人の気分を害しても真理を実践する

2022年12月9日

2020年5月に終わりの日の全能神の働きを受け入れたの。いつも神の御言葉を読み、積極的に教会生活に参加して、どんな本分でも尽くした。その後、教会指導者に選ばれたけど、そんなとき、福音執事を2人、急いで訓練する必要が生じたの。手元に条件を満たす人のリストがあって、中でもケビン兄弟の素質が比較的優れ、働きで忙しいということもなく、集会では積極的に交わり、福音伝道の原則を理解してたから、わたしは適任だと思った。あとジャネル姉妹も積極的に本分を尽くし、多少の成果を上げている。他の人に比べ、この2人が適任に思えたし、指導者も賛成してくれた。それで2人を福音執事にしたの。しばらくすると、2人とも福音執事の職責を理解して、それに慣れたから、独り立ちして本分を尽くすのを許し、わたしは潤しの働きに全力を注いだ。数週間後、福音を受け取ったばかりの人が数名、集会グループを離れ、福音を伝える人たちも困難を抱えて解決できずにいたの。福音の働きの問題を見て、わたしは不思議に思った。「福音執事は実際の働きをしてるの?」って。そこで働きを調べに行ってみたら、福音執事は采配するだけで、自ら働きをしていなかった。集会でも実際の問題を解決せず、他のみんなを励ますだけ。状況を知って、わたしはがっかりした。教会執事なのに、実際の問題を解決しないなんて怠慢じゃない? それにケビン兄弟はちゃんと仕事をせず、ゲームで遊ぶこともあったし、ジャネル姉妹も本分を怠け、責任を負ってなかった。2人と交わり、本分の問題を指摘しようと思ったけど、仲良くやって来たことを考えると、関係を壊したくなかったの。兄弟姉妹に、理解と思いやりがあるいい人だと思われたかったのよ。直接問題を指摘したら、今までのいい評判が台無し。2人の執事にどう思われるだろう? 自分たちの努力を見ず、欠点だけを見て、愛情がないって思われるかしら? それに、問題を指摘して、2人が受け入れず消極的になったら、兄弟姉妹に、指導者の働きができない悪い指導者だと思われない? 指導者に訊かれたら、きっと取り扱われる。そう思って問題を指摘しなかった。そのとき、自分は教会の働きの責任者なんだから、2人が反省できるよう問題を指摘しなければと思った。でもやっぱり言えなかったの。代わりに励ましと慰めの御言葉をいくつか送り、本分をしっかり尽くし、みんなと協力するよう優しくアドバイスして、本分での問題は指摘しなかった。その後、罪悪感を覚えた。不誠実でごまかしばかり。

ある夜、福音の働きが効果を上げてないのは自分のせいだと思って眠れなかった。2人の福音執事が本分に無責任で、福音を伝える兄弟姉妹の問題を解決せず、みんながプレッシャーに晒され、新人が集会グループを離れても、わたしは2人の問題を指摘しなかった。罪悪感のあまり、どうすればいいかわからず、真摯に神に祈ったわ。「神よ、兄弟姉妹をしっかり導くことができず、罪悪感を覚えています。神よ、どうかわたしを啓き、問題解決できるようお導きください」祈ったあと、経験の証しの動画を見たけど、御言葉のいくつかに刺激を受けた。神の御言葉にこうあります。「人の人間性には良心と理知の両方が備わっていなければなりません。両者とも最も根本的で重要なものだからです。良心を欠き、正常な人間性の理知をもたないのはどのような人ですか。一般的に言えば、それは人間性を欠いた人、人間性が極めて乏しい人です。さらに詳しく検討すると、人間性の喪失はこの人においてどのように表われますか。このような人にどういった特徴が見られるか、具体的に何が表われるかを分析してみなさい。(このような人は利己的で卑しいです。)利己的で卑しい人の行ないはいい加減で、個人的に関係ないことには無関心です。神の家の益を考慮せず、神の旨に配慮を示すこともありません。神を証しすることや本分を尽くすことの重荷を負わず、責任感などまったくないのです。……また、自分が尽くしている本分に関係なく、責任を一切負わない人もいます。このような人は問題を見つけても上位者に報告しません。あれこれ口出しして邪魔している人を目にしても、見て見ぬ振りをします。悪意のある人が悪事を犯しているのを見ても、止めようとしません。彼らは神の家の益をほんの少しも考慮せず、自分の本分と責任は何なのかを考えることもありません。本分を尽くすとき、このような人は実際の働きを一切しません。貪欲に快適さを求めるイエスマンであり、その言動はひとえに自分の虚栄心や面子、地位、利益のためであり、自分に益をもたらすことであれば何であれ、必ず時間と努力を注ぎ込みます(『終わりの日のキリスト講話集』の「自分の真心を神に捧げると真理を得ることができる」)。神の御言葉を二度読んで、とても悲しくなった。自分はよき人間性の持ち主で、辛抱強くみんなを助け、教会執事を気遣ってると思ってた。何をするにもみんなの気持ちを想い、傷つけたくなかった。これは神の旨にかなってるし、自分は善人だと考えてたの。でも、2人の執事が教会の働きに無責任なのを見ても、彼らの問題を指摘せず、本分での無責任さに気づかせなかった。むしろ、問題を指摘すれば関係を壊すと思って、2人を甘やかした。それに、2人を指摘したら指導者に叱責されるし、みんなにも悪く見られると不安になり、みんなとの関係と、自分のイメージと地位を守るほうを選び、慰めと励ましの御言葉を送って2人と交わるだけだった。その結果、2人とも問題に気づけず、すぐに悔い改めて変われなかった。わたしは自分のイメージと利益のために、教会の働きを考えなかったの。神の旨を全然気遣ってないし、わたしは善人なんかじゃない。実際、よき人間性の持ち主は誠実な人で、真理を実践して神の家の利益を守ることができ、みんなと交わって問題を暴き、変わるのを助け、誠実にみんなと接する。でもわたしは? 執事の問題を見ても何も言わず、自分の利益を守るために神の家の利益が害を受けるのを許した。本当に悪い人間性!

その後、御言葉の一節を読んで、自己認識を多少得たの。全能神は言われます。「教会指導者の中には、兄弟姉妹が軽率かつおざなりに本分を尽くしているのを見て、叱責すべきなのにそうしない人がいます。神の家にとって明らかに不利益なことを見ても、このような指導者は人の感情をほんの少しでも害さないように、見て見ぬ振りをし、何の調査もしません。実のところ、彼らは人の弱さを気づかっているわけではないのです。それどころか、彼らの意図は人の好意を得ることであり、このことを彼ら自身十分自覚しています。『このまま誰の感情も害することがなければ、人はわたしのことを優れた指導者だと思い、立派な人だと高く評価する。わたしを認め、好んでくれる』。神の家にどれだけ損害がもたらされようと、神の選民によるいのちへの入りがどれだけ妨げられようと、その教会生活がどれだけ乱されようと、このような指導者はサタンの哲学に固執し、誰の感情も害さないようにします。彼らの心に自責の念は決してありません。誰かが混乱や動揺を起こしているのを見ても、せいぜい何かのついでに、その問題について軽く触れる程度で、それでおしまいです。彼らは真理について説教せず、件の人が抱える問題の実質を指摘せず、ましてやその人の状態を分析することなどありません。神の旨は何なのかを伝えることも決してありません。偽指導者は人がどのような過ちをよく犯すのかや、どのような堕落した性質をよく露呈するのかを明らかにしたり分析したりすることもありません。彼らは実際の問題を解決せず、それどころか、人の不品行や堕落があふれ出るのをいつも大目に見ます。また、人がどれほど消極的で弱くても気にせず、理論や教義を少し説いたり、表面的な激励を少ししてみたりするだけで、衝突を避けようとします。その結果、神の選民が自己を省みたり知ろうと努めたりすることも、さまざまな種類の堕落があふれ出るのを解決することもありません。字句や観念、想像の只中に生き、いのちに入ることは全くないのです。人は心の中でこのようにさえ思います。『指導者は、わたしたちの弱さを神よりもよく理解している。わたしたちの霊的背丈は小さ過ぎて神の求めに応えることはできないけど、指導者の要求を満たしてさえいればいい。指導者に従うことで、わたしたちは神に従っている。もしもある日、上層部が指導者を交代させることになったら、わたしたちは声を上げよう。指導者を守って上層部に交代させられないように、上層部と交渉して、わたしたちの要求を通させよう。わたしたちはこのようにして指導者を正しく扱うのだ』。人がこのような考えを抱き、指導者とこのような関係を持ち、心の中で指導者に対して依存や称賛、尊敬などを感じていれば、人はこの指導者をさらに信じるようになり、指導者の言葉を聞きたがるようになり、神の言葉に真理を追い求めることを止めてしまいます。このような指導者は人の心の中で神に取って代わったようなものです。指導者が神の選民とこのような関係を維持する気になっており、その関係を心の中で楽しんでおり、神の選民は自分をこのように扱うべきだと信じているならば、その指導者とパウロとのあいだに違いはなく、すでに反キリストの道に足を踏み入れています。……反キリストは実際の働きをせず、真理について交わらず、問題を解決せず、人が神の言葉を飲み食いし、真理の現実に入るように導きません。彼らは地位と名声のためだけに働き、自分の立場を固め、人の心の中に自分が占める場所を守り、あらゆる人に自分を崇拝させ、尊敬させ、従わせることだけを気にかけています。これが彼らが達成したい目的であり、反キリストはこのようにして人の好感を得て、神の選民を支配しようとするのです。このような働き方は邪悪ではありませんか。実に忌まわしいことです!(『反キリストを暴く』)。この一節を読んで、顔から火が出るほど恥ずかしかった。御言葉はわたしの状況を言い当ててる。2人の執事が実際の働きをせず、問題が深刻なのは明らかだから、わたしは人の堕落した性質を裁いて暴く神の御言葉を使い、2人が問題に気づいて本分への態度を変えられるよう、交わるべきだった。教会の働きへの影響を防げたはず。でもわたしは2人との関係を守り、好印象を残そうと、問題の本質を暴かず、慰めの御言葉で2人を励ますだけだった。そうすればよき指導者と思われ、高く評価され、認められ、好かれると思ったの。本当に自分勝手で卑劣! 2人の執事の問題をすぐに指摘して暴かなかったせいで、新人は観念を解決できず、福音を受け入れた他の人たちも集会グループを離れた。これはわたしの罪。指導者の本分は、教会執事やグループリーダの働きを監督・追跡し、問題をすぐに解決すること。兄弟姉妹の状況を把握し、原則を破ったり教会の働きに影響を及ぼしたりする人がいれば、愛をもって交わり、助けなければ。交わりでも変わらなければ、刈り込み、取り扱い、解任する必要がある。これが神の家の働きを守る唯一の方法。でもわたしは教会指導者なのに、無責任だっただけでなく、サタンのしもべとして振る舞い、神の家の働きを乱した。恥ずかしいわ! こんなことになるのを見て、くやしく悲しかった。この問題が起きたのは、指導者としてすべきことをしなかったから。交わって問題を暴いていたら、教会の働きをこんなに損なわなかったはず。わたしは実際の働きをしない偽指導者。兄弟姉妹が真理を理解するのを助けず、神の御前に導けなかった。わたしを認め、守ることをいつも望み、わたしに好印象を持ってもらいたかった。神に逆らう反キリストの道を歩んでたの。御言葉の裁きがなければ、どんな悪事を犯したかわからない。それに気づいて自分の行ないを悔やみ、そこで神にこう祈った。「神よ、気づいていませんでした。わたしの利己心のせいで教会の働きに害が及び、兄弟姉妹のいのちを危険にさらしていたことに。こんな大事な委託にふさわしくありません。神よ、悔い改めたいです。福音を受け入れたあの兄弟姉妹たちを教会に戻したいのです。反省して同じ過ちを繰り返さないよう、どうかお導きを」。祈ると状態が少しよくなったけど、まだ罪悪感を覚えてた。まるで罪人(つみびと)で、何をしてもサタンを表わし、わたしのような人は救われず、希望がないと感じた。

そのとき、ある姉妹がチャットグループで御言葉を送ってくれたの。神は言われます。「あなたは数多くの失敗や弱さを経験し、消極的な状態に何度も陥ったが、それはすべて神の試練だと言える。なぜなら、あらゆることは神に由来し、すべての物事や出来事も神の掌中にあるからである。あなたが失敗しようが、弱かろうが、躓こうが、そのすべては神次第であり、神の手の内に握られている。神の視点から見れば、それはあなたの試練であり、あなたがそのことを認識できなければ、それは試みになるだろう。人々が認識すべき二種類の状態がある。その一つは聖霊に由来するものであり、もう一つの根源はサタンの可能性がある。前者は、聖霊があなたを照らし、あなたが自分を知り、自分を忌み嫌い、自分について悔いるようにし、神に対する真の愛をもち、神を満足させることを決心できるようにする状態である。後者は、自分のことを知っているものの、消極的かつ弱いという状態である。この状態は神の精錬だと言えるし、サタンの試みだとも言えるだろう。それは神による自分の救いであると認識し、自分はいま神に大きな借りがあると感じ、その時から神にその借りを返そうとして、そのような堕落に二度と陥らず、神の言葉を飲み食いすることに努力し、自分のことを常に至らない存在であると見なし、切望する心をもつならば、それがまさに神の試練である。苦難が終わり、あなたが前進を再開した後も、神は引き続きあなたを導き、あなたに照らしと啓きを与え、糧を施すだろう。しかし、あなたがそれを認識せず、否定的になり、ただ自暴自棄になって失望し、そのように考えるのであれば、サタンの試みがあなたに臨むだろう(『神の出現と働き』「完全にされる者は精錬を経なければならない」〔『言葉』第1巻〕)。この御言葉を読んで心が安らぎ、前進する自信も生まれた。わたしの堕落を暴く厳しい御言葉を前に読んだときは、苦痛とつらさを感じ、自分が断罪され、救われる希望がなくなったと思い、消極的になって弱ってしまった。でもこの御言葉を読んで、神の御旨を理解したの。本分で神の家の利益を守らず、暴かれ取り扱われたとき、消極的になって弱るのは普通のこと。でも過ちの中に真理を求め、反省できるなら、それは教訓を学ぶチャンス。消極的になって引き下がったり、諦めたりしてしまえば、サタンの罠に落ち、誘惑に負けてしまう。神が人の堕落した性質を裁いて暴く裏には、神の愛があるの。私たちが自己認識して失敗から学び、サタンの性質に操られないことを神は望んでる。これはよいことだし、成長する機会なの。それに気づいて、消極的になることも神を誤解することもなくなった。御言葉と原則に沿って本分を尽くさないと。肉の感情に従い、評判や地位を守ってはだめ。

その後、こんな御言葉を読んだ。「あなたがたは神が誠実な人を好むことを知らなければならない。実質的に神は誠実であり、神の言葉は常に信頼できる。それだけでなく、神の行動は完璧で疑う余地がない。だからこそ神は、神に対して絶対的に誠実な人を好むのである。誠実であるということは、自らの心を神に捧げること、万事において神に真実であること、万事において神に隠し立てしないこと、事実を隠さないこと、立場の上および下の人を欺こうとしないこと、神にこびへつらうためだけに行動しないことを意味する。要するに、言動において純粋であり、神も人も欺かないということである(『神の出現と働き』「三つの訓戒」〔『言葉』第1巻〕)。「いつも自分のために物事を行なったり、絶えず自身の利益を考えたりしてはいけません。人の利益を考慮せず、自分の自尊心、評判、あるいは地位を考えないこと。また、人の利益を考慮してはいけません。まずは神の家の利益を考慮し、それを最優先にしなければなりません。神の旨を想い、自分が本分を尽くす中で不純だったかどうか、忠誠を尽くし、自分の責任を果たし、自分のすべてを捧げたかどうか、そして自分の本分と教会の働きを心から考えてきたかどうかを熟慮することから始めなさい。あなたはこれらのことを考えなければなりません(『終わりの日のキリスト講話集』の「自分の真心を神に捧げると真理を得ることができる」)。おかげで助かった。御言葉から理解したの。神は不実な人を憎み、誠実な人を愛される。誠実な人は神の家の利益と、兄弟姉妹のいのちの入りを守る。誠実な人が指導者なら、教会の働きは遅れない。神の家の利益を最優先し、2人の執事の問題にきちんと向き合い、交わってその行動を暴き、問題の深刻さに気づかせ、悔い改めてまた責任を持たせないと。交わっても変わらなければ、2人を解任して教会の働きを守る。

その後、御言葉を見つけてまずケビン兄弟と交わり、そうした社会の流れはサタンの誘惑だから、肉の喜びを捨てるべきだと教えた。そしてジャネル姉妹と交わり、本分で緊迫感がないことを指摘して、神の御旨に配慮するよう言った。すると交わりのあと、2人とも進んで本分への態度を変え、振る舞いを正したの。やがてケビン兄弟は多少変化して、再び誘惑されても意識的に肉を捨てられたし、ジャネル姉妹はより積極的に本分を尽くせるようになった。この結果を見て、もっと早く問題を指摘してればと自分を責めた。それに、真理を受け入れる人は暴かれ意見されても、否定的にならないとわかった。そこから自己認識して真に悔い改め、よりよく神と協力できる。この経験をして本当によかった。御言葉の裁きと暴きを経験して、自分の堕落が多少わかった。それに、全能神の御言葉は真理で、人を変えて救えることを経験したわ。全能神に感謝!

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