宗教では真理を得られない

2023年7月12日

わたしは子どもの頃から両親に従って主を信じ、熱心に信仰を追求した。どんな教会の活動でも、積極的に参加したし、収入の10分の1を献金して教会の勤めに必ず加わった。熱心な追求のおかげで教会執事になり、30歳で教会の長老になったの。でも長年信仰しても、常に悩みがあった。主イエスはこう言われてる。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』(マタイによる福音書 7:21-23)。わたしは困惑した。自分たちこそ、主の御名で説教と働きをし、「主よ、主よ」と呼びかける人じゃない? 主が、そんな人は知らない、彼らは悪人だと言われたのはなぜ? 私たちがこのように苦労することが、主の御旨なんじゃないの? 主の御旨は何なの? でも答えは見つからなかった。

2020年3月、ある姉妹がオンライン説教に招待してくれたの。「コロナ禍で教会に行けないし、いい機会かも」と思って、喜んで参加したわ。そのオンライン集会でウェイウェイ姉妹が、賢い乙女と愚かな乙女の意味、キリストは何か、天国は天地のどちらにあるのかなどを交わってくれたの。素晴らしい話だと思ったわ。どれも私が説教ではっきり説けないことだったから、彼女の交わりに惹きつけられた。それにこう言った。「主の信者はみな天国に入るのを望んでるけど、天国に入れるのはどんな種類の人?」そして聖書の一節を読んだの。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』(マタイによる福音書 7:21-23)。彼女は続けた。「主は言われます。すべての信者が天国に入れるわけではないと。神の御旨を行なう人だけが入れるのです。神の御旨を行なうとは何か? 多くの人は、さらに務めを果たし、聖書を読み、祈り、善行を重ねれば、神の御旨を行なっており、主の再臨時に天国に入れると考えてる。これは正しい見方? 神の旨に符合してますか? ユダヤ教のパリサイ人は多くの善行をなしたけど、主イエスが来られて多くの真理を表わしても、主を認識せず、必死に逆らって断罪し、主イエスを十字架にかけて最後は悪人になった。これでわかります。私たちが思うように、父の御旨は単に福音を伝え、聖書を読んで祈り、善行を積むことだけじゃない。これはクリスチャンがすべきことの一側面に過ぎない。では、父の御旨を行なうとは何か? 聖書にあります。『わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない』(レビ記 11:45)。『きよくならなければ、だれも主を見ることはできない』(ヘブル人への手紙 12:14)。神が人に求めるのは、聖くなって罪から脱すること。つまり神に従い、御言葉を聞けるようになり、罪を犯して神に逆らわず、神を裏切らず、神の働きが人の観念に合わなくても、服従して受け入れられるようになることです。これこそ神の御旨を行なう人、神の国に留まる人です。私たちは主を信じ、主のために費やしてるけど、たびたび嘘をついて罪を犯し、同労者のあいだで嫉妬して争い、災害や病気に見舞われると、文句を言って神を批判し、裏切りさえする。これが神の御旨を行なうこと?」交わりのあと、私は突然目覚めた。神の御旨を行なうとは、表面的な忙しさじゃなく、御言葉を聞いて神に従い、罪と神への抵抗をやめられるかどうかで決まる。でも私たちは頻繁に嘘をつき、昼に罪を犯して夜に告白する状態で生き、罪から脱しておらず、御言葉を実践できない。不満があると、主を恨んで文句を言う。神の御旨を行なってるって言える?

その後集会のたび、ウェイウェイ姉妹はいろんなことを教えてくれた。本当に素晴らしく新鮮で、光溢れる話だったわ。段々こうした集会が好きになって、次の集会をいつも楽しみにした。そのとき気づいたの。私や牧師たちの説教は、人を励ますための単なる教義の言葉だって。正直、神も真理も全然わかってなかった。でも兄弟姉妹とオンラインで会い、交わりを聞くうちに、糧と自由を実感した。聖書でわからないことがあれば質問できるし、いつも答えが見つかる。教会の集会ではこんなに得られなかった。

ある日の集会で、ウェイウェイ姉妹が御言葉の一節を送ってくれたの。「わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつて愛と尊敬をもって、わたしを救い主イエスとも呼んだ。しかし今日、わたしはもはや、人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、自身の全性質を余すところなく表し、権威、名誉、栄光に満ちつつ、地の果てから立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。創世から今日に至るまで、わたしを見たことがある者は一人としていない。これは終わりの日に人の前に現れるが、人々のあいだに隠れている神なのである。神は真実かつ現実に、照りつける太陽や燃えさかる炎のように、力に満ち、権威にあふれて人々のあいだに住まう。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人としておらず、一つとしてない。燃える火によって清められない人や物は一人としておらず、一つとしてない。最終的に、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日のすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であること、わたしが全人類を征服する全能神であることを理解する。また、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを灰にする太陽の炎、そしてすべてのものを露わにする義の太陽になることを理解する。それが終わりの日におけるわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持つことで、わたしが義の神、照りつける太陽、そして燃えさかる炎であることをすべての人が理解し、誰もが唯一の真の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見られるようにする。わたしはイスラエル人の神であるだけでなく、贖い主であるだけでもない。わたしは天、地、海の至る所にあるすべての被造物の神なのである」(『神の働き、神を知ること』「救い主はすでに「白い雲」に乗って戻ってきた」〔『言葉』第1巻〕)。この一節を読んだあと、ウェイウェイ姉妹に訊かれたの。「これを言ったのは誰だと思う」って。急いで読み返してみた。この御言葉には権威と力があるし、「わたしが全人類を征服する全能神である」という御言葉に、神の威厳を感じたから。神が語られたのは間違いない。人間が語るなんて無理だもの。どんな有名人や偉人、宗教指導者にも無理。で、ウェイウェイ姉妹に言った。「間違いなく神ね。神がすることをご存じなのは神自身だけだから。人にこんなことは言えない。『わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつて愛と尊敬をもって、わたしを救い主イエスとも呼んだ』」。それを聞いて彼女は目を輝かせた。「アーメン! これは神の御声なの! 神の御声に気づける人は、神に祝福されるわ」。聖書でこの御言葉を読んだことはないから、興味が湧いた。この御言葉はどこから来たの? すると彼女が言うの。主イエスは全能神、救い主として戻られた。全能神は巻物を開いて七つの封印を解いたけど、この御言葉の出所は巻物で、終わりの日に神が表わす真理。それを聞いて興奮したわ。「巻物が開いたの? なら急いで神の御言葉を読まなくちゃ!」って。すると、彼女は交わりを続けた。「主イエスは終わりの日に戻られ、全能神の名で働きをなさり、多くの真理を表わし、神の家から始まる裁きの働きをなさる。それは人を徹底的に清めて救う働き。御言葉の裁きを受け入れて初めて、罪と堕落を捨てて清められ、救われ、天国に入れる。全能神という終わりの日の新たな御名で、黙示録の預言が成就します。『今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者……が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである」』(ヨハネの黙示録 1:8)。『ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる』(ヨハネの黙示録 19:6)。ヤーウェ、イエス、全能神は神の御名。神の御名は時代ごとに違うけど、神は1つの神、1つの霊」彼女の交わりを聞いて初めて気づいた。終わりの日の新たな御名は、ずっと前に黙示録で預言されてたのに、私は気づかず、神は本来全能であることしか知らなかった。「全能神」が、終わりの日に戻られた神が使う御名だなんて思いもしなかった。とても興奮したわ。神が戻られ、それが全能神なの! 彼女はこうも言った。「全能神は30年前の1991年に出現し、働きを始めた。多数の真理と数百万の御言葉を表わし、すべてネットに公開されている。今や御言葉は東から西へ、世界各国に広まってる。ますます多くの人が御声を聞いて終わりの日の全能神の働きを受け入れ、これで主イエスの預言が完全に成就します。『ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう』(マタイによる福音書 24:27)」。これを聞いて驚いたわ。東方閃電が神の出現と働きだなんて。数年前、東方閃電が主の再来を証ししてると新聞で読んだの。でも当時、牧師と長老はそれを非難し、その説教を信者に聞かせなかった。だから真の道じゃないと思って求めも調べもせず、まして全能神の御言葉を読まなかった。全能神が主イエスの再来で、30年前から働きをなさってるなんて、思いもよらなかったもの。私は少し不安になって、遅れをとってる気がした。そこで御言葉をもっと読もうと思ったの。それから、姉妹との集会で御言葉について交わることで、神が終わりの日に肉となって働く理由、神が御言葉を使って裁きの働きをなさること、私たちは裁きを経験して清められ、天国に入るべきことがわかるようになった。全能神がこうした奥義をすべて明かし、多くの真理を表わすことで、主イエスの預言が成就する。「けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう(ヨハネによる福音書 16:13)。全能神こそ主イエスの再来だとますます確信したわ。その後、彼女は御言葉の本を送ってくれたの。私は毎日御言葉を読み、霊の糧を得た。

その後はできるだけ毎回集会に出たけど、教会の礼拝にも参加してたから、時間がぶつかることもよくあった。私は「教会を去るべき?」って思った。でももう18年長老を務めてる。任期は4年だから、今の任期が終わるのは1年以上先のこと。途中で教会を去ったら、兄弟姉妹にどう思われるだろう? 気軽に去って、主への忠誠がないと思われるかしら? でも思ったの。主が戻られたのに、宗教に留まるべき? 内心わかってた。牧師が壇上で言うことには、もう信者への施しがない。主イエスのしるしと奇跡について繰り返すばかりで、たびたび主をまね、自分のように隣人を愛せ、忍耐を持てなんて語ってる。牧師はこんな古くさい教義の言葉を、もう何十年も説いてる。すっかり干からびてるし、私も兄弟姉妹に糧を施せてない。宗教界はもう荒廃してるってわかってたの。当時、とても葛藤して、神に祈ったわ。「神よ、教会を去ろうと思います。ですが、兄弟姉妹にどんなことを言われるか不安です。神よ、どうすべきでしょう? どうかお導きを」。祈るうち、聖書の聖句が浮かんだ。「見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、ヤーウェの言葉を聞くことのききんである(アモス書 8:11)。「わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた(アモス書 4:7)。イスラエルで飢饉が7年続いて食べ物もなく、ヨセフの兄弟はエジプトに行って彼に食べ物を求めた。今や宗教界全体が飢饉に苦しみ、聖霊の働きがない。でも私が全能神教会で飲み食いしてるのは神の現在の御言葉。本物の光を得て、明らかに聖霊の導きがある。遅れをとれば、聖霊の働きによって追い出される。今、聖霊の働きがある教会を見つけた。神の御声を聞いて主をお迎えしたんだから、荒廃した宗教にはもう留まれない。その後は働きを采配されない限り教会には行かなかったけど、長老だから、礼拝にはたまに出かけた。

半年後のある日、ネットで演劇を見たの。『明智(ミンチー)の選択』とても感動したわ。主人公のリー・ミンチーは町の幹部職員。終わりの日の全能神の働きを受け入れ、多少の真理を理解した。共産党に仕えた年月や、その悪事に従ったことを振り返り、滅びの道を歩んでることに気づき、キリストに従い神のために費やして初めて、真理といのちを得られるとわかった。彼は神に祈り、仕事を辞めて自分を神に捧げると決意した。それを知った妻は強く反対して、親族も神への信仰をやめさせようとした。親族全員に包囲されても彼は妥協せず、討論を繰り広げ、最後はきっぱり仕事を辞め、神に従うことを選んだ。私は自分のことを考えた。宗教に留まって、一心に神に従わないと、真理を得られず、神に淘汰される。それに真理の交わりを通じて、神に逆らう宗教界の真相がますますはっきり見えてきた。自分は神に導かれ、もう宗教を去るときだとわかったわ。

終わりの日の全能神の働きを受け入れたあと、振り返った。終わりの日の神の働きは数年前に台湾に伝わってる。当時、全能神の御言葉が新聞に載ってたけど、台湾の宗教界は東方閃電のボイコットを宣言し、大勢の牧師が声明に署名した。主が戻られたことをずっと前から知ってたのに、求めも調べもせず、主の再来を信者に伝えることもなかったの。団結して神に逆らい、神の国の福音が台湾で広まるのを邪魔した。2千年前の祭司長、律法学者、パリサイ人のことが頭に浮かんだわ。主イエスの御言葉と働きに権威と力があることをはっきり知りながら、主イエスはメシアだと認めなかった。信者が残らず主イエスに従い、地位と収入を失うことを恐れたから。だから主イエスに偽りの非難と断罪をぶつけたの。現在の宗教界もこれと同じ。すべての信者が全能神を信じて教会に行かず、献金しなくなれば、収入を失う。だから地位と収入を守るため、団結して終わりの日の全能神の働きを非難した。パリサイ人を呪う主イエスの御言葉を思い出したわ。「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。……偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする(マタイによる福音書 23:13-15)。宗教の牧師たちは、主が戻られ、多数の真理を表わしてると知りながら、調べようとせず、人を惑わし神の新たな働きを調べさせず、主を迎える信者を邪魔した。宗教指導者は本当にひどい! 心から主に従う人じゃないし、現代のパリサイ人だわ。

集会で、全能神のこの御言葉を読んだの。「荘厳な教会で聖書を読み、一日中聖句を唱える人がいるが、そうした人は誰一人として神の働きの目的を理解していない。そうした人は誰一人として神を知ることができず、ましてや神の心意と一致することなど到底できない。そのような人はみな、価値のない下劣な人であり、高い位置から神を説く。神を旗印に使いながらも、故意に神に反対する。神を信じていると断言しながらも、人の肉を食べ、人の血を飲む。そのような人はみな、人の魂を食い尽くす悪魔であり、正しい道を歩もうとする人をわざと邪魔する悪霊の頭であり、神を求める人を妨害するつまずきの石である。彼らは『健全な体質』をしているように見えるかもしれないが、神に対抗するように人々を導く反キリストに他ならないことを彼らの追随者がどうして知り得るというのだろうか。彼らが人間の魂をむさぼり食うことを専門とする生きた悪魔であることを彼らの追随者がどうして知り得るというのだろうか」(『神の働き、神を知ること』「神を知らない人はすべて神に反対する人である」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉を考えるうち気づいた。宗教界の牧師は、兄弟姉妹の神への献金から収入を得てる。なのに神に立ち返るのを止(と)め、主を迎えて天国に入る機会を駄目にしてる。まさに人の魂をむさぼり食う悪魔じゃない? それにコロナ禍のせいで、教会が礼拝を中止したことを考えた。牧師は集会で、委員会事務所の外で農産物を売るよう兄弟姉妹に勧めた。信者の収入を増やせるように。そうすれば、みんな献金を続けてくれる。それを聞いて腹が立ち、強く反対して言ったわ。「牧師は人のいのちを心配すべきなのに、どうして金銭のことばかり気にするんです?」すると総書記が言った。「教会は集会を中止し、兄弟姉妹の献金が減って、教会の収入も減少してる」って。牧師は収入のことしか気にしてない。みんなを潤し、信仰を強めることなんかどうでもいいの。主イエスが言われた偽善的なパリサイ人だわ。兄弟姉妹が神に捧げた献金に貪欲で、信者のいのちを気にせず、主をお迎えするのを妨げ、信者をしっかり掴もうとしてる。牧師の正体がはっきりした。宗教の牧師はまさに神を拒んで逆らう反キリスト。長年主を信じて、やっと見抜くことができた。ついに目覚めたの。神の慈悲と、御声を聞いて終わりの日の働きを受け入れる機会に感謝したわ。さもないと、牧師に従って悪事を犯し、神に逆らい、救いの機会を失ってた。

その後、全能神の御言葉の朗読動画を見たの。「宗教への信仰とは何か、神への信仰とは何かを、現在あなたがたは正確に理解していますか。宗教への信仰と神への信仰とのあいだに違いはありますか。その違いはどこにありますか。こうした問題を解明しましたか。宗教の信者とは普通どのような人ですか。彼らは何を重視しますか。宗教への信仰はどのように定義できますか。宗教を信じると、人は神が存在することを認め、振る舞いにいくらかの変化が生じます。人を殴ったり罵ったりせず、人を傷つける悪事を行なわず、さまざまな犯罪を犯したり、法を破ったりすることもありません。日曜日には教会での集会に出かけます。これが宗教を信じる人です。つまり、立派に振る舞い、たびたび集会に出席することは、宗教を信じている証拠なのです。宗教を信じる人は、神が存在することを認め、神を信じることは善人になることだと考えます。罪を犯さず、悪事を行なわない限り、死後天国に行き、よき結末を迎えるのです。彼らは信仰から霊的な糧を得ます。したがって、宗教への信仰は次のように定義することもできます。宗教を信じることは、神は存在すると心の中で認めること、死後は天国に行くと信じることであり、それは心の中に精神的な支えがあることであり、なおかつ振る舞いの一部が変化して善人になるが、ただそれだけだということです。彼らの信じる神が存在するかどうか、その神が現在何をしているのか、その神が彼らに何を求めているかについては、彼らには見当がつかず、このようなことはすべて聖書の教義を基に推測、想像します。これが宗教への信仰です。宗教への信仰は主に、振る舞いの変化と霊的な糧を追い求めることです。けれど、こうした人が歩む道、祝福を追い求める道は変わっていません。神への信仰に関する彼らの誤った見方、観念、想像には変化がないのです。彼らの存在の基盤、彼らが追い求める人生の目標と方向は、伝統文化の思想や観点に基づいており、まったく変わっていません。これが、宗教を信じる人すべての状態です。では、神への信仰とは何ですか。神への信仰を、神はどのように定義していますか。(神の統治を信じることです。)神の存在を信じ、神の統治を信じること、これが最も基本的なことです。神を信じることは、神の言葉に耳を傾け、神の言葉が求めるとおりに存在し、生き、本分を尽くし、正常な人間性のあらゆる活動を行なうことです。これが暗に意味するのは、神を信じることは神に付き従うこと、神の求めることをすること、神の求め通りに生きることであり、神を信じることは神の道に従うことです。神を信じる人の人生の目標と方向は、宗教を信じる人のものとは完全に異なっているのではありませんか。……神への信仰は、神の言葉と神の要求に沿っていなければならず、人は神の求めに沿って実践しなければなりません。ただこれだけが神への真の信仰であり、ことの真髄に達することです。真理を実践し、神の言葉に従い、神の言葉に沿って生きること、これが人生における正しい道です。神への信仰は人生の道につながります。神への信仰は多くの真理とつながっており、神に付き従う人はそれらの真理を理解しなければなりません。真理を理解せず、受け入れないならば、どうして神に付き従うことができますか。宗教を信じる人は神が存在することを認めるだけで、神の存在を信じてはいますが、それらの真理を理解せず、受け入れてもいません。ですから、宗教を信じる人は神に付き従う人ではないのです」(『終わりの日のキリスト講話集』「宗教への信仰や宗教儀式を行うことで救われることはない」〔『言葉』第2巻〕)。まさに御言葉の言う通り! 宗教での自分には、聖霊の働きも、現在の御言葉による施しもなかった。規則と儀式に従い、表面的な善行を重ねるだけ。消極的になってる兄弟姉妹がいれば助け、手を差し伸べて祈り、勤めにも積極的に参加して、これが神の御旨にかなうと思ってた。御言葉を読んでやっとわかったの。自分は神じゃなく、宗教を信じてたんだって。表面的な善行に過ぎず、御言葉の実践や神への服従なんかじゃなく、性質は決して変わらない。懸命な努力は単なる虫のいい考えで、御旨にかなってない。それに、私はよく兄弟姉妹に、追求して主のために苦労するよう言ってた。天国に入ったら、五つか十の街を治められるって。でも御言葉を読んで、自分の説教が馬鹿げた突飛なものだってわかった。終わりの日の神の裁きを経験した人はいないし、堕落した性質は清められておらず、神の国に入る資格はない。表面的な善行は、神への信仰に十分じゃない。大事なのは神の働きと御言葉を経験し、性質を変化させ、神に服従して敬うこと。これが御旨にかなう。私は過去、宗教で主を信じてたけど、混乱した信仰に過ぎず、神に認めていただけない。宗教で神を信じ、集会に出続けても、真理は絶対得られない。でも思ったの。長老としての務めがあるし、教会に行かなきゃならない。教会を去れば、きっと追い出され、みんなにも主への信仰がないと軽蔑される。そう考えてためらったわ。それに主をお迎えして全能神を受け入れたなんて言えば、その瞬間、牧師や同労者の迫害と妨害を受ける。心の中で葛藤した。遅かれ早かれ宗教は去るけれど、どう辞職を伝えたらいいかわからない。たびたび神に祈って探求したわ。

その後、全能神の御言葉を読んだの。「神の現われを切望する人々を神は探し求める。神の言葉を聞くことができる人々、神の任務を忘れず、心と体を神に捧げる人々を神は探し求める。神の前で赤子のように従順で、神に抵抗しない人々を神は探し求める。あなたが何の勢力にも妨げられずに神に献身するならば、神はあなたを好意の眼差しを注ぎ、祝福を授ける。たとえあなたが地位が高く、名声があり、知識が豊富で、有り余るほどの資産の持ち主で、多くの人々の支持を得ていたとしても、それらのものが、あなたが神の前に出て神の召命と任務を受け、神の命じることを行う妨げにならないならば、あなたの為すことはすべて地上で最も意義深い行いであり、人類の最も義なる事業となる。もしあなたが地位や自分自身の目標のために神の召命を拒むならば、あなたの為すことはすべて神にのろわれ、さらには忌み嫌われるであろう」(『神の働き、神を知ること』「神は全人類の運命を支配する」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉でわかった。教会を去ることを何度かためらったのは、長老の地位を手放せないから。地位のおかげで兄弟姉妹に仰ぎ見られ、尊敬されてる。扱いだって違うし、利益があればいつも考えてもらえる。教会を去ったらそのすべてを失うと思ったの。地位を欲しがり、地位の利益に貪欲だった。正しい道じゃなく、神は喜ばない。地位の束縛から自由にならなきゃってわかったの。このままなら、神に逆らう道を歩む。そんなの望む結果じゃない。兄弟姉妹の敬意を気にするわけにはいかないし、みんなによく思われるかどうかなんてどうでもいい。大事なのは神に認めていただけるかどうか。地位じゃなく神に忠実にならないと。それがわかって、教会を去る決意が強まったわ。

ある日、いつものように教会に行って、日曜礼拝のあと、長老を辞めると全員に言った。それを聞いてみんな驚き、残るよう私を説得した。その後、牧師から電話があり、長老は神との契約で、破ることはできないと言われた。私は思った。「主が戻られ、多くの真理を表わし、新たな働きをなさってる。なのにその契約を守って、主をお迎えしてはいけないの?」祭司長、律法学者、パリサイ人は、神殿で一年中神に仕えてたけど、主イエスが働きに来られたとき、断罪して逆らい、主イエスを十字架にかけた。それが神への忠誠? 彼らは神に忠実な人じゃなく、神に逆らった。いま主イエスが戻られ、新たな御言葉を表わした。この「契約」とやらを守って教会に留まり、現在の御言葉と働きについて行かないなら、神に忠実じゃない! 主イエスはこう言われた。「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る(ヨハネによる福音書 10:27)。神の羊は御言葉を聞き、ためらわずに神に従うべき。だから牧師がどう説得しても、私は揺るがなかった。宗教を去らせ、現実的な御言葉を飲み食いさせ、聖霊の働きをくださった神に感謝してる。おかげでかつてない安らぎと解放感を覚えたわ。長老の地位がなくなり、干からびた教義の言葉を壇上から語ることもなくなった。むしろ全能神の御言葉を備えることに集中し、毎日が充実感と喜びに溢れたの。

やがて、私が教会を去った知らせが広まった。二ヵ月後、ある姉妹がオンライングループに全能神教会の動画を投稿したの。すると牧師は教会の封鎖を始め、教会を去った者がいるから、東方閃電に用心せよというメッセージを発した。それを聞いて悲しくなり、牧師を哀れに思ったわ。でもますます確信した。宗教界の大半の牧師は真理を嫌ってるって。真理を嫌がって憎む本性があり、聖書と神を知ってると思っているけど、実際には盲者が盲者を導き、穴に落ちてる。多くの信者がいまださまよい、主の再来を迎えてない。神の国の福音を説いて自分の責任を果たし、神の愛に報いないと。そこで終わりの日の神の福音を説くと、神を真に信じる人が次々と神に立ち返ったの。嬉しかったし興奮したわ。それに毎日充実して有意義だった。宗教を去らせてご自身の歩みに従わせ、終わりの日の働きを経験させてくれた神に感謝した。本当に祝福されてると感じたわ。

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