仮面を脱ぐのはいい気分

2021年1月30日

全能神は言われます。「人間はサタンの支配下において全生涯を過ごし、自分でサタンの影響から逃れられる者は一人もいない。人間はみなけがれた世界で、堕落と空虚の中、少しの意味も価値もないままに生きている。彼らは、肉や欲望のため、そしてサタンのために、そうした気楽な生活を送る。彼らの存在には何の価値もない。……清められなければ、人はけがれた者である。人が神によって守られておらず、神に顧みられていないのであれば、その人は依然としてサタンの虜である。その人がもし裁きや刑罰を受けていないのであれば、その人にはサタンによる闇の影響の弾圧から逃れる術はないであろう。あなたが依然としてサタンの領域下で生活していることを証明するには、あなたが露わにする堕落した性質と、あなたが生きる不従順な振る舞いだけで十分である。あなたの心や思いが清められておらず、あなたの性質が裁きと刑罰を受けていないのであれば、あなたの全存在がいまだにサタンの領域に支配されており、あなたの心はサタンに支配され、思いはサタンに操られ、あなたの存在全てがサタンの手により支配されているのだ。……あなたが肉の平安と享楽を追求するのであれば、あなたには清められる術が全くなく、あなたは最後にはサタンのところへ戻されるであろう。なぜなら、あなたが実際に生きているのは、サタンと肉だからである。物事の現状として、多くの人々がいのちを追求していないが、それは、彼らが清められることにも、一層深いいのちの経験の中に入ることにも注意していないことを意味する。そんなことでは、どうして彼らが完全にされることがあろうか。いのちを追求しない者には、完全にされる機会が全くなく、神に関する認識や自分の性質の変化を追求しない者は、サタンの闇の影響から逃れられない(『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」〔『言葉』第1巻〕)。神の御言葉が示すのは、サタンの性質の中で生き、御言葉の裁きを経験しない人は、サタンの堕落から逃げ出せず、苦しみの中で生きるということ。

2018年9月のこと、私は教会指導者に選ばれて、当時はとてもうれしかった。きっと他の兄弟姉妹よりも優秀だから指導者に選ばれた、真理を求めて本分を尽くさなきゃと思った。みんなに、名前だけの指導者だと思われたくなかった。ある日、ある班の集会で働きのことを話し合っている時、兄弟姉妹の何人かが専門知識について話したの。少し慌てたわ。私が知らない事だったから。質問されて答えられなかったら、見下されるんじゃないかしら。理解しないまま、指導なんてできるのかしら。何も言わずにいてもいいけど、それじゃ指導者として無能だわ。どうすればいいの? 不安な気持ちでいっぱいで、そわそわと落ち着かなかった。みんなが話してることが理解できなくて、話が終わりそうな時、すかさず言ったの。「他に質問がないなら、ここで終わりにしましょう」って。集会場を出るまで心が休まらなかった。「この班は専門知識をたくさん必要とするのね。私にはわからないから、集会に来るのは控えよう。仕事を理解してないなんて知られたら、見下されて、誰も私の話を聞かなくなる」と思った。

それから数週間は、他の班の集会に毎日顔を出して、兄弟姉妹の問題や悩みを解決する手助けをしたわ。教会生活も前に比べてよくなった。みんなが私を認めてくれて、彼らの集会には進んで足を運んだけど、専門知識が必要なあの班のことを考えると、心がざわついてしまう。話について行けないのが怖くて、理由をつけて集会に参加しなかった。ある晩、あの班が問題を抱えてるから集会に行ってほしいと同労者の姉妹に頼まれて、しぶしぶ了解したけど、心は落ち着かなかった。「問題を解決できなかったらどうしよう。無能な指導者だと言われないかしら」と思った。とても悩んだわ。次の日、御言葉の交わりのあと、専門知識のことを訊かれても、答えられなきゃ白い目で見られると思って、そのまま話し続けた。時間を稼ぐためにね。でも心が落ち着かなくて、みんなに聞いたの。「他に解決すべき問題はありますか」って。班長が問題と解決策について話し始めたけど、専門用語が出てきて話が分からなくなった。問題が解決したかどうかもわからずじまい。解決策が見つからなければ、働きが進まない。でも詳細を聞けば、意見を求められてしまう。だけど何も知らないから、きっと恥をさらす。しばらく考えて、何も言わないことにした。その後、ある姉妹が自分の悩みを話し始めたけど、専門的な問題だったので、余計混乱してしまったの。どういう意味、なんてとても聞けなかった。もし問題を解決できなかったら、指導者としての能力を疑われてしまうと思って。少しだけ話をして、「あとは調べておきますね」と言ってごまかしたの。集会の後、どっと疲れが押し寄せて、心が空っぽだった。この集会で何も解決できなかったわ。本分を怠けてるのと同じじゃない? この班の兄弟姉妹があまり成果を挙げてないこともわかってた。働きが進んでいないのは、自分のせいだと思った。業務について何も知らないくせにと見下されるのが怖くて、集会のたびに適当にごまかすばかりで、働きの状況を把握せず、実際の問題も解決しなかった。実際の働きを全くしてなかったの。神を騙し、兄弟姉妹を愚弄してる気がして、不安になって自分を責めた。それで、反省して自己認識できるよう神に祈ったの。

ある日、デボーションで次の御言葉を読んだわ。「堕落した人間は誰もがある問題を示します。その人が地位のない普通の兄弟姉妹のあいだは、誰かと関わりをもったり話したりするときに気取ったり、特定の流儀や口調を用いたりしません。単に普通で正常であり、自分を飾り立てようとはしません。心理的圧力を一切感じず、率直に心から交わることができます。親しみやすく、話しやすく、とても良い人だと思われます。けれども、その人が地位を得たとたんに、傲慢になり、自分に釣り合う者は誰もいないと感じます。自分は尊敬に値し、普通の人とはまるで異なる存在だと感じ、他者と率直に交わるのを止めます。なぜ率直な交わりを止めるのですか。この人は、自分には今や地位があり、自分は指導者であると思っています。指導者には特定のイメージがあり、普通の人よりもやや威厳があり、霊的背丈も高く、さらに責任を負うことができるべきであると考えています。普通の人より忍耐力があり、もっと苦しみや代価を払うことができ、どんな誘惑にも耐えることができると信じています。家族の何人が亡くなろうとも泣くことができず、どうしても泣きたいときは、ベッドに隠れて泣き、自分の欠点や欠陥、弱みが誰にも見えないようにしなければならないとさえ考えています。指導者が否定的になっても誰にも知られてはならず、代わりに、そのようなことはすべて隠さなければならないとさえ感じています。地位のある人はこのように振舞うべきだと信じているのです(「堕落した性質を解決するには具体的な実践への道をもたなければならない」『キリストの言葉の記録』)。神の御言葉は私の真の状態を明らかにしたわ。指導者になる前は、わからないことがあれば誰かに聞いたし、問題や悩みがあれば、包み隠さずみんなと交わりをもった。でも指導者になってからは、自分はみんなより優れてるはず、兄弟姉妹に選ばれたのだから指導者らしくしなきゃ、能力が高いところを見せて、どんな問題も理解して解決できなきゃと思った。だから班の集会では別人のようにふるまったけど、理解できずに見下されるのが怖くて、自分を偽り、自分を隠し、本分に向き合うことから逃げた。自分の能力を示せる、簡単な業務を担当する班の集会にばかり行って、難しい業務や、自分には理解できない分野を担当する班の集会は避けた。失敗して恥をかきたくなくて。たとえ行ったとしても意味のないことを言ってごまかすだけで、実際の問題に取り組もうとしなかった。虚栄心と指導者の地位にこだわりすぎていたの。神の家では、指導者は一つひとつの働きを深く掘り下げ、真理を伝え、兄弟姉妹の問題を解決しなきゃならない。兄弟姉妹が真理の原則にそって本分を尽くせるように。それはつまり、実際の働きを行い、神の御旨に配慮すること。その班の兄弟姉妹が困難に直面していると知りながら、問題に向き合わず、解決のために真理を求めることもせず、虚栄心にとらわれ、本分を適当にこなし、ただ名声のために生きた。神の家の働きなんて頭になかった。結果として、この班の問題は解決されず、働きに遅れが出たわ。私は、実際の働きをせずに指導者の地位を享受する偽指導者だったの。地位を求めるのは疲れることで、心が不安になる。神の家の働きにも支障が出るし、いい事なんて一つもない。悔い改めなければ、悪を行い神に反抗し、いずれは神に捨てられる。急いで神に祈り、実践の道を求めたの。

その時、次の御言葉を読んだわ。「自分に地位がない場合は、たびたび自己分析して己を知ることができます。これは他の人にとっても益となります。地位があっても、たびたび自己分析して己を知ることができ、自分の経験から他の人が真理の現実性を理解し、神の旨を把握できるようになります。それも人のためになります。そうではありませんか。このように実践するならば、あなたに地位があろうとなかろうと、変わらず他の人に益をもたらすことになります。では、あなたにとって地位にはどんな意味がありますか。それは実は衣服や帽子のような、余分で追加的なものです。地位を重視しすぎない限り、それに制約されることはありません。地位を愛し、特別な重きを置いて、常に重視するなら、その管理下に置かれてしまいます。そうなれば、あなたは己を知りたくなくなり、打ち解けて自分をさらけ出したり、指導者の役割を脇に置いて、他の人と語り関わり合ったり、自分の本分を尽くしたりしたくなくなります。これはどのような問題ですか。あなたは自らこの地位を引き受けたのではないのですか。そして、その地位を占め続け、あきらめるつもりはなく、地位を守るために他の人と争いさえするのではないのですか。それではただ自分を苦しめているのではありませんか。自分を死ぬまで苦めることになったら、誰のせいにするのですか。地位があっても、人に偉そうな顔をすることを控え、代わりにいかに本分をうまく尽くすかに焦点を当て、行うべきことをすべて行ない、なすべきすべての本分を尽くし、自分のことを普通の兄弟姉妹であると考えることができるなら、地位というくびきを捨て去ったのではないのですか(「堕落した性質を解決するには具体的な実践への道をもたなければならない」『キリストの言葉の記録』)。御言葉を読んで分かった。私を指導者に高めた神は、地位でなく任務と責任を授けられた。問題がどれほど難しくても、全力で解決しなければいけなかった。兄弟姉妹と接する時も指導者の地位に頼らず、堕落した性質を示したり、悩みや欠点があったりすれば、包み隠さず伝え、誠実な態度で、自分の堕落と欠点を見せ、自分を偽ったり隠したりせず、本当の自分を示すべきなの。あるがままに、自分の理解を基に交わりをもたなきゃだめ。理解できないときは兄弟姉妹と真理を求めて交わり、一緒に最善を尽くすべき。その後、その班の集会に行って、専門的な問題に直面した時は、意識して見栄を捨てて、わからないことは積極的に質問して、説明してもらった。見下されることなんてなかったし、働きについての問題や悩みも打ち明けてくれたわ。みんなの話をよく聞いて、理解しようと努めると、彼らの問題が多少はわかるようになったので、真理の原則を使って交わりをもった。それに自分の時間を使って、その専門分野の勉強もした。わからないことは、兄弟姉妹に聞くようにした。そうやって互いに足りないところを補い合うと、働きの問題をいくつも解決できるようになって、本分で成果を挙げられるようになったの。心が軽く、穏やかになったわ。

数ヵ月後、教会が私の担当範囲を広げたの。もう知らないことばかり。でも問題に直面した時は、神に祈り、神の御言葉を実践して、実際の問題を解決したわ。兄弟姉妹も私を認め、尊敬するようになった。気づかないうちにまた地位にしがみつくようになったの。ある日、同労者の会議で、ある教会の集会で成果があがっていないという話になり、他の兄弟姉妹が、私が行って問題を解決したら、と提案した。私は思ったわ。「私には真理の現実があって、問題を解決できるみたいね。同労者の間でも抜きんでてるんだわ。ここで頑張って、実力を示さなきゃ」この間違った志のせいで、私は神の取り扱いを受けることになった。ある日、班長の李姉妹が問題を抱えて消極的になっていたので、急いで御言葉から2つの節をみつけ、自分の経験を基に交わりをもったけど、30分以上話をしても効果がなかった。この交わりが退屈で、何も解決してないことは自分でも分かった。そのあと、安姉妹が御言葉の一節を持ち出すと、李姉妹はうなずいて微笑みはじめたの。少し恥ずかしくなったわ。安姉妹が引用した御言葉のほうがふさわしかった。李姉妹にどう思われているだろう? 安姉妹のように適切な御言葉を探せず、問題も解決できなくて、だめな指導者と思われたかも。イライラしてしまって、もう交わりをもちたくなかった。数日後、張兄弟の状態が悪かったので、関連する御言葉を準備して、こう思ったの。「安姉妹の前で面目を保つために、この交わりは絶対にうまくやらないと。じゃなきゃこの務めは果たせない」と。張兄弟に会った時、明るく、積極的な態度で、自分が知っていることをすべて伝えようとした。でも張兄弟は苛立った様子でこう言ったわ。「言ってることはわかりますが、状況は改善してません。もう少し考えさせてください」と。その言葉がとてもショックで、言葉もなくただ座ってた。穴があったら入りたい気分。困り果てて、こう思ったわ。「一体どうしちゃったの? 他の兄弟姉妹と話した時はこんなことなかったのに。なんで失敗してばかりなの? みんなに見下され、この人は口先だけで、実際の問題は解決できないって言われてしまう」集会がどう終わったかも覚えていない。

その後、安姉妹と顔を合わせるたびにとても意識してしまって、私に対する眼差しや口調が少し厳しい時には、こう思った。「私に不満なの? 私のことを認めてないの?」って。これ以上欠点をさらさないように、距離を置くべきだと思った。他の兄弟姉妹の前でも、自分がどう見えるかに細心の注意を払って、わざと周りから距離を置き、話しかけたり手伝ったりもしなかった。責任を放棄したの。だんだん、心が黒い雲に覆われはじめて、兄弟姉妹の問題を理解することも、解決することもできず、集会に行きたくないと思うこともあった。毎日がただ過ぎていき、神に見捨てられたような気がした。その時やっと、神に祈ったの。「神よ、私はいつも評判を気にして、自分を偽っていました。本分への責任も放棄した。あなたが顔をそむけたのは、あなたの義です。でも私はあなたに向き合い、自分を振り返ります」。その後、次の御言葉を読んだ。「人それ自身は被造物です。被造物が全能性を獲得することはできますか。完全無欠を成し遂げることができますか。万事に優れ、あらゆることを理解し、すべてを達成することができますか。できません。しかし、人間の内面には弱さがあります。人は技能や職務を学ぶとすぐ、自分は有能で、地位と価値がある人間であり、何らかの専門家だと感じます。自分がどれだけ『有能』だと思おうと、彼らはみな自分を装い、立派な人物のふりをし、何の欠点もなく完全無欠であるかのように見せたがります。他人の目から見て、偉大で、力強く、実に有能で、何でもできるように思われたいのです。そのような人は、何かに関して他の人の助けを求めたら、自分は能力がなく、弱く、劣ったように見え、他人から見下されると感じています。そのため、常に体裁をつくろいたがります。……そのような人はとても傲慢で、理知をすっかり失っています(「神を信じる正しい道へ入る前に人が置かれる五つの状態」『キリストの言葉の記録』)。「パウロを特に偶像化する人がいます。出かけて行って演説をし、働きを行うのが好きで、集会に参加して説教することを好みます。人が自分の話を聞いてくれ、自分を崇拝してくれ、自分を取り囲んでくれるのが好きです。人の心の中に地位を持つのが好きで、自分が示すイメージを他の人に高く評価されると喜びます。このような振る舞いから、この人の本性を分析してみましょう。こうした人の本性はどのようなものですか。本当にこのように振る舞うなら、傲慢で思い上がっていることはそれで十分にわかります。神をまったく崇拝していないのです。高い地位を求め、人に対し権威を持ちたい、人を占有したい、人の心の中の地位が欲しいと願います。これは典型的なサタンの姿です。彼らの本性の際立った側面は、傲慢さと思い上がり、神を崇拝する気のなさ、そして人から崇拝されたいという願望です。このような振る舞いにより、その本性をはっきりと見極めることができます(「どのようにして人間の本性を知ればよいか」『キリストの言葉の記録』)。御言葉を読んでわかった。私は神の被造物のひとつに過ぎないと。すべてを理解してマスターするなんて無理。真理にしても専門知識にしても、私が理解し把握できることはとても限られていて、見落としや間違いなんて普通のことなのに、自分をよくわかっていなくて、欠点を認めたくなかった。いつも完璧で、人の上に立ち、無敵でありたかった。別人を装って、人にどう思われるかを異常に気にしたの。例の教会の問題を解決する役に推薦された時も、自分には真理の現実があって、人より優れてると感じた。自分の才能を見せつけて、実力を証明したかった。安姉妹とペアになった時、自分は指導者で、問題を解決しにきたのだから、すべてにおいて上でなきゃと思った。安姉妹が兄弟姉妹の問題を解決してるのに、私は何度もへまをして、面目が丸つぶれになった気がして、逃げ出したくなった。だからわざとみんなから距離置いて、本分を怠けるようになった。教会生活の問題を解決できないまま、兄弟姉妹のいのちの入りを遅らせたの。そして気づいた。私がいつも自分を偽っていたのは、「生きては傑出した人物となり、死しては優れた鬼とならん」「樹皮があることで木が生きられるように、人は体面を保つことによって生きている」「ガンは飛び過ぎる時声を残し、人は死ぬと名を残す」というサタンの毒の堕落のせいだと。どの班にいても、常に自分を偽り、欠点を隠そうとした。人にいいところばかり見せて、いい印象だけを残すことで、価値と尊厳のある人生を歩めると思った。でもその感情が消えると、辛さと失望感が残ったの。自分を隠し、人を疑い、いつも疲れてた。神が私を引き上げ、指導者の本分を尽くさせたのは、神の証しをして、実際の問題を解決するために真理を交わり、兄弟姉妹を神のもとへ導くため。でも、神の家の働きを守るために最善を尽くすどころか、自分の実力を見せつけ、人に尊敬されるチャンスだと思ったの。望み通りにいかないと、自分の役目を放棄した。名声と地位のことしか頭になくて、真理を求めず、責任も果たしてなかった。その結果、神に憎まれて、私の魂は暗黒をさまよった。実際の問題を解決できないだけでなく、以前はできていたことまでできなくなった。神の義と聖さを目撃したわ。パウロはごう慢で負けず嫌いの本性をもち、やみくもに地位を追い、人に尊敬されることを望んだ。人を自分の前に集め、神に逆らう道を歩んだ。私は真理を求めず、やみくもに地位を追った。人の評判ばかり気にして、上に立ち、だまそうとした。パウロのように、私も神に逆らう道を歩んでいたの! それに気づいて、急いで神に祈り、悔い改めた。自分を偽ることも、地位を守ることもやめて、真理を実践し、誠実な人間になりたかった。

次に兄弟姉妹と会った時、自分がどんな状態だったか話し、自分の堕落をさらけ出したかったけど、どうしても言葉がでてこなかった。私は教会の指導者で、彼らの働きを監督する役なのに、醜態もすべてさらしたら、真理を求めておらず、指導者にふさわしくないと思われてしまう。頭の中で2つの考えが戦ってた。その時、また自分を偽り、評判を守ろうとしてることに気づいたの。私が何度も地位を重視したことで、神の家の働きに支障がでて、私は道を踏み外した。心が恐怖でいっぱいになったとき、神の御言葉が頭に浮かんだ。「自分の評判、自尊心、地位のために、何かを覆い隠したり、変更を加えたり、策略を用いたりする必要はありません。自分が犯した間違いについても同じことが言えます。そのような無意味な行為は不要です。そういうことをしなければ、楽に、疲れることなく、すっかり光の中で生きられます。そのような人だけが神の称賛を受けられるのです(「真理を実践する者だけが神を畏れる」『キリストの言葉の記録』)。御言葉が心を照らして、背中を押してくれたの。この環境は、真理を実践するいい機会だと思った。本当の自分を隠して、地位を守ることはもうできない。だから自分の堕落と学んだ教訓を、兄弟姉妹にすべて打ち明けた。この交わりはみんなのためになって、互いの距離を縮められた。働きのことについても話し合って、みんなの長所を合わせることで、本分における間違いを正すことができたの。それからしばらくして、教会の問題は解決したわ。兄弟姉妹の状態もよくなって、みんな積極的に本分を尽くし始めた。それからも本分において、まだ地位にとらわれていると感じることも時々あったけど、意識的に神に祈り、真理を実践し、誠実さを保ち、堕落を隠さないようにした。そしてだんだんと、地位にとらわれることがなくなったの。それ以来、ありのままの自分をみせることで、兄弟姉妹といい関係を築けてるわ。偽りを捨てれば、地に足をつけて真理を求め、本分を尽くせる。これは御言葉の裁きと刑罰のおかげです。神に感謝!

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