信仰とは神にすがること

2022年4月16日

イタリア 程诚

全能神は言われます。「あなたが神を見られるのは自分の信仰の中からだけであり、あなたに信仰があるとき、神はあなたを完全にするのである。信仰がなければ、神はそれを行なうことができない。あなたが何を得たいと望もうと、神はそれを授ける。あなたに信仰がなければ、あなたは完全にされることができず、神の業を見ることもできないし、ましてや神の全能を見ることなどできない。自分の実際の経験の中で神の業を見るという信仰があれば、神はあなたの前に現われ、あなたを中から啓いて導く。この信仰がなければ、神がそれを行なうのは不可能である。あなたが神への望みを失ったとしたら、どうして神の働きを経験できるだろうか。したがって、あなたに信仰があり、神に対して疑いを抱かず、神が何をしようと神に対する真の信仰をもっているときにだけ、神はあなたの経験を通じてあなたを啓いて照らし、そのとき初めてあなたは神の業を見ることができる。これらはすべて信仰を通じて成し遂げられる。信仰は精錬を通じてのみ生じるのであって、精錬なくして信仰が育まれることはあり得ない。『信仰』というこの言葉は何を指すのか。信仰とは、見ることも触れることもできないものがあるとき、神の働きが人間の観念にそぐわないとき、また、それが人間の手に届かないときに、人間がもつべき真の信念であり、誠実な心である。これこそが、わたしの言う信仰である(『神の出現と働き』「完全にされる者は精錬を経なければならない」〔『言葉』第1巻〕)。神への真の信仰が重要であると、御言葉は教えています。神が望まれるのは、わたしたちがどんな試練に遭おうと、困難がどれほど大きくても、御言葉を信じて信仰を持ち、心から神にすがって協力すること。神の全能なる支配と御業を目撃するにはそれしかありません。神の導きのおかげで、わたしもそれを少し経験しました。

2016年11月18日、イタリアの兄弟からメッセージが届きました。全能神教会についてもっと詳しく知りたいというのです。それを読んで、主のお戻りを待ち望む彼の差し迫った思いを感じ、翻訳アプリでコミュニケーションを始めました。彼はカトリック教会の堕落と腐敗に失望し、1991年から真の教会を探していました。ウォッチマン・ニーの本も読んだけれど、霊の糧は得られなかったそうです。主なしで生きるのは苦しく、望みもなく、無意味だと言うのですが、全能神教会のオンラインメディアを見て引き込まれたのでした。これは真の教会のようだ、もっと知りたい、と。真理を求める彼の熱心さを見て、切実な思いをさらに感じました。言いたいことが山ほどあったけれど、イタリア語で伝えることができません。全能神の御言葉はイタリア語で出版されてなかったの。福音映画も見てもらいたかったけど、そちらもイタリア語版がありません。向こうもイタリア語しかわからないので、音楽ビデオを送ることしかできませんでした。音楽とダンスは万国共通。ところが、それを観た彼は思いが募り、せがむように言ったの。「イタリア語のウェブサイトができたらすぐに教えてほしい」って。それを読んで全能神の御言葉が脳裏に浮かびました。「あなたの見たこと、経験したことを、義に飢え渇き、あなたが牧してくれるのを待っている哀れで貧しい、敬虔な信者たちにどう伝えるのか。どのような人があなたに牧してもらおうと待っているのか。想像できるだろうか。あなたは自分の肩にある荷の重さ、託されたこと、そして自分の責任を認識しているのか。歴史的な使命に対するあなたの感覚はどこにあるのか。あなたは次の時代の良き主人として、どう十分に奉仕するのか。あなたには主人としての強い意識があるのか。万物の主人についてどう説明するのか。それはまことに世界のすべての生き物とすべての物体の主人なのか。次なる段階の働きを進展させるために、あなたはどのような計画を持っているのか。何名の人たちがあなたに羊飼いになってもらいたいと待っているのか。あなたの任務は重い任務か。彼らは貧しく、哀れで、盲目で、途方に暮れており、暗闇の中で泣き叫んでいる。道はどこにあるのか。彼らは、光が流星のように突然降りて来て、人を長年圧迫してきた暗闇の勢力を一掃することを、どれほど待ちこがれていることか。彼らがどれほど切に望み、日夜どれほど思いこがれているかを、誰が知ることができるだろうか。光がきらめきを放つ日でさえ、深く苦しんでいるそれらの人たちは解放される望みのないまま、引き続き暗闇の地下牢に閉じ込められる。彼らが泣きやむ日はいつ来るだろうか。まったく安息を与えられたことのない、これらのもろい霊たちの不幸は恐るべきものであり、容赦ない束縛と凍り付いた歴史によってこの状態の中で拘束されている。誰が彼らの泣き叫ぶ声を聞いたことがあるだろうか。誰がそのみじめな状態を見たことがあるだろうか。神の心がどれほど深く悲しみ、心配しているか、あなたの頭に浮かんだことはあるのか。自身の手で造った罪のない人類がこのような苦しみにあっているのを、神は見ていられるだろうか(『神の出現と働き』「将来の使命にどう取り組むべきか」〔『言葉』第1巻〕)。これを読んで、神はわたしたちに福音を広めて証しすることを委ねられたとわかったけれど、神の切実なお求めでも、両手が縛られているように感じました。神の働きを証しできない。暗闇で迷っているあの兄弟を助け、御言葉の糧を得させることもできない。申し訳ない気持ちでした。彼のメッセージを叫びたいと思いつつ、にっちもさっちも行きません。後ずさりすれば、彼が切望する真の道の探究を遅らせてしまう。前進すれば、不正確な翻訳ツールに頼らざるを得ない。簡単な文さえ不正確だから、霊的な用語なんてなおさら無理。どうコミュニケーションをとればいい?言葉を奪われた気分です。目は開いているのに何もできない。イタリア語を話せる兄弟姉妹がいればと思ったものの、そんな人はいませんでした。その時点ですっかり途方に暮れてしまい、こう思いました。「わたしが知ってるイタリア語は『こんにちは』と『さよなら』くらい。いずれにせよ、終わりの日の神の働きを証しするなんて無理だわ」わたしは落ち込みました。

翌朝、彼からメッセージが届きましたが、目が覚めるとすぐ、全能神教会のことを訊こうと思ったというのです。彼から続けてメッセージが届くのでわたしはますます焦り、急いで祈りました。「神よ、わたしはイタリア語を知らず、この兄弟にどう福音を伝えたらいいかわかりません。神よ、どうかお導きください」祈りのあと、この御言葉を思い出しました。「すべてのものは神の手中にあり、人間は神に協力しているに過ぎないのだと、あなたは信じなければなりません。あなたの心が誠実なら、神はそれを見てあなたのためにすべての道を開き、困難がもはや困難でなくなるようにします。これがあなたの持つべき信仰です」「全力を尽くして本分に心を注いでいる限り、本分を尽くしているときは何も心配する必要がありません。神があなたに難題をもたらしたり、できないことを行なうよう強制したりすることはないのです(『終わりの日のキリスト講話集』の「いのちへの入りは神への信仰において最も重要である」)。これを読んで信仰と勇気が湧きました。そう、万事は神の手中にあり、神によって可能になる。困難に見舞われているとき、神がわたしたちに一番求めるのは真心と協力、そして心から神を信じてすがり、全力で神に協力すること。すると神が助けてくださる。けれどわたしはそうした問題に遭っても心に神がいなかった。自分の観念の中で生きていて、イタリア語を話せないからあの兄弟と意思疎通できず、神の働きを証しできないと考えた。消極的になってしまったの。それでどうして神の導きを得て、御業を見られるでしょう?心から神にすがって協力し、神が導いてくださると信じる必要があるんです。そう考えたとき、以前に終わりの日の神の働きをまとめたイタリア語の聖句のことを思い出した。それを使えば兄弟とコミュニケーションがとれる。そこである朝、意思疎通に役立つ聖句を送信しました。その後、『敬虔の奥義』の予告版がイタリア語で公開され、わたしは驚くと同時に喜び、すぐに送ってあげました。やがて連絡があり、これは主の再来に関する聖書の預言の映画ですねと言ってから、興奮した様子で訊きました。「主は戻られたのですか? 中国にいるのですか?今の御名は何ですか?」その瞬間、この人は羊飼いの声を突然聞き、必死に羊飼いを探している迷える羊なんだと思いました。わたしは涙を抑えながら返事しました。「神の御名は全能神、黙示録で預言されています。『今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者(黙示録 1:8)」この時点で、神の支配の各段階は次の段階にぴたりとはまることがわかりました。わたしはいくつかの挨拶以外にイタリア語を知りませんが、この経験のおかげで実感できました。神の導きで意思疎通することができ、結果を得られたと。万事は神の手中にあり、心から神を信じてすがり、全力で神に協力すべきなんです。

その後、別の問題が起きました。終わりの日の神の働きの証しはいつ受け取れるのかと訊くのです。すぐに答えようとしましたが、やはり言語の壁があって、助けてくれる人もいません。未信者に翻訳を頼んでも、霊的な用語を知らないから誤訳してしまうはず。そうした問題を考えると絶望的になり、どうすればいいかわかりません。心が乱れたわたしは神を呼び求めました。「神よ、両手が縛られています。どうすればいいか、ここから何を学ぶべきかわかりません。どうか道を開いてお導きください」祈りのあと、紅海を渡ったモーゼのことを考えました。イスラエル人をエジプトから導く中で、モーゼは多くの困難に見舞われたけど、神への信仰を失わなかった。祈って神と協力し、神の不思議を数多く見た。紅海と追っ手の軍勢、そして砂漠での四十年がなければ、そうした信仰と証しは無理だったはず。わたしも本分で困難に直面しなければ、どうして真に神を信仰できるでしょう。もちろん、紅海を渡るといったことに直面してたわけじゃない。あの兄弟とネットで知り合って以来、神はわたしのために道を開き、わたしは神の不思議な御業を見た。神をもっと信じ、神にすがらなければとわかったの。この瞬間気づきました。神はこれらの困難を通じてわたしの信仰と信心を完全にし、実際の経験を通じて神の全能なる支配を実際に認識させようとなさってる。ひとたび神の旨がわかると、神が道を開いてくださることを疑わなくなりました。そこでネットで会うことにしたんですが、イタリア語を勉強している十五歳の姉妹が来てくれたんです。十五歳の子が通訳してくれると聞いて、自分のことと、この若い姉妹のことを考えました。わたしは若くて信仰も浅く、伝道したこともない。若い子が福音を広めるのに役立つかしら?どうしても確信できません。ですがイタリア語の御言葉を流暢に読み、新しい単語をすぐに覚えたと言うのを聞いて、驚きと恥ずかしさを感じました。福音を広める働きのために、神はふさわしい人を全員集めてくださった。わたしはこの御言葉を思い出しました。「神の口から誓いや約束が発せられる時、万物はその実現に寄与し、その実現のために動かされます。そして創造主の支配の下、すべての被造物が指揮され、采配され、それぞれの役割を担い、それぞれの機能を果たすのです。これが創造主の権威の表われです(『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」〔『言葉』第2巻〕)。この経験を通じてわかりました。心から神にすがる限り、神はわたしを導き、わたしは神の御業を見る。

この姉妹が通訳してくれるので、ようやく兄弟と意思疎通できました。重荷がなくなったんです。直後、神にすがる気持ちが消えたんですが、その姉妹に用事ができて、通訳を続けられなくなりました。それを聞いて崩れ落ちそうになりました。その兄弟が真の道に立てるよう、言いたいことが山ほどあったのに。でも通訳がいないと、自分には何もできない。やがて、真の道を求める人がいると聞きましたが、共産党と宗教界に騙され、続けられないというんです。イタリア人の兄弟もすぐに潤さなければ、探求をやめてしまうのではと不安になった。無力さを感じ、どうすればいいかわかりません。するとある日、兄弟が自分のページに投稿した文章を見ました。「友よ、兄弟姉妹よ、イエス・キリストが戻られた! 喜びましょう!」これを見て冷や汗が噴き出しました。彼には宗教界の友人が三千人以上いる。そのうち数名でも、彼を騙す反キリストだったら、どんなことになるだろう?わたしは不安になり、神の御前に出て祈りました。「神よ、通訳がいなければこの兄弟を潤せません。他の人に騙され、引き抜かれてしまうのが心配です。この状況であなたの御言葉をどう経験し、いかに学ぶべきでしょう?どうかお導きください」祈りのあと、この御言葉を読みました。「人は大半の時間を無意識の状態の中で過ごしています。神に頼るべきか、それとも自分に頼るべきかを知らないのです。そうして自分に頼ることを選びがちで、また自分の周りの有利な環境や条件、自分の役に立つ人や出来事や物事に頼ることを選びます。これが、人が最も得意とすることです。人が最も苦手とするのは、神に頼って神を仰ぐことです。なぜなら、神を仰ぐのはあまりに面倒だと感じているからです。そのような人は神を見ることも感じることもできず、そうするのは漠然としていて現実的でないと思っています。ゆえに、人はこの課程で最低の成績を残し、そこへの入りもこの上なく浅いものになります。どのように神を仰ぐべきか、どのように神に頼るべきかを学ばなければ、神があなたの中で働きを行なったり、あなたを導いたり、あなたを啓いたりしているのを、あなたが見ることはありません。これらのことが見えなければ、『神は存在するのかどうか、人の生活の一切を導くのかどうか』といった問いに心の奥底で疑問符をつけ、句読点や感嘆符で終わらせることはありません。『神は人の生活の一切を導きますか』『神は人の心の奥底を観察しますか』といったことを疑問にするのはなぜですか。心から神に頼ることも、神を仰ぐこともしなければ、あなたは神への真の信仰を生じさせることができません。神への真の信仰を生じさせることができなければ、あなたにとって、これらの疑問符がいつまでも残り、神が行なうあらゆることを伴いつつ、句読点で終わることはありません(『終わりの日のキリスト講話集』の「信者は世界の悪しき風潮を見通すことから始めなければならない」)。わたしは御言葉に目が覚め、神を忘れていたことに気づきました。無力さを感じ、意思疎通できず、どうすればいいかわからない状況に、神はわたしを置いた。神が命綱になられた。でも条件や人が整うと、わたしは他の人に頼った。そのほうが現実的だと思ったから。あの姉妹が手伝いに来てくれたとき、それは神の御業だとわかってた。だけどその後も、兄弟が終わりの日の神の働きを受け入れるかどうかは、その通訳次第だと思ってた。神への真の信仰がなかったんです。すると主イエスの御言葉が頭に浮かびました。「わたしの父がわたしに下さったものは、すべてにまさるものである。そしてだれも父のみ手から、それを奪い取ることはできない」ヨハネによる福音書 10:29。神の羊は神の御声を聞く。どんな噂も、嘘も、困難も、神の御手から羊を奪うことはできない。これが神の権威なんです。わたしは神の御言葉を信じ、本分を尽くし、あらゆる道を探ってあの兄弟と交わる必要がある。彼が噂や嘘に騙されるかどうかは、わたしが決めることじゃない。

その後、全能神の御言葉を読みました。「これまで数千年にわたり、サタンは人類を堕落させてきました。無数の悪事を働き、何世代もの人々を欺き、世界中で凶悪な犯罪を犯してきました。人間を虐げ、欺き、誘惑して神に反抗させ、神の経営計画を何度も混乱させて害を与えるという悪事を重ねてきたのです。それでもなお、神の権威の下、万物とすべての生物は神が定めた規則と法則を遵守し続けています。神の権威に比べれば、サタンの邪悪な本性とその蔓延は極めて醜く、不快であり、卑劣であり、取るに足りず、脆弱です。サタンは神に創られた万物の中を歩んでいますが、神に率いられる人間や物事をわずかでも変化させることはできません(『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」〔『言葉』第2巻〕)。御言葉のおかげでわたしは解放されました。本当に、万事は神の支配下にあって、神がなさろうとすることを邪魔できる人はいないんです。誰も神の羊を奪えない。偽物が神の家に紛れ込んでも、暴かれ淘汰される。これが神の力です。自分は神を理解してないんだとわかりました。わたしはその生きた実例だったんです。全能神の働きを受け入れる前はずっと、共産党や宗教界の嘘に耳を傾けてました。わたしを邪魔するものがたくさんあったけど、御言葉がわたしを引っ張り、終わりの日の神の働きを受け入れさせてくれたんです。そしていま、誤謬や嘘がどれだけあっても、わたしが全能神に従うのを邪魔することはできない。それらのおかげでサタンの顔をはっきり見て、神に従う信仰を強くすることができた。どれも神の御言葉のおかげ。あの兄弟と意思疎通を図ってた一ヵ月のことを振り返りました。言語が違ってコミュニケーションがとれなかったけど、彼が終わりの日の神の働きを受け入れるまで頑張った。彼はイタリアで福音を広め、教会を建てることにも触れたんです。神の導きがなければ、御言葉が人を征服してなかったら、そんなことがどうして可能でしょう?わたしには神への認識がありませんでした。福音を広めてるとき、神の権威は比類なく、どんな力も神の働きを邪魔できないと言っていても、常に物事を論理的に分析してた。言語の障害にぶち当たると、兄弟が噂や反キリストの嘘に騙されるのではと不安になった。恐怖の中で暮らしてたんです。でも、彼が真の道を受け入れられるかどうかは神の御手の中にあり、神が定めること。わたしは心配するのでなく、きちんと本分を尽くして責任を全うすべきでした。そのとき、神の支配と采配に従おうと、わたしは神に祈りました。驚いたことに、用事が終わったのでまた通訳できるというメッセージがあの姉妹から届いたんです。ようやくはっきり意思疎通することができました。

あの兄弟に福音を伝える中で、落胆したり、心から不安になることもあったけれど、神にすがるとその導きと不思議な御業を目撃したんです。神の働きは神自身がなさるとわかり、神への信仰がますます膨らみました。これは神の恵みと慈悲だったんです。福音を伝えるのは他者を救うことだと思ってたけど、その過程で神の働きと御言葉を経験していたのだと気づきました。この経験を通じて、「疑うトマス」だったわたしは、神の権威と忠実さを真に経験しました。神が言われる通りです。「特に厄介な困難に出会ったものの、頼れる人がおらず、とりわけ無力に感じるとき、その人は唯一の希望を神にかけます。その人の祈りはどのようなものですか。心の状態はどうですか。誠実ですか。そのとき不純なものはありますか。あなたの心が誠実であるのは、神が助けてくださることを願って、自分のいのちを救うためにしがみつく最後の藁であるかのように神を頼るときだけです。たとえあまり話さなかったとしても、あなたの心はすでに動いています。つまり、あなたは自分の誠実な心を神に捧げ、神は耳を傾けるのです。神は耳を傾けるとき、あなたの困難を見てあなたを啓き、導き、助けます(『終わりの日のキリスト講話集』の「信者は世界の悪しき風潮を見通すことから始めなければならない」)。神を知るには、日々遭遇する物事や本分を尽くす過程の中で、実際に実践して御言葉を経験する必要があります。神を知って畏れるにはそれしかありません。わたしは自分の経験からそれを知りました。神に感謝!

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