素晴らしい生き方とは

2022年4月16日

日本 寻求

子供の頃、両親から「決して揉め事を起こすな」と言い聞かされて育ったの。それが私の生き方になってた。だからいつも、サタンの哲学どおりに生きてたの。例えば、「良い友人の欠点に目をつぶれば長くて良い友情ができる」、「人をたたいても顔はたたくな、人を責めても欠点をあげつらうな」などよ。誰かが間違ったことをしてるのに気づいても、その人に恥をかかせたくなかったし、欠点を暴きたくなかった。「周りを理解し、思いやれる人だ」って、いつも褒められたわ。それがいい方法だと思ってたし、人間関係の基本だと思ってたの。でも神の御言葉の裁きと刑罰を経験したことで、それは「善良な人間」ではないって気づいた。サタンの哲学に基づいた行動だと分かったの。誰のためにもならないし、人を傷つけることもある。物事の見方が変わったし、神の御言葉で行動の原則を得られた。

2019年8月、教会のリーダーに選ばれたの。そんな機会に恵まれて、本当にありがたかったわ。この責任を全うしようと心に決めた。しばらくして、兄弟姉妹の働きぶりに、いくつか問題があることに気づいたの。不注意によるミスで、トラブルを起こした人。みんなと連携せず、動画の作業を狂わせ、効率を下げた人。それに対して、私はこう思った。「彼らの本分に堕落が見えるこのままでは、神の家の働きに大きな影響が出てしまう。彼らが問題を理解して変われるよう、交わらなければ」でも思ったの。「本分を引き受けたばかりなのに、みんなの問題を指摘したら、どう思われるだろう。この人は厳し過ぎるとか、厄介な人だとか、言われないだろうか。そんな印象を与えてしまったら、みんなから疎まれるのでは? 問題のことは言わないでおこう。まずは、いい関係を築かなければ」そうして、兄弟姉妹の問題をどれも見て見ぬふりをしてしまったの。みんなの顔に泥を塗り、体面を傷つけることで、関係を損ねるのが怖かった。

ある日、姉妹が言ったわ。王兄弟が意地を張って周りの提案を受け入れないせいで、作業が遅れてるって。そのことについて、他の人にも聞いてみたわ。みんなが言うには、王兄弟は傲慢で、見下すように威張ってるとのことだった。一緒に働いている人のほとんどが窮屈な思いをしてた。それを聞いて思ったの。王兄弟はかなり深刻な問題を抱えてる。すぐに取り扱わないと、彼のいのちの入りにも、神の家の働きにも良くないって。問題の深刻さを理解してもらうために、彼と交わる必要がある。でも実際に王兄弟と話をするとなると、ためらってしまった。こう思ったの。「指摘のあった問題はどれも、王兄弟の一番悪い部分。それをすべて伝えるとなると、彼は『取り柄がない』とけなされたように感じるかも。それでは面目を失わない? それに、私からターゲットにされてると感じたら、腹を立てるかもしれない。王兄弟とは、集会や本分でしょっちゅう顔を合わせてる。もし気まずくなったら、どう関係を保てばいい?」彼は集会で常々、「自分には傲慢な性質がある」と言ってた。それをほのめかして、痛いところは突かないようにしよう。それなら彼もさほど恥をかかないし、関係もそんなに気まずくならないはず。そのため交わりでは、彼が傲慢で、周りを見下してることに軽く触れただけ。彼は最後まで話を聞いて、自分はごう慢で横柄だと認めたわ。自分でも自覚してたって。その深刻さには気づいてないようだったけど、私はそれ以上言わなかった。王兄弟は自分をきちんと理解できてなかったから、その後も本分で変わらず意地を張ってて、周りと連携できず、作業を遅らせた。そして結局、異動になったわ。まもなく別の本分に就いたけど、堕落した性質が災いして、あまり結果を出せてなかった。ある日、彼の監督者が私にこう怒ったの。「王兄弟の問題に気づいてた? なぜ交わらなかったの? 彼は、働きの進捗に重大な影響を与えてるわ」。彼女の厳しい言葉は、神が彼女を通じて、真理を実践していない私を叱っているようだった。本当に申し訳なく思ったわ。あのとき、私が王兄弟の問題を指摘して、彼が反省してたら、ちゃんと本分を尽くせてたかもしれない。だけど自分のサタン的本性を理解できてなかったから、前にも失敗したのに、その後も何ら変わらず、また働きを妨げてしまった。私は、神の家の働きに害を与えたのでは? 自分にはいい人間性があると思ってたけど、人に恥をかかせて悪い印象が残るのを恐れていただけだった。兄弟姉妹のいのちの入りのためにも、神の家の働きのためにもなってなかった。それがいい人間性だと言える?

その後、この御言葉を読んだの。「よき人間性を持つための基準が必ずあります。それは中庸の道を歩むことでも、原則を堅持することでも、誰の気分も害すまいと努めることでも、行く先々で媚びへつらうことでも、誰に会っても人当たりがよく、如才なくすることでも、みんなの気分をよくすることでもありません。それが基準ではないのです。では、その基準は何ですか。そこには、真心でもって神や人や出来事に接すること、責任を負えるようになること、そしてそのすべてを、誰もがはっきり見て感じられる形で行なうことが含まれます。さらに、神は一人ひとりの心を探り、知っているのです。中には、自分は善い人間性を備えていると常に自慢し、悪事を犯したことも、他人の物を盗んだり羨んだりしたこともないと言い張る人がいます。このような人は、利益を巡って紛糾すると自分が損するほうを好み、自分の利益を犠牲にしてでも他人に得をさせ、誰の悪口も決して言いませんが、それは単に誰からもいい人だと思われるためです。しかし神の家で本分を尽くすときはずる賢くいい加減で、いつも自分のために策を巡らせます。神の家の利益を考えることも、神が緊急としているものを緊急として扱うこともなく、神が考えるように考えることもなければ、本分を尽くすために自分の利益を脇にのけることも決してできません。自分の利益を決して手放さないのです。たとえ悪人が悪事を犯すのを見ても、彼らはその人を暴きません。原則が一切ないのです。これは善い人間性の見本ではありません(『終わりの日のキリスト講話集』の「自分の真心を神に捧げると真理を得ることができる」)。御言葉には、行動の原則が示されてる。善良な人は、中庸の道を歩まないし、人の問題を黙って見過ごさない。完全な調和を求めたり、人間関係を完璧に保とうとしたりもしないわ。善良な人とは、原則を持つ、正義感のある人のこと。神の家の利益が損なわれたときに、何も恐れずに原則を守り、神の家を守るの。でも私は、兄弟姉妹とかかわるなかで、誰にも恥をかかせないよう、怒らせないよう気を配ってた。関係を維持すれば、みんなから良く思われると考えたからよ。全く真理の原則に見合ってなかった。堕落した人が、神の家の働きを混乱させてるのを知ってたのに、自分のイメージを守りたい一心で、教会の利益を守らずに見て見ぬふりをして、問題を放置してしまった。特に王兄弟の件では、彼の問題が神の家の働きに影響を与えてることを知ってた。それなのに、ターゲットにしてると思われるのではないか、話を受け入れずに反感をもたれるのではないかと恐れ、彼と交わるときも、言葉を濁して問題を軽く扱った。その結果、王兄弟は問題を深刻に受け止めなかったわ。表面的には、私は無害なイメージを保ってたけど、実際には教会の働きやみんなのいのちの入りに害を与えてたの。人にこびへつらうだけの、正真正銘の詐欺師だった。

その後のデボーションで、この御言葉を読んだの。「教会指導者の中には、兄弟姉妹が軽率かつおざなりに本分を尽くしているのを見て、叱責すべきなのにそうしない人たちがいます。彼らは神の家の益にとって明らかに有害なことを見ても、他の人たちをほんの少しでも怒らせまいと、見て見ぬ振りをし、何の調査もしません。彼らの本当の目的と目標は、他の人たちの弱さに配慮することではありません――このような人は、自分の意図を知り尽くしています。『このまま誰も怒らせなければ、人はわたしのことを優れた指導者だと思い、立派な人だと高く評価する。わたしを認め、好んでくれる』。神の家の益にどれだけ害がもたらされようと、神の選民がどれだけいのちの入りを妨げられようと、あるいは彼らの教会生活がどれだけ乱されようと、このような人たちはサタンの哲学に固執し、誰も怒らせないようにします。これは、彼らの心に自責の念があるということでは決してありません。せいぜい何かのついでに、何らかの問題に軽く触れ、それでおしまいなのです。彼らは真理を交わらず、他の人たちが抱える問題の実質を指摘せず、まして人の状態を分析することなどありません。人々を導いて真理の現実に入らせることはなく、神の旨は何か、人はしばしばどのような過ちを犯すのか、あるいはどのような種類の堕落を示すのかを話し合うこともしません。彼らはそうした実際の問題を解決せず、それどころか、他人の弱さや消極性、さらには軽率さやいい加減ささえも大目に見ます。そうした人たちの行ないや振る舞いの正体を見極めることなく、ひたすらそれらを成り行きに任せますが、まさに彼らがそのようにするせいで、ほとんどの人はこう考えるようになります。『わたしたちの指導者は、私たちにとって母親のようだ。わたしたちの弱さを神よりもよく理解している。わたしたちの霊的背丈はあまりに小さく、神のお求め通りに生きることができないけど、指導者の要求通りに生きられればそれで十分だ。あの人たちはわたしたちの優れた指導者だ。上のほうが指導者を交代させる日が来たら、わたしたちは声を上げ、自分たちの意見と希望を伝えなければならない。上のほうと交渉を試みるべきだ』。人々がこのような考えを抱いていたら――つまり、指導者とこのような関係を持ち、彼らに対してそうした印象を抱いていて、指導者に対する依存、崇敬、尊敬、そして憧れといった感情を育んでいれば――指導者はどのように感じるでしょうか。この問題の中で、彼らが何らかの自責の念、不安、そして神への借りを感じていたら、他人の心における自分たちの地位やイメージに固執すべきではありません。神の証しを行ない、神を称揚することで、神が人々の心に居場所を持ち、人々が神を偉大な存在として崇めるようにしなければなりません。このような形でのみ、彼らの心は真に安らぐのであって、そうする人こそ真理を追い求める人なのです。しかし、反キリストの行ないの裏にある目標はこうしたことではなく、それどころか、彼らはそういった手段やテクニックを使って人々を誘惑し、真の道から逸れて真理を裏切るように仕向け、人々が本分を軽率に、なおざりに、無責任に尽くすのをいつも大目に見るまでになります。その裏には、人々の心の中である種の居場所を占め、彼らの善意を勝ち取るという目的があるのです。それは人々を勝ち取ろうと試みているのではないですか。嫌悪すべき邪悪なことではないですか。実に忌まわしいことです!(『反キリストを暴く』)。この御言葉は、私の行動の本質と動機を示してる。リーダーになってからというもの、人間関係の維持に細心の注意を払ってた。相手に問題を提起せず、その人の面目を保とうとしてたわ。王兄弟が教会の働きを乱して妨げてるのを知ったときも、危機感をもたなかった。自分の居場所を失いたくなくて、慎重に言葉を選んで話してた。一見、優しく無害に見えるけど、それは兄弟姉妹を惑わすうわべ。周りから良く思われるような言動で心をつかんで、みんなから好かれ、尊敬されようとしてた。自分の地位を固めようとしたのよ。自分がスムーズに進めるよう、神の家の利益を犠牲にしたの。真理の原則に逆らう行為だし、反キリストの道を歩いてた。そのとき、この御言葉が頭に浮かんだ。「あなたは親戚、友人、妻(あるいは夫)、息子や娘、両親には、極めて親切かつ献身的で、決して他人を利用したりはしないかもしれない。しかし、キリストと相容れることができないのなら、キリストと調和して交流することができないのなら、たとえあなたが隣人を助けるためにすべてを捧げたり、父や母、そして家族の者たちを細やかに世話したりしても、あなたはそれでも悪意があり、さらにずるがしこい策略に満ちている、とわたしは言う(『神の出現と働き』「キリストと相容れない人は疑いなく神の敵である」〔『言葉』第1巻〕)。神の家が私をリーダーにしたのは、真理を実践して本分を尽くせるようみんなを導き、神の家の働きを支え、真理を交わって問題を解決させるため。みんなが自分の堕落を理解し、原則に沿って本分を尽くせるようにするためよ。それが私の責務。なのに、神のお求めどおりにせず、人間関係と評判を保つことに専念して、結果的に神の家の働きを害し、みんなのいのちの入りを妨げた。私はサタンの側で行動してた。御言葉に示されたとおりの人間だったわ。善良でないだけでなく、不誠実で悪賢く、卑劣だった。悔い改めなければ、兄弟姉妹のいのちの入りを邪魔する存在になってしまう。人間関係についての自分の人生法則がやっとわかった。「人をたたいても顔はたたくな、人を責めても欠点をあげつらうな」とか、「人をたたいても顔はたたくな、人を責めても欠点をあげつらうな」というのは行動の原則じゃないわ。悔い改め、間違った追求を正したくて、神の御前で祈った。

その後、こんな御言葉を読んだの。「神との間に正常な関係を築きたければ、自分の心を神に向けなければならない。それを土台として、他の人たちとも正常な関係をもてるようになる。神との正常な関係がなければ、他の人たちとの人間関係を維持するために何をしようと、どれほど努力しようと、どれほどの労力を費やそうと、それはやはり人間の処世哲学に属するものになる。あなたは人々から賞讃されるよう、人間の観点と哲学を通じて、人々の間における自らの地位を維持しているが、神の言葉に従う形で人々との正常な関係を築いてはいない。人々との関係に重点を置かず、神との正常な関係を維持していれば、そして自分の心を進んで神に捧げ、神に従うことを学ぼうとしていれば、すべての人との関係は自然と正常なものになるだろう。このように、そうした関係は肉においてではなく、神の愛という土台の上に築かれるのである。そこに肉体的な交流はほとんどないが、霊における交わり、互いへの愛、相互の慰め、そして互いに対する施しがある。これらはすべて、神を満足させる心を基礎として行なわれる。このような関係は人間の処世哲学に依存することで保たれるのではなく、神のために重荷を負うことで自然と形成される。それは人為的な努力を必要としない。あなたは神の言葉の原則に従って実践するだけでよい(『神の出現と働き』「神との正常な関係を築くことは極めて重要である」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉のおかげでわかった。俗世の人生哲学では、正しい人間関係を築けないって。御言葉どおりに兄弟姉妹の霊を育んでこそ、みんなのためになる。兄弟姉妹の堕落が本分に影響を与えてたとき、私は自分のイメージにこだわるべきじゃなかった。彼らが自分の堕落を理解できるよう、その問題を御言葉に照らして考え、本分をきちんと尽くせるように交わるべきだったわ。神もお認めになる。王兄弟は、御言葉に照らして自分を理解できることが多かった。つまり、自分の問題を解決したがってたの。ただ、問題の根源を理解できてなくて、自身を心から憎めてなかった。だから、堕落したままだった。私が神の御言葉を使って問題を分析し、彼が実践の道を見つけていれば、彼を助けられてたかもしれない。それに気づいて、自分の追求を改め、神のお求めどおりに行動したいと思った。その後、私は王兄弟の本分での問題を整理して、1つひとつ書き出したわ。そして彼と交わり、彼の問題の根源を分析した。王兄弟は、私の心配をよそに、それ以降も私を嫌ったり避けたりせず、交わりを受け入れてくれた。後日、メッセージが届いたの。「指摘してくれたおかげで、問題の深刻さに気づけました」って。本当に感動したわ。動機を正し、自分のイメージにこだわらず、御言葉と原則を実践すると、みんなを実際にサポートできた。安らぎも感じたわ。

しばらくして、本分をだらだらと尽くしてる姉妹がいることに気づいたの。トラブルもたくさん起きてたし、そのことで彼女も落ち込んでた。それらのトラブルの大きな原因は、彼女の本分に対する姿勢だと思い、彼女に指摘したかった。でも思ったの。「彼女はすでに落ち込んでる。問題を指摘したら、傷口に塩を塗ってしまうのでは? もっと落ち込んだら、『人間性がない』と私が周りから批判され、疎まれるかも」って。だから、トラブルの解決策さえ見つけられれば、彼女の問題に触れずに済むと考えたの。でもそのとき、また自分がサタンの哲学に従ってることに気づいた。私が問題を指摘しなければ、彼女は自分の堕落に気づけない。そんなの彼女のためにならないわ。私は神に祈り、真理の原則を求めた。そして、この御言葉を読んだの。「神はその行ないにおいて、優柔不断であることや躊躇することが決してありません。神の行ないの背後にある原則と目的はすべて明白かつ透明、純粋で完璧であり、その中に策略や陰謀は一切潜んでいません。つまり、神の本質には闇や邪悪が一切含まれていないのです(『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」〔『言葉』第2巻〕)。「神は中庸の道を歩まず、人間の考えに汚染されていません。神にとって、一は一であり、二は二であって、正しいことは正しく、間違ったことは間違っていて、曖昧な物事はありません(『終わりの日のキリスト講話集』の「真に服従していることだけが本当の信仰である」)。この御言葉から分かった。神の言動は実に原則にかなってるって。神は、前向きに取り組む人のことは認めるけど、真理に逆らって神の家の利益を損なう人のことはお嫌いになる。神の御業は明確で、曖昧な点がない。主イエスが十字架にかけられたときのことを思い出したわ。ペテロは言った。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」(マタイによる福音書 16:22)。主は、こう返された。「サタンよ、引きさがれ(マタイによる福音書 16:23)。ペテロの言葉は、神の働きを邪魔するものだった。だから神は、それをサタンの言葉だと見なした。主イエスは、ペテロの自尊心を傷つけることを恐れなかったわ。ペテロの行動に対して、主がはっきりと意思を示したから、ペテロは、神の明確な態度と、自分の行動の本質を知れたの。神の態度は、実践の原則を示してる。寛容さと忍耐で解決できる問題もあるけれど、神の家の働きに影響や害があるときは、真理の交わりが必要になる。こびへつらってる場合じゃなかった。その姉妹が落ち込んでるのは知ってたけど、それでも正しい動機をもって、彼女を見下したり、頭ごなしに叱ったりせずに、真理の交わりをして問題を分析すれば、きっと彼女は自分の堕落を理解できるし、一緒に実践の道を求められる。私の本分も御旨を満たせるわ。その後、彼女に会いに行って、問題について交わり、彼女の間違った考え方について話したの。参考になるよう、私の経験も伝えた。「こんな交わりは厳しすぎて、耐えられないのでは?」と不安だったけど、心配は無用だったわ。彼女は落ち込んだり、私に偏見をもったりすることなく、それまで自分の問題を理解できてなかったことを真摯に認め、取り扱いを受け入れてくれたの。それ以降、彼女は本分での態度を改め、真理の原則を求めるようになったわ。それを見て、本当にうれしかった。真理を実践し、御言葉どおりに本分を尽くせて、幸せだった。

私は人との関わりにおいて、強く出すぎると相手に恥をかかせるのではないかと、いつも恐れてたの。だからサタンの哲学に従って対処してた。疲れる生き方だった。この経験と神の御言葉のお導きによって、善良な人間の在り方を学んだわ。それに、人間関係では原則を守り、御言葉を実践するのが大事なの。それが優れた行動の原則よ。神に感謝!

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