福音を広めることの収穫

2023年7月12日

しばらく前、オンラインでテレサというフィリピン人のクリスチャンと出会いました。話をするうち、彼女が主を心から信じていることがわかった。彼女は、今の教会の礼拝では何も得るものがなく、他の信者たちはどんどん世俗主義の潮流に流されていて、教会に活気がないので、聖霊の働きがある教会を探していること。もっと御言葉を読んで神を知り、新たないのちを生きたいと思っていることを話してくれた。彼女が霊的に渇望しているの見て、福音を広めたいと思った。神の声を聞き、神の家に入れるようにしてあげたかった。一度、聞いてみたの。信仰に何を求めているのって。すると、「神の国に行って、永遠に神のそばにいたいけど、私は罪人なので、神の国に入る資格はない」と言うので。こう言ったの。神の国に入るには、神の国の基準を知る必要があるわ。学んでみたい? と。彼女は嬉しそうに「ぜひ!」と言った。彼女が真理を求めるまことの信者だと分かり、喜んで終わりの日の神の働きの証をしようとしたけど、彼女の出勤時間が来てしまったので、その日はそこで終わりにしなければならなかったの。

彼女の仕事がとても忙しくなって、朝から夜遅くまで働きっぱなしなので、帰宅後は疲れ切って休まなければならず、わずかな休みの時間があっても教会の礼拝に行くので、私と話をする時間があまりとれなかった。連絡するとたいてい仕事中だったので、話をすることができなかったの。しばらくすると、気持ちがしぼみ始め、こう思った。住む国が違うから、連絡方法はオンラインだけ。ログオンする時間もない彼女に、終わりの日の神の働きをどうしたら伝えられるだろう? と。私にはどうしようもないから、もう忘れよう。他の誰かが福音を広めてくれるかも。そうやって諦めかけた時、御言葉を思い出したの。「あなたは自分の肩にある荷の重さ、託されたこと、そして自分の責任を認識しているのか。歴史的な使命に対するあなたの感覚はどこにあるのか。あなたは次の時代の良き主人として、どう十分に奉仕するのか。あなたには主人としての強い意識があるのか。万物の主人についてどう説明するのか。それはまことに世界のすべての生き物とすべての物体の主人なのか。次なる段階の働きを進展させるために、あなたはどのような計画を持っているのか。何名の人たちがあなたに羊飼いになってもらいたいと待っているのか。あなたの任務は重い任務か。彼らは貧しく、哀れで、盲目で、途方に暮れており、暗闇の中で泣き叫んでいる。道はどこにあるのか。彼らは、光が流星のように突然降りて来て、人を長年圧迫してきた暗闇の勢力を一掃することを、どれほど待ちこがれていることか。彼らがどれほど切に望み、日夜どれほど思いこがれているかを、誰が知ることができるだろうか。光がきらめきを放つ日でさえ、深く苦しんでいるそれらの人たちは解放される望みのないまま、引き続き暗闇の地下牢に閉じ込められる。彼らが泣きやむ日はいつ来るだろうか。まったく安息を与えられたことのない、これらのもろい霊たちの不幸は恐るべきものであり、容赦ない束縛と凍り付いた歴史によってこの状態の中で拘束されている。誰が彼らの泣き叫ぶ声を聞いたことがあるだろうか。誰がそのみじめな状態を見たことがあるだろうか。神の心がどれほど深く悲しみ、心配しているか、あなたの頭に浮かんだことはあるのか。自身の手で造った罪のない人類がこのような苦しみにあっているのを、神は見ていられるだろうか。結局、人間は毒された犠牲者たちである。人間は今日まで生きながらえたけれども、悪しき者によって人類が長い間毒されてきたことを、いったい誰が知っていただろうか。あなたは自分もその犠牲者の一人であることを忘れてしまったのか。神に対するあなたの愛のゆえに、これら生き残った人たちを救うために喜んで尽力しようと思わないのか。自分の血肉のように人類を愛する神に報いるべく、自分の力を残らず捧げようと思わないのか」(『神の出現と働き』「将来の使命にどう取り組むべきか」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉を思い、罪悪感を感じた。彼女に福音を広めるのに手を尽くしたわけじゃないし、主イエスが再来したことも伝えられていない。彼女は主を心から信じて、主の旨を理解したいと望んでいたのに、霊的な暗闇にいて、何の糧も得られていない。一番助けが必要な時に、私が見放してしまったら、どうやって神の声を聞けるというの? 災害が大きくなっている今、すぐに神の働きの証をしなければ、救いの機会を失ってしまうのでは? そう思うと、ますます罪の意識を感じて、神に祈った。「神よ、あなたには不可能などないと分かっています。彼女があなたの羊なら、あらゆる手を使って福音を広めます。どうか導いてください」と。祈った後、突然ひらめいたの。テレサは忙しいけど、一緒に祈る時間を事前に決めればいいんだと。さっそく聞いてみると、賛成してくれたの。そして朝の5時台に話そうと約束をしたんです。当時は本分がとても忙しくて、寝るのはいつも深夜2時3時だったので、そんなに早起きするとなると、ほとんど寝る時間がなくなると思った。でも自分に言い聞かせたの。自分の体調を心配して、テレサを神の前に連れてこられないのは、間違っていると。この御言葉を思い出したわ。「肉体はサタンに属している。肉体の中には途方もない願望があり、肉体は己のことだけを考え、快適さと娯楽を享受することを望み、怠慢と無為にふけるので、ある程度まで肉体を満足させると、あなたは最後には肉体に食べ尽くされてしまう」(『神の出現と働き』「神を愛することだけが本当に神を信じることである」〔『言葉』第1巻〕)。肉体を満足させることはサタンを満足させること。証を立てられず、本分を尽くせなり、終わりの日の神の働きの証を立てる機会を失うことになる。そして祈った。肉に背き、苦労を背負って彼女に福音を広め、神の家に連れてきますと。それから、早朝の祈りの時間が始まった。テレサにもっと時間ができて、御言葉を交わることができるよう、心からの祈りをささげると、彼女は真剣に言ったの。「あなたの真心が伝わりました。私のために祈ってくれてありがとう。感動しました」と。それを聞いて心が温かくなると同時に、真心は必ず人に伝わるんだとわかった。そして静かに神に伝えたわ。必ずテレサを神の家に連れてきますと。そこで、こう提案したの。一緒に聖書を交わる時間を設けましょうと。彼女も賛成し、1日30分交わりの時間を捻出してくれた。そしてまた、神の国に入る方法を知りたいと言ったの。

次の日の交わりでは、その話題を扱った。私は「すべての信者が神の国に入りたいと考えているけど、そのためにはどうすればいいのか。主の声を聞いてみましょう。主イエスは言われました。『わたしにむかって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである』(マタイによる福音書 7:21)。主は明確に言っているわ。神の国に入る鍵は、神の旨を行うことだと。でもそれはどういう意味でしょう。簡単に言うと、神の旨を行うこととは、御言葉を実践し、その命に従うこと。神の旨を行うこととは、罪から離れて神の御言葉を実践し、心から神を愛して従うこと。いつも嘘をつき、罪を犯し、神に抵抗し、神の求めに背く人は神の旨を行う人ではないわ。そんな人が天国に入れると思う?」テレサが「いいえ。私たちは嘘をつき、言葉で罪を犯し、多くの人が世俗主義の潮流に流され、お金を求め、神を心から崇拝していません。牧師でさえ例外じゃない。そんな私たちが神の国に入れるのですか?」と言うので、答えました。「はい。人は主イエスに贖われて、罪を赦されたけど、いまだに嘘をつき罪を重ね、昼に罪を犯しては、夜に罪を告白しているわ。聖書の言葉です。『きよさがなければ、だれも主を見られない』(へブル人への手紙 12:14)。だから今の私たちに神の国に入る資格はない。でも私たちは知っています。神は人を愛し、その望みは、すべての人が救われ、神の国に入り、神の光の中で生きること。では、神はその望みをどうやって叶えるのでしょう? 聖書にはこうあるわ。『キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである』(へブル人への手紙 9:28)。主は終わりの日に人を救うために再来し、罪の足かせから人を完全に開放し、神に従い、神の旨を行う人間にするの。人が完全に救われ神の国に入れるように」。そういうとテレサは興奮した面持ちで言ったわ。「罪を犯すのをやめたいです。神はどうやって人を罪から救うんですか?」と。そこで聖書を数節送ったの。最初はこれ。「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります(ヨハネによる福音書 17:17)そしてこれです。「わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。また、ひとりの強い御使が、大声で、『その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか』と呼ばわっているのを見た。……『……見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる』(ヨハネの黙示録 5:1-5)。「主は真理を使って人を聖くすると言ったわ。『黙示録』と『ダニエル書』のどちらにも、封印された巻物が終わりの日に開かれるとある。この巻物は終わりの日の神が発した新たな言葉のことで、人を聖くする真理なの。巻物を開き、人を救う真理を表せるのは神以外にいない。主が終わりの日に来た時、人を清めて変化させる多くの真理を表し、人を罪から逃れさせるの。『黙示録』で何度も出てくる言葉があるわ。『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』(ヨハネの黙示録 2章、3章)。神は終わりの日に教会に語り掛けるとある。私たちは神の声を聞くよう努めるべきで、神の声を聞いて初めて主を迎えるべき。これが、清められ救われ、神の国に入る資格を得る、唯一のチャンスなの」。

ここまで交わったところで、テレサに聞かれた。「なぜ主は終わりの日に新たな言葉を発する必要があるのですか? ずっと聖書を読んできて、聖書に信仰を与えられ、多くを教わりました。寛容さ、忍耐、人を許すことを学びました。聖書で十分だと思います。牧師もいつも言います。神の言葉は聖書にあり、聖書以外に神の言葉はないと」。終わりの日に主が言葉を発するという話に対して、テレサが観念をもち、受け入れられないことがわかった。だから、直接反論しないようにしたの。自分の経験を話したんです。「私も前は同じことを思ったわ。主が言ったことはすべて聖書にあって、聖書以外に神の新しい言葉はないと。でもその後、兄弟が口にした主の言葉を聞いて、考えが変わったの。主イエスは言われました。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう』(ヨハネによる福音書 16:12-13)。これは主が使徒に話した言葉だけど、まだ他に言うことがあると言っているわ。でも人の背丈がないので、今は耐えられないから、終わりの日にもっと言葉を発すると言っているの。人がすべての真理を理解して入れるように。そして罪の足かせを逃れて完全に救われるように」。その時、ちょうどいいたとえを思い出したの。「例えば子供が小さな時は、母親が話し方や歩き方を教えるわね。その時母親は、将来お金持ちになって、パパやママを養ってね、なんてその子に言うかしら? 言わないわよね。小さい子には、理解できないもの。だから小さな子供には、理解できることだけを伝えるの。そして大きくなって、ある程度学ぶと、今度は人生について教えるでしょう。仕事を見つけて、家族をもってって。それと同じで、主イエスは恵みの時代、人類の需要に基づいて贖いの働きを行って、悔い改める道を説き、謙虚で忍耐強くなること、十字架を背負うこと、人を77回許すことを教えた。でもまだ主が人に伝えていないことがあったの。それが人を清め救うためのあらゆる真理よ。主はそれを終わりの日に再来したときのために残した。そしてこれが黙示録で預言されていた巻物のことなの。2000年の間、誰も読むことができなかったのは、終わりの日に主が再来するまで開かれることがなかったから。その内容が聖書に書かれているなんてあり得るかしら?」「ありえない」とテレサは真剣に言いました。そしてこの交わりを何度か繰り返すと、ついに、テレサが理解してくれたんです。

でも次の日、もう一度、終わりの日に主が言葉を発するという話をすると終わりの日の主の言葉はすべて聖書にあるはずと言い出したの。最初は聞き間違えたかと思って、確認してみると、やっぱり同じことを言う。とてもがっかりしたわ。やっぱりわかっていなかったんだと思って、心がくじけそうになった。話をする時間を作ってもらうのも大変だったのに、何度も同じことを説明してもまだわかってもらえない。理解してもらおうと思ったのが間違いだった? 何も言わなかったけど、もうあきらめて身を引こうと思った。でも気づいたの。彼女は交わりから何も学ばなかったわけじゃないと。こんなに簡単に人を決めつけるのは、神の旨に沿わない。その時、突然この御言葉が頭に浮かんだの。「神から福音伝道の本分を託されたなら、恭しく従順に神の委託を受け入れるべきである。真の道を考察しているすべての人に愛と忍耐をもって接するように努めるべきであり、苦難や苦労に耐えられるべきである。福音を伝える責任を熱心に担い、神にしっかり説明できるよう、真理を明快に説くこと。このような態度で本分を尽くすべきである」(『終わりの日のキリスト講話集』「福音を広めることはすべての信者が道義上果たすべき本分である」〔『言葉』第3巻〕)。「真の道を考察する人が繰り返し質問をしてきたら、どのように答えればいいでしょうか。時間と手間をかけることをいとわずに答え、その質問について明確に交わる方法を探して、彼らが理解し、質問してこなくなるまで対応しなければなりません。そうすればあなたは責任を果たしたことになり、あなたの心は罪悪感から解放されるでしょう。最も重要なのは、このことについて神への罪悪感がなくなるということです。なぜならその本分、その責任は、神によって委ねられたものだからです」(『終わりの日のキリスト講話集』「福音を広めることはすべての信者が道義上果たすべき本分である」〔『言葉』第3巻〕)。神の求めについて考えると、自分が恥ずかしくなった。たった数回交わっただけなのに、観念を捨ててくれないからってあきらめようとしたなんて。私は愛のない人間だった! 自分が信者になった時も、多くの観念を持っていたけど、兄弟姉妹が何度も交わって、私のために祈ってくれて、それでやっと観念を捨てて神の前に出て、神の救いを受け入れられた。これは神の寛容さと愛のおかげ。なのに自分が福音を広める時は、なぜ辛抱強く交わることができないの? 本当に恥ずかしくなって、神に祈った。「神よ、彼女があなたの羊なら、私を導いてください。あなたに協力するためなら何でもします」と。祈った後、考えたの。テレサにとって聖書は、長年信仰の基盤となってきたのだから、終わりの日の神の新たな言葉が聖書にないと聞いても、すぐに受け入れられないのは理解できる。違う角度から話をしてみたらどうかしらと思った。その後、御言葉の数節を彼女に紹介しました。「神自身がいのちであり、真理であり、神のいのちと真理は共存している。真理を得られない者がいのちを得ることは決してない。真理による導き、支え、施しがなければ、あなたは文字と教義、そして何より死しか得られない。神のいのちは常に存在し、神の真理といのちは共存する。真理の源を見つけられなければ、いのちの糧は得られない。いのちの施しを得られないなら、真理を一切得られないことは間違いなく、ゆえに想像と観念を除けば、あなたの全身はただの肉、臭い肉でしかない。書物の言葉がいのちに数えられることはなく、歴史の記録が真理として崇拝されることはなく、過去の規則が神によって今語られている言葉の記録になることはないと知りなさい。神が地上に来て、人の間で生きているときに表わすものだけが真理であり、いのちであり、神の旨であり、神が現在働く方法である」(『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」〔『言葉』第1巻〕)。「ここでわたしが説明しようと思う事実は、以下の通りである。神が所有するものと神そのものは永遠に無尽蔵であり、無限である。神は生命と万物の源であり、どの被造物にも推し量ることはできない。最後に、すべての人に引き続き思い出させなければならないことがある。すなわち、神を二度と書籍や言葉、あるいは過去の発言に制限してはならない、ということである。神の働きの特徴を表わす単語は一つしかない。つまり『新しい』である。神は旧来の道を辿ったり、働きを繰り返したりするのを好まない。さらに、人間が神を一定の範囲に制限し、その上で礼拝することを、神は望まない。これが神の性質である」(『神の出現と働き』「あとがき」〔『言葉』第1巻〕)。その後、このように交わった。「神はすべての真理の源で、その知恵は無限です。神は人の需要に基づき、さらに多くの真理を表せる。神を聖書に書かれたことだけに当てはめるなんてできる? それは神を聖書の内容に制限することにならないかしら?」その後、中国の故事にある、井戸の底の蛙を引き合いに出してこう言ったわ。「井戸の底に住む蛙は、井戸の口から見える空しか知らないので空は井戸の口と同じ広さしかないと思っています。でもある日、土砂降りの雨のせいで井戸から飛び出た蛙は、井戸の口よりもずっと広い、無限に広がる空を見て、井戸の底にいたから、空全体を見れなかっただけだと気づきました」と。そして私もそう感じたこと、神への理解がとても浅かったことを話した。神は偉大で、人は小さい。神に限界はなく、神は豊かで、神が所有するものと神そのものについて人は決して理解できない。神に有限性を与えるなんてできないの。主イエスの言葉です。「わたしは道であり、真理であり、命である(ヨハネによる福音書 14:6)。神は真理の源です。神が聖書に書かれた以上の真理や、もっと高次の真理や終わりの日の人が必要とする、一切を表せると思う? とテレサに聞いてみると、「もちろんできます」と言ったの。彼女が観念を手放し始め、心を開こうとしているように感じた。そして私が話した一文を彼女に送ったの。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい(ヨハネの黙示録 2:7)。聖霊が諸教会に言うことというのは、終わりの日に再来した主が言うことを指していると伝えた。聖書に記録されているのは、律法の時代と恵みの時代に神が話し、神がしたこと。再来した主の新たな言葉が事前に聖書に書かれているなんてあり得る? そう聞くと、テレサは笑って「なるほど。再来した主の言葉は聖書にはなく、神は聖書以外の言葉も発せられるんですね」と言ったの。彼女は深く感動して、人は神への認識が足りない、御言葉をもっと読んで、神を認識したいと言ったの。

テレサが主の再来を受け入れる準備ができたことがうれしくて、話を続けたわ。こう聞いてみたの。「主は再来してもっと言葉を発するけど、どのような方法で言葉を発すると思う?」と。「聖霊として」とテレサが言うので。私もそう思っていたことを伝えたの。でも兄弟姉妹と聖書を調べて、これを見つけたんです。「いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない(ルカによる福音書 17:24-25)。そして「そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう(ルカによる福音書 17:26)。さらに「あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである(マタイによる福音書 24:44)。「このすべてが、神は『人の子』として再来すると言ってるわ。『人の子』とは人として生まれ、普通の人間性を持つということ。霊体であれば、そんな呼び方はしない。ヤーウェ神は霊体だったので『人の子』とは呼ばれなかった。つまり主は終わりの日に受肉して再来するということ。復活した霊体として雲にのり、すべての人の前に再来すれば、皆がひれ伏し、恐れおののき、拒絶しようとする人などいないはず。では、『彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない』という主の言葉は、何を表しているのかしら?」テレサが考えているようだったので、さらに続けて聞いた。「主が終わりの日に霊体ではなく、受肉して再来するのには、どんな理由があると思う?」テレサは首を左右に振った。「神が霊体の場合、人は見ることも触ることもできない。霊体が突然現れて語り掛けたら、どう思う?」人は恐れ、混乱するでしょう。では、神が人に話しかける時、人が恐れおののくことを望んでいるの? まったく違います。しかも、堕落した人間はけがれていて、神の霊を見る価値はなく、神の霊を見れば命を落とすでしょう。それを説明した後、さらに御言葉を読んだの。「神による人の救いは、霊の手段や身分を直接用いて行なわれるのではない。と言うのも、神の霊は人が触れることも見ることもできないものであり、人が近づくこともできないからである。もしも神が霊のやり方で直接人を救おうとするなら、人は神の救いを受け取ることができないだろう。そして、もしも神が被造物である人の容姿をまとわないなら、人はこの救いを受け取ることができないだろう。なぜなら、ヤーウェの雲に近づける者が誰もいなかったように、人には神に近づく術がないからである。被造物たる人間になることでのみ、つまり自身がなろうとしている肉の身体にその言葉を入れることでのみ、神は自身に付き従うすべての人に直接言葉を働かせることができる。その時初めて、人は神の言葉を自ら見聞きし、そしてさらに、神の言葉を自分のものにすることができ、それによって完全に救われるようになるのである。もしも神が肉とならなければ、血と肉からできた人は誰もそうした偉大な救いを受けることができないし、誰一人救われることもないだろう。神の霊が人類のあいだで直接働いたなら、人類は残らず打ち倒されてしまうか、神と接する術がないまま、完全にサタンの虜とされるだろう(『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」〔『言葉』第1巻〕)。「これが、神が受肉したことの利点でした。つまり、神は人間の知識を利用し、人間の言語を用いることで、人々に語りかけて自身の旨を表わすことができたのです。人々が人間の言語で理解しようと悪戦苦闘していた、神の深遠な神性の言語を、神は人に対して説明した、ないしは『翻訳』したのです。このことは、人々が神の旨を理解し、神が行なおうとしていたことを知る一助になりました。また、神は人間の立場から、人間の言語を使って人々と話をし、人々が理解できる方法で意思疎通を行なうことができました。その上、人々が神の優しさと親密さを感じ、神の心を理解できるよう、神は人間の言語と知識を用いて言葉を述べ、働きを行なうことさえできたのです」(『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 3」〔『言葉』第2巻〕)。そして交わりを続けたの。「神は受肉して人に紛れて実際の生活を送ることを選んだ。人に近づき、人を救うための真理を与えられるように。これは、子を持つ父母と同じなの。自分たちを見るたびに子供が怖がることを望む親なんていると思う?」当然いないわ。だから言ったの。「我が子に怖がってほしい、隠れて欲しいと思う親などいないわ。では神はどうでしょう? 神が天から話しかければ、人は怖がり、神から遠ざかってしまう。人に距離を置かれたり、近寄りがたいと思われないように、主イエスの時のように主が再来することになったの。主イエスは受肉し、普通の平凡な人の子として生まれ、使徒と寝食を共にし、会話をし、いつも彼らの問題や疑問を解決した。人に紛れて暮らす、真の生きる神を目にすることで、人は神に近づいたように感じる。そして、神は人の言葉を使って真理を表し、人に糧を与え、養い、例やたとえ話を使って、人が神の旨を理解できるようにするの。そして人は真理を理解して真理に進むことができる。神の愛は実践的で、貴重だわ! 人が真理を理解し、罪から逃れ、完全に救われるために、神は大きな屈辱と苦痛に耐え、受肉する。これは堕落した人類のための偉大な救いなのよ」。ここまで話すと、テレサは感動して涙を流した。そして言ったの。「わかりました。主は受肉して再来するのですね。私も神が受肉して人として再来することを望みます。神の愛は深い、人にその価値はないのに……」テレサが感動しているのを見て、私も心が震えた。そしてこの御言葉を思い出したの。「神が各時代に表わす性質を、あなたは具体的に、その時代の意義を適切に伝える言葉で示せるだろうか。神による終わりの日の働きを経験しているあなたは、神の義なる性質を詳しく述べられるのか。あなたは神の性質について、明瞭かつ正確に証しできるのか。あなたの見たこと、経験したことを、義に飢え渇き、あなたが牧してくれるのを待っている哀れで貧しい、敬虔な信者たちにどう伝えるのか」(『神の出現と働き』「将来の使命にどう取り組むべきか」〔『言葉』第1巻〕)。「神の働きを証しするには、自分の経験、認識、そして支払った代価に頼らなければならない。そうすることでのみ、あなたは神の旨を満たすことができる」(『神の出現と働き』「完全にされる者は精錬を経なければならない」〔『言葉』第1巻〕)。福音を広めていた時のことを思うと、私は人に理論を説明するだけで、自分が神を本当に認識しているかとか、自分の実体験から証を立てられるかは考えなかった。この経験で学んだのは、福音の働きは人と話をするだけでなく、神への理解を深めるチャンスでもあるということ。テレサへの交わりを通して私も神の愛を感じられたの。もし神が受肉して働きを行い言葉を発してなければ、人が真理を理解し堕落して性質を清めることは決してできず、災害の中で破滅していたでしょう。考えれば考えるほど、人への神の愛の偉大さを実感しました! そして、テレサがこう言ったの。「今日の交わりでは新しいことをたくさん学びました、とても大きな収穫でした」と。

それを聞いて、とてもうれしなり、言ったの。「主イエスは受肉した全能神として再来しているの。全能神は、新たな言葉を表し、終わりの日の裁きの働きを行い、人を完全に清め、救おうとしているわ。これはこの聖書の預言と一致するの。『さばきが神の家から始められる時がきた』(ペテロの第一の手紙 4:17)あとはこれも。『父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである』(ヨハネによる福音書 5:22)」。テレサは主がもう再来していると聞いてとても喜びましたが、同時にこう聞いてきました。「主イエスは十字架にかけられた時に人の罪を赦したのに、終わりの日に再来し人を救う裁きの働きをするのはなぜか? と」。そこで御言葉をいくつか読んだんです。全能神は言われます。「イエスは人のあいだで数多くの働きをしたが、全人類の贖いを完了させ、人の贖罪のためのささげものとなるだけだった。人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかったのである。サタンの影響から完全に人を救うには、イエスが罪のささげものとなって人の罪を背負うことだけでなく、神がさらに偉大な働きを行い、サタンによって堕落させられた性質を完全に取り除くことが必要だった。そこで、人が罪を赦された今、神は人を新しい時代に導くために肉へと戻り、刑罰と裁きの働きを開始した。この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう」(『神の出現と働き』「序文」〔『言葉』第1巻〕)。「あなたは終わりの日にイエスが降臨することだけは知っているが、いったいどのように降臨するのだろうか。贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいないあなたがたのような罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたが、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人と見なされることはないが、これは、あなたに罪や汚れがないという証拠ではない。いまだ変わっていなければ、あなたはどうして聖いものとなれるのか。あなたの内側は汚れに満ち、自分勝手で卑劣である。にもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む――あなたはそこまで幸運ではあり得ない。あなたは神を信じる上で一つの段階を見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。さもないと、罪から贖われただけのあなたは、聖さを得ることができない。このように、神のよき祝福を共にする資格はあなたにない。と言うのも、神が人を経営する働きの一段階、つまり変化させ、完全にするという重要な段階を逸したためである。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたが、神の嗣業を直接受け継ぐことはできない」(『神の出現と働き』「呼び名と身分について」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉を読んだ後、言いました。「主イエスは人を贖った。この贖いは何を成し遂げたと思う? 人は自分たちの罪を贖われたの。だから法律を犯したとして懲罰を受けることはなくなった。これが、主イエスの贖いの働きによって達成されたこと。主を信じることで罪が赦されるようになったけど、それでも人は常に嘘をつき、罪を犯し、昼に罪を犯して夜にそれを告白するという悪循環にいて、罪の足かせから逃れられない。これはなぜなのかしら? それは人の罪深い本性が消えていないからなの。この罪深い本性は体の奥深くにできた腫瘍のようなもの。取り除かなければ、何千回、何万回と罪を赦されたとしても、罪から逃れることも、神の国に入る資格を得ることもできないので、主が再来して裁きの働きをしなければならないの。この裁きの働きの目的は人の罪深い本性を解決して、人を罪の足かせから完全に解放し、清め、完全に救うことなのよ」。

テレサはこれを聞いて喜び、言いました。「裁きの働きについて教えてください。人を罪から救うために、神は裁きをどのように行うんですか?」と。そこで御言葉を読みました。「終わりの日のキリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。こうしたさまざまな方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みはどれも、通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、神について徹底的に納得し、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである」(『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉を読んだ後、言いました。「神は終わりの日に、神に抵抗する人のサタン的本性を暴く言葉を使って裁きを行うわ。人のサタン的性質と神への抵抗の表れをすべて暴くことで、サタンがどれほど深く人を堕落させたかを分からせると同時に、神の聖く、義なる性質を理解させるの。御言葉による裁き、刑罰、刈り込み、取り扱いを通して、自分が表すサタン的性質をすべてを理解するの。例えば傲慢さやずる賢さ、利己心や貪欲さなんかがそう。神のために犠牲を払うことができても、病気や災難など好ましくない時事態が起こると、人は神を誤解し、責める。この裁きを通して初めて、例え神のために犠牲を払っていても、それは祝福や報奨や、神の国に入るという目的のためで、神と取引をして、神への真の愛どころか、真の服従心すらないことが分かるの。御言葉の裁きと刑罰、そしてある出来事によって現れた状態を通して、自分の堕落を認識し、それを憎む気持ちが湧くの。同時にいかなる背きも許さない神の聖く義なる性質を知って、神への畏敬の念と服従心を得る。こうして初めて、サタンがどれだけ深く人を堕落させたかがわかるの。終わりの日の神の裁きと刑罰なしでは、堕落の真理を理解することはできず、そこから逃れることもできない。特に神への愛や服従心は得られないわ。病気の人と同じ。どこが悪いのかが分からなければ、治療を受けられないし、適切な治療法もわからず、病気を治すことができないでしょ。でも医者に診てもらえば、どこが悪いのか、何が原因か、どうすれば治るかを教えてもらえて、その指示に従えば、やがて病気は良くなるわ。だから、神は終わりの日にその言葉で人を裁き、人の罪深い本性と堕落、サタン的性質を解決するの。人がその裁きと刑罰を受けいれれば、罪から逃れ、堕落とサタン的性質を取り除き、神に救われ、天国に入ることができるのよ」。その時、テレサが言いました。「わかりました。裁きの働きは神が人を清め、救う働きなんですね。罪を犯しては告白するという生き方から逃れたいので、私も神の裁きと清めを受けいればなければ」と。その後、福音の動画を一緒にいくつか見て、全能神の言葉をたくさん読みました。テレサは言いました。「この言葉には権威と力があり、地を揺らすようです。これは神の声です! 全能神は本当にイエスの再来、人を清め救うために再来した主なんですね!」そして、あわてたように言いました。「全能神の言葉はどこで手に入りますか? どこに行けば他の信者に会って交わりをもてますか」と。近くの教会のメンバーを紹介すると伝え、『言葉は肉において現れる』のオンライン版を送ったの。すると彼女は興奮で目を輝かせながら、すぐに本を手に入れて、全能神の言葉を読み始めたいと言ったわ。

主を迎えられることに大喜びの様子を見て、神の啓きと導きに心から感謝した。そのおかげでテレサが神の声を聞き神の家に入れたのですから。それから数日後、テレサと話をすると、一番親しい友達に主がすでに再来していると伝えたら、信じないよう警告されたというの。牧師からも電話がかかってきて、教会から追い出すと脅されたと。彼女は、「全能神が終わりの日のキリストだと確信していたの。そして、全能神の言葉は真理で、キリストしか真理を表せないのだから、全能神は主の再来。友達の言葉にも揺らがないし、牧師も彼女を止められない、と言ったわ」。こうも言った。「真の教会をずっと探してきたけど、いつも失望させられました。糧を与えてくれる教会はどこにもなく、信徒たちはどんどん世俗主義の潮流に流されて、無力さを感じるばかり。今、心から神に感謝しています。神の声を聞いて主を迎えられるなんて夢にも思っていませんでした。ついに神の教会を見つけました」と。テレサは心から感動したようで、目には涙が光り、その顔は希望に満ちていたわ。信じられないほどの感動だった。神の羊が神の声を聞いた時、その羊は神に従い、サタンの干渉にも屈せず、信仰を貫き通すことがわかったの。でも壁にぶつかった時に、気持ちがくじけ、諦めたくなったことや、彼女の人となりを決めつけ、終わりの日の神の働きの証をすることを諦めようとしたことを思うと、後悔の念と罪悪感でいっぱいになった。そして、真に人を愛し心配するのは神だけだということもわかった。なぜなら、諦めかけたちょうどその時に、神の言葉が私に啓きを導きを与えてくれたから。これにより自分の反抗心を知り、人を救う神の旨の緊急さを理解できたの。そして神と一緒に少しずつ、テレサに終わりの日の神の働きの証を立てられた。

さらに私にとって奥の深い経験となったのが、福音を広めることは人を救うことにつながるということ。自分の実際の感情と経験を使って神の働きの証をし、主の再来を待ち望みながら暗闇に迷い込んだ人を神の家に導く。これ以上有意義なことはないわ。そしてまた、主の再来を求め続けていた人が神の声を聞き主を迎えた時の感動を喜びを目の当たりにし、もっと多くの信者が神の前に出て、神に救いを受けることが神の望みであると感じられた。この世界には暗闇の中で主の再来を待ち望む人がまだまだたくさんいて、神は憂い、胸を痛めている。だからこそ福音を広めることは私の責任であり、使命だと感じた。私は神に誓ったわ。どんな壁にぶつかろうとも、神を頼り、福音を広める本分を尽くすと。自分が持つ神への真の理解を基に証をし、神の羊を神の前に連れてきて、終わりの日に神の救いの恩恵を受けられるようにすると。

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