苦境という試験

2023年10月6日

子どものころからずっと社会の影響を受け、何をするにも他の人に従った。周りはみんなクリスチャンで、僕もそう。でも神について学び、情報を求めようと切望して、こんな問題を考えだした。僕らはなぜ神を信じるのか。どうすれば神を認識できるか。この暗く悪しき世界で、真理はいったいどこにあるのか。なぜ人は人生で困難に遭うのか。次から次へと謎が現われるようで、答えが見つからなかった。幸いにも全能神の終わりの日の福音を受け入れ、全能神の御言葉にこうした謎への答えを見つけた。信仰で神の御言葉と働きを経験することで、神を認識し、服従して愛せるとわかったんだ。それに、神は終わりの日、裁き、刑罰、試練、精錬を使って人を完全にして堕落を清める。だから試練が僕に臨むよう祈った。中国で生まれたかったと思ったほどだ。中国人の兄弟姉妹のように、悪魔の政権の圧迫と迫害を受け、苦難の中、鳴り響く証しをして、神に勝利者とされる。ひとたび目覚めると、すぐにある出来事が起きた。

疫病のせいで、勤め先が倒産し、失業したんだ。何社も応募したけど、面接すらしてくれない。時が経つにつれ、状況は悪くなっていった。収入がなく、食べ物も買えない。どうしようと思った。以前は帰宅後、オンライン集会に出て全能神の御言葉を読み、映画を見てみんなと一緒に本分を尽くしてた。僕にとって何より大事だったし、信仰の優れた実践だと思ってた。でも今はこの苦難に見舞われ、こう思った。僕は唯一の真の神を信じてる。きっと僕を気にかけ、助けてくださるはずだ。同時に神に祈り、仕事を得られるよう願った。神は信者の僕に、求めるものを何でも授けると思ってたけど、神はそうなさらなかった。弱って困惑したよ。毎日御言葉を読んで祈ってるのに、神はなぜ苦しんでる僕を助けないんだ?そんな思いが浮かんだとき、ヨブのことを考えた。彼は財産をすべて失ったけど、証しに揺るぎなく立つことができた。善悪を問わずすべては神の采配だと信じ、決して不満を言わなかった。物質的な祝福を授けた神に感謝し、神がそれらの祝福を奪っても、ヤーウェ神の御名を称えた。ヨブの信仰と祈りを考えると、僕の信仰は取るに足らず、ヨブの信仰と比べものにならないと気づいた。ヨブの例にならい、神の支配と采配に従うべきだとわかってたけど、食べる物もないという現実を考えると、途方に暮れた。それに何より、僕は3ヵ月前に全能神を受け入れたばかりで、御言葉をさほど理解してない。オンライン集会に出たくても、携帯のデータ量がもう上限だった。神に嘆願するしかなかった。「神よ、僕が飢え死にするかどうかはあなた次第です。たとえ死んでもあなたの支配と采配に従います」。そう祈ると安心した。その日祈った後、思わぬことが起きたんだ。叔父から電話で、自分の建設会社で働かないかと言われたんだよ。建築の仕事は大変だけど、一週間でしばらく生きられるだけのお金を稼いだ。神に感謝したよ!この状況で、こんなことを考え始めた。仕事が見つかるよう願ったとき、神はそうなさらなかったのに、進んで従いますと祈ったとたん、助けてくださったのはなぜなんだ?

ある日、御言葉を読んでこのことが多少理解できた。全能神は言われます。「何人もの人たちが、わたしが彼らを癒やすということだけを信じている。何人もの人たちが、わたしが自身の力で彼らの体から汚れた霊を追い出すということだけを信じている。そして何人もの人たちが、わたしから平安と喜びを受け取るということを単に信じている。何人もの人たちが、より多くの物質的富をわたしから要求するために、わたしを信じている。何人もの人たちが、平和にこの人生を生き、またこれから来る世で安全で穏やかに過ごすために、わたしを信じている。何人もの人たちが地獄の苦しみを避け、天国の祝福を受け取るためにわたしを信じている。何人もの人たちが一時的慰めのためだけにわたしを信じ、来世で何かを得ることなど求めずにいる。わたしが激しい怒りを人にもたらし、人がかつて持っていたすべての喜びと平安を押収したとき、人は疑い深くなった。わたしが人に地獄の苦しみを与え、天国の祝福を取り戻したとき、人の恥辱は怒りに変わった。人がわたしに癒してくれるように頼んだとき、わたしは彼を気にかけることもせず嫌悪を感じた。人は代わりに邪悪な医術や魔術という方法を求めてわたしから離れた。人がわたしに要求したものすべてを取り除いたとき、誰もが跡形もなく消えた。ゆえに、わたしがあまりにも多くの恵みを与え、わたしから得るものがあまりにも多くあるので、人はわたしに信仰を持っていると言おう(『神の出現と働き』「あなたは信仰について何を知っているか」〔『言葉』第1巻〕)。「人間の神との関係は、むき出しの利己心に過ぎないということである。これは恵みの与え手と受け手の関係である。簡単に言うと、雇われ人と雇い主の関係のようなものである。雇われ人は雇い主から報酬を得るためにだけ働く。このような関係に愛情はなく、取引だけがある。愛し愛される関係はなく、施しと憐れみだけがある。理解はなく、抑圧された憤りと欺きだけがある。親しみはなく、越えられない溝だけがある。物事がこういう状態に至った今、誰がこの趨勢を元に戻せるだろうか。この関係がいかに絶望的なものになったかを、どれほどの人が本当に理解できるだろうか。祝福を受ける喜びの中に浸っているとき、神とのそうした関係が、ばつの悪い、見苦しいものであるとは誰も想像できないはずである(『神の出現と働き』「附録3:神の経営の中でのみ人は救われる」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉は、祝福への動機と堕落した状態を暴いてる。多くの人は、信仰で神の慰めを求めるだけ。不幸を嫌がり、自分が望むものを何でも神から与えられることを望んでる。でも自分が神を満足させてるかどうかは気にしない。彼らにとって、神に従い神の要求を満たすことはどうでもよくて、望むものを神が与えることが一番大事なんだ。僕が主を信じる中で、牧師や長老は神の祝福のために祈れとよく説いてたけど、そんな追求は神との関係を汚してしまう。御言葉が暴くとおりだ。「人間の神との関係は、むき出しの利己心に過ぎないということである。これは恵みの与え手と受け手の関係である。簡単に言うと、雇われ人と雇い主の関係のようなものである。雇われ人は雇い主から報酬を得るためにだけ働く。このような関係に愛情はなく、取引だけがある」。神の御言葉は真理だから、僕は反省し、僕の信仰は神の祝福を得るためだとわかったんだ。そんな意図が心の奥底に根ざしてた。神が地上に戻られた以上、神を受け入れる全員を祝福なさるはずだと。僕は終わりの日の神の働きを受け入れたから、祝福は遠くない、生活もよくなると思ってた。でも、そうはならなかった。困難に見舞われ生活がますますきつくなり、弱って消極的になった。収入も食べるものもなく、オンライン集会に出たくてもネットを使えない。どう信仰を続けられる?不満を抱き、神は僕を気遣ってないと思った。仕事探しに奔走し、神の助けを求めて祈っても、神は応えず、祈ったものを与えないので、神への疑いが膨らんだ。真の神なのか?神がこう言われる通りだ。「わたしが激しい怒りを人にもたらし、人がかつて持っていたすべての喜びと平安を押収したとき、人は疑い深くなった」。御言葉に暴かれ、自分のことが恥ずかしくなった。御言葉でわかった。祝福のために信仰するのは間違った考えだと。神は祝福の与え手、自分は受け手だと思ってたんだ。望みのいい仕事を神が与えないと、僕は神を責め、気遣いがないと考えた。なんて馬鹿げて無知で、愚かな信仰観なんだろう。思えば子どものころから集会に行くと、こんなことばかり聞かされた。「神は君に大きな祝福を授ける。信者になれば神に祝福される。祈って求めれば、神はきっと応えてくださる」。宗教界、両親、周囲の人からこんなことを聞かされ、大きな影響を受け、ただ信じれば神の祝福を得られ、世の苦しみと無縁だと思った。信仰で祝福を願うのは間違いだとは決して思わず、サタンの性質だとわからなかった。人の堕落を暴く御言葉を読むまで、それを一切理解してなかったんだ。こう自問した。信仰はただ物質的な祝福を受けるためなのか?お金や物が十分ある人は、神が認める人なのか?もしそうなら、ヨハネの福音書6章27節でで主イエスがこう言われたのはなぜなんだ?「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」。こうも言われた。「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである(マタイによる福音書 6:19-21)。それで気づいた。いつも神に物質的な祝福を求めるのは、人類のすさまじい欲望、つまり堕落で、神はそれを憎まれる。それはひとえにサタンが人を惑わし、神の身分や、特に神が人の運命を支配していることを認識させず、創造主に従えないようにしているからだ。万事順調なら、神に感謝し神を称える。でも生活で困難に遭い、神が僕らの要求を満たさないと、神を誤解して責める。アブラハムのことを思い出したよ。善悪を問わず、神から来る一切に従い、自分の選択をしなかった。息子を生け贄にするよう神に言われると、神のお求め通りに進んでそうした。本当につらかったが、「なぜこんなことを求めるのです?どうしてこんな扱いを?」と神に訊かなかった。神に何を求められても、従うべきだと信じていたんだ。神は創造主、自分は被造物なのだから、無条件に従い、神のどんな命令や要求も受け入れるべきだとわかってた。アブラハムの信仰は神に認められた。でも今の人たちは、アブラハムとまったく違う。いつも物質的な祝福に夢中になり、神の御旨を無視してる。主イエスはこう忠告された。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう(マタイによる福音書 6:33)。人は物質的な祝福を求めず、神の御旨を行ない、真理を求めて立派に本分を尽くすべき。それが大事だ。神は創造主。人の思いをよく知り、人に必要なものもよく知ってる。でもサタンの堕落のせいで、人類の思考は貪欲さと物質的な祝福で占められ、信仰も神に従い満足させるためでなく、ただ祝福を得て自分の欲望を満たすため。全能神の御言葉が暴くとおりだ。「堕落した人類は誰もが自分のために生きています。『己を怠る者は天罰を受け、地が滅ぼす』。この言葉が人の本性を要約しています。人は自分自身のために神を信じています。神のために何かを捨て自分自身を費やすのは祝福を得るためであり、神に忠実なのは、報いを受けるためです。要するに、何もかも祝福され、報いを受け、天国に入る目的で行なわれるのです。社会では、人は自分の利益のために働き、神の家では祝福を得るために本分を尽くします。人がどんなものでも捨て、多くの苦しみに耐えられるのは、祝福を得るためです。人のサタン的本性について、これ以上によい証拠はありません(『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉は僕の実情を暴いてる。自分の無知と利己心がわかったし、好ましくないことが起きたら、神に祈って従うべきで、恵みと祝福を求めてはだめだと学んだ。でもやがて、似た問題に見舞われたんだ。叔父の会社は1週間働いただけで辞め、その後は自宅で本分に専念したから、すぐお金が尽きた。食事のめども立たず、学位も資格もないから、どこで仕事を見つければいいかわからない。無一文だから、携帯電話も使えない。集会に出て本分を尽くすには、ネットが必要だ。それを考えるとまた弱気になって、希望がないように感じた。そのとき、母に言われたんだ。疫病のせいで家にはもう何もない。だから何とかしてほしいと。母も同じ苦境にいるとわかって、弱って心が痛んだ。どうしたらいいだろう。人に比べて自分はずいぶん苦しみ、生きるのがつらい。神の御旨がわからなかった。日々せっせと本分を尽くしてるんだから、神は僕を気遣うべきだ。なのになぜ状況が悪化し続けるのか。

そのころは御言葉をたくさん読み、賛美歌もかなり聴いた。御旨の理解に役立った御言葉が2節ある。全能神は言われます。「神への信仰において人が求めるのは将来の祝福を得ることであり、それが信仰における目標です。すべての人にこの意図と望みがありますが、人の本性にある堕落は試練を通じて解決されなければなりません。人が清められておらず、堕落を示している側面がどれであろうと、その側面において精錬されなければなりません。それが神の采配なのです。あなたが自分の堕落を認識できるよう、神はあなたのために環境を整え、そこでの精錬をあなたに強います。最終的に、あなたは死んで企みや欲望を諦め、神の支配と采配に服従したいと思うまでになります。それゆえ、数年間の精錬を受けず、ある程度の苦難を経なければ、人は自身の考えや心における肉の堕落の束縛を捨て去ることが出来ません。人はどの側面においてもいまだサタンに束縛され、自分の欲望と要求を抱いていますが、それらの側面において試練を受けなければなりません。教訓は試練を通じてのみ学べるのであって、それは真理を得て、神の意図を理解できるということを意味します。実際、多くの真理はつらい試練を経験することで理解されます。楽な環境にいるときや状況が好都合なとき、神の考えを理解したり、神の全能性と知恵を認識したり、神の義なる性質を正しく理解したりすることは誰にもできません。そのようなことはありえないでしょう(『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」〔『言葉』第3巻〕)。「人は常に、自分の中に神への途方もない要求を抱えています。このような人はいつもこう考えています。『わたしたちは家族のもとから去って本分を尽くしている。だから、神はわたしたちを祝福するべきだ。わたしたちは神の要求通りにしているのだから、神はわたしたちに報いるべきだ』。多くの人が神を信じながら、こうしたことを心に抱えています。……人は実に理不尽です。真理を実践しないのに神を責めます。自分がすべきことをしません。人は真理を追い求める道を選ぶべきなのに、真理にうんざりし、肉の享楽を切望します。絶えず祝福と恵みを享受することを追い求め、人に対する神の要求はきつすぎると常に文句を言っています。神が自分たちを寛大に扱い、さらなる恵みを授け、肉体的な快楽を自分たちが享受するのを許すようにと、ひたすら試みます。これが神を真に信じる人ですか。……こうしたことを言う人には、理知も信仰もまったくありません。そのようなことはすべて神に対する人間の不満から生じるもので、人間の途方もない要求が満たされていないことが原因です。それはすべて人間の心から流れ出るものであり、人間の本性を完全に表しています。このようなものが人間の中にあり、それを捨て去らないと、そのせいで人間がいつでもどこでも神を責め、誤解するということになりえます。また、神を冒瀆しがちにもなり、いつどこでも真の道から逸れる可能性があります。これは自然に生じるのです(『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉からこれを学んだ。家族を顧みないほど日々本分に専念し、このように自分を費やせば、神は報いて祝福を授けるはずだと思った。別に神から贅沢な報酬を望んだわけじゃなく、生活できる仕事でよかったし、仕事が見つかればよりよく本分を尽くせる。理性的な要求で、行き過ぎではないと思ってた。でも御言葉を顧みてわかった。そうした途方もない願望と欲求は、神に従ってないことを示してる。神にあれこれしろと要求してたんだ。また御言葉から、いつも神に理不尽な要求をすれば、真理を実践するのは難しく、要求が満たされないと神を裏切り、捨ててしまうとわかった。自分の今の困難は、表向きはかなりの苦しみで、気の毒なように思えるけど、実際には苦しみの鍛錬を受けていた。耐えられないと思ったけど、神は僕を見捨てなかった。信仰における正しくない動機と汚れを見させ、神が人に従うよう望む、正しい方向へと向けさせるためだ。でもこう問わざるを得なかった。僕はお金を稼げる仕事を見つけたくないのか?もっとネットを使って、基本的な必要を満たしたくないのか?邪魔も困難もなく、本分を尽くしたいんじゃないのか?そう望んでる。こうしたものを得たいのに、なぜ神はそのように采配なさらないのか?僕はそんなに不運で不幸なのか?違う。とてつもなく幸運だ。神の愛が臨んでるんだ。神はこの状況を整え、僕に真理を求めさせ、教訓を学ばせ、信仰の汚れを清めさせた。快適ないい環境でしか信仰を実践せず、苦境や望ましくない状況を経験しなければ、神への信仰と愛に動機や欲望、汚れが混じり、神に認められない。どんな状況でも人が神に真誠で、忠誠を捧げて従うことを神は望む。それは子どものよう。快適で豊かな暮らしを与えるときだけ父を愛し、さもないと憎んで「あなたは僕の欲しいものを与えない。尊敬しないし、父と認めない」と言うなら、どんな子どもだ?良心も理知もない親不孝だ。神に感謝!僕もそんな状況に遭ってる。それを乗り越えるのが、信仰での汚れを清めるために必要なんだ。

またこの御言葉も読んだ。全能神は言われます。「今日の実際の神への信仰とは何なのか。それは、神の真の愛を達成するために、神の言葉をあなたのいのちの現実として受け入れることであり、神の言葉から神を知ることである。明確に言うならば、すなわち神への信仰は、あなたが神に従うこと、神を愛すること、さらに、神の被造物によって為されるべき本分を遂行することに資するものである。これが、神を信じることの目的である。あなたは、神の美しさ、神がいかに尊敬に値するか、造ったものの中で、神がいかに救いの働きを行いそして彼らを完全にしているかについての認識を達成しなければならない。これが、神への信仰における最低必要事項である。神への信仰はおもに、肉の生活から神を愛する生活への転換、堕落の中の生活から神の言葉のいのちにおける生活への転換である。そしてそれは、サタンの領域下から出て神の配慮と保護の下で生きることであり、肉への従順ではなく神への従順を達成できることであり、神があなたの心のすべてを獲得しあなたを完全にすることを可能にすることであり、さらにあなた自身を堕落したサタンのような性質から自由にすることである。神への信仰はおもに、神の力と栄光があなたの中で明らかに示されるためのものである。その結果、あなたは、神の旨を行い、神の計画を成し遂げることができ、さらに、サタンの前で神への証しとなることができるようになる。神への信仰は、しるしや不思議を見たいという願望を中心とせず、個人的な肉のためであってもいけない。それは、神を知ること、神に従うことができること、そしてペテロのように、死ぬまで神に従うことを追求することでなければならない。これが、神への信仰の主要な目的である。神の言葉を飲み食いするのは、神を知るためであり、神を満足させるためである。神の言葉を飲み食いすることは、神についてのより大きな認識をもたらす。そうなってはじめて、あなたは神に従うことができる。神についての認識があってはじめて、あなたは神を愛することができ、そしてそれが、人が神への信仰において持つべき目標である(『神の出現と働き』「すべては神の言葉が達成する」〔『言葉』第1巻〕)。この一節を読んだのは全能神を信じ始めた直後だが、当時は本当に理解してはいなかった。つらい時期を経験して初めて、神の御旨が少しわかったよ。真の信仰は僕の想像と違い、神のために費やせば、神は見守り、保護し、必要を満たすわけじゃない。そんな見方は間違ってる。信仰では御言葉を経験し、万事神を満足させなきゃだめなんだ。神が与えようと奪おうと、神に従い、真に自分を捧げなければ。信仰で追い求めるのが、御言葉を通じて神を知り、神の支配と采配に従うことだけなら、神はそうした信仰を認める。ペテロのように全力で神を愛し、神に従える人を、神は完全にする。ありがたいことに神はこの状況で僕を啓き、正しい信仰観をわからせ、おかげで心が落ち着いた。神に従う祈りを唱え、ただこの苦難に耐えられるよう力を、と願った。

すると次の日、叔父がお金を送ってきて、食べ物を買ってネットを使えるようになったんだ。道を開いてくれた神に心から感謝した。

そのうえアルバイトも見つかった。楽な仕事じゃないけど、生活するには十分な稼ぎだ。神の采配だとわかったよ。神の指揮と采配を受け入れ、従うことが、実生活で学ぶべき教訓だと実感した。すると経験を通じ、神の全能の支配と不思議なやり方がわかる。これが人生のあらゆる問題に対してとるべき態度だ。それで御言葉の一節を思い出した。「現実の問題に対処する時、神の権威と神の統治をどのように知り、理解すべきでしょうか。あなたがこうした問題に直面した時、それらをどのように理解し、取り扱い、経験すべきかを知らない場合、神の統治と采配に服従するという意向、願望、服従しているという事実を、あなたはどのような姿勢で示すべきでしょうか。あなたは、まず待つこと、次に追い求めること、その後に従うことを覚える必要があります。『待つ』とは、神の時を待つことであり、あなたのために神が計画した人々、出来事、物事を待つことであり、また神の思いが徐々に明示されてゆくのを待つことです。『追い求める』とは、神が計画した人々、出来事、物事を通して、あなたに対する神の入念な旨を観察し、理解すること、それらの物事を通して真理を理解すること、人間が達成すべき物事や従うべき道を理解すること、神は人間の中にどのような結果を実現させようとしているか、人間の中に何を達成させようとしているかを理解することです。当然ながら、『従う』とは、神が周到に準備した人々、出来事、物事を受け容れ、神の統治を受け容れることであり、それらを受け容れることを通して、創造主が人間の運命をどのように支配しているか、神はどのようにして人間に神のいのちを与えるか、神はどのようにして人間に真理を備えさせようとしているかを知ることです。神の采配と統治の下にあるすべての物事は自然の法則に従っており、あなたが自らのすべてを神の采配と支配に委ねると決心したのであれば、あなたは待つこと、追い求めること、従うことを学ぶべきです。これこそが、神の権威に服従することを望むあらゆる人が取るべき姿勢であり、神の統治と采配を受け容れることを望むあらゆる人に備わっているべき基本的な資質です。そのような姿勢を取り、そのような資質を備えるには、一層の努力が必要です。そうした努力をして初めて、あなたがたは真の現実に入ることができるのです(『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 III.」〔『言葉』第2巻〕)。この一節は前に読んだことがあるけど、つらい時期を経て読み直すと違う感覚を覚えた。御言葉でわかったんだ。御旨を求め、待って服従することが、問題が起きたときにまずとるべき態度だと。でもただ待つんじゃなく、祈り、御言葉を読み、御旨を求め、自省することが含まれる。そうすれば自分の実情がわかり、何に入るべきか理解できる。そうした探求と経験を通じ、神の全能の支配と実際の御業(みわざ)が見えるんだ。

最初はこのきついアルバイトを1ヵ月続け、生活費を稼ぎ、残りの時間を本分に使えればそれでよかった。でも携帯が壊れて、もう1ヵ月働けば新しい携帯とノートパソコンを買えると思った。でも僕は教会指導者。こなすべき教会の仕事が山ほどある。本分を尽くすのが何より大事で、最優先だから、仕事を辞めることにした。すると僕の状況を知った上級指導者が、本分をしっかり尽くせるよう、教会がノートパソコンとネット回線の援助をすると言ってくれたんだ。それを聞いて感動した。言葉にできない感動だ。これはひとえに神の恵み。しっかり本分を尽くせるよう、神が道を開いてくださったんだ。それに、神が僕を困らせてたわけじゃないこともわかった。神が求めるのは誠実に従うことだけ。つらい時期、僕は神の愛を直に経験した。人に対する神の愛について、僕の以前の想像は曖昧で、現実にそぐわなかった。実生活の状況を通じて教訓を学んで初めて、本当に理解できた。これらの状況を通じ、自分の無知と利己心が見えたんだ。おかげで徐々に誤った信仰観を変え、正しい道に乗りだした。まさに僕に対する神の愛だ。つらい時期にとるべき態度や、神への接し方も理解できるようになった。以前はこう思ってた。神を信じる限り、神はあらゆるものを授けてくださると。今ではわかる。信仰でいつも神に要求してはならず、何事も神に従い、御旨を満たすべきだ。

程なく、現実による試験をまた受けることになった。1ヵ月働いて給料をもらったあと、道でいきなり強盗に遭ったんだ。給料の半分を盗まれた。でも神のおかげで、相手はナイフを持っていたのに怪我しなかった。これは神の善意によって起きたとすぐにわかった。思えばヨブは金持ちだったけど、財産をすべて奪われ子どもが全員死んだとき、彼は無条件で従い、不満を言わず御名を称えた。僕は金持ちじゃない普通の人だ。お金を奪われ、それが必要で、色んな計画を立てていたけど、ヨブの例にならって信仰し、従おうと決意した。そこで祈った。「神よ、あなたは計り知れません。どういうことかまったく理解できませんが、その裏にはあなたの御旨があると信じています。喜んであなたの采配に従います。どうかわたしの心を感動させ、消極的にならないようお導きを」。祈ると何事もなかったかのように、心がすっかり落ち着いた。いつものように穏やかに本分を尽くし、不安や悩みは何もなかった。神の支配を知る前の態度と比べて大違いだ。神は僕を清めて救うように物事を采配なさるとわかったからだ。それに神の愛の理解も深まった。神が表わす愛というのは、ただ物質的な祝福を与えるだけじゃない。そうしたものは肉の欲求しか満たせないから。神の本当の愛は、御言葉の裁き、試練、精錬の経験を通じて真理を理解させ、神を信じる理由、神を畏れて悪を避け、神を愛して満足させ、最後に神のすべての采配に従う方法をわからせることだ。この御言葉を思い出す。「神に対する人の愛は神の精錬そして裁きという礎の上に築かれる。もしもあなたが神の恵みだけを享受し、平和な家庭生活や物質的な祝福があるのであれば、あなたは神を得ておらず、神への信仰が成功したとは考えられない。神はすでに肉における恵みの働きの一段階を行なっており、人に物質的な恵みを授けてきたが、人は恵みと愛と慈悲だけでは完全になれない。人は自分の経験の中で神の愛の一部と出会い、神の愛と慈悲を知っているが、一定期間経験すると、神の恵みと愛と慈悲が人を完全にすることはできず、人の中にある堕落を明らかにすることも、その人の堕落した性質を取り除くことも、その人の愛と信仰を完全にすることもできないのだと理解する。神による恵みの働きは一時の働きであり、人は神を知るにあたり、神の恵みを享受することには頼れないのである(『神の出現と働き』「辛い試練を経験することでのみ、神の素晴らしさを知ることができる」〔『言葉』第1巻〕)。「神はどのような手段で人を完全にするのか。それは神の義なる性質によって成し遂げられる。神の性質はおもに義、怒り、威厳、裁き、呪いから成り立っており、神はおもに裁きという手段で人を完全にする(『神の出現と働き』「辛い試練を経験することでのみ、神の素晴らしさを知ることができる」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉を読んで実感する。神による終わりの日の裁きの働きはまさに、人を清めて変えるため。信仰での汚れと堕落した性質は、御言葉の裁き、試練、精錬でしか清められない。神の恵みにすがるだけじゃ無理なんだ。御言葉とこうしたつらい経験がなければ、理解できなかったはずだ。全能神に感謝!

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