真理を嫌う自分への気づき

2022年12月9日

今年の初めのことだ。教会に来たばかりの新参者が、すでに2回も集会を休んでた。グループリーダーに理由を聞いても、返事がもらえなかった。その後、その新参者がまた集まりに来るようになったので、もう理由は聞かなかった。こう思った。「普通に集会に来てるなら、それでいい。今は本分が忙しいし、細かくフォローするには時間と手間がかかる。時間がある時に、また聞こう」。でもその後、忘れてしまってた。ある集会で、その新参者が途中で帰ったことに気づいた。グループリーダーに理由を聞いてもやはり返事がなく、真相は分からなかった。それでも僕は、新参者に、様子や困り事を直接尋ねなかった。しばらくして、ふと、彼女が集会を立て続けに休んでることに気づいたんだ。そこで心配になって、すぐに連絡したけど、返事はなかった。このままでは退会してしまうと思い、グループリーダーに、彼女と連絡が取れるか尋ねてみた。グループリーダーの話では、「友達申請を承認してもらえず、連絡が取れない」とのことだった。少し後悔したよ。もっと早く調べてれば、改善策があったかもしれないが、もう遅すぎた。フォローしなかった僕の落ち度だ。それからすぐ、新参者の状況が分かるかもしれないと思い、チャット履歴を見てみた。履歴を見て分かった。僕は彼女に一言あいさつしたきり、何も話しかけてなかったんだ。彼女のことを何も知らなかった。彼女が戻ってくる望みは薄いと悟ったよ。僕がお茶を濁したのが原因だ。だけど当時は、この件について真剣に自省しなかった。ちょっと考えて、自分が少し不注意だったと認めただけだった。

やがて監督者が来て、その新参者が退会した理由を僕に聞いてきた。とても緊張したよ。「バレてしまう」と思った。本分でお茶を濁してる、信頼できないと言われるに違いない。任務を外されたらどうすればいい? 案の定、チャット履歴を見た監督者は僕の問題を指摘した。「君はうわべだけで、新参者の状態を気にせず、知ろうともしてない」と。とっさに僕は、こう弁解した。「あいさつへの返答がなかったので、会話を続けられなかった」でも、こう取り扱われた。「話せなかったのではない。彼女を全く気に掛けてなかったからだ」。お茶を濁したことを認めると責任を取らされるのではと心配になり、すぐこう説明した。「グループリーダーが主にその新参者を担当してた。リーダーが彼女と連絡を取ってると思ったので、状況を尋ねるのが遅れてしまった。リーダーに聞いても、返事が遅かった」。そして、グループリーダーに送ったメッセージを監督者に見せ、新参者を気に掛けてたことを証明した。新参者に後日送ったメッセージも見せた。彼女が集会に来ないことに気づいたのは僕で、然るべき時に連絡を取ろうとしたが、返事がなかったことの裏付けだ。彼女に電話できないのは、福音伝道師が彼女の番号を教えなかったからという理由まで見つけた。その時は、責任を取らない方法ばかり考えてた。客観的な理由を並べ、この問題には理由があって僕の落ち度ではないと、監督者が思ってくれることを願った。少なくとも、僕だけでなく他の人にも責任があると。監督者は、僕が自分の問題を認めず責任逃れをしたのを見て、こう取り扱った。「この新参者は何度も集会に参加してる。真理を求めてるのは明らかだ。なのに、君は彼女の状況や困り事を聞かず、今度は電話番号を知らなかったと責任逃れをする。少し理不尽だろう!」監督者には僕の問題がはっきり見えてた。責任を取らないわけにはいかないと悟り、こう心配した。「監督者は僕をどう思うだろう。実務を何もこなしてないと言うだろうか。僕を任務から外すのでは?」とても不安で落ち着かなかった。その後、頭の中で経緯を全て整理していて気づいたんだ。僕はこの件で正直ではなく、刈り込みや取り扱いも受け入れなかった。本分を尽くさずにお茶を濁したのは明らかなのに、自分を正当化しようと小細工や言い訳をしてた。電話番号を教えなかった伝道師を責めようとすらした。本分をぞんざいにした事実を認めず、自省もしなかった。自分の振る舞いを振り返ると、とてもつらくなったよ。神の御言葉を毎日読んでるのに、実際に何かが起こり、取り扱われた時に、まだ堕落した性質を生き、真理を受け入れられなかった。僕の堕落は深すぎる。自分が変わるのは難しいと決めつけ、少し後ろ向きになった。

その後、神の御言葉の1節を読んだ。「真理の追求は自発的なことであり、真理を愛していれば聖霊が働きを行ないます。心の中で真理を愛し、どのような迫害や患難に見舞われようとも、神に祈り、神に頼り、自己を省み、自己認識に努め、問題を見つけたときは積極的に真理を求めて解決策を探るなら、揺るぎなく立って証しをすることができます。このような表出はどれも、人が真理を愛するゆえ自然に生まれるものであり、すべて自発的に、喜びとともに、強制なしに起こるのであり、完全に無条件です。神にこのように従えるなら、あなたが最後に得るのは真理であり、入るのは真理の現実です。……あなたの理由が何であれ、あるいはその理由が妥当なものであろうとあるまいと、白日の下にさらしてみて有効であろうとあるまいと、そんなことは関係ありません。要するに、どのような理由を思いつこうとも、どのような言い訳を見つけようとも、神への信仰において本分を尽くしていようといまいと、神に従っていようといまいと、あなたの結末はやはり最終的には真理を得たかどうかにしたがって決定されるのです。真理を得ていないなら、どのような理由や言い訳を思いついたところで、どれも通用しません。神はあなたの理由など気にかけません。好きなように理由を並べ立て、好きなように苦境に陥ってみなさい。神が気にかけますか。神はあなたと話をするでしょうか。神はあなたと議論し、話し合おうとするでしょうか。あなたに相談するでしょうか。答えは何ですか。否、です。神は絶対にそのようなことはしません。あなたの理由は、どんなに申し分なくても無効です。真理を追い求めないことについて、ありとあらゆる理由や言い訳を述べることができると思って、神の旨を誤解してはいけません。あらゆる環境、またあなたに起こるあらゆる物事において、神はあなたに真理を求めさせ、最終的にはあなたに真理の現実へ入らせ、真理を獲得させます。神があなたのために整えた特定の状況、あなたが遭遇する人や出来事、またあなたが置かれた環境は、まさに真理の追求においてあなたが学ぶべき課業なのです。神に祈り、真理を求めて答えを見つけなければなりません。いつも言い訳し、逃れ、断わり、逆らおうとするなら、神はあなたを見捨てます。強情になったり、気難しくなったり、言い分を持ち出したりしても無駄です。神はあなたと関わりを持とうとしません(『終わりの日のキリスト講話集』)。御言葉から分かった。堕落を解決し、真理の現実に入るのは難しくない。大切なのは、どう選択し、真理を求めて実践するかということだ。刈り込みや取り扱い、失敗や挫折など、どんな状況でも、自らを省み、積極的に真理を求めなければ。少しでも理解したら、実践し、真理の原則に沿って行動する。そうすれば、成長と変化が見られる。刈り込まれ、取り扱われても、いつもはぐらかし、拒み、言い訳をしてたら、真理を得られないどころか、神から拒絶される。改めて振り返ると、刈り込まれ、取り扱われた時、僕は受け入れることも、従うことも、正直に認めることも、問題を自省することも、堕落した性質を解決するために積極的に真理を求めることもなかった。後ろ向きになってあらがい、変わるのは難しいと決めつけた。理不尽な振る舞いで、神が用意した環境を拒んでた。真理を受け入れる態度ではない。それに気づいて、後ろ向きに生きるのも、自分を限定するのも嫌だと思った。真理を求めて問題を解決したかった。

振り返って思った。普段は好意的に話すくせに、なぜ取り扱われると受け入れず、後ろ向きになってあらがうのか。これはどんな性質なのだろう。それを追求するなかで、御言葉を2節読んだ。「自分は悪魔であり、サタンであり、赤い大きな龍の子孫であると認めることができ、自己を認識していることについて極めて上手に語れる人がいますが、このような人がその堕落した性質を表わし、また誰かに暴かれ、取り扱われ、刈り込まれると、全力で自己を正当化しようと試み、真理を少しも受け入れようとはしません。ここでの問題は何ですか。ここではある人が完全に暴かれています。自己を認識することについて語るときは、とても立派に話すのに、刈り込みや取り扱いに直面すると、真理を受け入れられないのはなぜですか。ここに問題があります。このようなことは大変よくあることではありませんか。特定するのは容易ですか。実は容易です。自分の自己認識について語るとき、自分は悪魔にしてサタンであると認める人は数多くいますが、その後このような人が悔い改めることも、変化することもありません。では、その自己認識の話は本物ですか。それとも偽物ですか。彼らの認識は真摯なものですか。それとも他人を欺く策略ですか。答えは自明です。したがって、ある人が真摯に自己認識しているかどうかを判断するには、単にそのような認識の話を聞くだけでなく、その人の態度や、刈り込みと取り扱いに直面したときに真理を受け入れられるかどうかに目を向けなければなりません。これが最も重要です。取り扱われ、刈り込まれることを受け入れない人には、真理を受け入れない本質、真理の受け入れを拒否する本質があります。その人の性質は、真理にうんざりしている性質です。このことに疑いの余地はありません。中には、自分がどれほどの堕落を表わしていようと、他人に取り扱われるのを許容しない人がいます。そのような人を刈り込み、取り扱うことは誰にもできません。彼らは自分の自己認識について立派に語り、何でも言いますが、他の誰かに暴かれたり、批判されたり、取り扱われたりすると、それがいかに客観的で事実と一致していても、それを受け入れません。堕落した性質の表われのどの面が露わにされようと、彼らは極めて敵対的で、あくまで自分をもっともらしく正当化しようとし、真の従順などはこれっぽっちもありません。こうした人が真理を追い求めなければ、苦境に陥ります(『終わりの日のキリスト講話集』)。「真理に対する嫌気の主な表われ方は、真理を耳にすると抱く嫌悪感だけではありません。そこには真理を実践したくないという気持ちも含まれます。真理を実践すべき時になっても、このような人は引き下がり、真理はその人とは一切無関係になってしまいます。集会で交わりをするとき、とても生き生きしているように見え、教義の言葉を繰り返し、高尚な発言をして他の人たちを引きつけるのを好む人がいます。そうすることで彼らは立派に見え、気分もよくなり、永遠に話を続けます。また、信仰に関する事柄で一日中忙しくしている人もいます。一瞬たりとも神から離れられないかのように、祈り、賛美歌に耳を傾け、何かを書きつけるといった具合です。日の出から夜遅くまで、せっせと本分を尽くしているのです。では、これらの人たちは本当に真理を愛していますか。真理に飽き飽きしている性質はありませんか。どういうときに、このような人の真の状態が見えますか。(真理を実践すべき時に尻込みし、また刈り込みと取り扱いを受ける時になっても受け入れようとしないときです。)これは、自分が耳にしていることを理解していないからですか。それとも、真理を理解していないから受け入れようとしないのですか。どちらでもありません。彼らは自分の本性に支配されており、問題は性質に関することなのです。彼らは、神の言葉は真理であり、肯定的なものであるということ、また真理を実践すれば性質に変化がもたらされ、神の旨を満たせることを心の中ではよく知っていますが、どうしてもそれを受け入れず、実践しないのです。これが、真理に嫌気が差しているということです(『終わりの日のキリスト講話集』)

御言葉から、真理を嫌う性質について知った。それは、真理や、刈り込みと取り扱いを受け入れない、真理を実践しないという形で現れる。僕は毎日、御言葉を読んで本分を尽くしてた。集会では、御言葉どおりの堕落した性質を持ち、サタンに属し、赤い大きな竜の子であることなども認めてた。表向きは真理を受け入れてたんだ。だが本分をぞんざいにしたことを刈り込まれ、取り扱われると、全く真理を受け入れることも、実践することもなく、全てにおいて真理を嫌う性質を露呈した。水を与える係には、責任感と忍耐力が必要不可欠だ。新参者は生まれたての赤ん坊のようなもの。真の道に根を下ろせておらず、いのちがとても弱い。集会に来ないなら、すぐ潤して助ける方法を見つけなければ。僕はその原則を理解してたのに、いざ、実践し、苦しみ、代償を払うとなると、やりたくなかったんだ。真理をはっきり知りながら、実践しなかった。その新参者にも何度かあいさつしただけで、水を与えず、助けもしなかった。集会を何度か休んでると分かっても、心配したり、すぐに連絡方法を考えたり、彼女の問題や困り事を知ろうとしたりしなかった。新参者を潤すという最初の正念場で怠り、無責任だったせいで、彼女は退会してしまった。なのに、当時は自省もしなかった。監督者から問題を指摘されても、お茶を濁したことへのあらゆる言い訳を考え、グループリーダーや伝道師の責任にしようとした。これが真理を受け入れ、従う姿勢だと言えるのか。真理を嫌う性質を露呈したにすぎない!

その後、別の御言葉を読んだ。「取り扱いや刈り込みを受けるとき、その原因となった状況にかかわらず、最も重要な態度は何ですか。まず、誰がどのような理由で取り扱うのであれ、それが厳しいものという印象を与えようが与えまいが、口調や言葉遣いがどのようなものであれ、それを受け入れなければなりません。次に、自分が犯した間違い、露呈した堕落した性質、真理の原則に従って行動したかどうかを認識しなければなりません。刈り込みと取り扱いを受けるときは、まず何よりも、このような態度が必要です。では、反キリストにはこのような態度がありますか。ありません。最初から最後まで、彼らからあふれ出るのは反抗と嫌悪の態度です。このような態度で、彼らには神の前に出て自分を静め、熱心に耳を傾け、謙虚に受け入れることができますか。できるはずがありません。では、彼らはどうするのでしょうか。まず、懸命に正当性を主張し、自分が犯した過ちや自分が露呈した堕落した性質について自己弁護し、そうすることで人の理解と許しを勝ち取ることを期待します。責任を負ったり、取り扱いと刈り込みの言葉を受け入れたりしなくてすむようにです。取り扱いや刈り込みに直面したとき、彼らはどのような態度を示しますか。『わたしは罪を犯していない。間違ったことは何もしていない。わたしが間違いを犯したなら、それには理由がある。間違いを犯したとしても、わざとではない。また間違いを犯したとしても、その責任を負わなくていいはずだ。多少の間違いを犯さない人間などいるだろうか』。彼らはこのような言い分を利用し、それにしがみついて放そうとしません。けれど、真理を求めることはなく、また過ちを犯しているあいだに露呈した自分の堕落した性質を認めることもありません。さらに、自分にそうした本質があるとは絶対に認めません。……事実により自身の堕落した性質がどれほど明るみに出ていても、彼らはそれを認めず、反抗と抵抗を続けます。他人が何を言おうと、それを受け入れることも認めることもせず、『どちらか相手を言い負かせるか、どちらのほうが弁が立つか確かめようじゃないか』などと考えます。これが、取り扱われ、刈り込まれることに対して反キリストがとる態度の一種です(『反キリストの本性と実質を暴く』の「彼らが本分を尽くすのは、自分たちを目立たせ、自己の利益と野心を満たすためだけで、神の家の利益は決して考えず、個人の栄誉と引き換えに神の家の利益を売りさえする(8)」)。御言葉から分かったよ。普通の人は刈り込みと取り扱いを受けると、神から受け取り、受け入れて従い、自らを振り返り、心から悔い改められる。その場では受け入れられなくても、求めて自省し続けることで、刈り込みと取り扱いから教訓を得られる。だが反キリストの本性は、真理を嫌い、憎んでる。刈り込まれ、取り扱われても、決して自省しない。反発し、拒み、毛嫌いする態度を示すだけ。自分の振る舞いを考えてみた。僕がお茶を濁してフォローが間に合わなかったせいで、新参者が退会した。これがすでに過ちだ。良心や理知のある人なら、つらくなって罪悪感を持ち、自らの問題を反省するだろう。だが僕は罪悪感どころか、自分の問題も認めなかった。あんな明白な事実を前にして、故意に責任逃れを試みた。最初は「新参者から返答がなかった」、次は「グループリーダーが無責任だった」、そして「福音伝道師が悪い」と責め、自分の責任から逃れ、監督者の理解を得ようとしたんだ。神の啓示に触れ、刈り込まれ、取り扱われても、少しも自省しなかった。むしろ反発し、あらがい、自分を正当化し守るためのあらゆる言い訳を探した。責任を取りたくなかったからだ。人間性も理知も全くない! 僕は、頑固な性質と、真理を嫌う性質を露呈してたんだ。神をおそれてなかった。長年、神を信じてきたのに、性質が全く変わってなかった。つらくなったよ。

その後、また別の御言葉を読むと、刈り込みと取り扱いを受け入れない問題について、より知識を得られた。全能神は言われます。「反キリストの取り扱いと刈り込みに対する典型的な態度は、それを受け入れることも認めることも激しく拒むというものです。どれだけ悪事を行なおうと、神の家の働きや神の選民のいのちの入りにどれほど害をもたらそうと、彼らはほんの少しも後悔せず、負い目を感じることもありません。この観点から見ると、反キリストに人間性はありますか。絶対にありません。彼らは神の選民にありとあらゆる害をもたらし、教会の働きをかくも傷つけています。神の選民にはそれがはっきりと見えますし、反キリストが次から次へと悪事を犯すのを見てきました。しかし反キリストは、この事実を認めることも受け入れることもせず、自分が誤っていることや、自分に責任があることを頑なに認めようとしません。これは、彼らが真理にうんざりしていることを示していませんか。反キリストはここまで真理にうんざりしており、どれほどの悪事を犯したところでそのことを認めようとせず、最後まで譲歩しません。これは、反キリストが神の家の働きを真剣に捉えたことも、真理を受け入れたこともない事実を証明しています。彼らは神を信じるには至っていません。彼らはサタンの手先であり、神の家の働きを乱し、邪魔するために来たのです。反キリストの心には名声と地位しかありません。過ちを認めてしまうと責任を受け入れなければならず、そうなると自分の地位と名声がひどく損なわれてしまうと彼らは信じています。結果として、『死ぬまで否定する』という態度で逆らい、人にどのように暴かれ、分析されようとも、全力でそれを否定します。その否定が意図的かどうかに関係なく、要するに、ある面から見れば、このことは真理にうんざりして真理を憎む反キリストの本性と本質をさらけ出しています。また別の側面からは、反キリストが自分の地位と名声と利益をいかに大事にしているかがそこに表われています。一方、教会の働きと益に対する彼らの態度はどのようなものですか。それは侮蔑と責任回避の態度です。彼らには良心や理知が一切ありません。反キリストが責任を回避することは、この問題を立証していますか。ある面から見れば、責任回避は真理にうんざりして真理を憎む彼らの本質と本性を証明しており、また別の面から見れば、彼らに良心や理知や人間性がないことを示しています。自分の干渉や悪事によって、兄弟姉妹がいのちに入ることがどれだけ害を受けていようと、彼らは自責の念を一切感じず、それに悩まされることもありません。これはどういう種類の生物ですか。自分の過ちの一部でも認めれば、良心と理知が多少なりともあることになりますが、反キリストには人間性がほんの少しもありません。では、あなたがたは彼らのことを何と言いますか。反キリストの本質は悪魔です。神の家の益にどれだけ害を及ぼそうと、彼らにはそれが見えません。思い悩んだり自分を責めたりすることは一切なく、まして負い目を感じることなどありません。これは正常な人には絶対に見られないことです。これは悪魔であり、悪魔には良心や理知が一切ないのです(『反キリストの本性と実質を暴く』の「彼らが本分を尽くすのは、自分たちを目立たせ、自己の利益と野心を満たすためだけで、神の家の利益は決して考えず、個人の栄誉と引き換えに神の家の利益を売りさえする(3)」)。御言葉から分かった。反キリストは刈り込みや取り扱いを受け入れない。真理を嫌がって憎む本性があり、自らの利益を特に大切にするからだ。自分の評判に影響すること、傷がつくことがあれば、手段を尽くして自分を正当化し、責任を逃れる言い訳を探す。自分の行為が神の家の利益や他の人のいのちを害しても、自責や後悔の念を抱かない。バレても、かたくなに認めない。責任を認めて評判が落ちるのを恐れるためだ。反キリストは利己的で卑しく、人間性を持たない。元来、悪魔なんだ。「悪魔」という言葉を目にして、心が痛んだよ。僕の振る舞いや性質が、反キリストと同じだったからだ。明らかに間違いを犯し、教会の仕事を害したのに、僕は認めなかった。刈り込まれ、取り扱われても、自分を正当化し、責任転嫁しようとした。新参者が福音を受け入れる難しさを考えてみた。神が環境を整え、啓き、導き、兄弟姉妹が時間と労力をかけることで、やっと受け入れられる。特に神は1人ひとりに責任を持たれる。100匹の羊のうち1匹がいなくなれば、99匹を置いて、迷える羊を探されるように、1人ひとりのいのちをとても大切にされる。僕は新参者を潤す係になっても、任務をぞんざいにした。新参者の欠席に気づいても、心配もせず気にもしなかった。形だけ尋ねることがあっても、グループリーダーの仕事へのフォローもずさんで無責任だった。何度も返事がないのを分かってながら、すぐに理由を聞かず、彼女が問題や困り事を抱えてないか調べもしなかった。新参者にも無頓着で無責任な態度で接し、彼女のいのちを重要視してなかった。それでも後悔や罪悪感はなく、改善しようとしなかったんだ。「お茶を濁してる、無責任だ」と監督者に指摘されても、必死で反論して自分を正当化し、責任を逃れられる理由を探した。問題を認めて責任を取らされることを恐れてた。監督者に悪い印象を与え、任務を外されることを。一度も、教会の仕事や、新参者のいのちを害することについて考えなかった。僕が考えたのは、自分の利益が損なわれないか、自分のイメージや地位を保てるかだけ。とりわけ利己的で、個人的な利益だけを守ってたことに気づいたよ。本当に人間性がなく、神から嫌われてた。そこで神の御前に出て祈った。「神よ、僕は本分をぞんざいにし、深刻な結果を招いたのに、認めなかった。新参者のいのちではなく、自分の評判や地位を考えてた。僕には人間性が少しもない! 神よ、自分を悔い改めたいです」。

その後、更に御言葉を読み、実践の道を見つけた。全能神は言われます。「真理を得るのは難しいことではありません。真理の現実に入るのも難しいことではありません。けれど、真理にいつもうんざりしている人が、真理を得ることはできますか。できません。したがって、絶えず神の前に出て、真理にうんざりしている自分の内なる状態を検証しなければなりません。真理にうんざりしていることを自分はどのように表わしているのか、自分の行動の何が真理にうんざりしているのか、どのような物事において真理にうんざりしている態度をとっているのかを見極めなければなりません。こうしたことを熟考しなければなりません(『終わりの日のキリスト講話集』)。「神に付き従って自身の本分をきちんと尽くしたいと思うなら、まずは物事が自分の思い通りにならないとき、衝動的にならないようにしなくてはいけません。何はともあれ冷静になり、神の前で落ち着き、心の中で神に祈り、神に求めなさい。頑なにならず、まずは服従しなさい。このような心構えがあってこそ、問題のよりよい解決策が見つけられます。神の前で生きることを堅持し、何が降りかかろうと神に祈って神に求め、服従の精神でそれに向き合うことができるなら、あなたの堕落した性質がどれだけ表われていようと関係なく、過去の過ちも問題ではありません。真理を求めることで解決することができます。いかなる試練が降りかかろうと、揺るぎなく立つことができます。正しい心構えを持ち、真理を受け入れ、神の要求に沿って神に従うことができる限り、真理を完全に実践できます。時には多少反抗したり、抵抗したりするかもしれず、自己弁護して服従できないときもあるでしょう。けれど、神に祈って自分の反抗的な状態を転換できれば、真理を受け入れることができます。そうしたのち、そのような反抗心や抵抗感がなぜ自分の中に湧き起こったのか反省しなさい。その理由を突き止め、真理を求めて解決しなさい。そうすれば、堕落した性質のその側面が清められます。そうした躓きや転落から何度か立ち上がった後で真理を実践できるまでになれば、堕落した性質が徐々に消えてゆきます。すると、真理があなたの中で君臨し、あなたのいのちとなり、真理の実践への障害はなくなります。神に真に服従できるようになり、真理の現実を生きることになるのです(『終わりの日のキリスト講話集』)。御言葉を読んで分かった。真理を嫌う性質を解決するには、いつも自らを振り返り、自分の発言、実践、意図、態度、意見に、真理を嫌う性質がないか検証する必要がある。何かの時は、自分に好ましい出来事であろうとなかろうと、まずは落ち着いて、反発しないこと。周りの言葉を受け入れられず、自分を正当化する言い訳を探したくなったら、神の御前に出て、もっと祈って求め、御言葉に目を向け、御言葉を使って自省し、真理の分かる兄弟姉妹と交わりを持つんだ。そうすれば、徐々に真理を受け入れ、その現実に入り、堕落した性質を少しずつ捨てられる。実践の道を理解すると、変わる決心ができた。

新参者の状況を調べなかったことがすでに過ちだと分かったので、僕は急いで、担当した新参者への理解やフォローが適切だったか確認した。ある新参者と話してると、彼女は、主の再来と神の働きの3段階に関する真理をよく分かってなかった。福音伝道者に彼女と交わってもらうべきか、リーダーに尋ねてみた。すると、僕が交わるようにと言われた。分かってはいた。新参者の問題を早く解決するのが、僕の責任だ。それでも抵抗があった。反論したい、従いたくないと思った。「伝道師がはっきりと交わらなかったせいなのに、なぜ僕にフォローする責任が? 大勢の新参者を抱えてて、時間も足りない。伝道師が交わるべきだ」と。その時、自分の状態が間違ってると気づいた。リーダーが言ったことは妥当だ。正しい提案なのに、なぜ受け入れられないのか。なぜ、まだそんなに反論したい? なぜ従えない? そこで、服従し、自分の肉の利益を考えず、新参者に対して責任を持てるよう、神にお導きを祈った。すると思い出した。受け取る力は人によって違う。福音伝道師の交わりを聞いた時は理解できても、あいまいになってくる人もいる。だから水を与える係がフォローし、補足しなければ。それが調和の取れた連携だ。水を与える係は、問題を見つけたら解決するのが仕事。えり好みしたり、簡単なことだけして難しいことを人に任せたり、面倒を避けて楽したりしちゃ駄目だ。本分に条件をつけるべきでも、言い訳すべきでもない。新参者を任されたら、よく潤し、真理を理解させ、真の道の基礎作りをする責任がある。それが神の委託であり、僕の本分だ。本当の真理の実践であって、真の変化なんだ。心が晴れやかになったよ。集会が終わった後、その新参者を見つけて、彼女の問題について交わった。そう実践してると、抵抗を感じないばかりか、とても幸せだった。理解できたよ。真理の実践は、表向きの行動ではない。神の御言葉を心から受け入れ、真理の原則に沿って行動すること、御言葉を基準に、人や物事を見て、行動し、振る舞うことなんだ。そうすれば、自分の間違った意図や見方、堕落した性質は、いつの間にか御言葉や真理に置き換わってく。

その後も考えれば考えるほど、暴かれ、刈り込まれ、取り扱われる必要性を感じた。僕らが真理を追求しない最大の原因は、頑固な性質と真理を嫌う性質だと、神は教えてくださる。それまでは、僕にそんな性質があるとは全く知らなかった。神が僕を暴く環境を整えず、御言葉で裁き明らかにされなかったら、僕は真理を嫌う性質に気づかず、悔い改められなかっただろう。あのままでは、真理の追求といのちの成長が大きく妨げられてた。御言葉の啓示と裁きは、とても有意義だったよ。神に感謝を!

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