日々の神の御言葉: いのちへの入り | 抜粋 412

2020年10月7日

神の言葉を受け入れれば受け入れるほど、人はより啓かれ、神を認識することの追求においてますます飢えと渇きを感じるようになる。神の言葉を受け入れる人だけが、より豊かで深遠な経験をすることができる。そしてそのような人は、いのちが胡麻の花のように成長し続けられる唯一の者たちである。いのちを追求する人はみな、それを自分の定職として扱うべきである。また、「神がおられなければ、私は生きられない。神がおられなければ、私は何も成し遂げられない。神がおられなければ、何もかもが空虚だ」と思わなければならない。そこで、そのような人は「聖霊の臨在がなければ、私は何もしない。神の言葉を読んでも効果がなければ、私は何かをすることに無関心だ」という決意も抱くべきである。自分を甘やかしてはならない。いのちの経験は神の啓きと導きから生じるのであって、それはあなたがたの主観的な努力の結晶である。あなたがたは自分自身に対し、「いのちの経験について言えば、私は自分の好きなようにすることはできない」と求めるべきである。

時として異常な状態にある場合、あなたは神の臨在を失い、祈っても神を感じられなくなる。そのような時に不安を感じるのは正常なことである。あなたは直ちに探求を始めなければならない。そうしなければ、神があなたから離れてしまい、一日か二日、あるいは一ヵ月か二ヵ月にもわたり、あなたには聖霊の臨在がなく、またそれ以上に、聖霊の働きがなくなってしまう。そうした状況において、あなたは信じられないほど麻痺し、再びサタンに囚われ、ありとあらゆる行ないに手を染められるまでになってしまう。無闇に富を欲しがり、自分の兄弟姉妹を騙し、映画や動画に夢中になり、麻雀をして遊び、果ては煙草を吸って酒を飲みさえしても、懲らしめられることがない。あなたの心は神から離れてしまっており、あなたは密かに自分の道を進み、神の働きについて自分勝手に判断を下してきた。性的な罪を犯しても羞恥を一切感じないほど、人々が低く沈んだ場合もある。このような人は聖霊に捨てられたのであって、実際のところ、聖霊の働きはずっと以前からこのような人の中に存在していない。人が目の当たりにできるのは、悪の手がさらに伸びる中、彼らが堕落へとますます低く沈んでいくという光景だけである。彼らはしまいにこの道の存在を否定し、罪を犯すにつれてサタンに囚われる。自分に聖霊の臨在だけがあり、聖霊の働きはないことがわかったとしたら、それはすでに危険な状況である。聖霊の臨在を感じることさえできなければ、あなたは死の淵に立たされている。悔い改めなければ、あなたはサタンのもとへと完全に立ち返ったことになり、淘汰される者の一人となるだろう。ゆえに、聖霊の臨在がある(つまり、罪を犯さず、自制し、露骨に神に抵抗するようなことをしていない)だけで、聖霊の働きがない(祈っても感動せず、神の言葉を飲み食いしても明白な啓きや照らしを得られず、神の言葉を飲み食いすることに関心がなく、自分のいのちが少しも成長せず、ずっと以前に偉大な照らしを奪われてしまった)状況に自分がいるとわかったら、そのようなとき、あなたはよりいっそう警戒しなければならない。自分を甘やかさず、これ以上自分の性格の自由にさせてはいけない。聖霊の臨在はいつ消えるかわからない。だからこそ、そうした状況は危険なのである。自分がそうした状態にあると気づいたなら、できるだけすぐに方向転換するよう試みなさい。まずは悔い改めの祈りを捧げ、自分にもう一度憐みを授けてくれるよう神に願いなさい。もっと真剣に祈り、心を静めて神の言葉をさらに多く飲み食いしなさい。それを基礎として、祈りに費やす時間をもっと増やさなければならない。歌うこと、祈ること、神の言葉を飲み食いすること、そして自分の本分を尽くすことに二倍の努力を費やしなさい。あなたが弱り切っているとき、あなたの心はいともたやすくサタンに取り憑かれる。そうなれば、あなたの心は神から奪われ、サタンのもとに戻される。すると、あなたには聖霊の臨在がなくなる。そのようなとき、聖霊の働きを取り戻すのは二倍難しくなる。聖霊がまだあなたと共にいるうちに、その働きを求めたほうがよい。そうすることで、神はより多くの啓きをあなたに授けることができ、あなたを捨てることもしないだろう。祈ること、讃美歌を歌うこと、自分の役割を果たすこと、神の言葉を飲み食いすることはどれも、サタンが働きを行なう機会を得られないようにするために、そして聖霊があなたの中で働きを行なえるようにするためである。このようにして聖霊の働きを取り戻すのでなく、ただじっと待つだけなら、聖霊の臨在を失ったとき、聖霊があなたを特に感動させたり、ひときわ照らして啓いたりしない限り、聖霊の働きを取り戻すのは容易でない。たとえ聖霊によって感動したり、聖霊の照らしと啓きを得たりしたとしても、あなたの状態が回復するには一日や二日では済まず、一切回復せずに半年経つこともあるだろう。これはひとえに、人々が自分に甘すぎ、正常な形で物事を経験することができず、そのため聖霊に捨てられるからである。たとえ聖霊の働きを取り戻しても、あなたは依然として神の現在の働きを明瞭に理解できないだろう。と言うのも、あたかも一万里も後方に取り残されたかのごとく、いのちの経験において大きく後れをとったからである。これは恐ろしいことではないか。しかし、わたしはそうした人たちに言っておくが、いま悔い改めても手遅れではないものの、一つ条件がある。つまり、より懸命に働き、怠惰の中に浸らないこと。他の人たちが一日に五回祈るなら、あなたは十回祈らなければならない。他の人たちが神の言葉を一日二時間飲み食いするなら、あなたは四時間ないし六時間そうしなければならない。そして他の人たちが二時間にわたって讃美歌を聴くなら、あなたは少なくとも半日耳を傾けなければならない。自分が感動し、心が神のもとに立ち返り、これ以上あえて神から離れないようになるまで、神の前で頻繁に心を静め、神の愛について考えなさい。そのとき初めてあなたの実践は実を結び、以前の正常な状態を取り戻すことができる。

『神の出現と働き』「正常な状態へ入るには」(『言葉』第1巻)より

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