこだわるのはよくない」と考え、映像制作を終わらせるたびに、まわりから意見が上がれば、ほとんどいつもそれを受け入れ、変える必要がない些細な問題でもそうしてたの。でも実は、原則に合わない変更があったり、些細な修正があったりしたんだけど、受け入れなければ責任者や兄弟姉妹から悪く思われないか心配だった。助言に耳も傾けられない傲慢な人物だと思われない? 真理を受け入れられないという悪い印象を与えてしまえば、すぐに解任されてしまうんじゃない? それに、自分の意見が100%正しいという自信もなくて、私の考え違いのせいで必要な修正が漏れてしまったり、映像の配信後に問題が見つかったりすれば、私が責任を問われてしまう。そう考え、身の安全を守るため、修正案をすべて反映させた。別の提案があれば複数のバージョンを作り、責任者にいいものを選んでもらうか、または会議で兄弟姉妹と話し合い、最終案を一緒に決めた。私は思った。「責任者と、兄弟姉妹の大半が下した決断なんだから、これが多数派の意見で、大きな問題はないはず。これが一番安全な方法。今後問題が生じたとしても、私一人の責任ではない」と。時には、提案があまりにも多くて、どう修正すればいいかわからず、責任者に電話をかけて、方向性を訊ねることもあった。それに、提案が多すぎて、結局どうしたらよいか分からなくなったりもしたわ。本当に能率が低かったの。会議ではいつも、色んな提案から選ぶのを兄弟姉妹に手伝ってもらい、本分を尽くす時間を奪って作業の進行を遅らせてた。

ある時、映像の背景画像を制作したの。罪の中で生きる人々の苦しみを表現する必要があり、暗いトーンと逆光照明を組み合わせたんだけど、兄弟姉妹の中から、これでは暗すぎて見栄えが悪いので、画像をもう少し明るくして、陰影効果を加えてはどうかという意見が上がったの。でも、私はためらった。テーマを考えれば、画像を明るくしすぎると、暗闇の底で生きる人々の雰囲気に合わないし、明度を上げると物理的な法則に反してしまう。筋の通らない提案だと思ったわ。でも、何人かがその提案をしたのだから、私がその通りにせず、配信後の映像に影響が出たら、私の責任になってしまう。そう悩んでいた矢先、リーダーも修正に賛成していることを知って、私は妥協しはじめた。持論を振りかざして修正を拒んだら、自分の意見にこだわっていると、みんなに思われないか。修正が面倒だから言い訳しているんだと思われないか。そこで、私は考えるのを止めた。問題が生じても、私一人の責任にはならないはず。皆の提案に従って修正したんだから。筋の通らない修正だと思いながら、かなりの時間を費やして映像を修正したわ。ようやく終わったところ、責任者が関連する原則と実際の効果に照らして評価したんだけど、現実的でないから元に戻すよう指示したの。おまけに近ごろ、私の本分の尽くし方がどうにも受け身で、みんなの提案に意見を言わず、作業の進行を遅れさせているから、反省しなさいって言われたわ。それ以来、ずっと心が落ち着かず、罪悪感でいっぱいだった。画像の修正にずいぶん時間をかけたのに、元に戻さざるを得ず、作業の進行を遅らせてしまった。近ごろは他の提案があるたび、実際には自分の意見があるのに、傲慢だと言われるのが嫌でそれを口にしないと気づいた。よくわからないことがあると、真理の原則を求めず、他人が決めてくれるのを待つだけで、人の指示通りに動いてた。そのような本分の尽くし方はあまりに受動的で、神の家の働きを遅らせてしまった。私は神の御前に出て祈り、反省できるようお導きをと願った。

その後、御言葉の朗読動画を観たの。「神の家で本分を尽くせる人は、教会の働きという重荷を担い、責任を負い、真理の原則を堅持し、苦しんで代価を払う人でなければなりません。こうした領域における不足は、本分を尽くすのにふさわしくなく、本分を尽くすための条件を備えていないことです。本分を尽くす中で責任を負うことを恐れる人が数多くいます。そのような人の恐れは、おもに三つの形で表われます。第一に、責任を負う必要がない本分を選びます。教会指導者の采配でそのような人が本分を尽くすことになると、その人は責任を負う必要があるのかどうかとまず尋ねます。責任を負う必要があれば、その本分を受け入れません。必要がなければ、本分をしぶしぶ受け入れますが、それでもその働きが疲れるものであったり、退屈なものであったりするかどうかを確認しなければなりません。また本分をしぶしぶ引き受けながらも、それをしっかり尽くそうという気はなく、やはり不注意でいい加減であることを好みます。苦労ではなく快楽があり、肉体の苦しみがないことが、そういった人の原則なのです。第二に、その人に困難が降りかかったり、問題が起こったりすると、自分が気楽なままでいられるようにと、まずそれを指導者に報告し、処理と解決を任せるという手段をとります。指導者が問題をどのように処理するかは気にせず、注意を一切払いません。自分が責任を問われなければ、万事それでいいのです。このように本分を尽くすのは、神に対して忠実なことですか。これは責任転嫁、職務怠慢、さぼりと呼ばれるものです。どれも口先だけで、実際のことを一切行なっていません。そんな人は自分にこう言い聞かせます。『この件を処理するのが自分なら、過ちを犯したらどうなるだろうか。ひとたびこの問題が調査されたら、自分が最終的に責任を負うことになるのではないか。その責任はまず自分に降りかかることにならないだろうか』。このようなことを心配するわけです。さて、神はあらゆる物事を調査できると思いますか。間違いは誰でも犯します。正しい意図を持ちながら、経験がなく、ある種の事柄をこれまでに処理したことがないものの、最善を尽くしたならば、そのことは神に見えています。神はあらゆる物事と人の心を吟味すると信じなければなりません。このことさえ信じないなら、それは不信者ではありませんか。そのような人が本分を尽くすことに、何の意義があるでしょうか。責任を負うことへの恐怖には、もう一つの表われ方があります。本分を尽くす際、わずかばかりの表面的で単純な働き、責任を伴わない働きしか行なわない人がいます。困難や責任を伴う働きは他人に押しつけ、何かがうまく行かないと、その人に非難をなすりつけて自分は責任を逃れるのです。この人は無責任だと判断した教会指導者は、この人が責任を負えるようになるようにと、辛抱強く助けを提供したり、刈り込んだり取り扱ったりしますが、その人はやはり責任を負いたがらず、このように考えます。『この本分をしっかり尽くすのは難しい。うまく行かないと責任を負わなければならないし、もしかしたら辞めさせられ、追放されるかもしれない。そうなればわたしは終わりだ』。これはどのような態度ですか。本分を尽くすことにおいて責任感がなければ、どうして本分をしっかり尽くすことができますか。神のために真に自分を捧げていない人は、どんな本分もしっかり尽くすことができません。責任を負うことを恐れる人は、本分を尽くす際に物事を遅らせるだけです。このような人は信用も信頼もできません。自分の腹を満たすために本分を尽くしているだけです。このような『物乞い』は追放されるべきですか。されるべきです。神の家がこのような人を必要とすることは決してありません(『反キリストの本性と実質を暴く』の「彼らは他人を自分たちだけに従わせ、真理や神には従わせない(1)」)。御言葉は私の状態を明かしてる。私はあの頃の本分の尽くし方を振り返ったわ。助言がずいぶん多くなったとき、的外れなものもあることに気づいたし、原則に反する修正や不要な修正もあった。なのに私は、みんなの助言を聞き入れないと、何か問題が生じた際に一人責められるのではと恐れた。それに、あくまで持論にこだわれば、傲慢で真理を受け入れないという悪印象を与えかねないと不安で、みんなの好みや意見に迎合して、提案されれば変更し、何度も修正して複数のバージョンを作るほどで、判断は責任者や兄弟姉妹に任せてた。責任を負うことを恐れて、真理の原則を求めることも、自分で決断することもなかったの。そのほうが安全だと思った。みんなで決めれば問題が生じる恐れは少ないし、かりに問題が起きても、私一人の責任にはならないから。表面上は本分にかかりきりで、神の家を守っていたけど、実際には自分の利益を考慮し、自己防衛と責任回避ばかり考えてた。ただ策を弄してただけじゃない? そんな本分の尽くし方はただの表面的な努力で、言われたことをするだけ。自分から主体的にものを考えず、本分に責任を負おうとせず、神の家の利益も考えない。人間性がまったくないわ。誠心誠意本分を尽くす人は、何事においても神の家の利益を考え、理解できない問題に出くわしたときは、神の御旨と真理の原則を求め、神と心を一つにして本分を尽くす。でも私はまったくもって不誠実だし、本分にもまるで心がこもっておらず、雇われ人のように、作業の指示をただ待つだけ。真理の原則に沿って問題を解決しようとせず、そんな調子で本分に取り組んでいたせいで、神や真理と無縁なままで、ただ惰性で動き、効力者にも劣る存在だったの。

別の御言葉を思い出したわ。「人の行ないが善か悪かを判断する基準は何ですか。それは、考えや表現や行動において真理を実行に移し、真理の現実を生きる証しを有しているかどうかによります。その現実がなかったり、それを生きていなかったりすれば、疑問の余地なくあなたは悪を行なう者です。神は悪事を行なう人をどのように見ていますか。あなたの考えや外面的行動は神の証しをするものでも、サタンを辱めたり打ち負かしたりするものでもありません。むしろ神を辱めるものであり、神に恥をかかせる印に満ちています。あなたは神への証しをしておらず、神のために自分を費やしておらず、神に対する責任と義務を果たしていません。むしろ自分のために行動しているのです。『自分のために』とは何を意味していますか。正確には、サタンのために、ということを意味しています。ゆえに、神は結局『不法を働く者どもよ、行ってしまえ』と言うでしょう。神の目から見ると、あなたは何の善行もしておらず、むしろあなたの振る舞いは邪悪なものに変わってしまったのです。神の承認を得られないだけでなく、断罪されてしまいます。神をこのように信じている人は、何を得ようと求めていますか。このような信仰は結局無に帰してしまうのではないでしょうか(『終わりの日のキリスト講話集』の「自分の真心を神に捧げると真理を得ることができる」)。御言葉でわかった。神は人の心をご覧になり、働きや苦しみの量はご覧にならない。むしろ、本分における動機が神のためか、自分のためかを見て、本分で真理を実践するという証しがあるかどうかを確かめる。本分で自分を満足させるばかりなら、神の目には悪と映り、神はそれを忌み嫌う。御言葉を通じて、私は自分のためだけに本分に尽くしていたことを自覚できたの。責任を回避したい一心で、どれだけ時間がかかろうと、無関係な問題を解決して、何度も画像を作り直した。自分の意志に反して的外れな修正を重ねていったせいで、映像は悪くなるばかり。神の家の働きを遅らせたのに、不安も切迫感もまるでなく、真理の原則を求めて効率を上げようともしなかった。本分を尽くしていてもただ流れ作業のようにこなすだけで、修正してみんなが納得するなら、それでいいと思ってた。そんな無責任な振る舞いでは、本分を尽くしていると言えないし、善行を積むどころか悪事そのもの。神の家にとって、今は福音を広める大事なとき。映像配信は急務なの。でも私は堕落した性質のせいで、何度も作り直しをして配信を遅らせてしまい、自分の利益を守るために神の家の働きを何度も妨げ、ただサタンのしもべとして行動し、神の家の働きを妨げてたの! それに気づくと、もう怖くてたまらなくて、すぐさま神に祈り、本分への態度を改めて堕落した性質を解決する導きを求めたの。

その後は本分で違う提案を受けるたび、真っ先に神の御前で祈るとともに、必要な修正とそうでないものを区分けして、効率を高めてよりよい成果を挙げる方法を考えた。不要な変更案については、私が理解している原則に沿って意見を述べ、みんなと探求して交わるうちに、いくつか意見を認めてもらった。そのように実践することで、本分の効率も上がったわ。自分は多少変化したと思ったけど、責任を問われる事態が再び起きて、また受け身になり始めたの。

ある時、短編映像を作っていると、画像の細部についてみんなの意見が違っていたの。議論を重ねても、どう修正すればよいか結論が出ず、しばらく行き詰まった。正直言って、これは短編だから、見た目がよくて、人物の体型と画像が現実的なら、細部にこだわる必要なんかない。でも、提案をたくさん聞くうち、どうすればいいかわからなくなった。自分の思いつきで修正をして、映像の配信後に問題が起きたら、いったいどうなるかしら? 私の責任にされるはず。責任を問われることを恐れ、みんなの提案を基に複数のバージョンを作り始め、最終決定してくれるのを待ったの。でも結局、明確な答えは聞けなかった。時間ばかり過ぎてゆき、私は心配でたまらなくなった。自分はまた制作を遅らせているの? もう不安でたまらず、こう自問した。「決断を下すことがどうしてそんなに難しいの? 両手を縛られた気がするのはいったいどうして?」そこで神の御前で祈り、反省して自己認識する、導きを求めたわ。

その後、御言葉の一節を読んだの。「誠実な人であり、問題に直面したときは責任感を持ち、真理を求めて問題を解決する方法を見つけなければなりません。不誠実な人であってはなりません。責任から逃れ、問題が生じたときに手を引くなら、信者でない人でさえあなたを非難します。神の家が非難しないとでも考えているのですか。神の選民はそうした振る舞いを軽蔑し、拒みます。神は誠実な人を愛しますが、不実で狡猾な人を憎みます。あなたが不誠実な人として行動し、策略を用いようとするなら、神があなたを憎まないということがありますか。神の家があなたを大目に見るでしょうか。遅かれ早かれ、あなたは責任を問われます。神は誠実な人を好み、不誠実な人を嫌います。誰もがこのことをはっきり理解し、混乱して馬鹿げたことをするのを止めなければなりません。束の間の無知は無理もないことですが、真理をまったく受け入れようとしないのは、頑なに変化を拒むことです。誠実な人は責任を引き受けることができます。自分の損得を考えるのではなく、神の家の働きと利益を守ります。このような人には親切で誠実な心があり、それはあたかも透明な水が入った鉢のようで、一目で底を見ることができます。このような人は行動においても透明です。不実な人は絶えず策略を働かせ、物事を偽り、悪事を覆い、自分をすっかりつつみ隠すので、誰も彼らを見抜けません。人はあなたの奥底の思いを見抜けませんが、神はあなたの心の一番深いところにある物事を見抜けます。神があなたのことを誠実ではなく、狡猾で、真理を決して受け入れず、いつも神を騙そうとしており、心を神に差し出さない人であると判断すれば、あなたを愛することはなく、あなたを憎んで見捨てます。非信者たちのあいだで成功している人たち、つまり弁が立って頭が切れる人たちは、どのような種類の人間ですか。あなたがたはこのことがわかりますか。彼らの本質は何ですか。彼らはみな並外れて抜け目がなく、極度に狡猾で信用できず、本物の悪魔サタンだと言うことができます。神は果たしてこのような人を救うでしょうか。神は悪魔、すなわち狡猾で卑劣な人をこの上なく憎みます。神がこのような人を救うことは絶対にありません。ですから、何をするにしても、あなたがたはこのような人になってはいけません。抜け目がなく、あらゆる方向から考え抜いて発言し、どちらに風が吹くのかを見て、物事を巧みに扱うこのような人――言っておきますが、神はこのような人を最も嫌悪します。このような人が贖われることは決してありません。狡猾で陰険な人がどれほど聞き心地のよいことを言っても、それはやはり偽りに満ちた嘘です。言葉が素晴らしければ素晴らしいほど、その人は悪魔サタンなのです。ゆえに、そのような人はまさに、神が最も嫌悪する類いの人間です。あなたがたはどう言いますか。狡猾で嘘をつくのが上手く、言葉遣いが巧みな人は、聖霊の働きを受け取ることができますか。聖霊の照らしと啓きを受け取ることができますか。絶対にできません。狡猾で陰険な人に対する神の態度はどのようなものですか。神は彼らをはねつけ、脇に追いやり、注意を払わず、動物の同類と見なします。神の目から見て、このような人は人間の皮をまとっているだけです。彼らは本質的に悪魔サタンの同類であり、歩く死体であり、神が彼らを救うことは決してありません(『偽指導者を識別する』)。御言葉は私の状態を明らかにした。色んな提案があるたび優柔不断になり、責任を恐れて常に自分を守ろうとした。と言うのもサタンの哲学に支配されてたから。たとえば「己を怠る者は天罰を受ける」や、「保身に努め、ただ非難をかわせ」、「誰もが破る法律を守らせることはできない」異なる提案に直面するたび、自分の意見があっても口にせず、すぐに探求せず、あくまで他人の意見に従うばかりで、問題が生じても責任を問われず、取り扱われることもないようにした。表向きは他人の助言を素直に聞き入れ、提案を取り入れているように見え、真理を受け入れられるといううわべを装ってたけど、実のところその裏には、邪悪で卑劣で欺瞞に満ちた意図があったの。自分の振る舞いを振り返ると、何かの責任を問われそうになると、毎回自分を守ろうとした。問題に直面した誰かが助言を求めてきても、私はまず、みんなの考えや意見を憶測して、自分の考えと一致していれば、それを基に自分の助言を付け足した。でも意見が違っていれば、自分の考えを伝えようとしなかった。問題が生じて、責任を問われることを恐れたから。だから曖昧でおざなりなことしか言わなかったの。そんなサタンの哲学で生きていた私は、ひどく狡猾で不実な人間で、自分の意見をはっきり言えず、原則や立場が一切なく、人を惑わし、自分の意見を曖昧にするような言動ばかりしていた。しかも、それこそが賢い処世術なのだから、責任を負わされることはないし、取り扱いや刈り込みを受けることもないと考えた。自分が神や兄弟姉妹を騙す、狡猾極まりない人間だとは夢にも思わなかった。神の怒りと憎悪を買い、神に救われることなんかない。兄弟姉妹は騙せても、神は私の心をご覧になる。この調子で神を欺き、本分で責任を負わず、ただ動作を繰り返し、真理の原則を求めることに集中しないなら、最後に真理を得ることはなく、断罪されて追い出されるはず。賢いことがかえって仇になったとわかったの。本当に無知だったわ! それに気づくと怖くなって、このままじゃいけないと、神に悔い改めたくなった。

その後、御言葉の一節を読んだの。「神の家では、どのような本分であろうと、自分が尽くすすべての本分の原則を把握しなければなりません。真理を実践できるというのは、原則に従って行動することです。よくわからないことがあって、何をするのが適切なのか確信できないなら、交わりによって同意を得なさい。教会の働きと兄弟姉妹にとって何が最も有益かが一旦決まれば、それを実行しなさい。規則に縛られたり、遅らせたり、待っていたり、消極的な傍観者になったりしてはいけません。いつも傍観者で自分の意見を持たず、何かする前に他の誰かが決断を下すのを常に待つなら、そしてまだ誰も決断を下していないときに、ぐずぐずしてただ待つだけなら、その結果は何ですか。どの仕事も台無しにしてしまい、何も達成できません。もしあなたには明確なことで、全員がそれでいいと言い、そのように行なうのに賛成し、この働きをしなければならないと言っていて、それが神に導かれていることに疑いがないのなら、その仕事をあなたはそのように行なうべきです。その責任を負うこと、他者の気分を害すること、あるいはその結末がどうなるかを恐れてはいけません。実際のことを何もせず、計算ばかりして責任を負うことを恐れて実際の働きをしないなら、それはその人が狡猾な企みを持ちすぎていることを示しています。神の恵みと祝福を享受したいと願いつつ、実際のことを何一つしないというのは、何と不誠実なことでしょうか。こうした狡猾でずる賢い人以上に、神から嫌悪される人間はいません。何を考えているかに関係なく、あなたは真理を実践しておらず、忠誠心もなく、個人的なことばかりを考慮し、常に自分の思いや考えを抱えています。神はこうしたことを見ています。神は知っています。神は知らないとでも思っていたのですか。あなたはあまりに愚かです。すぐに悔い改めなければ、神の働きを失うでしょう(『終わりの日のキリスト講話集』の「神を信仰する上で最も重要なことは真理を実践することです」)。「正直な人とはどんな人でしょうか。まず、神の言葉に疑いを抱いていないことです。これが人の正直さが表われる一つのかたちです。さらに、正直な人の最も重要な表われ方は、万事において真理を求め、実践していることであり、これが何より重要です。自分で自分のことを正直だと言ってはいても、神の言葉を常に心の片隅にしまい込み、自分勝手な行動をしているなら、それは正直な人と言えるでしょうか。『わたしの素質は劣っているが、心は正直だ』とあなたは言います。しかし本分を任されたとき、自分が苦しむことを恐れたり、それを立派に尽くせなければ責任を負わなければならないと不安になったりして、言い訳をしてそれを避け、他者にそれをするよう勧めます。これは正直な人の表われですか。明らかに違います。では、正直な人はどのように振る舞うべきですか。受け入れて従い、本分を尽くすことにひたすら最善を尽くし、神の旨を満たすように努めるべきです。これはいくつかの方法で表わされます。その一つは、正直さをもって自分の本分を受け入れるべきであり、自分の肉体の利益を考えたり、本分に対して熱心でなかったりしてはならないということです。自分の利益のために企んではなりません。これが正直さの表われです。もう一つは、最大限に心を尽くし、力を尽くして自分の本分を果たし、物事を正しく行ない、自分の心と愛を本分を尽くすことに注いで神を満足させることです。正直な人が本分を尽くすときには、これが表われていなければなりません(『終わりの日のキリスト講話集』)。御言葉でわかった。神は誠実な人を愛するって。無知で素質が低くても関係ないの。大事なのは心が正しく誠実で、隠し事をせず、自分の考えをはっきり口にして、理解できないことはみんなと探求して交わり、原則に沿った行動をして、神の家の働きに益をもたらし、己の本分に忠実であること。そうすれば、神は満足される。神は人の心を観察なさる。最善を尽くせば、素質が低かったり真理を理解していないせいで間違いを犯しても、学ぶべき教訓がある。真理を求めて受け入れ、問題点をすぐにまとめることができるなら、道を外れることも少なくなり、少しずつ原則を学んでいって、きちんと本分を尽くせるようになる。たった一度の失敗で、神の家は非難したり責任を追及したりはしない。それがわかってずっと安心したわ。

あとで、そのころの状態について、心を開いてある姉妹と交わったところ、辛抱強く助けてくれたの。ふたりで答えを探していくうち、私は長年抱えてきた誤った考えを改めた。以前はいつも不安で、他人の意見を聞かずに別の意見や見解を述べたら、まわりから、真理を受け入れられない傲慢な人物だと思われるだろうと考えてた。実際、傲慢であることと、原則を守ることの違いがわかってなかったの。原則を守るというのは、真理を求めることによって、原則に沿い、教会の利益を守る実践とは何かを見極めて、原則を守り続け、他人の反対や問題提起に妥協しないということ。それは一見傲慢な態度に見えるけど、真理を守るという肯定的なこと。いっぽう傲慢さとは、常に自分が人より優れていると感じ、自分の意見や考えは正しいと信じ込み、他人が異なる見方を口にしても、探求も熟考もせずに自分のやり方にこだわり、白を黒と言い張ること。その意見はすべて自己判断に基づくばかりで原則の裏づけがない。それなのに、あくまで人に自分の言うことを聞かせる。これはサタンの性質、傲慢さの表われなのよ。解任された兄弟姉妹のことが頭に浮かんだ。その中には自分のやり方にこだわり、兄弟姉妹の提案を真剣に捉えることも熟考することもなく、絶えず自分に理があると主張して、修正や改善に前向きでない人もいた。彼らの主張が原則に符合することは決してなくて、自分の意見や好みに過ぎない。それは傲慢さの表われよ。異なる意見を突きつけられた時、適切でない提案もあると感じたけど、それでも、真理に照らして検討した上で自分の意見を言えるなら、それは傲慢などではなく、真理の原則を守っているの。問題点を完全に理解できず、事態を把握できないこともあるけれど、それでも自分の意見を表明して、みんなと求め、交われるなら、それは傲慢に自己主張しているんじゃなく、行動する前に原則をはっきりさせ、己の本分に真剣で、責任を負っている。そういった真理を理解すると、心からほっとしたわ。

その後、本分でさまざまな提案を受けたときは、神に祈って心を静め、関連する真理の原則を求めた上で、原則に照らして修正が必要かどうかを見極めた。さらに、自ら率先して自分の意見を伝え、みんなと話し合ったわ。ある時、映像の背景画像を作り終えたところで、色使いがよくないから変えたほうがよいと、リーダーに言われたの。私は内心「そんな変更に取りかかれば大仕事になってしまって、配信が遅れてしまうのは確実。これは原則の問題なんかじゃなく、個人的な好みに過ぎないのだから、わざわざ変えるまでもない」と思った。でも変更しなければ、傲慢で他人の提案を受け入れられない人物だと、リーダーに思われる。再びためらった私は神の御前に出て祈り、原則に沿って実践できるようお導きを求めた。祈りのあと、参考資料をいくつか見つけて、リーダーや責任者と一緒に関連する原則を求めた。それに私自身の理解や見解も伝えたわ。その後、リーダーと責任者も私の見方に同意してくれたので、映像はすぐに配信された。私はとても嬉しく、安心もした。

あの時の経験を振り返ると、私は自分を守って責任を避けようと、本分で色んなことを心配して、自分の両手を縛ってた。そんな調子では疲れるし、効率が上がるはずもない。でも、ひとたび神の御旨を理解し、真理の原則に沿って実践すると、問題をすぐ解決できるようになって、本分でもずっと気楽に落ち着けるようになった。この経験を経て実感したのは、サタンの哲学で生きてもますます狡猾で不実になり、神の信頼に値せず、神の不興を被るだけだということ。真理を実践し、真理の原則に沿って本分を尽くすことでのみ、人は祝福される。そうすることで、人は安心できるし、真の平安と喜びを感じられるの。

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