人を正しく扱う方法の学び

2021年1月30日

2年前、私は教会リーダーとしての本分を尽くしていました。教会には優れた素質を持つチェンという兄弟がいました。でも彼の性質は非常に傲慢で、人を抑圧する傾向があった。自分を誇示するのが大好きだった彼に、私は偏見や思いを持ち始めました。ある日、チェン兄弟が来て、新しい信者に水を与えたいと言いました。彼の信仰は日が浅く、真理をうわべで理解していたので、「ダメだ」と答えたの。私が同意しないのを見て、彼は「私には優れた素質があるのに、どうして水を与える本分に就けないのか」と言いました。私はこれを快く受け止められませんでした。「水を与える本分は簡単だと思っているの? 真理を理解しなくても、自分の才能や素質を使うだけでうまく本分が果たせるの? 自惚れないで」と思いました。私はチェン兄弟の求めを退けました。そして、他の兄弟姉妹に彼の堕落ぶりがわかるいろんな例を示して、どんなに彼が傲慢か話しました。何人かの兄弟姉妹は私に同意しました。

その2週間後、教会は今後の集会で教会映画を見て、全能神の言葉を読む計画を立てました。すべて、真理を説き、神に証しする映画です。それを観れば、真理を理解する助けになります。次の集会でチェン兄弟は言ったわ。「それは良い計画です。一部のリーダーや働き手は集会で既存の文面や教義をなぞらえただけの話をするだけなので、映画を見た方がいい。私は真理を理解していなかったので、最初は本分でとても苦労しました。けれども、神に祈って頼り、神の御言葉をもっと読み、これらの教会映画も大きな助けになって、いくつかの真理を理解しました。今では本分を果たす上でかなり熟練し、原則の基本を把握している。本分で多くを成し遂げています」。その彼の話は不快で、常軌を外れていると感じ、私は「事あるごとに自慢するのね。あなたは本当に傲慢だわ」と思いました。その後、次の集会で取り上げる課題を準備していると、チェン兄弟が割り込んでその内の3つを取り、残りの課題の説教も他の人に割り当てたの。私が集会を主催するグループリーダーを任命したときには、チェン兄弟は疑わしい声でその人に言ったわ。「本当にできるの?」まるで、自分だけが集会を主催できると言っているみたいだった。私は腹を立ち、こう思いました。「あなたは本当に理不尽な人ね。人から尊敬してもらえるよう誇示しているだけよ。そう願っているなら、とんでもない」というわけで私は全部やり直し、彼に集会を主催させなかった。そのころはずっと、チェン兄弟の振る舞いを思う度に彼を嫌悪し、特にその傲慢な振る舞いについて数回話したのに変わらなかったことを思い出しては、嫌な気持ちになったわ。彼には底知らずの傲慢さがあると感じました。それで、私は彼を「変われない人」と決めつけ、彼のように傲慢な人は彼の本分を果たすのにふさわしくない、交代させるしかないと思った。

集会が終わった時、私自身の状態や振る舞いを思うと、少し気まずくなりました。チェン兄弟に対して厳しすぎたと思ったので、神に祈りました。「神よ、私の状態は間違っているとわかっています。でも問題は何なのか、どの真理の原則に入ればいいのかわかりません。私を啓き、導いてください」。次の日、ディボーションでこの神の御言葉を読みました。「どのような原則に従って神の家の成員を扱うべきですか。(兄弟姉妹一人ひとりを公平に扱うべきです。)どのようにして公平に扱いますか。誰にも些細な欠陥や欠点があり、ある種の特異性もあります。人はみな独善性や弱点、欠けている部分があります。あなたは愛する心をもって相手を助け、忍耐強く寛容であり、些細なことの一つひとつについて厳しくあたりすぎたり、騒ぎ立てたりしてはいけません。若い人や神を信じてからさほど時間が経っていない人、あるいは最近になって本分を尽くし始め、特殊な要求事項がある人に対し、それらのことをしっかり掴んで彼らに突きつけるなら、それが厳しくあたるということです。あなたは偽指導者や反キリストによる悪事を無視しながらも、兄弟姉妹の些細や欠点や短所を見つけたとたんに彼らを助けるのを拒み、その代わりにそのような事について騒ぎ立てるほうを選び、背後で彼らを裁きます。そうすることで、さらに多くの人が彼らと対立し、彼らを排除、追放するように仕向けているのです。これはどのような振る舞いですか。自分の個人的な好みに基づいて物事を行ない、人を公平に扱えないことです。これは堕落したサタン的性質を示しています。過ちを犯しているのです。人が物事を行なうとき、神は見ています。あなたが何をしようと、どう考えようと、神は見ているのです(「真理を得るには、周囲の人や出来事や物事から学ばなければならない」『キリストの言葉の記録』)。御言葉には私の状態が示されてた。恥ずかしく思いました。私は自分の堕落した性質を通してチェン兄弟を扱っていた。彼に会ってからのことを考えると、彼の言動にはよく傲慢さが表れていたために、彼のことを若く生意気で、自らを知らない人物だと感じていた。少しでも彼の話になると、欠点しか思い出さなかったわ。彼の堕落した振る舞いに固執し、「彼の傲慢さはあらゆる理知を超えている、そのような人は決して変われない」と決めつけていました。決して彼を公平に扱えませんでした。彼が発するどんな見解にも抵抗し、反対しました。人前で彼を非難し、見下し、彼に対する偏見を広め、私と一緒に彼を排除して仲間外れにするよう仕向けた。彼を本分から退けることさえ望んだわ。私は彼を抑え込み、打ちのめすためにリーダーとしての立場を利用していたのでは? 私に理知はありませんでした。真理の原則はなく、神への畏敬の念がなかったのです。兄弟姉妹を自分の好きなように扱い、悪魔の本性を生きていました。神はとても不快に思われ、うんざりされるわ。そう考え、罪悪感でいっぱいでした。

その後、人を公平に扱うことに関する原則を求めて神の御言葉を調べ、二つの節を見つけました。「他人をどのように扱うべきかは、神の言葉の中にはっきり示されているか、あるいはその中でほのめかされています。神が人類を扱う態度は、人が互いの扱いの際にとるべき態度です。神は一人ひとりをどう扱いますか。霊的背丈が未熟な人、若い人、あるいは神を信じるようになってまだ日が浅い人もいます。そうした人たちの本性と本質について、神はそれらを悪いものとも悪意に満ちたものとも見なしません。それは単に、彼らがいくぶん無知だったり素質を欠いたりしているか、社会によって過度に汚染されているかなのです。彼らはまだ真理の現実に入っていないので、馬鹿げたことをしたり、無知な行動をとったりしないようにするのが容易ではありません。しかし神の視点からは、こうしたことは重要ではありません。神は人の心だけを見ます。人が真理の現実に入ることを決意しているなら、正しい方向に進んでおり、それがその人の目標です。すると神はその人を見守り、待ち、入れるようになる時間と機会を与えます。神がその人を一撃で打ち倒すことはなく、またその人が以前に犯した罪をがっちり捕らえ、手放そうとしないということもありません。神が人をそのように扱ったことはないのです。であれば、人がこのように互いを扱うならば、それはその人の堕落した性質を示していませんか。それがまさにその人の堕落した性質なのです。神が無知で愚かな人をどう扱うか、霊的背丈が未熟な人をどう扱うか、人間の堕落した性質が普通に表われているのをどう扱うか、悪意に満ちた人をどう扱うかをあなたはしっかり見なければなりません。神には異なる人々を扱う様々な方法があり、また異なる人の無数の状態を扱う様々な方法もあります。あなたはこのようなことの真理を理解しなければなりません。いったんこの真理を理解すれば、それをどのように経験すべきかがわかります(「真理を得るには、周囲の人や出来事や物事から学ばなければならない」『キリストの言葉の記録』)。「愛や憎しみは正常な人間が持つべきものですが、愛するものと憎むものの区別は明確にしなければなりません。あなたは心の中で神を愛し、真理を愛し、肯定的なものを愛し、兄弟姉妹を愛すべきであり、一方で悪魔サタンを憎み、否定的なことを憎み、反キリストを憎み、邪悪な人々を憎まなければなりません。兄弟姉妹に対して憎しみを抱けば、彼らを抑圧し恨みを晴らそうとしたくなるでしょうが、それはとても恐ろしいことです。……もし誰かと性格が合わず、その人をあまり好きでなかったとしても、その人と一緒に働くときは公平な態度を取るでしょうし、本分を果たす中で自分の鬱憤を晴らしたり、本分をおろそかにしたり、不満をぶつけて神の家の利益を害したりはしないでしょう。あなたは原則に従って物事を行うことができますし、そのため基本的な神への畏敬を持っていることになります。もう少し上級者なら、誰かに落度や欠点がいくつかあって、場合によってはその人に気分を害されたり自分の利益を損なわれたりしても、なおその人を助けるだけの能力があります。そして実際にそうすればさらに良いことであり、それは人間性、真理の実在、そして神への畏敬を持っているということを意味します(「神を信じる正しい道へ入る前に人が置かれる五つの状態」『キリストの言葉の記録』)

人を平等に扱う原則と道、人に対する神の態度がはっきり示されています。反キリストや邪悪な人に対して神は、憎しみと呪いと懲罰の態度を示されます。霊的背丈が低い人、素質が乏しい人、堕落した性質や欠点をいろいろと持つ人に対しては、心から神を信じ、真理を求めたいと願い、そして受け入れられるなら、神は愛と憐れみと救いの態度を示される。一人ひとりの扱いについて神には原則があり、真理の原則に沿って他の人を扱うよう、神は求めておられます。たとえば、心から神を信じる人に対しては、寛容で慈悲深くあり、愛をもって助け、悔い改めて変わる機会を与えなければ。堕落を示したからといって、相手を打ちのめすことはできません。それは神の御旨ではないわ。たとえば、チェン兄弟には優れた素質と、本分に対する責任感がありました。また彼は真理の追求に努力を惜しまなかった。一方、信者になって間もなく、経験も浅いので、傲慢さがありました。でも、私は真理の原則にしたがって彼を公平に扱い、愛情深く真理を交わって助けるべきだった。それなのに、彼の強みや長所を見ようとせず助けなかったどころか、欠点を見て非難し、排除し、消えてしまえと思いました。私の本性はそれほど悪意に満ちていた。自分のリーダーとしてのあり方を思うと、他の人より優れているといつも考え、最終決定を下したい、何でも望むことをしたいと願い、周りの意見を聞かなかった。そのため、教会の活動を乱すことをしました。それなのに、神は私を淘汰なさいませんでした。御言葉を使って私を裁き、懲らしめ、取り扱い、自らを反省させ、悔い改めて変わる機会をくださいました。神は決してあきらめず、堕落を示したからといって淘汰されず、私たちを救うために何でもされる。神はそれほど素晴らしい心をお持ちです! 自分の振る舞いや、チェン兄弟の扱い方を考えると、穴があったら入りたいぐらい恥ずかしいです。それから祈り、神に悔い改めました。真理の原則を実践し、愛情深い心でチェン兄弟を助けたかった。

そして、私はチェン兄弟の元に行き、神の御言葉を交わり、彼の欠点を指摘しました。彼は自分の傲慢な性質を理解し始め。私の説教と警告はとても助けになった、自分を見つめなおしたい、堕落した性質を解決すため真理を求めたいと言っていたわ。彼の言葉を聞いてとても感動しましたが、後悔もしました。私は彼には変わる力がないと思ってたけど、そうではなかった。私は彼より傲慢でした。真理を追究している限り、自分の傲慢な性質は変わると思っていました。なのに、なぜチェン兄弟は変わらないと決めつけたのでしょうか? 自分自身には多くを求めず、なぜチェン兄弟には多くを期待したのでしょう? そのように人を扱うのは不公平でした。

その後、集会で聖霊に用いられた兄弟の説教を聞きました。「堕落した人類は皆、傲慢な性質を持っている。真理を愛する人、完全にされることを求める人さえも皆、傲慢で独善的な性質を持つ。しかしこれは救いを得て、完全にされる能力には影響しない。真理を受け入れ、刈り込みと取り扱いを受け入れられ、たとえどんな状況でも無条件に真理に服従できる限り、救いを獲得し、完全にされる全き能力がある。事実、本当に優れた素質を持ち、固く決意している人に傲慢でない人はいない。それが事実である。神の選民は正しい方法で人を扱わなくてはならない。ひどく傲慢で独善的だからと、その人は善人ではないとか、救われ完全にされない人だとか、限定してはならない。この点については、神の御旨を理解する必要がある。優れた素質を持ち、固く決意している人で、全く傲慢でも独善的でもない人はいない。いるとしたら、それは間違いなく見せかけか、偽りの外見を見せている。堕落した人類は皆、傲慢で自惚れた本性があると知るべきだ。これは紛れもない事実なのである」(兄弟の交わりより引用)。この説教は傲慢な性質を持つ人をどう扱うか、より良く理解するのを助けてくれました。彼らが変われないのではありません。鍵は彼らが真理を求め受け入れられるかどうかを見ることです。もし真理を受け入れ、神の裁きや刑罰、刈り込み、取り扱いを受け入れられるなら、神によって変わり、完全にされないわけはないわ。……実際、才能や強さ、素質がある人は皆、かなり傲慢です。でも素質が優れているので、真理をすぐ理解し、本分で成果を上げる。このような人が真理を理解し、原則にそって行動すると、神の家の働きにとても有益です。チェン兄弟は優れた素質を持っていたのだから、私はもっと愛をもって彼を助け、もっと交わって支えるべきです。それが唯一、神の御旨に配慮した行いです。

この経験でよく分かりました。真理もなくサタンの堕落した性質によって人を扱うと、ただ兄弟姉妹を傷つけ、彼らのいのちの入りと教会の働きを遅らせるだけだと。これは過ちであり、悪の行為です。私は、真理の原則にしたがって人を扱うことの大切さを知りました。神の御言葉の導きのおかげで、この小さな理解を得られました。

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