果たすべき義務

2023年7月12日

2020年9月、終わりの日の全能神の御働きを受け入れた私は、頻繁に集会に参加し、わからないことは兄弟姉妹に尋ね、御言葉についての自分の理解を積極的に交わり、他の人にも交わりを進めた。するとある日、班長に言われたの。「集会での交わりも優れているし、理解も深いから、集会の進行役をしてみたら?」と。信じられなかった。この私が進行役? ずっとやりたかったことだった。主を信じていた時、教えを説く人に憧れて、いつか私も牧師になって、壇上に立って人前で説教したいと思っていたほどで人から尊敬され、称えられる夢が、とうとうかなうなんて信じられなかった。それに集会のメンバーで私だけが進行役に選ばれたのは、私が一番優れているからだとも思った。運がいいわ。そう思って、喜んで依頼を受けたの。事前にしっかりと集会の準備をして、兄弟姉妹の問題をすぐに解決しよう。難しい時は班長に助けを求めよう。そう決めたわ。しばらくして、班長から仕事ぶりを褒められ、信頼が深まったと言われて、鼻高々だったでもその後、働きの需要に基づき、指導者のアイビー姉妹から福音を広める本分を与えられた。主な職責は人を集めて説教を聞いてもらうこと。やりたくなかった。福音役の地位は進行役より低いと思ったから。進行役なら兄弟姉妹を主導するリーダーとして、目立つことができるけど、人を集めて説教を聞かせるなんて裏方の仕事で、誰の目にもとまらない。心の中で文句を言ったわ。「なぜこの仕事なの? 私の能力が足りないの?」理解できなかった。指導者は私を見下してる。そんな偏見をもつほどだったの。福音の働きは神の御委託で、皆がやるべき本分だと指導者に交わりをされて、いやいやながら従った。でも福音の働きに熱心に取り組めず、進行役に戻りたいと思うばかり。自分に福音役は向いてない、進行役のほうが力を発揮できるとさえ思った。

でも驚いたことに、ある日、上層部の指導者に言われたの。「いい知らせよ。教会指導者に選ばれたわ」って。本当にびっくりした。真理を理解していない私が、そんな大役につくなんて。でもそれが神の御高配だと思い受け入れた。その後、私の担当は福音の働きだと言われたの。「福音の働き」と聞いて、あの地味な本分か、と思った。真理を求める人に交わりをするだけで、全然目立てない。心の中で不平を言い、抵抗したわ。福音の働きの責任者なんて嫌だった。その本分を始めたものの、集会の進行にばかり力を注ぎ、福音の働きにはほとんど無関心で、上の指導者に状況を聞かれても、把握してないので何も言えなかった。教会が福音の働きで成果を出せず、兄弟姉妹が福音を広める方法を知らないのは、私の怠慢のせいだと、申し訳なく思った。その後、自分の状態を指導者に打ち明けて、交わりをしてもらい、解決策を話し合ったの。これからは福音の働きに力を注ぐようにと言われたわ。罪悪感でいっぱいだった。指導者として福音の働きの責任を負うべきだったのに、その責任を果たさなかったことで、福音の働きに支障が出た。そう思うと、本当に辛かった。

そんなとき、集会で目にした御言葉で自分を少し認識できたの。神の御言葉にこうあります。「本分に対してとるべき態度で、正しいと呼ぶことができ、神の旨にかなうのはどのようなものですか。まず、その本分を采配したのは誰か、割り当てたのはどの指導階層なのかを詮索することはできません。あなたはその本分を神からのものとして受け入れるべきです。これを分析することはできず、神から受け取るべきです。これが条件です。さらに、どんな本分であろうと、上下はありません。たとえばあなたが次のように言ったとします。『この仕事は神の委託であり、神の家の仕事だが、これをすると人から見下されるかもしれない。他の人たちは目立つ仕事をしているのに、わたしにはこの仕事が与えられた。目立つことはなく、ただ陰で奮闘しなければならない。不公平だ。この本分を尽くすつもりはない。わたしの本分は人前に出て目立ち、名を成せるようなものでなければならない。もし有名になったり目立ったりはできないとしても、そこから利益を得て、物質的に安心できるようなものでなければならない』と。これは許容できる態度でしょうか。選り好みは、神から与えられたものを受け入れることではなく、自分の好みに合わせて選択することです。それは本分を受け入れることではなく、本分を拒否することであり、反抗心の表われです。そのような選り好みには個人的な好みや欲望が混じり合っています。自分の利益や評判などといったものを気にしていると、自分の本分に対する態度が従順なものではなくなります。本分に対してとるべき態度はどのようなものですか。第一に、分析したり、誰がそれを自分に与えたのかを考えたりせず、神が自分に託した本分として、神の采配に従い、神から本分を受け取らなければなりません。次に、本分の高低を格付けしたり、目立つ本分かどうか、表に出るか舞台裏の本分なのかといった、その本分の性質を考えたりしないこと。そうしたことを考えてはいけません。さらに別の態度があります。すなわち従順さと積極的な協力です」(『終わりの日のキリスト講話集』「本分を十分に尽くすとはどういうことか」〔『言葉』第3巻〕)。これを読んでわかったのは、本分に貴賤はないということ。神にとっては、教会での働きはすべて被創造物としての義務で、本分を重要度で区別したり、本分が人から与えられたと考えるべきじゃない。本分は人が果たすべき責任なのよ。自分を振り返ると、私はいつも自分の好みを優先して、目立つ本分しかやりだがらなかった。好みに合わない、地味な本分を与えられた時は、受け入れられずに、心の中で抵抗し、不平を言った。集会の進行役は、自分が好きな仕事で、自分の欲を満たし、人より目立てたので、喜んで受け入れて全力を尽くしたけど、福音の本分を与えられた時は、地味な本分だったので、指導者に腹を立て、見下されていると感じ、失望し、悲しみに暮れ、指導者に偏見さえ抱いた。本分をより好みして、神の御委託として受け入れず、心から従わなかった。本分への間違った考え方のせいで、福音の働きに身が入らなくて、関心も持てなかった。その結果、成果が上がらず、働きを遅らせてしまったの。自分の過ちがわかった。それがどんな本分か、好きか嫌いかに関わらず、教会の働きに必要なことなら、決定に従い全力を尽くさなければ。まずそう考えるべきなのに、私はいつも好きか嫌いかで判断した。服従心も忠誠心もなかったの。神に感謝! 御言葉を読んで自分の堕落を認識できたことがうれしくて、こう決意したの。どんな本分を割り当てられても従おうって。

冷静になって考えてみたの。自分の好みに合い、欲を満たし、人より目立てる本分の時は神に感謝するのに、好きじゃない本分に対しては、やる気が沸かず、不平を言い、従えないのはなぜだろうと。その答えは御言葉にありました。神の御言葉にこうあります。「反キリストは普通の人以上に、自分の地位と名誉を大事にしており、それは彼らの性質と本質に根ざしています。それは束の間の関心でも、環境からの一時的な影響でもなく、彼らの生命の中、骨の内側にあるものであり、ゆえに彼らの本質です。つまり、反キリストが何をしようと、最初に考えることは自分の地位と名誉であり、他の何物でもありません。反キリストにとって、地位と名誉は自分の生命であり、生涯の目標です。何をするにしても、彼らはまずこう考えます。『わたしの地位はどうなるのか。わたしの名誉はどうなるのか。これをすれば名誉がもたらされるのか。人の心の中でのわたしの地位は高まるのか』。これが、彼らが最初に考えることであり、彼らには反キリストの性質と本質があることを十分に証明しています。彼らはこうした問題をそのようにしか考えません。反キリストにとって、地位と名誉は追加の要件ではなく、ましてやそれがなくてもやっていける無関係なものなどでは決してないと言うことができます。それは反キリストの本性の一部であり、骨の中に、血の中にあるもの、彼らに内在しているものなのです。自分に地位と名誉があるかどうかについて、反キリストが無関心でいることはありません。彼らの態度はそうではないのです。では、彼らの態度は何ですか。地位と名誉は彼らの日常生活、日々の状態、日々追い求めることと密接に結びついています。そのため反キリストにとっては、地位と名声が彼らの生命なのです。どのように生きようと、どのような環境の中で暮らそうと、どのような働きを行なおうと、何のために努力しようと、目標が何であろうと、人生の方向がどのようなものであろうと、それらはすべてよい評判と高い地位を有することを中心に回っています。そしてこの目標が変わることはなく、彼らはそういったものを脇へやることができません。これが反キリストの本当の顔であり、彼らの本質です(『反キリストを暴く』「第9条 彼らは自分を際立たせ、自分の利益と野心を満たすためだけに本分を尽くし、神の家の利益を決して考慮せず、個人の栄光と引き換えにそうした利益さえも売り払う(3)」〔『言葉』第4巻〕)。これを読んで、反キリストが特に評判や地位にこだわり、いつも人の上に立ちたい、人に気にかけてもらいたいと思い、どんな状況でも、尊敬と称賛を集めることを一番に考えていることがわかった。評判や地位が得られない時、普通の人は少し落ち込むくらいだけど、反キリストは食事も喉を通らなくなるほど苦しみ、生きる気力を失うほど。反キリストにとって評判と地位は命そのものなの。私も同じ性質だった。いつも地位や評判や賞賛を求めてた。兄弟の中では、両親のお気に入りになろうとしたし、友達の中では、一番の人気者になりたかった。学校では、いつも先生に認められようとしたし、主を信じてた時は、教えを説く人に憧れ、皆に説教をして、周囲に尊敬してもらいたかった。終わりの日の神の御働きを受け入れた後も同じ。集会の進行役で自分の能力を誇示できれば、皆に褒められ、指導者にも重用されると思った。だからその役を与えられた時はとてもうれしくて、尊敬され、賞賛される感覚に浸ったの。でも福音の働きは地味な裏方の仕事だったから、「指導者」の肩書を与えられても、受け入れたくなかった。重要な働きだと思えなくて、進行役に戻ることばかりを考えた。自分の欲が満たされないと、本分がおざなりになり、福音の働きに支障が出た。それまでの、本分を精一杯尽くすという祈りは全部ウソだったの。神を騙していたのよ! 私の本分の動機は神を満足させることじゃなく、自分の地位と評判を守り、皆に尊敬されることだった。反キリストの性質を表し、神に抵抗する道を歩いていたの。それに気づいて、怖くなった。なんて危険なの! 心のなかで神に祈った。「神よ、私は危険な状態にいます。評判と地位を追い求め、間違った道を進んでいました。悔い改め、救いのために祈ります」と。

そして集会で読んだ御言葉が、福音の働きについての誤解を正してくれたの。神の御言葉にこうあります。「わたしはすべての人に対し、福音を広めることは一種の人々やあるグループの人々の特別な召命ではなく、神に従うすべての人の召命であることを警告し、認識させます。なぜわたしは、人にこれを理解させるべきなのですか。人はなぜこれを理解する必要があるのですか。福音を広めることは、すべての被造物と、神に付き従うすべての者が、老若男女を問わず、受け入れなくてはならない使命と召命であるからです。もしこの使命があなたに臨み、その身を捧げ、代価を払い、さらにはいのちを捧げることさえ求められたら、どうすべきですか。あなたにはそうする義務があるので、受け入れるべきです。これが真理であり、あなたが理解すべきことです。これはささいな道理などではなく、真理なのです。では、なぜそれが真理なのですか。それは、時の経過、あるいは時代の変化の仕方や、地理や空間の変化の仕方にかかわらず、福音を広めて神の証しをするのは永遠に肯定的なことであり、その意味と価値は不変だからです。それは時の経過や地理的位置によって変化しません。それは永遠に存在し、あらゆる被造物が受け入れ、実践すべきものです。これが永遠の真理です。中には、『わたしは福音を広めるという本分を尽くしていない』と言う人がいます。そうだとしても、福音を広めることの真理は、人が理解しなければならない事柄です。それはビジョンの領域における真理なので、神の信者はみなそれを理解しなければなりません。それは神への信仰に根ざしているもの、いのちの入りに益をもたらすものなのです。さらに、本分が何であれ、あなたは未信者と接することになるので、福音を広める責任があります。あなたが福音を広めることについての真理をひとたび理解すると、心の中でこのように認識します。『神の新たな働きを説き、人を救う神の働きの福音を説くことは、わたしの召命である。場所や時間を問わず、自分の立場や役割、あるいは現在遂行している本分を問わず、わたしには神の新たな働きというよき知らせを自ら進んで広める義務がある。機会や時間があるたびにこれを伝えることは、辞退できないわたしの本分なのだ』。これは、大半の人が現在抱く考えですか。(いいえ。)大半の人はどのように考えていますか。『現在、わたしには固定した本分がある。固定した業務と専門分野の研究や調査に従事しているので、福音を広めることはわたしに一切関係ない』と考えています。これはどのような態度ですか。これは自分の責任と使命を回避しようとする態度、消極的な態度であり、このような人は神の旨を想っておらず、神に従順ではありません。あなたが誰であろうと、福音を広めることへの負担がないなら、良心と理知の欠如を示しているのではありませんか。協力し、責任を負い、服従することにおいて精力的で積極的でないなら、あなたは消極的に、受け身の姿勢で反応しているだけです。これは取ってはいけない態度です。どのような本分に携わっていようと、あなたの本分にどのような職務や専門分野がかかわっていようと、あなたの働きのあらゆる成果の中で最も重要な側面の一つは、人類を救う神の働きの福音を広め、その証しをできるようになることです。これが、被造物がすべき最低限のことです」(『反キリストを暴く』「第1条 彼らは人を取り込もうとする」〔『言葉』第4巻〕)。御言葉を読んで、あまりの罪悪感に涙がでた。御言葉は明確に示してるわ。福音の働きは神の御委託で、避けられない義務であり使命だと。教会でどんな本分に就こうとも最終目的はすべて、神の御福音を広めること。私は、福音の働きを好きになれず、福音の働きは自分には関係ないとさえ思った。集会を進め、兄弟姉妹を潤している限り、本分を尽くし神を満足させていると思ってた。福音の働きの重要性をわかってなかったの。その時初めて、福音を広めることは神の喫緊の御旨だとわかった。福音の働きは人を救う働き。人が神の御働きを理解し、神の前に戻って救いを受けられるよう神の証をするという。本当に有意義な働きだったの。でも私は神の証を一切せず、本分の重荷を負おうとしなかった。福音役を与えられた時は、抵抗し、拒絶し、責任逃れをしたの。良心も理知もなかったわ! 私を説教に誘い、福音を広め、神の証をしてくれた人がもしいなかったら、私は決して神の声を聞くことができず、終わりの日の全能神を受け入れる機会を逃してたはず。もし福音を広める本分を尽くさず、おざなりにすれば、神は私を信者とも神に従う者ともみなさず、良心も人間性もないと思うでしょう。福音を広める責任を逃れ、拒絶し、集会の進行役のために福音の働きを捨てようとさえした。今思うと、大きな間違いだわ。ノアのことが頭に浮かんだの。御言葉を聞いたノアは、疑うことなく、自分の利益を顧みず、神を満足させその御旨に従おうと、神の命に応じて箱舟をつくった。そして懸命に福音を広めた。このノアの経験に、大きく刺激を受けて、私もノアのように神の御采配に従って、本分を尽くそうと思った。全能神のおかげで、この真理を理解し、堕落を認識することができたの。悔い改めよう、どんな働きを与えられても、福音を広めようと思った。

それ以降は、福音の働きに力を注いだ。経験が浅かったのもあって、さまざまな人に交わりをするのは簡単じゃなかった。人から拒絶されたり、いろいろな困難にあったりしたけど、投げ出すことはできなかった。この御言葉を思ったの。「どのような本分に携わっていようと、あなたの本分にどのような職務や専門分野がかかわっていようと、あなたの働きのあらゆる成果の中で最も重要な側面の一つは、人類を救う神の働きの福音を広め、その証しをできるようになることです。これが、被造物がすべき最低限のことです」(『反キリストを暴く』「第1条 彼らは人を取り込もうとする」〔『言葉』第4巻〕)。これには本当に勇気づけられたわ。わたしの本分はわたしの責任。従う覚悟でした。難しいことがあっても、心から神に祈れば、きっと神は導いてくれると思えた。全能神に感謝!

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