私の信仰は偽りだった

2023年9月26日

私は、とても貧しい家庭で育ちました。だから私の夢は銀行の重役になって、社会で一定の地位を得ることでした。そうすれば家族がお金に困ることはないと思ったからです。学校を卒業して、仕事を探し始めた時、履歴書をあちこちに送りましたが、就職活動はうまく行かなくて、希望の仕事を見つけることができず、平凡で給料の低い仕事に就きました。

2019年、私は終わりの日の全能神を受け入れました。しばらくして、教会で新人の潤しを始めることになった時、こう思いました。神のために尽くせば、きっと神の祝福を得られて、いい仕事を見つけられるわと。だから、本分を尽くしながら履歴書は送り続けました。2021年の6月、1本の電話がありました。ある会社の代表から面接をしたいと言われたんです。ネットでその会社を検索してみると、国際的な企業で、CEOは世界中で投資を行っていてることがわかりました。大きな銀行も所有していました。ずっと銀行で働きたいと思っていましたが、面接まで進めたことはありませんでした。その会社が面接をしてくれるなんて思ってもなかったので、とてもうれしくて、神がチャンスを与えてくれたんだ、もしこの大企業で働くことができたら、それは神の祝福だわ、と思った。自分に言い聞かせました。今度は絶対に成功して、管理職の給料をもらえるわ。神が助けてくれるのだから、と。ついに夢だった仕事に就けるチャンスをつかんだことで気持ちが昂りました。頑張って修士号を取ったことが報われることにもなります。その会社で働き始めた後、自分の未来がどう変わるかを想像しました。お金がたくさんあって、自分の家を持ち、好きなものは何でも買えて、世界中を旅行して、家族、とくに両親にいい生活をさせることができる。この会社で働けば、すべてが良い方に転がると思いました。面接では、3人の候補者がいました。選ばれないんじゃないかと不安になりましたが、こう自分に言い聞かせました。「いいえ、この仕事は私のもの。私は神の子で、神は必ず祝福してくれる。何があっても、神がこの仕事を与えてくれるわ」と。自分の能力にも自信がありました。面接では、聞かれたことにすべて答えました。そして面接官は、内定者には5日以内に連絡すると言いました。私は合格したと確信していました。5日後、電話が鳴るのをそわそわしながら待ちましたが、結局その日電話はかかってきませんでした。1週間が過ぎても、まだ何の連絡もありません。面接に落ちたんだと分かりました。とてもショックで、「何がダメだったの? なぜ失敗したの? 神に頼り、神に祈ったのに、なぜ選ばれなかったの?」そう考えると消極的になり、気持ちがくじけ、神を責めるようになりました。2年以上も神を信仰して、本分も尽くしてきた。神から離れたり、本分を放棄したりしたこともない。どうして神は恵みも祝福も与えてくれないの? 心は沈み、惨めさを感じ、その1週間は集会に出る気力も、御言葉を読む気持ちも起こりませんでした。兄弟姉妹が連絡をくれても、それが煩わしくて、返事もしたくないし、話したくもなかった。何もする気が起きず、外に出ることさえ億劫でした。福音を説き、兄弟姉妹と御言葉を共有することに関心がなくなりました。一日中部屋にこもり、やる気も目標も、食欲さえもなくなり、数日で体重が落ちました。

ある日、「試練の中で神が求めるのは人の真の心だ」という御言葉を基にした歌を耳にしたんです。「人間を試しているとき、神はどのような現実を造りたいのですか。神は人間が心を神に捧げることを常に求めています。神があなたを試すとき、神はあなたの心が神と共にあるか、肉と共にあるか、サタンと共にあるかを見ています。神があなたに試練を与えるとき、神はあなたが神に敵対しているか否か、神と融和しているか否か、あなたの心が神と同じ側にあるか否かを見ています。未熟で試練に直面していて、神への信仰心が小さいと、神の心意を満足させるにはどうするべきか、正確にはわかりません。真理の認識が不十分だからです。それでもなお、心から誠実に神に祈り、率先して神に心を渡し、神をあなたの主とし、最も貴重だと思うものをすべて神に捧げることができれば、あなたはすでに心を神に捧げています。あなたが一層多くの説教を聴き、真理をさらに理解するようになるにつれて、あなたの霊的背丈は次第に伸びます。このとき、神の要求する基準は、あなたが未熟だったときとは異なり、神はそれよりも高い基準をあなたに要求します。人間の心が神に次第に捧げられるについて、その心は次第に神へと近づいていきます。人間が真に神のもとへ近づくにつれて、人間の心はさらに神を畏れます。神が欲しいのは、このような心です(『小羊に従って新しい歌を歌おう』)。これを聞いて分かりました。神が人を試す時、神は心を見るのです。何に関心があるか、神が作った環境の中で神に従っているかどうかを見ます。私は神に心を捧げる代わりに、神を利用して自分の欲望を満たそうと考えていました。そして自分が求めた仕事やお金、物質的な安らぎが得られないと、気持ちがくじけてしまい、集会や本分に対するやる気が消えてしまいました。これは神に対する裏切りで、その環境の中で神への証しを失っていたんです。だから神に祈りました。「全能神よ、あなたは、私が心からあなたに忠実でなかったことを明らかにしました。私はあなたに証を立てておらず、従ってもいませんでした。神よ、どうかご慈悲を。私は悔い改めます。」

祈りの後、心がとても落ち着いたので、兄弟姉妹に返信し始めました。私の状態について聞いてくれた姉妹に、自分が経験したことを話したら、この一節を送ってくれました。「苦しまずに一生を終える人はいません。家族の問題を抱える人もいれば、仕事の問題、結婚の問題、そして病気を抱える人もいます。誰もが苦しむのです。中にはこのように言う人もいます。『なぜわたしたちは苦しまなければならないのか。一生を穏やかに、幸せに生きられたならどんなにいいだろう。苦しまないわけにはいかないのか』。それはできません――人はみな、苦しまなければならないのです。苦しみは一人一人に肉体生活の数え切れない感覚を経験させ、そこには肯定的なものや否定的なもの、積極的なものや消極的なものもありますが、苦しみによってさまざまな感情や認識が与えられ、そのすべてがあなたにとって人生の経験となるのです。これが一つの側面であり、それは人にもっと経験をさせるためです。そこから真理を求め、神の旨を理解することができれば、神があなたに求める基準に一層近づくことになります。またもう一つの側面は、それが、神が人に与える責任であるということです。何の責任ですか。それはあなたが経験しなければならない苦しみです。この苦しみを背負い、耐えることができれば、それが証しであり、恥ずべきことではありません(『終わりの日のキリスト講話集』「観念を解消することでのみ、神への信仰の正しい道に踏み出せる(1)」〔『言葉』第3巻〕)。この御言葉を読んでわかったのは、信者であってもなくても、人は皆人生で辛い思いをするということ。それが人生の一部なのだということ。苦しみには全く価値がないどころか、私の経験を豊かにしてくれ、神に近づかせてくれるということ。私は神の前に来て、真理と神の旨を求めることができる。人はサタンに深く堕落させられたため、欲深く、栄光にしがみつき、地位を幸運を求め、真理を愛していません。安らぎばかりを求め、楽な人生を送れば送るほど、神から遠ざかり、どんどん堕落していくのです。神がこのような環境をあえて作ったのは、私が神の前で祈り、真理を求め、真の信仰を得て、神に近づけるようにするためだったのです。神の誠実な意図が分かって、もう状況に抗うのはやめよう、次にどんなことが起こっても、神に絶対的に服従して、忠実であろうと思いました。

その後、さらに別の御言葉を読みました。全能神は言われます。「人々は人生経験を重ねる中で、『自分は神のために家族も仕事も捨てた。神はわたしに何を与えてくれただろうか。数え上げて確かめてみなければ。最近、自分は何か祝福を受け取っただろうか。この間ずっと多くを捧げ、走り回り、多くの苦しみを受けてきた。神はその報いとして何か約束して下さっただろうか。神はわたしの善行を憶えているだろうか。わたしの最後はどうなるだろう。神の祝福を受け取れるだろうか……』とたびたび考えます。誰もが心の中で常にそのような計算をし、自分の動機、野心、そして取引を好む心構えにかなう要求を神にします。つまり、人間は心の中で常に神を試み、神に関する計画を絶えず練り、自分個人の結末のために絶えず神に対して弁護を行ない、神からの弁明を引き出そうとし、自分のほしいものを神が与えられるかどうかを見ているのです。人間は神を追い求める一方で、神を神として扱いません。神と取引しようといつも試み、絶えず神に要求しつつ、一つ与えられればその次は十を取れるよう、事あるごとに神に強要さえします。人間は神と取引しようと試みながら、同時に神と口論もし、中には試練が降りかかったり、ある種の状況に置かれたりするとしばしば弱くなり、働きの際に消極的になって怠けるようになり、神に対する不満で一杯になる人さえいます。人は神を信じ始めた時から、神を豊穣の角や万能ナイフのように考え、自分は神に対する最大の債権者だと見なしてきました。それはあたかも、神から祝福と約束を得ようとするのが自分の当然の権利と義務であり、神には人を守って労り、施す責任があると言わんばかりです。神を信じるすべての人にとって、『神を信じる』ということの基本的な理解はそのようなものであり、それが神への信仰の概念に関する最も根深い認識なのです。人間の本性と実質からその主観的な追求に至るまで、神への畏れに関係することは一切ありません。人が神を信じる目的は、神を礼拝することとは何ら関係ないのです。つまり人は、神への信仰には神に対する畏れと神を礼拝することが必要だとは、考えもしないし理解もしないのです。このような状況を考えれば、人間の本質は明らかです。その本質とは何ですか。人間の心は邪悪で、不実と偽りを抱き、公正と義、および肯定的なものを愛さず、卑劣で貪欲だということです。人間はこれ以上神に心を近づけることができません。神に心を捧げてなどいないのです。神が人の本当の心を見たことはなく、人間に礼拝されたこともまったくありません。神がいかに大きな代価を払っても、どれほど働きを行なっても、どれほど人間に与えても、人間は盲目のままで、そのすべてに対してまったく無関心です。人間が自分の心を神に捧げたことはなく、自分の心だけを気遣い、自分で決断したいと思うばかりです。それが意味するのは、人間は神を畏れて悪を避ける道に従うことも、神の主権と采配に従うことも、神を神として礼拝することも望んでいないということです。それが今日における人間の状態です(『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 2」〔『言葉』第2巻〕)。この御言葉に自分の真の状態を暴かれ、とても恥ずかしくなりました。私の信仰はただ祝福を受けることが目的で、神のために自分を尽くしてはいたけど、それはすべて神からの見返りのためでした。私は熱心に本分を尽くし、それに多くの時間と労力を費やしました。神が私を祝福し、恵みを与えてくれると期待したからです。最終的に自分の専攻に合った給料の高い仕事に就き、幸せな生活を送り、欲しいものを何でも手に入れ、家族も自分も生活苦から解放される。それが私の考えであり、目標でした。でも2年以上も信仰しても、求めていた祝福が実現されず、希望した仕事が得られなかった時、神に従い、本分を尽くす意欲が消えてしまいました。この事実から明らかになったのは、私はずっと神を騙し、神と取引をしようとしていたこと。表向きには、神のために働き、集会に参加し、本分にも積極的でしたが、実際は、もっと神からの恵みと祝福を得たいという下心がありました。御言葉の啓きを得て、自分の身勝手さが分かりました。自分と家族のことだけを考えて、自分の要求を神に押し付け、無茶な要求をしていました。神を神のように扱わず、信仰で神を崇めてもいませんでした。まるで神が自分に借りがあるかのように返済を求め、特別な願いを聞いてもらい、欲望のために神を利用しようとした。神はすでに人にいのちを与え、多くの真理を無償で与えてくれています。神は受肉し、サタンにより堕落した人類を救うために大きな苦しみを受けました。すべては人が真理を得て、堕落から抜け出し、神に完全に救われるため。神の愛はとても深く、すでに多くの恵みを与えてくれています。でも私はそんな神の愛に気づかず、神の旨を気にすることもなく、自分の要求ばかりを押し通す、良心も理知もない人間でした。御言葉はいつも私の真の状態を暴いてくれます。自分の犠牲を利用して神からの祝福を求め、本分を取引の資本にしようとする、そういった信仰や奉仕は、この世界で上司のために働くようなものです。見返りを求めるだけで、誠実さに欠けています。

その後、さらに別の御言葉を読みました。「彼らがどのようにして試されるとしても、心の中に神がいる者の忠誠は変わることがない。しかし、心の中に神がいない者たちは、神の働きが自分の肉に有利でないならば、神に対する見方を変え、神のもとを離れさえする。これが、最後に揺るぎなく立てず、神の祝福を求めるだけで、神のために自分を費やし、神に自分自身を捧げる意欲が一切ない者である。このような下劣な人々は、神の働きが終わりを迎えるときに全員追放され、同情にも値しない。人間性が欠如している者たちは、神を真に愛することができない。状況が安全で平穏なとき、あるいは得られる利益があるとき、彼らは神に対して完全に従順であるが、ひとたび自分の望みが損なわれたり、最終的に否定されたりすると、彼らはただちに反乱を起こす。ほんのひと晩のうちに、彼らはにこやかで『心優しい』人間から、醜く残忍な殺人者となり、何の理由もなく、昨日までの恩人を生かしておけない敵として扱う。瞬きもせずに殺しを行なうこれらの悪魔らが追放されていないなら、それらは隠れた危険になるのではないか(『神の出現と働き』「神の働きと人間の実践」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉は教えてくれます。心に神の居場所がある人だけが、神の試練において証を立てることができ、心に神の居場所がない人は、自分の利益しか考えず、肉体的な収穫がある時は無理やり神に自分を服従させるけど、自分が望むものが手に入らない時はすぐに、神を敵視して、神を責め、裏切ります。このような人は、神に嫌われ、淘汰される、悪魔のような人です。御言葉の意味を考えて思いました。私もそんな人だったのでは? と。私の信仰は祝福を受けるためで、家族が健康で、いい仕事につけている時は神のために苦労しようと思うけど、物事が思った通りにいかないとなると、とたんに消極的になり、神に恨み言を言う。神への忠誠心も服従心もありませんでした。自分の信仰が本物ではなく、神を騙し、神と取引していたこと、そして神はそんな信仰を決して認めないと分かりました。神は終わりの日に勝利者の一団をつくります。勝利者の心は完全に神の方をむき、神を満足させるために生き、神のために苦しもうと決意しています。困難においてもヨブのようにしっかりと神の証を立て、最終的に神によって完全にされる勝利者だけが、神に認められ、祝福されるにふさわしいのです。ヨブは試練において多くの苦しみを経験しましたが、その苦しみについて神を責めるどころか、神への信仰が弱まることは決してありませんでした。子供や財産をすべて失っても、神の名を称え、神の支配に従いました。最後まで神の証を立てていました。でも私は、神の求めから遠く離れたところにいました。

ある日、御言葉のこの一節を読みました。「あなたは誰に忠実なのか」の最後の段落です。「もし今わたしがあなたがたの前に現金を置いて選択の自由を与えたならば、そしてその選択を理由にあなたがたを非難しないならば、あなたがたのほとんどが現金を選び、真理を放棄するであろう。あなたがたのうち優秀な人は現金をあきらめ、しぶしぶ真理を選ぶ。一方、中間の人は片手に現金をつかみ、もう片手に真理をつかむ。あなたがたの真の姿がこのように明らかになるのではないだろうか。真理と自分の忠実の対象のどちらかを選ぶとき、あなたがたは皆このような選択をするが、あなたがたの態度に変化はない。そうではないだろうか。あなたがたのうちには正誤のあいだを揺れ動いた人が多くいるのではないのか。是と非、黒と白の対立において、家族か神か、子どもか神か、平和か分裂か、富か貧困か、地位か平凡か、支持されるか捨てられるかなどについて、あなたがたは自分がした選択を知っているはずである。平和な家族と崩壊した家族では、あなたがたは前者を選び、躊躇することなくそのように選択した。富と本分でも、岸辺に戻る[a]覚悟さえないまま再び前者を選んだ。贅沢と貧困でも前者を選んだ。息子、娘、妻、夫とわたしでも前者を選び、観念と真理でも再び前者を選んだ。あなたがたのありとあらゆる邪悪な行いに直面して、わたしはあなたがたへの信頼を完全に失った。あなたがたの心が柔和にされることにここまで抵抗するとは、わたしはただただ驚く。長年の献身と努力は明らかにあなたがたの放棄と絶望しかわたしにもたらさなかった。しかし、あなたがたへのわたしの希望は日ごとに大きくなる。わたしの日はすべての人の面前に完全にさらけ出されているからである。それなのに、あなたがたは暗く邪悪なものを求めることに固執し、それを手離すことを拒否する。それでは、あなたがたの行く末はどうなるのか。あなたがたはこのことを注意深く考えたことがあるのか。もし再び選択するように言われたならば、あなたがたはどういう立場を取るのか。やはり前者を選ぶのか。やはりあなたがたは失望と痛ましい悲しみをわたしにもたらすのであろうか。やはりあなたがたの心には温かさはわずかしかないのであろうか。やはりあなたがたはわたしの心を慰めるために何をするべきか気づかないのであろうか。この時点であなたがたは何を選ぶのか。わたしの言葉に従うのか、あるいはうんざりするのか。わたしの日はあなたがたのまさに目の前にさらけ出されており、あなたがたが直面しているのは新しい生活と新しい出発点である。しかし、この出発点は過ぎ去った新しい働きの始まりではなく、古いものの終結であることをあなたがたに告げなければならない。すなわち、これは最後の一幕なのである。この出発点について、何が尋常でないかをあなたがたは皆理解できるとわたしは考える。しかし、そう遠くないある日には、あなたがたはこの出発点の真の意味を理解する。だから一緒にそこを通って進み、最終幕を迎え入れよう(神の出現と働き〔『言葉』I〕)。この御言葉にとても感動しました。人は本当に神を裏切る本性をもっています。人が愛するのは、物質やお金、地位や名声だけで、真理ではありません。人の本性が神に嫌われて当然のものであっても、神は人の反抗心や堕落を見過ごし、今現在真理を求めているか、悔い改めて変化したかどうかを判断します。神はサタンの影響から人を完全に救い、神の国に連れて行こうとしているのです。私は神の恵みを大事にせず、真理を求めることもなかった。待遇の良い立派な仕事を探すことにとらわれ、財産や物質的な安らぎを求めた。本当に愚かでした。真理だけが人を救い、人の堕落を清めます。人は真理をもって善と悪を見分け、サタンの策略や害から逃げられます。真理を理解することで人は神を知り、生き方を知り、人としての意義を見いだすことができます。お金や物質的な安らぎを求めても、神から遠ざかるだけ。堕落と欲にまみれ、救いの機会を失うことになる。主イエスもこう言っています。「また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい(マタイによる福音書 19:24)富や安らぎは、ありすぎてもよくないものです。箴言にもあります。「思慮のない者の不従順はおのれを殺し、愚かな者の安楽はおのれを滅ぼす」(箴言 1:32)主イエスはこう警告しています。「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう(マタイによる福音書 6:31-33)災難がますます大きくなっている今、一番大事なことは、真理を身に着けて本分で努力することです。本分では、堕落から逃れ、神に従い創造物としてふさわしい存在になるよう努めなければ。それ以上に大切で意味があるものなんてありません。あと分かったことは、いい仕事につけるかどうかはすべて神が決めるということ。だから神の采配に従い、自分の身を神の手にゆだねようと思いました。

その後、この御言葉を読みました。「人の本分と、その人が祝福を受けるか厄災に見舞われるかのあいだには、何の相互関係もない。本分とは人間が全うすべきことであり、それはその人の天命であって、報酬や条件、理由に左右されるべきではない。そうしてはじめて、その人は本分を尽くしていることになる。祝福されるとは、裁きを経験した後、その人が完全にされ、神の祝福を享受するということである。厄災に見舞われるとは、刑罰と裁きの後もその人の性質が変わらないこと、完全にされることを経験せずに罰せられることである。しかし、祝福されるか厄災に見舞われるかに関わらず、被造物は自身の本分を尽くし、自分が行なうべきことを行ない、できることをしなければならない。これが、人がすべきこと、つまり神を追い求める人がすべき最低限のことである。あなたは祝福されるためだけに本分を尽くそうとしてはならない。また、厄災に見舞われることへの恐れから、行動することを拒んではならない。一つだけ言っておこう。自分の本分を尽くすことこそ、その人のなすべきことであり、本分を尽くすことができないとすれば、それはその人の反抗心である(『神の出現と働き』「受肉した神の職分と人間の本分の違い」〔『言葉』第1巻〕)。この御言葉からわかったのは、神が祝福を与えようが災いをもたらそうが、私たちは立派に本分を尽くさなきゃいけない。何があっても、これは私たちの責任なんです。振り返ると、安定したいい仕事を得られないという挫折を経験して、心が深く落ち込み、消極的になり、本分への意欲もなくなりました。それは本分への正しい態度ではありません。神は私たちに、創造物として、立派に本分を行う責任があると伝えています。神がどのような状況を与えようとも、心がくじけ、神の旨がわからなくても、本分はやり続けなければなりません。私たちは創造物なのだから、無条件に神に従わなければ。神に何かを求めたり、取引したりする権利なんてありません。創造物として自分の役目を果たすことこそ、私たちの本分なんです。どんな取引もこの本分を汚すことはできません! ちょうど子供が親を敬うのと同じで、正しく自然なことですね。

それからは、本分にもっと真剣に取り組み、福音を広めることに全力を注ぎました。そのように生きることで、心が安らぎました。ある日、ある学校の面接を受けることになりました。とても有名な学校なので、内定をもらえば、高い給料が期待できました。でも面接の時に心の中でこう唱えたんです。「神よ、すべてはあなたが決めることです。面接がうまくいってもいかなくても、私はあなたからこの仕事を与えてもらおうと思いません。ただあなたの采配に従います。たとえこの仕事に受からなくても、あなたを称え、本分を尽くします」と。筆記試験の結果が発表されて、私は上位5位に入っていました。とてもうれしかったです。数日後、面接が終わって、自分が選ばれなかったと知りました。友人から、自分が受かったと言われたんです。友人のために喜びましたが、少しがっかりしました。そこで、心の安らぎをください、心を守って下さいと神に祈り神の支配に従えるようお願いしました。祈った後は心がとても穏やかになり、普通通りに午後の本分をこなしました。私には分かりました。その学校で働くことが神の望みなら、私は面接に受かっていたはず。そうでないなら、どんなに頑張っても受かることはないと。自分が神の手の中にいて、誰も神を超えられないと確信していました。そう考えると、体の中からやる気が湧いてきて、何があっても、本分を尽くして自分の責任を果たそうという気になりました。

この経験が教えてくれたのは、自分の信仰がいかに不実だったか、そして、自分が神を騙していたということ。御言葉の導きのおかげで自分を知り、誤った道を正すことができました。満ち足りた生活では決して得られなかった収穫を得ました。神の愛に感謝しています!

脚注

a.「岸辺に戻る」とは中国語の慣用句で、「悪の道から離れる」という意味。

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