本分を尽くす意義がやっとわかった

2022年4月16日

韓国 寻求

全能神は言われます。「人間が本分を尽くすということは、実際のところ、人間に本来備わっているもの、つまり、人間に可能なことをすべて成し遂げることである。そうすると、その人の本分は尽くされる。奉仕する最中の人間の欠点は、徐々に経験を積むことと、裁きを受ける過程を通して少しずつ減少する。それらは人間の本分を妨げることも、それに影響を与えることもない。自分の奉仕に欠点があるかもしれないと恐れて、奉仕をやめたり、妥協して退いたりする者たちは、すべての人の中で最も臆病である。奉仕する中で表すべきことを表せず、本来可能なことを成し遂げられず、その代わりにのらくらし、形だけ奉仕しているふりをするならば、その人は被造物が本来備えているはずの機能を失ったのである。こうした者たちはいわゆる『凡庸な』人で、無用の長物である。どうしてこのような者たちが被造物と呼ばれ得るのか。外見は立派でも中身は腐った堕落した存在ではないのか」(『言葉は肉において現れる』の「受肉した神の職分と人間の本分の違い」)。神の御言葉は、本分を尽くすことの意味を教えてくれました。どれほどの才能や特技がある人も、自分が理解していることを余すことなくすべて役立てる必要があり、楽をしたり、適当にこなすのではなく、神の求めに従って全力を尽くすべきです。そうすることで、本分における弱さや足りない部分を補い、よりよい結果を出すことができるのです。

少し前、教会で神の御言葉のソロ歌唱を撮影することになり、そのうちの1曲のリードボーカルとギターを任されました。それを聞いた時、不安になりました。ギターの弾き語りはただ歌うよりも難しく、前にもやったことがあるのですが、その時には、歌に集中するとコードを外し、ギターに集中すると表情がおそろかになって、結局、その映像はボツになってしまった。今回も同じことを頼まれて、断りたかったけど、それは神の旨に沿わないと思った。兄弟姉妹はみんな、私がその歌にうってつけだと言うので、流れに逆らわずに、自分の本分を尽くそう、そう思って、依頼を受けました。2日ほど練習して、歌と表現の部分はうまくできるようになったけど、ギターのコードが複雑でなかなか覚えられなかった。いよいよ明日は撮影という日になって、とても焦りました。でもこれ以上練習しても、もう手おくれかもと思った。無理に練習を続けて、手が腫れてしまったらどうしよう? 手が痛くなるほど練習しても、結局覚えられなかったら? そう思うと、無理をしたくなかった。だから、この難しい問題からどうにか抜け出せるよう、方法を探したわ。その時に思いついたの。カメラマンに手元を映さないようにお願いすれば、あの複雑なコードを完璧に覚える必要はなくなる。そして撮影も終えられるし、いい考えだと思ったわ。でも、いい考えだと思うと同時に、不安にもなったの。なんだか無責任のような気がした。コードに問題があって、撮影がやり直しになったらどうしよう? そう思ったけど、「時間はないし、難しい曲だし、この曲をうまく演奏するのは負担が大きすぎるわ。頑張っても、自分の能力は超えられない。それに、これは撮影を早く終わらせるためでもあるわ。みんなわかってくれるはず」その後は、歌と表現に集中して、コードはあまり練習しなかった。どうにかなると思ったわ。

撮影の時間になって、手元をアップで映さないように兄弟にお願いして、特に問題はないはずだった。でも次の日、演出担当からコードが間違っている、と指摘されたの。とても申し訳なくて、顔が真っ赤になったわ。「撮影をやり直すのかしら」と思った。急いで編集担当のところに行って、どうにかできないか聞いたわ。でも、首を横に振って「やってみたけど、だめだった」って。その時点で、撮影はやり直しだとわかった。自分のせいで迷惑をかけて、罪悪感でいっぱいになった。その後、みんなで集まって失敗の原因を話し合った。自分がとった行動の理由を説明したわ。そしたら、姉妹が責めるように言ったの。「どうしてコードを覚えてないって言わなかったの? 全部撮り直しで、プロジェクト全体に遅れが出たわ。あまりにも短絡的だし、無責任だわ」と。私は、どうしてもそれを素直に受け止められなかった。「私が短絡的だった? 確かにコードを弾けなかったけど、撮影がはやく終わるようにちゃんと考えたわ。手元を映すべきじゃなかったのよ」反省するどころか言い訳ばかりだった。でも別の姉妹に言われたの。「うまく弾けないなら、撮影を遅らせることになっても、もっと練習すべきだわ。こんな風に中途半端にすべきじゃない。リードシンガーなんだから、ギターの演奏を映さないわけにはいかないでしょ。すごく無責任だし、適当すぎる」すごく無責任だと言われて、思わず考えたの。「兄弟姉妹みんなが私のことを無責任だと思うなら、やっぱり私が悪いのかも。私も撮影を成功させたかった。でもコードが間違ってたせいで撮り直しになって計画に遅れが出たのは事実。やっぱり私のせいだわ」そう思うと、辛くなった。言い返すのをやめて、反省し始めたの。

その後で、この神の御言葉に心を動かされたので、それを読みますね。「本分を軽率かつおざなりに尽くし、軽んじた結果はどうなりますか。本分をうまく尽くす能力があなたにはあるのに、本分のできばえが悪いと、それは標準に達せず、また本分へのあなたの態度は神に喜ばれません。そもそもあなたが正常に求め、協力していたなら、本分にすべての思いを捧げていたなら、本分を尽くすことに心魂を傾け、全努力を注ぎ、労力と心と思索を捧げていたなら、あるいは資料を調べることに時間をかけ、全身全霊を捧げていたならば、このように協力することができていたならば、神は前に立ってあなたを待ち、『さあ、結果がここにある』と言うでしょう。力をそれほど発揮する必要はありません。協力する努力を惜しまなければ、すでに神がすべてを手配しています。あなたがずる賢く不誠実で、仕事の途中で心変わりをし、道からはずれるなら、神は行動しません。あなたはこの機会を失い、神にこう言われるのです。『あなたは不十分で役に立たない。脇に立っていなさい。怠けていたいのではないのですか。嘘つきでずる賢くなりたいのではないのですか。休むのが好きなんでしょう。それなら、休んでいなさい』。神はこの恵みと機会を別の人に与えます。どう思いますか。これは損失ですか。利得ですか。これは大損失です!」(神の交わり)。この御言葉は私の状態を明らかにしました。リードシンガーを引き受けて、練習すると約束したのに、その約束を守ろうとしなかった。自分が苦手な所に取り組んだり、コードが上達する方法を調べようとしないで、大変だからという理由で練習をさぼってしまった。時間がなかったことを言い訳にして、手元のアップを映さないよう頼んだ。なんとかなると思っていたけど、結局計画を遅らせる羽目になった。本当に無責任だし、軽率だった。本分に直面した時に、曲をうまく弾いて、神の証をするための努力する代わりに、一番楽で、簡単な道を選んだ。そのせいですべてやり直しになった。なんでこんなに無責任になれたんだろう。あと少し練習すれば、あと少し努力すれば、神の家の働きを損ねずにすんだのに。その時、自分を嫌悪する気持ちが多少芽生えました。「もう一度チャンスがあったら、次はしっかりやろう。コードの練習がどれほど辛くても、必ずやり遂げよう」と思いました。

その後、練習のために2日の猶予が与えられました。これには、心から感動して、過ちを償う機会を与えてくれた神に感謝しました。再び練習を始めて、コードを全部覚えようとがんばったけど、すごいプレッシャーでした。自分の技術がまだ未熟で、2日の練習では上達しないと思うと、また不安が押し寄せてきました。不安になるとコードを思い出せなくなって、それでまた不安が増した。あっという間に午前中が過ぎてもまだうまく演奏できなくて、手はひどく痛んだ。いつもなら、午後は練習をお休みするけど、この時は練習を続けることにした。休んでる暇なんてない、コードを覚えるまでは一瞬も無駄にできないと思った。そんな私を神が導いてくださった。その日の午後、いつの間にか、コードを小節ごとに覚える方法をマスターしたんです。みるみる上達しました。でも長い時間練習していたせいで、手が腫れ始めて、また練習をサボりたい気持ちが湧いてきました。そう考えている自分に気づいた時に、神の御言葉のこの一節を急いで読みました。「努力と消耗を要し、身体と精神と時間を捧げなければならない本分に直面したとき、何かを差し控えたり、何らかの企みを抱いたり、余力を残したりしてはいけません。余力を残し、計算高く、ずる賢く不誠実であるならば、きっとまずい仕事をすることになります。『自分が都合よくやっているところを誰も見ていなかった。しめた!』とあなたは言うかもしれません。それはどのような考えですか。あなたは人と神を騙せたと思っています。けれども実際に、神はあなたが何をしたか知っていますか。知りませんか。(知っています。)そう、神は知っています。ふつうは、長期間あなたとやり取りする人たちも気づき、あなたはいつもずる賢く、決して勤勉ではなく、50%か60%、最高でもせいぜい80%しか努力しない人だと言います。あなたが何もかも滅茶苦茶に行ない、自分のしていることに目を瞑り、仕事においてまったく良心的でないと言います。あなたは何かをするように強制されて初めて、少し努力するだけです。あなたの仕事が基準に達しているかを点検するために誰かがそばにいれば、少しだけましな仕事をします。けれど誰もいないと、少し手を抜きます。取り扱いを受けたら、心を注ぎます。そうでなければ、仕事の間中ずっと居眠りをし続け、誰も気づかないと思い込み、できるだけさぼろうとします。時が経つと、人は気づきます。『この人はあてにならないし信用するに値しない。この人に重要な本分を与えるなら、監督が必要だ。原則をともなわない通常の作業や仕事はできるけれど、特に重要な本分を与えたら、たぶん台無しにしてしまい、一杯食わされる』と人は言います。問題の人は見抜かれ、尊厳も誠実さもそれまでにすっかり放棄しています。誰もこの人を信頼できないのに、どうして神に信頼できますか。神はその人に重要な本分を託すでしょうか。そのような人は信用できません」(『終わりの日のキリスト講話集』の「いのちの入りは自分の本分を尽くす経験から始まらなければならない」)。

この御言葉で、自分がどれほどいい加減に本分に取り組んでいたかがわかりました。コードが弾けないのに練習もせず、上を目指そうとしなかった。全力を尽くしていなかった。自分の本分におざなりな態度で取り組み、不誠実で、適当だった。自分はいつも本分に真剣に取り組み、揺るぎない忠誠心をもっている、そう思っていました。でも成果を出せるよう最大限の努力をしないで、適当にこなすようでは、本分を尽くしていると言えません。それを続けていたら、そのうち誰にも信用してもらえなくなる。危うく自分の尊厳や名誉を失うところでした。一度犯した過ちを、繰り返したくはありませんでした。手が腫れることより、休憩がとれないことより、自分の尊厳や名誉の方が大事。だからどれほど疲れて大変でも、コードの練習を続けると決めました。悔い改めると決意した私を、神の祝福と導きが待っていました。その日、私は真夜中まで練習を続け、ほぼすべてのコードを覚えることができました。曲全体が弾けるまで、次の日も一日中練習を続けました。撮影では、1つ1つ気を付けて弾き、静かに神に祈りを捧げました。そしてなんと、すべてを1回で撮影できたんです。このような結果になって、心が安らぎ、真理を実践することの喜びを味わいました。

その後、私は作曲の本分を与えられました。作曲は長い事やっていなかったので、少し腕が衰えていたのと、最近はロック調の曲が多かったのですが、ロックは未経験なので不安に思いました。でも尽くすべき本分だから、精一杯やろうと思い、月末までの計画として、2曲完成させることを目標にしました。徹夜で作曲に励み、疲れた時には、肉に背けるよう神に祈りながら、ふと思いついたメロディーを基に、1曲完成させることができました。完成後、兄弟姉妹に聞いてもらうと、いい出来だ、ロックっぽいスタイルだと言われました。私は心の中で、「もうすこしコーラスに磨きを掛ければ、曲がもっとよくなるわ」と思いました。でもすぐに思い直しました。はっきりとした方向性は見えていなかったし、無理はしたくなかった。兄弟姉妹も問題ないと言ってくれたし、出来としては悪くない。それに、ロックは初めてだし、多少おかしなところがあるのもしょうがない。だからそのまま提出しました。

数日後、方向性はいいけど、メロディーが少し粗い、歌詞をもう少し練り直すようにと言われた。それを聞いて、少し反発心が芽生えました。「このジャンルは未経験なのに、要求されるレベルが高すぎる!」と思った。作曲自体にも多くの時間をかけたし、フィードバックをもらえるまで数日待ったから、もう月半ばでした。作業はなかなか進まず、だんだん焦ってきました。曲の手直しは簡単なことではなくて、出来上がりがどうなるかわからなかった。だから、曲調を変えることにしたのですが、子供の歌みたいでよくないと言われてしまったんです。とても傷つき、こう思いました。「全力を尽くしたのに、1曲も合格をもらえない。どうすればいいの?」その後、いくつかメロディーを書いたけどすべて却下されて、本当に辛かった。月末までに2曲を完成させると決めたのに、まだ1曲も終わっていない。本分を尽くせないなんて、私はダメな人間なの?

その後の集会で班長がこう言いました。「君の曲はオリジナリティがあって曲風もいいのに、どうしてまだ合格できないんだ? 歌詞がおそろかになっているから、言葉とメロディーがマッチしていない。直すたびに出来が悪くなって、神の家の働きに支障が出ている」と。その時、別の兄弟も言いました。「撮影の時の歌も出来がよくないぞ。歌と楽譜があってないし、もう少し気をつけなきゃだめだ」こんなふうに兄弟に取り扱われて、本当に恥ずかしかった。穴があったら入りたいと思った。家に帰って、神に祈りました。「神よ、私は本分を精一杯尽くすことができません。でも問題を解決する方法がわからないんです。どうかお導きを」。

そしてこの御言葉を読みました。「ふまじめに無責任に物事を扱うことは、堕落した性質内にある何かではありませんか。それはどのようなものですか。それは卑劣なものです。そういう人は、あらゆることにおいて『それはだいたい合っている』とか『かなり近い』と言います。それは『たぶん』、『恐らく』、『8割程度で』という態度です。彼らはおざなりに物事を行ない、することは最低限に済ませ、行き当たりばったりで対応することで満足します。物事を真剣に受け止めたり正確さを求めたりすることに意義を覚えず、原則を追求するのはさらに無駄だと考えています。これは堕落した性質の中にある何かではありませんか。それは正常な人間性の現れですか。それを傲慢と言っても良く、自堕落という言い方も同様に適切です。けれども、完璧に形容できる唯一の言葉は『卑劣』です。そのような卑劣さは、大多数の人の人間性に存在しています。そのような人は、ことごとく、できるだけ最小限のことだけをして済ませ、罰を受けずに何をやってのけられるのかを知りたがり、なすことすべて胡散臭いのです。可能であれば他人をだまし、可能であれば手抜きをし、物事をじっくり考えるのに多くの時間や思考を費やすることを嫌います。そして内心このように考えます。『暴かれるのを避け、問題を起こさず、責任を問われない限り、これを切り抜けることができる。きちんと仕事をするなんて、やりがいよりも面倒のほうが多い』。そのような人は何も習得せず、熱心に研究することもありません。ある主題について概要だけを仕入れて、自分を専門家と呼び、それに頼ってどうにか切り抜けていきたいだけなのです。人は物事にこのような態度を取るのではありませんか。これは良い態度ですか。そのような人が他の人や物事に対して取るこの態度は、一言で言えば『どうにか切り抜ける』であり、そのような卑劣さは堕落した全人類に存在します」。「高貴な人と下劣な人は、どのように見分けることができますか。人、出来事、物を扱う際の態度とやり方を見なさい。つまり、問題が生じたときにどう行動し、どう物事を扱い、どう振る舞うかを見なさい。人格と尊厳を備えた人は、行動において緻密で、真剣で勤勉であり、犠牲をいといません。人格と尊厳を備えていない人は、行動が散漫でぞんざいで、いつも何かをたくらみ、常に物事を適当に切り抜けたいと思っています。熟練するまで技能を学ばず、どれほど長く勉強しても、技能や職業について無知なため、困惑したままです。答えを出すように彼らに強要しないかぎり、すべてうまくいっているように見えますが、答えを求めるとすぐに慌てふためきます。眉を汗だらけにし、反応しません。それが下劣な人です」(『反キリストの本性と実質を暴く』の「彼らは他人を自分たちだけに従わせ、真理や神には従わせない(2)」)。これを読んで初めて気がつきました。私が本分を精一杯尽くせなかったのは、自分に卑劣な部分があるからだと。成果を出すことより、一番楽な方法で終わらせることを選んだ。真理の原則や神の求めに従って本分を尽くそうとしなかった。今回のことを考ると、動画の撮影であれ、作曲であれ、努力が必要な問題や、苦労を伴う事態に直面すると、最低限の努力で満足し、それより上を目指そうとしなかった。さらに努力してしっかり取り組めば、もっといい成果を出せるとわかっていたのに。いつも自分を甘やかして、最低限のことしかしなかった。だから前に進むことも、本分で神の証をたてることもできず、教会の働きを遅らせてしまった。これで本分を尽くしたとは言えません。むしろ神の家の働きを邪魔してしまった。その時初めて、自分の卑劣さが深刻だと理解しました。適当に片づけ、流れに身を任せ、神を欺こうとした。品性も、尊厳もなかった。神に好かれるのは、誠実に真面目に本分に取り組み、困難に直面した時は真理の原則を求め、神の要求に従い本分を尽くす人間です。そのような人には品性や尊厳があり、神に高く評価されます。それに比べて私は、人間と呼ぶにも値しない、恥ずかしい存在だった。その時に理解しました。神は、兄弟に刈り込みと取り扱いをさせて私を救ったのだと。そうしなければ私の適当さはなおらなかったし、本分を尽くせず、神の家の働きを遅らせて、神に淘汰されていたでしょう。

そしてこの御言葉も読みました。「神の働きは人類のためになされるのであり、人間の協力は神の経営のためになされる。神がなすべき働きをすべて行なった後、人間は惜しむことなく実践し、神と協力するよう要求されている。神の働きにおいて、人間は努力を惜しまずに、自分の忠誠を残らず捧げるべきであり、数多くの観念にふけったり、座して死を待っていてはならない。神は人間のために自らを犠牲にできる。それではなぜ、人間は自分の忠誠を神に捧げられないのか。神は人間に対して心と思いを一つにしているのに、なぜ人間は少しばかり協力できないのか。神が人類のために働きを行なっているのに、なぜ人間は神の経営のために、いくばくかの本分を尽くせないのか。神の働きがここまで至ったのに、あなたがたは依然として見ているだけで行動せず、聞くだけで動こうとしない。このような人は滅びの対象ではなかろうか。神はすでに自身のすべてを人間に捧げたのに、なぜ人間は今日、熱心に自分の本分を尽くすことができないのか。神にとっては自身の働きが最優先であり、神による経営の働きはこの上なく重要なことである。人間にとっては、神の言葉を実践し、神の要求を満たすことが最優先である。あなたがたはみな、それを理解すべきである」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人間の実践」)。この御言葉について考えた時、深く感動しました。神はひたすらに人類のことを思いやり、サタンによって堕落した人類を救うため、2度も受肉した。辱めを受け、何世代にもわたり拒絶され、多くの苦しみに遭った。人類の深い堕落と無関心に直面しても、神は決して私たちを見捨てず、真理を表して救おうとする。素質がなく、すぐに真理を受け入れられなくても、神は誠実に、徹底的に交わりをしてくれる。時には比喩やたとえを用いたり、物語を使ってあらゆる角度から、あらゆる方法で、私たちを導いてくれる。私たちが真理を理解して、真理に入れるように。神は私たちの命に責任をもち、私たちが完成するまで休息をとることもない。神の性質とその誠実な意図を知り、心から励まされました。一方、自分の神への態度や本分への取り組みを振り返ると、自責の念に駆られ、本分を適当にこなすようなことは金輪際したくなかった。神の前で祈り、どうすればもっと真剣に本分を尽くせるのか、神に尋ねました。

そしてこの御言葉を読みました。「本分とは何ですか。それは神から人々に託された使命です。ではどのように自分の本分を尽くすべきですか。神の要求と基準に従って行動し、人間の主観的な欲求ではなく真理の原則をもとに振る舞うことで、本分を尽くすべきです」(『終わりの日のキリスト講話集』の「真理原則を探し求めることでのみ、本分をよく尽くすことができる」)。「何かに心から自分を捧げるとはどういうことでしょうか。実を言うと、それは多少の努力を注ぐとか、多少の肉体的苦痛を受けるという意味ではありません。そうしたことは、心から自分を捧げることではありません。重要なのは、心に神が宿っていることと、本分に対して重荷を背負っていることです。心の中で本分の重要性をよく考え、あらゆる行動においてその重荷と責任を意識し、それに心を注ぐ必要があります。自分自身を、神に与えられた使命だけでなく、神がしてくれたすべてのこと、そして神の期待にふさわしいものとしなければなりません。ただそれだけが、真に献身的であるということです。形だけでは意味がありません。人は騙せても、神を欺くことはできません。本分を尽くすときに真の代価を払わず、忠誠心を持っていなければ、それは規準に適っていないのです」(『終わりの日のキリスト講話集』の「神の義なる性質をどのように認識するか」)。これを読んで心の曇りが晴れました。本分は神に与えられたものだから、神の求める通りに、真理に従って尽くさなければなりません。選り好みしたり、自分のしたいことをやればいいというものではないのです。本分では達成すべき基準があって、がんばったふりをしただけではだめ。責任感をもって真面目に、誠実に取り組み、改善方法を考え、追求していくことで、本分を尽くして神を満足させられるのです。その後作曲に取り組んだ私は、歌詞を慎重に分析し、その雰囲気に合った曲をいくつか見つけました。他の人は同じ感情をどのようなメロディーで表現しているか、歌詞の意味、雰囲気、メロディーの方向性も考えた。すべてを一通り理解してから、作曲に取り組みました。兄弟姉妹からもアドバイスをもらって、2度手直しをして、曲が完成しました。完成まで1週間しかかかりませんでした。手直しをしたもう1曲も無事合格になりました。作曲がとてもスムーズに終わったことで、前回、適当に取り組んだことがさらに悔やまれました。サタンによってどれほど堕落させられ、どれほど卑劣で軽率だったか、とてもよく分かりました。神の采配のおかげで兄弟姉妹の取り扱いを受け、真理を求めて自分の堕落した性質を解決し、誠心誠意本分を尽くせました。神の救いに感謝します!

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